御国で必要な全き信仰の祈り  坂 達也   12月2日

御国で必要な全き信仰の祈り 

坂 達也


 イエスは弟子に言われた。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。(ヨハネ12:24)この「一粒の麦」とはイエスご自身である。その一粒の種が十字架で死なれた結果、多くの実がなった。神の創造の原則(創世記1:11,12)からすれば、イエスと言う種から生まれ育ったクリスチャンと言われる私たちは、皆イエスに瓜二つで似ていなければならない。似ているだろうか。残念ながら似ていない。
しかし今、私たちが御国において、皆イエスに似たものとなる時が来た。イエスとそっくりの者たちとは、即ち、「キリストの花嫁」である。イエスは私たちをご自身の花嫁にするために今、御国において「みことばにより、水の洗いをもって、(私たち)教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ」ようとしておられる。」(エペソ5:26,27)「栄光の教会」とは「キリストの花嫁」を指す。 

「主の祈り」(マタイ6:9-13)

 マタイ6章にある「主の祈り」は、御国を実現するための祈りであると言うことに、最近改めて気が付かされた。御国とは栄光の花嫁である教会が完成されるところだ。そのために主は私たちにこの祈りを教えられた。従って、主の祈りは終末の教会にとって最も重要な祈りであると同時に、この祈りを実行して行くことが私たちへの至上命令なのである。

 「7. あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。8. あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
9. だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。10. 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
 12. わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。13. わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(
マタイ6:7-13)
 
 7、8節は前置きであって、祈りの心構えを教えている。9節から祈りに入る。「9. だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。』」

 最初に、天の父をあがめることが、私たち教会が存在する究極の目的であることが示されている。そして御国を完成することこそが、天の父の「御名があがめられる」ことになるのだ。
 「10. 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」
 「御国が来る」と言うことと「御心が天で行なわれるように地でも行なわれる」ことは同義語で、後者が前者を説明する。それでは「御心を行う」ためには私たちはどうすればよいのか。それは旧約聖書が一貫して私たちに教えてくれている。その教えを一言で言えば「主の御声に聞き従う」ことだ。しかもヨシュアとカレブのように「主に従い通した」人にならねばならない。

 申命記8:3では「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」と教えている。ここで「主の口から出るすべての言葉」とは一般にモーセ五書Torahと言われる、神がモーセに語られ記された律法の書を意味している。(私は最近この五書を読むことが今の私たちにとっていかに大切であるかを再認識させられている。)神はヨシュアに「 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」と命令した。(ヨシュア記1:8)

 私たちにとっては、単に律法の書だけでなく聖書全体を夜も昼も口ずさみ、それを実行せよと言う教えである。しかし、それはクリスチャンになるための基礎作りのベーシックに過ぎず、その上に、いつも聖霊が語る生きた主の御声に耳を傾けねばならない。
 主はアブラハム、モーセ、ヨシュアに語り続けた。その指示に聞き従って行動した時に全き主の御心がなされたのだ。ヨシュア記にそれが顕著に示されている。ヨシュアは主から言われたことを実行した時にのみ、敵に完勝することが出来た。
 
 新約聖書でも主イエスは同じ事を強調した。マタイ13章の種まきのたとえのところで、主は「19. だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。...22. 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23. 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:19-23)と言われ、みことばを聞いて悟ることの大切さを説く。又、前述のエペソ5:26では「みことばにより...教会をきよめて聖なるものとする」と約束された。

 次に「11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」であるが、ここで言う日ごとの糧とは、私たちが毎日必要とする総てのものを意味する。主は既にそれをよくご存知で(マタイ6章25-34)「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」と保障されているのだから、物質的なものを祈る必要はない。それよりも御国の実現のために主の御心を忠実に行う(それが義の意味)ことを求めよと言われているのだ。

 では何を祈ればよいのか。それは私たちに今日必要な主の御言葉が与えられることを祈り、具体的な指示を啓示の形で仰ぐことである。私たち御国を建て上げる者にとってはこれこそ一番必要なもの、霊的な米の飯である。
 又、私たちが過ごす御国の毎日とは敵との戦いであると言えよう。近代戦争において、上官からの指令なしで戦場で勝手に戦う軍隊はいない。同じように私たちも、御国の王である主から必要な指示を仰ぎ、それに従って動くことが要求されるのだ。

