カテゴリ:坂達也からの今月のメッセージ( 69 )

私たちのブログ移転のお知らせ 坂 達也 2010年10月25日

私たちのブログ移転のお知らせ

突然ですが、私たちのブログを移転することになりました。新しいサイトは
http://www.banministries.org/
です。今までのサイトをあけても、何もせず、しばらくすると自動的に新しい方に切り替わります。どうぞよろしくお願いします。坂 達也

移転先の新しいブログはこちら
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by walkwithgod | 2010-10-26 00:21 | 坂達也からの今月のメッセージ

うなじのこわい民   坂 達也  2010年10月14日

うなじのこわい民

坂 達也


 「うなじのこわい民」という言い回しは、出エジプト記32:9の他にもくりかえし出てくる聖書独特の御言葉で、明らかにイスラエルの民を指しています。その意味は「神(キリスト)のくびきに素直に架かることができない」、「頑固に神の言うことを聞かない民」ということなのですが、英語ではstiff-neck(首の硬い)と言います。

律法は人を殺す

 さて、2コリント3:6に「神は、わたしたちが新しい契約に仕えることができる者にして下さいました。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」と書かれています。
 
 旧約聖書では「文字」といえば、石の上に神ご自身が文字で書かれてモーセに渡した「律法」を指します。パウロもここはその意味で書いたのでしょう。つまり「律法は人を殺し、霊は人を生かす」のです。

 この文章では「文字に仕える者」と「霊に仕える者」とが対比されておりますが、それで思い浮かぶのは、Ⅰコリント 15:46に書かれている「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」という御言葉です。これを当てはめてみれば、最初(旧約の時代)は「石に書かれた律法に仕える者」が、後(新約の時代)の時代には「霊に仕える者」すなわち「同じ律法を、石ではなく心に書かれる(神の)霊に仕える者」ということが出来ると思います。つまり、最初は「目に見える肉の形のもの」、後に来るものは「目に見えない霊のもの」である訳です。

 石に書かれた律法といえば、神は二度、二枚の石の裏表両面にご自身の指で文字で書いた律法の書をモーセに渡しております。最初のセット(二枚)は神ご自身が石も造られ、それにご自身で文字を書かれたという大変貴重なものでした。
 モーセはそれを抱えて急いで山を降りたのですが、そこではイスラエルの民がアロン以下「金の子牛」を作ってその前でドンチャン騒ぎをしていました。その光景を見て、烈火のごとく怒ったモーセは、その貴重な二枚の石の板を地面に叩きつけて粉々に壊してしまいました。考えてみれば本当にもったいない話です。

 ところがその前に、神は、山のふもとで民が子牛を作って祝っていることを知っていて、烈火のごとくモーセに怒ってみせたのです。興味あることにその怒り方の形容(32:9)がモーセの怒り方(32:19)とまったく同じ原語“charah”で形容されております。これから分かることは神とモーセは心が一致していることです。
 このへブル語を英語では “wax hot”と訳しておりますが、まさに「烈火のごとく」なのです。突然、金の子牛を作って踊り出した民に対してカンカンに怒った神は「うなじのこわい民」と叫んだのですが、これを見てモーセは神の怒りをなだめようと一生懸命でした。とにかく神はモーセに直ぐ山を降りて民のところに行けと命令しました。

 ここで再び石の話にもどりますが、貴重な石の板をモーセが叩き壊したのを見て神が怒るかと思えば、何もとがめず、改めてもう1セット造ってくれたのです。但し二度目は、同じような石を二枚、今度はモーセが作って持って来なさいと言われました。「あなたが壊したのだから今度はあなたが石の板を作って持って来なさい」というのは当然であって、それが罰といえば罰であったかもしれません。

 でも私はモーセが石を叩き割ったのを見て、神はにやりとされたと思うのです。なぜなら、モーセは分かっていたのです。石の上に書いた律法は何の役にも立たない、むしろ害になることを。そんなものは叩き割れ!なのです。本来、律法は「心に書きいれるもの」だからです。あるいは、石を心に置き換えれば、律法を心に刻めないような「石のような心」stony heartであるなら(イスラエルの民の心はそうでした。)そんな心は叩き割って取り除けという意味であったかもわかりません。
 エゼキエル書36:26に「 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、・・・」とある通りです。
 

書かれた御言葉は人を殺す

 ところで上記の「文字」letterという原語は「律法」lawという意味と「書かれた御言葉」 scripture という意味の両方に取ることができます。新約の時代に生きる私たちにとって「文字」と言えば「律法」よりも、むしろ「書かれた聖書の御言葉」と取った方がより重要な教訓になるように思えます。
 
 それはどういうことかと言いますと、新約の時代に住むクリスチャンは書かれた文字の御言葉を何度も読んで慣れ親しむのはいいのですが、傾向としては、頭で読んで理屈はこねるが、本当に心に刻み込まれていない聖書の読み方をしていないかと言うことです。そのような聖書の読み方は「人を殺す」と言うのです。
 とどのつまり、私たちは旧約の時代のイスラエルの民と同じで「うなじのこわい」「キリストのくびきに素直に架かることができない」「頑固に神の言うことを聞かない民」になっていないかと言う問題提起です。いかがでしょうか。残念ですが、それがどういう意味かも分からないクリスチャンもいます。

 私がクリスチャンになりたての頃、今から35年以上前のことですが、私が大変尊敬していたクリスチャンの鏡のような人がワシントン州のタコマという処に住んでいました。彼は地元新聞社に勤める傍ら、時間と機会があれば公園であろうが道端であろうが、見知らぬ人に声をかけて優しくキリストを語り、多くの人を導きました。教会には夫婦で熱心に奉仕し、仕事の関係で一時タコマに住んでいた私たちにも大変よくしてくれました。
 その後25年程経って、私たちが仕事を止めミニストリーに専念し始めたとき、真っ先に毎月の献金してくれていたのですが、その年の暮れに突然手紙が来て、「実は私たち夫婦は数年前に離婚し、私は、今全く教会にも行っていない。あなた方に献金して来たのは長年の親友であるからで、今は一人住まいで経済的に余裕がなくなったので献金はこれで打ち切るので申し訳ない。」という長い手紙でした。

 これは私のクリスチャン生活の中で最もショックを受けた事件でした。あれ程熱心に模範的クリスチャンとして奉仕してきた人が「クリスチャンを辞める」ことは全く考えられなかったのです。その人は大変優しい誠実な人柄なので、私が彼は霊的な人であると思い違いをしていたのでしょうか。長い間、肉でクリスチャン生活を過ごして来たのでしょう。その人は努力してクリスチャンをやり続けたのです。霊は人を生かすが、律法は人を殺す、いや、肉が中心の努力のクリスチャン生活は人を殺すのです。本当に聖霊にゆだね、聖霊に生かされていなかったのです。

私たちは旧約聖書から本当に学んでいるか

 1コリント10:11に「これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが(旧約聖書に)書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれています。「これらのこと」とは40年かけて荒野を渡った大部分のイスラエルの民は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた、と言う事実(10:6)です。

 律法をイスラエルの民に与えた神は、律法を守ることを口にするときは、必ずと言ってよい程「御声を聞いて従うこと」を真っ先に教えられたことを思い起こして下さい。神がくどいように言われたこの「御声を聞いて従うこと」こそが、「文字は人を殺す」から「霊は生かす」に変える働きをするのです。今でもそうであることに変わりはありません。

 一つ質問があります。異邦人クリスチャンは律法を守らなくてよいのでしょうか。多くのクリスチャンはそう思っています。しかし、へブル書8:6-10(口語訳)にはこう書いてあります。

 「ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
ところが、神は彼らを責めて言われた、/「主は言われる、見よ、/わたしがイスラエルの家およびユダの家と、/新しい契約を結ぶ日が来る。 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、/わたしも彼らをかえりみなかったからであると、/主が言われる。
  わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立て/ようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう。」


 キリストが律法の完成者であり、私たちクリスチャンはそれを完全に行う者にならねばならないのです。新約における神の方法は「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。」です。これが「文字は殺す」危険性のある律法的な生き方において「霊が私たちを生かす」唯一の方法なのです。 

 クリスチャンである私たちは、本当に聖霊に示され、導かれながら聖書を読んでいるでしょうか。特に旧約聖書を含め、聖書全体を「文字」として単に頭だけで読み過ごしているとすれば、イスラエルの民と同じように、この世という荒野でクリスチャンの大部分も、あるいは滅びる可能性があるという戒めです。

