幻 (その1) ジェシカ•ジョーンズ 2009年10月4日

幻 (その1) 

ジェシカ•ジョーンズ

私の心は今にも破裂しそうにわくわくしていて、どこからお話したらいいのかわからないほどです。今私たちは本当にエクサイティングな時に生かされています。昨年神はすべての事柄をそれが本来あるべき場所に位置され、それによって私たちのこころとまわりの状況を整えられました。今年は主が今までに用意されていたものを実現される時です。 今年は私たちがずっと待っていたもの、ずっと祈っていたものの多くを見る年なのです。

でも私は待ちきれない気持ちです。今すべてが実現するのを見たいのです。待ちくたびれました。でも私にとって「一生の間」と思えることが主にとっては一瞬にすぎないのです。それをどうすれば私は悟ることができるのでしょうか? 私たちは主と同じように考えねばなりません。自分の人生の長さを計りの尺度にするのではなく永遠という時間の尺度で計るのです。そして神が一歩次のステップを踏み出されるためには、何億という人々をキチンと正しく整えねばならないことを思うとき、私は謙虚にされ畏れの念を持つのです。どうしてそのように多くの人々を整える必要があるのでしょうか? 

それは私たちが共同で働いているからです。私たち全員がキリストの花嫁であり、一つにつながれているのです。悲しいことに、ある人たち、いや人類の大部分は、花嫁としての座に着かないのですが、本来私たちはすべてその目的のために創造されたのです。私たちのまわりを見てみれば、神からの約束や相続を奪われて絶望という岩に乗り上げてしまっている破壊された人生を沢山見ることができます。それはサタンが花嫁に対して戦いを挑み、その成果上げてきたことの証拠に他なりません。

黙示録の中で花嫁はただ一つの声を持っています。私たちは今完全に一致して一つの声となるべきなのです。しかしまだ私たちはその一致に至ってはいません。

私たち皆が一致してはいません。クリスチャンはこの世と一致していません。この世の彼らもお互いに一致していません。私はクリスチャンがこの世と一致するべきだと言っているのではありません。しかし、この世もまた花嫁の一部となるようにと創造されているのです。ギャングやホームレス、麻薬を売買したり常用したりしている人たちも花嫁の一部となるようにと創造されたのです。しかし彼らは愚かな花嫁であり、十分な油を用意しなかったか、全く持っていなかったのです。

しかし、どのような考えであったとしても、すべての人は自分のいるべき位置についていなければなりません。私たち一人ひとりは自分が接触を持つ自分の周囲に影響を及ぼすだけではなく、間接的に世界にも影響を与え、また次の世代にも影響を与えます。私たちの世代は自分たちの将来だけではなく世界の将来も決めていくのです。今の世代が将来に影響を与えます。私たちは孤立しているどころか、決して一人で行動しているのではないのです。即ち私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばならないのです。

二人の人が合意するには(たとえうなずくだけであったとしても)、その問題を議論することによって言葉によって合意に達し、合意の条件を明確に宣言したわけです。それは音の力を必要とすることです。そうですね、 話合いをしなくても書かれた文章によって合意することも出来ます。しかし紙に書くとかコンピューターに打ち込むときにも音が出るのであり、やはり音を必要とします。私たちのすることはすべて音を発するのです。

「音の振動」Sound vibrationとは興味深い言葉です。 この言葉を書くや否や私はヴィジョンの中にいる自分を発見しました。それは私たちがみんな音を発するというヴィジョンです。すべてのものが音を出します。合唱をする人もしない人もいると思いますが、私の言う「音」とは私たちが音と普通考えるものとは本当はなんの関係もないものです。 

