畑に隠された宝   フランシス・フランジペン    7月27日

天の御国は畑に隠された宝

フランシス・フランジペン

1983年に私はあるフェイス・チャーチ(奇跡、癒しが今もあると強く信じる教会)で牧師をしてほしいとの要請を受けました。 それは私がミニストリーから退いて3年経っていたときでしたし、また、フェイス・チャーチというものがどういう教会なのかもよくは分かりませんでした。 しかし、フェイス(信仰)という概念は十分に聖書的であり健全であると思いましたので、私はその仕事を引き受けることにしました。

その教会は一般的なフェイス・チャーチというよりは、教会の前にサテライト・ディッシュを構えているような教会で、そのディッシュには赤いペンキで、「Jesus Is Lord イエスは主である」と大きく書かれていたことを付け加えるべきでしょう。

私が3年間ミニストリーを離れていたのは、自分は失敗者である、という思いを深く抱いていたことが大きな理由であることを、ここでご説明しておいた方がいいでしょう。前に牧会していた教会の一人の婦人がウイルスに感染し、4日間で完全に身体が麻痺してしまいました。私はずっと彼女に付き添い、断食と祈りをしていました。彼女が5日目に死んでしまったとき、私は無力感で打ちのめされ、私の祈りの力に対する自信は砕かれてしまいました。この経験は私が若いミニスターとして受けたもっとも深い傷でした。

その婦人が亡くなってからの私の心の状態は全く荒れ果てたものでしたが、それをどのように取り扱ったらいいのか私にはわかりませんでした。ですから、あたかも自分の信仰は十分働いているように外面的にはよそおっておりましたが、実際はそうではありませんでした。その後何ヶ月も私は引き続き病人のために祈り、実際に信じている人のようなふりをし続けました。しかし、内なる私の密かな叫びは信仰の祈りとは程遠く、「どうか主よ、私の不信仰によってこの人の病がこれより悪化しませんように!」というような哀れっぽい祈りだったのです。

サタンはこの機会を十分に活用して私を食い物にしました。実際のところ私はひどく打ちのめされて、彼女の死は自分の所為だとまで思ったのです。自分はその婦人やご家族、また神ご自身の期待を裏切ったように感じました。 私には自分がエゼキエルが病気の羊を癒さなかったといって叱責している羊飼いの一人のように思われました。(エゼキエル34:4) 私にとって自分に正直に生きるためにはミニストリーを離れるしかありませんでした。

それで婦人が亡くなってからしばらくして、私たち家族はミシガン州を離れてアイオワ州の小さな農家に移り住みました。ミニストリーにもどりたいという願いはありましたが、それは主が再び召してくださるのでなければなりませんでした。

丸3年経ったときに、ついに再び主に仕えるときがやってきました。 このフェイス・チャーチで教えたり導いたりしようとしたわけです。しかし、過去の苦い経験の所為で、私のうちには不信仰という要塞が依然として残っていました。

非常に居心地の悪い月日でした。毎月この教会ではサテライトを使って特別のセミナーをみんなで見ていました。アメリカにいるすべての癒しや奇跡の信仰を掲げる教師たちが、自分の信じる真理を教えてくれました。それはマルコ11:23にある山をも動かす信仰か、あるいは、第三ヨハネ1:2からの繁栄の信仰を基礎にしているかのどちらかでした。

初めは私もまじめに見ているような振りをしていましたが、心の中ではどんどん疑問を持つようになりました。 サテライトからの教えは、偽りかもしくはバランスを欠いた教えであると私は確信するにいたりました。9ヶ月経ったときには、彼らが信仰に関する聖書箇所を間違って使っていると感じて、私は非常にイライラしていました。

プロジェクションTVの明かりがついているだけの暗い礼拝堂の中で、私は主に小さな声で、しかし怒りをもって文句をいいました。「主よ、フェイスを説く説教者はみんなこの聖書の箇所を間違って使っています!」
その途端、稲妻のように聖霊の声が私の心に響きました。「少なくとも彼らはその聖句を引用しているではないか!」

そうなのです。友人の死以来ずっと、それは数年に及びますが、私が教えるときはそのような聖書の箇所を使うのを避けてきました。聖書を読むときにもそこを見ることさえしなかったのです。自分個人の内的な葛藤の故に、神からの偉大な約束を見ても私の心は何も反応せず、その箇所を通りすぎてしまっていたのです。しかしそのとき、私は自分の心にリアルな信仰がなくなってしまっていたことにやっと気がつかされたのです。私の祈りはそれがかなえられることなど全く期待しないで、ただ口を動かしているだけのものになってしまっていたのです。

聖霊はなおも私に語ってくださいました。そして自分を正しいとする私を叱責してこういわれました。「わたしはいつでも不完全な人々を通してあなたに語るでしょう。あなたがそういう人々に対して批判的になった途端に、わたしがあなたに与えるために彼らに与えたものを、あなたは受けることができなくなります。」

その夜私は、自分の不信仰に関してだけではなく、プライドや人のあらさがしをしたことを悔い改めました。すると私の信仰は回復されたのです。それからの一年間は教会で癌の人や耳が聞こえなかった人、神経痛の人たちが癒されました。今でも私は、神がフェイス・ムーブメントを通して私に与えてくださったものを感謝しています。

不完全な人々を通して

主はこの経験を使って私に大いなる奥義を教えてくださいました。それは、私が霊的成長するための学びの多くは神が直接下さるのではなく、不完全な人々を通して神が語られるときに私がどれだけへりくだってそれを聞けるかにかかっているということです。癒しや奇跡を強調する教師たちに行き過ぎはあるでしょうか? 多分あるでしょう。しかし、神はご自分の知恵を色々な人や様々な教派の中に隠すことをよしとされていることを私は発見したのです。私が他の人々に対してへりくだればへりくだるほど、私の神を理解する範囲はどんどん広がっていくのです。

ある人はこう質問します。「不完全な教師からだまされるのが心配ではありませんか?」と。もし教師がまったく間違っているときは、私は直接その人に問い質します。しかし、沢山の聖書学者がこの世にはいて、人々がまっすぐで狭い道からそれないように目を光らせていることを神はご存知なのです。(その人たちをも私は感謝します!) 
もし私たちが真に天の御国を発見しようと思うならば、イエス様がそれは畑に隠された宝のようなものだといわれたことを忘れてはなりません。私は素晴らしい畑を発見しました。教会こそキリストの宝が隠されている畑です。もし宝を手に入れたいとおもうならば、宝の周りの畑の土を見て腹を立ててはいけないのです。土のついていない宝などないのです。宝とその周りの畑の土とはパッケージなのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-07-27 06:43 | アメリカからのメッセージ
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