私たちのブログ移転のお知らせ 坂 達也 2010年10月25日

私たちのブログ移転のお知らせ

突然ですが、私たちのブログを移転することになりました。新しいサイトは
http://www.banministries.org/
です。今までのサイトをあけても、何もせず、しばらくすると自動的に新しい方に切り替わります。どうぞよろしくお願いします。坂 達也

移転先の新しいブログはこちら
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# by walkwithgod | 2010-10-26 00:21 | 坂達也からの今月のメッセージ

新しい油注ぎを持つ者は誰か ジュリア・ローレン 2010年10月18日

新しい油注ぎを持つ者は誰か

ジュリア・ローレン 



私が「Shifting Shadows of Supernatural Anointing(これは私が人々のために祈るときに見た新しい油注ぎ、またこれから台頭してくる油注がれた人たちを見分けることに関する本です)」を執筆していたとき、私は主に「新しい油注ぎを受けているのは誰ですか?」と訊ねました。

「彼らはわたしのあわれみを具現する」

すると主は私の前に立たれ、次のように答えてくださいました。

「彼らはわたしのあわれみを具現するものであり、わたしのめぐみを世に顕していく者たちです。多く赦されたものは多く愛します。そして彼らは信仰と希望と愛の新しい次元を歩み始めます。彼らはわたしのこころにぴったりと寄り添って歩み生きているので、人々にそれらを分与することができるのです。彼らの中に人を裁く心はありません。彼らはわたしの愛が裁きを停めることを知っており、わたしが彼らを完全に受容していること (それは自分の力では決して得ることができない受容です)、即ち、決して彼らを拒んだり否んだりしないわたしの愛を感じているので、彼らも人を裁くことをしないのです。

「彼らのへりくだりは力を受ける管 である」

「 人々を尊び、チームの一員として働くという彼らのこころは、彼らの権威を増し加え、 彼らを危険から守ります。それはわたしが願うことです。」

「彼らは 証しする事を恐れない。」

「彼らは 証しする事を恐れません。それは彼らがキリストの福音を恥とはしないからです。彼らはそれが救いを得させる神の力だと知っているからです。様々な文化の中に存在する敵の支配を打ち破る油注ぎとは、即ち救いに至らせる神の力であり、その力は彼らの証と わたしの血潮についての更に深まる啓示の言葉を通して解き放たれるのです。


「彼らは洞窟の中にかくれているレムナントではありません。彼らは地域、民族、国々を獲得していくリーダ−です。彼らはわたしが選んだ者、わたしが愛する者、わたしの名でよばれたもの、国々を受け継ぐために生まれた者、歴史の中で今この時のために特別に生まれた者である故に、聖なる大胆さで満ちているのです。


「彼らは肉の戦いの武器を捨て、それに代わる究極的な愛の啓示を受けるための武器を持つ」

「彼らは、わたしがこの世に今あらわしつつある新しい解放の神学そのものなのです。彼らは恵みとあわれみを人々に再び思い起こさせるために遣わされ、肉の戦いの武器を捨てて、究極の愛の啓示を受取ろうとしたのです。」

「そして彼らは、これからますますわたしの愛を知るようになります。一人ひとりが個人的に、ショックを受けるほどに、わたし以外のすべてのものからあきれられ、馬鹿にされ、見捨てられるものとなります。わたしの愛に一度でも触れるならば、どのように打ちのめされ孤児のようになっていたものも、わたしが大いに喜ぶ聖なる油注がれたものと変革されます。彼らは大群となってあらわれてきます。

「ノアの時代の洪水のように、彼らはわたしが今地上に 送っている愛の革命の先駆けと なるでしょう。彼らは破壊するのではなく、地を癒す洪水となるのです。」

「彼らはその身にキリストの焼き印ー彼らの魂に 刻まれた傷、彼らが苦しんだ心の傷や皮膚の傷あとのしるしーを帯びているので、ある人たちは彼らを喜んで受け入れますが、ある人たちは彼らを拒むでしょう。」

「彼らを受け入れない人たちには次のように告げなさい。『「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んできなさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのです。』」マタイ9:13 (終わり)


 〔訳者注〕:ジュリア・ローレン師の情熱は、人々とイエスとの関係をもっと深いものへと導き、より多くの力を受けることにあります。非常にダイナミックで預言的な語り手として、世界の多くの教会とか修養会に招かれミニストリーをしております。
 彼女は多くの著書を出しており、ビル・ジョンソン師とかマーシュ・チャブダ師と共著の本も書いています。

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# by walkwithgod | 2010-10-18 15:18 | アメリカからのメッセージ

うなじのこわい民   坂 達也  2010年10月14日

うなじのこわい民

坂 達也


 「うなじのこわい民」という言い回しは、出エジプト記32:9の他にもくりかえし出てくる聖書独特の御言葉で、明らかにイスラエルの民を指しています。その意味は「神(キリスト)のくびきに素直に架かることができない」、「頑固に神の言うことを聞かない民」ということなのですが、英語ではstiff-neck(首の硬い)と言います。

律法は人を殺す

 さて、2コリント3:6に「神は、わたしたちが新しい契約に仕えることができる者にして下さいました。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」と書かれています。
 
 旧約聖書では「文字」といえば、石の上に神ご自身が文字で書かれてモーセに渡した「律法」を指します。パウロもここはその意味で書いたのでしょう。つまり「律法は人を殺し、霊は人を生かす」のです。

 この文章では「文字に仕える者」と「霊に仕える者」とが対比されておりますが、それで思い浮かぶのは、Ⅰコリント 15:46に書かれている「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」という御言葉です。これを当てはめてみれば、最初(旧約の時代)は「石に書かれた律法に仕える者」が、後(新約の時代)の時代には「霊に仕える者」すなわち「同じ律法を、石ではなく心に書かれる(神の)霊に仕える者」ということが出来ると思います。つまり、最初は「目に見える肉の形のもの」、後に来るものは「目に見えない霊のもの」である訳です。

 石に書かれた律法といえば、神は二度、二枚の石の裏表両面にご自身の指で文字で書いた律法の書をモーセに渡しております。最初のセット(二枚)は神ご自身が石も造られ、それにご自身で文字を書かれたという大変貴重なものでした。
 モーセはそれを抱えて急いで山を降りたのですが、そこではイスラエルの民がアロン以下「金の子牛」を作ってその前でドンチャン騒ぎをしていました。その光景を見て、烈火のごとく怒ったモーセは、その貴重な二枚の石の板を地面に叩きつけて粉々に壊してしまいました。考えてみれば本当にもったいない話です。

 ところがその前に、神は、山のふもとで民が子牛を作って祝っていることを知っていて、烈火のごとくモーセに怒ってみせたのです。興味あることにその怒り方の形容(32:9)がモーセの怒り方(32:19)とまったく同じ原語“charah”で形容されております。これから分かることは神とモーセは心が一致していることです。
 このへブル語を英語では “wax hot”と訳しておりますが、まさに「烈火のごとく」なのです。突然、金の子牛を作って踊り出した民に対してカンカンに怒った神は「うなじのこわい民」と叫んだのですが、これを見てモーセは神の怒りをなだめようと一生懸命でした。とにかく神はモーセに直ぐ山を降りて民のところに行けと命令しました。

 ここで再び石の話にもどりますが、貴重な石の板をモーセが叩き壊したのを見て神が怒るかと思えば、何もとがめず、改めてもう1セット造ってくれたのです。但し二度目は、同じような石を二枚、今度はモーセが作って持って来なさいと言われました。「あなたが壊したのだから今度はあなたが石の板を作って持って来なさい」というのは当然であって、それが罰といえば罰であったかもしれません。

 でも私はモーセが石を叩き割ったのを見て、神はにやりとされたと思うのです。なぜなら、モーセは分かっていたのです。石の上に書いた律法は何の役にも立たない、むしろ害になることを。そんなものは叩き割れ!なのです。本来、律法は「心に書きいれるもの」だからです。あるいは、石を心に置き換えれば、律法を心に刻めないような「石のような心」stony heartであるなら(イスラエルの民の心はそうでした。)そんな心は叩き割って取り除けという意味であったかもわかりません。
 エゼキエル書36:26に「 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、・・・」とある通りです。
 

書かれた御言葉は人を殺す

 ところで上記の「文字」letterという原語は「律法」lawという意味と「書かれた御言葉」 scripture という意味の両方に取ることができます。新約の時代に生きる私たちにとって「文字」と言えば「律法」よりも、むしろ「書かれた聖書の御言葉」と取った方がより重要な教訓になるように思えます。
 
 それはどういうことかと言いますと、新約の時代に住むクリスチャンは書かれた文字の御言葉を何度も読んで慣れ親しむのはいいのですが、傾向としては、頭で読んで理屈はこねるが、本当に心に刻み込まれていない聖書の読み方をしていないかと言うことです。そのような聖書の読み方は「人を殺す」と言うのです。
 とどのつまり、私たちは旧約の時代のイスラエルの民と同じで「うなじのこわい」「キリストのくびきに素直に架かることができない」「頑固に神の言うことを聞かない民」になっていないかと言う問題提起です。いかがでしょうか。残念ですが、それがどういう意味かも分からないクリスチャンもいます。

 私がクリスチャンになりたての頃、今から35年以上前のことですが、私が大変尊敬していたクリスチャンの鏡のような人がワシントン州のタコマという処に住んでいました。彼は地元新聞社に勤める傍ら、時間と機会があれば公園であろうが道端であろうが、見知らぬ人に声をかけて優しくキリストを語り、多くの人を導きました。教会には夫婦で熱心に奉仕し、仕事の関係で一時タコマに住んでいた私たちにも大変よくしてくれました。
 その後25年程経って、私たちが仕事を止めミニストリーに専念し始めたとき、真っ先に毎月の献金してくれていたのですが、その年の暮れに突然手紙が来て、「実は私たち夫婦は数年前に離婚し、私は、今全く教会にも行っていない。あなた方に献金して来たのは長年の親友であるからで、今は一人住まいで経済的に余裕がなくなったので献金はこれで打ち切るので申し訳ない。」という長い手紙でした。

 これは私のクリスチャン生活の中で最もショックを受けた事件でした。あれ程熱心に模範的クリスチャンとして奉仕してきた人が「クリスチャンを辞める」ことは全く考えられなかったのです。その人は大変優しい誠実な人柄なので、私が彼は霊的な人であると思い違いをしていたのでしょうか。長い間、肉でクリスチャン生活を過ごして来たのでしょう。その人は努力してクリスチャンをやり続けたのです。霊は人を生かすが、律法は人を殺す、いや、肉が中心の努力のクリスチャン生活は人を殺すのです。本当に聖霊にゆだね、聖霊に生かされていなかったのです。

私たちは旧約聖書から本当に学んでいるか

 1コリント10:11に「これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが(旧約聖書に)書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれています。「これらのこと」とは40年かけて荒野を渡った大部分のイスラエルの民は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた、と言う事実(10:6)です。

 律法をイスラエルの民に与えた神は、律法を守ることを口にするときは、必ずと言ってよい程「御声を聞いて従うこと」を真っ先に教えられたことを思い起こして下さい。神がくどいように言われたこの「御声を聞いて従うこと」こそが、「文字は人を殺す」から「霊は生かす」に変える働きをするのです。今でもそうであることに変わりはありません。

 一つ質問があります。異邦人クリスチャンは律法を守らなくてよいのでしょうか。多くのクリスチャンはそう思っています。しかし、へブル書8:6-10(口語訳)にはこう書いてあります。

 「ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
ところが、神は彼らを責めて言われた、/「主は言われる、見よ、/わたしがイスラエルの家およびユダの家と、/新しい契約を結ぶ日が来る。 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、/わたしも彼らをかえりみなかったからであると、/主が言われる。
  わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立て/ようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう。」


 キリストが律法の完成者であり、私たちクリスチャンはそれを完全に行う者にならねばならないのです。新約における神の方法は「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。」です。これが「文字は殺す」危険性のある律法的な生き方において「霊が私たちを生かす」唯一の方法なのです。 

 クリスチャンである私たちは、本当に聖霊に示され、導かれながら聖書を読んでいるでしょうか。特に旧約聖書を含め、聖書全体を「文字」として単に頭だけで読み過ごしているとすれば、イスラエルの民と同じように、この世という荒野でクリスチャンの大部分も、あるいは滅びる可能性があるという戒めです。

 私たちも「うなじのこわい民」になってはならないのです。これが終末の教会への重要な警鐘であることを十分に心してください。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-10-14 10:24 | 坂達也からの今月のメッセージ

世界的預言ムーブメントのために祈る ジェームス・ゴ-ル 10月8日 

世界的預言ムーブメントのために祈る

ジェームス・ゴ-ル
 




ニ倍のわざを行う

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)」とイエスは預言されました。私はこれを「ニ倍のわざを行うこと」と呼んでいますが、私たちは「さらに大きなわざ」を行うようにと召されている時代に今生きていると私は信じます。聖霊の声に耳を傾け、聖霊が私たちに告げる場所に網を投げることによって、私たちは驚くほどの魚を獲ることができるでしょう。

今の世代のクリスチャンは、立ち上がって伝統という制限の箱を打ち破り、次のような性質をあらわします。

*へりくだりを伴った信仰
*チームで働く大切さを知っている(男女をとわずに)
*人間関係を大切にし、傷ついたものを癒していく
*父なる神を強調する(御子イエスの啓示だけではなく)
*油注ぎの多様化、創造的な聖霊の働き(預言者、予見者)が放たれる
*力、明瞭さ、正確さが増し加わる
*目標を明確に見る能力が増し加わる


教会は 訓練の場であり、世界は私たちが実際に活動する場所です。 共に助け合って御霊の声に聞き従うならば、私たちはイエスが地上におられたときになされたわざよりも、さらに大きなわざをすることができるようになるでしょう。そして主のわざが何倍にもなって、さらに多くの領域が主の王国へと変えられていくのです。 御国が天にあるようにこの地にも来るようにしようではありませんか!