 私たちも「うなじのこわい民」になってはならないのです。これが終末の教会への重要な警鐘であることを十分に心してください。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-10-14 10:24 | 坂達也からの今月のメッセージ

神の臨在(続) -ブラザー・ローレンスのこと 坂 達也 9月20日

神の臨在(続) - ブラザー・ローレンスのこと

坂 達也



 先回書きましたように、私は久し振りにブラザー・ローレンスの本を手にする機会にめぐまれました。英文で95ページほどのこの高価な宝石のような小冊子を一度手にするとそれを簡単に下すことができません。惹き入られて読み進むうちに、再びぜひご紹介したい箇所がありましたので下記に訳してみました。

「ブラザー・ローレンスは、彼の霊的生活の基盤となるものは、神(の存在)を最も高揚された地位の方として心から(愛をもって)崇拝する彼の信仰にあることを私に打ち明けてくれました。このことが彼のこころの奥深くに確立されてからは、彼は日常のすべての行動を、ただ神への愛のために行うことが楽にできるようになりました。神に対する彼のこのような確固(熱烈)たる信仰は神に大きな栄誉をもたらすことであり、主が彼の祈りに答え、より多くの祝福を与えるためのドアをより大きく開くことになりました。」

 ブラザー・ローレンスは「クリスチャンが、心のあまりこもらない日ごろの小さな祈りを機械的に繰り返し祈ることで毎日を過ごすとすれば、それは未だ弱い信仰である」と言います。そして、彼の言う確固たる信仰とは一日中一切を主に委ね切ることであると下記のように云っています。

 「もし誰かが、自分自身と自分のすることのすべてを神にゆだね・ささげ・手渡す(surrender)なら〔それは神のためにすべてのことをすると決意することですが〕主はその人を、一切のまどわし、ごまかし、迷わすものdeception から守るであろうと言います。そして、主はそのような人が試練の苦しみに長く遭遇することを許さず、それに耐えることができるように脱出の道を備えてくださると言います。(1コリント10:13)」

 つまり、そのような毎日を主と共に過ごす人には、神はすべてのことにおいて神の御心で彼が生きれるように導き、守り、平安と喜びの人生が送れるようにされると言うのですからすばらしいではありませんか。
 そして、そうなるにはどうすればよいかについて、彼は「一日を通して、主のご臨在と共に過ごすためには、いつも主と話をする(主に話しかける)ことが必要である」とその秘訣を語ってくれます。この本ではブラザー・ローレンス自身が書いた部分と、彼の親友であるヨセフ・ド・ビューフォーが彼の云ったことを書いた部分がありますが、彼の友人はブラザーローレンスはこの「いつも主に親しく話しかける」ことの重要性を主張してやまなかったと言っております。

 確かに私たちクリスチャンのうちには主が内住して下さっている以上、私たちにとって最も大事な「お客さま」で「共同生活者」である主にいつも親しくお話をするのは礼儀としても当然です。私は「主と個人的に深い交わりを持つこと」とはまさにこのことであると信じます。

 私たちは「信仰が足らない、御声が聞こえない」と嘆くよりも、毎日傍におられる主ご自身に、本当に敬愛する親しい方として、何でも気が付いたことを気安く話しかけ、質問し、お願いする毎日を過ごすことを自己訓練することはそれ程難しいことではないと思います。勿論主に対する愛がなければできません。しかし後は堅苦しく考えないことです。

 私の経験から言えば、たとえば私の好きな大リーグの野球、特に松井秀樹選手の出るロスアンジェルス・エンジェルスのゲームをテレビで見たい時は、私は主をお誘いして一緒に見てもらいます。そして、私なりの試合のコメントを主にお話したりします。最も親しい家族の長である父親以上の方ですから一緒に野球を見ることは、時と場合をわきまえてさえいれば、悪いことでも、主に怒られることでもない、むしろ主に喜んでいただける、より親しくなることであると信じるからです。

 続いてブラザー・ローレンスの本を見てみましょう。 

 「ブラザー・ローレンスの心からのゴールは神以外に何も考えないことにあります。しかし、もし彼がある時間、神のことを考えないで時を過ごしていることに気が付いた時に、彼はそのことですぐ腹を立てないようにしました。そして時を待ち、神に自分の弱さを心から告白することによって、前よりももっと自信と喜びを持って神のところに返ることができました。又、その神の臨在から離れていた期間、彼自身が楽しく満足できる心の状態にいなかったことに気が付くのでした。
   又、もし彼にあまりよくない考えが頭に浮かんだり、彼がそれに誘惑されそうになるとき、彼は直ぐにはパニックになったり、あるいは誘惑に勝てない自分を不甲斐ないと思わないようにします。なぜなら、過去の経験から、神を呼ぶべき時間が来るまでは慌てないで待ち、正しいタイミングで神を呼ばわることが、忠実なる神の助けが得られることを彼は知っていたからです。その時が来て神に声をかけると、その悪い考えは直ぐに消えてなくなります、とブラザー・ローレンスは言います。

 神が一切の面倒をみてくれるという信頼のゆえに、ブラザー・ローレンスが外に出て(苦手で)慣れない商用をしなければならなくなったとき、彼は全く心配しませんでした。神は必要なときにどうすべきかを、刻銘に正しく鏡に映して見えるほど鮮明な絵にして見せてくれることを彼は経験していたからです。彼は前もって心配しなくても、神がいざという時には絵にして見せてくれることを既にかなりの間経験していたのです。このような経験を持つ前の彼は、自分自身の力で前もって対処方法をできるだけ細かく準備して出かけていました。
 今は彼のするすべてのことが(神の御心にそって平安のうちに)静かに起こり、それによって、彼はますます愛する主の臨在に近い関係になっていきました。

 この世の仕事を忙しくしている時であっても、神とのコミュニケーションを中断せずに神を意識し続ける習慣がついている彼が、たまに神から心が離れるような場合は、神から彼に注意信号の「呼びかけ」が届きます。それは、神が彼の心に神のイメージを溢れさせるのです。それによって彼は神が彼を呼んでいることに気が付かされるのでした。このようなときに彼の心は主の前で火のように燃え、喜びに満たされて、主に賛美の叫び声を上げて歌い、踊りたいような衝動にかられるのでした。
 ほとんどの人にとっては、日常生活の忙しい行動が神とのコミュニケーションの妨げとなるところを、ブラザー・ローレンスは、むしろそれを通してより神に親密になると感じていたのです。彼にとって考えられる最悪の事態とは、神の臨在の感覚をなくすることでした。」

 ブラザー・ローレンスが上記で言っていることは、あるいはイエスキリストが「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。...」(ヨハネ5:19-20)と言われたことに通じるのではないでしょうか。
 主は、ブラザー・ローレンスを通して、人間の私たちにもイエスご自身と同じ生き方が出来ることを示して下さったのであると信じます。
 
 私は創世記6章に出てくるエノクが「神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(6:24)と書かれていますが、神とエノクの関係はブラザー・ローレンスが神と持った親しい関係と同じかそれ以上のものであったと思います。そしてあまりにも親しく、いとおしいエノクを、神はもっと近くに来てもらいたくて天に挙げられたのでありましょう。私たちも神とそれ程の親しい関係になれるのです。そうすれば、私たちもサタンの治外法権の世界で神のみに従って生きる「神の子」となれるでしょう。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-09-20 14:28 | 坂達也からの今月のメッセージ

神の臨在 坂 達也 2010年8月31日

神の臨在
 
坂 達也


 今、私たちの親しい人が「お金がいるので家の一室を貸して収入の足しにしたい、でも全く知らない人が同居するのは気がすすまない」と言っています。住宅事情の厳しいハワイでは、自分の家の一室を他人に貸すのはそれ程まれではありません。しかし、赤の他人が家の中をうろうろすると考えただけでも、正直な話、あまりよい気持ちがしないのは私だけでしょうか。
 そこでふと気が付いたのですが、そんな私にも「同居人」がいるという事実です。その人は赤の他人では全くないのですが、一日のうち多くの時間を、私はその人をまるで赤の他人のように無視して、あたかもその人が同居していないかのようにふるまっているという事実です。

 クリスチャンになる最大の特権は、神が私たちの中に来て住んでくださることであると思います。しかし現実には、クリスチャン生活を送っていて、神が私たちんのうちに住んでくださっていると言う実感と喜びを持って毎日を過ごしている方はあまり多くないように思えます。
 クリスチャンは神の臨在のすばらしさを経験すればするほど神の臨在を求めます。そして多くの場合、それは外からくるように思え、自分のうちから来るという気がしないのではないかと思うのです。


