神を楽しんで生きる キャシー・ウォーターズ 9月15日

栄光の中で神様を楽しんで生きる

キャシー・ウォルタース

最近のことですが、ミニストリーのために西海岸のある空港に着いたとき、数人の婦人たちが「あなたが来てくださって本当に嬉しいです!」と、とても興奮した様子で出迎えてくださいました。そして、「私たちは神様からのタッチを本当に必要としているんです。」と言われました。私も夫のデイビッドも、このような言葉をしばしば聞きます。

実は、人々がこのように「神からのタッチ」を求める言葉を耳にすると、私は少し気がかりなのです。というのは、神は私たちに「タッチ」よりもっと素晴らしいものを備えていてくださるからです。それは神の栄光の中に生きるということです。人々が神を求めているのだ、ということはよく分かります。しかし、もし神の栄光の中に生きることをみんなが会得したなら、自分自身が神のタッチを与える者になることができ、他の人にそれを求める必要はなくなります。

考え方を変える

神はクリスチャンを祝福していてくださいますが、神がよしとされないことがあります。例えば私たちの宗教的な考え方がそうです。聖霊は真理の御霊ですから、真理に反する間違った考えの中に臨在されることはありません。神は、私たちが変えねばならない三つの考え方について私に示してくださいました。これは非常に重要なことです。

まず第一に変えねばならない物の考え方は、ほとんどのクリスチャンがしてしまっているものです。意識的であれ、無意識にであれ、私たちは、「自分の古い性質(古い人)を変えて自分を良くしよう」と努力をしています。イエスはそのようなことのために、この世に来られたのではないことを、本当には理解していないからです。イエスは古い人を十字架にかけてくださり、私たちが、すでに義と聖さのうちに造られている新しい人として、信仰によって歩めるようにしてくださったのです。

サタンは「そのように超自然的な領域で生きる資格は自分にはない」、と私たちが感じるように、常に働きかけるのです。でもサタンはうそつきであり盗人であることを忘れないでください。イエスによって私たちは100%、新しい人として生きる資格があるのです。神様が90%してくださったが、私たちが残りの10%をしなければならない、というのでは決してありません。神様が100%なのです。天使や天からの訪れ、神の馬車というような超自然的なことは、私たちの毎日の生活の中で普通に起こるべきことなのです。それらは、神の栄光の顕われだからです。

IIコリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
ユダ1:24 「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」

私たちは神のトロフィーであり作品です。働くのは神であり、私たちの仕事は、主に総てを明け渡すことだけです。私たちは、自分で努力をしながら生きるのではなく、すでに神がしてくださったことの中に生きなければなりません。「主よ、あなたの栄光を注いでください。」と祈らないでください。主はすでにそれはされたのですから。自分の努力で栄光から栄光へと変わることはできません。私たちは主の御霊によって変えられるのです。

第二の間違った考え方は、「誤った責任感」です。私たちは、主から与えられたことだけに責任があるのです。それだけです! 重圧の霊は、私たちにはどうすることもできない事柄や人のことまで、責任を感じるように仕向けるのです。私たちは誰をも変えることはできませんし、誰かに何かをさせることなど絶対にできません。

過去に起こった多くのリバイバルが、この宗教の霊によって消滅させられました。例えば、ウェイルズ地方の大リバイバルのために、神は一人の若いリバイバリストを大きく用いました。彼は神の器であり、神の栄光が彼を通して流れ出ました。けれども、一年が過ぎた頃、彼は、人々が御霊にどのようにお応えするかということに関して、自分に責任があると思うようになってしまいました。自分が考えるとおりに人々が聖霊に応えない場合は、彼はその集会から立ち去ったり、集会を中止したりしたのです。彼のこの行動は、その地と民衆の上に重圧の霊を招いてしまいました。彼が自分のものではない責任まで抱え込んだからです。

私たちの責任とは、神が「しなさい。」と言われることを行い、「言いなさい。」といわれることを言い、「行きなさい。」と言われる所に行くことです。神が私たちに要求されるのはそれだけであり、そうしていれば、私たちは喜びをいつも保つことができます!

