現在のリバイバルの経過と未来(パート2) リック・ジョイナー 6月14日

現在のリバイバルの経過と未来(パート2)

リック・ジョイナー

アメリカのいろいろな場所やヨーロッパからも知らせが入ってきていますが、みな同じことを報告しています。それは、癒しや奇跡が、今まで見なかったような高度なレベルで起っているということです。今は神が神の民を訪れてくださっているすばらしい時です。しかし、これは、もっと偉大な神の働きが生まれ出る時―それは今年の9、10月に起ると私は思うのですが―のために私たちを備えるための霊的陣痛に過ぎないと、私は信じます。
私たちには9月21日(2008)が大切な日になると示されています。しかし、私たちは「一部分を見」、「一部分を預言する」(第一コリント13:9参照)のですから、その日に実際起きるのかどうかを宣言することができませんが、それがアメリカのリバイバルに関しての重要な日になることは断言できます。

今までの2ヶ月間は、神が奇跡をなさる方であるという信仰は劇的に大きくなりました。そして主はその信仰に応えてくださる方です。信仰が増すにつれ、神がもっと動いてくださり、それによって信仰がもっと増えていきます。その結果、主がもっと偉大なことをしてくださるのです。これを続けていこうではありませんか?

今経験していることがすでに全く驚くべきことなのですが、真に聖書的に「あるべきノーマルな姿」に到達するには、まだまだ上に上っていかねばなりません。新しい神との契約を握っているクリスチャンとしては、聖書の中に書かれていること全部が現在でも起ることを期待する権利があるのです。主は今もその時と同じ主であられます。主の名前は「I was」とか「I will be」ではなく、「I AM」 なのです。
使徒行伝の時代の教会にご臨在された同じ聖霊が、私たちと共に今もいてくださいます。すべてのクリスチャンは使徒パウロが持っていたのと同じ聖霊を持っているのですから、パウロを通して働いたのと同じ力を期待することができるのです。

第二コリント3章で、モーセは主の栄光を見て顔におおいをかけねばならないほどでしたが、私たちクリスチャンはそれよりも更にすぐれた栄光を見ることが出来るといっています。
私たちはもっと栄光のある「よりすぐれた契約」を与えられているのですから、今その栄光を見てそれを経験することを当然の権利として受け取る者たちが今起って来ているのです。これこそ主が長い間待ち望んでおられたことでした。
私たちが新しい契約の総ての特権の中を歩むことができるように、主イエスがその代価を払ってくださったのですから、その中を歩むことが出来るのは私たちだけではありません。私たちに適用された神の正義は、私たちが受けるにふさわしいからではなく、主こそが受けるにふさわしい方なのであり、ご自分がそのために最大の代価を払われた新しい契約のすべての特権を、ご自分の民が受けて喜ぶことこそ、主が受けるにふさわしい当然の権利であるのです。

 奇跡を見ることは、人々を力づけます。神が再び動かれ始めたので、人の力を超えた多くの業が私たちの中にいま起っています。それはまさに神の業に違いありません。真理もまた、私たちを力づけます。これらの業をなしておられる聖霊は、真理の御霊でもあられ、今人々の上に真理を愛する心を注ごうとしておられます。それは新しい契約に関する真理から始められ、もうすべて代価が払われているので私たちはすべての特権を受けることができるという真理です。神のもっとも基礎的な義は、神の民が天国の市民としてのすべての特権を受けることにあります。それによって、天の御国は彼らを通じてこの地にこれからももたらされ続けるでしょう。

10人の斥候によってもたらされた悪い報告を信じて来なかった、新しい世代の人々が今持ち場に着こうとしています。彼らはヨシュアとカレブによってもたらされた信仰ある報告に自分たちを合わせました。それは自分たちに与えられた土地を受け継ぐには、巨人がどれほど大きいかとか、自分たちがどれほど小さいかとかには全く関係がなく、神がどれほど偉大であるかと言う信仰にかかっているということです。彼らは今ヨルダン川の岸辺に立ち、川を越えて自分たちの約束の地を勝ち取る準備ができています。


高校生たちが身体障害者、盲人、聾唖者、又不治の病を持っている人たちのために神は必ず癒されると信じて祈り、そして往々にしてそれが起るのを見ることは、いまだに非常な驚きです。幾晩か前のことですが、部屋の後方が騒がしくなりました。見ると、女子の高校生二人が、車イスの若い男性のために祈ったところ、彼は直ぐに立ち上がり歩き始めたのでした。彼は多発性硬化症(MS)で、もう7年間歩いたことがなかったのです。彼はそれから間もなく車イスに戻りましたが、それは病が戻ったためではなく、筋肉を長く使っていなかったので、疲れたからでした。彼のために祈った二人の高校生に話しましたが、
彼女たちは確かに喜んでいましたが、興奮しすぎということはありませんでした。というのは、彼らが祈るときに主がこのようなことをしてくださるのを、今はいつも経験しているからです。超自然的な奇跡が、自然なことである世代が、今現実に起っているのです。

