カテゴリ:坂達也からの今月のメッセージ( 69 )

報告:その後のジュデイス・グルーバー夫人 12月23日

報告:その後のジュデイス・グルーバー夫人
                              
 その後の夫人の容態は一進一退のようです。元気の良い日は家の中を動いて家事もできるようですが、悪い時は臥せっていることが多く、ヘンリー師がお皿を洗っていると本人が言っていました。ちょうどクリスマス前で家族が大勢集まってきており、私が電話をした折もお孫さんたちが廻りにいて賑やかな様子でした。しかしながら家族のクリスマスのお祝いの会食は用意が大変なので、娘さんのベッキー宅でするそうです。

 そんなことでヘンリー師が夫人を置いて長期に旅行することに不安があるようです。正月明けの1月の沖縄行きは少し遅らせ2月に入ってから出発したいとのことでした。それも1月半ばになってから様子を見て最終的に決めたいとのことです。

 グルーバー師ご夫妻は日本の皆様が祈っていて下さる事を大変感謝しております。特にクリスマスを直前に控え、皆様お一人一人がすばらしい主の祝福をいただきますよう、お祈りしていますとのメッセージと共に、くれぐれも皆様に宜しくお伝えくださいと言っておられました。

 どうぞグルーバー師夫妻の為に引き続きお祈りいただけますようお願い申し上げます。世相によれば、新年は大変厳しい年になりそうですが、皆様方は、主に守られて、特別に祝福されたすばらしい年となりますようにお祈り申し上げつつ、年末のご挨拶とさせていただきます。
 ハレルヤ、主の御名を心から称えます。

                                          坂 達也

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by walkwithgod | 2008-12-23 09:49 | 坂達也からの今月のメッセージ

御国で必要な全き信仰の祈り(2)   坂 達也  12月14日

御国で必要な全き信仰の祈り(2) 

坂 達也


悪魔との戦い

 これからは、いよいよ終末の終盤の時代に入らんとしている。最近マイク・ビクル、リック・ジョイナー等が黙示録12:9にある「 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は……地上に投げ落とされ……その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」と書かれていることが実際にこれから起こらんとしていることを強調し、又警告した。
それは12節に続く。「12 このゆえに、もろもろの天と、/その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」

これからしても地上での悪魔の最後のあがきが、どれほど強烈なものとなるかは想像に余りある。いよいよ悪魔との最後の戦いに私たちが望まねばならないのである。この時のために万軍の主は御国の戦士である私たちを「全き信仰」を持たせる訓練をして来られたのだ。
 それはヨシュア記で語られている約束の地における「聖戦」と同じ最後の大「聖戦」がこれから繰り広げられようとしているのである。
御国とは約束の地と言ってよい。その約束の地に渡ったイスラエル軍はヨシュアの指揮の下で、カナン人、ヘテ人等七つの土着の強敵を相手に戦い、これをことごとく制覇した。それには「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)という神からの御ことばによる霊的な士気の高揚を必要とした。しかし今の私たちにこそ霊的な高揚が必要である。何故ならそれは前述したように、悪魔との対決は決して肉では勝てないからだ。

 二、三日前に、これから就任するアメリカのオバマ大統領が暗殺される夢・ビジョン・ことばをこのところ多くの人が見ていること、しかも暗殺によって大暴動が起こるビジョンを見た人も多いことをリック・ジョイナーが取り上げた。

オバマが当選したことは人種問題を克服するための画期的前進である。人種問題RACISMは単にアメリカだけの問題ではなく、世界的な問題である。特にナチズムは第二次大戦をピークに人間の歴史を揺さぶったが、あれこそ悪魔の牙城の一つであるとリックは言う。その通りだ。
悪魔はオバマによってその人種問題の牙城が崩されるのを放置しておく訳がない、故に大きな巻き返しをかけてくるだろうことを教会は予期して、今真剣に祈るべきである、とリックは言う。

そして彼は、今後オバマに対する暗殺・暴動などの具体的な企てに関して主からビジョン・夢・御ことばによって啓示を受けたと確信できる人は、関係当局に必要な処置を依頼するために、ぜひモーニングスターに知らせて欲しい、と世界中の人に呼びかけた。

私はこのような呼び掛けを今まで聞いたことがない。まさに御国の時代に移行しつつある事を痛感した。クリスチャンが世界の政治とその治安にいよいよ参加するのである。神からの啓示はそのために絶対に必要な情報と指示の武器なのだ。それだけではない。このところ、経済危機の問題だけでなく、世界に大きな艱難の時代が来ることを預言する人が増えていることを付記しておきたい。



 さて、ここで「主の祈り」について、先回のメッセージを書いた後に、二つの強調すべき点が示されたので、今回それを先回と同じテーマの続(2)の形で付け加えさせていただくことにした。

 それは主の祈りの最初の部分である「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」(マタイ6:9)と12節の「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」についてである。


前にトッド・ベントレーを擁護し、今も彼と彼の家族の回復をカンセラーの一人として、又親友の一人として助け続けているビル・ジョンソン について紹介したが、そのビルが、ベントレー事件を通しての教訓は、教団・教派の下にいる教会が、今こそ「御国の天の父」の支配に完全に還らねばならないことを強調している。
彼は、ベントレーに対して他ならぬ多くのクリスチャンの仲間たちが、あまりにも大きく執拗に個人攻撃したこと自体を問題として取り上げた。彼は、今まで私たちクリスチャンの教会がやって来たことを次のように指摘する。
たとえば80年代に起こったことだが、ジミー・スワガードとかジム・ベーカーが罪に落ちた時に、アメリカの教会が取った態度は何であったか。当時教会は、罪に陥った彼らを個人的にかばう代わりに、彼らの失敗と罪をもっとあばいて責めて見せ、その人たちを突き放し、自分たちが作り上げて来たデノミネーシャナリズム(教派主義)とその教団は、そのような人たちとは違うことを世の中に認識させることによって自分たちの組織を弁護しようとした。これは人間的な宗教主義者たちのすること以外の何ものでもないのである。
 それはちょうど、自分たちの義と聖さを強調するために罪に堕ちた兄弟を軽蔑し、憎み、裁いたイエスの時代の律法学者と同じではないか。それは律法学者とヘロデ王で代表される宗教と政治という種入りパンなのである。
 もし自分の息子・娘が罪を犯したらどうするだろうか、とビルは問う。「あれは罪を犯した、良くない人間だ」と自分の子供の罪をあばき立て、「それに比べ私たちは違う」と一線を引き、「私たちは彼らと関係ない」と言って済ますだろうか?

 又、ビルはワインスキン(皮袋)とワインの話を紹介した。皮袋とは教会の中身であるワインを入れる外側の皮の部分であって、五役者を含む教会指導運営組織に当たるもの。しかし重要なのはあくまで中身のワインであって、新しいワインに聖霊が働いて美酒へと醸造されるプロセスの間に、中身は熟し膨れ上がるが、それを包む外皮が破れたり、ほころびたりしないでしっかり守り育てる役目をするものである。ところがワインの成熟を指導する教団・教派組織である皮袋が中身よりも自分たちを重要視しているとすれば、それは忌々しき問題であると言うのだ。

今は現在の教会の中からパン種を取り除くシーズンであるとビルは言う。彼は教団・教派的教会組織を完全に父に還すことを叫ぶ!「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」
 今は父に帰る御国の時代。教会とは元々一人の父の元にいる家族なのだ。人間的デノミネーショナリズムの規律に属するものではない。父なる神を中心とした御国の秩序ORDERと真価VALUEの回復のために、今世界中に変革のシフトが起こりつつあるのだ。

 重要なことは、罪を犯す同胞が出たらその人を先ず心から赦しかばうことではないか。そして「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」とへりくだり、天の父に心から懇願するのが私たち御国の「キリストのからだ」の取るべき態度であり、祈りではないであろうか。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-14 12:45 | 坂達也からの今月のメッセージ

御国で必要な全き信仰の祈り  坂 達也   12月2日

御国で必要な全き信仰の祈り 

坂 達也


 イエスは弟子に言われた。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。(ヨハネ12:24)この「一粒の麦」とはイエスご自身である。その一粒の種が十字架で死なれた結果、多くの実がなった。神の創造の原則(創世記1:11,12)からすれば、イエスと言う種から生まれ育ったクリスチャンと言われる私たちは、皆イエスに瓜二つで似ていなければならない。似ているだろうか。残念ながら似ていない。
しかし今、私たちが御国において、皆イエスに似たものとなる時が来た。イエスとそっくりの者たちとは、即ち、「キリストの花嫁」である。イエスは私たちをご自身の花嫁にするために今、御国において「みことばにより、水の洗いをもって、(私たち)教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ」ようとしておられる。」(エペソ5:26,27)「栄光の教会」とは「キリストの花嫁」を指す。 

「主の祈り」(マタイ6:9-13)

 マタイ6章にある「主の祈り」は、御国を実現するための祈りであると言うことに、最近改めて気が付かされた。御国とは栄光の花嫁である教会が完成されるところだ。そのために主は私たちにこの祈りを教えられた。従って、主の祈りは終末の教会にとって最も重要な祈りであると同時に、この祈りを実行して行くことが私たちへの至上命令なのである。

 「7. あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。8. あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
9. だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。10. 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
 12. わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。13. わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(
マタイ6:7-13)
 
 7、8節は前置きであって、祈りの心構えを教えている。9節から祈りに入る。「9. だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。』」

 最初に、天の父をあがめることが、私たち教会が存在する究極の目的であることが示されている。そして御国を完成することこそが、天の父の「御名があがめられる」ことになるのだ。
 「10. 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」
 「御国が来る」と言うことと「御心が天で行なわれるように地でも行なわれる」ことは同義語で、後者が前者を説明する。それでは「御心を行う」ためには私たちはどうすればよいのか。それは旧約聖書が一貫して私たちに教えてくれている。その教えを一言で言えば「主の御声に聞き従う」ことだ。しかもヨシュアとカレブのように「主に従い通した」人にならねばならない。

 申命記8:3では「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」と教えている。ここで「主の口から出るすべての言葉」とは一般にモーセ五書Torahと言われる、神がモーセに語られ記された律法の書を意味している。(私は最近この五書を読むことが今の私たちにとっていかに大切であるかを再認識させられている。)神はヨシュアに「 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」と命令した。(ヨシュア記1:8)

 私たちにとっては、単に律法の書だけでなく聖書全体を夜も昼も口ずさみ、それを実行せよと言う教えである。しかし、それはクリスチャンになるための基礎作りのベーシックに過ぎず、その上に、いつも聖霊が語る生きた主の御声に耳を傾けねばならない。
 主はアブラハム、モーセ、ヨシュアに語り続けた。その指示に聞き従って行動した時に全き主の御心がなされたのだ。ヨシュア記にそれが顕著に示されている。ヨシュアは主から言われたことを実行した時にのみ、敵に完勝することが出来た。
 