預言的(御霊の指示を聞いて行う)伝道

「舟の反対側に網をおろしなさい。」というシンプルな言葉が、即ち預言的な伝道です。それはただ御霊に聞いてそれに従って行動することにより、あなたのまわりの世界に御国を来らすことなのです。

600年以上前に起こった宗教改革の時から伝道が強調されてきましたが、預言的伝道はその流れの中で起こっています。 1904年に ペンテコステのような御霊の傾注が起こって以来、100年以上も預言ということが強調されてきたのです。初期のホーリネス・ムーブメントがペンテコステ・ムーブメントに移行し 、やがてそれがカリスマッテック・ムーブメントへと移行して行き、現在の使徒的ムーブメントの基礎を作ったのでした。

すべてのクリスチャンが祭司である(万人祭司)という考えは、キリストのからだ全体が神とともに未踏の新領域へ探検に乗り出すことを可能にしました。 教会が 花嫁として成熟し 花婿なるイエスとまことの 親密さを持つことと、神の民が持つ統治力(花嫁の統治)をもっとはっきりと理解することが出来たことによって、預言的伝道はますます力を増し加えられました。

私たちは皆、預言的な伝道者であるべきです。それはメガチャーチや大きなスタジアムの大会の中にいる時も、あるいはホームレスの人を裏路地で助けている時でも変りません。コンゴのジャングルで宣教師をしていても、あるいはスターバックスでコロンビアコヒーを飲んでいてもです。 私たちがどこへ行こうとも同じ聖霊が語りかけてくださるのです。聖霊は私たちを他の人々と繋ぎ合わせ調えて、お互いの賜物を合わせ用いる方法を教えてくださいます。それによって私たちを通してしるしと奇跡を行ってくださるのです。その時、神が実際に働いておられるのだということを人々は否定できないでしょう。私たちの力と愛と一致が、失われた世界に主を顕していくのです。

預言的祈りを激しく降らすあらし

預言的伝道と、それが前進する道を切り開くための土台となるものは、預言的とりなしの祈りです。私自身のミニストリーでしたもう一つのことは、「祈りのあらし」と私たちが呼ぶものです。

今から2世紀前、ドイツのへランフットにあったモラビアンというグループは24/7の祈りをしていました。そのモデルを私たちは現代化し、インターネットを使って世界的なとりなし手のグループを作りました。彼らとりなし手は、教会、若者の覚醒、イスラエル、そして危機への神の介入を、一週間に一時間祈ることをコミット(確約)するのです。今世界中で起こっている緊急事態に対して 聖霊は素早く詳細に教えてくださるので、私たちのヴァーチャルな(インターネットと言う虚像的連絡網によってつながる)祈りの家は力づけられ今も天を激しく襲っています。

常になされる情報の更新や、報告、ウェブキャスト等の方法によって、祈りの戦士たちは今までなされたことのない新たな試みのパイオニアになっています。それは世界を預言的とりなしで四六時中覆うことであり、一つの場所に限定されない祈りの家です。私たちは モラビアンの光を再び回復してこの世に放っているのです。それは「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせねばならない。消してはならない。(レビ記6:13)」という神の律法の言葉を土台としています。あなたも祈りのあらし−世界を変える時—に参加することができます。 私たちは共に過去の偉大なリバイバルの時のように世界に福音が広まるのを見ることができるのです。

私たちがとりなしをするときは(祈りのあらしのときだけではなく、常に)聖霊に聞かねばなりません。聖霊の絶え間ない導きなしには、私たちはすぐにつまずいてしまいます。聖霊に助けられ協調して、私たちは はっきりとした結果を見るまで祈り続ける 忍耐力とエネルギーと正確さを持つことができるのです。

世界的な預言のムーブメントにもっとインパクトを与えるように祈ろうではありませんか。 次の預言の波が放たれて様々な成果をもたらすように願おうではありませんか。預言的な伝道と預言的とりなしを願い求めることによって、主イエスがご自分の受難の報酬を受け取られるのを見ようではありませんか。 さあ、アドベンチャー(冒険)を始めましょう!(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-10-08 12:11 | アメリカからのメッセージ

まことの愛は私たちをあるべき姿に完成する グラハム・クック  9月29日

まことの愛は私たちをあるべき姿に完成する

グラハム・クック


まことの愛の真髄は、人々を自由に解放することにあります。愛と自由に関してのまことの知恵は「あなたが何かを愛するならば、それに自由を与えなさい。(開放しなさい)もしそれがあなたに戻ってこなかったならば、初めからそれはあなたのものではなかったのです。」ということです。愛は自由を求めます。また、信頼される必要があります。 私たちが恐れずオープンに愛することを学ばなければ、私たちの愛の対象は私たちとの関係に問題(プレッシャー等の)を感じ苦しむでしょう。

愛は人々が彼らの人生とそのアイデンティティーを見つけるための冒険、探検に出かける許可を与え、その途上で間違いを犯すことをも許可するのです。私たちが何かを初めてする時には、それをしたことがないのですから、失敗したとしてもそれは間違いではありません。私たちはすでに起こったことからしか学ぶことができないからです。失敗したとき、私たちはそれから学んだことを自分に適応させ、もう一度やって見るのです。

もし学んだことを自分に適応しないで、同じ事を繰り返し同じ結果になったとすれば、それは明らかに間違いを犯したことになります。もし同じ事をし続けるならば、そこに一つの行動パターンが出来てきます。そのパターンを繰り返すならば、私たちにはあがなわれなければならない歴史が出来上がってきます。その歴史と行動パターンとは違うものです。行動パターンは原因であり、歴史はその結果です。人間関係において、行動パターンは間違いを犯した者の責任ですが、それが作り出した歴史をどのように処理するかは被害者がコントロールすることができます。

人を赦すことは私たち自身のブレークスルーにとって大変重要な部分です。ですからまず第一に私たちは自分のために人を赦さねばなりません。しかし私たちは無理矢理その人を赦すように強要されるべきではありません。多くの場合、赦しはそれ自体が一つのプロセスとしてやってきます。赦しなくしては信頼関係もなく真の愛の表現も不可能です。 しかし赦さなければ恥となると云ってまでその人に赦しを強要するべきではありません。もし赦すことがすぐに出来ないならば、それは傷ついた側に癒される必要があり、それを目的とした(そのための)プロセスであるということです。愛はその人のすべてが癒され、あるべき完全な姿に回復することを望むからです。

時には(間違いが積み重なる)その歴史は比較的簡単に赦すことができるかもしれませんが、私たちはその人の行動パターンが変るまではそれにつきあって暮さねばなりません。もしそれが変らなければ、歴史は繰り返され、その人との人間関係はまた振り出しにもどります。人がその行動パターンを変えるためのステップを確かに踏み出さないならば、信頼関係が失われます。

信頼には、「与えられる信頼」と「 自ら取得する(勝ち取る)信頼」とがあります。「与えられる信頼」とは傷つけられた人が傷つけた人に与える(ことができる)信頼です。「取得する信頼」とは傷つけた者が、良心の呵責の重荷により(悔い改めに導かれ)その後の行動を変えることによって自ら勝ち取る信頼です。どちらが先かは問題ではありません。その状況の中で「自分はどのような人間になりたいか」ということは両者に委ねられていて、それに対してはそれぞれが自分で責任を負わねばなりません。両者が同じ時点から出発する必要はありませんが、両者がそれぞれに成長したあかつきには、やがてもう一度結びつくことが可能です。 すべて人間の状況は一つとして同じということはありません。

私たちが自分の行動パターンを変えるのは、ただ誰かを取り戻すためだけのためではありません。それは私たち自身が変えられた人間になることを選びとるからです。つまりこの変化は先ず第一に自分自身のためでなければなりません。そうでなければ長続きはしませんし、よい態度とその継続が試されるテストに合格することもできないでしょう。すべての人間関係は、様々な出来事によってテストされますが、それこそ私たちが 愛、忍耐、慈しみ、忠実、信頼において成長する道なのです。

私たちが自分の行動を改めていくためには、 次のような愛をもってなされる質問が助けになります。ですからこれは自分にも又、他の人にも聞いてみるべき質問です。

あなたの中の何がこのような行動をあなたに取らせると思いますか?
私(彼、彼女、彼ら)の中の何があなたにこのように行動してもよいのだと思わせるのですか?
あなたに自分の行動は正当だと感じさせるのは、私(彼、彼女、彼ら)をどのような人間だと思っているからなのですか?
この関係においてあなたはどうやって信頼関係を回復しようと考えているのですか?

ある人が自分自身を破滅させ、又、他人を傷つけるような言動を深く考えもしないでする場合、私たちはそれを止めさせ回復させるために動き始めねばなりません。 森の木を伐採して空き地を作るように適切な質問をすることによって一息つけるスペースを与え、その人が新しい方向、道を見出す可能性を与えることができます。

勿論、私たちもこのような言動に陥らないように気をつけねばなりませんし、同時に、そのような行動パターンが止められることを望みます。愛は自由を求めます。もし私たちが誰かの行動パターンの被害者であるならば、私たちは正しく愛される自由を求めねばなりませんし、又、その時の私たちの態度も愛に基づくものでなければなりません。その時に作られる「息の出来るスペース」で、私たちは愛が(初めからではなくてもいずれは)回復されるのを許す空間を確立させねばなりません。それは感情という銀行口座にどのくらい「信頼」が貯蓄されていたかがポイントとなるでしょう。

私たちはその人の行動は是認しなくてもその人を受け入れることはできます。神は始終そうされています。神でさえ私たちを変革させるためにプロセス、段階を用いられます。第一段階は 神のみこころにかなった自分に対する嘆きの心を持つことであり、それが私たちを悔い改めに導きます。自分の考え方を変え、その新しい考えに添って行動すること、それが悔い改めの始まりです。そして悔い改めの完成は、信頼が回復され、変革が達成されたときに起こります。これはかなり長いプロセスであり、和解(与えられる信頼)と、関係の回復(勝ち取られた信頼 )とが含まれるのです。

悔い改めには結末が必要です。そうでなければ完全ではありません。悔い改めの初めはただの出発点にすぎません。最後まで到達しなければブレークスルーは起こりません。多くの人は最終的結果や悔い改めへの願いは持っていますが、それを確かなものとするプロセスを大切にしていません。「希望」と「達成」との間にあるギャップは、一歩ずつの進展によってしか埋めることはできません。「与えられる信頼」は和解への道の一端を担うことはできます。しかし、「勝ち取られた信頼」だけが、回復に不可欠な悔い改めを完成することができるのです。

あなたがその人の行動いかんに拘わらず彼を愛していることを告げることは、時として彼が向きを変えるきっかけとなります。(絶対にそうなるという保証はありませんが。)愛は人に踏みつけられるだけのドアマットでは決してありません。愛のゆえに犠牲になることを私たちが選んだとしても、それによって私たちが「犠牲者」となっては絶対いけません。私たちを完全なものにしない愛は、愛ではないのです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-09-29 16:21 | アメリカからのメッセージ

自己憐憫(2)  チャック・ピヤース  9月20日

自己憐憫(2)

チャック・ピヤース


自己憐憫は自分の権利を主張する!

自己憐憫は自分の権利を主張します!私たちの自我が支配してしまうとき、 自分のやり方と権利を要求してそれによって何かを確保しようとします! 自分に与えられた分を感謝して受けることが出来ないと、自分が受けるべきでない分まで受けるべきであるかのように私たちは感じてしまうのです。「権利がある(entitle))とは、即ち「タイトルを付ける」ということです。タイトルとは「それは自分の所有である」という証拠ですから、「 entitle」とは「所有する権利を主張する」という意味になります。私たちの肉の性質に同調する悪魔によって、多くの家族やミニストリーが分裂させられてきました。権利の主張は自己憐憫と共に働いて「それは私のものであるはずだ」と要求するのです。

ヒューストンに私たちは親しい友人がおります。彼女は非常に多くの賜物を持っている人ですが、また、自分自身を深く知るために力を尽くす人です。彼女は自分自身を知ろうと願うばかりではなく、どうして神は自分を造られ、神が一見黙しておられるときに自分が神に対して不満を持つのは何故なのかを知りたいと思っています。彼女は自分の反射的な行動(リアクト)は何故起こるのか、そして神が彼女にどのようにリアクトするのかをキチンと理解することが、彼女が求める人生の探求のすべてなのです。彼女は「自分には権利がある」と感じることに関しての理解を求めているとき、次のような手紙をくれました。

最近、私は自分が「権利主張」という言葉をよく言っているのに気がつきました。(それは勿論自分に関することではなく、他の人に関してですが..)私はこの問題で悩んでいる人たちのことを心配していたのです。ですが勿論、主は私自身にもその問題があることを示してくださいました。 この問題が私の人生の中で醜い頭をもたげてきたのを感じていたので、このことに興味を持っていた事も確かです。いつも私をいらつかせる食べ過ぎの問題をどう対処すればよいのかを友人と話していた時に、彼が「それは、自分は食べる権利があると思う感情と関係があるのだ」と言いました。全くその通り! 彼がその言葉を口に出した途端に彼がこの問題の的を射ていたことがわかりました。
また、昨日はいろいろな請求書の支払いをする日でしたが、お金を管理するのが私にとってどうしてこんなに難しいのかを考えていました。するとまた「権利 」という言葉が心に響きました。私は、自分はお金を使う権利があると思っているのです。そのことを私は心の隅ではわかっていたと思いますが、それを正面から見つめたことはありませんでした。一体私は何の権利があるというのでしょうか? それは私の人生で当然起こるべきことが起きなかったこと)に対する払い戻しです。

何と悪魔的なことでしょうか! 払い戻し? 私は生ける神の子、キリストの花嫁、契約の子、神の友なのです。そして私に払い戻しを受ける権利があるですって? 勿論、そんなことはありません。実際、私は何が起こってもすべてのことに「主よ、感謝します」と感謝に満ちた人生を送るべきです。キリストと共に生きる人生では、以前のようには出来なくなったことが多くあります。例えば、以前楽しんでいた事が、今はしずらくなり、昔していた事や昔の習慣をむさぼるかわりに、 本当には悪くないことー食べることとかーということをするようになります。 昔していた事がもう出来ないので、食べることくらいはする権利が自分にはあると感じるのです。そして過度に自分を甘やかす結果、ほどほどにすべきという一線を越えてしまうことになるのです。

律法によってではなく、恵みによって生きなさい! 愛は自分の利益を求めません!豊かに受けたのだから豊かに与えなさい!

「私のものだ! 私のものだ!」 社会における問題の根!