 数日前にある方に勧めたい本としてブラザー・ローレンスの小冊子「the practice of the presence OF GOD:神の臨在を訓練する」を久しぶりに本棚から取り出してぱらぱらと見ているうちに、彼が次のように言っているのに出くわしました。

 「神の臨在に常に気が付いている(意識している)ことは大変重要なことであって、そのためには毎日、一日中神と会話をしている必要がるあるのです。」

 と彼は言います。私はこれがクリスチャンのうちに住まわれる神の臨在を指して言っていると思うのですが、これこそ神の臨在を求める人には必須欠くべからざる秘訣であり、私たちクリスチャンはそれを自らを訓練すべきであると、この兄弟は真剣に主張しています。

 続いて彼は、「この世のことをしているときは神と話はできない、と考えるのは間違っています。この世のことに忙しく対処しているときでも、心から愛しあがめる心で「神を見上げている」ことはできるし、それが私たちの魂を霊的に潤い培ってくれている」と言うのです。つまり、何をしていても常に「やさしい主とか父」を心に浮かべ、何事においても親しい神と「一緒にしている」という意識を持っていることが重要であるということです。そうするといつも主と共にいるという喜びに満たされて過ごせるとブラザー・ローレンスは言います。

 救われて2-3年しか経ってないある姉妹が、最近、未信者のご主人と二人でホノルルの中心地にあるお店を出されました。この商売は二人とも初めての経験で、何から何まで分からないことだらけの毎日を長時間働きながら過ごす中で、その姉妹は「すべて主に聞いて、主と会話しながらやっています。」と明るい声で気付かう私たちに答え、その顔は輝いていました。

 私はクリスチャン生活とはこのように生きることなのだと言うことに、今更のように納得が行き励まされました。難しい神学を学ぶことが大切ではないとは云いませんが、それよりも、イエスキリストが実践して見せてくれたこと[子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19)と云われたことをそのまま真似て、私たちも普段の生活の中で実行することが「クリスチャニテイー」なのであって、なるほど「キリスト者」とはよく言ったものであると思った次第です。


 最近私たちは日本へのミニストリー旅行から帰って来たばかりですが、色々な教会を訪ねる中で、主の臨在がある教会とあまりない教会とが、今はっきりして来ているように感じられました。主と本当に親密な関係を持つか持たないか、その差がこれから大きくあらわれるように思えてなりません。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-08-31 10:14 | 坂達也からの今月のメッセージ

イエスの血潮による住まいの大掃除 坂 達也 7月7日

イエスの血潮による住まいの大掃除

坂 達也



科学者であるデービッド・ヴァン・コエバリング氏は、1970年代にレーザー光学を利用した音楽楽器を発明しました。彼は物質には記憶のメカニズムがあることを利用し、シルバー・オキサイド酸化銀のフイルムの上に音を録音し、その音をキーボードから再生音として出させるキーボード楽器を開発しました。 物質には記憶のメカニズムがあることを彼は下記の聖書から引用しています。

「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」(ヨシュア記24:27)

テープレコーダーやコンピューター、或いはカメラで使うメモリー・ステイック、メモリー・カードを見れば分かるように、物質は目の前で起こっている話し声とか映像を記憶することが出来ます。音声だけでなく、すべての光・映像のソースからは光子が放たれていて、それが物質に記録されるからです。
そうであるとすれば、私たちの日常会話とかやっていることは皆、私たちの住まいとか事務所の天井、壁、床、家具等あらゆる備品が見て聞いていることになり、その音声と映像(コエバリング氏はそれに加えて「思い」もと言っています)をちょうどDVDか撮影機で撮った映画のように記憶しています。そしてそれがよいことであればすばらしい祝福となりますが、罪とか悪いことであれば、のろいとなって残り、そこに住む人々に大きな影響を与えるのです。

ここで思い出して下さい。ろばに乗ってオリーブ山のふもとに近づかれたイエスにむかって弟子たちの群が大声で神を賛美しました。それに反対し抗議するパリサイ人に向かって、イエスは答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19:40)

「石は叫ぶ」のです。石がそうであるのなら、あなたの家の床、壁、天井も叫ぶことが出来ないでしょうか。あなたがご自宅でいつも神を賛美していれば、あなたの家全体が神を賛美していることになります。
 又、あなたが悪いことを言い、罪を犯しているなら、それを記憶しているあなたの家ではその呪いがいつかは叫ばれることになりませんか。これは恐ろしいことです。

それでは一体どうすればよいのでしょうか。あなたの家を部屋毎に廻り、床、壁、天井、家具備品の上に記録された一切の悪いこと、罪と呪いの記録をイエスの血潮とイエスの御名によって丁寧にぬぐい去る宣言をすればそれは消されます。これしか方法はありません。これによっても、イエスの血潮がどれ程力のあるものであるか、お分かりいただけると思います。

又、得体の知れない処で作られた土産物、あるいは人からいただいた形見の遺品に至る迄、そのものには生産者とその地の人々が関わる罪とのろいが掛けられ残っている可能性は十分あります。又、遺品の場合はその残した人の良いもの悪いものが記録されていますから、やはりそれも霊的に「きれいにすべき」です。

 ですから皆さんにぜひお勧めします。皆さんは時々家の霊的大掃除をして下さい。又、友人とか家族の人が病院に入院しているような場合は、その病室を訪ね、その部屋全体を小声で結構ですから、イエスの血潮と御名できよめて下さい。そして出来るだけ多く信仰で励ましの言葉、神様のお話をして上げて下さい。教会の人たちと行って賛美をするのも大変よいことでしょう。


ところで話は変わりますが、過去の記憶と言えば、私が最近経験したことをお分ちしたいと思います。しばらく前でしたが、一週間のうちに二、三夜ほど昔の仕事をしている当時の夢を見ました。全く同じ内容の夢ではなく、又取り立てて何かが起こった時を思い出すような夢でもなかったのですが、当時私の事業の末期であった頃の何か重苦しい感じの、どちらかと言えば、とりとめのない夢でした。
三日目の朝でしたか、どうしてそんな昔の夢を続けて見るのかなといぶかしく思ううちに、ハッと気が付いて私は膝まずき、私の事業をしていた時期に私が犯した様々な罪を出来るだけ具体的に思い起こしては、それを改めて悔い改める告白をしました。そして、イエスの血潮でそれら一切の罪をぬぐいさり、赦す宣言をしました。するとその後は、当時のよくない重苦しい夢を見ることはなくなりました。

私は自分の過去に犯した罪とその呪いを取り去る祈りを、思いつく度に時々して来ました。ですから今回私がしたことで特に変わったことをした訳ではなかったのですが、一つだけ新しいことと言えば、私の事業をしていた40年近い期間を一つのひっくるめた期間として、その全体にイエスの血潮の充分なる覆いを掛け、私の心の中できっぱりと整理・清算したことです。

その時期と言うのは、私がアメリカに渡って仕事を始めて約10年後にクリスチャンになり、その後に試練の時期に入ってやがて倒産するに至りました。その事後処理を通して私が神に頼り切るつもりでも全く頼り切れず「人間的に苦しみあがいた」格闘の期間でした。(今はそれを卒業したと言う意味で申し上げている訳では決してありません。)
その当時経験した様々な仕事上の人間関係と仕事の処理の仕方において、自分が犯した様々な罪と自分の至らなさは、既に悔い改め、赦すべき人は赦して来たつもりでいましたので、今では全くと言ってよいほど当時のことは忘れ去っていました。しかし、主は私の中に未だにその頃の罪意識が残っていて、私自身を縛り、完全に解放されてはいないことを気づかせて下さったのであると思います。

過去の悔やむべき思い出は完全に消し去らなければなりません。そのようないやな思い出は、 自分には最早何のトラウマとはなっていないと思っていても、意識下で罪悪感の痕跡が残っているのです。「以前は 自分も悪魔に属していた」と言う私たちの古傷を持ち出してきて私たちの罪悪感を煽り、悪魔の暴力団からは二度と足を洗えないと言う嘘の言い掛かりを付けて脅迫してきます。

これは悪魔の典型的なやり口です。私たちの罪は私たちが考える以上に巾広いもの、そして根の深いものであると思います。
それには、自分の罪は既に完全にイエスの血潮で消え去られていると言う確固たる不動の信仰を持っていなければならないのです。