知恵とは基本的に知識と経験の正しいコンビネーションです。しかし、これから出て来る世代の人たちが持つ知識と経験は、どちらも過去の世代のものとは違ってくるでしょう。私の年代の多くの人たちは、主は今も癒したり奇跡を起されたりすることを一応信じますが、めったにそれらを見ることが出来なかったために、彼らは信仰に対して冷ややかな思いを持つようになりました。そのような人たちの中には、信仰を持っても何も起らない時に失望しないようにという配慮から、台頭する若者たちの信仰にブレーキを掛けるようなことをしている人たちがいます。もしそうであるなら私たちは急いで悔い改めねばなりません。 

主は約束の地に入るように選ばれた人たちにとって妨げとなるような不信仰な世代の人たちを先ず完全に取り除きました。主は今の時代において、もし私たちが同じような不信仰の世代であってよしとするのであれば、そのような私たちを主は取り去られるでしょう。私たちは、敵がいかに大きいかとか、私たちがいかに弱いかで心を煩わされるのではなく、いかに偉大な神であるかと言う信仰によって敵に勝てる決意をしたヨシュアとかカレブになれるのです。私たちが主を本当に信じる時に主が総てに打ち勝って下さいます。

失望は不信仰ほど悪いものではありません。信仰を持つように励まし、そして奇跡が起ることを期待してください。これから起ろうとしている世代が持つ経験は、過去の世代が持ったものとは違うでしょう。神を信じることは常に真の知恵です。そして信仰がなくては神を喜ばせることはできませんし、神への真の信仰は決して失望に終わることはありません。失望することを恐れたり、避けようとするような霊を持って生きることは、必ず失望におわります。
 

今ヘリテイジで起っていることに関していくつか興味ある点があることに気がつきました。今ブレイクスルーを経験している人たちにも参考になることかもしれませんので、下記に記します。

一つの傾向

最大の奇跡は往々にして、人がほとんど帰ってしまった後で起きたということがまず第一にいえます。集会後の時間は「残照 残り火の光輝 afterglow」と呼ばれるもので、人々が集会で起ったことを小声で話しているようなときです。主はどうしてそのようなときに力強く働かれるのでしょうか?

人間的なエネルギー、興奮と信仰とは、時として見分けがつきにくいものですが、違うものです。真の信仰は多くの場合興奮を伴い、常に期待感を伴います。しかし、それはいつも同じではなく、往々にして間違いやすいものです。
真の信仰は静かなときもありますし、非常に控えめなこともあります。真の高揚も時として非常に静かで控えめです。また、両者とも大きな声ではしゃぐときもあります。みんな主によって違うように造られているからです。

私がドイツやスイス、スカンディナビア地方でミニストリーを始めた当初は、彼らの懐疑心の深いのには面くらいました。その時主が私に、彼らの懐疑心は悪いものではなく、良いものだといわれました。主に悟りを下さるように願ったところ、良い懐疑心は信じたいからのものであることと、彼らは私をくまなくチェックするから、私が本物をちゃんと持っていることが重要だと、主は教えてくださいました。これは「ベレヤの人々の信仰」であり、彼らはパウロの教えに心を開くと共に、すべてのことを聖書に照らし合わせて調べました。
それとは違い、悪い懐疑心は、疑いの思いが強く、あるかないかの小さな証拠で自分たちの猜疑心を肯定し、それをくつがえす証拠が山ほどあっても受け入れないのです。

良い懐疑心を持つ人たちとは一緒にやっていく価値があります。何度も訪れたときに、私の教えを疑っていたかに見えた人たちは、実はそのことを深く考察していたのであり、何年もたってから彼らは私が昔教えたことを細部にわたって言うことができるばかりか、それを検討し正しいと認めたときに彼らはその教えを実行して生きる人たちとなっていたのです。
これとは反対に、私の話を集会で聞いた時にはもっとも興奮したように見えた人たちで、その集会の直後にすでに何を聞いたのかを忘れて言えないような人にも沢山会いました。何年か後になって、そのような人たちは集会中昔と同じように非常に興奮しますが、その人たちの日常生活には真の霊的成長がほとんど見られないのです。
あなたならどちらの聴衆がいいですか? 興奮して聞いてくれる人に向かって話すのは楽しいかもしれませんが、本当に残る実のために私は深くものごとを考える人を選びます。
もちろん、興奮を身体に表して、しかも深い信仰をもつ忠実な人もいるでしょう。私が言いたいのは、肉によって見えることだけで判断しないで、霊によって判断せねばならないということです。

聖書の中で、イエスは水の上を歩くというような偉大な奇跡を、ほんの少人数しか見ていないところで行われました。大きな癒しの奇跡のあとには、誰にも話してはいけない、ただ祭司のところにいって神の感謝をささげよと言われました。どうしてイエスはみんなに話してもっと多くの人たちが自分を信じるようにされなかったのでしょうか?