最近、 孫のクローが一週間泊まりにきたので、 ずっと2つのものだけを見ていました。「自動車」と「ファインディング・ニモ」の映画です。12回目に見たときでも私は両方とも大変楽しみました。

「ファインディング・ニモ」 では、ニモがお父さんに従わなかったので危険な目に会います。彼は海から出てしまってオーストラリアのシドニーの歯医者の水槽に入ってしまいます。お父さんと友達は彼を探しに出かけます。彼らはニモを見つけ、住んでいた家に戻ろうとします。しかしカモメがいたのです。カモメは魚が好物です!映画の中では、カモメ達が獲物を見つけるたびに「私のだ!私のだ!私のだ!」と叫んで争奪戦を繰り広げます。‘

肉的、物質的な世界において、私たちはそれと同じことをしています。 賞を取るために努力をするのではなく、ただ賞の取り合い競い合いをするのです! 自分が欲しいものを手にいれる権利 があると思うので、互いに闘争し戦うのです。ペニー・ジャクソンさんが「権利」ということに関して次のことを話してくれました。

お金の使い方に関しては私の状況はよく似ています。私が一線を越えてしまって借金ができてしまわなければ、お金を使うこと自体は別に悪いことではありません。しかし ショッピングをしているとき、私は自分が欲しいものを買うことは全く正当だと感じます。それは自分が当然 持っているべきだと思うもの(人生における権利として)を持っていないのだから、欲しいものを買う権利はあると思うからです。そこで、この自分の権利主張の問題をよく見極めて、その中の偽りを見つけることが私の重大な課題となりました。実にこれ(権利主張)は地獄の臭いがする「考え方」です。

それでは 私たちに権利を主張させるものは何なのでしょうか? アメリカ人は生まれたときから自分の権利を主張するのが当然なこととして育っていると思いますが、そのことがこういう考えの入口になっているのかもしれません。 アメリカに住んでいるのだから、私たちの人生はこうあるべきだ、というある期待を持っているのです。そしてそのうちに私たちアメリカ人は、自分は優しい夫、又は妻を持ち、言う事をよく聞く子供たちと木立のある住宅地に素敵な家をもつ権利があるという考えを持ってしまっているのではないでしょうか。

どうでしょうか。もしかしたら、テレビが白黒だったときにやっていたホームドラマの遺産でしょうか。「パパは何でも知っている」とか「ビーバーにおまかせ」を考えてください。自分の親がドラマの中のような人物ではなかったので、私はがっかりしたものでした。親はあのように完全なはずではなかったのでしょうか?しかし、そのようなロマンチックで非現実的な親に誰がなれるというのでしょうか。


今、私は50歳になっていますが、夫は今のところ現れる様子はなく、子供も(いい子は勿論のこと悪い子さえ)ありません。両親はドラマの親とは違っていたし、使い放題できるお金もありません(世界で一番豊かに国に住んでいるのに)。私は当然持つべきものを持っていないのだから、私がしたいことは何でもして良いはずだ、と私の奥深くにあるものが私を説得し納得させるのです。「子供時代に恵まれなかったかのだから、私は食べたければ食べたいものを食べてもいいのだ。持つべきはずだった夫や子供がいないのだから、自分で買えるものは買ってもいいし、お金を無責任に浪費していい。みんな私に借りがあるのだ!」と言う風に。本当に馬鹿みたいです。でも私の奥底にはそのような思いがあるのです。それが非現実的な考えであることは分かっていてもです。世界は完全ではありません。多分あなたは「まさか、そんな風に考える人なんかいないでしょう。」と思われるかもしれません。でもあなたの心の奥底を探ってみてごらんなさい。「自分はカクカクシカジカの人生を送っているはずだった」(自分が成した事の故ではなく、だた地球に人間として存在しているというだけで)とあなたが思っていることが多かれ少なかれあるのではないでしょうか。

私たちは神を賛美して人生を送るように造られたのですが、この「自分の権利を主張する」という思いが、期待に胸を膨らまして生きるのではなく、当然起こるべきものとして予期する思いで生きるように私たちをさせてしまいます(期待と予期は全く違うことです)。 そればかりか、私たちを感謝の気持ちの正反対、即ち、感謝をしない不満だらけの心、という結果へと 連れていくのです。そして私たちの内に「どうしてあの人たちだけもらって、私にはもらえないの? 不公平だわ!」という子供じみた叫びを起こさせるのです。

使徒パウロは貧しさの中でも豊かさの中でも、どのような境遇のなかでも満ち足りることを学んだと言っています。(ピリピ4:12)私たちはすべてのことにおいて感謝をするべきなのです。私たちはクリスチャンとしてそうしたいと本当に願い、そうしようと努力していると思います。しかし、限りなく恵み深い主は、 いくら感謝したいと思ってもそれをとても難しくする「偽り」に私たちが落ち込むことを、時として許されます。 それは、私たちが自分でも理解できないような衝動的な行動を取るときのいらだちや不満の原因を私たちがはっきり見るようにと、主は考えておられるためではないかと私は思うのです。

私たちが権利を主張することを正面から見据えて、それが何であるのかを知ることなしには、それに対処することはできません。権利を主張する思いと非現実的な考えに同調するところから私たちが抜け出し、自分が持つべきであると感じている人生よりも優れた計画が私たちのために実は用意されていることを知るまでは、私たちは自分の境遇を歪んだフィルターを通して見てしまうでしょう。
しかし、私たちがこれが偽りであることを正直に見つめてみれば、 素晴らしい喜びと感謝の念が内側からふつふつと涌き上がり、私たちの人生は変えられるのです。なぜならば、私たちは慈しみ深い神に 仕えているのであり、主は私たちの心の願いをかなえてくださる方だからです。主は私たちに豊かな命を与えるために来られたのであり、それは私たちが望む以上、また想像する以上に豊かであるからです。

辞書に「entitle 権利がある」のもう一つ別の定義がありました。それは「資格がある、適当な資格を持って要求する」というものです。イエスの血潮により、主を自分の主であり救い主であると信じることにより、私たちは 主が下さっているすばらしい約束を要求する資格があるのです。そしてこの約束とは「はい、その通りです。 Yes and amen」なのです。その(信仰による)権利を私たちは確かに持っています。神を賛美します!(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-09-20 15:39 | アメリカからのメッセージ

神の臨在(続) -ブラザー・ローレンスのこと 坂 達也 9月20日

神の臨在(続) - ブラザー・ローレンスのこと

坂 達也



 先回書きましたように、私は久し振りにブラザー・ローレンスの本を手にする機会にめぐまれました。英文で95ページほどのこの高価な宝石のような小冊子を一度手にするとそれを簡単に下すことができません。惹き入られて読み進むうちに、再びぜひご紹介したい箇所がありましたので下記に訳してみました。

「ブラザー・ローレンスは、彼の霊的生活の基盤となるものは、神(の存在)を最も高揚された地位の方として心から(愛をもって)崇拝する彼の信仰にあることを私に打ち明けてくれました。このことが彼のこころの奥深くに確立されてからは、彼は日常のすべての行動を、ただ神への愛のために行うことが楽にできるようになりました。神に対する彼のこのような確固(熱烈)たる信仰は神に大きな栄誉をもたらすことであり、主が彼の祈りに答え、より多くの祝福を与えるためのドアをより大きく開くことになりました。」

 ブラザー・ローレンスは「クリスチャンが、心のあまりこもらない日ごろの小さな祈りを機械的に繰り返し祈ることで毎日を過ごすとすれば、それは未だ弱い信仰である」と言います。そして、彼の言う確固たる信仰とは一日中一切を主に委ね切ることであると下記のように云っています。

 「もし誰かが、自分自身と自分のすることのすべてを神にゆだね・ささげ・手渡す(surrender)なら〔それは神のためにすべてのことをすると決意することですが〕主はその人を、一切のまどわし、ごまかし、迷わすものdeception から守るであろうと言います。そして、主はそのような人が試練の苦しみに長く遭遇することを許さず、それに耐えることができるように脱出の道を備えてくださると言います。(1コリント10:13)」

 つまり、そのような毎日を主と共に過ごす人には、神はすべてのことにおいて神の御心で彼が生きれるように導き、守り、平安と喜びの人生が送れるようにされると言うのですからすばらしいではありませんか。
 そして、そうなるにはどうすればよいかについて、彼は「一日を通して、主のご臨在と共に過ごすためには、いつも主と話をする(主に話しかける)ことが必要である」とその秘訣を語ってくれます。この本ではブラザー・ローレンス自身が書いた部分と、彼の親友であるヨセフ・ド・ビューフォーが彼の云ったことを書いた部分がありますが、彼の友人はブラザーローレンスはこの「いつも主に親しく話しかける」ことの重要性を主張してやまなかったと言っております。

 確かに私たちクリスチャンのうちには主が内住して下さっている以上、私たちにとって最も大事な「お客さま」で「共同生活者」である主にいつも親しくお話をするのは礼儀としても当然です。私は「主と個人的に深い交わりを持つこと」とはまさにこのことであると信じます。

 私たちは「信仰が足らない、御声が聞こえない」と嘆くよりも、毎日傍におられる主ご自身に、本当に敬愛する親しい方として、何でも気が付いたことを気安く話しかけ、質問し、お願いする毎日を過ごすことを自己訓練することはそれ程難しいことではないと思います。勿論主に対する愛がなければできません。しかし後は堅苦しく考えないことです。

 私の経験から言えば、たとえば私の好きな大リーグの野球、特に松井秀樹選手の出るロスアンジェルス・エンジェルスのゲームをテレビで見たい時は、私は主をお誘いして一緒に見てもらいます。そして、私なりの試合のコメントを主にお話したりします。最も親しい家族の長である父親以上の方ですから一緒に野球を見ることは、時と場合をわきまえてさえいれば、悪いことでも、主に怒られることでもない、むしろ主に喜んでいただける、より親しくなることであると信じるからです。

 続いてブラザー・ローレンスの本を見てみましょう。 

 「ブラザー・ローレンスの心からのゴールは神以外に何も考えないことにあります。しかし、もし彼がある時間、神のことを考えないで時を過ごしていることに気が付いた時に、彼はそのことですぐ腹を立てないようにしました。そして時を待ち、神に自分の弱さを心から告白することによって、前よりももっと自信と喜びを持って神のところに返ることができました。又、その神の臨在から離れていた期間、彼自身が楽しく満足できる心の状態にいなかったことに気が付くのでした。
   又、もし彼にあまりよくない考えが頭に浮かんだり、彼がそれに誘惑されそうになるとき、彼は直ぐにはパニックになったり、あるいは誘惑に勝てない自分を不甲斐ないと思わないようにします。なぜなら、過去の経験から、神を呼ぶべき時間が来るまでは慌てないで待ち、正しいタイミングで神を呼ばわることが、忠実なる神の助けが得られることを彼は知っていたからです。その時が来て神に声をかけると、その悪い考えは直ぐに消えてなくなります、とブラザー・ローレンスは言います。

 神が一切の面倒をみてくれるという信頼のゆえに、ブラザー・ローレンスが外に出て(苦手で)慣れない商用をしなければならなくなったとき、彼は全く心配しませんでした。神は必要なときにどうすべきかを、刻銘に正しく鏡に映して見えるほど鮮明な絵にして見せてくれることを彼は経験していたからです。彼は前もって心配しなくても、神がいざという時には絵にして見せてくれることを既にかなりの間経験していたのです。このような経験を持つ前の彼は、自分自身の力で前もって対処方法をできるだけ細かく準備して出かけていました。
 今は彼のするすべてのことが(神の御心にそって平安のうちに)静かに起こり、それによって、彼はますます愛する主の臨在に近い関係になっていきました。

 この世の仕事を忙しくしている時であっても、神とのコミュニケーションを中断せずに神を意識し続ける習慣がついている彼が、たまに神から心が離れるような場合は、神から彼に注意信号の「呼びかけ」が届きます。それは、神が彼の心に神のイメージを溢れさせるのです。それによって彼は神が彼を呼んでいることに気が付かされるのでした。このようなときに彼の心は主の前で火のように燃え、喜びに満たされて、主に賛美の叫び声を上げて歌い、踊りたいような衝動にかられるのでした。
 ほとんどの人にとっては、日常生活の忙しい行動が神とのコミュニケーションの妨げとなるところを、ブラザー・ローレンスは、むしろそれを通してより神に親密になると感じていたのです。彼にとって考えられる最悪の事態とは、神の臨在の感覚をなくすることでした。」

 ブラザー・ローレンスが上記で言っていることは、あるいはイエスキリストが「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。...」(ヨハネ5:19-20)と言われたことに通じるのではないでしょうか。
 主は、ブラザー・ローレンスを通して、人間の私たちにもイエスご自身と同じ生き方が出来ることを示して下さったのであると信じます。
 
 私は創世記6章に出てくるエノクが「神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(6:24)と書かれていますが、神とエノクの関係はブラザー・ローレンスが神と持った親しい関係と同じかそれ以上のものであったと思います。そしてあまりにも親しく、いとおしいエノクを、神はもっと近くに来てもらいたくて天に挙げられたのでありましょう。私たちも神とそれ程の親しい関係になれるのです。そうすれば、私たちもサタンの治外法権の世界で神のみに従って生きる「神の子」となれるでしょう。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-09-20 14:28 | 坂達也からの今月のメッセージ

自己憐憫(1)  チャック・ピアス 2010年9月17日

自己憐憫(1)

チャック・ピアス
 



確信を持ち自分の価値を認めることの反対は自己憐憫です。自己憐憫 は、本来自分が受けるべきものが与えられなかったときに起こる感情です。これは日常の生活の中でも、また霊的な分野でも起こることです。自己憐憫はその時の自分のあり方を決めていき、それはつまり大切な「自分の時」を見過ごしてしまうことになります。自分は祝福を権利があり当然受けるべきだと私たちが感じると、 自分の人生に祝福がこない場合に私たちは信仰をなくしてしまうのです。

最もよい自己憐憫の例の一つは、ベテスダの池にいた病気の男です。(ヨハネ5章参照)イエスは彼の状態をすべてご存知でしたが、彼に良くなりたいかと聞かれました。すると男はどうして自分は癒されないのかを説明し始めました。イエスは彼の自己憐憫の言葉を聞くのをやめられて、 彼を癒されました。

私たちは困難な状況に陥ると、すぐに神の約束を忘れてしまいます。私たちに与えられた預言的デスティニーを神が成就してくださるのを、私たちがしばしば見逃してしまうのはこのためです。キリストのからだが大きな試煉を通されるときでも、私たちは恐れたり希望を失ってはなりません。私たちが試煉の中にあるとき、敵はそれを用いて私たちを落胆させるという策略を使います。落胆は期待を長引かせ、期待が長引くとこころが病むのです。私たちの内に一定の失望がたまると、私たちは神に対する期待を失います。


「未来」と「期待」とは同義語です。私たちの未来は神が働いてくださるという期待と繫がっています。教会は今、神に期待するというレベルを新たな一段上のレベルへと上げる時に来ています。イザヤ59章、60章は、私たちの人生の中にこのことが起こるのを見るための素晴らしい祈りのガイドです。希望はそこから信仰へと進んでいかねばなりません。信仰は克服を生み出します。克服は神の力を顕し、神の約束を現実のものとします。


自己憐憫のサイクル

預言は私たちの未来の鍵を開けます。けれども ひとたび傷ついたり何かを失うと、私たちは未来への視野をなくしてしまいます。私たちが戦わねばならない最大の敵は自己憐憫です。自己憐憫は自分の損失にばかり気をとられるので、自分の人生に神の栄光が顕れるのを見る事ができなくなります。 損失がある時も私たちの人生のために神がずっと変らずに下さっている完全なご計画に目を向けるのではなくて、内なる自己がむくむくと起き上がって「私が失ったもののために私を哀れんでくれ。」という言葉を私たちに言わせるのです。
私たちが損失とか、トラウマ、傷、不公平等を被るときは、神は癒し、赦すことが出来ると信じる信仰によって生きるか、もしくは自分の思いが拒絶、自己防衛、自己憐憫になることを許してしまうかのどちらかの選択が常にできるのです。


傷つき損失を被ったとき、私たちは自分が経験しているトラウマに対して神を非難してしまいがちです。この非難、責めの力は一種の「父を失うみなしご」の霊へと私たちを陥れ、私たちは神の子どもになったという信仰の代わりに、見捨てられ失われた者のように感じるのです。 自己防衛は、権威に対する反抗心を生み出していきます。又、私たちは教えを聞かない、受け入れない者となっていきます。私たちの思いは「 私がどんなに辛いかを誰も理解してくれない」というようになるのです。

又、私たちは自分の抱えている問題を解決する道はない、と考えはじめます。 「もうどうしようもない。」と考えながら毎朝目をさますのです。そして癒しや回復の望みを失って無感動、無関心に落ち込みます。しかし私たちは神に従う人生を送るべきであると思っているので 、宗教的メカニズムが私たちにとっての慰めとなります。私たちは殉教者的心理になって「ああ、嘆かわしい。これが私の負うべき十字架だ。このひどく重い十字架を見てくれ。」と言うようになることさえあるのです。このような考えは、 私たちを戦うべきであるときに戦わせないようにします。戦って勝ち取り前進していく 代わりに、安逸と現状維持の奴隷となるのです。私たちはキリストの苦しみに与るようにと(それによって私たちの内に主の復活の力が顕れるのですが)召されていること忘れてしまいます。

神の愛が見えなくなると私たちは自分を見るようになってしまいます。神の愛は私たちの自己憐憫から出てくるこれらの考えを取り扱うようにと私たちを促します。私は今までの人生で十分に自由を経験したので、自由でない時は直ぐにわかります。信仰は愛によって働きます。ひとたび神の自由と愛を私たちが経験すると、自己が「憐れんでくれ」と叫ぶ声に負けることなく、期待が後退するのを打ち破ることができます。(続く)


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# by walkwithgod | 2010-09-17 16:57 | アメリカからのメッセージ

<b>あなたはラッパだ! ジョン・ベルト </b> 9月4日

あなたはラッパだ!

