クリスマスの信仰  坂 達也  12月31日


クリスマスの信仰
 
 主のご誕生をお祝いするクリスマスがやって来ますと、ルカの福音書1-2章に親しむ機会が与えられます。この二つの章は何度読み返しても、その都度新しい真理と恵みが与えられ、そのことを主に心から感謝申し上げます。
 今年私が特に示されたことは、この世で起こった最大のイベントであるイエス・キリストのご誕生が「主によって語られた御ことば」と、それを聞く当事者の「必ず実現すると信じきった」信仰によって実現したと言う事実でした。私はこの主によって語られる御ことばと信仰の相関関係が、私たちの信仰生活を成功させる鍵であると思います。

 先ずイエス様の誕生に当たってルカ1章での登場人物は、ザカリヤとエリサベスそしてマリヤ、それに御使いのガブリエル、その後2章の最初で登場するのが羊飼いたちです。
 
 不妊の女であったエリザベスには子供が無く、長年子供が与えられることを祈って来た夫のザカリヤは、既にかなり年老いていました。しかし「その願いが聞かれた」と御使いに言われた時に、彼は、彼らの肉体的現状にだけ目が向いていて、神の偉大な力を信じることが出来なかったと言うところに彼の不信仰さが現れているように思えます。「祈りは必ず聞かれる」と云うことを信じているつもりでも、実際には「必ず実現すると信じきった」確かな信仰で祈っていないと言う(私も含めて)典型的なクリスチャン像を彼に見ることが出来ないでしょうか。

 神様がご計画を進める時に、そのような信仰の無さは邪魔になります。そこで神様は彼がそれ以上不信仰の言葉を口にしないように、一時的にものが言えないようにしました。これは主による愛の「しるし」であり、又愛の懲らしめ(ヘブル12:10)でありました。これによってザカリヤは悔い改め、無言のままで主に心からの祈りと感謝をささげ続け、彼の信仰は本当のものになったと思います。
 一方妻であるエリザベスは、すばらしい信仰の持ち主であったことがうかがわれます。それがゆえに主はマリヤをエリザベスのところへ送り、三ヶ月ほど時を過ごすことを許されたのであると思います。

 ここで重要なことは、御使いガブリエルが直接現れてはっきりとメッセージを伝えたことです。御使いが話す言葉を聞くこととは神様からのおことばを聞くことです。つまり「神の御声を聞く」ことと同じです。

さて、同じガブリエルから声をかけられた時、マリヤは何のことかよく分からず、とっさに戸惑いましたが、それは不信仰からではありませんでした。ガブリエルがさらに説明を加えたことに対して、恐らく完全には理解出来なかったと思いますが、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(1:38)と答えました。この答えこそが、常に主に従順でありたいと願うクリスチャンの持つべき理想的な信仰の態度であると思います。そこには100%主を信頼し、主に委ね、主のなさることに大いに期待して生きる信仰者の姿があります。

そのことを、聖霊に満たされたエリサベスが「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(1:45)と称えました。まさに主によって語られたこと=御声を聞いて、それが必ず実現すると信じきる信仰によって主はことを運ばれるのです。

私はここに最も重要な信仰の法則があると信じます。それは先ず「主の御声を聞くこと」(主の命令、御心の表示を直接聞く)によって、それが実現することが心から信じられるようになる信仰が与えられると言うことです。

ペテロが水の上を歩いたのも、この法則によるものでした。
[弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:26)


 私はこのお話から学ぶところは非常に大きいと思います。ペテロは水の上を歩いておられる主を見て、とっさに自分も同じように水の上を歩いて主のところまで行きたいと言う思いを持ちました。しかしそれを実行する前に、先ずそのことが本当に主の御心であるかどうかを確かめたいと思ったのでしょう。そこで、改めて主ご自身の口から、「水の上を歩いてここまで来い」と具体的に命じられることを求めたのでした。主から直接みことばを語っていただきたかったのです。