人間の脳細胞、特に記憶する機能の細胞、いや、あなたの身体全体があなたの過去に起こったこと、見たこと、聞いたことを全部記憶し、それを引き継いで抱え込んでいると言うべきでしょうか。悪魔はそれをよく知っていて、それを盾に私たちを呪いで縛り付け悪魔の言いなりになるように絡み付き離れないのです。
私たちが聖くなければならないと言うのは、すべての過去の記憶も含まれています。

しかし、ご安心下さい。主イエスは私たちの罪とそれを通しての悪魔とのかかわり合いによる呪いの一切の縛りから私たちを助け出して下さるために十字架にかかり、尊い血を流して下さいました。

前に神は時間の流れのない「永遠の今」に生きておられる方であると申し上げたことがあります。神には時間がない、と言うより、 無限に存在するすべての時間がすべて「今」として詰まっているのです。それが証拠に黙示録13:8、9に

「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。」(新共同訳)

と書かれています。上記は英語の欽定訳にはっきり書かれているように「天地創造の時から屠られていた小羊」と言う意味です。つまり天地創造も小羊が屠られる時も、そして小羊の書に名前が記されていることも皆同じ「今の時」に起こっている、あるいは、起こっていたのです。そうであればイエス・キリストが十字架上で流された血は、過去に一回だけ流されたのではなく、どの時点においても常に時を超越した今として永遠に流れていると言うことになります。そうであれば、今もイエスの血潮はリアルに流れており、私たちは常にその血潮を受けることが出来るわけです。

私はこのイエスの血潮のリアルさを最近ひしひしと感じております。イエスは永遠の昔から永遠の未来迄、人間の罪のために十字架につかれ、いのちの血を流されているのですから、私たちはイエスの血潮でいつも覆われていることが出来ます。

それが私たちに約束された、イエスと同じように聖い者として神の子どもになれる私たちのデスティニーです。
あなたの身辺とあなた自身が犯した過去の罪とその呪いをいつもきよくぬぐい去り「断ち切りの祈り」をぜひし続けて下さい。勿論新たな罪を犯さないように、常に聖霊に従って主の御声を聞いて毎日を過ごすことが大切であることは言う迄もありません。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-07-07 16:57 | 坂達也からの今月のメッセージ

「神の子」と「人の子」  坂  達 也 6月3日

「神の子」と「人の子」

                坂  達 也


皆さんはクリスチャンとして、自分が「神の子ども」であると同時に「人の子」であることを、どれほどはっきり自覚しておられるでしょうか。
「神の子ども」であると言うことは、文字通り「全知全能の創造主の子ども」と言う意味であり、「自分はそのような力と権威がある神の家族の一員で後継者」であることをしっかりと自覚していると言うことです。

勿論、私がそのように「身構えた」質問をすれば、皆さんも「身構えて」 神学的な建前として「そうです」とお答えになる方も多くおられるでしょう。しかし実質的な話として本当にそれを自覚して毎日を生活しておられるでしょうか。
何故今更そんな質問をするかと言いますと、今、これが真剣に問われる時代に来ていると思うからです。

私たちクリスチャンは,既に神の御子イエス・キリストを信じ、霊に生まれ変わることによって神の子どもになりました。しかしそれはどう言う意味でしょうか。
 先ず「神の子」と言う名称についてですが、英語の場合は単数形の子(息子)である Son of God と書かれます。この単数形の「神の子」は三位一体の神【父と子と聖霊】の二人目の神としての「子」であるイエス・キリストを指しますが、新約聖書ではその意味で37回使われています。通常この呼び名は神としての「ご性質」を表し、父なる神と同等であることを意味すると言われます。

人間は元々アダムにおいて「神のかたちに神に似せて造られた」と書かれていますが、神は人間を少しだけ神に似るように造られたのか、それとも全部似るように造られたのでしょうか。創世記1:26 -27に下記のように書かれています。

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身の形として創造された。」
 
神は元々人間を造るに際して、大真面目で本当に「自分の子供」を造る思いで造られました。ですからアダムを神に似せて造られたのは当然と言えば全く当然です。
アダムがどれほどの権威と力を持ち、どれほど創造者の神に似ていたか、生まれながらの罪人である今の我々には想像もつかないことであると思います。しかし、そのすばらしい力の一端を知る資料として創世記2:19、20があります。

「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが...」

動物とか鳥に「名前を付ける」と言うことがどれほど重要な仕事であるかご存知でしょうか。これこそ三位一体の創造者の神がなさった創造そのものに参加すると言っても差し支えないことであるのです。
被造物を創造するにあたって、神である「子」は、「父」の意図を汲み取り、造るものの全ての特性から遺伝形質とか性格に至まで、その動物の特質の全てを 言い表す言葉で命令し、それを受けて「聖霊」なる神が具体的に必要な細部の構成分子とか原子を組み立てて具体的な「創造」が行われました。

ヘブライ語で表されるユダヤ人の名前はその人の性格とか「人となり」を象徴的に表します。従って名前を付けると言うことは、その人なり動物の性質にぴったりの名前でなければなりません。名前によってどんな性質かが公表されるのです。

三位一体の神は恐らく固唾を飲んでアダムがどんな名前を付けるかを見守ったことでしょう。アダムは「子」であるキリストが創造した動物の性質そのものを象徴するような名前を付けねばなりません。これがうまく出来るかどうかは、最初の人間アダムの出来具合いをテストする重要な機会であったのです。

アダムは的確な名前を付けるために、創造者その人であるキリストがそれぞれの動物をどのような性質に造ったのかを聞いて知る必要がありました。そこでアダムは全てをうかがい、それに対して主キリストは的確に答えて教えられたことでしょう。この霊による質疑応答のコミュニケーションは心と心が密接に通じ合う親密な間柄の人間関係においてなされます。主とそのような関係にあったアダムは神の意向を全て理解した上で、それぞれに適切な名前を付けて発表しました。

父と子と聖霊の神は、恐らく顔を見合わせて満足され喜ばれたことでしょう。アダムはテストに合格したのです。それと同時に、総ての動物は最初の顔見せにおいて、アダムに従属する主従関係にあることを理解しました。この儀式によってアダムは地球上の全ての被造物の上に君臨する権威とリーダーシップを確立したことになります。

ここで非常に重要なことが分かります。それは、最初の人間であるアダムは確かに被造物ではありますが、むしろ創造者側に属する「創造者」でもあると言うことです。「名前を付けて見なさい」と言われ、それが出来たのですから、アダムは神の「仲間」に加えられたのです。名を付けると言うことは創造的行為です。つまりは、人間は創造者になるように造られた唯一の被造者であると言うことです。

それに関連してもう一つ重要なことがあります。それは三位一体の神は、三人で一人の神と言われますが、何故そうかと言えば、御三人の心と行動がものの見事にいつも一致しているからです。お互いの意志と思いがいつもピッタリ通じ合っているのです。私はこれが、神の神たる最も重要なご性質、あるいは特質であると思います。
従って神に属し、神に似る(仲間入りをする)ように造られている人間は、その心と行動において、何としてでも神と一致し、同じでなければならないと言うことになるのです。神が人間に対して徹底的に「神への従順」を要求する理由はここにあります。当然ではないでしょうか。

ところがそれ程神に似ていたアダムが、神に背いて罪を犯してしまいました。その結果として、神との関係が断たれてしまい、「神のかたちとして、神に似せて造られた」性質と特権を失ったのでした。

神学者のアーサー・カスタンス氏によれば「神のかたちに」の「かたち」は英語で image と訳されていますが、この言葉 image は主に同種・同族の「属する関係」を表すと言い、又「神に似る」の「似る」は、英語の likeness で、同じ性質を持つと言う意味であると言っております。

それはちょうどイエスがカイザルの肖像が付いたコインを持って来させ、「これはだれの肖像 image か、だれの銘か。」と聞きました。人々が「カイザルのです。」と答えると「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と言われた通り、人間には元々神のイメージが付いたスタンプが押されていたのです。(マタイ22:19−21)

そうであるなら人間は神に属する「子ども」として造られ、しかも性質も似ていると言うのですから、人間は本当にただ者ではないのです。
それを今のように無力で、むしろ全く神に似つかわしくない悪い性格になり下がってしまったのは、アダムが罪を犯した後、総ての人間がサタンの言いなりになって来たからです。

ですから神は、初めから人間が罪を犯すことを見越して、創造の前から「子」であるイエス・キリストを十字架に付けて罪に堕ちた人間を救出ることを計画しておられたのです。そしてイエス・キリストは罪の無い人間「第二のアダム」としてこの世に来られ、十字架の御業によって人間と神との関係(押されたスタンプ)を回復されました。

そのイエスを信じることによって私たちは神の子どもとして復縁し、性質が神に似るようになるために、神から今厳しい愛の訓練を受けております。私たちには、神の子どもと呼ばれる権利とそうならねばならない責任が戻って来たのです。
まさに「私たちが神の子どもと呼ばれるために、———事実、いま私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(1ヨハネ3:1)です。ハレルヤ! 