ジョン・ベルト 


神は御霊を通して 戦うための強い武器を私たちに与えていてくださいます。暗やみの力を打ち砕くことができるように、神は私たちが言葉を話し、大声で叫び、音を出す能力を持つものとして創られました。私たちが神の臨在の中で清い心をもって生きるならば、神の栄光が私たちを通して顕されることを阻むものは何もないのです。

創造する力


神が創造されたものはすべてオリジナルであり、それぞれユニークなものです。私たちは神が創られものすべてを見るとき、全体としても、また一つ一つを見てもそこに美しさがあることがわかります。もし神が創られたものがすべて同じだったなら、どんなにつまらないことでしょうか。しかし神はすべてをご存知なのです。神は命の創始者、且つ創造者であられ、声を発することによってすべてを良きものに創られました。主の御声には すべてのものを目に見えるように実体化する力があるのです。

私たちは神に似せて創られているので、私たちも又、創造する力を持っています。私たちは私たちの内におられる聖霊の力によって、回りの霊的空気を変革し、言葉によって物事を実体化し、命を生みだす能力を持っているのです。私たちの舌は人間の身体の中で最も強い力をもっているものの一つです。

ヤコブ3:6「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

人間の舌は「不義iniquityの世界」です。しかしイエスに関してはそうではなかったことを私たちは知っています。イエスが語られると「栄光の世界」が解き放たれました。イエスが語られると、神の栄光の世界が解き放たれ、いのちが輝き出たのでした。私たちの舌は強い力であり、サタンもそれをくつがえす力を持っていません。ヨハネが言っているように「神が話すと光が解き放たれ、やみはこれに打ち勝たなかった」のです。神の御国のためにすべてをささげきった器を通して放たれる「栄光の世界」に対抗して戦うことは、やみの勢力にはできないのです! 神の栄光の力はすべてそれに抵抗するものを払いのけるので、敵はくずおれて泣くしかなくなるのです。

清いClean器

私たちの舌が持つ力を本当に理解すると、私たちが義の御国と一致していることがどれほど重要かということを知る必要が出てきます。もし神の民が、愚かなことやゴシップ、陰口などを話すならば、それはやみの勢力に力を与えているのであり、罪を犯しているのであり、罪に縛られていることになるのです。敵の目指すことは、キリストのからだの中に分裂を起こすことです。他人のことを否定的に話すことは決して許されることではありません。私たちは人を敬うように召されているのです。これは私たちがすべての点においていつも他人と同意するということではありませんが、その場合でも私たちは口を閉じて何も言わない程のわきまえは持つべきです。

もし誰かがこのような罪を犯しているのがわかったならば、その解決法は「すぐに悔い改める」ということです。悔い改めは詫びるよりももっと力があります。私たちは「ごめんなさい」と一日中言っていることもできますが、それよりも 向きを変え生き方を変えるほうがよいのです。それが悔い改めの実です。イエスはいつも生きていてすべての聖徒のためにとりなしをしていてくださるのですから、私たちもそれに習うべきです。

ヘブル7:25「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

祭司としての生活

主の御前で、妥協せずに清さを保ことは私たちの祭司としての責任です。私たちは王である祭司ですから、心に「主のための聖なる者」という金の帯をつけねばなりません。この献身、決意、誠実が主の力の実体を私たちの内に、また私たちを通して世に解き放つのです。

私たちが主の祭司になれるのは、主の恵みによります。私たちが主の栄光を持ち運び、主の臨在の栄光を絶えず解き放つことを可能にするのは、私たちが清いpurityということです。私たちはもっと高くもっと深く進んでいかねばなりません。根が浅いままで高くなると、樹木は長く立っていられません。その木は倒れて枯れます。主の栄光も同じです。もし私たちが天に上るような経験をしたとしても、私たちの根が主の中に深く伸びていなければ、私たちは倒れてしまうのです。誠実Integrity、清さ、無私selflessの献身は私たちが気ままに選択することではありません。それは絶対に必要不可欠なことです。イエスは父を離れては何もできませんでした。イエスの父にたいする献身は清く全きものでした。

あなたはラッパだ!

民数記10:8−9「祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。」

祭司たちは戦いにおいてラッパを吹くようにと命じられました。それによって主は彼らに勝利を与えられたのです。私たちがラッパのように声を上げ、主が敵をぬぐい去るのを見るという祭司としての人生には力があります。私たちの身体はスピーカーとよく似たように造られています。ベース高声器(ウーファー)もあり、高音用スピーカー(ツイーター)もあります。声の力はウーファー、即ち腹部と胸部から出ます。ツイーターは鼻のところです。鼻には力はあまりありません。しかし、小さくても大切で必要なものです。私たちは霊の奥深いところから 闇の力を打ち破る響きを出すことができるのです。

詩編149:6「彼らの口には、神への称賛、彼らの手にはもろ刃の剣があるように。」

声を高く上げて神を称賛することは、あなたの存在そのものであるラッパを吹くようなものです。私たちの心と動機が清いとき、私たちがラッパのように声を高く上げるならば、栄光に満ちたものが解き放たれるのです!あなたの敵を、あなたを妨げていたものを、あなたが克服すべきものを、あなたが必要とするブレイクスルーを見なさい。あなたの声をラッパのように高くあげてこれらのものの上に神への賛美を降り注ぎなさい!

憚らずに、神のために大声を出して生きて行きましょう!(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-09-04 11:31 | アメリカからのメッセージ

神の臨在 坂 達也 2010年8月31日

神の臨在
 
坂 達也


 今、私たちの親しい人が「お金がいるので家の一室を貸して収入の足しにしたい、でも全く知らない人が同居するのは気がすすまない」と言っています。住宅事情の厳しいハワイでは、自分の家の一室を他人に貸すのはそれ程まれではありません。しかし、赤の他人が家の中をうろうろすると考えただけでも、正直な話、あまりよい気持ちがしないのは私だけでしょうか。
 そこでふと気が付いたのですが、そんな私にも「同居人」がいるという事実です。その人は赤の他人では全くないのですが、一日のうち多くの時間を、私はその人をまるで赤の他人のように無視して、あたかもその人が同居していないかのようにふるまっているという事実です。

 クリスチャンになる最大の特権は、神が私たちの中に来て住んでくださることであると思います。しかし現実には、クリスチャン生活を送っていて、神が私たちんのうちに住んでくださっていると言う実感と喜びを持って毎日を過ごしている方はあまり多くないように思えます。
 クリスチャンは神の臨在のすばらしさを経験すればするほど神の臨在を求めます。そして多くの場合、それは外からくるように思え、自分のうちから来るという気がしないのではないかと思うのです。


 数日前にある方に勧めたい本としてブラザー・ローレンスの小冊子「the practice of the presence OF GOD:神の臨在を訓練する」を久しぶりに本棚から取り出してぱらぱらと見ているうちに、彼が次のように言っているのに出くわしました。

 「神の臨在に常に気が付いている(意識している)ことは大変重要なことであって、そのためには毎日、一日中神と会話をしている必要がるあるのです。」

 と彼は言います。私はこれがクリスチャンのうちに住まわれる神の臨在を指して言っていると思うのですが、これこそ神の臨在を求める人には必須欠くべからざる秘訣であり、私たちクリスチャンはそれを自らを訓練すべきであると、この兄弟は真剣に主張しています。

 続いて彼は、「この世のことをしているときは神と話はできない、と考えるのは間違っています。この世のことに忙しく対処しているときでも、心から愛しあがめる心で「神を見上げている」ことはできるし、それが私たちの魂を霊的に潤い培ってくれている」と言うのです。つまり、何をしていても常に「やさしい主とか父」を心に浮かべ、何事においても親しい神と「一緒にしている」という意識を持っていることが重要であるということです。そうするといつも主と共にいるという喜びに満たされて過ごせるとブラザー・ローレンスは言います。

 救われて2-3年しか経ってないある姉妹が、最近、未信者のご主人と二人でホノルルの中心地にあるお店を出されました。この商売は二人とも初めての経験で、何から何まで分からないことだらけの毎日を長時間働きながら過ごす中で、その姉妹は「すべて主に聞いて、主と会話しながらやっています。」と明るい声で気付かう私たちに答え、その顔は輝いていました。

 私はクリスチャン生活とはこのように生きることなのだと言うことに、今更のように納得が行き励まされました。難しい神学を学ぶことが大切ではないとは云いませんが、それよりも、イエスキリストが実践して見せてくれたこと[子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19)と云われたことをそのまま真似て、私たちも普段の生活の中で実行することが「クリスチャニテイー」なのであって、なるほど「キリスト者」とはよく言ったものであると思った次第です。


 最近私たちは日本へのミニストリー旅行から帰って来たばかりですが、色々な教会を訪ねる中で、主の臨在がある教会とあまりない教会とが、今はっきりして来ているように感じられました。主と本当に親密な関係を持つか持たないか、その差がこれから大きくあらわれるように思えてなりません。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-08-31 10:14 | 坂達也からの今月のメッセージ

主は実を探しておられる マット・ソーガー 8月30日

主は実を探しておられる

マット・ソーガー
 

イエスは神の民の人生、生活の中の実を探しておられます。遠くから良く見えるだけでは十分ではありません。主は私たちの傍近くに来て、実を探されるのです。

マルコ11:13−14「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」

物事は遠くから見るとすばらしいように見えることがあります。いちじくの木は遠くからは立派に見えました。葉が茂っていました。しかしイエスが近づいて見ると、実が一つもなっていないのがわかったのです。

ここで、御霊の賜物と御霊の実との比較を少ししてみたいと思います。私たちの人生において神の賜物の働きは遠くからは素晴らしく見えるかもしれません。神の賜物は取り去られることはありません。 賜物を受けたあなたはミニストリーを正しく始めることができるでしょう。あなたは神とよい関係にあったので 、御霊の賜物を用い始めることができました。しかし出発が正しいだけではいけません。終りも正しくなければなりません。初めは神とのしっかりした関係の中で出発しても、だんだん神が与えて下さった賜物に乗じて、心の中で神から離れてしまうことが起こりうるのです。
遠くからでもはっきりわかるほどの力強い賜物を持つ事は可能です。しかし、その木にどのような実がなっているのかは、近づかねばわかりません。

季節はずれでも

私たちの本当の実は、自分に最も親しい人たちとの関係を通して明かにされます。 人を本当によく知るようになったときに始めて、その人がどのような実を持っているかを見ることができます。イエスは私たちが賜物を顕すだけの、葉だけ茂った木のようになることを望んではおられません。主は実を見つけたいのです。 主の私たちのためのデスティニーは、私たちが多くの実をみのらす木になることです。

イエスはこのことを大変重要だと思われたので、実のなる季節ではなかったにも拘わらず、いちじくの木に実がないことを責められました。実際のところ、どのような季節であっても、私たちの置かれた状況がどのようであっても、それが いい日であっても大変な日であっても、イエスは私たちに実を結ぶことを望んでおられるのです。常に良い実をみのらせるのは簡単ではないでしょう。それには自分の肉の望むところに死に、自己中心に死ぬことが必要です。しかし、神は実のなる季節でも季節はずれでも、私たちにその用意ができていることを望まれているのです。

第二テモテ4:2−5「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために呼び集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分のつとめを十分に果たしなさい。」

神は実のなる教会を必ずつくられる

ヨエルは2:22−24で預言しています。「野の獣たちよ。恐れるな。荒野の牧草はもえ出る。木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主はあなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。」

神はこれからも御民のうちに働かれ、荒野が緑の牧場になるようにされます。乾ききって死んだような場所を再びよみがえらせます。木は実をみのらせ、ぶどうも豊かにみのるようにされます。神はご自分の民に力を与えられるので、私たちは神の望まれるような実をみのらせる者となります。神は御民を御霊にあって強くされるのです。

打ち場は成熟と収穫で満ちる

神は御民の上に後の雨を激しく降らせるので、今までに蒔かれていたすべての種は萌え出て豊かにみのり、収穫することができるようになります。私たちの内に蒔かれたすべての神の言葉は、芽を出し成熟します。即ち、神は御民を成長させられるのです。神は神のからだである教会を大人に成熟されるのです。

あなたが成熟したことを示すしるしの一つは、以前は腹が立ったことが最早気にならなくなるということです。あなたはあまり腹を立てなくなるでしょう。また、自分の肉によって動かされること(肉の反応)が少なくなり、もっと御霊によって導かれるようになるでしょう。霊的成熟のもう一つのしるしは、誘惑に打ち勝ち、神を喜ばせるような歩き方、生き方を学ぶようになることです。霊的成熟はあなたの考え、態度、行動に映し出され、それは特にあなたの最も親しい人との間でそうなるでしょう。

私たちは今、本当に神の臨在と真実の光の中で自分を吟味するべきです。私たちに押し寄せる肉の罪を深く悔い改め、ふさわしくない態度や立腹を後にして、私たちの人生を取り扱ってくださる神の御手に完全に服従するべき時が今来ています。

打ち場は穀物で満ちあふれるでしょう。それは成熟した収穫のことを指しています。それは人々の魂の収穫だけではなく、あなたの中に育まれている神の言葉のみのりの収穫をも指しているのです。あなたは成熟した神の息子、娘になるということです。(人生という)打ち場に今までに置かれていた私たちの人生の中のすべての領域が、成熟と実りという収穫を生み出すでしょう。

満ちあふれて生きるとは

石がめは新しいぶどう酒と油であふれるでしょう。神は御民を、成熟と収穫という場所から、次に「溢れる」overflowと呼ばれる場所へと導かれます。私たちの人生に神の臨在と油注ぎがあふれ、その中で私たちは生きることができるようになるのです。新しいシーズンというだけではありません。それは新しい次元(dimension)に入ることです。神の御民たちは大いなる神の臨在と力を持ち運ぶので、私たちの人生からは神の臨在が溢れだし、それは私たちの回りの環境をも変えていくのです。この溢れるような新たな油注ぎは私たちを変革させるばかりでなく、私たちの回りの世界に深い影響を与えていきます。

神は「丁度足りるだけ」という神ではありません。神は常に「有り余る」神なのです。神はただあなたに「丁度足りるだけ」の油注ぎを与えたいとは思っておられません。神はご自分の臨在と力があなたからあなたの回りの世界に溢れ出て届くほどに、ご自分をあなたに与えたいと思っておられるのです。

一致の祈り

父よ、私は今日あなたの御前にへりくだります。私の人生の中にあなたの祭壇を築きます。自分をあなたに捧げます。罪と妥協のすべての領域を悔い改めます。私があなたに不快な思いを与えたすべての罪をお赦しください。私を清め、あなたの御目に義なるものとしてください。聖霊よ、あなたが喜んでくださるような生き方ができるように助けてください。私の人生にあなたの実がなるようにしてください。私のなすすべてにおいて成熟するように導いてください。新しい油注ぎをいただき、あなたの御霊でいつも溢れて生きられるような力を与えてください。あなたの力で私を満たし溢れさせてください。私がするすべての偽善と 罪を悔い改めます。私の霊、魂、身体を癒してください。私の人生の中にあなたの「常にやどる臨在」を回復させてください。父よ、私たちの国を癒してください。アメリカをあなたに再び立ち帰らせてください。イエスの御名において祈ります。アーメン(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-08-30 12:42 | アメリカからのメッセージ