  「12. 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
 天の父に対して私たちが持つ最大の負い目とは何であろうか。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と言われる以上、それは神が喜ぶ信仰を私たちが持っていないことではなかろうか。神に従い通せなかったと言う不信仰の負い目である。私たちは不信仰であるがゆえに、人に対しても負い目をつくる。これを私たちは真っ先に悔い改め、主に赦しを請わねばならない。それには先ず、同じように不信仰の結果で自分に負い目のある他人を赦すことだ。これは御国に住む人間の大原則である。

「13. わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(新共同訳)

 私たちにとっての最大の誘惑とは何か。それは主への全き信仰を持たずして、つい人間的な思いと考えで行動してしまうことではないだろうか。人間にとってそれが一番楽なのである。それは人間的信仰という妥協の信仰だ。厳しく言えばそれは信仰ではない。多くの人は神を信じていると言うが、普段は神に聞かずして自分で人間的に判断して行動する。どうしてもうまく行かない時だけ神の助けを乞うが、日頃から神の声に耳を傾けていない人は、神の声を聞こうともしないし、又聞こえない。
 現代のクリスチャンの大部分は、残念ながらこのような妥協した信仰しか持っていないため、結局は神が与えた約束の道を究めることなく、人間的なぬるま湯の教会生活を右往左往し、とどのつまり「荒野を右に左にさまよって終わる」可能性が大きいのである。このような人は荒野で野たれ死にをすると言うのがモーセ五書からの警告である。
 
 その点ヨシュアとカレブが持っていたのは、神への全き信仰であった。民数記13章に、約束の地を目の前にしたイスラエルの民が、これから攻め上がる敵地を偵察するためにヨシュアとカレブを含む12人の斥候を送った話がある。
  第一に気が付かねばならないのは、この約束の地に斥候を出して探らせるという考えは、元々神のものではなくイスラエルの民からの発案であったことだ。(申命記1:19-28)初めからイスラエルの民は神が定めた「約束の地」に向かっていたのであるから、今更斥候に探らせる必要など全くなかった。従ってこの民の申し出そのものが既に神への不信仰の現れであったのだ。
 斥候の旅から帰ってきた12人は持ち帰った大きな葡萄の房を見せて、この約束の土地が肥沃であることを立証した。しかしヨシュアとカレブを除く10人は、そこの住民がアナクの子孫で背が高く、自分たちがいなごのように見えた程強い巨人たちであり、町々には高い城壁がめぐらされていて戦っても到底勝ち目はないと言う報告をした。彼らは相手が巨人なので恐れたのだ。又それを聞いた全会衆は大声で泣明かしたと言う有様で、「戦いは神がなさる」という信仰など吹っ飛んでいたのである。


 誰でも人生の歩みの中では色々な恐ろしい巨人に出くわす。巨人が現れると恐ろしくて前に進もうとしないか、進もうとしても力が出ない。
 霊的に言えば、私たちの敵なる巨人とは悪魔である。人間は長年その下で奴隷となり、悪魔に追従する人間的な考えで生きることにあまりにも慣れ親しんで来たので、クリスチャンになってもそう簡単にそのような人間的な生き方からは抜け出せないのだ。それをよくご存知のイエスはペテロに対して「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と看破し警告した。(マタイ16:23)

 そうである以上、私たちにとっての最大の誘惑は「悪魔に洗脳された人間的な考えと思い」で生きることである。なぜならそれが一番人間的に快適で楽な生き方であるからだ。問題は、私たちはいつも放って置けば自然に「人間的に」なってしまい、信仰がなくなることだ。これが恐ろしいのである。あれだけ神の奇跡を実際に経験しながら、イスラエルの民が巨人を恐れおののいて、約束の地に上って行こうとしなかった原因もここにある。

決断の十字路

 実はその時、イスラエルの民はヨシュアとカレブから「我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださる...主に背いてはならない。...そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。...主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民数14:8-9)という本来の信仰に立ち返るように迫られたのである。

 イスラエルの民はここで信仰で決意する十字路に立たされたのだ。この十字路で彼らには三つの選択のオプションがあった。 一つは神を全面的に信頼して、ヨシュアとカレブの言うように真っ直ぐに強敵のいる敵地へ予定通り乗り込むこと。二つ目は「どう見ても敵が強過ぎるから勝ち味はない」と言う人間的判断から、「いずれにせよ荒野の生活はつらいし、自分のために言うことを聞いてくれない神など置いて、もう一度この世のエジプトに引返そう」と言うオプションである。三番目は、どちらでもなく、そのまま荒野をさまよい続けるオプションであった。

