火のバプテズマ         ショーン・ボルツ  4月28日

火のバプテスマ  
                                     ショーン・ボルツ
  
  私は最近ある都市を訪れましたが、そこで一人の牧師と会う機会が与えられました。彼はこれまで20年間、その地域で開催される多くの重要なカンファレンスを主催したりして、神に大いに用いられていました。また、多くの教派の牧師たちからも、主のために燃えている人として認められていました。彼の牧する教会は大きく、彼のヴィジョンも果てしなく広がっているようでした。 しかし今回私が会ったときには、彼も彼の教会も以前の栄えある姿とは、まったくかけ離れた状態になっていました。彼はその地域の聖会を主催するどころか、もうそれに参加することもしなくなっていました。 彼はまだ牧師をやめてはいませんでしたが、私のような預言者に会うということは、彼にとっては非常に気が重いことのようでした。 しかし、そういう気持ちにもかかわらず彼は私と会ってくれました。

  この神の人である牧師と会う前に、この都市の別のリーダーと話す機会がありました。 彼は私がこれから牧師に会うことを知って、次のように言ったのです。「ああ、彼はもう疲れ果てて幻滅を感じているんですよ。彼はもう落ち目ですね。神様は彼のマントルをもう誰か他の人に与えてしまったと私は思いますよ。」

  このリーダーがどうしてこのような評価をこの牧師に下すか、その理由はよくわかりますが、それは非常に心の狭い、身勝手な考え方だと私は思います。 それは神の御国の考え方ではなくて、西洋的ビジネス界の考え方であり、私にはうれしいものではありませんでした。

  私がこの神の人である牧師と会ったとき、私は主からヴィジョンを見せられました。ヴィジョンの中で私は、おびただしい数の世界中の聖徒たちを見せられました。彼らは神に大きく用いられてはいましたが、約束されているさらに大きなわざ(ヨハネ14:12)の領域にはまだ踏み込んでいませんでした。これら多くの聖徒たちは、かつてないほど困難な、しかし同時にすばらしいシーズンを今通らされているのだと私は信じます。 今という時は、自分の中にある罪を取り除き、キリストのご性格を自分のうちに形作っていくシーズンです。

火のバプテスマのための溶鉱炉


  人が火で精錬されるとき、自分では良いと満足していた外側の部分をすべて焼きつくされ、イエスに愛されている部分だけが残ります。そして自我から解放されます。次の聖句が私に示されました。 
  第二ぺテロ3:14-15 「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。…」

  この火による精錬期間は、時には非常に長期にわたりますが、そのシーズンの中で、神は聖徒たちを真の勝利者となるように訓練し、彼らが知恵と理解を得て、これから神の御国に入ってこようとしている人々の良い指導者になることができるようにされているのです。 主は忍耐をもって御自分の目標を完成させられます。私たちは、ペテロやパウロのように永遠の尺度で物を見なければなりません。そうすれば、私たちも主の目標が達成されるまで忍耐強くのぞむことができます。

  私はここで、罪を犯して不道徳に陥ってしまった人たちのことを言っているのではありませんし、ミニストリーをしていて間違いをおかして堕落した人のことを言っているのでもありません。それとは全く違った事です。ここで言っているのは、教会の中で勝利者となるようにと選ばれている人たちのことであり、今神に愛されているゆえに荒野を通らされている人たちのことです。イエスもこれと同じ荒野と試練を経験されました。これはイスラエルの子たちが不従順であったために受けた荒野の試練ではありません。(試練にはこの2種類があることを理解することは大切です。)

  神が求めておられるのは、キリストの聖なる愛に全面降伏することに基礎を置いている従順さです。これこそ主があらかじめ選ばれた人々の持つ特徴です。彼らはキリストの友であり、自分の日々の生活の中でキリストの十字架と復活を実際に味わっているので、頭だけではなく身体でその実体を把握している人たちです。

  現在のキリスト教会の動きや教えを、これこそ主との深い関係だと思ってしまっているベイビー・クリスチャンにとっては、キリストの十字架と復活は理解できないことかもしれません。成熟した大人としての深い歩みをしているクリスチャンは、聖会とか本とかテレビやラジオのクリスチャン番組とか、さらには教会にも依存してはいません。それらは非常に深く個人的な信仰にとっては、まあ、せいぜい補給剤として少しは助けになるかもしれない程度のものに過ぎないのです。
  神に今成長させられている多くの人たちは、今の教会に真の喜びを見出すことはできません。というのは今の西欧の教会は新しい信者や初心者を引きつけ教えることに重点が置かれているからです。しかし、神は「残りの者」(レムナント)を集めようとされていて、人々を救うだけではなく、もっと主の心の奥深くまで彼らを導きたいと思っておられます。

  多くの教会はこのことに焦点を当ててはいませんが、これこそが御国の焦点です。 神は大人に成長した愛人を求めておられるのです。神はヘブル5:14に書かれている神のご性質という堅い食物を食べる者を求めておられます。

「わたしは深みにいるもの者をもっと深いところへと招いている」

  私は昨年、心の中に主のはっきりとした御声を聞きました。 主は「わたしは深みにいる者たちをもっと深いところに連れて行く」と言われました。 それは、すでに主のこころの奥深いところで主との交わりを持っている者たちを、全く新しいレベルの深みにまで主は連れて行こうとされているのだ、と私はわかりました。
  第二コリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