「22:22」という鍵 ボブ&ボニー・ジョーンズ 8月21日

「22:22」という鍵

ボブ&ボニー・ジョーンズ
 


「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」
イザヤ22:22

最近、私と妻のボニーに「22−22」という数が示されましたが、イザヤ22:22はここ数年,何度も何度も私たちに示されてきました。しかし、イザヤ22:22とダビデの鍵に関して、今までは見えなかった何かを今示されていると私たちは信じます。

イザヤ22章では、一つの大きな変化が起こっています。それまで実権を握っていた者たちが、「父たち fathers」によって取って代わられているのです。現在キリストのからだに、多くの「教師」はいますが「父」はほとんど見当たりません。

第一コリント4:15「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」


父たちと母たちが息子たちや娘たちの霊の鍵を開ける

イザヤ22:21「その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」

古い権威であるシェブナ(イザヤ22:15)は、上記にあるように、新しい権威であるエリアキムによって取って代わられています。エリアキムは、「残りの者(レムナント)の父」という意味です。

この箇所は私たちに、残りの者の父たちが神の御国の鍵を与えられることを示しています。そして父や母たちが彼らの息子、娘の霊の鍵を開け、それによって息子、娘たちが神の御国を来らせることができるようにするのです。
息子、娘たちは霊のすべての賜物を持って現れ、主の栄光が訪れる道を備えるのです。宗教の霊が彼らを縛って来たところも、今や解放の霊が彼らを自由に解き放つのです。

私たちはかつてなかったような神の賜物の顕れを見ることでしょう。今まで「宗教」が統治して来た場所で宗教が終焉し、神の統治が始まろうとしています。この神の統治は、息子、娘たちの最も奥深い中から、キリストのからだに御国が訪れる道を備えるでしょう。

神の統治とは人民の、人民のための、人民によるものです。

「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」ルカ11:20(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-08-21 12:10 | アメリカからのメッセージ

神の息が家族の上に吹かれる時、国々は震える ビル・ヨント 8月10日

神の息が家族の上に吹かれる時、国々は震える

ビル・ヨント


創世記2:18「人が、ひとりでいるのは良くない。」

私たちは、家族の中に秘められている素晴らしい力を見過ごしてきたか、あるいは過小評価してきたと私は信じます。神は私たちを生まれさせたとき、 家族の中に置かれました。 私たちが地球を治め、この世界に神の御国をもたらす力を生み出す何かが、家族という環境の中にはあるのです。

サタンは「女の子孫 the seed of the woman」を恐れていたと思います。なぜならば彼にはサタンを滅ぼす力が与えられていたからです。私たちの子供たちさえ、門でサタンと戦うことを彼はよく知っていました。(詩編127:5参照)孤独な者(寂しい者、やもめ、孤児、父のない者)を家族の中に入れることが、常に主の願いであった理由がそこにあると思います。(詩編68:5、6参照)

最高の「国宝」はあなたの家の中に

第二列王記4章に、エリシャが二人の息子のいるやもめを訪ねたことが書かれています。彼女にはほんの少しの油しか残っていませんでした。 負債のために彼女の息子たちは奴隷として取られようとしていました。当時の政府は彼女を助けることができなかったので、彼女はエリシャのところに助けを求めてきました。エリシャは「あなたの家には何があるのか?」と聞きました。彼女はいろんな所に助けを求めて出かけたのですが、自分の家だけは見ていなかったのです。つまり、エリシャは「あなたの家の中にあるすごい奇跡の力をあなたは知らないのです。」と彼女に言ったのです。

今日、多くの人たちは私たちの国を救うものを期待してホワイトハウスを見ています。しかし、神は今、神の民に「あなたの家には何がありますか? 最高の『国宝』はあなた自身の家にあることを悟らないのですか?」と言っておられるのです。この偉大な「国宝」は私たちの家族のなかにあるのだと私は信じます。多くの場合、まだ磨かれてないダイヤモンドに価値は見つけにくいものです。あなたの家族に今までに起こった様々な問題が、あなたを祝福する時がきました!

家族が国を救うように整える

ヨシュア24:15「私と私の家とは、主に仕える。」

ヨシュアがイスラエルの国に向かって生か死かを選び取れと言ったとき、 彼は 自分が何を選択するかということだけでなく、 彼が家族に対して抱く思いの重要さも伝えようとしたのだと思います。

ヨシュアがすべての父親母親に願っていたことは、彼らが自分たちの家族も主に仕えると宣言することだった私は感じます。 家族が持つ「国全体が滅ぼされるのを免れる力」を彼は知っていたのでしょうか? もし神が彼を救うことが出来るなら、神はまた彼の家族をも救えると彼は信じていたのではないでしょうか。そして更に、神が彼の家族を救えるのならば、国全体をも救うことが出来るとヨシュアは信じていたのではないでしょうか。彼は「国宝」は自分の家の中にあることを信じていたのです!

使徒行伝16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

私たちは今までよりも更に家族全員の救いを宣言する必要性がある、と私は感じています。そしてアメリカに対しては「私たちの国家は、神のもとにある一つの国家!One Nation ,Our Nation, Under God!」と宣言し始めるときだと思います。天の父はあなたの家族だけではなく、国家全体が一日のうちに救われることができるという夢を心の中に持っておられます。

イザヤ66:8「だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」

エデンの園以来ずっと、敵であるサタンは、「家族」が彼の王国を滅ぼし、国家全体を救う秘めた力を有していることを良く知っていたのではないでしょうか。ですから彼が家族の上に様々な問題を起こして地獄をもたらすのは何の不思議もないのではないでしょうか。

ヨエル2:28「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」

これから起ころうとしている御霊の傾注は、まず私たちの家族に注がれると私は信じます。そうすればそれがすべての人類に広がるのを止めるものは何もないことを神は知っておられるのです。私はまた、家族のメンバーの一人ひとりが家族の健康と解放のためのある鍵を持っていて、それが究極的に私たちの国の解放という結果を生み出すとさえ私は感じています。もう一度見てください!この国の問題の答えは私たちの家の中にあるのだと私は信じます!

主の言葉。「アメリカよ、わたしの息をあなたの家庭の中に吹き込んでもいいですか?わたしの息を家族の一人ひとりの鼻に吹き込みたいのです。曾おじいさんからお腹の中の赤ちゃんまで。私は今この国の家を一軒ずつ訪れます。わたしは3Dの立体天然色で直接あなたの住んでいる場所に行きます。今あなたの家の住所が記された天使たちが出動態勢で整列しています。彼らはあなたの住まいの回りに陣を巡らし、遠くや近くにいるあなたの家族のメンバーを救うために遣わされようとしているのです。今まで単なる家だったものが、暖かい家庭に変えられるでしょう。

「わたしの息をあなたの家庭に吹き込んでもいいですか? 放蕩息子たちが電話をしてくるでしょう。何年も行方不明だった子供がわたしの霊の息によって救われるでしょう。今までわたしはあなたの家族のメンバーがわたしに抵抗するのを我慢してきました。これまではわたしは彼らの家や心の戸をやさしく叩いてきました。しかし今わたしは強く息を吹きかけて入口の戸を吹き飛ばします。わたしは入っていきます!」

この国のための奇跡は私たちの家にある!

神ご自身の角笛が今、私たちの家庭に吹き鳴らされ始めると私は信じます。そして救い、癒し、解放の音を放ち、家族全部がこの国を勝ち取るために調えられます! 今それを受け取りなさい!

祈り「主よ、私たちは再び生きるために、あなたのいのちの息を家族の鼻に受けとります。私たちは家族全部が王である祭司、選ばれた世代であると叫びます。まだ顕れていない事を、すでに成就した事として叫びます。彼らは救われ、癒され、解放された者だと私たちは叫びます。彼らは「国宝」であると私たちは叫びます。私たちは家族のメンバ−をあるがままの姿で受け入れ、無条件に愛します。私たちは彼らがすでに救われているかのように接します。私と私の家は主に仕えます!」【終わり】


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# by walkwithgod | 2010-08-09 16:03 | アメリカからのメッセージ

ノアの時代のように テレサ•フィリップス 8月3日

ノアの時代のように


テレサ•フィリップス 


私がワーシップをしている時、 主が語られました、「今はノアの時代です。このことを語りなさい。黙っていてはいけません。」と。私はびっくりしました。はっきりとした大きな御声だったのです。「はい、主よ。」と私はお答えしました。すると 私を通して主は預言を与え始められました。「今はノアの時代です。人々がノアのしていることを理解できなかったと同じように、わたしがあなたがたに願うことを人々は理解しないでしょう。」 主の御言葉が大変重要なことであることがわかりました。

主は再び言われました。「今はノアの時代です。箱舟が造られるとき、人々からの反応は嘲笑でした。今度もそうなるでしょう。わたしのために安息の場所を建てなさい。」と主なる神が言われました。「誰がわたしのために隠れ家を建てるでしょうか? 誰がわたしのために建てるでしょうか?」と主が訊かれました。

「今はノアの時代です。わたしは語っています。わたしは求めています。わたしはわたしの御国を建てる協力者を待っているのです。嵐を呼ぶ黒雲がわき起こってきています。わたしは一つの建物、即ち御国の改革、を打ち建てようとしています。それは直ぐそばまで近づいています。誰が建てるのでしょうか?」と主が言われました。私はその時、畏敬の念に打たれて震え始めました。

私たちは何を建てればよいのか?
神よ、ダビデの心を下さい!

第二サムエル7:13「彼はわたしの名のためにひとつの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
「わたしは必要としています。」と主が言われます。「一つの家、家庭、安らぎの部屋、安息の場所を。わたしは常にノアとその家族たちと共にいました。」と主が言われます。「それと同じようにわたしはあなたと共にいるでしょう! わたしは 安全な新しい箱舟が出来る事を願っています。わたしは地上にわたしの永遠の御国が再建されることを願っています。わたしはわたしの教会がこの仕事のために立ち上がることを願っています。わたしのための家を建ててください。」

使徒行伝7:49「主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。」


私は主が何を指令しておられるのかがわかりました。主は幕屋—手で造られる幕屋ではなく、人々の心のなかに打ち立てられるものーを建て直すようにようにと言われているのです。この幕屋とは、神としもべたちとの間の絶え間ない交わりのことです。

「わたしの民よ、わたしの計画を阻もうとする誘惑に勝て」

主は更に語り始められました。「わたしは今、このために人々を召し出しています。わたしはわたしの民がわたしの計画を阻もうとする誘惑に打ち勝つようにと願います。それはノアの時代と同じように、 人々は、ノアがわたしとの間に持った親密な関係を持つ用意ができていないからです。彼らは怒鳴ったり文句を言って地上で打ち立てられつつあるものをあざ笑っていました。一人の人がわたしの声を聞き、わたしに従いました。その結果、彼とその家族は救われました。造られたものたちも安全な場所に来ました。わたしが箱舟に乗せたものたちは決して滅びないことを知っていますか? 決して滅びません!」と主は言われます。

「人は決して滅びません。わたしのかたちに造られたものは死にません!なぜならば、わたしは永遠の神であり死なないからです。わたしはあなたを決して離れず見捨てないと言いました。わたしを信じなさい。今わたしが進んでいる道は、人間が計画しているものと必ず衝突します。わたしはわたしの御国、わたしの領土、わたしの臨在、わたしの領域、わたしの環境を押し進めていきます。わたしはそれを突然にあなたのただ中にあらわすので、あなたはそれに気が付き畏れで立ちつくすことでしょう。」と主が言われます。

「あなたはシーズンがわかる」

「『何故?』という疑問がわたしの耳によく届きます。『いつ?』が次にきます。しかしわたしはあなたに言います。あなたにはシーズンがわかるでしょう。そのシーズンがやって来たときに種を蒔き刈り入れるのはあなたです。わたしはそれを見て満足するでしょう。わたしはあなたがたのただ中を進んでいきます。」と主が言われます。

エレミヤ8:7「空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。」

「ノアは聞いて従い、あざけられました。しかし彼はわたしの(ことばを聞く)耳を持っていたのです。わたしは今多くの人々に語っています。今この時にわたしは励ましの言葉を送っています。わたしはあなたに宣言します。『わたしは今建物を建てています。わたしはダビデの幕屋を再び建てているのです。』」と主は言われます。

使徒行伝15:16「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を立て直し、それを元どおりにする。」

「これは賛美の家です。そうです、賛美が安全な場所を造っているのです。なぜならばわたしはわたしを賛美するものの中に住むからです。彼らはわたしをさらに賛美するようになるでしょう。」と主は言われます。

詩編22:3「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」「わたしは建て直し、再び顕れ、再び確立しようとしています。わたしの御国がその王を見るときに、この国は変るでしょう!」

「わたしはいにしえの城壁を建て直しています。今も研究者たちはいにしえ人の地の廃墟を発見しています。わたしは見つけられています。そしてわたしは、あなたがもっと熱心にわたしを求めるようにします。」

「今わたしは建物—わたしの御国の建物—を願い求めています。わたしは賛美の家を再建しています。鎚音は海外でも聞かれるようになり、多くの者が「 一体何が起こっているのか?」と言って見に来ます! わたしは祈りの家を再建しています。そして多くの者が来て癒され、わたしの声を聞くことを学びます。わたしは王を愛する者たちの軍隊を再編成しています。そして多くの者が彼らの習慣を改めるでしょう。わたしに近づきなさい! 入ってきなさい! 王に近づきたくない者などいるでしょうか?」と主が訊かれました。

「わたしは王である祭司として再び現れているのです。多くの者たちがやって来て、希望という力ある祭壇の前にひれ伏すでしょう。わたしはわたしの定めた境界線—そうです、それはわたしの律法ですーを人々の心の中に再び確立しています。もう一度、ホーリネス(聖さ)のリバイバルがやって来ます。
わたしの御国がパンの家(ベツレヘム)にその王を見るときに、この国は変えられるでしょう。よく聞きなさい、わたしが王座に座るときこの国は変えられます。「わたしは、人間を通して、人々がわたし自身を『見ることができる』ようにします。それによって 政府のリーダーたちやネットワーク、ビジネス界のリーダーたちに、神のすることが分かるようにします。」

「今はノアの時代と同じように新しい事が起こる時です。目を覚ましてよく見張り、祈り、従いなさい。」

マタイ24:37−38「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」

「この警告をしっかり受け取りなさい、わたしの愛する者たちよ。なぜなら時が迫っているからです。わたしは大いなる変革をもたらすために近づいているからです。あなたはわたしの口から聞きました! わたしはそれをします! わたしを王座にすわらせなさい。あなたの報いは大きいでしょう。御国は近づいています。なぜならば、王が今も王として 認められねばならないからです。ノアの時代のように、わたしの道を学んでいない者は、わたしが語ることができ新しいことを指示できることを信じませんでした。もう一度いいます、『今はノアの時代のように新しいことが起こる時です!』」

「さあ、あなたはこのような時に生きているのです。わたしは今、あなたに言います、あなたの希望やヴィジョンをなくしてはなりません。進んでいきそれを達成しなさい! 今、わたしはリーダーであるあなたに言います、目をさまして見張り、祈り、従いなさい。この建物を実現させねばならないからです!」