ここに特異な真理があります。神はご自分を信じさせるために人を癒されたことはほとんどないのです。多くの場合、主を信じていた人たちだけを癒されました。もし神が、人々が信じるようになるために奇跡を起したいのであれば、ただ病人や盲人を癒すよりももっと大きな奇跡をされたことでしょう。ユダヤ人は天からのしるしを求めたのはそれでした。彼らは、太陽を止めるというヨシュアがしたような天のしるしをイエスに求めたのです。太陽を止めたり、ご自分の名前を天に星を並べて書くことによって誰も主を否むことが出来ないようにすることは、今日主にとって容易いことです。しかし、主がされようとしているのは、そんなことではないのです。

主が大きな奇跡をされた後、多くの者はその御業のゆえにもっと心をかたくなにし、もっと激しく主を迫害しました。彼らは心がかたくなで、主が死人をよみがえらせたときに主を殺そうと心に決めたのでした。偉大な奇跡や信仰は、人々をイエスへの信仰に呼び寄せるのではなく、大抵更なる迫害を起すのです。これと同じことが使徒やステパノに起ったことが使徒行伝を見ればわかります。

今主がしておられることを見て主を信じる人が大勢起されることは予測できますが、それは必ずしも奇跡が直接的な原因ではなく、聖霊の力を受けて大胆にされたクリスチャンが語る福音のメッセージによると思います。伝道は奇跡により頼むのではなく、聖霊が人々の罪を示し、彼らが十字架の贖いを必要としていることをはっきり悟らせることが真の伝道の方法です。勿論例外もあるでしょうし、奇跡を見てとか、病がいやされたから主を信じるようになった人を知っているかもしれませんが、それは主に仕えるようになった人の中では非常に少ないケースだと思います。10人の癒された盲人のうち、一人だけが主に感謝するために戻ってきました。主は人々を愛する故に今も癒しの業を行ってくださいます。しかし、最大の奇跡であっても、一人の主の後を追って仕える者を生み出さないこともありえるのです。

神は人を愛するゆえに癒しを行ってくださいます。人々が苦しむのを見ることを好まれません。神は私たちが奇跡を必要としているので、奇跡を起してくださいます。癒しのミニストリーには憐れみの心が絶対に欠かせない理由がここにあります。それは人間的な憐れみではなく神の憐れみであり、人間的憐れみとの区別をつけることを私たちは学ぶ必要があります。
人間的憐れみからとか、あるいは奇跡をもって主を証ししようとする人たちは、多分シロアムの池のまわりにいた総ての人を癒そうとしたことでしょう。しかし、神の憐れみはイエスにただ一人の人を癒すように導かれました。イエスがその男のところにいく途中では、多分もっとひどい状態の病人をまたいで行かねばならなかったことでしょう。しかし、イエスは人間的な憐れみによって動かされたのではなく、ただ天の父がなさっているのを見たことだけをされたのです。私たちが主に従順になればなるほど、主はもっと大きな力を与えて私たちに任されるのです。

しかしながら、その場の空気が信仰に溢れていることは、主が奇跡をする場合に非常に重要でした。不信仰があるところでは、主もあまり働くことができませんでした。ですから、癒しを受けた人を会衆に紹介して証をしてもらうことは多くの場合適切なことだといえます。それによって人々が自分にもその癒しがいただけるという信仰を持つ助けになるからです。私たちは主の恵み深いことを決して忘れてはならず、私たちが弱いときでも、不信仰にもかかわらず、主が多くのことをして下さるのです。しかし、人間的な興奮と真の信仰とを見分ける訓練をせねばなりません。真の信仰は時として非常にもの静かで控えめであり、それはちょうど、癒していただこうとして主の衣の裾に手をのばしてふれた内気な女のようなのです。

静かでおとなしい人たちを無視してはいけません。彼らは祈ってもらうために前に出てくるのさえ遠慮するのです。すべてがおさまって静かになってからでないと前に出てこないかもしれません。ステージにあがって証言するのが恥ずかしいような人たちが、非常に大きな奇跡を経験したことを私たちは見てきました。それは彼らが感謝の気持ちがなかったからではなく、明らかに神への深い信仰を持っていたのですが、ただ大勢の人の前で話すことが出来なかったからなのです。誰かに無理やり証をさせてり恥じをかかせたりすることはしたくありません。そう言う人には、メールや手紙で何が起ったのか知らせてくださるように頼みます。私たちが証にばかり気をとられないで、人々が必要なことを神から受けることにもっと注意を向ければ、もっと奇跡が起るようになると私は思います。

私はよい懐疑心と悪い懐疑心について学んだおかげで、起った奇跡が本物かどうかということを調べるためにあまり気を使わなくなりました。ある奇跡は私たちの目に前でおこりましたので、疑いの余地がありませんでした。しかし、自分の目で見ても疑う人もおりました!おわかりでしょうか?彼らは暗闇の中から出て光にくるのを恐れているのです。こういう人たちを信じさせようと一生懸命になりすぎるのは、彼らと一緒にブラックホールに落ちていくようなもので大変危険なわなです。事情が許せば、医学的記録などで証明しますが、私たちはただ主と主の御業に集中していようと心に決めました。良い懐疑心をもつ人たちによく調べてもらって奇跡が本物であるかどうかを証明してもらい、悪い懐疑心を持つ人は、彼らの好きなように信じてもらえばいいのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-06-14 10:29 | アメリカからのメッセージ
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