終末の大リバイバル時代の幕開け   坂 達也  9月2日

終末の大リバイバル時代の幕開け

【この記事はハーザー誌10月号のために書いた原稿です。】
         
              坂   達  也
 
四ヶ月余り続いたタッド・ベントレーによるレイクランドのミニストリーが八月六日を以って事実上終了した。と言ってもこれでレイクランドのアウトポアリング・ミニストリー、あるいはベントレーの癒しのリバイバルが終わった訳ではない。むしろ、新しい展開へと発展的に移行(トランジッション)したのだ。ベントレーはレイクランドのミニストリーを最初に彼を招いた発祥の教会イグナイテッド・チャーチ(Steven Strader牧師)に返し、今後はこの教会によってミニストリーが継続される。一方、彼自身は「主の栄光の雲に導かれ、契約の箱と共に」世界に出て行き、アウトポアリングを終末の大リバイバルへと移行・推進するための火付け役(catalyst)となる。八月六日のイグナイテッド・チャーチの集会でその正式な引継ぎと新たなる出発が確認された。
 
振り返れば四ヶ月はあっという間に過ぎた。この間、お通夜中にお棺から起き上がった人も含めて三五人の死人がよみがえり、不要になった車椅子が数日間で五十台ステージに並んだ。少なくとも癒しと言う点では使徒行伝を凌駕するのは今や時間の問題である。事実、三五人の死人が生き返ったのは、多くの場合トッドが個人的に祈ったからではなく、聖霊の油注ぎが分与され、主の栄光の臨在がその場所の霊的空気を圧倒的に変えられたから起ったのだ。トラックで集会場の前を通っただけで癒されたとも聞く。その意味では使徒行伝5:15にあるペテロの通る影で癒されたことに優るとも劣らない。

しかしそれ以上に私が評価したいのは、ベントレーの過激的とも言うべき信仰が人々を聖霊に目覚めさせ、噴出(アウトポアリング)させ始めたことだ。今や人々は貪欲に「主に飢え渇き」、主の臨在と栄光を熱烈に求め始めた。「しみもしわもない花嫁」にするために主がクリスチャンの「霊的成熟」のプロセスに火を付けられたと言うべきであろうか。ついに教会に大覚醒が起る前触れである。
特筆すべきことは、レイクランドのミニストリーは夜の集会だけではない。日中に連日ハーベスター(収穫のための働き人)を養成するクラスが持たれ、ここから既に一万二千人が誕生したと言う。油注ぎは伝染し、人から人へと分与されて行く。これが今回のアウトポアリングの最大の特徴であろう。
加えて、メディアにもリバイバルが起っている。テレビとかコンピューターの画面から聖霊の分与が十分受けられることが分かって、メディヤによる伝達技術は、単にフロリダからの実況放送だけではなく、ビデオとかDVDの再生技術を通して人々は世界のどこにいても、好きな時間にいつでも、しかも過去のどの集会にでも、ボタン一つで自由自在に出入り出来るのだから驚嘆に値する。これによって今や同じ放送を世界中で何百万、何千万の人が見たり聴いたり出来る時代に入ったのだ。時間と空間を越えた「偏在」の神は、まさに聖霊による前代未聞の「世界伝道」を開始されたと言って過言ではない。