 新約聖書でも主イエスは同じ事を強調した。マタイ13章の種まきのたとえのところで、主は「19. だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。...22. 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23. 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:19-23)と言われ、みことばを聞いて悟ることの大切さを説く。又、前述のエペソ5:26では「みことばにより...教会をきよめて聖なるものとする」と約束された。

 次に「11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」であるが、ここで言う日ごとの糧とは、私たちが毎日必要とする総てのものを意味する。主は既にそれをよくご存知で(マタイ6章25-34)「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」と保障されているのだから、物質的なものを祈る必要はない。それよりも御国の実現のために主の御心を忠実に行う(それが義の意味)ことを求めよと言われているのだ。

 では何を祈ればよいのか。それは私たちに今日必要な主の御言葉が与えられることを祈り、具体的な指示を啓示の形で仰ぐことである。私たち御国を建て上げる者にとってはこれこそ一番必要なもの、霊的な米の飯である。
 又、私たちが過ごす御国の毎日とは敵との戦いであると言えよう。近代戦争において、上官からの指令なしで戦場で勝手に戦う軍隊はいない。同じように私たちも、御国の王である主から必要な指示を仰ぎ、それに従って動くことが要求されるのだ。

  「12. 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
 天の父に対して私たちが持つ最大の負い目とは何であろうか。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と言われる以上、それは神が喜ぶ信仰を私たちが持っていないことではなかろうか。神に従い通せなかったと言う不信仰の負い目である。私たちは不信仰であるがゆえに、人に対しても負い目をつくる。これを私たちは真っ先に悔い改め、主に赦しを請わねばならない。それには先ず、同じように不信仰の結果で自分に負い目のある他人を赦すことだ。これは御国に住む人間の大原則である。

「13. わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(新共同訳)

 私たちにとっての最大の誘惑とは何か。それは主への全き信仰を持たずして、つい人間的な思いと考えで行動してしまうことではないだろうか。人間にとってそれが一番楽なのである。それは人間的信仰という妥協の信仰だ。厳しく言えばそれは信仰ではない。多くの人は神を信じていると言うが、普段は神に聞かずして自分で人間的に判断して行動する。どうしてもうまく行かない時だけ神の助けを乞うが、日頃から神の声に耳を傾けていない人は、神の声を聞こうともしないし、又聞こえない。
 現代のクリスチャンの大部分は、残念ながらこのような妥協した信仰しか持っていないため、結局は神が与えた約束の道を究めることなく、人間的なぬるま湯の教会生活を右往左往し、とどのつまり「荒野を右に左にさまよって終わる」可能性が大きいのである。このような人は荒野で野たれ死にをすると言うのがモーセ五書からの警告である。
 
 その点ヨシュアとカレブが持っていたのは、神への全き信仰であった。民数記13章に、約束の地を目の前にしたイスラエルの民が、これから攻め上がる敵地を偵察するためにヨシュアとカレブを含む12人の斥候を送った話がある。
  第一に気が付かねばならないのは、この約束の地に斥候を出して探らせるという考えは、元々神のものではなくイスラエルの民からの発案であったことだ。(申命記1:19-28)初めからイスラエルの民は神が定めた「約束の地」に向かっていたのであるから、今更斥候に探らせる必要など全くなかった。従ってこの民の申し出そのものが既に神への不信仰の現れであったのだ。
 斥候の旅から帰ってきた12人は持ち帰った大きな葡萄の房を見せて、この約束の土地が肥沃であることを立証した。しかしヨシュアとカレブを除く10人は、そこの住民がアナクの子孫で背が高く、自分たちがいなごのように見えた程強い巨人たちであり、町々には高い城壁がめぐらされていて戦っても到底勝ち目はないと言う報告をした。彼らは相手が巨人なので恐れたのだ。又それを聞いた全会衆は大声で泣明かしたと言う有様で、「戦いは神がなさる」という信仰など吹っ飛んでいたのである。


 誰でも人生の歩みの中では色々な恐ろしい巨人に出くわす。巨人が現れると恐ろしくて前に進もうとしないか、進もうとしても力が出ない。
 霊的に言えば、私たちの敵なる巨人とは悪魔である。人間は長年その下で奴隷となり、悪魔に追従する人間的な考えで生きることにあまりにも慣れ親しんで来たので、クリスチャンになってもそう簡単にそのような人間的な生き方からは抜け出せないのだ。それをよくご存知のイエスはペテロに対して「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と看破し警告した。(マタイ16:23)

 そうである以上、私たちにとっての最大の誘惑は「悪魔に洗脳された人間的な考えと思い」で生きることである。なぜならそれが一番人間的に快適で楽な生き方であるからだ。問題は、私たちはいつも放って置けば自然に「人間的に」なってしまい、信仰がなくなることだ。これが恐ろしいのである。あれだけ神の奇跡を実際に経験しながら、イスラエルの民が巨人を恐れおののいて、約束の地に上って行こうとしなかった原因もここにある。

決断の十字路

 実はその時、イスラエルの民はヨシュアとカレブから「我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださる...主に背いてはならない。...そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。...主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民数14:8-9)という本来の信仰に立ち返るように迫られたのである。

 イスラエルの民はここで信仰で決意する十字路に立たされたのだ。この十字路で彼らには三つの選択のオプションがあった。 一つは神を全面的に信頼して、ヨシュアとカレブの言うように真っ直ぐに強敵のいる敵地へ予定通り乗り込むこと。二つ目は「どう見ても敵が強過ぎるから勝ち味はない」と言う人間的判断から、「いずれにせよ荒野の生活はつらいし、自分のために言うことを聞いてくれない神など置いて、もう一度この世のエジプトに引返そう」と言うオプションである。三番目は、どちらでもなく、そのまま荒野をさまよい続けるオプションであった。

 イスラエルの民は、結局十字路で中途半端な信仰ゆえに「荒野をさまよい続ける」と言うオプションを取った。これは後にヨシュアが「神の道を離れて右にも左にもそれてはならない」(ヨシュア記1:7)と警告した不信仰の路であった。彼らは巨人を恐れたので、どうしても神の命令に従うことが出来なかったのだ。
 クリスチャンにとっては信仰が全てである。総てを神に信頼する「全き信仰」を持つ時にのみ、神のすばらしい約束の地に着けることが保障されていると言う厳粛な事実を、私たちは忘れてはならない。
 
 その「全き信仰」を持とうと思えば、私たちも毎日この十字路の決断を迫られていることを認識する必要がある。そしてその十字路に自分の十字架を立てなければならないのである。それは人間的な自分の思いと考えに死んでイエスを見上げ、イエスの指示を仰ぐことを意味する。そうしなければ人間はどうしても自分の人間的な判断に引きずられてしまうのだ。それしか真の信仰の路を誤らずに歩む方法はない。
 それを知っているパウロは「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」と言った。(ガラテヤ2:20)

 自分の考えを一切十字架につけ、真っ直ぐに見上げる時にイエスが見え、イエスの声を聞くことが出来るのである。その十字架を十字路の真ん中に、前方を頭にするように置く時に、十字架を真っ直ぐ上に登る道が約束の地に到達する正しい信仰の路であり、その方向へ一歩踏み出す勇気と力を主が下さることを私は疑わない。

霊の戦いの本質

 ところでこの「13わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」という祈りは、私たちに「霊の戦い」の本質を教えてくれていることにご留意いただきたい。
 クリスチャンと言っても「霊の戦い」を知らない、あるいは、ほとんどしようとしていない人たちが大勢いる。これは本当に悲しい事実だが、悪魔の誘惑に堕ちて眠らされているからである。
 しかし、その一方で「戦うことこそクリスチャンの本来の姿」とばかりに、勇ましい戦いの歌を歌って空に拳を振る人たちもいる。まるで自分たちで戦うつもりで気勢を上げているようだ。気を付けないとこれも巧妙な悪魔の罠にはまってしまう。

 私たちのために戦うのは神であるとすれば、私たちは神が最も喜ばれることをすべきである。それは戦いを前にして私たちが心を一つにし心から主を礼拝し賛美することである。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ロマ書12:1)
 私たちが真の霊的な礼拝をささげることによって主が喜ばれる時、主はその場に来られてすばらしい臨在と油がそそがれる。

 確かにクリスチャンは悪魔に対してイエスの権威を使える。しかし、その権威は「天のみこころが地で行なわれる」時に最も効力を発揮する。正しい権威の使い方とは、その時その時与えられる主の御言葉を宣言し、それを忠実に実行することである。
 主から先ず「こう言いなさい。こうしなさい。」という指示を聞き、それを指示通りに実行する時、主が「悪い者から救ってくださる」「だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」(ヨシュア記1:5)ようにして下さるのだ。同時に、主ご自身の御国の御計画が私たちを通して着実に実現して行くのである。

 忘れてならないのは、多くの場合に主は敵を恐れさせて退散させたり、同士討ちをさせて、イスラエルの民は戦わずして勝利を得ていることである。それはヨシュア記を見れば明らかだ。戦いの前に「主はヨシュアに仰せられた。」と書かれていて神からの指示をその通りに行った時には、神は敵をイスラエルに渡されて圧倒的に勝たせ、「主の指示を仰がなかった」時は問題を残した。「霊の戦い」と言うが、本当に戦うのも勝たせてくださるのも主である。しかも主と悪魔では初めから悪魔に勝ち目はないのだ。しかし、悪魔は私たち人間が自分の方法で戦って勝てる相手ではないことは確かなのだ。この思い違いだけは絶対にしてはならない。

 主の祈りにおいて「悪い者から救ってください。」と祈るように教えられても「悪い者から自分で勝利しなさい」とは指示されていない。あくまで「戦われるのは主」であることを忘れてはならないことをこの主の祈りは教えてくれているのである。さあ、今日も御国の民である私たちは、主から教えられた祈りを祈り且つ実践しようではないか。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-02 14:19 | 坂達也からの今月のメッセージ

2008年に神の新しい七年サイクルは順調に動き始めた 坂 達也 11月19日

2008年に神の新しい七年サイクルは順調に動き始めた

坂 達也


 神のなさることには、全てに時がありシーズンがあります。旧約聖書を通して教えられることは、七日とか七年毎のシーズン、あるいはサイクル(周期)があることです。特に最近では七年毎のサイクルが改めて強調されるようになりました。七といえば音にもドレミファソラシドという七音サイクルの音階があります。
 ドから始まった音は七つ目のシで終わって次はドに戻って、又新しくドレミ...が始まる。つまりドで始まりドで終わり、同時にそのドで又始まる。その八つ目のドは完成と開始の両面を持っていると言えます。2008年はそのような「ド」の年でした。私はこれを霊的な意味での比喩として考えたいと思います。

