冷えた愛という要塞  フランシス・フランジペン   2月2日

冷えた愛という要塞

フランシス・フランジペン

あなたの愛は、ますます成長していて、よりやさしく、より輝き、より大胆で、より顕著になってきていますか? それとも、より一層分け隔てをし、計算づくで、自分を守ることに一生懸命で、出し惜しみをしていますか?これはとても重要な問題です。なぜならばあなたのキリスト教信仰のリアルさは、あなたの愛がどれだけリアルであるかにかかっているからです。あなたの愛する力が、もし明らかに減少しているならば、それは冷えた愛という要塞があなたの中に作られている証拠です。

赦さない思いから身を守れ!

「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)
      敵が教会に挑んできている大きな戦いは、教会同士の関係です。サタンは、分裂した教会は立つことができないことを知っています。私たちは一時的には祝福を受けたり、ブレークスルーを経験するかもしれません。しかしイエスは今、町を勝ち取るために町全体の一致団結したキリストのからだを形成しておられます。そしてこの一致団結して勝利を勝ち取っていく「教会」は、愛を貫くコミットメントを旗印としているのです。しかしながらこの終わりの時、不法が増し加わるためにクリスチャンの真の愛は手痛い打撃を受けることになるでしょう。

愛のないところには霊的一致もなく、故に永続的な勝利もありません。愛とは、一つになりたいと願う情熱です。それと反対に、苦々しい思いは愛の欠如を明らかにあらわしています。冷めた愛はサタンの要塞です。今の世の中には冷めた愛がますます広がっています。冷めた愛は祈りの力を閉ざし、癒しとアウトリーチの流れを止めてしまいます。人々の心や教会の中に赦さない思いがかたくなにこびりついていると、実際に悪霊(の世界)はそこに自由に出入りすることができるのです。

聖書は、苦い根はたとえ小さなものであっても芽を出して多くの人を汚すと警告しています。(ヘブル12:15参照)苦い思いは、報復をしたいのにそれが出来ないときに心に生まれます。人の気持ちを考えない人とか情け知らずの人から容赦のない言動を受けると、私たちは深く傷つくことがあります。この世はますます世知辛く残酷になってきていますから、傷つけられることがどうしても起こるでしょう。その時に、もしも傷つけた者に対する怒りを自分の霊のうちにずっと抱いていると、それは必ず私たちから愛する能力を奪ってしまいます。気づかないうちに、私たちは終末の時に警告されている愛が冷えてしまう大半のクリスチャンの一人になってしまうのです。

苦々しい思いがあるのは、あなたの心の中に冷えた愛の要塞があることを端的に示す症状です。冷えた愛への対処は、悔い改めて自分を傷つけた人を赦すことです。あなたが痛手を受けた事件は、敵を愛することをあなたに教えるために神が許された事だったのです。もしまだ赦していない人がいるとすれば、あなたは神のテストに失敗したのです。幸いなことに、それはただのテストであり卒業試験ではありませんでした。私たちは神のような愛を成長させる機会を神が与えてくださったことに心から感謝すべきです。あなたの人生が苦いしい思いや(傷つけられたことに対する)憤りに飲み込まれなかったことを神に感謝してください。毎日、何百万という魂が苦々しい思いから逃げる望みもなく、永遠の裁きへと向かっているのです。しかしあなたは、痛みに対する神の答えをいただいています。神は逃れる道を与えてくださっているのです。それは愛することです!

私たちが神の愛を胸に抱きキリストのように人を赦し始める時に、私たちは自分の心の中の冷えた愛の要塞を実際に打ち壊わしているのです。そしてこの経験を通して、私たちは以前よりもっとキリストの愛を持つ者となります。


コミットメントのない愛は愛ではない

マタイ24:10-12「そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

はっきり言わせていただきますが、コミットメントのない愛などというものは存在しません。その人の愛は、相手に対するコミットメントの深さによって測られるものです。「私は以前愛したこともありましたが、傷つけられました。」とか「教会のために働いていましたが、人々は私を利用しただけでした。」というような言葉を私たちはよく聞きます。もしあなたがコミットメントをやめるならば、それは即ち愛することをやめることなのです。コミットメントが冷えるのではなく、愛が冷えるのです。そういう人は一見、愛が冷めたようには見えないかもしれません。 以前と変わりなく教会には出席し、賛美を歌い、「よいクリスチャン」のように見えるかもしれません。しかし、内側はかたくなになり、他の人々との交わりを持たなくなります。彼らは愛から身を引いてしまったのです。そういう人のコミットメントは浅いので、些細なことで気分を害します。

イエスは「つまずきが起こる事は避けられない・・・」(マタイ18:7)と言われました。毎日の生活の中で、たとえ善良な人であっても調子の悪くなる日は必ずあるものです。地上で生きている限り、あなたの歩いていく場所につまずきの石が全くなくなることはないでしょう。私たちは大きな岩ではなく小石、些細なこと、につまずくのです。つまずくとは、歩くのをやめて転んでしまうことです。あなたは最近誰かの弱さや罪につまずいたことがありますか? あなたはすぐに起き上がって前と同じように愛し続けましたか?それとも、愛のうちに歩くことをやめてしまいましたか? 私たちの心の愛を純粋に保つためには、自分をつまずかせた人を赦さねばなりません。