ベントレーこの四ヶ月で自分の人生も、ミニストリーも、そして世界も変わったと述懐する。それは大袈裟ではない。主のご計画はあまりにも大きく、自分一人でやれることではないと告白した。正直なところ短時間でこれだけのことが起ったのであるから、傍からの喧々轟々たる批判やマネージメントの混乱を招いても全く不思議はない。彼は「代価は支払わねばならない。」と言った。彼は、その代価とは多くの人の祈りと協力であると指摘したが、それ以上に彼自身が相当な代価を払って来ているのだ。予想も出来なかったこの激動の四ヶ月、その大きなプレッシャーの下で耐えて来た彼は、今再び夫婦関係が崩壊し別居生活に入ったと報道された。その後八月一五日に、ベントレーはスタッフの一人の女性と「感情的なレベルで不健康な関係に入っていた」(肉体関係があったとは書かれていない)ことが分かり、しばらく一切のミニストリーから退き、個人的なカンセリングを受けることに同意したと発表された。これは彼の所属するフレッシュ・ファイヤー・ミニストリーからの緊急な祈りの要請として発表されたものである。〈これについての判断はリック・ジョイナーからのメッセージを参照願いたい。〉
ベントレーは今サタンからの攻撃を一身に受けている。これからその激しさが十倍になることを覚悟していると言う。それにつけても自分の領域を脅かす者に対するサタンの攻撃は激しい。アメリカで最も信頼できる預言者の一人ボブ・ジョーンズが三三年前に、堕胎とホモセクシャルを容認するアメリカ社会の傾向に対して厳しい警告を発した時、サタンが現われ、彼がこれ以上警告を続けるなら彼を殺すと脅した。事実、彼は「殺され」臨死の体験をして天国に行った。主は敢えてサタンの攻撃を許されるのだ。何故なら、その人が試練に屈しない時にヨブの祝福を与えることが出来るからである。
 
モーニングスターでの集会
 
こうしてレイクランドを離れ、グローバルなミニストリーの途についたベントレーの最初の訪問地は、計らずもリック・ジョイナーのモーニングスター・ミニストリーの本拠地、フォートミルであった。私はここに神のなさる業の深い神秘性を感じてならない。この場所はその昔80年代に一世を風靡したジム&タミー・ベーカーのPTLミニストリー(世界的クリスチャンTVミニストリー)が、2400エーカーの広大な土地を開発して一大クリスチャン観光地を作り上げたヘリテージUSAのあった処である。PTLは、ピーク時にディズニーランドに次ぐ年間訪問客数を誇った、教会史上に残る画期的な事業であった。しかしこの事業は89年にあえなく崩壊し、その後民間企業による各種の再開発が試みられたが総て失敗に終わり、98年以降は全くの廃墟となっていた。しかし神はご計画を持っておられたのだ。この廃墟へ、直ぐ近くに本拠地を持つモーニングスターを導いた。彼らは2004年9月に、廃屋となっていたホテル等の施設と54エーカーを購入し、500室のホテルとカンファレンス施設を改装してミニストリーを開始した。そして引き続き残りの部分の開発途上にある。私は、神が初めからヘリテージをモーニングスターのために用意されていたと思えてならない。このフォートミルと言う町は南北カロライナ州の州境にあり、近くにシャーロット市がある。この地区にリバイバルが起ると預言されてから半世紀になる。ここで過去十二年間ジョイナーのグループはリバイバルを祈り続け、波状的に訪れる産みの苦しみを経験して来た。そして4月22日にレイクランドを訪れた二人の高校生が持ち帰った火種によって爆発的に燃え上ったのだ。その後に起っていることは、ハイライトのテープを見る限りまさにリバイバルである。 私は、モーニングスターに今起っていることからはレイクランドにない厚みを感じる。長年の祈りと独自の使徒的・預言的ミニストリーで培われた努力が基盤にあったからであろうか。そこに火付け役のベントレーが訪れたのだから、この〇八年八月八日の集会は教会史上記念すべき日となった。モーニングスターでは、この日のために四〇日間の断食をした。

ジョイナーの挨拶で始まった集会の冒頭で、ベントレーはリバイバルと契約の箱はいよいよここから世界に向かって出て行くと大声で宣言した。会場には興奮がみなぎった。八と言う数字は「新しい始まり」を意味する。彼は前日に御使いの訪れを受け、この日が王に授ける新しい油を注ぐ特別の日となると告げられていた。そこで彼はイザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」を引用し、この日こそが、聖霊の二倍の分与を受ける歴史的な日であると語った。この二倍の油注ぎを受けることによって、総てのくびき(束縛)が打ち破られ、解き放たれることが宣告された。「今日集まった総ての人が、今日から二倍の油注ぎのマントルを着て、神から約束されている二倍の約束、二倍の恵み、二倍の力を受けよ」と彼は叫んだ。