 霊的な意味でと言いましたが、ドからドに至った次のドは、同じドであっても一オクターブ違うことにご留意ください。そこではレベルがアップされ、もう一段階天に近いと言いましょうか、霊的に高くなっていなければなりません。その意味で2008年は前の2001年のレベルから一段高いレベルへの移行のプロセスが終了し、同時に、もう一段階高い新しい霊的レベルの領域に入る年であったのです。2008年になって霊的密度が一段と濃くなった、主の臨在と聖霊の充満さが高まっていることを経験した人は多いと思います。求める人には霊的な知識がより早くより易く与えられ、ダニエル書12:3,10にある「 目覚めた人々は大空の光のように輝き...目覚めた人々は悟る。」という終わりの時が来たのです。主との交わりがより深く、喜びに満ちたものになってきました。あるいはエリシャが得た二倍の霊の分け前が私たちにも与えられる時が来たのかも分かりません。より新鮮な新しい風が吹き始めました。本当に2008年になって主の御声がよく聞こえるようになったはずです。

 そしてこれから「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け」(使徒1:8)「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう」(ヨハネ14:12)時に入るのです。それは「天の御国の時代」に突入し始めたからです。

人間の考えること、やることがいかに不完全であるか

 神は最近、この世の政治、経済、金融システムが、いかに不完全でもろいものであるかを実に見事に暴露されました。それも諸悪の根源はアメリカにあると言わんばかりに、アメリカを震源地とした金融恐慌はあっという間に世界中に広がり、多くの名門の銀行とか金融企業が倒産するという、考えられないような事態を引き起こしました。この金融システムの破綻に次いで株式市場が記録的に落ち込み、ひいては一般の景気が完全に沈没しつつあります。景気が悪くなると、人々は財布の紐を引き締め、先ず買わなくてよいものから買わなくなり、倹約します。
これこそ健全な家庭財政の考え方で、よいことではないでしょうか。しかしこの考え方では現代国家の経済システムは暗礁に乗り上げるというのです。全くおかしな話ですが、人々が無駄な買い物をしなくなると世の中が回って行かないのです。特に元々赤字財政で自転車操業を繰り返す国(アメリカが最たるもの、日本もそうです)は失速して倒れてしまいます。

 なぜ神は今の時期にこのような事態が起こることをゆるされたのでしょうか。それは人間の考えること、やることがいかに不完全であるかという事実を、この際世界中の人間にはっきりと認識させるためであったと思います。しかも神は、教会という霊的な領域においても同じように「人間がやってきたことの不完全さ」を示され始めました。
 
今回の日本訪問で、日本のクリスチャン教会における古い体質、古い伝統が今はどん底に落ち込んでいる兆候の一端を見ることが出来ました。その外的なしるしとして、主に聖霊派においてですが、新聞が廃れ、本が売れず(いずれもクリスチャンの)、神学校にも、いや一般の集会聖会にも昔ほど人が集まらないと聞きました。いわゆるリバイバル、リバイバルと熱狂的に祈り叫び、リバイバルを期待した時代は過ぎ去り、その後あの手この手を模索して試した結果それもうまく行かず、疲れきっている状態にあるように見えました。

 しかし、その一方で新しい体質、新しいものが生まれつつあることも見ることが出来ました。それは若者を中心とした新しい種類のクリスチャンが台頭して来ている姿です。私は、今回見たこのような現象を一言で言えば「世代交代」「世の中が変わる」顕われであると気が付きました。それがいよいよ2008年から加速され、これから益々進行するのです。

 初めに神が地球の統治を人間に任せて以来、人間は人間が築いて来た伝統と慣習によって世界を人間の知恵で統治しようとして来ました。しかし、その時代に終止符をつけ、いよいよ主ご自身が直接治める御国の時代に入る時が来たのです。それはちょうど、幼児に積み木を与えて、自分でやらせようとするのに似ています。幼児は自分だけではうまく出来ないので、最後は積み上げかけたものもめちゃめちゃに壊して泣き出す姿に似ているのかもしれません。人間はやはり神と言う親の助けを借りて一緒に積み上げないとうまく積み上げられないようです。神はそれを人間に今はっきりと分からせようとしておられます。

 イエスはこの世に生まれ宣教を始められた時に「御国が近づいた」と言われましたが、今はついにそのイエスの御国の時代に入ったか、あるいは入る直前であると信じます。私がその確信を強めた理由の一つは、多くの使徒的・預言的な人たちがこのところ特に明白に、しかもいっせいに、クリスチャンの使命とは「主の御声を聞いて忠実に従う」ことであることを強調していることです。

 11月4日にアメリカの大統領選挙がありましたが、アメリカの多くのとりなし手がクリスチャンでありながらプロ・チョイス(堕胎賛成)等の反聖書的立場を取るオバマ候補を絶対に大統領にしてはならないと、共和党のマッケィーン候補とその副大統領候補のペイリン氏の当選のために今までになかったほど激しく祈ったと聞いております。にもかかわらず47歳という若い歴史上最も未経験な大統領になると言われるオバマ氏が当選しました。なぜ神はそれをゆるされたのでしょうか。

 私は、主がこれからは直接政治に加わる御国の王であることを今回積極的に示されたように思うのです。若い未経験なオバマ氏が選ばれたことは御国が来るよい前触れであるような気がします。私は選挙の前の一ヶ月を日本で過ごしましたが、この間オバマ氏の優勢はほとんどゆるぎませんでした。その中にいて私はなぜか「主の御心がなされるように」を強調する祈りに心が傾きました。後で振り返ってみると、「主の祈り」だけがまさに私たちの今の祈りであるべきであることに思い当たったのです。

  ..御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

 世界情勢が最も難しく厳しいこの時期に、主は、私たちの思いをはるかに超えたご計画と方法をもってオバマ氏を敢えてアメリカの大統領として起用することをこの世に示されると共に、72歳のマッケイン氏を選ばずに47歳のオバマ氏を選んだことによって、今は「世代の交代」のシーズンであることを明確にされたのかもしれません。これも御国の体制への移行路線を主が着々と進めておられる顕著な顕れであると信じます。

荒野で約束の地に渡ったイスラエルの民とその二人のリーダー

 ここで思い起こされるのは約束の地に入るに当たって、荒野で起こったイスラエルの民の世代交代とその引率者の交代です。
 事の起こりは、エジプトを出たイスラエルの民が二年目にカデシュ・バルネヤまで来た時、カナンの地を探るべく各部族から12人のリーダーが選ばれ、40日間の斥候の旅に出ました。その報告を聞いて恐れをなした民は神に盾突き、エジプトに引返そうとまで言いました。但しこの12人の中でヨシュアとカレブだけが、どんな強敵であっても恐れずに神に従へば、神がその地をイスラエルに下さると主張しました。このような不信仰の民に怒った神は「お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。わたしに対して不平を言った者、つまり戸籍に登録をされた二十歳以上の者はだれ一人、わたしが手を上げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別だ。」(民数記14:29-30)と言われ、その通りになりました。神は、この不信仰の民の引率者であるモーセすらも約束の地には渡らせませんでした。

 従ってヨルダン川を渡ってかナンの地に入ったのは民数記で登録されなかった当時20歳以下の男子の若者たちと(実際にヨルダン川を渡った時の最年長者は60歳になろうとしていた)それを引率する「年寄り」二人、ヨシュア(モーセの後を受け継いだ時は85歳頃と言われる)カレブ(80歳頃)だけでした。

 ここで私たちクリスチャン全員が、もう一度1コリント10:1-6に注目することを提案します。「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり(聖霊の雲の柱で導かれ)、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。」続いて11節で「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」 

上記の6節と11節で「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。」が繰り返されています。これは世の終りの私たちに同じことが起こる可能性が十分あることを予測した上での大変な警告であることを私たちは十分にわきまえねばなりません。雲(聖霊)と海(水)のバプテズマを受け、キリストと御霊の聖餐(食べ物、飲み物)を共に受けたイスラエルの民と言えば、私たちクリスチャンに相当します。その大部分の人が「神のみこころにかなわず」滅ぼされると言うのですから、これは大変な警告です。そこで「みこころにかなった」カレブとヨシュアのどこが「みこころにかなった」のかを見ることは、今の私たちにとって最重要な教訓になると信じます。

 「カレブは..主(わたし)に従い通したから..」(民数記14:24、申命記1:36)と言う賞賛のことばが聖書に6回も出てくる程、カレブは主に忠実に従い通した人でした。ヨシュアも同じように「主に従い通した」と民数記32:12に書かれています。一方荒野で滅ぼされたのは「わたしの声に聞き従わなかった者たち」(民数記14:22)でありました。

 又ヨシュアについては、出エジプト記33:9-11に「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。」と書いてある通り、民は雲の柱が立つと全員立って礼拝しましたが、ヨシュアはその幕屋の中に留まり続けました。ヨシュアは主の臨在を愛するだけでなく「その中に留まる人」であったことが私には特に印象に残ります。

 このヨシュアとカレブという二人だけが高齢者のリーダーとしてヨルダン川を渡って約束の地に入れたとすれば、終わりの世に生きる私たちもこの二人と同じような者にならねばならないことがこれで明確です。これから主が直接主権をもって治められる神の王国において、私たちに必要なことは只一つ「主に従い通す」忠実さを持つことであるのです。

 今回のアメリカの大統領選挙では、投票日のずっと以前から純然たる預言をした人もたくさんいました。しかし結果を見た今、その是非が盛んに論及され、又多くのクリスチャンの見識者によって色々な意見が取沙汰されております。多くの人はオバマ氏が選ばれたことに失望し、何故そうなったかを分析し評論しました。クリスチャンでも今は「一億総評論家」の時代です。ある人たちは祈りに答えて下さらなかった神に失望し、アメリカ人のしたことにその原因があるとしてそれを追究し責めます。私は、その人たちのコメントの多くが、人間の宗教的伝統とその道徳観に立ったどちらかと言えば人間的な考えからの批評であることに気が付きました。誠にごもっともな意見が多いのです。しかしながら私は、基本的に「あなたは神のなさることを評論するのか」と言う気持ちがしてなりません。

 カレブとかヨシュアが今アメリカに生きているとしたら、彼らが選挙に失望したり、評論したりするでしょうか。彼らは「主のなさることを全て信じ、主のご計画、主からの指示と命令のみを待つ」人たちですから、神のなさることに何の疑いも持たず、選挙の結果が主の御心であると信じ、論評など思いもよらないでしょう。

それでは、どうすれば「主に従い通す」カレブとヨシュアになれるのか。

 先ず、熱烈に主を求め、過激的に主を愛する人になることです。そのような人には聖霊の雲の柱が立ちます。その雲の中に留まる人には油が降って来るでしょう。聖霊に満たされないでものを言ったり、油注ぎのない行動をする人はいなくなるでしょう。
 雲の中に留まる人とは、モーセのように、主と「人がその友と語るように、顔と顔を合わせて」親しく語り合う親密な関係に入るでしょう。
それは人間関係と同じです。あなたは主とどのような関係にありますか。ほとんど他人のようですか。普通他人とは口を利きません。あなたの祈りは主にものを頼む「お願い」から成り立っていますか。親しい友達付き合いの人とは単に頼み事だけをして別れますか。召使とはそれでよいかもしれませんが、あなたは主という花婿にとっての最も親しい花嫁のはずです。その愛する親しい方があなたという幕屋に住んでおられるなら、終日、楽しくお話しないでしょうか。そうであってこそ心が通い、相手の心と思いが完全に分かるはずです。こうして、私たちは心から喜んで「主に従い通す」花嫁になるのではないかと思います。

