私たちを鼓舞する神の恵み ボビー・コナー 12月20日

私たちを鼓舞する神の恵み

ボビー コナー


クリスチャンである私たちは、毎日正しいゴール、目標、そして神から与えられた目的をもって生きるようにと教えられています。これは神の恵みを受けつつ歩むのでなければ達成はできません。(エペゾ5:14−18参照)

神はご自分の仕事を助けてくれる強い人を求めておられるのではありません。実は主は、ご自分が用いることができるくらいに十分弱い者を捜しておられるのです。神の力は私たちの弱さのうちに完全にあらわれるということを忘れてはなりません。(第二コリント12:9参照) 超自然的なすばらしい力を私たちが経験するための鍵は、自分が弱くなることです。

御霊の働き

私が「弱さ」という意味は、性格的に弱いとか、聖書をよく知らないという弱さを言っているのではないことを、はっきり申し上げておきます。私が言っているのは、御霊の働きを達成するのは肉の力では絶対出来ないことをよく悟った人のことです。これを悟ってとき初めて、私たちは本当の意味で強くなり、神の栄光ある御国を拡大させるための力を受けるのです。権勢によらず、能力によらず、神の霊によって神の御国は建てられることを、決して忘れてはなりません。(ゼカリヤ4:6)

詩編107:23−28には、大海原で働いている熟練した強い船乗りの話が描かれていますが、それがこの真理をはっきり描き出しています。ある日、主が嵐を起こされ、彼らの船乗りとしての自信は見事に吹き飛ばされてしまいます。彼らは絶体絶命の状況におかれます。この時、彼らは主の恵みと助けを叫び求めたのです。彼らは船を扱う技術も経験もありましたが、強い波と風が起こり、神により頼まねばならないことを悟ったのでした。

あなたの人生の風向きが急に変るという状況に遭遇したことがありますか?もしまだそういう経験がないならば、近いうちに必ず何かが起こり、あなたの人生の基盤 が何に置かれているかテストされるでしょう。嵐や洪水は私たちをテストするためにやって来て、私たちが本当にキリストだけに基礎を据えているかどうかが試されるのです。

キリストは「わたしを離れてはあなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)とはっきり言われています。この「何も nothing」と言う言葉は、完全に、全く何もできないということなのです。実際はゼロよりももっと少ないことを表しています。神の御国を拡大するのは御霊の働きでなければならないことを悟るとき、私たちの人生は喜びに満ちます。

今までにあなたがしたことや達成したことが如何にすばらしくても、それらは何一つとして、イエスがあなたを通してご自分の命を生きてくださるときの喜びと は全く比べものになりません。神は一人一人にぴったりでユニークな恵みの道を用意してくださっているのです。自分の考えとかやり方をすべて御霊に服従させるならば、あなたは恵みの中を生きる人生を 始めることができます。この領域に入るならば、あなたは神から与えられた課題を全部達成できる豊かな恵みを経験するでしょう。

恵みに満たされた新しいクリスチャン

神からのこの恵みは、新しいクリスチャンを輝く情熱の火で燃やします。私は長年牧会をしておりますが、その喜びの一つは、新しいクリスチャンの 人生に神がしてくださっているすばらしいことに彼らが興奮しているのを見ることです。新しいクリスチャンの喜びと興奮はみんなに伝染していきます。新しいクリスチャンのそばにいると本当に元気づけられます。彼らは神の愛で生き生きと輝いています。

牧師として私は新しいクリスチャンのためのクラスで教える機会がありますが、イエス・キリストが彼らの人生に与える喜びを見て、私の心は祝福されます。そして、恵みの中を歩む秘訣をすでに会得した成熟したクリスチャンの目も、この恵みの故に満ち足りて光輝くのです。 ご自分の栄光を顕す大きな業をなすために、神は私たちに恵みを与えて用いてくださいます。この驚くべき神の恵みによりどれほど偉大なことが出来るかということを証するのが、私たちの人生でなければなりません。

恵みで満たされた人生と実行とは切り離すことはできません。私たちは神の驚くべき恵みによって救われ、保たれているのです。キリストの身体である教会は、未信者に働き救いを導く神の恵みに関しては、よく理解しているようです。しかし、神の恵みの力が信者の日常の生活の中で働き、 真に効果的に実を実らせるのだという理解が欠けているようです。

恵みはあなたの思いを変えてくれるだけではなく、あなたの人生そのものを変える働きもしてくれます。恵みは力強いモーティベイターであり、私たちがもっと高みにまで登り、キリストと御国のためにもっと働くようにと鼓舞し奮い立たせるのです。

恵みを受けるために必要なもの

使徒パウロは第一コリント15:10で、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と述べています。パウロは神の恵みはむだにはならなかったと明言していますが、それと同時に彼の人生で力強く働く恵みの故にさらに多く働いたと言っています。

私たちの存在すべて、また、私たちがすることすべては神の恵みの故なのですが、私たちは神の御国を前進させるためにおおいに働くようにと召されています。クリスチャン生活の大きなパラドックスの一つは、私たちがすることはすべて恵みにより恵みを通してなされるのですが、神は私たちが勤勉に主に仕え、一生懸命働く(努力をする)ことを求めておられます。チャールス/スポルジョンは「信仰は、愛が建てた階段を 上って行き、希望が開いた窓から外を見る。」と言いました。

神から与えられる恵みを十分に受けとるためには、勤勉な働きが必要です。そして又、恵みを受けるためにはへりくだりが必要です。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」第一ペテロ5:5

