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デスティニーを選び取る ジョアン・マクファター 6月1日

デスティニーを選び取る

ジョアン・マクファター



「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』」エレミヤ1:4、5

「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」詩編139:16

エレミヤとダビデは、彼らが母の胎内に入る前に神からの召命を受けていましたが、 すべて生まれてくる人間は、男も女も、彼らと全く同じなのです。しかし神は人間に自由意志を与えられることによって、その召しを実際に受けとって生きるかどうかという選択を私たち各自に委ねられたのです。イエスも次のように言っておられます。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」マタイ22:14

私たちの選択は、自分が満ち満ちた主の栄光がとどまる器となるかどうかという決断によってなされます。私たちが主の栄光を持ち運ぶようにまだ調えられていないときに、主はそのような栄光を私たちの上に注がれる事はありません。そんなことをしたら私たちはそれによって滅びることになるからです。デスティニーは私たちすべてを招いていますが、その招きがどういう結果になるかは、私たちの自由意志の使い方によって決まります。

私たちの心が創造主の声に対して絶えず「私はあなたを選びとります!すべてのものにまさり私はあなたを選びとります!」と応答していくならば、私たちは自分のデスティ二—の道をつき進んで行っているのです。

デスティニーは目的地そのものではなく、そこに行き着くまでの旅である

主が私たちの始めであり、又 私たちのデスティニーです。私たちはこの世が始まる前から主の中にいました。そして又主の中に住まうために帰っていくのです。私たちは今すでに主の中にいるのです。それは、私たちが主の流された血潮の赦しの恵みを信じ、それを受け取っているならば、です。

主の書物の中に書かれた自分のためにあらかじめ定められた日々をそのように生きて行く(そのコースを走る)ことが私たちの旅です。それは一日ずつ忠実に生きて行くと言うレースであり、何よりも主を選びとって行くという決断を一つずつ続けるレースです。毎日の生活の中で出会うすべての分岐点で主を選びとって走り、意識的に「主を選びとる」という決断をしていくことによって、私たちは デスティニーの真ん中にいる事ができるのです。何故ならデスティニーとは主のうちにだけ見出すことができるものだからです。

「神はひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」使徒17:26−28

私たちの西洋的考え方では、 自分が目指しているある目的や仕事、或いは地位に到達することがデスティニーを達成することだと考えます。それは自分が作り出した自分の希望の型であり、例えば歌手とか牧師、或いは銀行家になりたいとかいうものです。でも神が考えておられたのはそんなことではないように思います。自分でデスティニーだと思っていることに到達する望みが、毎年遠のいていくように思える人が多いのは、その所為かもしれません。私たちは一つの型(体制・環境)を自分のために作って、その中で自分を機能させようとします。まず型があり次に機能が来るという考え方は、私たちの文化に大きな影響を与えたギリシャ的思考の結果です。

私たちの真のデスティニーは、主が私たちのために造られた日々を「実際に日々生きる」ということの中に秘められているのであって、自分の肩書きとか職業のためにではないのです。それは「自分は預言者である」から預言をするということではなく、主の御声を聞き、 御父の心で愛をもってそれを預言する(人に伝える)ことを毎日学ぶ、その日々のプロセスそのものがデステイニーです。預言者としてそのように機能するとき、私たちは真に自分のデスティニーを見出すのであり、それは即ち主に似た者となるということです。

それはどのような仕事やミニストリーについていても同じことが言えます。主の書物には、私たちそれぞれが日々違う人生を生きるように書かれています。しかし、その中で私たちがどのように生きればよいかを学んで行くことが、自分のデスティニーを日々歩むことであり、それはすべての人にとって同じプロセスなのです。即ち、それは主のようになる事であり、主と一つとなるというプロセスです。

デスティニーは終りに達することではなく、そこに至るまでの「旅路」であり、主ご自身が主の書物に書かれた日々を私たちが忠実に生きていくことです。一日一日を主の中で生きるという人生こそが私たちの真のデスティニーであり、その中で私たちはもっと主と似るものとされていくのです。それが行われる型、つまり先生とか伝道者、あるいはパン屋とかいうことは、毎日のプロセスに較べれば二義的なことです。もしかして私たちは肩書きや名声を手に入れることに焦点を当ててしまっていて、この「旅路」の喜びを失っているのではないでしょうか。私たちが今日まで生きてきた日々、その中でしたすべての間違い、すべての失敗、すべての成功から私たちのデスティニーはなっているのです。


