神の御国と教会のビジョン  リック・ジョイナー 9月8日

神の御国と教会のビジョン

リック・ジョイナー  

数週間前のことですが、私がここ数年来経験したことがなかったほどの、非常にパワフルなヴィジョンを二つ見ました。 一つは、この世を造られたときの主の御心を示すものであり、もう一つは現在主が最も切望しておられるのは何であるかを示すヴィジョンでした。それによって、神の御心の切なる願いとは、主の花嫁なる教会に対するものであることが私はわかったのです。神の花嫁に対する愛は非常に強いものであって、教会が神の御国のために存在するのではなくて、御国が教会のために存在するのだ、という真理を、私は二つのヴィジョンを通して深く理解したのでした。
これは、私の考えに新たな方向付けを与えるものであり、今まで2年間私の御国に関する学びを聞いてくださっていた皆様にも、それをお分かちしたいと思います。

神の御国について私がこれまでお話してきたことを、変えるわけではありませんが、何を一番にするかというプライオリティーが変わりました。主は被造物を愛しておられ、地球を愛しておられます。主はすべてのすずめを愛しておられるゆえに、一羽でも地に落ちたら気がつかれます。しかしながら、主がご自分の花嫁に対して抱いておられる愛に比べられるものは、何もないのです。私は二つのヴィジョンを主から見せていただき、教会は主の花嫁となる備えをせねばならないと、固く心に思ったのです。

教会がその目的を果たすためには、まず自分がどのように崇高な召しを受けているかを認識せねばなりません。確かに現実的には問題が沢山あり、それらについても言及せねばなりません。しかし、もっとも重要なことは、教会が主から離れては生きていけないほど、主を恋い慕うようになることなのです。婚姻の用意を調える花嫁は、主を愛するゆえに準備するのであって、自分の目標を達成したいという野心からではありません。勿論、花嫁は自分の目的を知りそれに喜びを見出すことは必要ですが、それは主の栄光を見ることにくらべれば、とるに足らないことです。

言うまでもなく、宇宙のどこを探しても、神よりも愛すべきお方はおりません。主の道は私たちがもつ最高のものよりも、はるかにずっと崇高なので、たとえほんのわずかであっても主を知れば、私たちはそれによってトランスフォームされます。ですから、教会が召された姿にまで成長するための鍵は、主を見つめることなのです。私が油注ぎをいただきたいと何にもまして望んでいるのは、このことです。即ち、私が主を指し示すと、主を慕い求める思いで花嫁の心が一杯になる、という油注ぎを求めているのです。勿論、先ず自分の心の中に主に対するそのような思いがなければ、人にもそれを分け与えることはできません。神を愛することは、私たちの一番の崇高な召しです。最も崇高な召しを達成する者とは、主を最も愛する者です。

私が今までの書いてきたものを読んだ方は、私が常に教会を大切にしてきたことがお分かりになると思います。私が書いたり説教したりするときは、いつも、すべてのクリスチャンは地域の教会に所属するべきであるという考えを伝えてきましたが、それは私がクリスチャンになってすぐに与えられた一つの信念によるのです。その信念とは、クリスチャンが真に成熟するためには、生き生きとした真摯な教会生活が必要不可欠であるということです。私はますますこの信念を深めていますが、それと同時にそれを与えることが出来る教会が非常に少ないことも知っています。教会と個々のクリスチャンが、それぞれ与えられた目的を果たすためには、両者が変わらねばなりませんし、必ずや変わっていきます。

しかしながら、たとえ不十分な教会であっても、教会にまったく属さないよりはずっといいのです。実際のところ、問題のない教会に属するより、まだ完全でない教会に属するほうがずっといいのです。私たちはキリストに似た者となるように召されていますが、そのためには教会生活の中で多くのフラストレーションを感じたりイライラさせられることが必要なのです。誰でも完全なものを愛することはできるでしょう。しかし、不完全なものを愛し助けるために忍耐の限りを尽くすことこそ、主がこの地上を歩かれたときに示された御性質です。今というシーズンは、私たちは未成熟なものといるほうが自分が成熟できるのです。もしキリストのからだなる教会がチャンとするまでどこにも属さないで待っていると、教会はどんどん進んでいってついにあなたは追いつけなくなってしまうでしょう!

神の御国はやってきます。御心が天で行われるように、この地でも行われるようになります。地上に打ち立てられる神の御国は、言葉では言い表せないほど栄光に満ちた素晴らしいものです。この地は最初に創造されたパラダイスに回復されます。しかし、教会にはそれよりも崇高な召しがあるのです。教会は天国の領域へと召されています。主と共に御座に座り、主と共に支配し治めるのです。 教会はまた、主の聖なる御性質をも持つことを許されます。霊的な人たちは人からよく「彼らは天国のことばかり考えていて地上では何の役にも立たない。」というお叱りをうけますが、実のところ、地上のことで心を満たしているクリスチャンは、地上でよい働きはできません。本当に天国が私たちの家にならなければ、地上でできることはあまりないのです。

主は過去20世紀の間、私たちクリスチャンに「御国が来ますように。」と祈らせてきました。けれども、主の花嫁の準備が整うまでは、御国は来ないのです。ですから、御国を来たらすために私たちができる一番効果的なことは、教会が召しにふさわしいものになるように助けることです。花嫁は天で主とともに座し、地上にいるよりも主の御そばこそ自分のいるべき場所であると感じるのが、その召しなのです。

