卓越するクリスチャン  12月11日

卓越するクリスチャン        
                      坂  達 也

 デニス・クレーマー師はその「マスターズ・コール(主の召命)」と言う著書で、平均的クリスチャンの問題点を取り上げ、そこからどのようにして抜け出せばよいかを扱っております。
師はこの「平均的クリスチャン」を次のように定義しています。
 「悲しいことですが、イエスキリストの教会は平均的な信者で一杯です。この平均的な信者とは、非常に誠実で、間違いなくよい人ではあるのですが、霊的には未熟で不健康、霊的身体障害者と言うか、多分不能者に近いようです。愛すべき親切な人たちですが、大分前から霊的な敵に脅威を与える人ではなくなりました。
 地獄(悪魔)はそのような平均的信者を霊的に無害な人と見ていますが、それは正確な見方です。彼らは、多分、自分が持っている霊的機能容量の40%程度しか働かせていない人たちです。そのような人たちが教会の中で何が問題かと言えば、彼らは自分の教会における召命が変わって来ているのに、それに気が付いてもいず、全く変わってもいないことにあります。
 この悲劇は、彼らの無知から起こっていることで、その人たちの不従順とか反抗からでは勿論ありません。彼らは確かに天国には行けますが、この地上の王国での貢献度はほとんど皆無で、霊的に全く取るに足らない、無能者でありましょう。彼らは人生をひどく無駄に過ごしているのです。
 平均的な人生を生きることは、重度の疫病にかかっているのに等しいことかを知り、平均的クリスチャンからの脱出を計らねばなりません。……あなたへの神の召しとは常に変化するもので、それを感知して適切に呼応することの重要性に素早く気がつくべきです。だれも単に平均値ではありたくはないはずです。」

 クレーマー師が描く「平均的クリスチャン」とは「ぬるま湯的(人間的)クリスチャン」であり、又、霊的な飢え乾きのないクリスチャンと言えます。

 日本人の伝統的思想の中には、「事なかれ主義」があり、又、「出る釘は打たれる」ことへの恐れからでしょうか、「凡人でよし」と言う、昔からの凡人容認の考え方があるように思います。しかしことクリスチャンに関する限り、聖書には絶対にそのような考え方はありません。
クリスチャンの目標は卓越することにあります。凡人が凡人であるのは、進歩が無い証拠です。凡人とは広い門から入る人であり、クリスチャンとは狭い門から入る人でなければならないはずです。
 狭い門から入る人はキリストの後を追う人であり、卓越する、ぬきんでる、秀でる人です。何に抜きん出るのでしょうか。それは「肉の人間」から「霊の人間」に生まれ変わることを意味します。それは「永遠のいのちを持つ、よみがえりの霊的な人間」に「抜きん出る」ことです。
 そのためには最大限の努力をしなければなりません。世の中には努力家と言う人たちが大勢いて、その多くの人たちは賞賛を受けます。彼らは人並み以上の努力をすれば物事に成功することを知っている人たちです。勿論、聖書においても、私たちが「あらゆる努力をする」ことを勧めております。しかしここで注意しなければならないのは、クリスチャンの場合はその努力する内容が違うことです。
 2ペテロ1:5-7の口語訳では「あなたがたは、力の限りをつくして(新改訳では「あらゆる努力をして」)、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心(敬虔)を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛(アガペ)を加えなさい。」とありますが、言ってみれば、これが私たちクリスチャンの努力目標です。これは取りも直さず「永遠のいのちを持つ、よみがえりの霊の人間」になることであり、実際には、聖霊によって私たちがそのように変えられてゆくことのです。
それでは、そうなるために「力の限りをつくして」、「あらゆる努力をして」とは具体的にどうすることなのでしょうか。どうしたら信仰に徳と、知識と、節制、忍耐、信心(敬虔)兄弟愛、アガペの愛を加えることが出来るのでしょうか。

その答えは歴代志上22:19に書かれています。それは「あなたがたは心をつくし、精神をつくしてあなたがたの神、主を求めなさい。…」(口語訳)です。つまりその方法とは「主を求める」ことの一言に尽きるのです。ただ一つのこと「主を求める」ことに、常日頃、誠心誠意、私たちの最大の努力を傾注することであると思います。クリスチャン(キリスト者)の本質はこれ以外にありません。
IIペテロ1章では「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって」とあり、その方法が少し違うように書かれているようですが、実際には「主を求める」ことによって「神とわたしたちの主イエスとを知る」ことができるのですから、同じ事ことを言っていると思います。
これをこの世で最も努力した方はイエス・キリストです。マルコ1:35に「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。イエスは常に父を求め、父に忠実に従うこと以外には何も求められませんでした。
主のあとを追う私たちも同じように、何も求めず、先ず主の前に立ち、ただ主ご自身だけを求めれば、後は総て主がなさって下さいます。
うそだと思う方は、毎朝早く起きて、主の前に座り、ただじっと一時間ほど主を求めてください。何も考えないで、ただ主の愛に満たされて、「心をつくし、精神をつくして」主を求めて座っているのです。毎日それを日課として忠実に実行して下さい。「石の上にも三年」と言うことわざがあります。努力とは決意して実行に移し、やり遂げることです。これなら誰でも出来るはずです。三年とは言いません。一ヶ月もそれを忠実にすれば、主があなたを放って置きません。必ず主があなたに現れ、あなたは主とのすばらしい時を過ごすようになり、主の御声が聞こえるようになります。
そうなる時、あなたはただの平凡で人間的なクリスチャンから抜き出て、主に特別に愛される非凡なる霊的なキリスト者(キリストに似た者)に変えられて行きます。
「これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。」(IIペテロ1:8-11)
                             
    
(終わり)
 

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by walkwithgod | 2005-12-11 00:55 | 坂達也からの今月のメッセージ
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