神の御国のメンタリティー  ブラッド・マックレンドン  2月20日

神の御国のメンタリティー
                                ブラッド・マックレンドン

私たちは神から永遠の命をいただいているにもかかわらず、そのことを忘れがちで、自分の人生をこの時間と空間の中でだけ考えてしまっています。しかし、私たちは、キリストを自分の人生にお迎えしたときに朽ちるものは取り去られ、朽ちないものを着たのです。(Iコリント15:53-54)死ぬものは取り去られ、不死を着たのです。

それには私たちがもはや、堕落した罪の性質から出てくる肉的な思いを持つ代わりに、神の考えやキリストの思いが持てることを含んでいます。キリストの思いに限界はありません。なぜなら神は境界線や規格に縛られる方ではなく、時間や空間に制限されることもないからです。キリストは全知全能の神であられます。主の思いは天国の思いであり、主の心に浮かんだ思いを実行に移すことを妨げる疑いとか不信仰は、主の心には全くありません。神はご自分が語られたことや、又、ただ心で思われただけのことでも、それは必ず成就することをご存知です。私たちもキリストの思いを持つことによって、神の御国の限りない世界を歩き始められます。それは物理的な時間や空間にもはや制限されない世界です。

死はすでに主の足の下に置かれました。(Iコリント15:53-58参照)それによって「死のメンタリティー」も滅んだのです。「死のメンタリティー」は主が決定されたことを阻止する力は全く持っていませんし、私たちも決してそれによって影響を受けてはならないのです。感謝すべきことに、神のこのご性質を我々も受け継いでいるのです。

私たちはもはや、心配で仕方がないとか、人に対して不親切である、というような間違った思いに支配される必要はないのです。神は天から地上の問題を見て、ただ手をもみながら心配しておられるのではありません。ですから、私たちもそうであってはならないのです。神はご自分で対処できない問題は何一つないことをよくご存知です。私たちが主のうちにとどまり主の思いを持つ時に、私たちも天のメンタリティーをもって歩み始めることができるのです。

キリストの身体なる教会は今まさに、この事実に目覚めようとしています。神は私たちの思いが、自分のことや自分自身の必要だけを考えることから解放されて、神の立場に立って神の目的が何かを考えることができるように、私たちの心を覆っているベールを取り去り、心を変革され始めました。目覚めた者は、王座に座しすべてのことを治めておられる主を、まるで自分も主と共に王座に着いているかのようにはっきりと見えるようになります。なぜならば、私たちは実際、主と共に王座に着いているのですから。私たちがもし自分自身を見ているのであれば、このことは達成されません。ただ主にだけ目を向けねばなりません。

主は、すべての人が自分の肉的な思いの中で恐れや疑いや限界を感じながら生きるのではなく、神の思いの中に入って生きるというご計画を持っておられます。私たちが自分の頭を使って自分で何とかしようと悪戦苦闘することをやめ、自分の思いの中に永遠の命を持つことを、主は望んでおられます。神が人間を最初創造されたときに意図されたように私たちが再び歩み始めることが、主の今の御計画です。それは、神に似せて造られた人間が考えや思いも神に似るということです。私たちは神の民であり、主の先ぶれとして神の御国は現実のものであることをこの世に示すように遣わされているのです。それには、まず私たちが神の御国に住まねばなりません。私たちが考えたり行動したりすることのすべてにおいて神に似たものとして歩むならば、私たちが主をあらわす力強い証し人となることができます。次の聖書の箇所はそのことをよく表しています。

マタイ14:22-31「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」


ここでは、弟子たちがイエスに命じられて船に乗ったことが分かりますが、やがて嵐がやってきました。イエスが水の上を歩いてきて、弟子たちはそれが自分たちの救い主だということが分からないほどに度肝を抜かれ、怯えてしまいました。しかし、イエスは彼らを憐れみ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられました。これは非常に力のある言葉です。ここでイエスが示しておられることを私たちがはっきりと理解したならば、私たちに変革が起こることでしょう。私たちが試練の中にいるときもイエスが共におられることを知るならば、どんなに波や風が激しくても、「しっかりする(be of good cheer、元気を出す)」ことができるのです。すべてのことにおいて私たちは主を認め、主が「勇敢でありなさい。(Be of good cheer)わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われたのは真実であることを知ることができるのです。