新しい霊の領域に入る

 栄光の雲の柱の中とは、時のない永遠の領域です。「私たちキリストの身体は、新しい時代に突入する瀬戸際に立っています。神の栄光で満ちた、時のない領域では、加速的に強まる力があるのです!神の栄光の領域が自然の領域に入り込むと、奇跡、癒し、しるし、不思議、創造的力が大いに加速されます。」とジェフ・ジェンセン師は言います。(本HP10月13日の「永遠が押し入ってくる!」ジェフ・ジャンセンを御参照ください)

その栄光の雲の中で多くの時を過ごせば過ごすほど「成熟」が加速され、通常の十分の一以下の時間でことが成し遂げられると師は言います。これから主が起こされる若い世代の人たちは、初めから新しい皮袋に造られた新種のクリスチャンで、はちきれんばかりに聖霊に満たされますから、ものすごいスピードで信仰が増して行くでしょう。

 現在では全く程遠く不可能なことのように思われますが、今あるばらばらの世界中の「教会」が、終末迫るこれからの短期間の間に「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない」キリストの「一つのからだ」に本当になれるのです。なぜなら、私たちはこれからどんどん霊的に「高い音階の領域」に上げられてその中で過ごすので、超自然のスピードで成熟するからです。主は圧倒的な勝算をお持ちです。それを全く疑わないヨシュアとカレブの信仰で、これからのシーズンを熱狂的に主に従って生きようではありませんか。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-11-19 09:18 | 坂達也からの今月のメッセージ

その後のジュディス・グルーバー夫人と祈りのお願い 11月16日

その後のジュディス・グルーバー夫人

先回グルーバー師夫妻はミニストリー旅行に共に出発すると報告しましたが、その日になって夫人の容態が悪化し、出発を見合わせました。それ以来様子を見て来ましたが、結局旅行に出られるまで体力が回復しないまま、旅行をキャンセルすることとなり、その後自宅で静養しております。グルーバー師も今は出来るだけ傍を離れず、インシュリン注射を助けたりして夫人を見守っております。

 今朝の電話ではグルーバー師も今までにない沈んだ声で、夫人が一進一退の中で体力と共に気力も衰えていること、家の中での歩行もあまりしなくなっている様子を語ってくれました。夫人はしばしば痛みを訴えるそうです。
 皆様、どうぞ主に示されるままに一層のお祈りをお願い申し上げます。坂 達也

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by walkwithgod | 2008-11-16 07:41 | 坂達也からの今月のメッセージ

ジュディス・グルーバー夫人への祈りのお願い 11月6日

ジュデイス夫人に関するその後の報告

10月14日に来日したヘンリー・グルーバー師は、11月17日までの日本滞在予定を中断し、10月30日アイオワの自宅で療養中の夫人からの緊急の要請により急いで帰国されました。それはジュディス夫人の容態が悪化したからでした。
 
 夫人は今自宅療養中ですが、必要に応じて医師の診療を受けております。当面の問題は肺にたまった液体により肺の半分から2/3がふさがっており、数歩歩くと息が切れる状態であることです。前にしていた注射針でこの液を抜くことを医師は最良の方法と認めず、むしろ薬寮で放出する方法を取っており、少し良くなったと言っています。しかし、問題はむしろ心臓にあり、4箇所クワドルプル・バイパスの手術を早急にする必要があると医師から強く勧められております。そこで夫妻と五人の子供が集まって家族会議を開いた結果、夫人はやはり手術をしないで、信仰で神の癒しを期待する道を選びました。

 そして、明後日から約2週間夫人はヘンリー師と共にミニストリー旅行に出ることになりました。それは家にいるよりも、夫と共にいて、夫の集会に出ることによって主の臨在の中に入る方がより好ましいとの判断からでした。旅行は大型のバンですから、いつでも横になれます。どうぞ引き続きお祈りいただけますようお願いいたします。

 それに併せ、グルーバー夫妻の娘さんのベッキーが子宮ガンであることが(早期)発見され、11月24日に手術を受けることになりましたので、ベッキーさんのためにもお祈り下さい。以上よろしくお願い申し上げます。 坂 達也


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by walkwithgod | 2008-11-06 09:14 | 坂達也からの今月のメッセージ

トッド・ベントレーが残した課題 真の使徒時代の黎明 10月2日

トッド・ベントレーが残した課題
          -真の使徒時代の黎明― 


  
この記事はハーサー誌11月号への原稿です。

     坂  達 也

ユダヤ暦の2008年は間もなく終わろうとしている。今年一年を振り返ってみて最も目立った「事件」の一つは、フロリダのレイクランドに起こった癒しのアウトポアリングではなかろうか。
 その中心人物は好むと好まざるにかかわらずトッド・ベントレーであった。彼が招かれたイグナイテッド・チャーチで、彼自身も予期しなかった嵐のような聖霊のアウトポアリングが起ったのが4月初めであったが、それも4ヶ月ほどであっという間に過ぎ去った。まるで大型の台風のようであった。大型台風は被害を与えるが、人々は「ベントレー」と言う名の台風が去った今、ベントレーが祝福の代わりに被害を与えたかのように、その後始末で騒いでいる感がするのは私だけであろうか。

今回の「ベントレー事件」で注目すべきことの一つは、6月23日にピ-ター・ワグナーの取り持ちと司会により、ベントレーが三人の使徒的監督者の下につくと同時に、レイクランドにおける癒しのリバイバルの伝道者として公に按手・任命されたことであろう。しかしこの任命式の後、多くの人々、中でも自分と関係している使徒たちからの反対と批判を受けたピーター・ワグナーは、特にトッドの別居・離婚発表があった後において噴出した多くの抗議に答える形で、8月25日に一つの声明文を発表した。

 彼はその声明文の冒頭で、ベントレーのレイクランドのアウトポアリング第一部は終わり、その後ストレーダー牧師によりアウトポアリング第二部が始まりうまく行っていることを強調した。(確かにそれは事実のようであり、主の御名をたたえたい。)しかしその書き方には、ベントレーをまるで悪臭のする汚物のように見て、早くそれに蓋をし過去のものとして葬りたいと言う気持ちがありありと見受けられた。そしてピーターは、トッドに「うそつき」で「人を惑わす男」と言うレッテルを貼り、実際に彼自身も「だまされた」と言う。私はこの書き方から、彼が使徒と呼び合う同僚たちから、どれほど大きなプレッシャーをかけられているかが分かって気の毒に思った。

 彼は今回、神からトッドを使徒的にalign(整列・参加させる)せよと言われる御声を聞いて、自分は気が進まなかったがそれに従ったと言う。そして彼はチェ・アン、ビル・ジョンソン、ジョン・アーノットの三人の使徒(リバイバル・アライアンス)の下にトッドをつけることを提唱し、それを正式に司会者として発表した。私は彼のしたことは正しいと信じ、その点では彼を全面的に擁護したい。しかし、腑に落ちないのは、彼が信仰でトッドのミニストリーを使徒的な仕事としてその権威の下に入れる儀式の長を務めながら、実は、私は元々トッドをエンドース(支持)していないとか、トッドのミニストリーに対する興味は薄かったと、なぜ言うのかと言う点である。要するに彼の手紙は、使徒団体のリーダーとして自分のしたことの正当性を弁解し、反対者に対しての言い訳をしているに過ぎないような気がする。

 ピーターは今回自分がやるべきことをしたのでレイクランドの秩序が回復し、トッドもこれから3人の監督の下でカンセリングが始まることを自分(たち)の功績として誇ったが、私は確かにそれを認める。そして彼は、自分はリスク・テーカーであると言い、今まで1970年以来18人以上の著名なリーダーを自分の名声を賭ける危険を犯して支持したり、パートナーとなったり、あるいは使徒的にアラインして来たと説明する。その結果72%(13人)は勝利者となったが、17%、すなわち、トッドを含む3人がloser敗北者となった、そして残りの二人は勝者敗者のどっちともつかない人であったと言う言い方をして、トッドにはっきり敗北者と言う焼印を押した。彼は今回のトッドの件でピーターの団体に所属する人のうち、ピーターと係わり合いがあると思われることを恐れて数人が脱退し、多くの人が今も自分のやったことに憤慨していると言い、自分はそうなる危険を冒してまでもトッドを使徒的権威の下につけたと言いたいのであろう。ちなみに彼はICAと言う500人の使徒が所属すると言う世界最大級の使徒団体の議長を長年務め、現代における使徒のムーブメントの最も著名な世界的リーダーである。

  しかし私が驚いたことは、彼は、初めから終わりまでトッドの罪を責めてはいても、使徒的指導者としてトッドをかばう、あわれむ言葉は一つもないと言う事実である。就いてはこの際、私はピーターに使徒とはどんな人で、どんな役割を持つのか、その根本的な考え方を聞いてみたい。何故なら、私にとって使徒とは「主の直々の弟子」として主が選んで立て、個人的に主と親しい関係に入り、「真にキリストに似た者」となり、パウロのように「私に見習いなさい」と堂々と言える人であると信じるからだ。つまり使徒としての最優先の資格は、先ずキリストの愛に満ちた人で、常に父の御心を知り、主と同じ思いとあわれみを持って人を指導し、育て上げる人であるはずだ。
 
 次に、使徒は主が選んで用い、主の力と栄光を発揮できる人でなければならない。その点、トッドが主から選ばれた器で、聖霊のアウトポアリングによる力を受け、大いなる癒しを顕してイエスの証人になると言う、現代においてはまれな使徒としての重要な素質(資格)を持っていることをピーターは全く認めていないようだ。使徒とは、単に組織を作り上げたり、施政方針を決めたり、大局的に指図することだけがその職務ではないのである。

 さて、今回の「トッド事件」で私が気付いたことの一つは、6月23日の式で壇上に並んだ参列者の一人であったリック・ジョイナーが、ワグナー・グループのしていることを尊重して決して批判はしていないけれども、その式の内容を説明する際に一言も「使徒」「使徒的アラインメント」と言う言葉を使っていないことである。私の知る限り、彼は人から使徒と呼ばれても自分からは使徒であるとは言っていない。

ここで、9月19日にボブ・ジョーンズ夫妻とジェフ・ジェンセンから「主は2012年までに終末における真の使徒たちを立て、真の使徒組織が確立される」と言う重要な預言が発表されたことに触れたい。新約聖書では教会に五役者が立てられるとはっきり書かれているが、初代教会以来、特に終末の現在においては最も必要で重要な使徒職が未だ確立されていないのが事実である。その意味で今は最後の真の使徒の時代に移行する過渡期であり、過渡期には混乱が付き物だ。トッド・ベントレー事件がまさにそのよい例であろう。その混乱の時期に主は、これからの使徒のひな型の一人として若いベントレーを立て、それを支えるべく現代の使徒組織を代表するワグナーにアラインさせたが、どちらも不完全であることを世に示された。これは主が不完全なものを完全なものにされる前触れであり、今まで不完全であった教会を、究極的に主の花嫁として完成させる時期がいよいよ迫って来たことを示されたのであると信じる。それには真の使徒が絶対に欠かせないのだ。

