秋の日本旅行で感じたこと   坂 達也    11月19日

 2006年秋の日本旅行から帰って

9月26日から5週間にわたり日本の各地の教会(主に聖霊派)を回って参りました。
今回の旅行で感じたことは、今は神の御国をいただく最高の時に来ているということでした。ルカ12:32に 「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。
日本の教会といえば、教会員が100名を越すところは見渡しても数えるほどしかありません。みな小さな群れです。その小さな群れがそれぞれ何とかして「大きな群れになりたい」と苦心し、その方法を一生懸命模索しながら色々なことを試しておられる様子が痛ましいほどよく分かります。

そこで思い出すのはマルタとマリヤのお話です。ルカ10:38-42に「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

私はこの話を今の教会に当てはめてみることが出来ると思います。つまり、マルタが私たちの今の教会の姿であると言うことです。
イエス様を喜んで家に迎え入れたのはマルタでした。しかし、マルタはイエス様のご臨在の中で「いろいろなことを心配して、気を使って」忙しく働いていますが、イエス様のお話は聞いていませんでした。その気になればマルタは、マリヤと同じように先ず座ってお話を聞くことが出来たと思います。それによって食事の用意が少し遅れたとしてもイエス様はお怒りにならなかったと思います。あるいは、必要なことをしながらでも、主のお話に耳を傾けることは出来たかと思いますが、マルタはそうしませんでした。その気が無かったように思えます。

そこで、もし私たちの今の教会がマルタのようであるならば、イエス様は私たちに、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」とおっしゃられると思います。
そのポイントは、私たち教会が真っ先にしなければならないことを私たちはしていないと言うことです。私たちはマリヤが選んだことをすべきなのです。マリヤは、イエス様を待ち受け、イエス様のご臨在される時には、イエス様の前で集中して主を見つめ、聞き、そして礼拝しました。
マリヤは本当に一つのことだけを求めました。しかし、この一つのことだけを求めた人は他にもおります。それはダビデです。ダビデは叫びました。

わたしは『一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。…… あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。』(詩篇27:4,8、口語訳)

クリスチャンであるならば、私たちも同じように常にイエス様を親しく求め、イエス様の御声を聞いて、主と交わりつつ一日を過ごすべきではないでしょうか。なぜなら私たちの救いはイエス様個人にしかないからです。本当に頼れる人はイエス様しかおりません。ちょうど3-4歳の子どもが常に母親の足にまとわり付くように、私たちがいつもイエス様の御そば近くにいれば恐れるものは一つもありません。イエス様が道であり、真理であり、命です。(ヨハネ14:6)

それには毎日少なくとも時間を決めて、マリヤのようにイエス様を個人的にお迎えし、イエス様と親密な時間を過ごすことが、クリスチャンとしての必須最低条件であると思います。そしてそのイエス様と共に一日を歩むのです。これを英語でintimacyと言います。
思い出してください。私たちはボーンアゲインして、既に霊に生まれ変わった者であることを。私たちの実在は霊の存在であり、肉で生きているこの世の存在は、もはや仮の一時的な姿でしかありません。つまり「霊の人間」が「霊の主」と直接「霊で交わる」ことをしなければ、全く、どだい、話しにもならないのです。

私たちクリスチャンが皆そのようになる時に、私たちの「教会」に対する考え方が変わってくると思います。と言うのは、私たちが所属し奉仕している教会とは、実は、イエス・キリストが唯一主であり、ただ一人の師である「天の御国教会」と言う「霊の教会」であるからです。
今こそ私たちは、天におられる私たちの唯一、真の牧師を仰ぎ見て、その牧師と深く交わり、その牧師から総てを教わる時が来ています。そのために主は私たちの内に聖霊様を送られました。
私たちがこの世にいる目的とは何でしょうか。それは、私たちが「キリストのからだ」として建て上げられ、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられる」教会(エペソ1:23)になる霊的な弟子訓練を受けるためです。

そうであるとすれば、たまたま私たちが現在地上で属している地方教会とは、聖霊様によって振り分けられ配属された「天の御国教会何々支部」兼「弟子訓練教習所」とも言うべき、「兄弟姉妹の地上集会場」であると言うことが理解できると思います。

多くの人は今自分が属する地方教会に失望し、指導者に不満を抱いています。ある人たちは良い教会探しに余念がありません。しかし考えてみれば、この世では未だ完全な教会は一つもないのです。なぜなら私たち自身が完全でないのと同じようにどの教会の先生方も指導者も完全ではないからです。主ご自身がそのことを一番よくご存知です。だからこそ主は、私たちが至らない者同士助け合い、お互いを建て上げ、「組み合わされた建物全体が成長し、主にある聖なる宮となる」(エペソ2:21)ことを望んでおられます。

教会が今のような肉の人間の集団である限り、決して御国の教会にはなりえません。しかし、今こそ、真の御国の教会を求めるべき時が来ました。それはそんなに難しいことではありません。私たちが今そのことに気付き、本当に悔い改め、心から個人的に主を求めればいいのですから。後は総て主がしてくださいます。
このように私たち一人一人が主にしっかりつながることによって、私たちは「キリストの花嫁」に造り変えられ「キリストのからだ=真の教会」として建て上げられて行くのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-11-19 07:06 | 坂達也からの今月のメッセージ
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