人を助ける賜物 リック*ジョイナー 2009年2月2日

人を助ける賜物

リック*ジョイナー 2009年2月2日


教会が今の時代に与えられている目的を果たすためには、絶対に一致が必要なこと、そしてどうすれば一致をもたらすことができるかを私たちは考えています。今まで分裂していた 教会間や教派間、又クリスチャン同士の間に、信頼と交わりの大いなる橋が数多く架けられるのを、今年は見る事ができるでしょう。それによってキリストのからだは、今までにない力を与えられるのです。

キリストのからだの中に、これほど多くの分裂があった理由の一つは、私たちがあまりにもすべてを一様化しようとしたことです。かつてイスラエルに求められたのは、基本的な二つの事、即ち、礼拝と戦いに関して一致することだけでした。それは、主が定められた場所と形式で共に主を礼拝すること、そして、同胞他部族が敵からの攻撃を受けた場合に彼らを助けることができる戦いの準備をしていることの二つでした。

ですから、教会もこの知恵を使って生きるならば、その力、権威、大きさ、富、影響力は、すぐに何倍にもなることでしょう。礼拝に関する一致を論じる時に、例えば音楽のスタイルのように主が自由を与えていてくださることに関しての討論は絶対に避けなければなりません。しかし、礼拝の対象は「どなた」であるのかとか、モラルや正義、その他すべてのクリスチャンが共有すべき基本的な真理に関しては、一致しなければなりません。

モラビア派は、次のように言っています。「基本的なことに関しては一致がなければならない。その他の事に関しては自由がなければならない。そしてすべての事において愛がなければならない。」

人を助ける賜物のミニストリー

次に、戦いに関しては、他のクリスチャンや教会が攻撃されているのを見たならば、クリスチャンとして私たちはその人たちと共に戦う姿勢を常に持っていなければなりません。現在、残念ながらこのような事は稀ですが、これが実行された時には、クリスチャン同士が特別の力強い永遠の絆で結ばれるのを私は見てきました。

ずっと以前に私は、人を助ける賜物のミニストリーは教会に一致をもたらす最も力のあるものの一つであることを教えられました。私は、このミニストリーは教会で草刈りをしたりお皿を洗ったりすることだと思っていたのですが、それよりもっと深いものだということを主が教えてくださいました。それは他のすべてのミニストリーの土台となるべきものなのです。

聖霊は「助け主」と呼ばれます。真に人を助けるミニストリーは聖霊のご性質の表れの基本的な部分です。溺れた人が助けを求めて叫んでいるとき、それに応えて救う人は人を助けるミニストリーをしています。攻撃を受けている人を助けるのは、人を助けるミニストリーなのです。

主の御心は人を回復させること

ずいぶん以前、私は自分の子どもが下水溝にはまってしまい、汚物にまみれている夢を見ました。誰も助ける人がなく、それどころか彼の汚さを見て世界中が軽蔑しているようでした。すると夢の中に一人の男の人が現れ、私の子どもを救い上げ、きれいに洗って元通りにしてくれました。子どもは解放され、また前進して行けるようになりました。

子どもを助けてくれた人に対する私の 感謝の気持ちは、口で表すことは到底できませんでした。自分の全財産を上げたい、その人のためならば何でもしたいと思いました。その時、夢の中で主の声が響きました。「ジム・ベイカーはわたしの子どもである。彼を助けてくれるだろうか?」

当時ジム・ベイカーは、世間で、そしてクリスチャンからも多分一番軽蔑されていた人の一人だったでしょう。彼が刑務所に入っていたときにクリスチャンの人たちから沢山手紙がきたのですが、それを読むと彼を一番軽蔑していたのはクリスチャンの人たちだったのではないか、と思えるほどです。神は彼を愛しておられました。そして ご自分の子どもの一人が傷ついているのを見て、神も苦しんでおられました。私は彼のしていたPTL(Praise The Lord)という番組は、たまにちらっと見たことがあるだけですし、面識はありませんでした。彼の裁判の様子や刑務所に入ったことも、ニュースで少し知っていただけでした。

しかし、私は出来る限りジムを助けようとすぐに決心しました。けれども、私は彼を助けるために大したことは出来なかったと思いますし、正直言って、彼との関係においてより多くの恩恵を受けたのは私のほうだったと言わねばならないでしょう。何よりも、このことを通して以前には経験しなかったすばらしい神の恵みが私の上に注がれたのです。

トッド・ベントリーの問題が起こり、彼を回復させるようにと頼まれたときに、私が迷う事なく承諾したのは、同じ理由からでした。ジム・ベイカーを助けることは私や私のミニストリーを大きく損なうことになると、何人かの人から忠告を受けました。確かに そういう事も少しはあったかもしれませんが、すべての人からよく思われるよりも神から恵みを受ける方がもっと価値があるのです。トッドは、私が彼を助けるのは何か見返りを期待しているからではないか、という疑問を持ったと思います。すべてのクリスチャンが彼に対して腹を立てているように思われるときに、どうして私が彼を助けるなどということをしたいのか、と彼は訝しがったのです。しかし、20年以上前に主から受けたあの夢は、今も同じように私にとって非常にリアルなものであるのです。

私がこの世で生きているのは、ミニストリーを建て上げるためではなく、神の御心を行うためです。そして人を回復させたいという主の御心と同じ心を教会が持つまでは、神や人から教会が信頼されることは決してないでしょう。この世が罪を犯して神に背を向けた時、主はこの世を罪に定めることなく、この世を救うためにこの世に来られ、ご自分のいのちを与えられました。主の心を持つ者は、問題の渦中にある人たちのために同じことをするのです。

真のクリスチャンは礼拝に関して基本的に一致しています。今、クリスチャンが他の兄弟姉妹が攻撃にあうときにそれに応えて助けの手をのべ始めるならば、私たちの一致は非常に早く達成されていくでしょう。また、罪を犯した人を助けるために働くことも必要です。それはキリスト教の基本、即ち救い主が私たちのためにしてくださった事だからです。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-02-06 14:49 | アメリカからのメッセージ
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