  教会の中ですでに成長して大人になっている人たちは、今、次のレベルへとトランスフォームされて、もっと栄光に輝くようになるのです。 私たちは栄光から栄光へと変えられていくことができるのです。もし私たちがあるレベルの栄光にとどまるならば、キリストの栄光が教会のなかで増し加わっているという証明はできません。
  第一コリントの2章でパウロは、聖霊は神の深みを探り、その深みを私たちの中にもたらそうとしている、と言っています。その深みを受けることができるように、私たちはまず備えられる必要があるのです。ですから主は今私たちを溶鉱炉へ入れているのです。火による精錬を受けるためであり、その理由を理解すれば、それはすばらしい備えの時となるのです。

火のバプテスマ

  聖霊のバプテスマが世界に再びもたらされたアズサ・ストリートの100周年に今私たちがいることは、決して小さなことではありません。私たちは歴史上に神が定めた一つの分岐点に来ていると私は信じます。今まで神の心の溶鉱炉の火で焼かれてきた人たちが、まさにその火でバプテスマを受けるときが近づいてきているのです。また今は、すべて必要な力を天から注ぎ込まれ、さらに大きなわざをするようにと召されている彼らが自分の人生の中でそれを見ることができる時なのです。
  これからは多くの者にとって、主から新たに任務を与えられる時となると私は信じます。今までは世から隠されていた人たちが、油注ぎを受けて働きだします。それは、彼らが永遠に続く関係に基礎を置いている権威の座を獲得してきたからです。
  
  高校のテニスのコーチが、テニスだけは自分よりずっと上手な人に相手になってもらわなければ絶対上達しない、といっていたのを思い出します。これは神の御国で成長することにも当てはまります。神は私たちがお互いに一致することを成長の条件とされました。 地上で私たちが経験できる主の最高の栄光は、多くの世代のクリスチャンたちが受けてきた油注ぎをすべて一つに集めて、それによって私たちが皆愛において成長することです。 もしも私たちが乳ばかり飲んでいて堅い食物へと移っていかないならば、成長が阻まれてしまいます。

  さて、ここであの牧師の話にもどりますが、彼と話すうちに、彼が今のキリスト教会で「油注ぎがある」といわれているものに対して満足していないことがわかってきました。彼は疲れてうんざりしているのですが、それは神に対してではないのです。彼は、彼の周りで、低いレベルの霊の賜物が最高のもののように称賛されていたり、愛のために犠牲を払うものがあまりにも少ないことに対してうんざりしているのです。 彼と話すうちに、神を真摯に求めている彼の知恵ある姿が明らになり、私にとっても祝福となりました。

  彼の中には真理の御霊が隠されていることが私には分かりました。 彼はこの世の成功を目標としているのではなく、神から約束されているものを完全に受けることを願い求めているのでした。 彼は私に「あなたが見たいと願ってきたさらに大きなわざをあなたやあなたの回りで今までにどのくらい見ることができましたか?」と尋ねました。それに対する私の答えは、自分にとっても満足できるものではないことを認めざるをえませんでした。

  「私は天からしかもたらされない御国のさらに大きなわざを待ち焦がれているのです。神がそのわざを私を通してなされるように、私が整えられる日を待ち望んでいます。それまでは、主が私に任されたものを忠実に管理していきます。 私は時々は失望もしますが、失望に浸って暮らしてはいません。」と彼は話してくれました。

  腕が無かったところから腕は生えてくるような奇跡の力だけではなく、さらに大きなわざを私も見たいと切望しているので、彼のこの言葉は私を感動させました。 さらに大きなわざは、食べ物がないところに食べ物が奇跡的に与えられるということ以上のものです。人や御使いの異言で話す以上のものです。 これらはさらに大きなわざの副産物にすぎません。さらに大きなわざとは、私たちがキリストのご性質に完全に与らせていただき、地上で主を具現していくことができることなのです。それは父のご計画に完全に従って、この地上で神の御子であられるキリストを完全に表す者として生きる人生です。

  ロマ書8:22-24で言われている「被造物全体がこの愛が現れるのを待ち望んでうめいている」というのはこのことなのです。今の教会の現状をながめて、じっと霊の耳をすましてみてください。成長していて信仰の深みを少しでも知っているクリスチャンの間から、これと同じうめきが立ち上ってくるのをあなたは聞くことができるでしょう。

間もなくそのときが来ます

  私たちの今の世代は、聖霊と火によるバプテスマを受けて完全な姿にされる地点にまさに踏み込もうとしているのだ、と私は信じます。 パウロはエペソ3:19で、エペソのクリスチャンが神の愛の満ち満ちたさまにまで達するようにと祈っています。そして彼らはある期間、確かにそうされたと私は思います。 ですから、イエスの再臨を見るようにと選ばれた今の世代にいる私たちが、ただ啓示を受けるだけではなく、栄光の大人となった器とされて永遠に完全となるならば、どんなに素晴らしいことがおこるでしょうか!この目標のために今私たちは準備されていて、火によるバプテスマを受けているのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-04-28 07:32 | アメリカからのメッセージ
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