へりくだる者に恵みは約束されています。偉大な聖人であるウオルター/ビュートラーは、このように言っています。「へりくだりが到着するやいなや、恵みは戸口に立って迎える。」 もし私たちが真にへりくだり、常に神の御業を賛美し神の栄光を横取りしないように注意するならば、必ずもっと恵みを受け取ることが出来るに違いないのです。主が ある時私に、最も大きな神への反逆者について警告されました。最大の反逆とは、主がリーダー達に花嫁をご自身へと愛で勝ち取るために与えた賜物と恵みを、彼らが 花嫁を自分たちの方に勝ち取るために使うことだと言われました。

私たち皆が、詩編84:11にある約束をしっかりと受け取ることができるようにと祈ります。「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」この節に、御国を前進させるための真の鍵を見つけることができます。それは私たちが栄光を見ることが出来るのは、神の恵みという賜物によることです。人類が今まで成し遂げた良いもののすべては、神の恵みの油注ぎと分与との直接的な結果に他なりません。神の栄光がこの地を満たすのを見るために、恵みに満たされた人生を歩もうではありませんか。

恵みは、私たちが神に近づくようにと招く開かれた扉です。箴言8:17と21で、神は次のように宣言しておられます。「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。」この言葉は、私たちが神を見い出すことができ、神があふれる富をもって祝福してくださるという、本当にすばらしい約束であり、力強い励ましです。

神はご自分の民に偉大な計画を持っておられることを、決して忘れてはなりません。エレミヤ29:11にある主の約束を聞いてください。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げ。ー それはわざわいでなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」今は神の恵みに対して心を広く開く時です。主は良きお方であり、一人一人に偉大な計画を持っておられるのです。

神を待ち望む

主は私たちを変えたいと願っておられます。私たちを主の目的に適う者にされたいのです。私たちが主を求めて主の心の扉をノックするのを待っておられます。エスターが夫の王座に近づかねばならなかったように、私たちも神の御座に近づくために自分を整えねばなりません。神もまた笏を差し伸べて下さっています。今は恵みによって天の扉が開けられているのです。神の恵みの御座に近づき、今の時のために恵みと助けを求めるときです。

詩編46:10で、静まって神が神であることを知れと教えられています。主の臨在の中で静かな時を過ごすのは、すばらしいことであり、非常に重要なことです。主を待ち望む時に私たちの力は新たにされるのです。(イザヤ40:28−31参照)私たちは皆、この世の雑事を閉め出して、神とだけ過ごす特別な静かな場所を見つけねばなりません。

毎日その場所に行き、礼拝し、主の慈しみと恵みを覚え、人生における主の導きと祝福を感謝するのです。主の前で時間をすごし、主を賛美し主の聖い御名を祝福しながら感謝をもって主の門に入り、賛美をもって主の大庭に入るときに、主の恵みは解き放たれます。

おおいがかかっていない顔で主を見る時を過ごすとき、私たちは栄光から栄光へと変えられるのです。静かな礼拝や祈りながら聖書を読む時に、御霊といのちを生み出す恵みが解き放たれます。それは私たちの存在そのものに流れ込み、私たちの信仰を建て上げ、従っていく力を与えてくれます。主の臨在の中で過ごす時間をつくることは、私たちにとって不可欠です。教会に属して礼拝に出席することも大切であり、決しておろそかにしてはなりませんが、それは栄光の主と個人的に交わる 時間にとってかわれるものではありません。

主と二人きりになる

ルカ3:2に書かれているように、主の言葉がヨハネにきたのは、彼が荒野に一人でいたときであり、それによって彼は明確な指示を与えられました。当時も教会のプログラムは盛んに行われていましたが、ヨハネはそれから離れ、主とだけ時間を過ごすようにと召されたのでした。それと同じように今日でも、霊的に飢え乾いてもっと深い何かを求める者が、備えの時間を主と共に過ごすようにと召されることがあるのです。主と共に過ごしたことによりヨハネは主と一つとなり、他の何によってもできなかったことが達成されました。

お前は誰か、と訊かれた時のヨハネの答えがそれを証明しています。彼は「私は、預言者イザヤが言ったように、主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えました。(ヨハネ1:23)私たちも皆、このように「私はその方の声です。」といえる所まで到達せねばなりません。現在世界ではフラストレーションと危機が起こっていて、緊急に「声」が叫ぶ必要があるのです。私たちは今、神の恵みと平安を必要としている世界に生きています。

今日必要とされているのは、新しい方法論とかではなく、一人になって主の顕在の臨在の中に立ち、現代の荒野で主の声になるべく備えをすることです。昔の弟子たちのように、私たちも「彼らが主とともにいたことが明らかである」と言われますように。これが、そしてこれだけが、飢え渇いた世界に神の救いのメッセージと 恵みを携えて行く者へと、私たちを変えることができるのです。

ある有名な牧師が晩年に、もし人生をもう一度やり直すことができたらどうしたいか、と質問されました。彼は、自分は7年の準備期間のあと45年間ミニストリーをしてきたが、もしやり直すことが出来るならば、45年間準備をして7年間ミニストリーをするだろうと答えました。どのように出発するかも大事ですが、どのように終えるかのほうがずっと大事です。

私たちが自分の能力の限界に来て、主の能力に頼ることを主は願っておられます。そのためには、主の臨在を認め、一人になって主の前に立たねばなりません。そうする時にだけ、私たちは 現代の荒野で叫ぶ主の声となることが可能となるのです。(終わり)


トップへ戻る
[PR]
by walkwithgod | 2008-12-20 06:47 | アメリカからのメッセージ
<< 「主を見つめて待つ」祈り(1)... 秋の日本旅行の報告 その4 ... >>