処で、救世主イエスは「神の子」Son of god であると共に「人の子」Son of Man とも呼ばれています。特に新約聖書では43回もイエスを指してこの「人の子」と言うタイトルが使われています。その意味は、主イエスの「ご性質」が、神の造られた最初の人間、罪を犯す前のアダムが持っていた「完全な人間」の性質であると言うことです。少なくとも私はイエスを「人の子」と呼ぶ意味をそのように解釈しております。

イエス・キリストは第二のアダムと言われますが(1コリント15:45−48) それを裏付ける聖書箇所としてルカ3:38があります。そこでは「アダムは神の子である」と、イエス以外の人間としてアダムだけが一度だけ単数形で「神の子」と書かれています。
罪を犯したアダムを救い出すために、キリストが第二のアダムとしてこの世に来られたのです。従って、第一と第二のアダム、つまり人間と人となられたキリスト・イエスは同族・同種であると言えます。

私たち人間は、今はまだまだ罪の影響が残る弱い人間でしかありませんが、元々意図されたパワフルな「神の子供たち」に本当になれるのです。いや、そうなるようにこの世に生まれて来たのですから、それが私たちのゴールです。

いつも主の御声を聞いて、主を見上げ、主に従う毎日を送ることは、私たちクリスチャンが名実共に「キリストの花嫁」となって、真の「神の一族」に加わると言うデスティニーであるのです。(終わり)

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by walkwithgod | 2010-06-03 06:50 | 坂達也からの今月のメッセージ

「時をあがないなさい」坂 達也 2010年5月2日

「時をあがないなさい」

坂 達也



 エペソ5:16「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」
コロサイ4:5「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」というみ言葉があります。どちらも同じ原語から「機会を十分に生かして用いなさい。」と訳されておりますが、それを直訳すれば「時をあがないなさい」です。英語では redeem the time、ギリシャ語ではexagorazo kairos です。(Kairos=カイロスの時)

私はアメリカでクリスチャンになり、英語の聖書から読み始めたものですからこの語句 redeem the timeの意味が、一般に解釈されている訳とか意味ではもう一つ合点が行かず、頭を傾げながら30年余が過ぎて来ました。ところが、最近「永遠の時とは何か」と言うことを学んでいた時に、主に改めてこの redeem the timeの意味を問うたところ、今朝主がその答えを下さいましたのでご参考までにお分ちする次第です。

英語の聖書では日本語の聖書の意訳(上記)と違って、そのまま素直に直訳の redeem the time と書いてありますから「時をあがないなさい。」です。一体「時をあがなう」とはどういうことなのか、字づらの意味は簡単ですが、その意味するところが理解出来ずに考え込んでしまっていたのです。

この redeem「あがなう(贖う)」という言葉はクリスチャンなら誰でも知っている、そして最も重要なイエスキリストによる「罪のあがない=贖罪の救い」を表す言葉です。その意味は、

1 代価を払って買い取る、買い戻すこと
2 枠がはめられ、窮屈で、苦しめられていたもの、何か益にならないもの、あるいは捕われていた状態から、代価(身代)を払って解放する(救い出す)こと
3 罪の結果とその報いから解放する
4 悪い影響(例えば借金でがんじがらめになっている状態)に対してそれを解消するだけの支払いをして相殺にする

です。つまり redeem the timeとは、代価を払って「時」を買い取って時を無くする、あるいは、時と言う窮屈な「たが」「制約」から解放され timeless 時のない状態になる、もどる、と言う意味です。

ご存知のように、元々神は全く時に縛られない「時のない」世界におられ、今もその世界に存在されている方です。時の無い世界の経験が無い人間には適当な言葉がないため、やむを得ず「永遠」と言う言葉で表しましたが、聖書で言う「永遠」とは「時が永遠に続く」ということではなく、「はじめも終わりもない状態、永遠の今が無限に存在する」と言うことです。
従って、時の移り変わりのない神は絶対に変わらない、「イエスキリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブル13:8)と言われます。

神の創造は、時が存在しなかった有史以前に神の心の中で、神のいのちの一部として完成されていました。そして、その後も絶対に変わらないのは神が時の無い方であるからです。「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何をつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神はそれをなさる。人は神を恐れなければならない。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。…」
(伝道者の書3;14,15)

時とは神が宇宙(天と地)を創造した時点で加えられた「被造物」の一つです。天地創造をされて以来、この宇宙は時の一方向の流れに乗って(縛られて)いますが、神の国、天では「時」はあっても、それに縛られることはないのです。(難しいことを言ってすみませんがご理解いただけると信じます。)

その意味で厳密に言えば、神は元々、全く時を超越した存在ですが、天地を創造した後、 現在は「時のある天国」におられる。その天国の時とは、自由自在に過去とか未来に行ける、しかも流れている「時」も存在する、といった世界であって、地上の「一方向の時という枠にはめられた状態」とは違うようです。
ややこしい話で、私もよく分からないのですが、これを区別する意味で、神は最も高次元の世界を持っておられる方、天は4次元+時間の「霊の」世界、そして地球上は3次元+時の自然界の世界と言うことにしたいと思います。

何故こんなあまり要領を得ない話を私が敢えてするかと言うと、実はこの「永遠の次元で生きる」ことがこれからの私たちクリスチャンの生き方として最も重要な鍵になるからです。

イエスキリストは肉の人間に生まれて来ましたが、「第二の人は天から出た者です。」(1コリント15:47)とパウロが言うように、天の人でもあります。(Son of God で Son of Manと言われる)
と言うことは、イエスは肉の3次元世界と霊の4次元世界の両方に同時に住んでいる方であると言うことです。

そのイエスが「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子(Son of Man)の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」(ヨハネ1:51)と言われました。これで思い出すのはヤコブが見た夢で「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」(創世記28:12)ですが、イエスキリストは天と地にはしごをかけて行き来する、どちらにも存在している人(人の子)であるのです。

そして、私たち人間もそうであるべきだと言うことをくどい程強調しているのがヨハネ伝を書いたヨハネです。彼がしきりに言う「永遠のいのち」がそれです。永遠のいのちとは時間に制約されない4次元の力が自由に使える状態を指し、そのような人を御使いは常に助けてくれるのです。
ヨハネ自身がその二つの次元に生きていて主イエスを最も理解していた弟子であることがヨハネ伝からうかがえますし、またこの福音書が他の三つと違うユニークな書であるゆえんであると思います。
その一つの例をあげれば、ヨハネは「真の礼拝者たちが霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言いました。(ヨハネ4:23、24)彼の言わんとすることは、礼拝とは時間の長さとか量ではなく、時間の無い「永遠の今」という私たちの過ごす時間のどこを切っても常に「父を礼拝する真心」しか出て来ない状態を言っていると信じます。

ところで、「時間の無い」と言うのはどんな世界であると思われますか。考えてみれば実にやりきれないような気がします。例えば、あなたが誰かに腹を立てて、絶対に赦せない気持ちになったとしましょう。それが永遠に続くとしたらどうでしょうか? 一日に一回腹を立てたとして、それが一年間分積もれば、人間は誰でも気が狂うでしょう。遺恨がたまれば人間関係なんか皆吹っ飛ぶし、勿論夫婦でなんかいられません。
時間はその点、神が人間に与えた最も大きな祝福の一つであると思います。何故なら、時が経つと腹が立ったことも、憎いことも忘れるか薄らいで行くからです。一方、時間の無い世界では、時間の流れの下では通り過ぎて行く一切のものが去らずに、逆に濃縮されていくと言う恐ろしいことが起こるのです。

時間のない世界で、少しでも敵意、争い、そねみ、ねたみ、憤り、党派心、分裂、分派、不品行、好色、どん欲、むさぼり、汚れ、遺恨を持つ者が集まれば、 それはまさに「地獄の沙汰」です。
一方、時間のない世界で楽しく暮らすには、そこにいる人は皆常に愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和で、自制心と人を赦す心を持つ人たちでなければならないと言うことになります。その上、自分中心の人間では絶対に勤まりません。だから神は私たちが純粋で聖くなければならないことを強調します。

