イースターに思う      グラハム・クック     4月20日

イースターにあたって  
                    グラハム・クック

世界中のクリスチャンが毎年イースターに祝う十字架の奇跡は、私を驚嘆させてやみません。それは、私たち「キリストのからだ」である教会が持つ、信仰の真の根拠であり土台です。そして、それは私たち人個人にとっても、同じように大きな力を持っています。

私たちは、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛するようにと召されています。イエスはこのすべてを包括する愛を、私たちの模範となるように十字架の上ですでに示してくださいました。イエスは私たち一人一人を、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛してくださっています。主のその愛は十字架の業において明らかに証明されているのです。

イエスの私たちに対する御心は疑う余地がありません。主の御心は、私たちへの愛で満ちております。主は私たちが「よい子」 の時でも「悪い子」のときでも、全く変わらない愛で愛してくださいます。事実、私たちがまだ罪の中にいた時に、主は私たちのために死んでくださったのです。
主は、私たちが、その主の愛に果たして応じるだろうか、と案じてはおらられません。主は私たちのためにご自分を犠牲にすることだけに心を注いでおられました。そして私たちへの愛を2000年前に十字架の上で表してくださったのです。

父なる神も、思いを尽くして私たちを愛しておられます。エレミヤ29:11にあるように、神は私たちのために想像もつかないほど素晴らしい御思い、御計画を持っておられるのです。また、ダビデも詩篇の中で、神の愛を次のように詠っています。

「わが神、主よ。 あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」 (詩篇40:5)
「神よ。あなたの御思いを知るのは、なんとむずかしいことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数が多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」 (詩篇139:17,18)


ダビデは自分に対する神の愛の思いを悟ったのです。それは彼に大きな平安を与え、その愛は彼の思いの中に反映されました。

イエスはまた、私たちを精神(soul)を尽くして愛してくださっています。イザヤ53:10で、イエスのいのち(soul)は罪過のためのいけにえとされた、と書かれています。イエスが十字架にかかられた暗黒のとき、神はご自分をイエスから引き離され、それによって、私たちが決してイエスから引き離されることがないようにしてくださいました。

主はまた私たちを、力の限り愛してくださっています。私たちが直面するあらゆる問題というものは、それから主が私たちを必ず救い出し守ってくださる方であるという主への信仰を強めるために与えられるものです。

私は、このことをよくあらわしている夢を見たことがあります。私は夢の中で、私が以前主と共に歩いていなかったとき、即ち、主に反抗し不従順であった頃に戻されていました。それは20年以上も前のことでしたが、私はひどい状況の中にいる自分の人生を再び夢の中で繰り返したのです。
私の目の前で、私が罪を犯している姿が映しだされましたが、そのとき、信じられないようなことが起こりました。あたかも神が時間を止めてしまったかのように、すべてのものが動きを止めました。まるで映画がある場面で突然止まってしまったようでした。

  するとイエスがその場面に現れて、私を見ました。私は自分が罪を犯している場面にイエスが来られたので、びっくりし、また恥ずかしくもありました。でもイエスは私に伝えたいメッセージがあったのです。

  「グレー(イエスがグラハム師を呼ぶときの愛称)」と主は優しく私に声をかけられました。「わたしを悲しませたのはあなたの不従順とか反抗ではないのだよ。息子よ、それらの罪はもう十字架の上でわたしが処理したのだから。わたしが悲しかったのは、あなたのためにわたしができたことを、あなたがミスしたことなのだよ。わたしがあなたに与えたかったものがあることをあなたは理解できなかった。あなたのためにわたしがしてあげられることをあなたが分かっていたとすれば、あの時の状況はこうなっていたんだよ。」

  そういわれた主は、やさしく私の注意をもう一度夢の場面にもどされました。それからは夢全体が、あたかも私が完全に主に従ったかのように進行していきました。その瞬間に、その場面は本来ならこうなるはずだったのだ、ということが分かったのです。私は心が清められ新しくなったように感じながら目を覚ましました。そしてその瞬間に、私に対する神の愛の深さを悟ったのです。

  この夢を見て以来、自分の置かれた状況の中に神をお招きすることによって、素晴らしい神の力が得られることを私は体験し始めました。どのような状況に置かれていても、神の視点で物事をとらえ、そのときの自分にもっと神のご性質を与えて下さるようにと願うならば、この世で起こることで、私にとってマイナスになることは一つもないことが分かったのです。人生で起こるすべての事態において、それを興味深く、しかもエキサイトしながら受け入れ、そこで私たちが学ぶべきことを神が示してくださることを期待できるのです。

  私がミニストリーを始めたころは、神は私を、神の愛の「高さ」を知る旅路につかせてくださいました。そして神は、想像もできなかったような神の栄光、栄華を私に見せてくださったのです。しかし今の私は、神の愛の「深さ」を発見する旅路をたどっております。これが十字架の真の喜びです。それは、どのような状況に置かれても、主に感謝をささげることができるということです。
  私は今までの私の人生で起こったことを詳細に思い出してみました。私が主にひどく反抗していたり、罪を犯したりしていたときも含めてです。そして神に、私の人生のあらゆる段階において起こったすべてのことを感謝しました。私を傷つけた人をすべて赦しました。私の人生に起こったことで神に感謝をささげられなかったことは一つもありません。

  イースターにあたって、皆さんも私と同じように今までの人生を振り返って考えてみてください。あなたが前進するのを引き止めている事柄を、十字架のところに持っていってください。あなたに対する神の愛の深さを探り求めてください。神があなたを先ず愛してくださったように、あなたも神を愛してください。十字架の力によって私たちにはそれが可能とされたのですから。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-04-20 12:38 | アメリカからのメッセージ
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