車輪の中の車輪になる ウエイド・テイラー 4月28日

車輪の中の車輪になる

ウエイド・テイラー




イエスが最初に地上に来られた時に、ご自分一人のからだを通してへりくだりをもってなされたすべての業を、今度は集合体である「キリストのからだ」を通して再びされようと主はしておられます。これは再臨の時に備えるためです。

この「集合体であるキリストのからだ」の一部とされる人たちは、 顕現の栄光をもって働けるようにと現在「整えられつつ」あります。それは彼らが「生きたまま殉教している者」、即ち 人々が彼らを見るときにそこにただイエスの姿しか見えない者とされるということです。イエスがこれらの「勝利者(聖徒)」のところに来られて栄光を受けられる時が迫ってきています。

「 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 その日に、主イエスは来られて、ご自の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。」(第二テサロ二ケ1:7−10)


この箇所は、 この目的のために主が整えられた人々を通して顕される「栄光」について書かれています。


「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。 」 エゼキエル1:4


これは集合体としてのキリストのからだが終末の栄光の中で働いている姿であり、その働きによって神の支配される千年王国が地上に確立されるのです。


 「それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。」
エゼキエル1:16

  私たちは今「六日目」が終ろうとしている時に生きています。それはイエスの終末の目的に用いられる「勝利者たち」を整えるために、主が顕在の栄光を顕し始められるときなのです。それが「車輪の中にある車輪」であり、私たちの命が主の命と合体し、主の命を表現するものとなり、国々やすべての人類に大きな影響を及ぼす力となるのです。

「わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。」エゼキエル1:15

これは私たちの生き方がイエスに「完全に服従し」、聖徒たちのうちにおいて栄光を受けられるイエスと一つ(地の上の一つの車輪)となって 「動いている」ことを表現しています。ですから車輪と神の御心とは同義であると考えられ、私たちが栄光と調和と従順のうちに主と共に動いていることを表しています。

この栄光は動いている栄光であって、その中で私たちは 栄光溢れる主の顕現の臨在に気づいて溢れるのであり、またその中で私たちはこのような高いレベルの油注ぎと、それによって可能ならしめる終末の力を受けた時にどのように働けばよいのかを学ぶのです。


「またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
:9 翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。」
エゼキエル1:5−6、9

「彼らはおのおの四つの顔を持ち」とは、主との関係における私たちの四つのアイデンティティーを表しています。即ち、勝利者、花嫁、息子、男の子 man-child (黙示録12:5)の四つです。私たち一人ひとりはこの「車輪」の中の違う部分であり、それぞれ違う働きをしています。「四つともよく似ている(16節)」とは、私たちの命が主に全く服従している故に「主の命」を表すものとされていて、集合体としてのイエスのからだとして機能していることを表しています。

「(おのおの)四つの翼を持っていた」とは、私たちはそれぞれが 御霊の領域で動ける能力を自分のうちに培われていたということです。

「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ 40:31

「彼らが進むときには向きを変えなかった。」この従順なる服従は私たち(車輪)のうちからはじまり、そして、外側にむかって私たち自身(車輪の中の車輪)から広がっていき、ついには地上全体を満たすのです。

 「そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。」エゼ キエル 1:14

これは心を一つにした完全な服従と従順を表すと共に、「霊による瞬間移動」のことを言っています。終末においてこれは次第に頻繁に起こるようになります。

 「生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。」エゼキエル 1:13


  私たちは栄光の中で 洗い清められる(イザヤ6:5)だけではなく、「栄光から栄光へと」変えられつつあるのです。私たちの姿が「燃える炭」のようであるというのは、私たちが非常に濃い油注ぎの中で神の七つの御霊を知り、それを通して機能することによって、他の者たちが見えない事や理解できない事を見て理解するという鮮明な霊的感知力と目的を持っている状態を表しています。

 「そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。」詩篇 132:17

  主は地球上にいくつかの特定の場所を選び、そこを「ホットスポット/熱い場所」として特別に確立されつつあります。これらの場所においては主の栄光が顕現され、強烈な聖霊の火による御業が起こるのです。 終末の主の目的に参加するように整えられている者たちは、これらの「特別に選ばれた場所」を認識することができ、そこに集まってきます。そして強烈な油注ぎと力をもって世界へと遣わされて行きます。

 「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、」ダニエル 7:9

「火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。」  詩編97:3−4


これは「事を成し遂げる言葉」のことを言っており、私たちが顕現の栄光の中におられる主と共に働き、聖霊の火によって「鉄の杖」で統治することです。そのような働きをするためには高いレベルの霊的耳と従順が要求されます。

「それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。」   エゼキエル1:20-21


「車輪」は栄光のうちに来られる主(かしら)であり、車輪の中にある車輪—主の命の中にある私たちの命ーを通して主はご自身を顕現されるのです。 主が終末に来られる時、多くのものが救われ、艱難時における裁きがなされ、千年王国が確立されるという三つの御計画を、主は私たちを通して達成されるのです。その結果「すべての目が彼を見る(黙示録1:7)」ようになります。

 「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。 」 2テサロニケ 1:10


「車輪の中にある車輪」とは私たちの命の中に神が介入され、主が主権をもって来られることを表しています。主は私たちを通して働かれ、終末における主の目的を達成されるのです。これは私たちが持っている信仰とか能力を完全に超越するものです。これは非常に高度な召命なので、他の者たちに要求されるものを越えた完全な服従と清さを持つことが必要です。

 「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」
イザヤ60:1−3


これは、ある一つの神の介入(主の再臨の一環としての) を通して私たちが主の顕現の栄光へと引き上げられ、神の目的のためにその権威をもって働く能力が与えられることを語っています。私たちは今、終わりの時、即ち最後の準備の時に生きています。主の召しに応答するものは完全に一致した高いレベルの集合体へと導かれ全く一つとなるので(イエスとの一致、互いとの一致)、主の命とミニストリーそのものを表すものとされます。

今までに経験したことのない最大の主の訪れヴィジテイションは、二重の目的を持って起こります。第一の目的は人々を終末の主との集合的な関係へと召し出すことです。第二の目的は国々を裁くことであり、それはこの「車輪の中の車輪」という集合体の働きによって行われます。


現在、主は「 先駆けとなる者たち」を主の臨在の中へと引き上げ始められています。彼らはこれから来る時代の「味見」を経験し始めています。

 「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、」ヘブル書 6:5

先駆者として主の召しに正しく応じるならば、私たちは力をもって働くことが出来るようにされ、御国の権威が事を達成していく(前もって味見する)味を味わうことができるのです。


 「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」  黙示録2:26-27

これはこの「車輪の中の車輪」が主の顕在の栄光の中で働き、地上で神の千年王国を確立することを言っています。

 「生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。」   エゼキエル1:19

「太陽(sun=son御子)を着ている」集合体の花嫁を主は今整えられています。その花嫁は、主から直接受ける啓示により上に「挙げられて」、千年王国を前に人類に来ようとしているヴィジテイションと裁きに参加するのです。

 「 また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。」
黙示録12:1−2

  彼女が「みごもっていて産みの苦しみ」をしていたというのは、とりなしの祈りのことです。マリヤがイエスによる私たちの救いを産み出すためにみごもったと同じように、今日もこれからの時代の進展 transition(終末における神の介入)を産み出すために「みごもらされた」とりなし手たちがいるのです。マリヤがそうであったように私たちも「どのようにして」とか「どうして」とかを理解する必要はありません。ただ「私たちのからだを生きた供え物としてささげて」従えばよいのです。

私たちは一晩祈っただけではこのようにはなりません。高いレベルのとりなしへと導かれる過程があるのです。私たちがするべきことは自分をささげ、私たちの中で出産が生み出されていくのを見ていればいいのです。この出産による成果は経験を積むにしたがって増し加わっていきます。

 「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」  黙示録12:5


  聖書には「男の子 man-child」と「勝利者たち overcomers 」がどちらも「鉄の杖」で国々を治めると書かれています。両者は同一のものを指しており、それはエゼキエルによって「車輪の中に車輪があり、四方に向かって動いた」と言われているものです。

  この「四つの側面 」 は調和と一致をもって働きます。 私は「勝利者」としての資格が認承されます。「花嫁」として完全に主に服従しています。「息子」として主の目的を果たすために主と共に働く関係に入ります。「男の子」として与えられた権威をもって働きます。キリストのからだのなかには性別はないので、これはすべての者を表す言葉です。

主が力をもって臨まれる日に「(マリヤのように)心から喜んで従う」人たちの上に主の御心は注がれています。彼らは「とりなし手(集合体としてのマリヤ)」として地上での 主の目的を産み出す人たちです。主は常に人間を通して働かれてご自分の目的を達成されるのです。

私たちは実際に自分の体験として 神の働きによって次第に 勝利者としてこの「車輪の中の車輪」へと挙げられるように整えられる過程を経なければなりません。
その時に初めて主はこのように言われるでしょう。

 「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」マタイ 25:23  (終わり)


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by walkwithgod | 2010-04-28 07:51 | アメリカからのメッセージ
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