神が絶対に変わらない愛と言うご性質をお持ちなのも、時の無い方であるからです。性質と言うものは時間を超越した「不変な質」そのものでありましょう。その変わらないよい性質を持てるように、神は人間を一時この世と言う3次元の世界に送って、試練の中を通させて性格の「霊的成長」をさせて下さっておられます。

イエスは「御子を信じる者は永遠の命を持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)と言いました。「永遠のいのち」とは、単にこの世を終えて天国で永久に住める命をもらうことと考えている方は、この際考え方を根本的に変えていただきたいのです。私たちクリスチャンは、永遠に生きておられるイエスの力によって、超自然の4次元の世界で生きることを『今』期待しておられるのです。

ニコデモが「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ3:2)と言いましたが、その通りです。私たちには「永遠の今」と言う時に「神が共におられる」のです。

私たちは今、「永遠のいのち」であるイエスキリストが私たちのために十字架上で支払われた代価に基づいて、そのイエスの名によって、私たち自身を時間の縛りとその「力の無さ」を「買い取り」それから解放され、イエスと同じ次元で、主がなさったのと同じ、いや、さらに大きなわざを行う時が来たのです。それが「時をあがないなさい」の意味であると信じます。

主は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:12−14)と言われ、私たちがこれからの終末の時に大いに主に用いられ、父の栄光をあらわすことを望んでおられます。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-05-02 06:54 | 坂達也からの今月のメッセージ

井の中の蛙、大海を知らず  坂 達也  3月31日

井の中の蛙、大海を知らず

                               坂 達也(/font>


私たち人間は、神を知らない人だけでなく、知っているはずのクリスチャンですら、ほとんどの人が、所詮「井の中の蛙」であることに気がついていないようです。そこでクリスチャンが「井の中の蛙である」可能性を二つの観点から考えてみたいと思います。一つは人間の持つ「自由意志」の観点から。二つ目は信仰の面からです。この二つは相互に深く関係しています。

 創造者なる神が人間を神に似せて造り、神の最もすばらしい特質である「自由意志」を人間に与えた理由と意図は何だったのでしょうか。それは人間が最大限に自由意志・意欲を発揮して、すべてに「自分の中にある最高の可能性を追求する」ことを期待しておられたからであると思うのです。少なくともクリスチャンは、神から自由意志なるものを与えられていることにもっと責任を持つべきではないでしょうか。
人間は自分の「自由意志」が脅かされるとき、つまり、自分が好き勝手に生きることが制約されそうになると、自分の「自由」を主張する傾向があるようです。それでいて、本当の自由とは何であるかをよくは知らないのです。自分の小さな狭い井戸の中で自分の好きなように泳いでいる限り、それが自由であると思い込んで、満足して暮らしています。大海があることを知らず、又特に知ろうともしないのです。

私はクリスチャンの話をしているのです。クリスチャンであっても、なぜそうなるのかと言えば、人間は元来「自分中心」で「自分には甘く」簡単に「自己満足」し、その上始末の悪いことに、自分の考えに頑固に固執する「プライド」だけは大きいのです。これは人間の生まれ付きの罪の性質ですが、クリスチャンになってもそのライフ・スタイルを捨てようとしないからです。
クリスチャンは、信仰を得た最初の出発点である洗礼式で、「自分に死に、よみがえって霊の世界に生まれ変わる」ことに同意したにもかかわらず、何故それを真面目に実行しようとしないのでしょうか。その「死んで生き返る」ことが「井戸を出て、大海に入ること」であることに本当には気づいていないのです。

「新生」しないて、罪の人間のままでは大海に出て真の自由を探求することは出来ません。最初の人間アダムとエバは自らの意志で神に背く罪を犯し、それ以来人間は皆罪人になりました。しかしそれは最初からの神のご計画でした。「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を(先ず)不従順(=罪)のうちに閉じ込められた」(ロマ書11:32)のです。そして、その中から、自分の意志で主キリストを信じるめぐみを得た者だけが、神への不従順という罪から解放され、自由に神の世界(霊の世界)に入って、神と共に自分の無限の可能性を追求して楽しめるのです。

神は、聖書を通して徹頭徹尾初めから終わりまで「自分に死ね」と言っておられます。それは「自分に死ぬ」ことが霊の世界という大海に出て真の自由を獲得する最初のステップであるからです。にもかかわらずクリスチャンは「すべて主に従う」ことがまるで自分の自由意志が損なわれるとでも思うのでしょうか、心からそうしようと思わない人が大半です。

考えてもみて下さい。人間の持つ自由(意志)とは何と小さくて限られたものでしょうか。人間の思考の世界がいかに小さく偏ったものであるかは、子供を例にとれば明らかです。人間は赤ん坊でも自由意志を持っています。しかし、生まれたては、お腹がすいた時とお尻がむずがゆくなる時に泣くことしか知らないのです。それが彼らの持つ自由意志の限度です。
そこで親は子供の意志を尊重しながらも、足らないところを親の意志(良識)で補いつつ子供の面倒をみないでしょうか。天の父も同じです。全知全能で最高の愛の持ち主である神なる父は、子供である私たちをいつも愛し、私たちの自由意志が一番よい形で発揮できるように助けて下さろうとしておられるのであって、私たちの自由と自由意志を損なおうなどとは全く考えてはおられません。

それが証拠に父なる神は、最愛の一人子を罪だらけの私たちの身代わりとして死なせ、そのキリスト・イエスを信じた人に、もう一人の助け主である聖霊を「永遠の後見役」として送り、その人の内に住まわせて下さっているのです。この内住の聖霊が私たちを狭い井戸から、無限の可能性を追求できる自由意志の大海に連れ出して下さるのです。つまり、内なる聖霊が私たちの大海です。


真理はあなたを自由にし、大海に解放する

上記で申し上げて来たことが神の真理の真髄であると私は思います。こうして自分の浅はかな考えで生きることが愚の骨頂であることに気が付き、そんな自分に死んで、神に自分の人生の一切を委ねて生きることこそ、自分の自由意志を最大に発揮することになることが納得ゆくはずです。パウロはこの生き方を次のように言いました。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)

そうと決まれば、私たちの人生は常に聖霊に従って生きることに徹すればよい、という結論になります。それは取りも直さず、毎日「神の御声を聞いて従いつつ生きる」ことです。そして、この生き方が、あなたのこれからの人生における最も重要な課題となるはずです。この真理を知ることがあなたを自由にします。

「・・・わたし(イエス)は真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)

「・・・もしあなたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたを自由にします。」(ヨハネ8:31−32)

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。・・・・神から出た者は、神のことばに聞き従います。・・・」(ヨハネ8:43、47)


大海の信仰

クリスチャンは自分の持っている信仰が、やはり井戸の中の蛙で、大海の信仰ではないことに気づくべきです。
先日ハワイの集会に来られたカル・ピヤース師が言っていましたが、人間の脳は通常全体の一割しか使われていないそうです。なぜそうなのかご存知でしょうか。ピヤース師は、神は人間の脳の9割を無駄にするようには造ってはおられない、その未使用の部分は神の御心と思いが入るスペースで、神の思いがその人の思いとして用いられるためにある、そして、今使われている一割は人間自身の思考であり、神に差し出すべき十一献金のようなものであると言われたのです。

 これからの時代は、「キリストの思いが私たちの思いに」(1コリント2:16)ならねばならないのです。そのようなクリスチャンが中心となって、主の多くの終末のご計画が実行されて行くでしょう。そのためには私たちの今持っている信仰は抜本的に変えられなければならず、まさにロマ書12:1−2が実現される必要があるのです。

私たちがもし弱い信仰しか持っていなければ、人間の常識を外れるようなこと、すなわち超自然の奇跡が日常茶飯事で起こることは考えられません。超自然の世界とは霊の世界で普通に起こることなのですから、私たちが霊に生まれ変わった以上、当然その霊の世界での現象が自由に自分のものに出来るはずです。主は今それを私たちに期待しておられます。

しかし現実には、それがなかなか実現していません。その最大の原因は、結局のところ「自分に死ねない」ことにあるように思えます。自分に死ねないから「キリストの思いが私たちの思いに」ならないのです。それは、根本的に「自由意志」に対する私たちの考え方に原因があると私は思います。

皆さんはクリスチャンが「霊的に成熟する」ことをどのようにお考えでしょうか。
「私たちが早く霊的に成熟する目的は、丁度子供が大人に成長して自立するように、早く自分で少しでも多く神の御心が行えるようになることである」とお考えになっていないでしょうか。