ボブ・ジョーンズ

 次に、ボブ・ジョーンズが立って、主から受けた預言として新種類の働き人「New Breed」が起されることを紹介した。彼によれば、今までのリバイバルは完全に成熟していない人たちが携わったのでリバイバルは止んだ。しかし、これから起るリバイバルはパウロの祈り「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(ガラテヤ4:19)が成就し、特に二五才から四十歳までの新しい世代の若者たちが起される。この人たちは、聖霊に導かれ、特別の油注ぎを受けながら「神の性質」に成熟する人たちなので、リバイバルは後退することがない。この若者たちはハーベスターとして育ち、世界に出て行って最後の大収穫の働き手となると説明した。一方年配者はヨシュアの役目を受け持ち、この新しい世代の前に立つのではなくて、後ろに立って援護する役割があると語った。この後、これらの年代を代表する一五人の若者たちがステージに上げられ、ベントレーとジョーンズから按手を受けた。そして、ジョーンズは、自分が三三年前に天国に行った時の話(前述)に触れた。天国に行った時、彼はもはや地上に帰りたくはなかったが、主が終末に十億の魂を救う大リバイバルを起されること、そして地上に帰れば彼をその中で用いると語られて帰って来たと言う。彼がサタンに殺されるのを主が許されたのは、このためであったように私は思う。ジョーンズ自身を霊的に成熟させるために彼に一度死を経験させ、天で近しく主とお会いする機会を与えたのだ。

 ここでボブ・ジョーンズと言う預言者をもう少し詳しく紹介したい。私は彼を批判する人たちがいることを知っているが、その理由は、彼と主がどれ程親密な関係にあるかをその人が理解出来ないからであるように思う。アブラハムとかモーセは神の友と呼ばれ、親しく神と会話を交わし、総て神の指示に従って行動したことは聖書を見ればよく分かる。しかし現代においても神の友と呼ばれるほど親しく神と会話している人はいない訳ではないのである。私はそのような人を少なくとも二人知っているが、それはジョーンズとグラハム・クックである。世の中にはかなり正確に主からの預言を受ける預言者は多数いても、毎日親友のように気軽に主が声を掛けてくれる人はそんなにいない。その点私は、ジョーンズをかしこまって預言者と呼ぶよりも「主の友人」と呼ぶ方がぴったりする人であると思う。今神は彼のように神に親しい人を求めておられる。何故ならこれからのハーべスターは主の花嫁であり、花嫁とは皆少なくとも彼のように神と親しくなることが要求されているからだ。そのジョーンズがしきりに口にするのが「成熟」と言う言葉である。以降で少しそのことを私なりに説明させていただきたい。