そこで何はともあれ、先ずはその過渡期の使徒組織のリーダーとして長年ピーター・ワグナーが取って来た労に私は感謝する。
 ここで、トッドの監督者の一人、ビル・ジョンソンが何を言っているかをご紹介したい。

<トッド・ベントリーとレイクランド・リバイバルに関してのビル・ジョンソンからの手紙 2008年8月(17日)> 

 先週一つの大きな悲劇が明るみに出ました。レイクランド・アウトポアリングをリードしてきたリバイバリストのトッド・ベントリーがメルトダウン(溶けくずれ)してしまい、離婚の申請をしたのです。これはリバイバルにとっても彼と立場を共にした人々にとっても最悪のタイミングでした。

 6月に、チェ・アンとジョン・アーノットと私はレイクランドに行き、トッドの任命式を行ったのでした。私たち3人はトッドをサポートして立つ必要を感じたのです。彼に対する攻撃が大変激しかったので、私たちは彼の力になることが出来ると思ったのでした。ジョンとチェは、トロント・アウトポアリングに対して起こった大きな攻撃に耐えてきたという体験があったので、特に力になることが出来ると思われました。ピーター・ワグナーが式を監督し、リードをしてくれました。ピーターはこのリバイバルを彼としては支持していたわけではありませんでしたが、トッドが使徒的アラインメントを受けることが大切だと感じ、ピーター自身が批判されるかもしれないというリスクをとって、この役目を引き受けてくれました。

 私がレイクランドの壇上でトッドと共に立ったのは、彼が性格的に完全であるからとか、彼のレイクランド・リバイバルのやり方に全面的に賛成していたからではありません。私がレイクランドに行った理由はトッドに多くの敵がいたからです。彼は容赦ない批判と攻撃を受けると共に、時には知恵を欠くような過酷なスケジュールで生活していたので、この若者がやがて感情的にも、知性的にも、肉体的にも、霊的にも破綻することは目に見えていたのです。これと同じことが2年前に彼に起こりました。ですから再び起こる可能性は十分あったのです。彼一人が攻撃の対象とならないようにするのが、私の意図でした。しかし、それには既に遅すぎたという事実を私は知りませんでした。トッドは、自ら結婚を放棄し、ミニストリーのすべてから手を引いてしまわねばならないほど再びバーンアウトしていたのです。私はトッドが悪い選択をしてしまったことに対して彼の反対者を決して責めませんが(そうなったのはトッド一人の責任です)、彼ら批判者の攻撃は彼らが考える以上にトッドに深刻な影響を与えました。

 これから何をすればいいのでしょうか?トッドとシャナのためにどうか祈ってください。彼らの結婚と人生が完全にいやされるようにと。そして、彼らをカウンセリングする人たちに、偉大な知恵があたえられるようにと。カウンセリングの詳細はお知らせ出来ないかもしれませんが、私たちがこの悲劇に癒しと秩序をもたらすために、可能な限りのことをしていることをどうかご理解ください。(ビル)

 私はこのビル・ジョンソンの手紙から大きな感銘を受けた。彼は又、彼のホームページで、6月と5月にも下記のようなコメントを発表しているので付記したい。これは多くのトッドの批判者からの「一体どうしてあなたはトッド・ベントリー(のような者)を支持することなど出来るのか?」という質問に対しての答えである。

「あなたはトッドと時間を過ごしたことがありますか?彼を知っていますか? 彼が妻と一緒にいるところにいたことがありますか?
 彼が自分の子供たちとどのような関係であるか見たことがありますか? 彼のスタッフと一緒にいたことがありますか?
 彼のミニストリーの場に行ったことがありますか? 彼があなたのミニストリーの場に来たことがありますか? 彼に手を置いて祈ったことがありますか?
 彼があなたに手を置いて祈ったことがありますか? 悲劇が起こったとき彼と一緒に悲しんだことがありますか? 勝利を共に祝ったことがありますか?
 彼があなたにアドバイスを求めてきたことがありますか? 彼があなたのアドバイスを受けるために遠くから来たことがありますか?
 彼のアドバイスを受けたことがありますか? 彼と一緒に部屋にいて、彼に神が顕われ、彼をつかって驚くべき奇跡をされるのを見たことがありますか?
 彼が知識の言葉を用いたり預言的に働くのを見たことがありますか? 彼の長老たちに会ったことがありますか?
 彼の賜物によってあなたが祝福されたことがありますか? あなたの賜物やミニストリーによって彼が祝福を受けたことがありますか?
 彼が神にある人としてあなたに敬意を表したことがありますか? 彼が友人としてあなたとパートナーになったことがありますか?
 彼のために、また彼の家族のためにあなたが犠牲を払ったことがありますか? 彼と一緒に神を求めたことがありますか?
 彼と一緒に神をワーシップしたことがありますか?
 ないでしょう。私はあるのです。私はこれからも、人生やミニストリーにおいて共に歩んだ人たちをサポートし続けるでしょう。トッドは私の友人です。それよりも重要なのは、神がトッドを友と呼ばれるということです。そしてもし、あなたと私がそのような深いレベルの友人であるとしたら、もし人々があなたを憎みあなたに敵対し、ウェブ・ページであなたのミニストリーをこき下ろし、あなたの友人にあなたの批判をし、キリスト教の雑誌にあなたへの反対を書き、ラジオで批判し、カンファレンスのスピーカーや著者たちにメールを送ったとしても、私はあなたの友であり続けるでしょう。
 ついでに言いますが、質問の形をした批判は質問ではありません。しかし、あなたの「一体あなたはどうしてトッド・ベントリーを支持などできるのですか?」という言葉にお答えしましょう。簡単です。神の御名によって私は彼を支持するのです。(ビル)

2008年5月

 トッドは私の良い友人ですが、それよりも重要なことは、彼が神の友であることです。彼ほど神に飢え渇き、長期間神を求めて時を過ごす人を私は他にあまり知りません。神が彼に並外れたアウトポアリングを委ねたのは、理由があるのです。それは神が言われることはどんなことでも、他の人が何と言おうと、トッドはその通りに従うという信頼を神は彼に対して持っておられるからです。彼は驚くほど大胆です。今起こっている奇跡は本物であり、ますます増えています。アメリカの教会は大いなるリバイバルを求めてきました。神はこのムーブメントを、誰も想像しなかったような形で私たちに与えられました。それはまさに、私たちが飢え乾いていると言っていたのが本心だったかどうかを神が見られるためです。(ビル)

 上記のビル・ジョンソンの言葉に私は真の使徒的な愛を感じる。これこそ真のクリスチャンの兄弟からの言葉ではなかろうか。

ベントレーを立てられた神のご計画は何であったのか

 今まで私は、人間がどのようにトッドを見て来たかを中心に書いて来たが、実ははっきり言ってそれは二の次の問題であって、私が最も知りたいのは神のお考えである。何故神は、それ程「不完全な人間」ベントレーを癒しのリバイバルの少なくとも先導者として用いられたのか、それが知りたいのである。私は人が批判すればするほど益々トッド・ベントレーなる男のことを知りたいと言う思いに駆られ、彼の生い立ちを少し調べてみた。
 
 それで分かったことは、彼は、言ってみれば人間社会のくずの掃き溜めのような家庭で育った人間であると言うことであった。小学校しか出ていない麻薬中毒症で19歳の父親と、10歳年上の母親の間に生まれたトッドは、一年足らずで母親が労災で耳が聞こえなくなり、それが夫婦間だけでなく、トッドとの間で必要な母子の愛の会話を取り去り、全く愛のないすさんだ家庭にした。トッドが4歳のとき母親は無能力な夫を追い出して離婚したが、父親はその後子供のサポート金を一度も送ったことがなく、不具者の母親の労災の保険金とわずかな政府からの補助金で、食べる物も着る物も満足にない貧困の中で育った。再婚し疎遠となった父親に対してトッドはその愛に飢え、とりすがろうとしたが、父親は全く彼を無視し続けた。結局トッドは両親のどちらからも愛らしいもの、又、しつけらしいものも一切受けていない、全くの崩壊家庭で野放しに育った。11歳で飲酒とセックスをおぼえ、12歳で父親に教えられて麻薬を知り、13歳でタバコ、それに悪魔的な音楽とオカルトの世界にのめり込んだ。学校の成績は常に最低で中学二年の時退学させられ、それからは喧嘩、盗み、放火、麻薬、そしてギャングの世界に入り、ついに16歳で未成年者の監獄入り、5度刑務所を転々とした。そこから出てくると3つのフォスター・ホーム(里親)を渡り歩くと言う悲惨な青春時代を過ごしたのである。
 
そのようなトッドを、神は人間のゴミ捨て場から拾って来て蘇生させた。トッドは一度神の愛を知ると、今までの飢えを一気に満たしたいかのように神とその愛にしがみつき、神を愛して離さなかった。そのような彼に、神は、必要な若いクリスチャンの友人を与え、小さな教会とユースのミニストリーに出入りさせ、カトリックの家庭で世の穢れとは全く縁のないように育ったシャナと言う「つり合わない」女性に出会わせ、結婚させた。トッドは神学校に行ったこともなく、いわゆる「キリスト教業界」の宗教的且つ人間的な神学とかやり方に毒されていない。守られているのだ。聖書を聖霊から教わった。彼のあこがれはブラザー・ローレンスであり、神と親しく時間を過ごし御声を聞くことを最高の楽しみとした。ある時彼は、製材工場で働いていて怪我をし3ヶ月休んだ。その時妻から、彼が働いていると思って労働時間中一人で部屋に閉じこもり神と時を過ごすことを許可してもらい、3ヶ月間一日4-8時間神と親密な時間を過ごしたと言う。これ以上は、既にビル・ジョンソンが言ってくれたので、トッドがどれ程神と近しい「友人」であるかと言うことを私が言う必要はない。これこそ使徒たる最も重要な条件ではないか。

しかし一方で、トッドは全く問題だらけの未完成の人間であることも私は強調する。人間は家族の暖かい愛の中で、しかも「愛のしつけ」をもって育てられたかどうかで、その人の性格とか生き方が大きく影響される。その点トッドは愛のない不幸な家庭で育ったので、彼があまりにも過激なミニストリーの重荷に耐えられないほど疲労困憊した時に、たとえ妻とか子供、あるいは周りの人たちにひどい言葉を吐いたり、酒を飲んでうさをはらし、他の女性に慰めを得ようとして罪を犯し、うそを言い散らしたとしても、それは彼の生い立ちの中で深く根を下ろした非行のライフスタイルが未だ完全に断ち切れてないことを物語っていることではないのであろうか。確かに彼はクリスチャンになって14年経つが、私たちと同じように聖霊が目下更生中の人間である。彼の人間的性格がそうすぐ変わらないからと言って彼を責めるとすれば、それはあるいは聖霊を責めていることにならないか。