もしそうであるとすれば、それは「律法的な生き方」であると思いませんか。この生き方は「自分で出来るだけ御心にそって生きる努力をしてみますが、うまく行かない時は助けて下さい。」という考え方に立脚しています。ほとんどのクリスチャンは、大なり小なりこの考えで「何も悪くない」と思って頑張って生きているのではないでしょうか。その結果自分がぴんぴん生きています。それが人間に自由意志が与えられた理由であると思っておられませんか。

私たちが霊的に成熟することとは、パウロがピリピ3:7−9、その他のところで言うように「イエスキリストを個人的に知ることと主の信仰で生きることのすばらしさに比べたら、肉の自分の一切のこと(自分の名声も考えも、それで生きることも)全く何の価値もない。」という境地に先ず到達することであると思います。そのような「自分で生きる」などとは思いもよらないというへりくだりの境地に達した時、イエスが「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに・・・・」(ヨハネ8:28)と言われる父への愛と従順にとりつかれた情熱で生きる姿になれるのであると思います。まさに「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるため」(1コリント2:5) にあるのです。このような生き方だけが主の期待しておられる「霊的成熟」であると信じますが、いかがでしょうか。さもなければ、神は私たち人間の中に聖霊ご自身が住まわれ、自分にトータルに死になさいなどとは決しておっしゃらないはずです。

主と共に大海に出る信仰を目標に掲げ、主にそれを毎日願い、自分の自由意志で「自分で生きる権利」を放棄することを宣言し、毎日私たちが主を見上げ、主の御声を聞いて従う、主の御心で生きる努力をし続ける時に、たとえそれが今は不完全であっても、主はあわれみをもって私たちに力を与え、信仰を引き上げて下さると確信します。やがてはそのような私たちを、神は超自然の奇跡を起こされるべき器に育て上げ、大いに用いられることを信じて疑いません。そのようなクリスチャンを今主は求めておられます。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-03-31 11:40 | 坂達也からの今月のメッセージ

いのちの木に総てを委ねる生き方 坂  達 也  2月11日

いのちの木に総てを委ねる生き方

                                    坂  達 也


私たちの人生は神に気に入られるかどうかで大いに違ってきます。常に主に喜ばれることをしている時に、私たちは有り余るような主のご好意(祝福)にあずかれます。そうして神様の「お気に入り」になると、神は私たちのところに来て離れなくなられます。つまり明らかな神の臨在(英語でmanifest presence)が私たちの上に顕れて被うのです
そして神の祝福は周りの人たちにも及んでいきます。そうなったら人生、楽しくてしょうがなくなるのではないでしょうか。それでは、どうしたらそうなれるのでしょうか。
それは言うまでもなく、私たちが主イエスを愛して愛して、愛しぬくことです。

「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」 (ヨハネ 14:23)

 イエスが言われている意味は、わたしを愛する人はわたしと出来るだけ多くの時間を過ごし、わたしの言うことば(現在形)をいつも聞きたいと願う人であり、わたしのことばを聞くことを最上の喜びとする人であるから、そのような人は「わたしのことばを守ります。」、あるいは、「守れるようにわたしが力(めぐみ)を与える」と言われているのではないでしょうか。

いのちの木

 エデンの園の中央には「いのちの木」と「善悪の知識の木」が植えられていました。(創世記2:9)これはテスト・ツリーと言われますが、エバは悪魔の誘惑に負けて魅力的な「善悪の知識の木」の実を取って食べ、アダムにも勧め二人で食べてしまいました。テストに合格できなかったのです。その後生まれる人間は、皆「善悪の知識の木」の実を取って食べる、生まれながらの罪人としてこの世に生まれて来るようになりました。

「いのちの木」はイエス・キリストを指します。そして、イエスに総てを頼って生きる生き方を表しています。それはヨハネ15章でイエスがご自分をまことのぶどうの木に譬え、私たちはその枝であるといわれたことに通じます。 一方、「善悪の知識の木」とは自分で何でも判断して自分で生きる生き方を表しています。イエスはぶどうの木である「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。
確かに私たちが木にしっかりついた枝である限り、総ての養分は100%ぶどうの木であるイエスから与えられますが、問題は、私たちはどちらの木からも自由にその実を取れる状態でクリスチャンになったことです。

そのことに関して私は最近主から一つのテストを受けました。それはホノルルの私たちが属しているミニストリーで、今新しくミニストリーの集会を立ち上げようとしていますが、そのリーダーの人がコンピューターを必要としており、加えて、私のコンピューターがたまたま壊れてしまい、二人してすぐにも新しいコンピューターが必要となりました。そこでそのリーダーが3年ほど前から知っているという、ある有力者に頼もうという提案を受けました。その方はクリスチャン・ミニストリーに必要な機材を安く分けてくれる奉仕的団体(会社)の責任者で、そこからはかなり安くコンピューターとかカメラ、サウンド・システム、オフィス機具から集会用の椅子やテーブルまで分けてもらえる、しかも、ものによっては市価の一割位の値段で提供してくれると言うのです。そんなうまい話はないと、私もすかさず飛びつきました。

しかし、実際には、その責任者の人との連絡がなかなか取れず、取れたときは責任者が会社を辞任した後でした。そこで後任の人を紹介してもらったのですが、その人が多忙で、やっと一週間ほど前にその人と直接話をすることが出来て、助けてくれると言う確約を得たのですが、その後又なしのつぶて、この間3ヶ月近く経つのに未だに要領が得ないのです。

私はあまりに時間がかかるので、主に祈ってみました。実はそれまでは、出発時の教会を助けてくれるという相手ですから、当然主の御心と思い込み、主にはっきりとは尋ねてもみませんでした。すると「時間がかかるのを覚悟しなさい」、いや「これは全き主の御心ではない」 かもしれないという警告の声らしいものが聞こえてきました。私ははっと気が付き主の前で悔い改めました。

教会のリーダーと私は二人とも、一割で買えるのなら一番よいコンピューターにしようと言う欲が出て、アップルの最高クラスに近い2-3千ドル級のものに夢が膨らんでいたのです。支払いについては、私は元々コンピューターを買い換える時期に来ていたのでその積もりで予算を用意していたこともあり、いずれ資金がない教会の現状からして、一割で買えるのならリーダーの分も含めて二台分を私が支払うつもりでおりました。

しかし、本当に気が付かされたのです。私は、自分は「いのちの木」にだけつながっているつもりでいて、実際は「善悪を知る知識の木」の魅力に負けて、その木にも飛びつき、自分で買おうとしていたのです。この話が出たとき、それが主からのものかどうかを私は確かめなかったのです。

主は、大きなものから小さなものに至るまで私たちが必要とする一切のものを主ご自身が選ばれ、主の方法とタイミングで私たちに与えて下さる方であることをよく知っているはずなのに、私は今まで多くの場合に、勝手に安易に両方の木に手を出して来たということに気が付いたのです。

その辺りは実にいい加減で、時には勝手な理屈をつけては主の御心であると自分に言い含めて曖昧にごまかす、巧妙でずるい、とまで言える私の性格に気が付かされたのです。
もっとも正直な話、セールとか大バーゲンで値段が半額になっているものを『主の御心』と半分偽って時に慌てて飛びついてしまうのは私だけではないとは思いますが、だからといってそれは決して言い訳にはなりません。

神のご好意(祝福)を勝ち取ったヤコブ

 そのような策略を講ずる者の一人にヤコブがおりました。しかしイサクの子であるヤコブは、神の祝福を得ることにおいては誰にも負けない貪欲さと執拗さを持っておりました。ヤコブは父のイサクと双子の兄のエサウを騙してまでも長子の権利とその祝福を得ようと画策し、まんまと成功しました。

後になって、ヤコブは神のみ使いの訪れを受けたとき、夜明けまで格闘しました。彼はもものつがいをはずされても相手にしがみつき、神からの祝福を得るまでは絶対に離さないと、必死で神の祝福をせがみました。彼はどんな祝福を得よとしたのでしょうか。マービン・バイヤー師は、ヤコブは自分の名前ヤコブが意味する通りの「ずる賢く策略を講ずる者」という嫌な性格(=名前)を変えて欲しいと言う願いから神の祝福を迫ったと解釈していますが、私も同感です。
神はそのヤコブの願いを聞き入れ「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神は勝つの意味)だ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)と言われました。

ヤコブの生来の「ずる賢さ」という悪い性格と名前を変えるご計画を初めから持っておられた神は、彼を伯父のラバンの元に送りました。ヤコブはそこで二十年の間、ヤコブに勝るとも劣らないラバンの「ずる賢さ」に出会わせ、家族と仕事の両面で厳しい試練を受けさせました。その結果、ヤコブは自分の性格の悪さに嫌気がさしたのでしょうか、そのような自分の性格(を象徴する名前)が完全に変えられることを何よりも望むようになったのであると思います。