私たちが成熟するとは、「 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する…」(エペソ4:13)と言うことである。しかし、この御言葉を真に理解している人は案外少ない。この御言葉を意訳すれば「ついに、私たちがみな、イエスの持つ信仰と知識のレベルに達して一致結合し、完全に成熟してキリストと同じ『完全な人』になるため…」となる。ところが「私たちは完全な人間にはなれない。キリストと同じになるなんて無理であり、第一不遜な考えだ。」と根っからネガティブに教わって来たので、聖書で神が最終的に何を人間に期待しているかが見えなくなっているのである。
 ここで「満ち満ちた」と言う形容詞が出てくるが、英語ではFULLNESSで、はっきりしている。しかし日本語は曖昧である。例えば「私、もうお腹一杯」と言う時に、その一杯さ加減は主観的で、人によって違う曖昧さが残るのと同じで「満ち満ちた」にも曖昧さを私は感じる。その替りにガソリンスタンド用語の「満タン」と言えばはっきりする。つまり完全な人になるとは「キリストを満タンにする」ことであり、実は私たちクリスチャンは既に、キリストが聖霊として 満タン状態で内住しているのである。私たちは信じて聖霊を受けた時、その一部だけを受けて、後足りないところを後で徐々に補充するのではないのだ。問題はその満タンの聖霊をフルに活用し「力」に変えていないことにある。ベントレーとかジョーンズが「もっと聖霊を求めよ。油注ぎの分与を受けよ。神の臨在の中で生きよ。」としきりに叫ぶのは、私たちに内住する聖霊が少し足らないからではない。私たちの内でフル活動をしていない聖霊の力を呼び起こし「活性化させる(英語でactivate)」ために、あるいは「火付け、触媒(catalyst)」の働きを受けるための聖霊の油注ぎを熱心に求めるようにと勧めているのである。それは発火を促すためであると言ってもよい。ベントレーから「油を分与され」、それにあなた自身が信仰のマッチで火を付ければ、あなたの中にある満タンの全聖霊が燃え上がって力となってくれるのである。又、聖霊の濃い臨在の中に私たちが入れば、その場所の霊的空気が変わる。その意味は、主の濃厚な臨在の中に入ると、あなたの内なる聖霊が燃え上がる発火点はうんと低くなるのである。だから放っておいても火が付き、勝手に癒しが起る。聖霊のアウトポアリングとは内なる聖霊を溢れ出さすことなのだ。つまり、私たちの内には、総ての病気を癒し超自然の奇跡を起す力が既に内在しているのだから、その力を引き出せばよい。そうすればクリスチャンは誰でもイエスがしたと同じ位の癒しと奇跡を起せるのである。

さて、ジョーンズは、毎年ポール・キース・デイビスと共同で、次の年がどのような年になるかを「Shepherd’s Rod」と言う小冊子で発表して来ており、私は今回念のために約一年前に彼が2008年について何を語っていたかをチェックしてみた。それによれば、その当時主は彼に「今のシーズンは先ずハーべスターをハーベストすることにあり、そのために主は『過激的な信仰と情熱を持つ若者たち』を今年動員する」と語られたと言う。そしてジョーンズが見たビジョンは、砂漠地帯を走る狭くて真っ直ぐな道があり、その上にはきれいな多彩色のカーペットが敷かれていた。このカーペットは神との契約を表し、この道を歩く限り必要なものの総てが神によって具えられていると言う。その道はヨルダン川岸まで続き、その川を渡るための道である。もし人がこの狭い道から外れれば、その外は砂漠の岩だらけの道である。私たちが道に留まって進むためには絶対に聖霊の導きが必要であることが示され、そのために聖霊のアウトポアリング(この言葉がフロリダより前に使われていたのに驚いた)によって神が導く御声がよく聞こえるようになる、それはイザヤ30:20-21で「あなたの目はあなたの教師(聖霊)を見続けよう。…あなたの耳はうしろから、『これが道だ。これに歩め。』という言葉を聞く。」であった。又、イザヤ 35:7-8「その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者はそこを通れない。」が示され、その道沿いには「霊的成熟」が具えられているのが見えたと彼は言う。それに加えて、多彩色のカーペットの出発地点に色々な道具が山積みされているのが見えた。それが何かと尋ねると、主(御使い)は「今まで使って来た霊的な道具(種々の賜物)は古くなって、これからは使い物にならないから出発の前に捨てなさい。これから来る新しい未曾有のリバイバルでは忠実に主の御声に従うことだけが唯一必要な道具である」と説明されたと言う。
そして、ジョーンズの奥さんがその前日に夢を見たことが書かれてあった。その夢では彼女は旅行に出掛けるところであり、目的地はヨルダン川であると言われ、渡された列車の切符を見ると888と言う数字が見えたと言う。その数字の解釈は2008年8月8日が「出発の日」ではないかと書かれてあった。その通り8月8日に旅立つ若者の按手式が行われたのだから私は少なからず吃驚した。