私たちは今、「キリストの思いを持つ」という目標に向かって歩んでいるわけですが、時には弟子たちと同じように、「神は自分を見捨てられたのではないか」と思ってしまうことがあります。私たちが周りの状況にだけ目を奪われると、恐れの念が生じ、主がまさにその状況の上を歩いてこちらに来られるときに、それが主だと分からないのです。水の上を歩くことはイエスにとっては何でもないことで、弟子が乗っている船まで行く交通の手段にすぎませんでした。私たちは自分の思いを時間と空間の中に制限してしまいますが、イエスはそうはされません。主は私たちが自分の考えに勝利して、どのような状況においても主と共にその上を歩くことができるというメンタリティーをもってほしいと願っておられます。主は山の上で私たちのために常にとりなしておられ(マタイ14:23)弟子たちに教えられた(主の)祈りを祈っておられるのです。

マタイ6:9-13 「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」

この祈りの中で、主は私たちが主と同じ考え方、物の見方をするようにと祈っておられます。この祈りが成就したとき、神の御国は弟子たちに風と波という形で現れました。それは弟子たちが考える「神の御国」とは全く違うものでした。この嵐という状況を使って神は人間に語ろうとされています。神はご自分を現そうとするとき、私たちは、往々にして「私は苦しくて死んでしまいそうだ。」と感じるのです。私たちは神の御心の真ん中にいても(弟子たちはイエスの御心に従って舟に乗っていました)そのときに困難や障害が起こると、それは神からのものではないと思ってしまいます。イエスが弟子たちに舟で先に出かけるようにと命じられたときに、イエスはやがて嵐が起こることもご存知であり、その時も彼らを決して離れないおつもりでした。私たちもこのことをいつも理解していなければなりません。どのような状況の中においても主は私たちと共におられ、それゆえに私たちは安全であり、主が私たちを遣わされた御用を果たすことができるのです。嵐が起こったとき、私たちは主がどのようなお姿で来られるかをしっかりと見なければなりません。それは、今まで見たことのないようなユニークなお姿かもしれませんが、驚いてはいけません。嵐の中で私たちも「しっかりする be of good cheer」ことができるのです。

この話の中で、イエスは弟子たちに「主はいつも共におられる」 ということを知ってほしかったのです。イエスも弟子たちも周りの状況に左右されないでその上を歩くことができたのです。主は私たちにも同じことを教えようとしておられます。私たちがどのような状況や試練の中にあっても、主と主の業を私たちが見ることができることを望んでおられます。ペテロはイエスが波と風を治める方であると知って奮起させられました。彼はイエスが来いといわれたら、彼も自然やどんな状況も主と共に治めることが出来ることがわかったのです。ペテロは水の上を確かに歩き始めました。しかし、彼は自分の思いを信仰という高い見地から人間的理性へとひき下げてしまったとたんに、水の中に沈み始めました。しかしながら、彼は確かに、ほんの一時ではあっても、水の上を歩いたのです。イエスはこのようにどんな状況の中にあっても、私たちがイエスと共に歩くことを望んでおられます。まことに主の道は私たちの道より高く、主は天におられるだけでなく、この地上でも私たちの内に生きていたいと願われているのです。

イエスは恵みをもってペテロを引き上げ、疑いが信仰に及ぼす影響を一言注意されました。そして、イエスはペテロを舟に引き入れ、その時風が凪いだのです。イエスはここで疑いや不信仰の危険性を教え、私たちが主と常に一つになるという密接な関係になることを望んでおられます。主と一つになるとき、人間的な理性という風は止み、人は神の安息に入ることができます。

私たちが「御国のメンタリティー」を持つとき、どんな状況や試練の中でも主が働いていてくださることを理解することができます。それはまさにイエスが十字架に向かうときに理解されたことでした。私たちがすべての物事を自分の理解ではなく神の理解を通して見るようになるとき、私たちは神の口から出る(神の御心から出る)一つ一つの言葉によってのみ生きたいと思うようになります。他のすべての言葉は、私たちに何の影響も及ぼさなくなります。イエスはすべての状況で真理であられます。これこそが私たちが持つべき「御国のメンタリティー」です。イエスは真の王であられます。(終わり)

[この記事はThe Morning Star Journal 誌より取りました。マックレンドン師はMorning Star Fellowship 教会の牧師です。]

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by walkwithgod | 2006-02-20 12:11 | アメリカからのメッセージ
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