自己憐憫(2)  チャック・ピヤース  9月20日

自己憐憫(2)

チャック・ピヤース


自己憐憫は自分の権利を主張する!

自己憐憫は自分の権利を主張します!私たちの自我が支配してしまうとき、 自分のやり方と権利を要求してそれによって何かを確保しようとします! 自分に与えられた分を感謝して受けることが出来ないと、自分が受けるべきでない分まで受けるべきであるかのように私たちは感じてしまうのです。「権利がある(entitle))とは、即ち「タイトルを付ける」ということです。タイトルとは「それは自分の所有である」という証拠ですから、「 entitle」とは「所有する権利を主張する」という意味になります。私たちの肉の性質に同調する悪魔によって、多くの家族やミニストリーが分裂させられてきました。権利の主張は自己憐憫と共に働いて「それは私のものであるはずだ」と要求するのです。

ヒューストンに私たちは親しい友人がおります。彼女は非常に多くの賜物を持っている人ですが、また、自分自身を深く知るために力を尽くす人です。彼女は自分自身を知ろうと願うばかりではなく、どうして神は自分を造られ、神が一見黙しておられるときに自分が神に対して不満を持つのは何故なのかを知りたいと思っています。彼女は自分の反射的な行動(リアクト)は何故起こるのか、そして神が彼女にどのようにリアクトするのかをキチンと理解することが、彼女が求める人生の探求のすべてなのです。彼女は「自分には権利がある」と感じることに関しての理解を求めているとき、次のような手紙をくれました。

最近、私は自分が「権利主張」という言葉をよく言っているのに気がつきました。(それは勿論自分に関することではなく、他の人に関してですが..)私はこの問題で悩んでいる人たちのことを心配していたのです。ですが勿論、主は私自身にもその問題があることを示してくださいました。 この問題が私の人生の中で醜い頭をもたげてきたのを感じていたので、このことに興味を持っていた事も確かです。いつも私をいらつかせる食べ過ぎの問題をどう対処すればよいのかを友人と話していた時に、彼が「それは、自分は食べる権利があると思う感情と関係があるのだ」と言いました。全くその通り! 彼がその言葉を口に出した途端に彼がこの問題の的を射ていたことがわかりました。
また、昨日はいろいろな請求書の支払いをする日でしたが、お金を管理するのが私にとってどうしてこんなに難しいのかを考えていました。するとまた「権利 」という言葉が心に響きました。私は、自分はお金を使う権利があると思っているのです。そのことを私は心の隅ではわかっていたと思いますが、それを正面から見つめたことはありませんでした。一体私は何の権利があるというのでしょうか? それは私の人生で当然起こるべきことが起きなかったこと)に対する払い戻しです。

何と悪魔的なことでしょうか! 払い戻し? 私は生ける神の子、キリストの花嫁、契約の子、神の友なのです。そして私に払い戻しを受ける権利があるですって? 勿論、そんなことはありません。実際、私は何が起こってもすべてのことに「主よ、感謝します」と感謝に満ちた人生を送るべきです。キリストと共に生きる人生では、以前のようには出来なくなったことが多くあります。例えば、以前楽しんでいた事が、今はしずらくなり、昔していた事や昔の習慣をむさぼるかわりに、 本当には悪くないことー食べることとかーということをするようになります。 昔していた事がもう出来ないので、食べることくらいはする権利が自分にはあると感じるのです。そして過度に自分を甘やかす結果、ほどほどにすべきという一線を越えてしまうことになるのです。

律法によってではなく、恵みによって生きなさい! 愛は自分の利益を求めません!豊かに受けたのだから豊かに与えなさい!

「私のものだ! 私のものだ!」 社会における問題の根!

最近、 孫のクローが一週間泊まりにきたので、 ずっと2つのものだけを見ていました。「自動車」と「ファインディング・ニモ」の映画です。12回目に見たときでも私は両方とも大変楽しみました。

「ファインディング・ニモ」 では、ニモがお父さんに従わなかったので危険な目に会います。彼は海から出てしまってオーストラリアのシドニーの歯医者の水槽に入ってしまいます。お父さんと友達は彼を探しに出かけます。彼らはニモを見つけ、住んでいた家に戻ろうとします。しかしカモメがいたのです。カモメは魚が好物です!映画の中では、カモメ達が獲物を見つけるたびに「私のだ!私のだ!私のだ!」と叫んで争奪戦を繰り広げます。‘

肉的、物質的な世界において、私たちはそれと同じことをしています。 賞を取るために努力をするのではなく、ただ賞の取り合い競い合いをするのです! 自分が欲しいものを手にいれる権利 があると思うので、互いに闘争し戦うのです。ペニー・ジャクソンさんが「権利」ということに関して次のことを話してくれました。

お金の使い方に関しては私の状況はよく似ています。私が一線を越えてしまって借金ができてしまわなければ、お金を使うこと自体は別に悪いことではありません。しかし ショッピングをしているとき、私は自分が欲しいものを買うことは全く正当だと感じます。それは自分が当然 持っているべきだと思うもの(人生における権利として)を持っていないのだから、欲しいものを買う権利はあると思うからです。そこで、この自分の権利主張の問題をよく見極めて、その中の偽りを見つけることが私の重大な課題となりました。実にこれ(権利主張)は地獄の臭いがする「考え方」です。

