主は実を探しておられる マット・ソーガー 8月30日

主は実を探しておられる

マット・ソーガー
 

イエスは神の民の人生、生活の中の実を探しておられます。遠くから良く見えるだけでは十分ではありません。主は私たちの傍近くに来て、実を探されるのです。

マルコ11:13−14「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」

物事は遠くから見るとすばらしいように見えることがあります。いちじくの木は遠くからは立派に見えました。葉が茂っていました。しかしイエスが近づいて見ると、実が一つもなっていないのがわかったのです。

ここで、御霊の賜物と御霊の実との比較を少ししてみたいと思います。私たちの人生において神の賜物の働きは遠くからは素晴らしく見えるかもしれません。神の賜物は取り去られることはありません。 賜物を受けたあなたはミニストリーを正しく始めることができるでしょう。あなたは神とよい関係にあったので 、御霊の賜物を用い始めることができました。しかし出発が正しいだけではいけません。終りも正しくなければなりません。初めは神とのしっかりした関係の中で出発しても、だんだん神が与えて下さった賜物に乗じて、心の中で神から離れてしまうことが起こりうるのです。
遠くからでもはっきりわかるほどの力強い賜物を持つ事は可能です。しかし、その木にどのような実がなっているのかは、近づかねばわかりません。

季節はずれでも

私たちの本当の実は、自分に最も親しい人たちとの関係を通して明かにされます。 人を本当によく知るようになったときに始めて、その人がどのような実を持っているかを見ることができます。イエスは私たちが賜物を顕すだけの、葉だけ茂った木のようになることを望んではおられません。主は実を見つけたいのです。 主の私たちのためのデスティニーは、私たちが多くの実をみのらす木になることです。

イエスはこのことを大変重要だと思われたので、実のなる季節ではなかったにも拘わらず、いちじくの木に実がないことを責められました。実際のところ、どのような季節であっても、私たちの置かれた状況がどのようであっても、それが いい日であっても大変な日であっても、イエスは私たちに実を結ぶことを望んでおられるのです。常に良い実をみのらせるのは簡単ではないでしょう。それには自分の肉の望むところに死に、自己中心に死ぬことが必要です。しかし、神は実のなる季節でも季節はずれでも、私たちにその用意ができていることを望まれているのです。

第二テモテ4:2−5「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために呼び集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分のつとめを十分に果たしなさい。」

神は実のなる教会を必ずつくられる

ヨエルは2:22−24で預言しています。「野の獣たちよ。恐れるな。荒野の牧草はもえ出る。木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主はあなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。」

神はこれからも御民のうちに働かれ、荒野が緑の牧場になるようにされます。乾ききって死んだような場所を再びよみがえらせます。木は実をみのらせ、ぶどうも豊かにみのるようにされます。神はご自分の民に力を与えられるので、私たちは神の望まれるような実をみのらせる者となります。神は御民を御霊にあって強くされるのです。

打ち場は成熟と収穫で満ちる

神は御民の上に後の雨を激しく降らせるので、今までに蒔かれていたすべての種は萌え出て豊かにみのり、収穫することができるようになります。私たちの内に蒔かれたすべての神の言葉は、芽を出し成熟します。即ち、神は御民を成長させられるのです。神は神のからだである教会を大人に成熟されるのです。

あなたが成熟したことを示すしるしの一つは、以前は腹が立ったことが最早気にならなくなるということです。あなたはあまり腹を立てなくなるでしょう。また、自分の肉によって動かされること(肉の反応)が少なくなり、もっと御霊によって導かれるようになるでしょう。霊的成熟のもう一つのしるしは、誘惑に打ち勝ち、神を喜ばせるような歩き方、生き方を学ぶようになることです。霊的成熟はあなたの考え、態度、行動に映し出され、それは特にあなたの最も親しい人との間でそうなるでしょう。

私たちは今、本当に神の臨在と真実の光の中で自分を吟味するべきです。私たちに押し寄せる肉の罪を深く悔い改め、ふさわしくない態度や立腹を後にして、私たちの人生を取り扱ってくださる神の御手に完全に服従するべき時が今来ています。

打ち場は穀物で満ちあふれるでしょう。それは成熟した収穫のことを指しています。それは人々の魂の収穫だけではなく、あなたの中に育まれている神の言葉のみのりの収穫をも指しているのです。あなたは成熟した神の息子、娘になるということです。(人生という)打ち場に今までに置かれていた私たちの人生の中のすべての領域が、成熟と実りという収穫を生み出すでしょう。

満ちあふれて生きるとは

石がめは新しいぶどう酒と油であふれるでしょう。神は御民を、成熟と収穫という場所から、次に「溢れる」overflowと呼ばれる場所へと導かれます。私たちの人生に神の臨在と油注ぎがあふれ、その中で私たちは生きることができるようになるのです。新しいシーズンというだけではありません。それは新しい次元(dimension)に入ることです。神の御民たちは大いなる神の臨在と力を持ち運ぶので、私たちの人生からは神の臨在が溢れだし、それは私たちの回りの環境をも変えていくのです。この溢れるような新たな油注ぎは私たちを変革させるばかりでなく、私たちの回りの世界に深い影響を与えていきます。

神は「丁度足りるだけ」という神ではありません。神は常に「有り余る」神なのです。神はただあなたに「丁度足りるだけ」の油注ぎを与えたいとは思っておられません。神はご自分の臨在と力があなたからあなたの回りの世界に溢れ出て届くほどに、ご自分をあなたに与えたいと思っておられるのです。

一致の祈り

父よ、私は今日あなたの御前にへりくだります。私の人生の中にあなたの祭壇を築きます。自分をあなたに捧げます。罪と妥協のすべての領域を悔い改めます。私があなたに不快な思いを与えたすべての罪をお赦しください。私を清め、あなたの御目に義なるものとしてください。聖霊よ、あなたが喜んでくださるような生き方ができるように助けてください。私の人生にあなたの実がなるようにしてください。私のなすすべてにおいて成熟するように導いてください。新しい油注ぎをいただき、あなたの御霊でいつも溢れて生きられるような力を与えてください。あなたの力で私を満たし溢れさせてください。私がするすべての偽善と 罪を悔い改めます。私の霊、魂、身体を癒してください。私の人生の中にあなたの「常にやどる臨在」を回復させてください。父よ、私たちの国を癒してください。アメリカをあなたに再び立ち帰らせてください。イエスの御名において祈ります。アーメン(終わり)


トップへ戻る
[PR]
by walkwithgod | 2010-08-30 12:42 | アメリカからのメッセージ
<< 神の臨在 坂 達也 2... 「22:22」という鍵 ボブ... >>