預言的ワーシップ(2)  ローレン・サンフォード  4月11日

預言的ワーシップ(2)

ローレン・サンフォード

第一コリント14:24-25 「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」

預言的ワーシップは私たちを祝福すると共に、私たちの心の中に秘められたものを明らかにすべくかき乱すので、そこから逃げたいという思いを起させます。それは罪が示されるからかもしれませんし、また、私たちの中にある聖い願いを明らかにするからという場合もあります。私は1996年にトロントで行われた「キャッチ・ザ・ファイヤー」というカンファレンスに出席しましたが、そこではデイビッド・ルイス師が5000人ほどの人のためにワーシップを導いていました。そのワーシップには預言的なものが多分にあって、神は私の心の中をかき回し、引き抜いたり植えたりされました。

預言には私たちの願いや意図の中にある良いものも、又、悪いものも明らかにする働きがあります。その頃私は自分の教会の状態について大層惨めな気持ちでおりました。私の両親はインナー・ヒーリングに関しての素晴らしい働きの先駆者として有名です。私の教会のメンバーのある人たちは、両親が実際に何を教えているのかはよく理解せずに、教会を巨大なカウンセリング・センターのようにするという期待を私に押し付けてきました。そして両親の教えを誤って適応した結果、メンバーたちは自分の内面ばかりを厳しく見つめる、病んで何もできない人たちの集まりのような教会にしてしまっていたのです。

カンファレンスでのワーシップの時、主の御霊が私のうちに流れこみ、私はこう叫んでいました。「主よ、あなたの民を牧し、あなたに仕えたいと思っていましたが、それが一生同じ人々の手を取り、同じ人々を何度も何度もカウンセリングし、そして彼らが自分にばかり焦点をあてて自分の臍ばかり眺めているだけならば、主よ、私をもう御許に行きたいです。死なせてください。もう十分です。」と。 私は本気でそう思っていました。それに対して主ははっきりと答えてくださいました。「あなたは何がしたいのですか?」と。そして私は本当に初めて「私は預言的伝道者になりたい。私は魂を勝ち取りたい。」という自分の気持ちがはっきりと分かったのです。この啓示を受けて、私は涙を流しながら妻に倒れこみました。彼女は私に何が起こったのか全くわかりませんでした。

続けて主は「それならば、家に帰って教会の人々に『私を両親の油注ぎから開放してください』と告げなければいけません。」と言われました。 そして、私はその通りにしたのです。教会の人たちは自分たちの態度と焦点を抜本的に変え、それによって数ヶ月後にみんながトランフォームされるリバイバルが起こりました。未だにそれは続いています。預言的ワーシップは、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えさせるのです。端的にいえば、あなたをかく乱するのです。私の人生を変革するあの出来事が起こってから2年あまりの間に、私は全く別人になりました。そして私はそれを喜んでいます!

預言的かき乱しが始まったとき、たとえ心の中の泥が沢山かき混ぜられるように感じても、そこから逃げたり、心を霊的、感情的に閉ざしてしまいたいという誘惑に負けてはいけません。池というものは、掃除を始めるまでは本当に澄んでいるように見えるものです。でも掃除を始めると、コンクリートの底にたまっていた泥が水を濁し、随分汚れていたことが分かります。その泥を見て混乱してはいけません。私たちの中に隠されていたものや汚れた根が引き抜かれるときに泥が出るのです。それは神があなたの池を掃除されていると言う意味なのです。そうなったら最後までその過程をやり通してください。十字架のもとに行き、イエスに近づくのです。あなたの中の解決されていない罪をかき立てる力が働いていたのです。その力はあなたをその罪から解放するためにも働いてくださるのです。あなたの罪がかき立てられたのはそのためであり、あなたを自由にするのが目的だったのです。罪の根を引っこ抜くことができる力は、又、植えることもできます。それが預言の働きでありプロセスなのです。

1998年に、神は私の中に新しいレベルのワーシップに対する解放(自由さ)を与えてくださいました。自由に踊ること。自由に表現すること。主の歌を歌うこと。これらは私に対する預言のことばの結果として起きたことではありませんでした。自分でそうしようと思って起こったことでもありません。それはその年に私たちの上に注がれ始めたある種の預言的ワーシップの結果生まれてきたのです。それは私の中に新しい何かを植えました。それは私の中で眠っていたか、あるいは存在しなかったものを建て上げました。預言的ワーシップには他にはない特別の次元があります。その油注ぎのもとにいて変えられないでいるというのは不可能なのです。

預言的ワーシップとは

使徒パウロはエペソ5:18-19でこれに関して次のように語っています。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」

