Creative Truth  創造的真理

キム・クレメント

イエスの力が最も顕れたのはいつだったと思われますか? それは主がサタンに面した時だったのです!それと同じように、あなたが手強い敵や厄介な問題に遭遇しそれに打ち勝つ時に、最もあなたの力は発揮されるのです。ですから、敵や逆境が襲ってきたときには、今までとは違う角度でそれを見なければなりません。

エペソ3:20に「(主は)私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことが出来る方(である)」と書かれています。

墓の中の真理は胎の中の真理のような力はない

真理には二つのレベルがあります。すでに確立された真理とまだ確立されていない真理です。後者は、まだ成熟しきっていない、まだはっきり見えない、ぼんやりとその辺りに浮かんでいる感じのものです。私が「真理」というとき、それは真理の発見を意味しています。あなたの人生に何かが起ころうとしている、今まさに自分はそこに踏み込もうとしていることが分かっている、けれどもまだ生まれ出てはいないもの、その「新しい真理」をあなたがはっきりと見出していくとき、あなたの力は最も発揮されるのです。あなたの人生の中には「まだ分らないもの」があるべきなのです。次に何が起こるのかが分らないとき、人は非常にフラストレーションや怒りを覚えます。しかし、もし、あなたの人生で次に何が起こるのかみんな分かっていたら、退屈するのではないでしょうか。はじめから分かっていたら、あなたは邪魔なものは取り除くし、厄介なことからは身を避けることでしょう。ですから神様は少しだけは教えて下さいますが、あとは暗やみの中を手を取って導いてくださるのです。それは、あなたに将来起こることのすべてを知って欲しくないからです。暗やみの中にこそ宝が隠されているのです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、あなたは暗やみの中にいるときに信仰の一番頂点にいるのです。

「見るところによってではなく信仰によって歩く。」(IIコリント5:7)

この暗やみというのは、罪の暗やみではありません。次に何が起こるのか全く分からない場所、という意味です。暗やみの中でつまづく時、私たちは一番大きな力が発揮できるのです。(勿論、その経験は決して喜ばしくは感じられませんが)暗やみの中にいる時ほど私たちが強くされる、そして勿論フラストレーションのある、時はありません。将来のことはチラッとは見えるかもしれませんが、詳しくは全く分りません。神様は詳細は語られないからです。というのは、もし詳細が分ったら私たちに信仰は必要ではなくなりますし、「信仰がなくては神を喜ばせることは出来ない(ヘブル11:6)」のです。

もし、あなたの人生に何が起こるのか、はじめから全部分かっていたならば、あなたは神を喜ばせる信仰を持つことができないのです。

集会で人々に預言をし始めるとき、私は彼らについて何の知識もありません。それは私にとって最も危うい場所なのですが、それと同時に最もすばらしい、力のある場所でもあるのです。なぜならば、そのとき私の信仰は頂点に達するからです。私の信仰は当惑させられ、激しく揺り動かされます。主が私を激しく揺さぶり、私の中のまだ生まれていない「信仰」が突然胎動を始めるのを私は感じるのです。

あなたの中にまだ生まれていない信仰が宿っているのをご存知でしょうか。神様があなたを窮地に追いやり、信仰という泉から水を飲むしかあなたには方法がなくなるとき、あなたの中の信仰は胎動を始めるのです。「分からない」というのはあなたにとってよいことなのです。多くの人が私に電話をかけてきて、神様が自分の将来に何を計画しておられるのかを教えてくれ、と聞くのですが、私はほとんどの場合、「私にも分かりません。神様は私に何も語られていませんよ。あなたがまだわからないようにと主は望んでおられるのです。」とお答えします。主があなたのために次に計画されていることは、必ず、あなたが十分に対処できることです。それにあなたが出会う時、あなたの信仰が始動し、神はあなたを新しい境地へと進ませてくださるのです。