 何故イエスは「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」(ルカ10:27)と言われたのか。トッドは曲がりなりにも「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を」愛そうとして来た。だからこそ神はトッドを本当にいとおしく愛しておられるのである。

 しかしその後で、主は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われた。何故か。それは、人間が罪だらけとなったのは元々人間の責任であり、神は私たち人間が、罪だらけのお互いを赦し、愛し、励まし合うことによって「神に似た完全な人間」になることを望んでおられるからではないのだろうか。クリスチャンとは一つの「キリストのからだ」になることである。身体の部分同士が愛し助け合わずに完全なキリストのための一つの身体になれるであろうか。私はこれこそ「教会」に与えられた最大の責任であると思う。

 教会には人間的・宗教的で「大きな罪は犯さない」が、その代わり「それ程神を愛さない、人も愛さない、何もしない、何も出来ない」人が大勢いる。一方好きな女を横取りし、挙句にその優秀な戦士の夫を殺してしまうと言う大罪を犯したダビデ、主を三度否んだペテロが二人とも聖書の大英雄であるのはなぜだ。主は彼らを愛され、大きく用いられた。トッドはこの二人に劣らない罪人であるかもしれない。しかし、私たちにとって癒しのリバイバルの先導者として、主を過激的に愛し、主が用いられた貴重な兄弟である。真の使徒の素質を示してくれたその人を教会は本気で裁いて潰す気なのか、私はそれが聞きたい。

 今回神はトッド・ベントリーを敢えて轟々たる批判と混乱の真っ只中に突き落とされたように思う。それは神が彼をこよなく愛するからだ。トッドを聖い人に、もう一つ高いレベルの人間、真の使徒として完成させる以外のことを考えておられないと確信する。もう一度言う。トッドは人間的にまだまだ未熟で、罪だらけの人間だ。だからこそ、これからベントレーは肉も魂も霊も聖くならねばならない。神はそのための厳しいプロセスを始められたのだ。そのために三人の監督官の働きに私たちも参加し、少なくとも祈りで支援することを神は望んでおられると思うのである。なぜなら、くどいようだが、私たちが同じ「キリストのからだ」の一部として、お互い弱い者同士が愛し合い、祈り合い、助け合い、皆が一つのからだ、一人の花嫁として完成されねばならないからである。

今回私は、その未完成のタッドがどのようにして癒しの人になったか、あるいは神に用いられる人間になったのかと言う点で大いに学ぶことが出来たし、又、彼からインターネットの画面を通して油注ぎの分与を受けたことも大変な恵みであった。
癒しのリバイバルは始まったばかりだ。これからいよいよ、世界中の私たち「教会」が実行し広げて行かねばならない重要な使命の一つである。そのために主の火付け役として重要な役割を果たしてくれたトッド・ベントレーは私たちにとって他人ではないし、過去の人間でもない大切な兄弟の一人である。神の御国のためにトッドの回復を心から祈る。 

最後に、9月はElulエルルの月、そして今年は30日がロシュハシャナ(新年)に当たり、それから贖罪の日に向けての10日間(全部で40日間)は特に、私たちが心から悔い改めるシーズンである。私は2008年から2009年にかけて更に大きな期待をもって主を見上げる。そのために、今と言う時に、神が私たち教会にトッドのよいところと悪いところを見せ、私たち自身の教訓とするようにと言うのが神からのメッセージであると思うのだ。そのことを主に心から感謝し、私自身の至らなさを主の前で悔い改め、新しい年を迎えたい。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-10-02 04:10 | 坂達也からの今月のメッセージ

現在のリバイバルの歴史と将来 リック・ジョイナー 9月2日

現在のリバイバルの歴史と将来 ― パート8

リック・ジョイナー

      

しるしと不思議の拡大

過去十六年間にモーニングスター・ミニストリーでは多くの超自然的なことが起こりましたが、アウトポアリングが始まってからのこの十六週間には、それよりもっと多くの癒し、奇跡、しるしが起こりました。私たちは毎日主への畏敬の念に満ちて過ごしています。そして今私たちが新しいレベルの霊的領域に入ったことは間違いありません。この「新しい始まり」は、実は「いにしえの道」に戻ることです。即ち、一世紀の教会が、そこからそれてしまうまでは歩いていた命の道です。

この地上で、主を知り、その主のすばらしい御業を見ることができる程すばらしいことはありません。今は真に奇跡と不思議の時代です。〇八年八月八日の集会とか、あるいは私たちの毎夜の集会で主がなさる御業のすばらしを目の当たりにするとき、主は私たちに、まだこれからもっとすばらしいことが起ることに期待せよと言われているようです。私たちは(リバイバルが)未だ生まれるのを見ていませんが、今経験していることは霊的な意味で、生まれる前に来る産みの苦しみの最後の陣痛です。それは単にモーニングスターとかレイクランドのアウトポアリングだけではなく、もっとずっと大きい、真のリバイバルがアメリカにやって来つつあるということです。

これはまさに終末の収穫の始まりであり、私たちがその中で用いられるためには、これから何が起ころうとしているのかが分かる明確な眺望図を持つ必要があります。今地上にいる神の民は、全員が達成すべき重要な召しを神から受けています。 それ故にアウトポアリングが始まった当初から私たちのミニストリーが目指した目標は、ここへ来る人々がここから帰ったとき、自分の家族、教会、地域社会の中に癒しや奇跡を解き放つことができるように整えることでした。

二〇〇八年八月八日のタッド・ベントレー のミニストリー

八月八日にタッド・ベントレーを迎えて集会を開くことを、私たちは大いに期待し待ち望みました。タッドは最近では他に例が無いほど教会を興奮させました。彼に対する評価は中間がなく最高か最悪かのどちらかでした。タッドが来るというニュースはただちに前代未聞の興奮(期待)と脅威を私たちに感じさせました。脅威を感じたことは、かえってタッドを呼ぶのが主の御こころであるという確信を私たちに与え、私たちはさらに励まされました。しかし、脅威は真剣に受け止めねばならないことなので、私たちは神の動きに備えるとともに、敵からの攻撃にも備えました。これは皆さんもすでに学ばれたことと思いますが、神の動きが大きければ大きいほど、通常、敵の攻撃も激しいのです。

食べ物の屋台や様々な展示のテント、本屋などが朝早くから準備されました。集会は午後五時からにもかかわらず、朝九時すぎには人々が集まり始め、正午にはかなりの人数となり、よい天気とお祭り気分を皆楽しんでいました。
 集会が始まると主の臨在が濃厚で、私たちの集会でよく起こることなのですが、多くの人が霊的目を開かれ、霊の領域のものが見えるようになりました。人々のエネルギーと情熱を見て、大変励まされました。座席は十分にあったのですが、何千人もの人が五時間の集会の間、興奮してずっと立ち続けていました。

タッドを私はもう何年にも亘って知っています。彼は私たちの集会のゲスト・スピーカーとして来てくれましたし、私も彼のカンファレンスで何回もメッセージをしました。しかし、彼はこの夜、私が知っている限りで最も油そそぎを受けていました。彼もこのように強い油注ぎを受けるのは久しぶりだと言っていました。彼のメッセージは油注がれ、また非常に深いものでした。癒しのミニストリーもパワフルであり、多くの人々(私たちが個人的に知っている人たちもいました)が癒されました。聖書で「著しいしるし」と呼んでいるような奇跡もありました。(使徒行伝4:16参照) 集会後、私たちのチームや私が話をした人全員が、彼らが期待した以上のことが起こったと感動していました。疑いもなく神はこの集会の上に、預言的なすばらしい微笑を与えてくださったのです。この集会のDVDは教会の古典となることでしょう。

タッド・ベントレーの個人的問題

タッドが個人的な危機に面していたことを、今回彼と会う前日まで私は知りませんでした。水曜日の夜、彼が到着してすぐ、彼は自分の個人的な問題、特に最近妻と別居したことについて話がしたいと申し出ました。 タッドの話し方は自分を正当化しようとするものではなく、私にすべてを話して、翌日の集会で彼が話すのをキャンセルした方がいいならば、そうして欲しいということでした。私は彼のこの態度を心からうれしく思いました。
私は今でも彼らの別居の全貌を知らないのですが、彼が不倫を犯したのか、あるいは彼が誰か別の女性に愛情を感じているので問題を起したのかということは訊ねました。彼は不倫を犯したことはないこと、また、「他の女性」も存在しないと言いました。タッドのミニストリーのリーダーたちとも私は話したのですが、彼らもタッドの結婚の問題を非常に悲しんではいましたが、タッドが今までに不道徳な関係を持ったことはないことを確証してくれました。

タッド夫妻の夫婦関係に問題があることは、この数年多くの者が知るところでした。どちらかを責めるというほど詳しい事情は知らないのですが、私はタッドという人間をかなりよく知っております。彼のような人と結婚しているというのは、譬えてみれば、ハリケーンと鎖でつながれているようなものに違いありません。タッドに比べれば、あの激しいマイク・ビクルでもおっとりしているように見えます。タッドは使徒ペテロに非常に似ていると思います。ペテロの気性は彼の信仰を著しいものにしましたが、それと同時に大きな失敗をも犯させました。タッドはこれからの時代に台頭してこようとしている「激しい世代」の最も極端な表れです。

好むと好まざるとにかかわらず、霊的に最高の功績を挙げる人というのは、往々にしてこのような性格を持つものであり、それゆえに大きな失敗をも犯してしまいます。ですからタッドに問題があることを聞いても、私は少しも驚きませんでした。それ以後もう少し詳しい事情を知りましたが、それでも私はショックを受けていません。勿論それは無視できない問題であり、悔い改めと方向転換によって解決せねばならないことです。私たちは皆、彼のために勝利とブレークスルーを望んで祈っていますが、多くの場合、そのためには本人と同じ気性を持つ人々の助けが必要です。ペテロがイエスはキリストであるという最高の啓示を受けたとき、聖書の中で最大の賞賛を主はペテロに与え、御国のかぎを渡されました。しかし、その後に主はペテロをサタンと呼ばれ、聖書の中の最大の叱責を与えねばなりませんでした。(マタイ16:18-23)
しかし、主はペテロから御国のかぎを取り上げることはしませんでした。それは後にペテロが主を否んだときも、またもっと後にパウロが公にペテロを叱責したとき(ガラテヤ2:11-15参照)にさえ、そうされませんでした。御国への霊的ドアを開けるかぎを受けるような(偉大な)人の多くは、大きな失敗をもしてしまい易い人のようです。このタイプの人は何事も小さくはできないのです。彼らは大勝利を収めると同時に敗北もまた大きいのです。

数ヶ月前に私がレイクランドを訪れたとき、タッドが妻との関係を修復するために一生懸命努力していることを聞きました。しかし6月に彼女はタッドから去り、今は連絡をとることも拒絶しています。 彼女と会うことさえはっきりと拒絶されて、タッドは結婚の回復の希望を失っています。明らかに彼はフラストレイトしていて、長年にわたる非常につらい状況をどうにか変えたいと願っています。