預言的ワーシップにおいては、それに気がついていないかもしれませんが、 主に向かって語ると共にお互いに対しても語り合うのです。これは、ワーシップ・チームが舞台の上でただパーフォーマンスをしているようなワーシップでは絶対いけないという理由の一つです。ある人たちは「でも、私はただ聞くのが好きなんです」と言って異議を唱えるかもしれません。いいでしょう。しかし、会衆ワーシップというものは、誰かが楽しむためのものでは決してありません。私たちが一緒に歌うときは、互いに語り合い、互いに励まし合い、高め合うのです。あなたの隣の人が歌うのを聞き、隣の人はあなたの歌うのを聞き、そしてみんなの声が一緒になって神の御前に立ち上っていくときに、私たちは歌の中で互いに語り合い、共に主の臨在や、時には主の御ことばをお互いに分かち合うのです。会衆全体のワーシップは預言的な要素(次元)を含むことができますし、また、含むべきなのです。

エペソ5:18-19には、3つの歌の種類が述べられています。最初は詩で、これは、聖書の御ことばをみんながよく知っているメロディーで一緒に歌うものです。2つ目は賛美歌です。「何百年も前の古い歌で、多くの現代人を退屈にさせ、その上とても高いピッチで歌われるのでソプラノの人しか歌えないような歌」という賛美歌のイメージをあなたの頭の中から追い出してください。 賛美歌はそれ以上のものです。古いものも新しいものもありますが、賛美歌とはある人の心の中に生まれた詩やメロディーで、教会が一緒に歌うことを学んできたものです。クラシックな賛美歌も預言的ワーシップの中で使うことができますし、今でも私たちに霊の息吹を与えることができます。しかし、私たちのニューソング教会では、おもに新しい賛美歌集にある現代の歌を歌っています。それが、私たちが福音を伝えようとしている人たちに最も適切に語りかけるものだと信じるからです。

主が教会に預言の油注ぎを注いで望まれるときは、私たちが詩や賛歌を歌うときも預言の力は私たちを貫くことができます。ワーシップ・リーダーが主の御霊の指示に従い、詩や賛歌をこのように歌いなさいという御霊の導きのもと、会衆をもっと主の臨在に深く導き、高揚させ、又静まった所に誘うことができます。主が人々の心から情熱を引き出し今までとは違う高いレベルまで高揚されることもあります。ポイントは、今まで数え切れないほど何回も歌ってきた古い歌が、新しい油注ぎを受けて私たちの心を新たに貫き、今まで感じたことがないことを感じさせるのです。その場の空気は神の臨在で満ち、神が主権をもって一人一人を啓示によって取り扱いはじめられるのです。神は私たちを変え、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えるのです。預言的ワーシップは私たちを変えますし、もし私たちが逃げないでそれを許すならば、少なくとも私たちが変わるようにと私たちの霊に働きかけます。

第三番目は霊の歌ですが、これは人間の心からではなく神の御霊から来るものです。(それがある人間の心を通して表されることもあり、その場合はその人の心の色を反映することはあります。) 霊の歌は、私たちが歌ったことがある歌とか、みんなが知っている歌ではありません。神ご自身が私たちのワーシップの流れにより、そのときに霊の歌を誰かに歌わせるのです。それは神御自身が何かを語りたいと思われたり、あるいは、私たちのうちに何か事を成し遂げられたいと思われるからです。それは神ご自身の歌であり、主の歌なのです。

それはある目的をもって発せられるものですから、預言的なのです。その中で、神は何かリアルなことを成し遂げられるのです。ある時には、その言葉は神が会衆の中でその時にしておられることを宣言します。癒しとか招き、また人の霊の中で働く悪の力を打ち破ることなどです。またある時は、空中にいる悪の力に向けられた神の勝利を宣言する預言かもしれません。神を妨害し、私たちをくじくものを叱責する言葉かもしれません。あるいは、もっと神の臨在深くに私たちを引き寄せてくださる招きの言葉かもしれませんし、悔い改めを促す言葉かもしれません。預言的な歌は、度々私たちの生活のある領域に祝福を与えてくれますし、時には、罪やある状況に直接対決することもあります。

霊の歌は、個人的な感情や必要を延々と述べるものであってはなりません。そのようなものは自分の家でしてください。教会でのワーシップは神の民に関するものでなければなりません。

私はワーシップを導いているときに、主の歌が起こってくるのを感じるならば、少しばかりそれに耳を傾ける時を持ちます。その感覚は、まだ実際には聞こえないけれど感じることが出来る歌を心の中で「聞く」という感じです。それはまた、私の内から、私ではないものが湧き上がってくるのを感じるというような形でやってきます。その時にそれが聖霊であることが私にはわかるのです。

多くの場合、私はそれまで歌っていた歌のコードにしたがって楽器奏者たちにそのまま続けさせます。私が主を待っているときにみんなの気が散らないようにです。私は聖霊に聞きながら、しばらく異言で歌ったりします。イエスの御霊が何を言っておられか、という感覚をつかみ、これから始まるメロディーの少なくとも一端が分かるまでじっと聞いて主を待ちます。また霊の歌の始まりの言葉もはっきりといただくまで待ちます。「主よ、私が感じているものの内容は何ですか?」とお聞きするのです。少なくとも最初にいうことが分かったときに、私は口を開いて歌い始めます。その後は流れるように出てきます。