 私たちは日常生活の中で何かをしたいと言う思いがよく来ます。しかしそれが主から与えられた思いであることがかなりの確かさで信じられる時でも、もう一つ確認をしたいと思うことが多くあるのではないでしょうか。そのような時に「もし(この思いを下さったのは)あなたでしたら、今私が実行したいと思っていることを『しなさい』と私にはっきりお命じになってください。」とペテロのように主にお願いすることによって主からの確認がいただけると思います。しかもそれだけではありません。はっきりと御言葉(御声)で命令を受ける時に、それを実行する上で必要な確かな信仰もいただけることを私自身も経験しております。
後はペテロが回りの状況に眼が行って不信仰になってしまったことを教訓として、私たちがあくまでも「疑わない」信仰を持続することです。

 実はこのペテロのお話で主は、マリヤの持つ「主によって語られたことは必ず実現すると信じきる」信仰の実地訓練を弟子にされたのであると思うのです。主からの命令を聞いて、それを「疑わずに」「必ず実現すると信じきって」実行すれば、たとえそれがどんなに超自然、不可能と思えることであっても実現することを、主が先ず肉の形で弟子たちに見せたのです。それは、主が昇天された後、弟子たちが同じことを霊の形で行う、つまり霊で御声を聞き、それを実行するための信仰の訓練でした。(1コリント15:46)

もう一つの例を挙げたいと思います。それはマタイ8:5 -13です。
『イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。…」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』

 このお話で百人隊長が、イエス様がわざわざ来られなくても、御声で直接命令するお言葉をいただければ、病人は必ず直ると言うすばらしい信仰の持ち主であったことがよく分かります。彼の信仰も「主によって語られたことは必ず実現すると信じきる」信仰です。彼は主の語られる御言葉を聞くことによって、語られたことを自分自身が真に信じきれる信仰(の力)が得られると言う「信仰の原則」をよく心得ていたと思います。

 これで本当に私たちが神の御声を聞く、特に主から「指示・命令を受ける」ことの大切さがお分かりになると思います。
まさしくロマ書10:17にあるように「 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」[新共同訳]
 詩篇33:9で「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。」とありますが、その通り語られる御言葉にはものすごい創造の力があります。

  勿論、この信仰の法則を毎日徹底して実行されたのがイエス様でした。
 ヨハネ5:19-30にイエス様の信仰が書かれています。
  「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。… また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。… まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
…5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」


 イエス様はご自分からは何事も行われませんでした。ただ、父が示されること、父の御声を聞いて、それに「主によって語られたことは必ず実現すると信じきる」信仰で忠実に従ったのでした。
 ここでペテロのお話をヨハネ5:19に当てはめてみますと、主はペテロをはじめとする弟子たちに先ず「水の上を歩いて見せた」と言うことが出来ないでしょうか。私たち弟子もイエス様がなさったと同じように「(主が)しておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。」を見習わねばならないと思います。つまりそれがどんなに超自然なこと、不可能に近いことであっても、主が言われ、主が示されたことを実行すれば、必ずそうなると言う確かな信仰の持ち主になることを主は総てのクリスチャンに望んでおられます。私たちがそうなれば本当に奇跡がどんどん起こるはずです。

 最後に、このルカ1章で私が改めて学んだことは、神様は総てのご計画を実現される時に、それを総て聖霊様によって行われると言うことでした。
 聖霊様は御使いをフルにお使いになります。聖霊様の圧倒的な力によってマリヤがイエス様を懐妊しました。登場人物は総てマリヤもエリザベスもザカリヤも(あるいは羊飼いたちも)聖霊に満たされて主のご計画通りの行動を取り、賛美と預言をしました。私たちが聖霊様に常に依存し、満たされて生きることがいかに大切であるかを改めて知らされた思いでした。

 私にとっての新しい年のチャレンジはこのマリヤの「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人」になる、あるいはもう一歩その信仰に近づくことです。そのためにはっきり御声を聞く訓練に一層励みたいと思います。(終わり)



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by walkwithgod | 2006-01-01 08:03 | 坂達也からの今月のメッセージ
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