他人の上着の裾と主の衣のふさの違い ダニー・ステイン 5月5日

他人の上着の裾(コートテイル)と主の衣のふさ(ヘム)の違い

ダニー・スタイン

人の上着の裾に乗る(他人の力にたよる)

息子が父親のようになるとは限りません。イスラエルの父祖たちは、約束の地で受け継ぐべきものを勝ち取るために、どんどん前進していきました。しかし、その子供たちは父祖からの遺産を受け継ぎはしましたが、自分たちに神から約束されていたものを、必死になって追い求めたわけではありませんでした。彼らの多くは、神から与えられた自分のゴールに、完全には到達できなかったのです。彼らは、父祖が勝ち取ったものの上で、胡坐をかいていたのです。彼らには土地も家も建物も仲間も金もすでにありましたし、自分たちが以前持っていた目標は、自分の今の生活に合わせて調節すればそれで済んだのです。子供たちの世代は、親に働いてもらった成果の上で気を抜いてしまったのです。

彼らの問題は心の中にひずみが起こることでした。自分が置かれている安易な立場を見て、自分にはすでに権利と特権があたえられていると勘違いをし、神が私たちに与えてくださった恵みを謙虚に感謝して受けるという感覚をなくしてしまったのです。

今日これと同じ問題が、教会の多くの側面に影響を与えています。「あなたが持っているものは何であろうと私も持つ権利があります。あなたがそれを得るのにどれだけ苦労をしたかなんて、知ったことではありません!」という空気が教会の中にあるのです。 この態度は預言的な働きの中にも侵入し、ただ人が聞いた声を真似するだけの「こだま」ばかりが蔓延し、自分が直接聞いた真の「声」はほとんどないという結果を生じています。 この現象が各地で起こっているのを私は知っています。ある一部の人たちが非常な努力をしているのを見て、自分たちもあたかも彼らと同じように成長したかのように感じてしまっているのです!

私たちは人の上着の裾に乗っているのです。その人たちが波の高い沖まで泳いでいってくれたので、彼らのサーフィンの板に便乗していた私たちも一緒に波に乗ることができるのです。私たちは自分で苦労して泳ぐ必要も感じなかったし、別に波に乗りたいと思ったわけでもないのですが、すでにここまで連れてきてもらったのだから、波乗りの名人と同じようにしてみたいと思うのです!
これは昔からあった問題です。ルシファーも心の中に同じ問題を抱えていました。 彼は神がされたことをずっと見ていました。そして彼の心に変化が起こりはじめ、高慢になり、その結果として彼は失墜してしまいました。

イザヤ14:13-14「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』ルシファーは神の上着の裾に乗って王座にまで上ろうとしたのです!

ハマンとヘロデ

自分に自信がないので、他人の力によってもっと高い地位に着き、自我を満足させようとした人たちが他にもいました。ハマンはその一人です。彼は人からの称賛を非常に求めたゆえに、プライドのわなに陥り、失脚しました。

エステル記5;7-13「エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、 もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」 ハマンはその日、喜び、上きげんで出て行った。ところが、ハマンは、王の門のところにいるモルデカイが立ち上がろうともせず、自分を少しも恐れていないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。 しかし、ハマンはがまんして家に帰り、人をやって、友人たちと妻ゼレシュを連れて来させた。 ハマンは自分の輝かしい富について、また、子どもが大ぜいいることや、王が自分を重んじ、王の首長や家臣たちの上に自分を昇進させてくれたことなどを全部彼らに話した。 そして、ハマンは言った。「しかも、王妃エステルは、王妃が設けた宴会に、私のほかはだれも王といっしょに来させなかった。あすもまた、私は王といっしょに王妃に招かれている。 しかし、私が、王の門のところにすわっているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これらのことはいっさい私のためにならない。」

自分に自信が持てないと、人間は往々にして権力のある人の「上着の裾」に対してこのように反応してしまうのです。もし私たちが自分ではっきりした神からの啓示をもたないと、他の人の思いつきに振り回され、人間の考えを絶対的なものとしてしまいます。 その願うところは人から認められることであり、名声であり地位です。神は私たちがへりくだりの場、即ち、自分のための名声など全く関係のない神の恵みの中にとどまることを望んでおられます! 歴史の書によれば、歴代のヘロデ王たちは、自分の地位を守るために兄弟や子供を度々殺害しました。ヘロデ家はその地位と権利を、血統と生き残ることによってのみ保ったのです。それは真のミニストリーが取るべき道とは全く正反対です。