今のアメリカ社会は半数の人が離婚を経験しています。又、それ以上多くの人たちが、自分の親が離婚したときに多くの問題や苦しみを経験したために、結婚しないでいます。離婚が起こったときの一番の犠牲者は常に子供たちです。家族の崩壊は現代の大きな悲劇であり、早急に対処すべきものです。ですからタッドの結婚の問題を大事件として扱いたい人がいることは理解できます。確かにそうなのです。
けれども、離婚経験者はミニストリーや教会のリーダーをする資格がなくなるのでしょうか。それを理由として彼らをミニストリーやリーダーになる失格者とするならば、神をも失格者にすることになります。エレミヤ書三章に、神がイスラエルに離婚状を渡したと書かれています。神も離婚されたのです。私たちの教会の中で半数近くの人が離婚を経験しています。又、多くのクリスチャンが離婚をしたために教会からとがめられていると感じて、教会から離れています。この問題は単にタッドのためだけではなく、教会のためにも私たちが考えねばならない課題です。

神が離婚されたとき、それは神の落ち度でしたか。 勿論違います!神はもっとも完全な夫でした。しかし、神の妻はわがままで強情であり、神はついに見放したのです。聖書を読んでみてください。そう書いてあります。神でさえ我慢する限界があり、それは当然なのです。離婚が正当である場合があるのです。けれども、神はご自身が離婚を経験された故に、離婚を心から憎まれるのであると私は思うのです。離婚は常に悲劇です。そしてほとんどの場合、親よりも子供にとって最も悲惨です。

私がこう言うのは、タッドは正当だと言いたいからでもなく、又糾弾するためでもありません。現時点では、私は誰かを正当化したり糾弾するだけの情報を持っていません。不正の裁判官は(その多くは審判を早急に下そうとする者ですが)聖書の中で厳しくとがめられています。誰かが結論を急いで出してしまうという間違いを犯すのを食い止めるために、私はこの文を書いています。今、主にある私たちの一人の兄弟、一人の姉妹、彼らの子供たち、そして一つのミニストリーが傷つき苦しんでいるのです。タッドが病気の人や苦しんでいる人たちのためにミニストリーを続行することを私は大変感謝していますが、彼と彼の家族、そしてミニストリーこそが、今癒しを必要としているのです。他の何よりも一番彼らを助け、またキリストのからだなる教会を助けるものは、今の状況の中で真のクリスチャンの愛が表されることであり、正しい裁判官が立ち上がることだと思います。それは教会の真の長老たちの役目だと信じます。

 現在のキリストのからだにとって、タッドのようなミニストリーを失うことは最大の悲劇の一つとなるでしょう。今まで何十年もなかったようなレベルで、彼は真のパワー・ミニストリーによって地を勝ち取ってきています。タッドを失い、彼のフレッシュ・ファイヤー・ミニストリーを失うことは、キリストのからだにとって大きな敗北となることでしょう。勿論、私たちは生き残りますし最終的には勝利しますが、この敗北に支払う代価は大変大きいでしょう。
それでは今、私たちはどうすればいいのでしょうか。 まず、何よりも「愛は決して滅びない」ことをしっかりと心に留めねばなりません。(1コリント13:8)主ならどのように対応されるでしょうか。 どうすれば私たちはこの状況を、主の目を通して見ることができるでしょうか。 それは主がすでに示してくださっています。第二コリント5:14でパウロは「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」と言っています。もしキリストの愛によって私たちが取り囲まれ、コントロールされているのであれば、私たちはどうすればいいのでしょうか。 人類が罪に堕ちたとき、主は私たちを批判せず、ゴシップもせず、非難もしませんでした。主は私たちのためにご自分の命を与えてくださいました。 

私たち教会が人を贖い回復させることを学ばないならば、この世の人たちは贖いと回復の福音を決して信じようとはしないでしょう。最悪の事態の筋書きを考えてみましょう。タッドがひどい罪を犯して、それが別居の原因になったと仮定しましょう。そのとき私たちはどのように対応すればいいのでしょうか。ガラテヤ6:1で次のように語られています。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせない。」
つまり、ある者が「あやまちに陥ったら」なら、「御霊の人」はその人を正しい道に立ち返らせ回復させねばならないのです。真に霊的な人は、すべての状況において「 贖いと回復」を目標にして対応せねばなりません。それは単に赦すというだけではなく、以前その人がいた場所にまで立ち返らせるということです。次の節にはこうあります。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラテヤ6:2)
今は成熟したクリスチャンの愛を教会が示すよい機会です。それは妥協することではなく、こういった問題に対して教会が今まで取ってきたのとは逆の態度で対応するということです。もし憐みを受けたいならば、機会がある度に憐みを蒔くことを学ぶ必要があります。今がそのチャンスです!

レイクランド・アウトポアリングはこれからどうなるのでしょうか。 今のところ、このまま継続され、力は強まる可能性があります。レイクランドに泉が湧き出したのですから、それを塞ぐ必要はありません。
一方、モーニングスター・ミニストリーはどうでしょうか。 私たちは八月八日に新しい召命を受け、より高く、より深く、より遠くまで進もうとしています。私たちのミニストリーが創造された目的であるものを、もうすぐ産み出そうとしているところです。それは九月二十一日ごろから始まると私たちは信じています。二〇〇八年八月八日という日が主から示されたのと同じように、この九月二一日も主から与えられました。そしてこの日がWhiteDove Ministriesと共同で「父を敬うカンファレンス」を開催した日からちょうど六ヶ月目に当たることは、決して偶然ではないのです。(終わり) 


【訳者注:以下は上記題名で八月十八日にモーニングスターから出された記事を要約したものです。従って全文ではないことをお断りしておきます。】

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by walkwithgod | 2008-09-02 05:46 | 坂達也からの今月のメッセージ

トッド・ベントリーへの批判噴出に対して思う  坂   達 也 9月2日 

トッド・ベントリーへの批判噴出に対して思う

                           坂   達 也         
                  
今トッドに対して喧々轟々の批判とかコメントが噴出している。トッドが奥さんと別居したと言う公式声明文の外に「既に離婚の手続きを始めた」と言う人もある。実は私も本当のところはよく分からない。その点、私は基本的にリック・ジョイナーの考え方に同感である。(ジョイナーの別文「現在のリバイバルの歴史と将来 パート8」参照) トッドは今総てのミニストリーから離れ、謹慎中の身であるが、自分の「間違い・至らなさ」を充分認めていると言う。
こう言う事の成り行きの後は、往々にして極端な批判に傾く懸念があるので、そのバランスを取る意味で、私は少しばかりトッドを弁護してみることにした。同時にトッドを批判する人に「気をつけてものを言われよ」と重々に警告したいのである。

第一は、神が最後に「ヨルダン川を渡らせる」人たちは若者であることを思い出していただきたい。ボブ・ジョーンズとトッドは二五歳から四0歳を「その若者たち」としたが、この年齢の範囲をとやかく言うのは別にして、少なくとも三二歳のトッドは「ヨルダンを渡る」年齢に属する人で、そのリーダー格の一人として神が立てられた若者なのだ。
一方批判する人たちのほとんどが四〇歳以上の「年寄り」であることに私は気がついた。その点私は、今回のことを通して両方の年代層が学ぶように、神は敢えてトッドがこうなることを許されたように思うのである。それは、若者に対しての警告であると共に、年寄りに対してはもっと厳しい警告を発せられたような気がする。年寄りは放っておいても「小言こうべい」になりがちで、年寄りに若者のあらが目立つのは当たり前である。それだけに年寄りは、言いたいことを我慢し、そのエネルギーを若者を援護し建て上げる方に使って行かねばならない。そうしない年寄りは皆ヨルダンを渡れないと危惧する。その昔年寄りの中でヨルダンを渡ったのはヨシュアとカレブ、僅か二人だけであったことを今一度肝に銘じるべきではなかろうか。今回神からテストを受けているのは、実は年寄りたちであるように私は思う。

第二に、聖書には欠点のない人はほとんど出て来ないことを指摘したい。中でも神が最も愛する人間の一人はヤコブであったことを思い出していただきたい。そのヤコブは双子の兄を押しのけ、母親とぐるになって、親父をたぶらかせて長子の権利と祝福をうばい取った男である。まさにヤコブと言う名の通り「策略で人を押しのける人」であったのだ。もし彼が今の世に生きていたら、人々は何と彼を批判するか、私は考えただけで身震いがする。そのヤコブの良さは、どんなことをしてでも神の祝福を得たいと言う神への愛と情熱に燃えた男であったことだ。ジョイナーはトッドをペテロに似ていると言ったが、私は、トッドはヤコブにも似ていると思う。
しかし策謀家のヤコブも自分の名前と性格がいやで変えてもらいたかったに違いない。神の人に夜通し、しゃにむにしがみついて祝福を受けるまで離さなかった。そしてついに「神と戦って勝ち」イスラエルと言う名を得た。神はこう言う激しい男、しゃにむに神を愛する熱血漢を愛されるのだ。私は今回、自分のことを考えてみた。私の様に欠点だらけの人間ですら哀れんで愛して下さる神なのだから、その神が、少々欠点があっても神を求めて止まない、神を人一倍愛する熱血漢のトッドを愛して用いられない訳がないと思った次第である。私にとってトッドの最大の良さとは、彼が神の御声を聞きたくて常に神に飢え乾いて求めている人であることだ。

第三に、リバイバルとか癒し、聖霊のムーブメントはあくまでも神がなさる業であって、今回においてもトッドを中心にして聖霊のアウトポアリングを起しておられるのは誰でもない、神ご自身であられるのだ。それなら、神が起用している人を下手に批判することは、神を批判することになりかねないことに充分気をつけていただきたいのである。

最後に触れたいのは六月二三日に行われた使徒的アラインメント(一致協力することに同意する)の式についてである。この式はピーター・ワグナーが司会して、多くの使徒と言われる人たちが集まった。その中から特にチェ・アン、ビル・ジョンソン、ジョン・アーノットの三人が選ばれ、トッドがこの三人に使徒的にアラインされた。つまり三人はトッドの後見人・監督官になったのである。そして、彼らがタッドをレイクランド・アウトポアリングを導く伝道者として任命した。
私はこの三人が若いトッドの監督として選ばれたのであるから、今こそその義務と責任を誠意と愛をもってとことん果たしてもらいたいのである。その他に、ボブ・ジョーンズ、リック・ジョイナーがついているので、彼らが父親のような愛をもってトッドを指導することに期待したい。神はトッドにそれが必要であることを初めから見越してこのような神の長老たち(エルダー)を用意しておられるのだから、総て神の御手の中にあるのだ。安心して彼らに任せたい。愛と祈りをもって彼の夫婦関係の回復と個人的成熟、そして、よりすばらしいミニストリーへの復帰を、私も心から願って止まない。(終わり)

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by walkwithgod | 2008-09-02 04:45 | 坂達也からの今月のメッセージ

