楽観か失望か? グラハム・クック 2009年4月3日

楽観か失望か?

グラハム・クック


神は、単に私たちが目指す目的地に到達するのを助けたいとは思っておられません。主は私たちがどのようにして目的地までたどり着くかに関心があり、その旅路に同行したいと願っておられるのです。ルカ24章で主はエマオに行くために弟子たちと一緒に歩いたのではありません。主は 共に歩くことを楽しみ、ご自分の復活というよい知らせを彼らに分かち合いたいと思われた故に、一緒に歩かれたのです。

私たちが神に何かを素早くしてくださいと願うときに、主は大抵の場合「ノー」と言われます。ほとんどの人は、自分の抱える問題が一晩で解決し、元通りの平穏な生活に戻ることを望んでいます。しかし、神は決してそのようなことはされないのです。主は私たちと共に道を辿り、知恵や啓示、そしてご自分の臨在を与えたいと思われるのです。

この旅路において、私たちには二つの選択肢があります。楽観的であるか、または失望するかです。自分の意志でもって前向きに考えるか、それとも気分的にとか怠惰から否定的になるかです。失望は私たちの心にそっと忍びより、自分で何が起こっているのかわからないうちに、その中に落ち込んでしまいます。私たちはハッピーであることを選び取らねばなりません。

物事がうまくいかない時でも、私たちはポジティブであることが出来るのです。「今、本当に落ち込んでいます。」というより、「静かに期待して待っています。」と言う方がいいのです。これは単に言い方を変えただけではなく、物の見方を変えることです。私は静かな期待のうちに生活しています。私の目標は常に信仰をもって生きることであり、それを助けてくれるのが聖霊が本来持つ朗らかさです。

霊の戦士は決してへこたれないで、襲ってくるどのような衝撃にも耐える必要があります。この地上でもっとも衝撃を和らげるものは安息です。物事がうまく行かなかったときでも、私たちはそこから素早く立ち直って、神にある体制に自分を再び正さねばなりません。私は時々思うのですが、罪とは私たちが倒れることというよりは、起き上がるのを拒絶することではないでしょうか。倒れてもすぐに起き上がるバネの強さは、神と出会い、神のご性質を知っている者の心が持つことができるものです。イエスが私たちにとってどのような方であるかという証と、イエスが何をしてくださったかという証拠は、どのような状況の中でも私たちに勝利を与えます。(黙示録12:11「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」)この確実な二つの出来事が共に働き、私たちの心を恐れのない大胆さで満たすのです。

逆境をはね返す力は、 自分の意志をしっかり確立させることにより、自分の思いが、まわりの 状況にではなく霊によって動かされるようにすることによって得ることが出来ます。そうすると、私たちの思いは自分の口を用いて賛美し、証し、神の偉大さを宣言するようになります。

主の偉大さをほめたたえるか、それとも今自分を悩ませている状況に焦点をあてて大変なこととして扱うか?―私たち各自がこれを選択できるのです。主をほめたたえることこそ否定的な思いを取り去る解毒剤です。霊で生き私たちの内なる人を顕していくためには、私たちの存在のすべてが一致していなくてはなりません。魂、霊、身体という自分のすべてによって信仰は表現されねばならないのです。思いの同意と感情の服従によって、意志による行動は霊が目指すものに従い、神がどのようなお方であり何を望まれているかということに一致していくのです。この一致が起こるや否や、ブレークスルーが起こり始めます。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-04-03 13:49 | アメリカからのメッセージ
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