とりなしの祈りとは   ジェームス・ゴール  5月19日

とりなしの祈りとは  

ジェームス・ゴール


アメリカでも著名なとりなし手の一人であるジム・ゴール師の著書Exodus Cryから抜粋して要約したものを下記にご紹介します。(坂 達也)
           
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 ゴール師はある時、主から導かれて、英国ウエールスにあるスワンジー・バイブル・カレッジを訪ね、とりなし手として世界的に有名なリース・ハウエル師の只一人生存する息子さんに会いました。そして、第二次世界大戦の末期に、ドイツ軍の攻撃の情報を、リース・ハウエルがどうして事前に知ることが出来たのかを訊ねました。ハウエルはそれをとりなすことによってナチの攻撃を何度も未然に防いだと言う有名な歴史的事実があるからです。その質問に対して息子さんは答えてくれなかったそうです。

しかしゴール師はあきらめず執拗に同じ質問を繰り返し、三度目にゴール師に同行したケロー師がひざまずき「アメリカは今重要な事態を目前に控え、本当にあなたのお父さんやあなたがされたようなとりなしを必要としています。ぜひ教えて下さい。…」と懇願した結果、息子さんは頬に涙を流しながらやっと、「あなたがたは、主のしもべである父が、完全に神によって所有された人であったことを理解すべきです。」と答えました。

彼は「私たちは主が代価を払われて、主ご自身のものとして所有されています。私たちはもはや私たちのものではないのです。私たちは神によって所有されるように召されています。」と言われたそうです。

 ゴール師はグスタフ・シェラーが「とりなしintercessionとは祈りではない、激しく祈ることでもない。誰でも、人のために、あるいは何かのために心から祈ることは出来る。しかしその祈りの結果に対しては、どのような代価を払っても決して取り消すことの出来ない責任を取ると言うことはしない。しかし「とりなし」とはその 責任を取ることである。とりなしにおいては、その祈る相手、あるいは対象が、自分と同一であることを認めることidentificationである。とりなし手はその祈る相手の立場に自分が喜んで取り代わり、その人の必要を自分の必要とし、その人の苦しみを自分のものとして苦しみ、それが答えられるまで産みの苦しみとすることである。
主イエスはまさにそのように『そむいた人たちのためにとりなし…』『そむいた人たちとともに数えられ…』(イザヤ53:12)『私たちのそむきの罪のために傷つかれた』(イザヤ53:5)のである。 
イエスは私たち罪人と同一人となり、その罪を自ら負って、その私たちの負い目の代価を払われた。」と言った言葉を引用して、「とりなし」の何たるかを説明し、私たちクリスチャン、あるいはとりなし手は、主の完全な所有物にならなければならないことを強調しております。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-05-19 15:43 | アメリカからのメッセージ
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