マタイ14:6-12「たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。 ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」 王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。」

他人の上着の裾に乗ることの例は次のようなものです:有名な教会やミニストリーに所属していることに頼る、家柄を誇る、霊的父親からもらったタイトルや地位に頼る、著名な人と親しい故に自分も何か立派だと感じる、素晴らしい預言を受けたことを誇る。 誰かの上着の裾に乗っているだけの人生は、単に「こだま」として生きるだけで終わってしまいます。 つまり、自分で神を求めて神に出会った人の油注ぎのおこぼれを受けるだけの人生になってしまうのです。

エリシャはエリヤの外套(マント)を受けるだけでは満足しませんでした。彼は、他の者たちが約束の地で受けた油注ぎで満足しているのを尻目に、死に物狂いでもっと神を求めました。 そして彼はただのこだまではなくて神の声になることができたのです。

主の衣のふさにさわる

神が私たちに与えようと望んでおられるものは、私たち一人ひとりが必死になって神を求めるときにだけ実現するものです。神からの啓示は、誰かに手を置いて祈ってもらう時とか、誰かの油注ぎの中に浸った時に与えられるものではありません。 そういう時に与えられるのは、洞察とか知恵にしかすぎません。啓示は、自分自身で神に一歩一歩たゆまずに近づいていくときに与えられるのです。私たちがそのような努力をするときに、神はそれに目を留めてくださいます。神は、誰かの上着の裾に乗ろうとしているような人をご自分の王国を分け与える息子には決してしません。そうではなく、神は、神の衣のふさにさわろうと必死で近づいてくる者を待っておられ、神の国をその者に与えようされています。

ルカ8:43-48「ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。
しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。


私たちの心にあるいろいろな問題は、親から相続したものでは決して解決できません。 主を必死で求めるときにだけ解決するのです。 私たちが探し求めるべきものは、他人の油注ぎでもなく、又、過去に主を求めた人たちが考えた法則を守ることでもありません。それは、私たち自身が主を熱心に求めて主にふれることです。 神が人々の上に注がれた油を求めるのではなく、神から流れ出る神の油を、私の心は求めるべきなのです。私は人の上着の裾に乗るのではなく、主ご自身の衣のふさにさわりたいのです。

自分では何の努力もしないで安易に遺産を受け継いでしまうと、神からの啓示を受ける唯一の方法は神の臨在であることを、私たちはわからなくなってしまいます。私たちの人生のために神が備えてくださった目的を達成させるものは、神の臨在だけなのです。神の臨在だけが癒し、解放し、救うのです。他のものはすべて、単に他の人が聞いたことのこだまにしかすぎません。それは人がすでに聞いたものを体系づけたり、少し修正したものにすぎないのです。

神は私たちのためにもっと素晴らしい境地を用意されておられます。私たちには今はそれはわからないのですが、神の臨在の中で必ず見出すことができる場所です。

マルコ6:56「イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。」

天の倉

最近、私は主の臨在の中で沢山の建物のある場所に連れていかれました。主は、それは「天の倉」であると言われました。 これらの素晴らしい建物の中には、私が今まで聞いたことも見たこともないもので満ちていました。 そしてすべての建物の中は「新しさ」の空気で満ちていました。 私はもっと自分で探求すべきことが沢山あることを悟りました。 それらの新しいものとは、他人が書いた本の中で見つけるものでもなく、経験者がカンファレンスで語るのを聞いて得るものでもなく、また、他人に起こることを見張って得るものでもありませんでした。それは私の魂を愛してくださっている主と共に自分自身で必死に求めるべきものでした。

「上着の裾」は人間のころものすそです。「衣のふさ」とは神のころものすそであり、それこそ私たちが求めて触れるべきものです。そこにおいてこそ私たちの心の問題は癒され、回復され、解決されるのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-05-05 17:21 | アメリカからのメッセージ
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