神様がアブラハムに語りかけたときは、彼の国、父の家から出て行くようにと言われました。アブラハムは神に従い、言われたところへと出かけて行きました。それによって彼は「信仰の父」と呼ばれ賞賛されました。
アブラハムは自分の行き先を知りませんでしたが、何か偉大なことが起ころうとしていることは分かっていました。行いのない信仰は死んでいます。

「墓の真理」では役にたちません。それはいつも葬られては復活させられるものです。ある時代に一つの真理が確立されると、しばらくは生きていますが、その後、教義や信条によって葬られてしまいます。教会は真理の周りに垣をめぐらします。すると次の世代の者がそれを見出し、また命を与え、前の世代の二倍の価値をその真理に与えます。

しかし、どの世代にも預言的な人たちがいます。彼らはパンだけを食べて生きていくことに満足しないのです。すでに作られたパンを食べるだけでは満足せず、彼らは神様の口から出るパンを求めるのです。人々は使い古された真理に飽き飽きしています。多くの説教者たちは、そのような古い真理に「自分の考え」や「自分の確信」をどんどん付け加えて完璧にしていきます。ですから、それを聞く者には自分の信仰を働かせる余地が全く与えられないのです。確かに確立された信仰、真理は大切です。しかし、創造的な新しい真理こそが、あなたの信仰を生まれださせるのです。

預言、このフラストレーションを引き起こすもの

この預言というフラストレーションを引き起こすものは、どのように捉えたらいいのでしょうか。聖書にはすべての人が預言をすると書かれています。

「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなによってさばかれ(ます。)」(Iコリント14:24)

「あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」(Iコリント14:31)

神があなたに語られるのは、まだ起こっていないことに対する信仰(預言的信仰)をあなたに与えたいと思われるからなのです。まだ起こっていないにもかかわらず、その事に対する信仰をあなたは得るのです。神からの言葉を受け取るとき、それが実際に起こる前に「それは必ず起こる」という信仰を神はあなたに与えてくださいます。ですから、その事が実際に起こり始めるときまでには、あなたはすでに自分の思いの中でそれを実現していますから、そのための信仰をその時になってあわてて掘り起こすという作業をしなくてもいいのです。

あなたは聖書を長時間読み、御言葉を学び、「御言葉が私に信仰を与えてくれた。」と言われるかもしれません。しかし、それだけでは十分ではありません。あなたが自分で獲得しなければならない信仰の領域があるのです。預言の言葉が来たとき、物事が実際に起こる前にあなたが信仰を持つことを、神様は望んでおられるのです。聖書を読むことは、私たちが地上で人生を歩むときに神様の基本的法則をどのように使っていけばよいかという知恵を授けてくれるものです。

神の姿を認識することを学ぶ

「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして、言った。『主よ。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。』」(創世記18:1-3)

アブラハムは彼らが神であることが分り、「主よ。」と呼びました。あなたは神がどのような姿をしておられるか知っていますか。神は水を出す岩の中におられるかもしれないし、燃える柴の中におられるかもしれません。もし燃える柴の中に主がおられると知ったならば、あなたはきっと火のそばにキャンプをはり、柴が燃え尽きて灰になるまでそこにとどまることでしょう。しかし、灰になった時には移動せねばなりません。

過去に起こったリバイバルのほとんどは灰の山になってしまいました。人々はその灰の山の周りに集まり、そこから火を受けようとするのです。そうではなく、私たちはエジプトに行くべきなのです。そこに火があるからです。もはや燃える柴の中ではなく、エジプトに火は移ったのです。モーセは燃える柴の中から神の声を聞き、エジプトに行ってイスラエルの民を圧制者から救いだすようにとの指令を受けたのです。

神様は雲の柱、火の柱でイスラエルの民を導かれましたが、それはモーセが燃える柴のところに留まらなかったからこそ経験できたことであり、それによって彼らは約束の地に入ることができました。(出エジプト13:21)