デスティニーは動詞であり、デスティニーは一人のお方である


私たちが「デスティニーは名詞である」と考えるのが 間違いのもとかもしれません。実は神にあってデスティニーは名詞であると同じくらいに動詞であるのです。 「それは一人のお方である」と言ったほうが或いはもっと正確かもしれません。即ち、それはイエス・キリストというお方と一つになるというプロセスです。何の仕事をしているかに拘わらず、このプロセスは全く同じです。自分の召命に応答しその中で成長して行くプロセスが、私たちの本当のデスティニーなのです。それは私たちすべての者にとって同じです。

ですから私たちは、人生の中を、良いこと、悪いこと、醜いこと、血みどろの戦いや栄光などすべてを通り抜けていくときに、「小さな始まりをさげすんではいけない」とか 「それをこの上もない喜びと思いなさい」と励まされているのです。気づいていてもいなくても、あなたは今デスティニーのただ中にいます。
人生の一日一日の集計が主にあって私たちがどのような者になるかを決めるのです。舞台裏で人目につかずに黙々と働いた人々の日々の重要性が、人々の前で目立って活躍した人たちの日々に比べて決して劣るとは言えないのです。

すべての事がデスティニーの成就のために相働いているということを知って、私はとても励まされます。失望や心痛、裏切られた時に私たちが何を選択するかということが、神との一致、愛 の場所へと私たちを連れて行くのです。

私たちは「自分はなんてかわいそうなんだろう」と思うことを選択することもできますし、自分の置かれた場所や、いつまでもそこに置かれていることに対して不平を言ったり、運の悪さ(実際にはそれが悪い方向に行くのを阻止してくれたのかもしれないのですが)を嘆いたりすることもできます。でももう一方の選択は、主を見つめて「私はあなたを選びとります!どんなに悪く見えようと、どんなに長くかかろうと、自分や他のものではなく私はあなたを選びとります!」と言うことです。

それは又、私たちがどのように自分の昇進、恩顧、繁栄を取り扱うかということでもあります。それらを得たというのが大切なのではなく、 その地位であなたがどのように人々を統率し治めるかということが重要なのです。自分のためにだけその地位を用いるのでしょか、それとも人々に尽くすために用いるのでしょうか?私たちは自分が受けた恩顧を、人々が彼らの召命の中で強められ引き上げられる(自分より上にさえも)ために用いるでしょうか?私たちに与えられたすべての特権の中にあっても、私たちの内からは常に「主よ、私はあなたを選びとります!あなたは私の受ける分、私のデスティニーです!」という叫びが起こっているでしょうか?
雅歌の中でそれが巧く表されています。

「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」雅歌8:6−7


主こそ デスティニー

私たちがこの世を去るときの質問とは次のようなものでしょう。「私たちは主に似ているでしょうか?」「愛することを学んだだろうか?」「日々自分に死んで、私が生きるのではなく私の中のキリストが生きてくださったか?」
私たちの真のデスティニーは、召命が何であろうと「主の中」であり、「主のようになること」です。どのような仕事や召命であっても、そのことにおいて私たちは主の御前で同じレベルに置かれているのです。私たちはキリストの花嫁として花婿と同じ性質を持つべきであり、主が生きられたように人生を生きるべきです。主に似る者となり、主のように行動し、主のように応答し、主の内に一つとなることこそ私たちのデスティニーであり、 型とは関係ありません。主が私たちのデスティニーです!

「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」エペソ1:10−11

「 ついに時が満ちる時」に近づいている今、この理解をもって働く人たちが集められています。私たちは主が愛されるように愛す者にならねばなりません。それはあたかも愛そのものが歩いているかのようになり、自分の命を捨てる用意が出来ていて、自分より他人を先にするということです。それは今という時の私たちのデスティニーです。私たちの人生がどのような形をとっていようとも、目的は私たちが主のようになり主と一つとなることであり、無私の愛で働くことなのです。このような高レベルの成熟、自分に死ぬ事が主の臨在をもたらします。(終わり)

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by WALKWITHGOD | 2010-06-01 14:55 | アメリカからのメッセージ
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