私は以前、音痴の人の横で歌うのはとても苦手でした。私は「人について歌う」人だったので音痴の人につられてしまうからでした。私は「嫌だなあ」と思いました。神様は彼らの歌をどうして我慢できるのかと思いました。とてもよい声の人もあるし、ひどい人もいます。神はすべてのものをとても美しく造られたのに、どうして音痴な人をそのままにしておかれるのでしょう? 「アメリカン•アイドル」(歌の勝ち抜きコンクール)という番組を見たことがありますか? 非常に下手な人たちの中には、自分はとても上手だと信じている人がいるのです。本当にそう信じているのです!しかし、神にとっては彼らの声は美しいのです。審査員のサイモン(厳しい批評をする人)がするように顔をしかめて「まったく聞くに耐えない!」とは神は言われないのです。違います、主は全く慈しみの笑みを浮かべて「あなたは本当に美しい、あなたの声は素晴らしい!もっと歌ってください。」と言われるのです。主にむかって愛を歌うすべての声を主は実際心から愛し喜ばれるのです。私たちが気にするように人々の歌声が上手か下手かは、主にとっては重要なことではないのです。

どうしてそうなのでしょうか? どうか怒らないでください。それは他のどのような技能・能力、絵を画くことやダンスや何であっても同じなのです。あるものは恐ろしく下手であり、あるものはまあまあであり(平均)、あるものは上手です。全員が上手ということはありませんし、全員が下手ということもありません。それは私たちと全くかかわりがないことであり、なぜならばそれは聖霊が思いのままに賜物をくださるからです。それによってある人が他より優れているとか劣っているとかではありません。ある人が他の人とは異なるということだけです。私の賜物を皆さんと分け合えば皆さんも豊かになります。皆さんの賜物を私に分けてくだされば、お互いがもっと完全になって神からの賜物の全部を楽しむことができます。

神は私たち一人ひとりをすべて同じように愛してくださいます。主の目には私たちはみんな素晴らしいのです。ある人によくない声を与えてその人が歌うのをお聞きになって辟易する、という主ではありません。又、ある人によくない耳を与えてその人がバイオリンを弾くのを聞くのが苦痛だと思われる主でもありません。私たちはそう思いますが、主はそうではありません。

私たちは本当にちっぽけな考え方をします。偏見と裁きの態度です。誰が格好いいか、誰が悪いかを決めます。 歌が巧いのは誰か、 下手なのは誰かを決めます。何がいいか悪いかを決めます。多分これが「善悪の知識の木」の最大の悪でしょう。つまり「神が創造したすべてのもの、すべての人は良い」ということを忘れて、何が良いか何が悪いかを決めるという性質です。それは 歪んだ偏見に満ちたものの見方、即ちすべてのものを自分の好みや意見に照らし合わせて見る見方を私たちにさせるので、世界を 数えきれないくらいのグループに分割し、それを各々の境界線の中に閉じ込めてしまったものなのです。
これが大虐殺やある民族を絶滅させようとする戦争が過去100年間に数多く起こった理由です。アルメニヤ、スレベナ、ボスニヤーヘルゼゴビナ、ルワンダ、ブルンデイ、カンボジア、バングラディッシュ等での戦いで、花嫁になるべきだった2千3百万人以上が死にました。それに付け加えたのですが、アメリカだけで花嫁の53、227、874人以上が堕胎によって1973年から殺されています。それも私たちが自ら何が良くて何が悪いかを決めたからなのです。


神がルシファーを創造されたとき、神は悪ではなく善を創られました。しかしながらルシファーが自らを醜く悪であるものに変えたのです。神がよき方であることを疑い始め、自分で善悪を決めたのはルシファーでした。実のところ悪こそが醜いのであり、才能や能力、見かけの美しさが無いことは醜いことではありません。

私は人と会ったときに最初に抱く直感的な思い(第一印象)―それは生まれつきのもの、あるいは生後に習得したものから来るものを含め―を常に点検する必要を持っています。昨日ショッピングセンターを歩いていたとき、かかとが11センチもある偽革のブーツをはいている若い女性とすれ違いました。すぐに私に頭に浮かんだことは、なんて格好悪いブーツなんだろうという思いでした。すると聖霊が私を直ぐにチェックし、いくつかのことを私に示されました。