第一ペテロ5:1「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。」

「そうです、互いに分かち合いなさい。なぜならばわたしの御国はチームで働かねばならないからです。働き人たち、一致しなさい! 教会は一致しなさい! 人々よ、あなたの知らない人からも主の言葉を受け取りなさい。なぜならばこの地でわたしの御国を建てているのはわたしだからです。わたしが呼んでいるのです。わたしが指示しているのです。わたしは永遠にあなたと共にいます!」と万能の主なる神が言われます。


共に祈りましょう。「愛するイエス様、わたしはあなたの御国のしもべとなりすべてをお捧げいたします。わたしは今日、あなたとあなたの御言葉、そしてあなたの御国の人々に従うことを選び取ります。私は今日、あなたはあなたを礼拝するすべての場所に来られることができ、またそうして下さることを信じます。わたしは彼らを自分の家族として受け入れ、彼らがあなたの御こころを行うように訓戒します。私は今日、あなたと契約を結び、あなたと共に宿り、人々との関係を建て直し、橋を修復してあなたに似たものとなることを選び取ります。これを読む人すべてを祝福してください。アーメン(終り)


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# by walkwithgod | 2010-08-03 07:54 | アメリカからのメッセージ

愛を表す  グラハム・クック  2010年7月28日

愛を表す

グラハム・クック



イエス・キリストの福音がギリシャの人々に届いたとき、彼らには「無条件の愛」を表す単語がありませんでした。神の愛の偉大さを十分に表す言葉がなかったのです。彼らは神の愛の持つ性質を定義できる言葉を創らねばなりませんでした。それが「アガペ」という言葉です。「愛」に関してもっとも重要なことは、私たちが「愛」をどのように用いるかということです。

「アガペ」とは見返りを期待しない無私の愛です。愛する故に愛するのです。憎しみが確実に憎しみを生み出すのと同じように、愛は愛を生み出します。愛は他人に与えると増えていき、与えないでいると減っていきます。アガペの愛は 神が、神というお方である故に、 無条件で私たちに与えてくださるものです。神はご自分の敵をも100%愛されます。その究極の証拠はヨハネ3:16及びエペソ2:1−10に書かれています。

自分というものを見失ってしまい、それによって他人に対してどのように行動すればよいか分からなくなった人たちをも、私たちは愛します。自己中心な人、高慢な人、人を侮辱する人、欲張りな人、ケチな人、偏狭な人、人を赦さない人等です。愛はすべてを受け入れ、すべての人の心に触れることができます。 難しい人々は、愛によって変えられるために愛を最も多く必要としますので、愛があるかないかを証明するもの、立証するものとなります。よい人たちを愛するのはよいことです。けれども私たちが愛し難い人を愛するとき、 それは私たちが「自分は神に愛されている 」こと(神に愛されている者であること)をよく知っている確実な証拠となります。

愛とは、御父が自分を愛していてくださることを内に感じながら、他の人々を御父が見るように見ることです。ある種の人々を愛するには、とても忍耐が必要です。
私たちは自分が持っている偏見を乗り越えるためには、あるいは、神に自分の心をいつも開いている状態になるためには時間が必要です。そして、どんなに愛そうとしてもどうしても神経にさわってしょうがない人々をどう愛するかにおいて、人生をかける一大決心をするに至るまでには、私たちには時間が必要です。往々にしてクリスチャンは忍耐強く深く考えることが苦手なようです。愛についての説教はよくしますが、実際の生活はこの世的な愛のレベルにとどまっていることが多いのです。

私たちは神の愛で人々を解放し自由にするべきなのに、かえって怒ったり裁いたり責めたりという自分の肉的な習性によって、彼らを牢に閉じ込めてしまっています。愛は人々に代価を求めません。私たちは裁きjudgmentと正義justiceとを混同してしまっています。裁きjudgmentは責め、罰し、咎めます。正義justiceは誠実integrityと尊厳dignityを伴う義righteousnessであり、公正な取り扱い、差別しない公平さです。愛は、それを全く受けるに値しない人々にも益を与えるものです。

このような愛は決して弱々しいものではありません。力強いけれども柔和であり、優しいけれども揺るがないものであり、寛大で義しいものrighteousnessです。柔和さは弱さではなく、自制された強さ(力)です。愛は人々をそのままに放っておきません。愛は人生の軌道を変えます。 自分は無関係だとは言いません。アガペの愛は他の人を引き下ろすことは決してしません。かえって彼らの人生の質を高めることに力添えをすることです。
神が愛されるように私たちが愛するとき、私たちは神が造られた人間本来の真価(自分の真の身分・アイデンティティー)に最も近づきます。神の内に自分を発見するのです。私たちは愛を実践するときが常に一番自由であり、その反対に 罪悪感を与えて人々をその中に閉じ込めるとき、自分自身も一番縛られているのです。アガペの愛は自意識過剰ではなく、神経質ではなく、独善的ではありません。
私たちが真実に愛を実践するとき、それを他人から批判されることを予期せねばなりません。私たちがアガペの愛をもってこの世に神の臨在を顕している時には、その確実な証拠として、私たちが過度に霊的ぶる人や宗教的な人から誹謗されることによってそれが分かります。

私たちは人を愛している振りをすることは出来ません。それは実在しない非現実的なことです。しかし、神のご性質を人々対して実践する練習をすることはできます。そしてそうすることによって、私たちが変革されていくのです。アガペの愛を実践するということは、非常に意識的な選択です。単に即興的に行き当たりばったりですることはできないのです。それは意識的に計画されねばなりません。このような愛は単に感情ではなく決断的な意志による行動です。「自分がどう感じるか」とは関係なく、愛することを選ぶことです。今の自分がどのような者であるかの故に、またイエスにあってどのような者になりたいかの故に、私たちは愛するのです。

愛は実際に表わされるときに増えていき、表すことを抑えるときに減っていきます。愛とは、私たちをよく思ってくれる人が自分の前に立っているときに自然に起こる感情のことではありません。もし神がまず私たちを愛してくださったとしたら(第一ヨハネ4:19)私たちはアガペの愛を外にではなく自分の内に見つけねばなりません。愛は、御国と同じように、今すでに私たちの内にあるのです!それを信じて受け取り、その中で喜んでください。愛されているように愛してください。

愛を表現する一番の方法は実践することです。愛を与えることはイエスというお方を実際に表現していくことです。アガペの愛は何かを得るためにするのでもなく、自己中心でもありません。愛はそれを使うことによって必ず自分に戻ってきます。私たちはすでに今愛を持っているのですから、他人に与えてください! 誰かから愛をまずもらわなければ自分は愛を持っていないと考えること程、私たちを自己依存させ、自己憐憫に陥らせ、苦々しさを常に持ち、皮肉っぽくものを見て、感情的不具者にさせてしまうものはありません。


私たちは今ある自分からゆっくりとスタートせねばなりません。「自分のアイデンティティーにおいて、自分がどのような人間になりたいのか」を決めていく意識的な行動として愛を実践していくことが非常に大切です。愛は報酬を必要としません。貸し借りの勘定をしません。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えます。愛は、人から認められることを必要とせず、仰々しい言葉や約束、決意も求めません。自分が注目されることも求めません。神のみ翼の陰から愛します。静かに、誰にも知られず、密やかに。そのときあなたの隠れた愛の行為を見ておられる御父は、アガペの愛をあなたに何倍も与えてくださるでしょう。私たちが愛するとき、私たちは自分自身を祝福しているのです。ですからどうか、ただ実践してください。静かに、神のために!(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-07-28 07:50 | アメリカからのメッセージ

リーダーの出くわす不都合 キャサリン・ブラウン 7月20日

リーダーの出くわす不都合

キャサリン・ブラウン



人生は常に山あり谷ありだと言いますが、クリスチャンも人生の嵐から逃れることはできません。嵐の中でこそ、私たちはキリストの真実により頼むことを更に学ぶことができます。また嵐は、リーダーであることが「都合のよい楽なこと」であることはめったにないことを、もう一度教えてくれます。

私のリーダーとしての経験から学んだことは、リーダーであることは決してリボン飾りのついた素敵なプレゼントをもらうようなものではないことです。それは祝福された特権であると共に、しばしば非常な苦痛を与えるものです。喜びと共に悲しみの旅でもあります。往々にして孤独です。それは日常の生活から神との邂逅という未知の世界へと人を連れて行き、へりくだって神により頼みイエスの衣のふさにすがるという経験をさせます。
それは心もからだも感情も、そして霊的にも非常に過酷な任務です。しばしば、それはキリストとの深い交わりの場所に私たちを連れていき、神の弟子として訓練を受け続けることになります。それは自分に関しても、また人々をキリストと歩む改革的な信仰生活へと導くことにおいてもそうなのです。リーダーになるという恵みによって人々に仕えるのは慎ましい特権ですが、リーダーであることがいつも都合がよいとは私は決して言わないでしょう。

地域の外

私の家族に最近起こったことの 証しをさせてください。みなさんにとって励ましとなることを願いますが、それと共に聖書の真理に当てはまる比喩として役立つのではないかと思います。

子供たちをみんな学校に送りだしてから、私はミニストリーの合間にやっと時間をとって予約をしていた 美容院に出かけました。長い間美容院に行っていなかったので、髪をカットし染めてもらうのを楽しみにしていました。どういうわけか私の美容院は携帯電話の電波が届かないところにあり、そのお陰で二ヶ月に一度のこの時間は、いつもは誰にも邪魔されずに静かにゆっくりできる休息のオアシスなのですが、今回はちょっと違いました。

私が変な格好になったとき( 洋服を汚さないための黒いケープをつけ、髪には紫の漂白剤をべたべたつけられたとき)義姉が突然走り込んできて「ダニエルが学校から家に帰るようにいわれたの。今すぐ帰ってきて!」と叫びました。(ダニエルは私の二番目の息子です。)私があと30分は動けないと言うと、彼女は私の義母にダニエルを迎えに行ってもらうとぶつぶつ言いながら出ていきました。なにせ私の髪はその時化学物質で覆われていて、そのまま長く放っておけば髪が溶けてしまうかもしれなかったのですから!

ダニエルは2時間前に学校に行ったのですが、その時には 彼の身体に問題があるようには全然見えませんでしたので、一体何が起こったのか私には見当もつきませんでした。私は美容師に大丈夫だと安心させてから、静かに息子ダニエルのために祈り始めたのですが、その時は彼の病気がどれほど重大な状態になっていたかを知りませんでした。

しばらくすると、義母が真っ青な顔をして震えながら入ってきました。義母は 学校に車でダニエルを迎えにいったのですが、今、車の中にいるダニエルの手は麻痺し、しかも片目が見えなくなっていると言うのです。「私は椅子から飛び上がった」というのは非常に抑えた言い方です。最大の危機に取るべき行動、走るべき方向は、その嵐の目の中に走る込むことしかありません。ですから紫の髪と黒いケープのまま(このような時には他人がどう思うかは全くかまわないのです)美容院から飛び出してダニエルのところに飛んでいきました。彼は車の中で声を抑えて泣いていました。私はいとしい息子に手を置き、イエスの御名によって彼の目が癒され、頭痛が去り、右手の麻痺が癒されるようにと宣言しました。

神の力がすぐにダニエルの癒しに顕れはじめました。私はダニエルに髪の漂白剤を洗ったら直ぐに行くからと約束して、義母にダニエルをそこから直接医者に連れて行き、いきさつを話すようにと指示しました。私は夫に電話をして ダニエルと他の三人の子供たちのサポートが必要かもしれないから家に帰ってくるように頼みました。この出来事に私は衝撃を受けましたが、しかし心は落ち着いていました。それと同時にサタンに対する義憤が私のうちに涌き上がってきました。私は確固たる信仰をもって「サタン、主の御名によって命ずる、おまえが息子に触れることは絶対できない。」と声に出して宣言しました。

私は紫の漂白剤を洗い流してもらって、15分後には医者のところに着きました。驚いたことにダニエルが大変なことになるかもしれない状態であるにも拘わらず、彼はまだ医者に診てもらっていなかったのです。私は受付に行って礼儀正しく、いつダニエルが医者に診てもらえるかと尋ねました。受付の人はちょっと横柄な態度で、ダニエルが後どのくらい待たねばならないかわからないと答えました。この決まり文句のような返答は、その時の私のように緊急事態で思い詰めた親には満足できないものでした。私は一息ついてから受付の女性の目をじっと見て、低い決意を込めた声で「息子はいつ医者に診てもらえるんですか? 息子は突然原因不明の麻痺と目が見えなくなっているんです。」と言いました。すると彼女は医者を探しに行ってくれて、少ししてダニエルは医者に診てもらうことができました。

医者の診断では、ダニエルは重度の偏頭痛の発作に襲われているということでした。(彼にとっては初めてことでした)医者はむかつきを抑える薬を処方してくれて、家に帰って横になるようにと指示しました。もしまた発作が起こったならば、すぐ来るようにと言われました。私たちは家に 帰り、私は愛する16歳の息子をベッドに寝かせ、大丈夫だよと言ってもう一度彼のために祈りました。主人は会社に戻り、私は家族の人たちにダニエルはもう大丈夫だという電話をかける作業にかかりました。みなさんもご存知だと思いますが、悪いニュースは他のどんなニュースよりも家族に早く伝わるものです!私はいろいろと助けてくれたみんなに(美容師にも)お礼をいい、ダニエルはもう大丈夫で危機は過ぎたと知らせるのは大切だと思ったのです。

嵐の中にイエスと共にいる

さて、この髪の漂白剤にまつわる私の長ったらしい話が、リーダーの「 不都合 」と何か関係があるのでしょうか? 大ありなのです! まず、リーダーの介入を必要とする危機というものは、普通、とても都合の悪いときに起こることに気づかれていますか? 危機はあなたがまったく予期しないときに、最も不都合に起こります。私が携帯の電波が届かない場所にいたように、それは「 範囲の外」にリーダーがいる時に起こるのです。リーダーがいつもの環境、道具や手段、チームのメンバー等に手が届かない場所にいるときということです。困難な状況や不都合なタイミングの中で危機は起こるのです。

危機が起こったときは、油注がれたリーダーの強靭さと支えが必要です。このようなリーダーは神を信頼し、嵐の中でもキリストの強さによって立つことを求める人です。信頼できるリーダーとは、嵐の最中でもパニックに陥らないで、キリストの臨在の中に入る方法を知っており、 その事態に対する解決法を必ず与えて下さる神の真実さを信じて、祈りと大胆さをもって求め続けることができる人です。このようなリーダーは、恐れている人や痛みを感じている人たちを常に励まし安心させようとします。
リーダーとして私たちは、いつ嵐が起こり、それが自分の愛する者たちにどのような影響を与えるかをいつも前もって知ることはできません。しかし、私たちは神の力強さ、神の救いの力、人生のすべての危機に対する神の解決の故に、神により頼むことができるのです。信仰の祈りも又、人生の嵐の中でリーダーがするべき(そしてすべてのクリスチャンの)重要なことです。

イエスが示した模範

「そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、 『さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。』と言われた。それで弟子たちは舟を出した。 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹き下ろして来たので、弟子たちは水をかぶって 危険になった。そこで、彼らは近寄っていって『先生、先生。私たちは溺れて死にそうです!』と言った。