歴史上、たくさんの大リバイバルが起こりました。特に20世紀はカリフォルニアのアズサ・ストリートから始まり、世紀末まで各地でリバイバルが起こりました。しかしながら、リバイバルが灰になってしまったときには、もう一度そこに火を起こそうとしてはならないのです。次の場所に移るべきです! 何か別のことが起こるのです! その火を別のところで、別の形で、見つけるのです! 今、神は私たちをマーケット・プレイス(職場、街中など人々が毎日生活している場所)に遣わしておられます。今までのように、安全な教会の建物の中で集会をするだけでは駄目だと主は言われているのです。エジプトに行かないでは「火」を見たり、聞いたり、知ることは出来ないと主は言われます。 あなたは変えられなければならないのです。あなたは本当にエジプトに行く用意ができていますか?     

アブラハムが御使いの前に立ったとき、彼は水とパンをまず与え、それから上等の子牛をほふりました。それはアブラハムがこの訪問者が神様であると気づいたからです。(創世記18:4-9)

アブラハムは彼らに供するものを増やしていきました。それは神様にもっと長く留まっていただいて、彼の家に何かよいものを下さることを願ったからです。アブラハムは主が「訪れること visitation」だけでは満足しないで「住まわれることhabitation」を望んだのです。アブラハムは神からの約束が果たされるべき時がきていることを知っていました。それで彼は自分の持っている最上の物を捧げたのです。御使い(神)は留まりました。そして「あなたの妻を連れて来なさい。」と言ったのです。神様は訪問を滞在に変えて、約束の子が来年の今頃生まれとる約束をしてくださったのです。(創世記18:10)

神様があなたの家に長く滞在されれば、あなたの家で何かが生まれるという約束をしてくださるのです。アブラハムの場合は一つの国家が生まれました。あなたの中にも神様の臨在によって生まれる時を知らされるのを待っている国家があるかもしれないのです。 ですから神の訪れvisitation だけで喜んではいけません。

重要なあなたの応答

「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そし
ておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やってくる。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。』」(ルカ19:41-44)

訪れvisitationは、ギリシャ語ではEpiscopeといいますが、視察とか検閲という意味を持っています。ですから、神があなたを訪れるのは、今までより偉大なことを受けるための準備があなたに出来ているかどうかを視察に来られるのだということが分ります。イエスがエルサレムを見られた時、涙を流され、言われました。「おまえは、神の訪れの時を知らなかった。」と。それはつまり、「あなたは検閲の時を知らなかった。故にあなたの子どもたちは敵によって踏みつぶされる。」と言われたのです。ですから神の訪れの時にあなたがどう応答するかが重要なのです。神は訪れて視察され、主が今度来られるときにそれに応じて報いをあたえるのです。主が訪れたとき、あなたのおかれた状況はあまりよくないかもしれません。ですから自分のその時におかれている状況で主の訪れを判断してはいけません。イエス様が検閲にこられたとき、エルサレムはよい状態ではなかったのです。

神様の訪れはアメリカでも起こりました。大きな火がカナダやフロリダ、そして西海岸にも20世紀の初頭からやってきました。それはこの世代に必要なものをもたらしてくれました。そして、これらの火は終息しました。これからはもう長い間、あのようなリバイバルの火は教会の中では起こらないでしょう。しかし、それよりも大きな火があなたの家庭に訪れ、神様はあなたの家族を祝福してくださるでしょう。火は又、マーケット・プレイスに移りました。「あなたはテレビや新聞などのメディヤ、マーケットプレイス、そして新しい場所で私を見出すであろう。」と主は言われます。リバイバルの火を再び見たいのならば、あなたはマーケットプレイスに行かねばなりません。教会の中にだけそれを求めてはいけません。火は街のなかにすでに移ったのです。(終わり)
[PR]
by walkwithgod | 2005-11-18 17:24 | アメリカからのメッセージ
<< 「罪を赦して歩く」