まず、そのブーツをデザインした人はそれは最高のデザインだと思ったということです。次にこの若い女性はこのブーツは素晴らしいと思い、誇りをもってはいているのです。私が好きではないとか、絶対はくことはない(私は2センチのヒールでも転んでしまいますから)からといってそのブーツが不格好であるわけではないのです。神様は多くの種類を創られる神ですから、私たちはみんな違っていて好みも違うのです。私たちはそれぞれがユニークで違っていることを喜び、自分と違う人々や彼らがすることを批判することを止めなければなりません。

歌と音の振動に話を戻しましょう。最近ある学校のタレントショウで見たことに私は非常に怒りを覚えました。一人の女の子(多分16歳)が誇らしげに紹介されたのですが、彼女はすばらしい才能の持ち主で歌のチームにとっても彼女が入ったことは幸いということでした。司会者は数分間も彼女の音楽的才能を褒めそやしました。しかし、他の同年の子達と同じように無邪気であるべきこの少女は、官能をそそるような歌を歌い、声も身振りも非常に醜く人の心を乱させるものでした。確かに彼女の声はすばらしかったと思いますが、彼女の中の他のすべての声はそうではなく、それらの醜い音が私の耳に達したのです。
いい声か悪い声かは別にして、私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものなのです。この合わさった声が音の振動を作り、それが第一、第二、そして第三の天にまで届くのです。

この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。事実、創世記に書かれている創造の記事を信じるならば、すべてのものは物体ではなくて音なのです。そしてすべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。私たちは普通皮膚の色とか目の色とかをみますが、音の色は見え方が違うのです。丁度様々な音が合わさって一つのメロディーとなるように、それは色が渦巻いて見えるのです。ヴァン•ゴッホは(彼は宣教師でした)この音を見る能力を持っていて、その音の「生きた」エネルギーで絵を描いたのです。友人が彼から去ったとき 絶望して自分の耳を半分きり落としたほどに彼を狂気においやった原因は多分それだと思います。彼はもう自分に聞こえてくる音を聞きたくなかったのでしょうか?

さて、この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。イエスは「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と言われました。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。

一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。聖書でイエスが白い衣を着ておられ、全創造の御座に座しておられる父が白い衣を着ておられ、白い髪、白いひげであると描写しているわけはここにあります。白は私たちすべての心、魂、身体が三位一体の神と一致し調和している色なのです。白は義の衣の色です。それはこの世が見るような皮膚の色とは何の関係もありません。(今アフリカではしらこ(albino)の虐殺が行われています。それは人々はしらこの皮膚には大きな力が秘められていると信じられ彼らの骨が高額で売買されているからです。)

音があなたから発せられ他の人の音と一緒になって第三の天にまで上っていくのを想像してください。そしてこの力が何百、何千、何百万という人々の力と一緒になり、第三の天にまで広がってゆき、愛、崇拝、感謝、創造、、、の力となっていくのを思い描いてください。

全世界が一致した花嫁で満ちあふれ、すべての音の振動が第三の天まで届くことを想像してください。その効果はどんなに素晴らしいことでしょうか? 自然界のある第一の天ではいのちは幾倍にも豊富に増し加わるでしょう。第三の天では絶えることのない祈りと天使の働きにより平和があり、すべての民が絶えず喜んでいるので言葉で表すことが出来ないほどの喜びが満ちることでしょう。地獄のような第二の天では嘆きと歯がみがあるでしょう。深い穴では彼らは千年の投獄を終えて出てくるときに人類を攻撃するための計画を練っているでしょう。

この一致した音の振動はパワフルな力です。それは創造し、回復し、力を与えます。それは3つの天を通ってすごい力で駆け抜けるのです。
私たちは音によって創られました。すべての人は音から創られ、音により音から形創られました。創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があるのです。(続く)

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by walkwithgod | 2009-10-04 13:34 | アメリカからのメッセージ
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