ベントレーの見たビジョン

若者の按手が終わった後、ベントレーはレイクランドが始まった二週間後に与えられたと言うオープン・ビジョンを披露した。それは主がこれから起す終末のリバイバルの進行過程を説明したものであった。そこには階段が全部で十二段あり、まず三段上って最初のフロアーがある。次に三段上って第二のフロアーがあり、これを繰り返して、全部で四つのフロアーが見えた。最初の三つのフロアーは外庭、聖所、至聖所に例えられた。第一のフロアーでは自分の罪の生活に気がつき、恥じ、罪の責め、汚れを悔い改め、洗いたいと願う人が多くいた。第二のフロアーは供えのパン、純金の燭台等があるところで、多くのクリスチャンがそこで祈りと賛美と礼拝を行っていた。第三のフロアーは至聖所で、そこは栄光に満ち、神の畏れと臨在が濃厚であった。人々は何かを祈るのではなく、ただ神を畏敬し平伏し臨在に浸った。フロアー毎に霊的な成熟度合い、リバイバルの進行状態、栄光と臨在の度合いが増し加わることが示されていた。神の栄光と臨在への飢え渇きも各階毎に大きくなり、それにつれて栄光と臨在が増した。又、各段階で癒しの度合いが違っていた。最初のフロアーは一般的な癒しが行われていたが、第二のフロアーでは、顕著な、驚くべき奇跡(使徒19:11)とか使徒五章の癒しが行われ、第三のフロアーでは死人がよみがえり、そこは聖さが満ちていて人格とか性質が取り扱われていた。 
しかし、この三つのフロアーの上にもう一つのフロアーがあった。そこにはロマ書八章の世界があった。被造物が総ての滅びの束縛から解放され、神の息子・娘たちが真の栄光と自由を得て、圧倒的な勝利者となる「よみがえりの命」で生きる場所であった。そこでは、もはや死人を生き返らすと言うような業は行われず、人々は「神の性質」を完全に着て、しみもしわもない完成された「花嫁」「キリストのからだ」となった。油注ぎも個人だけでなく、コミュニティー全体に注がれ、注がれたコミュニティーは五〇キロ四方毎に変えられていた。 主はベントレーを通して、これから来る最後の大リバイバルで何が取り扱われ、教会がどう変らねばならないかを示されたのであった。 

ここで最近のリック・ジョイナーのリバイバルに対するコメントを付記してみたい。彼は終末の大リバイバルをロケットの発射に例えた。ロケットを宇宙の最終軌道上に打ち上げるためには、第一段階に達するためのブースターが完全に燃焼されなければならず、(完全燃焼せずに次の段階に移れば力不足でロケットは最終軌道に乗らない)それが燃え切った時点で次のロケットが点火され、それが完全に燃焼されて第三段階に到達する。ジョイナーも第一の段階はハーべスターの召集・養成であると言い、第二段階でその養成されたハーべスターがものすごい魂のハーベストを行うと預言する。第三の段階では「社会のトランスフォーメーション」が起る。そして、最終的に王国の完成と言う永遠の軌道に乗せるのがその終末目的であると言う点でベントレー、ジョーンズと一致している。

さて、最後にこの八月八日の集会に関して私自身の感想を述べさせていただきたい。私は最初にこの日の実況放送を三時間余り、ぶっ通しでGODTVの前に釘づけになって見た時、言い表すことが出来ない感動とショックを感じ、しばらくは何も手が付けられなかった。その後の二日間は何も書けなかった。勿論それは、圧倒的な臨在があったからこそではあるが、油注ぎとか濃厚な臨在と言ってしまう以上のものを感じたのである。今までは聖書を書かれたものとして受け取っていたに過ぎなかったものが、生まれて初めて目の前で聖書を生きて動くものとして見たような気がした。自分がその中に生かされ、参加している興奮と戦慄を覚えた。終末に生きる私たちは、これから聖書に書かれている総てのことを主と共に、主に従って終結・完成させる仕事に参加するのだ。これが興奮しないではおられないのである。二〇〇八年八月八日から世界の霊的空気が変わり、新しい段階に入ったことを私ははっきり感じる。(終わり)



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by walkwithgod | 2008-09-02 04:36 | 坂達也からの今月のメッセージ
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