私たちが何事においても、神に喜ばれるようなものを激しく求めて神に迫ることを神は大変喜ばれます。中でも特に、「神との深い交わり」、「神の顕著な臨在」、「神からのみ言葉を聞く」ことを激しく求めることを期待しておられます。なぜなら、これ等のものを神からいただくことこそ本当に神の至上の祝福だからです。
それに加えて、自分が主のような性格の人間に変えられたいという願望をヤコブの激しさで主に求めるのであれば、それは最高に神が喜ばれることです。それこそ私たちはどんなにしつこくても執拗に求めるべきです。

私は最近色々な自分のいやな性格とか、ぴしっとしていない曖昧でぬるま湯的な部分を神に指摘されて悔い改めています。特に「義righteousness」に対する甘い考え、灰色がかった「聖さ」のなさを神が取り扱って下さっていることを強く感じます。

私たちクリスチャン生活の最終目標は、主のために何か大きな仕事をすることではなく、それよりも、主に似た人格に成熟し、霊的な完成を目指すことにおいて、ヤコブのように激しく求める人間になることであると思います。そのことが下記のみ言葉に書かれております。

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」 (エペソ4:13-15) (終わり)

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by walkwithgod | 2010-02-11 10:14 | 坂達也からの今月のメッセージ

霊的な礼拝とは  坂  達 也  2010年1月18日

霊的な礼拝とは

                                            坂  達 也

 
礼拝を含めた色々な集会において、濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはほとんどいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。

私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。一昨日の朝がそうでしたが、主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。

勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださる(感じる)とは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。
私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5:16)この霊的事実は信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。

最近の私にとっては毎朝御霊とお会いし、御霊に満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。それは主の御声を聞くためというより、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからです。 

ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、最近次のように語っています。「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」

「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。

私はダビデによる詩篇23を読む時はいつでも、この詩だけが持つ独特の「音色」と言いましょうか、それはダビデの心そのものが溢れるように伝わって来ます。恐らくそう感じるのは私だけではないと思います。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」


 私はクリスチャンになった頃は英語の聖書に親しんでおりましたので、最初の二節The Lord is my shepherd;Ishall not want. He makes me to lie down in green pastures; he leads me beside the still waters.の方に今でも親しみが湧きます。特に1節でIshall not want は「乏しいことがありません」の意味で全く間違いではありませんが、むしろ「私は主が私の必要な総てを与えてくださるので心から満ち足りており、私自身は何も欲しくはありません。」という英語訳のニュアンスが好きです。又、2節を読みますと、水のほとりにある緑の牧場の光景が「神の平安」に包まれたすばらしい場所であると同時に、神にあっての「静けさ」が伝わって来ます。邦訳にある「いこいの水」とは、多くの英語の聖書で「静かな水still water」と訳されていますが、それは怖い急流でも、よどんで死んだような水たまりでもない、安全で静かな清流のほとりという意味でありましょう。

この詩篇は神をこよなく愛したダビデが、神と自分との関係を表した心からの主への愛の讃歌であり、主への信頼、感謝、喜びに満ち溢れたものです。このダビデの心はまさしく主キリストの心と一致しております。

主の心、思いと一致する

今の私たちに最も必要な「主の御前に立つ祈り」とは、私たちの心と思いが主の心と同じになる、主の思いと一つになることにあると思います。そうなってこそ心が通じ合い、主の心の思いと「静かな小さな声」が伝わってきます。これが主と親しい間柄になるということです。

私たちの身体の総ての細胞が声を持っている

心が一つになるとはどう言うことでしょうか。ジェシカ・ジョーンズ師は次のように言っています。
「私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものです。・・・すべてのものが音を出します。この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。すべてのものは物体ではなくて音なのです。・・・創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。・・・私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があります。・・・私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばなりません。・・・すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。・・・この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。・・・ 一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。白は義の衣の色です。 この一致した音の振動はパワフルな力です。それは創造し、回復し、力を与えます。それは3つの天を通ってすごい力で駆け抜けるのです。」(本HP、昨年10月4日ジェシカ・ジョーンズ師のメッセージより一部要約)

私たちのゴールは主の花嫁として、主と心と思いが一致することです。そうでなければ私たちがキリストの身体となることは出来ません。
実はそのためにこそ、私たちは出来るだけ多くの時間を主の御前で過ごす必要があるのですが、私たちが多くの時間を過ごせば過ごす程、内なる聖霊との親しさが増し、聖霊に満たされて、その御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22)が私たちの霊と魂に増し加えられます。これが「主を見つめて待つ」祈りの目的であり、私たちのライフスタイルそのものの根底とならねばなりません。

この御霊の実に満たされて毎日を過ごすようになれば、私たちの身体の細胞も良い音の振動を発するようになり、そのようなクリスチャンが増えれば増えるほど、皆キリストの霊により一致してキリストの身体に形成されていきます。

皆さんはいつも、心そのものが愛と平安で満たされているでしょうか。この霊に満たされている状態になるのを阻むものが肉の思いです。
不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、等が肉の思いと行いであるとガラテヤ5:19-21に書かれていますが、これらの一つ一つを今心に思い浮かべてみてください。それを思ったとたんに何か異物・汚物感を持ち、好ましくない音色サウンドを感じませんか。

肉の思いが心に多くある場合、これらが不協和音を奏で、その異なったそぐわない音が自分の中(細胞)から発信されているというのです。私たちの祈りも賛美の歌も、皆こうして私たちの身体全体の音と共に主に届いているのですから、私たちが口で何を言い、何を歌おうと、あるいは何も言わなくても、私たちの身体と心と行い全体が主に「ものを言っている」ことになります。その意味では、私たち身体全体が放つ振動音、サウンドは正直であり決して神にうそはつけません。

 私たちクリスチャンが心を一つにして同じ歌を大きな声で歌うとき、それは大変パワフルな賛美・礼拝となって天に届くでしょう。しかし、その一致した合唱の賛美を神が最大限喜んでいただくためには、歌う人たち全員の心が、いやその人たちの身体の細胞の総てが発するサウンドも大切です。全細胞が愛、喜び、平安という御霊の実で満たされているなら、さらに最高の礼拝になるからです。

 ところでこのことと関連しますが、私は長い間「神を礼拝するには音楽付でなければならないのか」という疑問を密かに持っていました。というのはクリスチャンの教会で通常ワーシップ(礼拝)といえば、即「音楽を奏でる、歌う」ことを意味するように言われるからです。
私は「主を見つめて待つ」祈りをするときにバックグラウンド・ミュージック無しで静かに「神と時を過ごす」ことに毎日慣れ過ぎて来たせいか、音楽がなくても礼拝できるどころか、かえって音楽が無い方がよくなりました。と言っても誤解していただきたくないのですが、音楽を聴きながら祈るのが悪いとは決して思っておりません。

又、声を出して礼拝すること、あるいは祈ることには確かに力がありますから、それは絶対に不可欠であることを強調します。しかし同時に、身体全体の細胞の声、サウンドも非常に大切であることを強調したいのです。パウロがエペソ5:18,19で指摘しているように先ず「・・・御霊に満たされなさい。」がベースにならねばなりません。そして「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」と言われる通りであると思います。
ある方は、礼拝とは内面におけるデボーションである、と言いましたが、黙って主の御前に出て、ただただ主を熱心に思い見上げることは立派な礼拝であると思うのです。
 
先程引用したガラテヤ5章の最後、24-25節で「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」と書かれています。クリスチャンは自分の肉の思いを総て十字架につけなければなりません。これはクリスチャンとしての絶対的な条件です。そうしなければ御霊によって生き、御霊と共に歩けないのです。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。」(17節)。

私たちはそのために主の御前に立ちます。へりくだって主を見上げる人は、主が私たちのために先ずついてくださった十字架を見上げるのと同じです。やさしい主は、静かに私たちの内にある、肉による不協和音を思い起こさせ、それを悔い改めさせてくださいます。こうして私たちは聖くされキリストに似た者に変えられていきます。

最後にロマ書12:1にあるパウロの私たちへの懇願を心して聞いてください。 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
そうです。私たちが主の御前に立つときは、私たちのからだを聖い生きた供え物として主にささげる姿であるのです。どうぞ、今年こそは毎日、ぜひこの「主を見つめて待つ」祈りを実行していただきたいと願っております。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-01-18 06:30 | 坂達也からの今月のメッセージ