この社会をトランスフォームしようとしている人たちを、私は感謝します。しかし、いろんなアイディアをもってなされるトランスフォーメーションは、教会を通して成し遂げられるのでなければ、非常に限られたものです。教会は山の上の光となるように、つまり、それを見るものが、その光の源は一体なんだろうと、どうしても探求したくなるような偉大な社会に教会がなるということです。教会は地上で神の御国になるようにと召されています。即ち、それは天からの社会、文化であり、堕落した世の中とは全く違う姿で大胆に立ち上がり、自分の王であられる神の知恵とご性質を世に表していくものになることです。ですから主のからだなる教会の中で人がコミュニティーを形成しないでその目的を達成することは、絶対にできません。

コミュニティーといっても、そのメンバーがみんな近隣に住まなければならない、と私は言っているのではありません。 住んでいる場所を越えた聖徒たちの真の交わりの結びつきがあるのです。地上の家族のメンバーは成長するとばらばらになり、それぞれの道を歩んでいきます。しかし、天の家族は成長するとともにもっと親密になります。天の家族はどんどん成長し、地上で一番親密な家族よりも霊的な結びつきがもっと強くなっていくのです。
すべてのクリスチャンの心の中には、永遠の神の家族の一員として結び合わされることを切望する思いがあります。それは私たちがそのことを目的として創造されているからなのです。

キリストのからだなる教会は、これから一つにされていきます。今が本当に終末であるという様々なしるしの中で、このことこそが一番偉大なしるしとなるでしょう。なぜならば、それが起こるまでは、絶対にこの時代は終わることはないからです。これが起こるとき、もはや崩れることのない堅固で偉大なる地上にある御国という砦から、御国の福音が語られるようになります。花嫁が一つになり、完全になるという、主ご自身がされた祈りや預言は、この時代が終わる前に成就されねばなりません。

真に新しい契約での教会生活をしたいという願いが教会の中で呼び覚まされるとき、教会は再び一つになってくるでしょう。教会が一つになり始めると、主がその真ん中に立たれるので、教会は自分を愛するより、もっと主を恋い慕うようになるでしょう。この召しに答えるクリスチャンは至高のコミュニティーの中に入れられますが、けれどもそれが彼らの求めることではなく、あくまでも主と親しくなることが目標です。人間の心が最も慕い求めるものは、コミュニティーではなく主ご自身です。しかし、主と親しくなるためには、コミュニティーが必要なのです。

マタイ18:20で主は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と宣言しておられます。ここで「集まる gather」と訳されている言葉は、集会のために人が集まるというのではなく、もっと深い意味があります。それは、車の部品が組み合わされて一台の車になるという意味です。バラバラでは一つ一つの部品は人を乗せてどこかに運んでいくことは不可能です。しかし、組み立てられて一つになるとき、多くのことができるのです。ヘブル10:23-25にあるのも同じ意味です。

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」 ヘブル10:23-25

ここでパウロがやめてはならないといっている「一緒に集まること assembling together」という意味は、ただ集会に集まるということではなく、車の部品がしっかり組み立てられて一つの車になることを意味しています。部品一つ一つも大切ではありましょうが、それらが適切に組み立てられなければ、何もすることはできません。キリストのからだでも同じことが言えるのです。

初代教会の時代に、主を信じた人々が「教会に加えられた」 のには理由があります。ミニストリーの中には、沢山の人々に触れて影響を与えるけれども、主のからだなる教会を一つに建て上げることはしないものがあります。私たちはそのようなミニストリーがどのような実を生らせているかを調べる必要があります。その実はどのくらい残るのか? 彼らが去ったあとでも人々は本当に変えられているだろうか? 主の教会はそのミニストリーによってもっと明るく輝くようになったか? クリスチャンと称する人たちとノン・クリスチャンとを比べるた調査結果によれば、その特徴にはほとんど差がないのはどうしてか? このようなことを見ていくと、確かに何かがおかしいことを認めざるをえません。

私はこのようなミニストリーをしている伝道者たちに、教会の諸問題の責任があるといっているのではありません。どういう方法によろうとも、福音を語ったり病を癒すことを主の御名によって行い、人々に影響を与える人たちがいることを、私たちは喜びます。そして多くの伝道者が自分の集会で回心した人たちを、教会に送りこむのを躊躇するのも分かります。それは多くの教会が死んだ宗教しかもっておらず、新しいクリスチャンからいのちを奪いとってしまうだろうことを、彼らは知っているからなのです。しかしながら、これこそ初代教会時代には、伝道者のあとに続いて、使徒、預言者、教師をがその地を訪れた理由であり、彼らが教会を建て上げたのです。現在の新約時代の多くのミニストリーが、協力して働くことを学ぶまでは、ほとんどの実はこれまで通り失われてしまうでしょう。勿論伝道者たちが福音を語り、癒し、人々を主に導くことは、しないよりはするほうがいいのですが、新しい信者がキリストをもっと知って成熟、成長し、キリストのからだの中での自分の適切な位置を見つけられるように助けることができる教会が立てられねばなりません。

第一ヨハネ4:20で言われているように、主を愛していて兄弟を愛さないことは不可能です。また、主を真実愛していて、主の教会を愛さないことは不可能です。もし私たちが主を愛しているのなら、主の花嫁が私たちの王にふさわしい花嫁になるように、何をしてでも助けたいと思うはずです。主が一番恋い慕うのは花嫁だからです。そして、主が喜ばれることが私たちの心の願いなら、主のために花嫁の用意が整うようにと助けるでしょう。これこそが主の道を備え御国の王道を築くことなのです。(終わり)


トップへ戻る
[PR]
by walkwithgod | 2007-09-08 14:19 | アメリカからのメッセージ
<< 2008年 春の日本でのミニス... 引越し その3 坂 柚実子  ... >>