人を赦すことを拒んだり、人の弱さを見逃してあげない度に、あなたの心は彼らに対してだけではなく、神に対してもかたくなになっていくのです。ある人に対して否定的な思いを持ち、それが心の中で固まってその人に対する態度となってしまうことを、あなたは自分に絶対に許してはなりません。もしそれを許せば、その度にあなたの心のある一部分が神に対して冷えていくのです。「自分は神に対して心を開いている」とあなたは思うかもしれません。しかし、聖書ははっきりと言っています。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(第一ヨハネ4:20) たとえあなたがその人のしたことを好まなかったとしても、その人を愛することをやめてしまうという選択肢はあなたにはありません。あなたが選べるのは愛だけです。

私のいう「愛」とは何でしょうか? まず、私は「タフ・ラブ 厳しい愛」のことだけを言っているのでないことを申し上げます。私は、優しくて、情愛にあふれ、繊細で、オープンで、変わらない愛のことを言っているのです。勿論、神は必要な場合には厳しくなられますし、私たちも神に示されたときは、きっぱりとした態度をとります。しかしその厳しさの下には愛の川が流れていて、地表にあふれ出る機会を待って常に待機しているようでなければなりません。私が「愛」というのは、自分の愛する人から神の最高のものが現れ出るのを見ようとする強い思いであり、それは信仰と祈りによって強められ支えられます。誰かを愛するということは、その人がいかなる状況にあっても自分は彼を見放さない、と決意することです。それがコミットメントです。

私たちは皆、自分を愛してくれて自分が不完全であっても決して見放さずコミットしてくれる人を求めています。お互いに愛し合いコミットし合うクリスチャンによって、はじめてキリストの完全さは実現するのです。これは私たちがただ救われたところにとどまるのではなく、お互いに愛し合うまで救いのうちに成長することであり、即ち、キリストが私たちのためにしてくださったことに倣うことなのです。

多くの人は、ほんの些細な落ち度や人間的な弱さにつまずくでしょう。大したことでもないことを、敵はあっという間に、まるで大きな問題でもあるかのように膨らませます。身を引いてしまうことを正当化するために人々が使う言い訳は、なんとお粗末なことでしょうか。実際のところ、彼らの言う様々な問題(教会とか牧師に関することが多いですが)は彼ら自身の愛の欠如を隠すために張られる煙幕です。

コミットメントができないという問題を私たちはどうにかして乗り越えねばなりません。なぜならば、神が私たちに与えられた地上での目的を完全に成就させるためには、私たちが不完全な人々にコミットしてゆくしか道がないからです。

「まあ、私と同じような信仰を持っている教会を見つけ次第、コミットしますよ。」というのは、とても危なっかしい言い訳です。というのは、あなたがある人を赦せないと感じたり、神があなたの愛の純粋さに関して取り扱いをはじめられるや否や、「自分がその教会をやめるのはある小さな教義の違いのためです。」とあなたは弁明することでしょう。神の御国は教義だけを基礎として建てられるのではなく、神との関係と神を信じる人々の関係の上に建てられるのです。教義というものは、この二つの関係の意味を明確にするためにだけあるのです。私は教義を持つことに反対しているのではなく、徳のように見えて実は冷たい愛を正当化するために使われるむなしい教義に反対しているのです。

最高の命令

律法の専門家が、ある時イエスに一番偉大な戒めはどれかと尋ねました。イエスの答えはすばらしいものでした。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次はこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マルコ12:30-31)イエスは、第二の戒めは第一と同じであるといわれました。あなたが神を愛するときに、人々に対するあなたの愛は、神に対する愛と同じなのです。あなたが神を無条件で愛すれば愛するほど、他人をも無条件で愛するようにならねばなりません。

「イエス様と私がいれば、それで十分です。」という態度の人に、私は「あなたがイエスを見出したことはすばらしいですね。」と申し上げましょう。しかし、その人がイエスを愛すると言いながら、主が言われたことを行わないということはおかしいのです。キリストを愛し信じるならば、私たちもキリストと同じ愛と信仰を持つようになります。そして、キリストのように私たちも人々に対してコミットするようになるはずです。

お分かりですね。神の御国は私たち同士のお互いの関係の中にもっとも完全に現されます。私たちは全うされて一つになるのです。(ヨハネ17参照)御国を持つためには、私たちは個人的にも、また、教会としてもお互いにコミットし合わねばなりません。もしキリストが、私たちがまだ不完全であるのに受け入れてくださったとすれば、私たちも互いに受け入れ合わねばならないのです。神の御国を実際に手に入れるのは、人々の欠点という障害物を克服する人たちです。彼らは、神が召してくださった「生きたイエス・キリストのからだ」になるために、お互いに助け合うのです。

冷えた愛という要塞を打ち壊す目的は、キリストのからだの一致を実現させるためであることを忘れないでください。これは簡単なことではありませんが、私たちがあきらめなければ、やがてキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを見出すでしょう。そして私たちは、神御自身が満ちあふれるキリストのからだとなることでしょう。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-02-02 13:14 | アメリカからのメッセージ
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