イエスは起き上がって、風と荒波をしかりつけられた。すると風も波もおさまり、なぎになった。イエスは彼らに『あなたがたの信仰はどこにあるのです。』と言われた。

弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」(ルカ8:22−25、又、マタイ8:23−27、マルコ6:47−52、ヨハネ6:16−21も参照してください。)

四つの福音書はすべて突然の嵐の中でキリストが眠っておられた事を記述しています。それぞれに人生の嵐の中で神が信頼に足る方であるといういくつかの真理を明らかにに示しています。ルカは突然起こった嵐の大きさを詳しく書き、弟子たちが小舟の上で大波をかぶって命を失うかもしれないという「非常に危険な状態」であったことを知らせています。

イエスはそれまでの過密なミニストリーで疲れきり、舟の上でぐっすり眠っておられました。口の中がカラカラ、身体は痛い、けれども心は主の素晴らしい愛で満たされて、何時間もミニストリーを続けた経験をあなたはお持ちでしょうか? 私にはそのような経験があり、その働きが終った後にはどのような眠りに落ちるのかをよく知っています。本当に深い眠りです。主はそのような深い安息をとっておられ、それは主にとって必要な「休息」の時間だったのです。
その時に激しい嵐が起こり弟子たちは震え上がりました。恐怖に怯えて、弟子たちは主ならどうすればよいかご存知だろうと期待して主を起こしました。危機が起こり、 自分たちは大丈夫だということを知る必要が弟子たちにはあったのです。主はご自分の必要を横において、今起こっている 問題に焦点を当てられました。

ルカは予期せぬ嵐の激しい攻撃の最中においてこそ必要な信仰をイエスの例を通して明らかにしています。

祈り「天の父よ、今イエスの御名により、すべてのクリスチャンのために、特に人々を助けたいと願っているリーダーたちのために、祈ります。彼らが面しているいかなる嵐に対しても、新しいレベルの信仰で応答するために、彼らがあなたの平安とあなたの力を知ることができますように。主よ、あなたのしもべたちに力を与え、彼らが聖なる大胆さで祈ることができ、あなたが彼らのためにあなたの力強い御手のわざを見ることができますように。厳しい状況の中で苦しんでいる人々を励まし、あなたの素晴らしい聖霊を彼らが置かれている状況の中に解き放ち、イエスの力強い御名において癒しと自由をもたらしてくださいますように。アーメン」(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-07-20 06:28 | アメリカからのメッセージ

聖さは輝く フランシス・フランジペン 7月15日

聖さは輝く

フランシス・フランジペン



クリスチャンの人生に真の聖さがあるとき、それは輝き出てその人の回りは明るくなります。赤ちゃんや幼児は神の臨在にとても近い存在なので、彼らの霊は純粋であり汚されていません。ですから彼らも同じ光を放っています。 彼らの心は透き通っていて偽りがないので、彼らから目に見える光が発せられているのです。そのような聖いランプの輝きを私たちが放つためには、 彼らと同じような透明さと偽りのない心を持つことが必要です。それは神の御国で混じりけのない黄金となる道です。

一つのものだけを見る目

キリストが私たちの内に入って来られた瞬間に、私たちは聖くされ、神のために聖別された者となります。この聖さは、神殿の器物が聖くされるのと同じ種類の聖化です。即ち、器物は主に仕えるために用いられるので聖いのです。器物そのものには何の徳もありません。器物の材質が変ったわけでもありません。キリスト教もその意味において、おおむね、聖いと言えます。
しかし、私たちが求めている聖さは、主のために取り分けられて完全に聖くなるということです。 私たちを通して、天の父なる神の臨在が 回りに映し出されるような聖さを求めているのです。神の御性質そのものと、神のいのちの豊かさを私たちは求めているのです。

真に聖くなるとは、私たちのうちに聖霊のいのちそのものを生み出すことを意味するので、 私たちは聖霊がどのような方であるのかを確実に知る必要があります。神の御霊は愛であって、宗教ではありません。神はいのちであって、形式ではありません。聖霊は私たちが単に異言で話したり、証しが出来るようにしてくださるだけではありません。御霊は私たちをイエスの臨在の中へと導いてくださるのです。私たちは聖さをその臨在の中で受け取るのです。即ち、イエス・キリストと一つになり、交わりを持つときに聖さを受けとうことが出来るのです。


又、私たちの求める聖さは、律法的な一連の規則でもありません。それはキリストご自身のいのちそのものです。聖霊は私たちのうちに働いて「もっと人を愛したい」という新たな願いを生み出すのではないのです。そうではなく、御霊はキリストご自身が持つ愛そのものを分与してくださるのです。 ただ単にイエスに対する自分の信仰を強くされるのではなく、主の持っておられる信仰を受け取って、 イエスが信じるように実際に信じ始めるのです。
私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神ご自身です。揺り動かされましょう。そして私たちが居心地のよい枝から振り落とされて、大いなる恐れと大いなる喜びをもって、深い礼拝と聖なる恐れをもって、ご自分の意志と目的をもって私たちを召してくださった神というリアルなお方に近づこうではありませんか。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか?」(第一コリント3:16)

神の御霊が私たちの内に住んでおられるのです。ですから、昔からされてきた「人とは何であるのか?」という質問を自分にしてみようではありませんか。私たちは自分が他人にどのように映るのかは知っています。しかし、もし神が本当に私たちのうちにおられるのならば、 天使や悪霊にはどのように見えるのでしょうか? 私たちは霊の世界でどのような者なのでしょうか。私たちの回りの輝きはどんなでしょうか。私たちは目に見えない世界にむかってどのような栄光を輝かせているのでしょう。「見てご覧なさい。気をつけて。神の子が歩いてきますよ!」と彼らは言っているのです。考えてみてください。始めに人間を神のイメージに造られた方、創造者の御霊があなたの中におられるのですよ、、、、まさに今。

聖さとは身体全体が明るいこと

しかしこれには限定があり、条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。あなたは光と闇とに、罪と義とに、自分と神とに兼ね仕えることはできません。あなたの内には光がありますが、闇もまたあります。私たちの世界は闇の世界です。私たちの先祖は闇の子供たちでした。私たちの肉的な思いは今も尚、闇が暗躍する舞台のままになっています。つねに選択をせまられる世界で、私たちは光を選ばねばなりません。成熟した光の子となるためには私たちは決して二心であってはならないとイエスが教えられた理由はここにあります。主は「からだのあかりは、あなたがたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と言われました。

もしあなたが心と思いをもって神にのみ焦点を当てているのならば、あなたのからだには光が満ち、神の栄光が完全にあなたのうちに顕れるのです。しかし、もしあなたが二心であるならば、もしあなたが罪深い、あるいは悪い考えを持っているならば、あなたの光はだんだん暗くなり、遂にはからだ全体が真っ暗になるのです。イエスは続けて「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。

もしあなたが救われたにも拘わらず、神を求めず、或いは神に従わないとしたら、あなたは闇の中にいるのです。「いつか、どうにか、自分はきっと良くなる」というような空しい希望で自分を慰めないでください。はっきりした決意で身を固めてください!もしもあなたの内の光が闇の中にあるならば、その闇はなんと恐ろしいことでしょうか!光の子よ、あなたは闇を憎まねばなりません!暗闇は地獄の実体であり、神のない世界なのです!

しかし、私たちは光に希望をおいているのであって、闇ではありません。あなたの足は義の道を歩んでいるのであり、その道はだんだんに明るく真昼のようになるのです。「もしあなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。(ルカ11:36)」という節は、 聖さが完成した時の姿をはっきり表しています。それは、ちょうどランプが明るく輝くように私たちの身体が栄光で輝いている姿です。なんという素晴らしい希望でしょうか。私たちが神の臨在によって全体が明るく輝き、私たちの内には「何の暗い部分もない」という姿です!

霊的に成熟した神の聖徒には、光と栄光に輝く衣が用意されています。それは山上の変貌の時のイエスの衣のようです。ただ永遠の世界のためだけのものではなく、この世で着る衣です。「曲がった邪悪の世代にあって」も「彼らの間で世の光として輝く」のです。(ピリピ2:14、15)

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)

この言葉は単なる比喩ではないのです! 神の栄光があなたの内に、あなたの回りにあるのです。それは霊的にリアルなことなのです。しかしあなたの中にまだある暗さはどうでしょうか。パウロは続けて言っています。
「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。、、、けれども明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされるものはみな、光だからです。」(エペソ5:11、13、14)

あなたの暗やみを明るみに出してください。それを擁護したり弁解したりせずに正直に告白してください。それを憎んでください。断ち切ってください。暗やみが暗やみの中に留まるかぎり、それはあなたを支配します。しかし光の中に出せば、それは光になります。あなたの密かな罪を大胆に神の恵みの御座に持っていき告白するならば、神はすべての悪からあなたをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)もしまた罪を犯したならば、もう一度悔い改めてください。何度でも、あなたの中の罪の性質が砕かれるまでそうするのです。

昔の探鉱者のように、 あなたのために取り分けられた混じりけのない黄金を守るために、 御国にあるあなたの土地のまわりに杭を打って確保してください。(黙示録3:18)そしてあなたが恵みの御座にじっと座り続けるならば、永遠な何かがあなたの中で輝き始めるのです。それは溶解炉の熱い石炭のようなものです。あなたが全能なる主と共に留まるとき、主の臨在の聖なる火は、あなたが持っている木や草やわらのようなものを燃え尽くしてくださいます。イエスが持っておられた力があなたの内に奥深くに宿るでしょう。あなたの金が精錬され、あなたの衣が光り、あなたの人生が聖くされるので、天使たちも驚嘆して立ちすくむでしょう。(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-07-15 06:05 | アメリカからのメッセージ

イエスの血潮による住まいの大掃除 坂 達也 7月7日

イエスの血潮による住まいの大掃除

坂 達也



科学者であるデービッド・ヴァン・コエバリング氏は、1970年代にレーザー光学を利用した音楽楽器を発明しました。彼は物質には記憶のメカニズムがあることを利用し、シルバー・オキサイド酸化銀のフイルムの上に音を録音し、その音をキーボードから再生音として出させるキーボード楽器を開発しました。 物質には記憶のメカニズムがあることを彼は下記の聖書から引用しています。

「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」(ヨシュア記24:27)

テープレコーダーやコンピューター、或いはカメラで使うメモリー・ステイック、メモリー・カードを見れば分かるように、物質は目の前で起こっている話し声とか映像を記憶することが出来ます。音声だけでなく、すべての光・映像のソースからは光子が放たれていて、それが物質に記録されるからです。
そうであるとすれば、私たちの日常会話とかやっていることは皆、私たちの住まいとか事務所の天井、壁、床、家具等あらゆる備品が見て聞いていることになり、その音声と映像(コエバリング氏はそれに加えて「思い」もと言っています)をちょうどDVDか撮影機で撮った映画のように記憶しています。そしてそれがよいことであればすばらしい祝福となりますが、罪とか悪いことであれば、のろいとなって残り、そこに住む人々に大きな影響を与えるのです。

ここで思い出して下さい。ろばに乗ってオリーブ山のふもとに近づかれたイエスにむかって弟子たちの群が大声で神を賛美しました。それに反対し抗議するパリサイ人に向かって、イエスは答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19:40)

「石は叫ぶ」のです。石がそうであるのなら、あなたの家の床、壁、天井も叫ぶことが出来ないでしょうか。あなたがご自宅でいつも神を賛美していれば、あなたの家全体が神を賛美していることになります。
 又、あなたが悪いことを言い、罪を犯しているなら、それを記憶しているあなたの家ではその呪いがいつかは叫ばれることになりませんか。これは恐ろしいことです。

それでは一体どうすればよいのでしょうか。あなたの家を部屋毎に廻り、床、壁、天井、家具備品の上に記録された一切の悪いこと、罪と呪いの記録をイエスの血潮とイエスの御名によって丁寧にぬぐい去る宣言をすればそれは消されます。これしか方法はありません。これによっても、イエスの血潮がどれ程力のあるものであるか、お分かりいただけると思います。

又、得体の知れない処で作られた土産物、あるいは人からいただいた形見の遺品に至る迄、そのものには生産者とその地の人々が関わる罪とのろいが掛けられ残っている可能性は十分あります。又、遺品の場合はその残した人の良いもの悪いものが記録されていますから、やはりそれも霊的に「きれいにすべき」です。

 ですから皆さんにぜひお勧めします。皆さんは時々家の霊的大掃除をして下さい。又、友人とか家族の人が病院に入院しているような場合は、その病室を訪ね、その部屋全体を小声で結構ですから、イエスの血潮と御名できよめて下さい。そして出来るだけ多く信仰で励ましの言葉、神様のお話をして上げて下さい。教会の人たちと行って賛美をするのも大変よいことでしょう。


ところで話は変わりますが、過去の記憶と言えば、私が最近経験したことをお分ちしたいと思います。しばらく前でしたが、一週間のうちに二、三夜ほど昔の仕事をしている当時の夢を見ました。全く同じ内容の夢ではなく、又取り立てて何かが起こった時を思い出すような夢でもなかったのですが、当時私の事業の末期であった頃の何か重苦しい感じの、どちらかと言えば、とりとめのない夢でした。
三日目の朝でしたか、どうしてそんな昔の夢を続けて見るのかなといぶかしく思ううちに、ハッと気が付いて私は膝まずき、私の事業をしていた時期に私が犯した様々な罪を出来るだけ具体的に思い起こしては、それを改めて悔い改める告白をしました。そして、イエスの血潮でそれら一切の罪をぬぐいさり、赦す宣言をしました。するとその後は、当時のよくない重苦しい夢を見ることはなくなりました。

私は自分の過去に犯した罪とその呪いを取り去る祈りを、思いつく度に時々して来ました。ですから今回私がしたことで特に変わったことをした訳ではなかったのですが、一つだけ新しいことと言えば、私の事業をしていた40年近い期間を一つのひっくるめた期間として、その全体にイエスの血潮の充分なる覆いを掛け、私の心の中できっぱりと整理・清算したことです。

その時期と言うのは、私がアメリカに渡って仕事を始めて約10年後にクリスチャンになり、その後に試練の時期に入ってやがて倒産するに至りました。その事後処理を通して私が神に頼り切るつもりでも全く頼り切れず「人間的に苦しみあがいた」格闘の期間でした。(今はそれを卒業したと言う意味で申し上げている訳では決してありません。)
その当時経験した様々な仕事上の人間関係と仕事の処理の仕方において、自分が犯した様々な罪と自分の至らなさは、既に悔い改め、赦すべき人は赦して来たつもりでいましたので、今では全くと言ってよいほど当時のことは忘れ去っていました。しかし、主は私の中に未だにその頃の罪意識が残っていて、私自身を縛り、完全に解放されてはいないことを気づかせて下さったのであると思います。

過去の悔やむべき思い出は完全に消し去らなければなりません。そのようないやな思い出は、 自分には最早何のトラウマとはなっていないと思っていても、意識下で罪悪感の痕跡が残っているのです。「以前は 自分も悪魔に属していた」と言う私たちの古傷を持ち出してきて私たちの罪悪感を煽り、悪魔の暴力団からは二度と足を洗えないと言う嘘の言い掛かりを付けて脅迫してきます。

これは悪魔の典型的なやり口です。私たちの罪は私たちが考える以上に巾広いもの、そして根の深いものであると思います。
それには、自分の罪は既に完全にイエスの血潮で消え去られていると言う確固たる不動の信仰を持っていなければならないのです。