しばしば、私ではなくワーシップ・チームの中の一人に預言的な歌が与えられているのを感じることがあります。その場合、私は誰かが歌い出すまで待っていたり、誰なのがかわかるときはその人に声をかけます。これは、チームのメンバーがお互いによく知り合っているときにうまくいきます。チームに不和とかつぶやきがあると、このような預言の流れはすぐに止められてしまいます。

このような過程で霊の歌が与えられると、ある場合には会衆がじっと聞けるように一人がソロで歌います。又ある時は、会衆もチームと一緒に歌うようにと招かれます。会衆も一緒に歌うと、その歌の持つメッセージの力がみんなの内に盛り上がり、主の御ことばが植えられ確立されていきます。言葉の節は会衆がついていけるように短く簡単に覚えられるものでなければなりません。みんなでそれを何度も繰り返すと、その歌は私たちの心の中に根を張り、その真理が私たちのうちにリアルになり、みんなが神の力を知るようになるのです。

黙示録15:3に、同じようなことが書かれています。この節には2種類の歌について書かれています。「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌っていた」とあります。

一つは人間であるモーセから来ましたが、もう一つは小羊なるイエスからです。預言的ワーシップは天からのものと地からのものの両方を含んでいます。言い換えれば、この節は、人間の心から生まれた歌と共に、イエスから直接来た歌のことも表しているのです。つまり、詩、賛歌、霊の歌を表しています。

申命記31:19 「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。」

これよりも預言的なことがあるでしょうか? 神が歌を送ってくださり、主のしもべモーセに民に教えるように命じ、この歌によって彼らの罪を示し、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、植えるようにせよ、といわれたのです。

詩篇40:3 「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」

神の預言的な歌は事を成し遂げられます。主ご自身が詩人の口に歌を与えられ、それは預言の力と共に出て行き、人々を主のもとに引き寄せ、彼らが神に信頼し敬うようにさせたのです。詩人はこの歌を多くの人が聞いたり見たりできるように、公衆の前で歌ったことに目を留めてください。外部の人々も神の民による預言的ワーシップに触れる必要があるのです。聖書によれば、預言的ワーシップは預言的かつ伝道的な力強い働きをすることができるのです。

詩篇32:7 (あなたは)救いの歓声(songs)で私を取り囲まれます。

この箇所で言っていることは、私が私の心から出てくる個人的な歌で自分自身を取り囲むのではありません。ここでいう歌とは神の心から出る預言的な歌のことを言っているのです。主よ、あなたが私を取り囲まれます、と言っているのです。そしてその歌は預言的である故に預言的力を持ち、救いをもたらすことが出来ます。その歌はリアルな何かを成し遂げるのです。それは敵を引き抜き、私やあなたを植えつけてくれるのです。

預言的な音楽は、以上述べたようなダイナミックなすべての働きにより、クリスチャンを助けるばかりでなく、未信者のたましいをも勝ち取ることが出来るのです。ボブ・ディランが彼の預言的といわれる歌で世界の若者に影響を与えることが出来るとすれば、聖霊の力を持ってすれば、どれほどの力を与えることが出来るでしょうか。教会に来ていない人たちに理解できないキリスト教の専門用語や表現で満ちた歌ではそんなことは絶対出来ないでしょう。もしもう一度世界に手を差し伸べたいと思うならば、私たちはもう一度人間になることを学ばねばなりません。そしてこの世の人々が理解できる歌詞で、共感できる情熱をもって歌わねばなりません。

端的にいえば、クリスチャン・ミュージックはスタイルでも霊的意味においても大きくシフト(変革)する必要があるということです。 シフトなしには、私たちがしているのは聖歌隊に説教するだけのようなものです。教会全体が喜んで歌える歌を作曲し歌い方をも教えてくれるミュージシャンが召し出されるように私たちは祈る必要があります。少し変わったものとか、創造的、革新的ものをたくみに締め出してしまう今のクリスチャン業界の閉鎖的なシステムが解放されるように祈らねばなりません。これは私たちがしていかねばならないことですし、神が望まれることだと私は信じます。ですから神は必ずそれを達成させてくださいます。

最後に申し上げますが、主は誰にでも、どんなときでも、どこででも、一人一人個人的に、私たち自身の預言的ワーシップを下さると信じます。もし私たちが急がないで、時間をかけてそれにじっと耳を傾けるならば、きっとその力が発揮されるのを私たちは見ることが出来るでしょう。そして、多くの壊れたものが修復され、大いなる勝利が主のために勝ち取られていくでしょう。未信者が主を畏れうやまうようにと招かれるでしょう。それが私たちの戦略なのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-04-11 03:35 | アメリカからのメッセージ
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