第三番目の宗教的な間違った考えは、「偽りの重荷」を私たちが担ってしまうことです。私たちはとりなし手として、ただ聖霊に委ねればいいのです。とりなしの霊の油注ぎをいただくときに私たちは霊的戦いをしますが、それは私たちが自分でしているのではなく、天からの油注ぎによってしているのです。私たちは宣言をしたり、笑ったり、泣いたり、床に転がって叫んだりするかもしれません。しかし、それが何であろうとも、重荷はやがて私たちから取り去られます。なぜならば、イエスこそが父の右座におられる究極のとりなし手であられるからです。

あるとき、私はフロリダのとりなしのグループに入っていました。ある日のこと私たちは霊的戦いをしていたのですが、重荷が非常に重く、それは私たちの上にのしかかる黒雲のように感じられました。ついに、一人の人がグループのために祈り、この偽りの重荷を投げ捨てました。みんな重荷が去る瞬間、それを実際に感じることができました。私たちはみんなで大笑いして、休憩をとることにしました。というのは、もう一度油注ぎを受けるために、時には休憩も必要だからです。

神は私たちにまず神を楽しむようにと召されているのです。結局のところ、もし主を楽しむことがなかったら、主に仕える意味がないではないですか。

あなたの考え方が聖霊の動きを左右する

以上3つの間違った考えが、聖霊が来てくださっても、また去ってしまわれる理由です。ある教会やミニストリーで力強い神の働きがあったとしても、2年くらい経つとそれが消えてしまうのは何故でしょうか? 人々はどうしてだろうと悩み傷つきますが、多くの場合神の動きを終結させてしまうのは、中絶の霊の所為なのです。それまで聖霊の動きや主の臨在を楽しんでいた人々に影響を与えてしまうのは悲しいことです。

私たち夫婦が聖霊の働きに目覚めたときには、すでに私たちは神学や頭の知識でぐるぐる巻きにされていました。すべての神学や教義についての知識を持っていましたが、私たちはそのとき、主ご自身を探し求めはじめたのです。神様に飢えていました。そしてロンドンの南で起きていた力強いリバイバルに出会ったのです。そこら中から人々が集まってきました。神の臨在が圧倒的にありました。そこで私たちをつまずかせた第一の要因は、私たちが世俗的であったことではなく、私たちが持っていた神学と頭の知識でした。キリストのからだが一つとなり神に働いていただくとき、誰がとか、何が、とかは全く問題ではなくなり、ただ神だけなのだ、ということを、私たちは学ばされました。キリストの麗しい臨在があれば、他のことはみんなどうでもよかったのです。

集会から帰っていった人々は、バス停まで行き着くことができませんでした。油注ぎを受けて彼らは人の家の前で倒れてしまったり、木にぶら下がったり、茂みの中に寝転がってしまったのです。集会場所の問い合わせの電話があると、私たちは「人々が外の道路に寝転がっていますが、気にしないで、それをまたいで中に入ってきてください。」と伝えたものでした。神の栄光がすべての人の上にありました。銀行の人にも、ごみ収集人にも、子供にも、年寄りにも。

時には私たちは、イエスの足もとにただ座り、休息し、主が降り注いでくださる愛を受けなければなりません。主は私たちに、四六時中休みなく走り回れ、とは言っておられません。

主は私たちの魂を愛し守ってくださる方です。私たちは主の瞳であり、主から愛されている者です。主はその栄光で私たちを覆ってくださったので、私たちは休息し主の栄光の中に生きることができるのです。忘れないでください、主が私たちを主のもとに召してくださったのです。私たちは主の宝物です!(終わり)


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by walkwithgod | 2007-09-15 08:55 | アメリカからのメッセージ
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