それでは 私たちに権利を主張させるものは何なのでしょうか? アメリカ人は生まれたときから自分の権利を主張するのが当然なこととして育っていると思いますが、そのことがこういう考えの入口になっているのかもしれません。 アメリカに住んでいるのだから、私たちの人生はこうあるべきだ、というある期待を持っているのです。そしてそのうちに私たちアメリカ人は、自分は優しい夫、又は妻を持ち、言う事をよく聞く子供たちと木立のある住宅地に素敵な家をもつ権利があるという考えを持ってしまっているのではないでしょうか。

どうでしょうか。もしかしたら、テレビが白黒だったときにやっていたホームドラマの遺産でしょうか。「パパは何でも知っている」とか「ビーバーにおまかせ」を考えてください。自分の親がドラマの中のような人物ではなかったので、私はがっかりしたものでした。親はあのように完全なはずではなかったのでしょうか?しかし、そのようなロマンチックで非現実的な親に誰がなれるというのでしょうか。


今、私は50歳になっていますが、夫は今のところ現れる様子はなく、子供も(いい子は勿論のこと悪い子さえ)ありません。両親はドラマの親とは違っていたし、使い放題できるお金もありません(世界で一番豊かに国に住んでいるのに)。私は当然持つべきものを持っていないのだから、私がしたいことは何でもして良いはずだ、と私の奥深くにあるものが私を説得し納得させるのです。「子供時代に恵まれなかったかのだから、私は食べたければ食べたいものを食べてもいいのだ。持つべきはずだった夫や子供がいないのだから、自分で買えるものは買ってもいいし、お金を無責任に浪費していい。みんな私に借りがあるのだ!」と言う風に。本当に馬鹿みたいです。でも私の奥底にはそのような思いがあるのです。それが非現実的な考えであることは分かっていてもです。世界は完全ではありません。多分あなたは「まさか、そんな風に考える人なんかいないでしょう。」と思われるかもしれません。でもあなたの心の奥底を探ってみてごらんなさい。「自分はカクカクシカジカの人生を送っているはずだった」(自分が成した事の故ではなく、だた地球に人間として存在しているというだけで)とあなたが思っていることが多かれ少なかれあるのではないでしょうか。

私たちは神を賛美して人生を送るように造られたのですが、この「自分の権利を主張する」という思いが、期待に胸を膨らまして生きるのではなく、当然起こるべきものとして予期する思いで生きるように私たちをさせてしまいます(期待と予期は全く違うことです)。 そればかりか、私たちを感謝の気持ちの正反対、即ち、感謝をしない不満だらけの心、という結果へと 連れていくのです。そして私たちの内に「どうしてあの人たちだけもらって、私にはもらえないの? 不公平だわ!」という子供じみた叫びを起こさせるのです。

使徒パウロは貧しさの中でも豊かさの中でも、どのような境遇のなかでも満ち足りることを学んだと言っています。(ピリピ4:12)私たちはすべてのことにおいて感謝をするべきなのです。私たちはクリスチャンとしてそうしたいと本当に願い、そうしようと努力していると思います。しかし、限りなく恵み深い主は、 いくら感謝したいと思ってもそれをとても難しくする「偽り」に私たちが落ち込むことを、時として許されます。 それは、私たちが自分でも理解できないような衝動的な行動を取るときのいらだちや不満の原因を私たちがはっきり見るようにと、主は考えておられるためではないかと私は思うのです。

私たちが権利を主張することを正面から見据えて、それが何であるのかを知ることなしには、それに対処することはできません。権利を主張する思いと非現実的な考えに同調するところから私たちが抜け出し、自分が持つべきであると感じている人生よりも優れた計画が私たちのために実は用意されていることを知るまでは、私たちは自分の境遇を歪んだフィルターを通して見てしまうでしょう。
しかし、私たちがこれが偽りであることを正直に見つめてみれば、 素晴らしい喜びと感謝の念が内側からふつふつと涌き上がり、私たちの人生は変えられるのです。なぜならば、私たちは慈しみ深い神に 仕えているのであり、主は私たちの心の願いをかなえてくださる方だからです。主は私たちに豊かな命を与えるために来られたのであり、それは私たちが望む以上、また想像する以上に豊かであるからです。

辞書に「entitle 権利がある」のもう一つ別の定義がありました。それは「資格がある、適当な資格を持って要求する」というものです。イエスの血潮により、主を自分の主であり救い主であると信じることにより、私たちは 主が下さっているすばらしい約束を要求する資格があるのです。そしてこの約束とは「はい、その通りです。 Yes and amen」なのです。その(信仰による)権利を私たちは確かに持っています。神を賛美します!(終わり)


トップへ戻る
[PR]
by walkwithgod | 2010-09-20 15:39 | アメリカからのメッセージ
<< まことの愛は私たちをあるべき姿... 神の臨在(続) -ブラザー・ロ... >>