人間の脳細胞、特に記憶する機能の細胞、いや、あなたの身体全体があなたの過去に起こったこと、見たこと、聞いたことを全部記憶し、それを引き継いで抱え込んでいると言うべきでしょうか。悪魔はそれをよく知っていて、それを盾に私たちを呪いで縛り付け悪魔の言いなりになるように絡み付き離れないのです。
私たちが聖くなければならないと言うのは、すべての過去の記憶も含まれています。

しかし、ご安心下さい。主イエスは私たちの罪とそれを通しての悪魔とのかかわり合いによる呪いの一切の縛りから私たちを助け出して下さるために十字架にかかり、尊い血を流して下さいました。

前に神は時間の流れのない「永遠の今」に生きておられる方であると申し上げたことがあります。神には時間がない、と言うより、 無限に存在するすべての時間がすべて「今」として詰まっているのです。それが証拠に黙示録13:8、9に

「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。」(新共同訳)

と書かれています。上記は英語の欽定訳にはっきり書かれているように「天地創造の時から屠られていた小羊」と言う意味です。つまり天地創造も小羊が屠られる時も、そして小羊の書に名前が記されていることも皆同じ「今の時」に起こっている、あるいは、起こっていたのです。そうであればイエス・キリストが十字架上で流された血は、過去に一回だけ流されたのではなく、どの時点においても常に時を超越した今として永遠に流れていると言うことになります。そうであれば、今もイエスの血潮はリアルに流れており、私たちは常にその血潮を受けることが出来るわけです。

私はこのイエスの血潮のリアルさを最近ひしひしと感じております。イエスは永遠の昔から永遠の未来迄、人間の罪のために十字架につかれ、いのちの血を流されているのですから、私たちはイエスの血潮でいつも覆われていることが出来ます。

それが私たちに約束された、イエスと同じように聖い者として神の子どもになれる私たちのデスティニーです。
あなたの身辺とあなた自身が犯した過去の罪とその呪いをいつもきよくぬぐい去り「断ち切りの祈り」をぜひし続けて下さい。勿論新たな罪を犯さないように、常に聖霊に従って主の御声を聞いて毎日を過ごすことが大切であることは言う迄もありません。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-07-07 16:57 | 坂達也からの今月のメッセージ

「人を裁くこと」からの断食 フランシス・フランジペン 7月6日

「人を裁くこと」からの断食

フランシス・フランジペン



もしあなたが長期間の断食をされたことがあるならば、それが人生を変えるほどの経験であることがお分かりだと思います。断食(fast)には多くの種類があります。ニネベの王は国民と共に食物と水を断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、国を滅ぼすことをやめられました。そしてニネベの人々を断食と祈りが持つ力を世に示す者とされたのでした。(ルカ11:32参照)

断食はリバイバルを呼び起こす強い道具ともなりますが、又それとは逆に、ほとんど何も霊的な意味を持たないただの形式的な宗教的行事へと堕落してしまうこともあります。パリサイ人たちは週に2回断食をしましたが、それは人々に賞賛されるためでした。彼らの断食はプライドの故だったのです。断食の目的は 自分の目指す霊的目標に早く到達するためであり、ですからファーストFast(早い)といわれるのです。

イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちが断食をして飢え渇く目的は、正義が勝利をおさめるためです。それは私たち個人に関すること、また家族、教会、市町村、国に関する事柄において正義が勝利することです。断食(fast)はその目標により早く(faster)私たちを到達させるのです。

しかし、断食が自虐的な罰にならないように注意せねばなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではありません。あなたの肉体に栄養を与える代わりにあなたの魂を養うのです。主にもっと近づくのです。神の御言葉を読み、聖句を暗唱し、自分のためや愛する者、又教会のために祈るのです。

イザヤ58章では、断食は神の愛を人々に示すものであるとも言っています。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(6、7節)」と主は言っておられます。

ですから(食を断って)断食をするときは、困っている人や苦しんでいる人を助ける方法も考えてください。断った分の食事のためのお金を困窮している人たちを助ける援助団体に寄付することもいいかもしれません。

とりなし手の断食

人生に最も顕著な変化をもたらす断食は、私がとりなし手たちに勧めているものかもしれません。私は彼らに、一月間の「裁くことから断食」を要請するのです。それを聞いたときの彼らの反応には実に興味深いものがあります。「じゃ、何を考えていたらいいんですか?」と彼らは訊くのです。 私が言いたいことは、皆さんの思いが 人を裁くことで決着するのではなく、むしろ憐れみをもってその人のために祈る結末となるようにと申し上げているのです。

すぐに他人を裁き批判するという性質は教会におかれた呪いであり、私たち一人ひとりに死をもたらします。「呪い? 死? 」と思われるかもしれませんが、そうなのです。私たちが裁く度に、 私たちは同時に神から裁かれているのです。他人を罪に定める度に、私たち自身が罪に定められているのです。(マタイ7参照) 

多くのクリスチャンは祈り、霊的戦いをし、サタンを叱責します。しかし往々にして彼らが戦っているのは悪魔からのものではないのです。それは当然受けるべき報いなのです。私たちの人生は、自分が人々に対応する態度によって計り返されるのです。常に人々を裁いているので、自分も常に裁かれる立場に立つ結果となっているのです。(マタイ7:2参照)

「裁くことから断食する 」と言っても、それは物事を判断し、見分け、識別することをやめることではありません。しかしながら、人を裁くことは識別とは違います。人のあら探しをするのは御霊の賜物ではありません。私たちが何か間違いを見るときに、ただ批判的になるのではなく、その状況に対する憐れみを祈ることを学ばねばなりません。確かに間違いはキチンと見るのですが、その時に自分の怒りを抑え、キリストの愛の力によってその間違いを贖うことを求めるのです。

イエスは「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)」と言われました。私たちが裁いたり罪定めをしたい衝動に打ち勝って、あわれみを祈るとき、驚くべきことが起こります。 あわれみの新たな扉が私たちの前に開くのです。お分かりでしょうか。日ごと一刻一刻、私たちの前には二つの扉が置かれています。一つはあわれみの大波を私たちの人生にもたらす扉であり、もう一つは困難と障碍だらけの人生への扉です。あわれみの扉にどうやって入るのでしょうか? 神のあわれみの祝福を受ける人生のかぎは、私たちがまわりの人々にあわれみを施すことです。(マタイ18参照)

私は霊的成長がもう何年も止まっているクリスチャンを知っています。彼らは教会に出席し、十分の一献金を捧げているのですが、人を批判的に見て裁く態度を常に持っているのです。彼らは他人を批判する言葉に事欠きません。それによって彼らは自らを神の裁きのもとに置いています。他人に対してあわれみを示さないので、神からのあわれみを受けることが彼らにはできないのです。

ヤコブは 「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみはさばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)と書きました。これは厳粛な言葉です。あわれみを示さない者への裁きはあわれみがいただけないのです。

「自分はクリスチャンなのにイエスが約束してくださった豊かな人生をどうして経験できないのだろうか?」とあなたは思っていますか?(ヨハネ10参照) 多分それはあなたがあまりにも批判的で人を裁いているからです。でもよい知らせがあります。あわれみは裁きに打ち勝つのです。あなたが自分の人生には間違っているところがあり、自分は罪人であるとわかっていても、あわれみ深くなろうと努力するならば、神はあなたが他人に対応するようにあなたに対応してくださると約束されています。あなたのこころの中であわれみを必要としている部分は、神があわれみ深くしてくださる人生の中にいやしを見つけることでしょう。

愛する皆さん、これからのあなたの人生に変化をもたらすことが出来るのは何であるか、熟考してみてください。多分それはあわれみによる断食をすることではないでしょうか。そうです、30日間、あなたが裁くことを断つならば、どのような変化が起こるかを見てみてください。(終り)

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# by walkwithgod | 2010-07-06 16:56 | アメリカからのメッセージ

眠りの霊の ヴィジョン  キャシー・ウオルターズ 6月29日

眠りの霊のヴィジョン

キャシー・ウオルターズ



最近のことですが、ある朝私が目を覚ます直前に、若くて美しい女性がベッドに寝ている夢(又はヴィジョン)を見ました。彼女はとても気持ちよさそうにしていて、美しく穏やかでした。 彼女は本当に「白雪姫」のようでした。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1:18)

すると、ハンサムな王子が彼女に近づき接吻するのを私は見ました。彼が手を伸ばすと、彼女は目を開けて微笑みました。そして起き上がり王子と共に去っていきました。 それから私は同じヴィジョンを何度も繰り返し見せられたのです。
夢やヴィジョンの中の「若い女性」は、ほとんどの場合教会を表しています。しかし私は何故同じ場面が何度も繰り返されたのか不思議に思いました。そしてそれが多くの地域、場所にある教会のことだということに私は気がついたのでした。

「眠りの霊、まどろみの霊」は人を欺きます。というのは、眠りの霊が支配する教会や地域では人々が何もしていない、ということではないからです。人々は神のために忙しく立ち働いているかもしれないのですが、眠りの霊のために自分たちの真のアイデンティティーや神から受け継ぐべき遺産に対して眠ってしまっているのです。 御国のために非常に忙しく働いている多くの人々に私は今まで会いましたが、彼らは自分たちがどのような立場にある者か、光なる主の聖徒として受け継ぐべき物が何であるかに対して全く無知なのです。

眠りの霊は悪霊の中でも最も油断のならない、狡猾なものの一つです。というのは、眠りの霊はあたかも自分は神であるかのように装うからです。それによって人々は神に仕え神のために働かねばならないという「良心の呵責」をいつも感じさせられます。ある人たちは休みをとって楽しい時をすごすことさえも罪に感じるのです。しかし主は 「主を喜び楽しむ」ようにと私たちを召してくださったのです。マタイ11:30に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とありますが、これはギリシャ語では「わたしのくびきはやさしくてわたしの荷は軽くて喜ばしい。それは厳しくもなく重くもない。」という意味です。宗教の霊はすべてのものを「重苦しく」してしまいます。

親しい友人が最近こう書いてきました。「私はもうすっかり疲れくたびれ果てました。一生懸命努力したり、色々なことを心配したことが主な原因だと思います。『これをしなくてはならない、、何かをしなくては、、』といつも感じるのです。本当にいやになります!」この人は私たちの真の召しが何であるかをよく知っている人なのですが、時として私たちは「頑張って一生懸命働かねばならない」という泥沼の中にまたひきずりこまれてしまうのです。

イエスは あなたを働きのために招聘したのではない

イエスはあなたに100%の資格を与えてくださいました。あなたが何かをして勝ち得る(取得する)ものはもう何もありません。救いは初めから終りまですべてイエスによるのです。主があなたを救い、あなたを召し、あなたを贖い、 御霊をくださいました。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることの出来る方」はイエスです。(ユダ24)

「新しい心と新しい霊をあなた方の内に授ける(エゼキエル36:26)」というのが新しい契約の約束です。あなたは主の勝利のトロフィーであり、作品であり、創造なのです。生ける神の御霊があなたの内に住んでおられるのです。これ以上あなたは救われることが出来るでしょうか?

目を覚ましてください。主が呼ぶ声に目を覚まし、主にあるあなたの召しが何であるかに目覚めてください。王の王、主の主、宇宙の創造者、あなたの天の父(アバ)であるお方の子供とされることは何と素晴らしいことでしょうか。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。(雅歌2:2)」と主は言われています。主は「わたしのために働くように」と言われたのではありません。
 主はあなたを滅茶苦茶に愛しておられるのであって、あなたが主のために働くことを望んではおられません。イエスはあなたをご自分のために働くようにとあなたを招聘されたのではありません。主があなたを喜ばれるように、あなたが主を喜ぶようにと召してくださったのです。

私たちの受け継ぐものとは

あなたは プリンセスになって舞踏会に行きますか? それとも台所にとどまり召し使いのままでいますか? イエスも「わたしのするわざはわたしのわざではなく、わたしを遣わされた方のわざです。わたしの話す言葉はわたしの言葉ではなく、わたしを遣わされた方の言葉です。」と言われました。私たちもそれと同じなのです。私たちはイエスのために働くために召されたのではないのです。どうかわざという王座から降り、辞任し、退位してください。そして主の油をあなたの内に流れさせてください。それはがんばることではなく働くことでもありません。主の御霊に委ねるのです。主ご自身があなたの内に生きてくださるように主にあなた自身を明け渡し、主に生きていただくのです。

あなたの受け継ぐべき物に目覚めてください。 イエスはあなたが主と同じ遺産を受け取れるようにと十字架につき復活してくださったのです。御霊の領域、超自然の領域、天使、天国を訪問すること等はあなたの人生の中で普通の出来事となるべきです。あなたの遺産はこれです:主と踊り、主の内に宿り、主の内に歩むことです。

私は人々に 「Snuggle, don’t struggle. もがかないで主に寄りそいなさい。 Nestle, don’t wrestle じたばたしないで主に休息しなさい」という言葉を好んで申し上げます。すべての「一生懸命すること」があなたを眠らせ続け、愛する方にある喜びを味わえないようにします。そして「努力し頑張り続けるベッド」の中であなたはまどろみ続けるのです。しかし、あなたに出来ることはただ主に委ねて主を楽しむことだけです。主はあなたが主を楽しむようにと召してくださったのです。主を楽しむとき、初めてあなたは主に仕えることができ、何かお役に立つことができます。

よい知らせに目を覚ませ

申し上げにくいことですが、あなたの「宗教」に心から興味を持つ人など誰もいないのです。でも、もしあなたが何か良いものを持っているならば彼らは興味を示すかもしれません。神の慈しみはあなたの人生の中で人々に見られるべきものです。すべては主なのです! この良い知らせ、福音、に目を覚ましてください。宗教は眠りをもたらします。それは人々を肉的な宗教の領域でいつも忙しくさせます。サタンはあなたが油注ぎの外にいる限り、あなたがどれだけ働いても一向にかまわないのです。御国のために役に立つのは主の油注ぎだけだからです。

ガラテヤ3:1「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」
同じ質問をあなたにさせてください。あなたは新しい人生をどのように始めましたか? 神を喜ばせようとしてがむしゃらに働いたことによるのですか? それとも あなたへの神のメッセージに応答したからですか? いつまでもこのような愚かさを続けるのですか? 神が始められたことを自分の努力で完成できると思うのは愚かな人だけです。新しい人生を始めるだけの賢さも強さも自分にはなかったと思うのならば、なぜ自分で完成できると考えるのですか?

目を覚ましなさい! 起きなさい! 自分の遺産とキリストにあって自分がどういう者であるかということに立ち上がりなさい。

自分のわざをやめて主の安息に入りなさい
ヘブル4章には、神の民のためにまだ安息があると書かれています 。しかしその意味するところは、自分のわざを終えて 主の安息に入ることです。眠りの霊は人々を真の遺産に対して盲目なままにさせます 。主はあなたとダンスをするのを待っておられるのです。イエスは、あなたが起き上がって主の御臨在の中に入り主を楽しむようにと召しておられます。

確かにしなければならないことは沢山あります。でもそれをするのはあなたではなく、あなたを通して働かれる主なのです。そして主がすべての栄光をお受けになります。なぜならば主がすべてのわざをされるからです。アーメン(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-06-29 15:36 | アメリカからのメッセージ