 イスラエルの民は、結局十字路で中途半端な信仰ゆえに「荒野をさまよい続ける」と言うオプションを取った。これは後にヨシュアが「神の道を離れて右にも左にもそれてはならない」(ヨシュア記1:7)と警告した不信仰の路であった。彼らは巨人を恐れたので、どうしても神の命令に従うことが出来なかったのだ。
 クリスチャンにとっては信仰が全てである。総てを神に信頼する「全き信仰」を持つ時にのみ、神のすばらしい約束の地に着けることが保障されていると言う厳粛な事実を、私たちは忘れてはならない。
 
 その「全き信仰」を持とうと思えば、私たちも毎日この十字路の決断を迫られていることを認識する必要がある。そしてその十字路に自分の十字架を立てなければならないのである。それは人間的な自分の思いと考えに死んでイエスを見上げ、イエスの指示を仰ぐことを意味する。そうしなければ人間はどうしても自分の人間的な判断に引きずられてしまうのだ。それしか真の信仰の路を誤らずに歩む方法はない。
 それを知っているパウロは「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」と言った。(ガラテヤ2:20)

 自分の考えを一切十字架につけ、真っ直ぐに見上げる時にイエスが見え、イエスの声を聞くことが出来るのである。その十字架を十字路の真ん中に、前方を頭にするように置く時に、十字架を真っ直ぐ上に登る道が約束の地に到達する正しい信仰の路であり、その方向へ一歩踏み出す勇気と力を主が下さることを私は疑わない。

霊の戦いの本質

 ところでこの「13わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」という祈りは、私たちに「霊の戦い」の本質を教えてくれていることにご留意いただきたい。
 クリスチャンと言っても「霊の戦い」を知らない、あるいは、ほとんどしようとしていない人たちが大勢いる。これは本当に悲しい事実だが、悪魔の誘惑に堕ちて眠らされているからである。
 しかし、その一方で「戦うことこそクリスチャンの本来の姿」とばかりに、勇ましい戦いの歌を歌って空に拳を振る人たちもいる。まるで自分たちで戦うつもりで気勢を上げているようだ。気を付けないとこれも巧妙な悪魔の罠にはまってしまう。

 私たちのために戦うのは神であるとすれば、私たちは神が最も喜ばれることをすべきである。それは戦いを前にして私たちが心を一つにし心から主を礼拝し賛美することである。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ロマ書12:1)
 私たちが真の霊的な礼拝をささげることによって主が喜ばれる時、主はその場に来られてすばらしい臨在と油がそそがれる。

 確かにクリスチャンは悪魔に対してイエスの権威を使える。しかし、その権威は「天のみこころが地で行なわれる」時に最も効力を発揮する。正しい権威の使い方とは、その時その時与えられる主の御言葉を宣言し、それを忠実に実行することである。
 主から先ず「こう言いなさい。こうしなさい。」という指示を聞き、それを指示通りに実行する時、主が「悪い者から救ってくださる」「だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」(ヨシュア記1:5)ようにして下さるのだ。同時に、主ご自身の御国の御計画が私たちを通して着実に実現して行くのである。

 忘れてならないのは、多くの場合に主は敵を恐れさせて退散させたり、同士討ちをさせて、イスラエルの民は戦わずして勝利を得ていることである。それはヨシュア記を見れば明らかだ。戦いの前に「主はヨシュアに仰せられた。」と書かれていて神からの指示をその通りに行った時には、神は敵をイスラエルに渡されて圧倒的に勝たせ、「主の指示を仰がなかった」時は問題を残した。「霊の戦い」と言うが、本当に戦うのも勝たせてくださるのも主である。しかも主と悪魔では初めから悪魔に勝ち目はないのだ。しかし、悪魔は私たち人間が自分の方法で戦って勝てる相手ではないことは確かなのだ。この思い違いだけは絶対にしてはならない。

 主の祈りにおいて「悪い者から救ってください。」と祈るように教えられても「悪い者から自分で勝利しなさい」とは指示されていない。あくまで「戦われるのは主」であることを忘れてはならないことをこの主の祈りは教えてくれているのである。さあ、今日も御国の民である私たちは、主から教えられた祈りを祈り且つ実践しようではないか。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-02 14:19 | 坂達也からの今月のメッセージ
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