水がワインに変えられる時  坂 達也  8月17日

水がワインに変えられる時

                                                       坂  達 也


イエスが最初になされた奇跡はカナでの婚礼の宴においてでした。その婚礼には当初からイエスの母が係わり合っていて、イエスとその弟子たちも招かれていました。宴会はたけなわとなりました。しかし用意されていたワインが無くなったのに気が付いたイエスの母はイエスの元に駆け寄り、ただ一言イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。(ヨハネ2:3)

このお話は色々に解釈出来ると思いますが、一つ私が確信することは、このお話は多分に預言的であることです。冒頭のヨハネ2:1で「三日目に」と言う言葉が書かれておりますが、これが二千年(二日)が過ぎて三千年目に入った今の時代を表していないでしょうか。

私はイエスがされたこの最初の奇跡のお話に昔から大変興味をいだいて参りました。私の著書「キリストの弟子」では、主の再臨の際に天で行われる「小羊の婚姻」のことを踏まえてイエスはこの奇跡をされたのではないかと云う解釈をご紹介しました。
イエスと共に婚礼に招かれたのはヨハネ、アンデレ、ペテロ、ヤコブ、ピリポ、ナタナエルと言う最初の六人の弟子たちであったと考えられますが、この六人の弟子が六つの石のかめとして登場し、彼らは私たち「キリストの花嫁」を代表していると解釈出来ます。つまり、このカナでの婚姻に弟子と共に招かれたイエスは、三千年目に入った時に実現するご自分と「キリストの花嫁」である弟子たちとの婚礼の宴会のことを考えておられたのです。

ですから、母から「ぶどう酒がなくなりました」と告げられた時、イエスは「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)と答えられと思うのです。確かにその当時は「イエスご自身の婚姻の時」ではありませんでした。しかし、三日目に入った今こそ「わたしの(婚姻の)時」が近づいて来て、そのためにイエスが弟子と言う水がめに入った水をいよいよワインに変える本番の時が満ちたように思えます。

興味があることに、その時用意された六つの石の水がめに就いては「ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった」(2:6)と説明されており、これは平均的な人間の身体の水分とほぼ同量なのだそうです。六と言う数字は人間を表すと言われますが、その人間の中でも特別に選ばれたキリストの弟子(六つのかめ)に先ず御言葉の水をフルに与えなさいとイエスは命令されました。そのように御言葉で詰まった「イエスの弟子たち」をイエスはワインに変えられるのです。この「新しいワイン」に変えられた人間たちこそが真の「キリストの花嫁」であり、彼らは「新しい皮袋」となって奇跡を起こす力に充満するのです。それは御国のためにイエスが用いられるからです。まさに「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(1コリント4:20)が実現します。

ここで、カナの婚礼で「用意されていたワインがなくなったこと」の意味について考えてみたいと思います。イエスがこの世に来られ、教会が始まって以来二千年が経ちました。この二千年間は、云ってみれば「人間文明の最盛期」でした。しかし今人間たちが用意し大いに楽しんで来た「この世の」ワインがついに底をついたのです。この世が今、政治・経済だけでなくモラルを含むあらゆる面で末期的症状を呈していることは明らかです。

一方、教会と言う見地から見た場合はどうでしょうか。今までの教会は時折聖霊の油注ぎを受ける(ワインを飲む)ことによって主の御業を行っては来ましたが、いつも油注ぎで満たされている訳ではありませんでした。こうして二千年間「教会」が用意して来たワインは必ずしもイエスによって醸造された純粋なものではなく「人間的要素が混じった」霊的に力の弱いワインであったと云うことが出来ないでしょうか。しかし、ここに至ってそのような未完成で薄められたワインもついに出尽くしたのです。言い換えれば、今までの教会のやって来たことをこれから幾ら努力し続けても、出るべき力が増さないことが明らかになって来たのです。
クリスチャンは自分たち教会のワインが美味しいと思って来たとすれば、本当のイエスのワインがどれだけ美味しいか、その味を知らないのです。

世の終わりに際しこの世を御国に変えるために必要な教会とは、人間的に薄められたワインを飲む弟子たちの集団では用が足りません。これからの教会は内側が完全に「イエスのワイン」のみで満たされる人たちでなければならないのです。


そのワインとは聖霊をあらわしています。イエスによって「水」が「新しいワイン」に変えられた人たちはものすごい爆発的な力を内蔵し、それは聖霊によるものです。「・・・・武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」(ゼカリヤ4:6、7新共同訳)

そしてそれは純粋に主の霊でなければならないのです。そのことがイザヤ11:2、3 で、「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、・・・」と書かれている通りです。私たちは、イエスの霊で完全に満たされる器、つまりイエスそのものに変えられなければなりません。

最近の一週間、このようなことに思いめぐらしている中で、数日前ですが8月14日の午前二時近くに私は主に起こされました。そしてひざまずくと主は既に上記に述べたことへの多くの確認を下さり、又、次のような啓示を受けました。今その時書いたノートのメモを見ますと、

「ワインは葡萄の実を潰して成熟させたもの。御言葉と言う水は私たちの体内でその葡萄の実の成熟したもののように変えられなければならない。・・・良いワインとは人のため、人が飲んで喜ぶもの、私たち花嫁は、キリストが賞味して喜ばれるものにならなければならない。」

「人間のやり方では最後は破綻する。唯一成功するのは神のキリストのやり方だけ。目標- 成熟 ―イエスによってイエスのようになること ―完成」

「真の婚姻の時は近づいているが今は未だその時ではない。しかし、イエスは自分の時でなくても、母から頼まれれば奇跡を起こされた。私たちは花嫁としてキリストと母の関係と同じぐらい親蜜な関係になれる。そうなる時、主の時でなくても(アウト・オブ・シーズンでも)必ず主は私たちの願いを聞かれ奇跡を起こして下さる。」


最後にヨハネ2:8-10で、イエスは自らワインに変えられた水がめのワインを「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言い、手伝いの者たちに持って行かせると、その味の良さに驚いた世話役は花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」と言いました。
 
ここで云う「宴会の世話役」とはこの世を取り仕切る王たちに例えられると思いますので、御国の王であるイエスはイエスのなさること(イエスのワイン)がどれだけすばらしいものであるかを、新しいワインに満たされた弟子たちが実行してこの世の指導者たちに見せなさいと言われていると解釈出来るのではないでしょうか。
御国が来てイエスがこの世を治める王となる時、それがどんなにすばらしいものであるか、聖書はその王国が来ることを私たちに約束されておられますが、神はその最もすばらしい聖霊の実であるワインを最後の最後まで取って置かれるのです。そのために主は今、主に従順で忠実な者である「真の弟子」だけを求めておられます。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-08-17 14:56 | 坂達也からの今月のメッセージ
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