終末の大リバイバル時代の幕開け   坂 達也  9月2日

終末の大リバイバル時代の幕開け

【この記事はハーザー誌10月号のために書いた原稿です。】
         
              坂   達  也
 
四ヶ月余り続いたタッド・ベントレーによるレイクランドのミニストリーが八月六日を以って事実上終了した。と言ってもこれでレイクランドのアウトポアリング・ミニストリー、あるいはベントレーの癒しのリバイバルが終わった訳ではない。むしろ、新しい展開へと発展的に移行(トランジッション)したのだ。ベントレーはレイクランドのミニストリーを最初に彼を招いた発祥の教会イグナイテッド・チャーチ(Steven Strader牧師)に返し、今後はこの教会によってミニストリーが継続される。一方、彼自身は「主の栄光の雲に導かれ、契約の箱と共に」世界に出て行き、アウトポアリングを終末の大リバイバルへと移行・推進するための火付け役(catalyst)となる。八月六日のイグナイテッド・チャーチの集会でその正式な引継ぎと新たなる出発が確認された。
 
振り返れば四ヶ月はあっという間に過ぎた。この間、お通夜中にお棺から起き上がった人も含めて三五人の死人がよみがえり、不要になった車椅子が数日間で五十台ステージに並んだ。少なくとも癒しと言う点では使徒行伝を凌駕するのは今や時間の問題である。事実、三五人の死人が生き返ったのは、多くの場合トッドが個人的に祈ったからではなく、聖霊の油注ぎが分与され、主の栄光の臨在がその場所の霊的空気を圧倒的に変えられたから起ったのだ。トラックで集会場の前を通っただけで癒されたとも聞く。その意味では使徒行伝5:15にあるペテロの通る影で癒されたことに優るとも劣らない。

しかしそれ以上に私が評価したいのは、ベントレーの過激的とも言うべき信仰が人々を聖霊に目覚めさせ、噴出(アウトポアリング)させ始めたことだ。今や人々は貪欲に「主に飢え渇き」、主の臨在と栄光を熱烈に求め始めた。「しみもしわもない花嫁」にするために主がクリスチャンの「霊的成熟」のプロセスに火を付けられたと言うべきであろうか。ついに教会に大覚醒が起る前触れである。
特筆すべきことは、レイクランドのミニストリーは夜の集会だけではない。日中に連日ハーベスター(収穫のための働き人)を養成するクラスが持たれ、ここから既に一万二千人が誕生したと言う。油注ぎは伝染し、人から人へと分与されて行く。これが今回のアウトポアリングの最大の特徴であろう。
加えて、メディアにもリバイバルが起っている。テレビとかコンピューターの画面から聖霊の分与が十分受けられることが分かって、メディヤによる伝達技術は、単にフロリダからの実況放送だけではなく、ビデオとかDVDの再生技術を通して人々は世界のどこにいても、好きな時間にいつでも、しかも過去のどの集会にでも、ボタン一つで自由自在に出入り出来るのだから驚嘆に値する。これによって今や同じ放送を世界中で何百万、何千万の人が見たり聴いたり出来る時代に入ったのだ。時間と空間を越えた「偏在」の神は、まさに聖霊による前代未聞の「世界伝道」を開始されたと言って過言ではない。

ベントレーこの四ヶ月で自分の人生も、ミニストリーも、そして世界も変わったと述懐する。それは大袈裟ではない。主のご計画はあまりにも大きく、自分一人でやれることではないと告白した。正直なところ短時間でこれだけのことが起ったのであるから、傍からの喧々轟々たる批判やマネージメントの混乱を招いても全く不思議はない。彼は「代価は支払わねばならない。」と言った。彼は、その代価とは多くの人の祈りと協力であると指摘したが、それ以上に彼自身が相当な代価を払って来ているのだ。予想も出来なかったこの激動の四ヶ月、その大きなプレッシャーの下で耐えて来た彼は、今再び夫婦関係が崩壊し別居生活に入ったと報道された。その後八月一五日に、ベントレーはスタッフの一人の女性と「感情的なレベルで不健康な関係に入っていた」(肉体関係があったとは書かれていない)ことが分かり、しばらく一切のミニストリーから退き、個人的なカンセリングを受けることに同意したと発表された。これは彼の所属するフレッシュ・ファイヤー・ミニストリーからの緊急な祈りの要請として発表されたものである。〈これについての判断はリック・ジョイナーからのメッセージを参照願いたい。〉
ベントレーは今サタンからの攻撃を一身に受けている。これからその激しさが十倍になることを覚悟していると言う。それにつけても自分の領域を脅かす者に対するサタンの攻撃は激しい。アメリカで最も信頼できる預言者の一人ボブ・ジョーンズが三三年前に、堕胎とホモセクシャルを容認するアメリカ社会の傾向に対して厳しい警告を発した時、サタンが現われ、彼がこれ以上警告を続けるなら彼を殺すと脅した。事実、彼は「殺され」臨死の体験をして天国に行った。主は敢えてサタンの攻撃を許されるのだ。何故なら、その人が試練に屈しない時にヨブの祝福を与えることが出来るからである。
 
モーニングスターでの集会
 
こうしてレイクランドを離れ、グローバルなミニストリーの途についたベントレーの最初の訪問地は、計らずもリック・ジョイナーのモーニングスター・ミニストリーの本拠地、フォートミルであった。私はここに神のなさる業の深い神秘性を感じてならない。この場所はその昔80年代に一世を風靡したジム&タミー・ベーカーのPTLミニストリー(世界的クリスチャンTVミニストリー)が、2400エーカーの広大な土地を開発して一大クリスチャン観光地を作り上げたヘリテージUSAのあった処である。PTLは、ピーク時にディズニーランドに次ぐ年間訪問客数を誇った、教会史上に残る画期的な事業であった。しかしこの事業は89年にあえなく崩壊し、その後民間企業による各種の再開発が試みられたが総て失敗に終わり、98年以降は全くの廃墟となっていた。しかし神はご計画を持っておられたのだ。この廃墟へ、直ぐ近くに本拠地を持つモーニングスターを導いた。彼らは2004年9月に、廃屋となっていたホテル等の施設と54エーカーを購入し、500室のホテルとカンファレンス施設を改装してミニストリーを開始した。そして引き続き残りの部分の開発途上にある。私は、神が初めからヘリテージをモーニングスターのために用意されていたと思えてならない。このフォートミルと言う町は南北カロライナ州の州境にあり、近くにシャーロット市がある。この地区にリバイバルが起ると預言されてから半世紀になる。ここで過去十二年間ジョイナーのグループはリバイバルを祈り続け、波状的に訪れる産みの苦しみを経験して来た。そして4月22日にレイクランドを訪れた二人の高校生が持ち帰った火種によって爆発的に燃え上ったのだ。その後に起っていることは、ハイライトのテープを見る限りまさにリバイバルである。 私は、モーニングスターに今起っていることからはレイクランドにない厚みを感じる。長年の祈りと独自の使徒的・預言的ミニストリーで培われた努力が基盤にあったからであろうか。そこに火付け役のベントレーが訪れたのだから、この〇八年八月八日の集会は教会史上記念すべき日となった。モーニングスターでは、この日のために四〇日間の断食をした。

ジョイナーの挨拶で始まった集会の冒頭で、ベントレーはリバイバルと契約の箱はいよいよここから世界に向かって出て行くと大声で宣言した。会場には興奮がみなぎった。八と言う数字は「新しい始まり」を意味する。彼は前日に御使いの訪れを受け、この日が王に授ける新しい油を注ぐ特別の日となると告げられていた。そこで彼はイザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」を引用し、この日こそが、聖霊の二倍の分与を受ける歴史的な日であると語った。この二倍の油注ぎを受けることによって、総てのくびき(束縛)が打ち破られ、解き放たれることが宣告された。「今日集まった総ての人が、今日から二倍の油注ぎのマントルを着て、神から約束されている二倍の約束、二倍の恵み、二倍の力を受けよ」と彼は叫んだ。

ボブ・ジョーンズ

 次に、ボブ・ジョーンズが立って、主から受けた預言として新種類の働き人「New Breed」が起されることを紹介した。彼によれば、今までのリバイバルは完全に成熟していない人たちが携わったのでリバイバルは止んだ。しかし、これから起るリバイバルはパウロの祈り「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(ガラテヤ4:19)が成就し、特に二五才から四十歳までの新しい世代の若者たちが起される。この人たちは、聖霊に導かれ、特別の油注ぎを受けながら「神の性質」に成熟する人たちなので、リバイバルは後退することがない。この若者たちはハーベスターとして育ち、世界に出て行って最後の大収穫の働き手となると説明した。一方年配者はヨシュアの役目を受け持ち、この新しい世代の前に立つのではなくて、後ろに立って援護する役割があると語った。この後、これらの年代を代表する一五人の若者たちがステージに上げられ、ベントレーとジョーンズから按手を受けた。そして、ジョーンズは、自分が三三年前に天国に行った時の話(前述)に触れた。天国に行った時、彼はもはや地上に帰りたくはなかったが、主が終末に十億の魂を救う大リバイバルを起されること、そして地上に帰れば彼をその中で用いると語られて帰って来たと言う。彼がサタンに殺されるのを主が許されたのは、このためであったように私は思う。ジョーンズ自身を霊的に成熟させるために彼に一度死を経験させ、天で近しく主とお会いする機会を与えたのだ。

 ここでボブ・ジョーンズと言う預言者をもう少し詳しく紹介したい。私は彼を批判する人たちがいることを知っているが、その理由は、彼と主がどれ程親密な関係にあるかをその人が理解出来ないからであるように思う。アブラハムとかモーセは神の友と呼ばれ、親しく神と会話を交わし、総て神の指示に従って行動したことは聖書を見ればよく分かる。しかし現代においても神の友と呼ばれるほど親しく神と会話している人はいない訳ではないのである。私はそのような人を少なくとも二人知っているが、それはジョーンズとグラハム・クックである。世の中にはかなり正確に主からの預言を受ける預言者は多数いても、毎日親友のように気軽に主が声を掛けてくれる人はそんなにいない。その点私は、ジョーンズをかしこまって預言者と呼ぶよりも「主の友人」と呼ぶ方がぴったりする人であると思う。今神は彼のように神に親しい人を求めておられる。何故ならこれからのハーべスターは主の花嫁であり、花嫁とは皆少なくとも彼のように神と親しくなることが要求されているからだ。そのジョーンズがしきりに口にするのが「成熟」と言う言葉である。以降で少しそのことを私なりに説明させていただきたい。

私たちが成熟するとは、「 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する…」(エペソ4:13)と言うことである。しかし、この御言葉を真に理解している人は案外少ない。この御言葉を意訳すれば「ついに、私たちがみな、イエスの持つ信仰と知識のレベルに達して一致結合し、完全に成熟してキリストと同じ『完全な人』になるため…」となる。ところが「私たちは完全な人間にはなれない。キリストと同じになるなんて無理であり、第一不遜な考えだ。」と根っからネガティブに教わって来たので、聖書で神が最終的に何を人間に期待しているかが見えなくなっているのである。
 ここで「満ち満ちた」と言う形容詞が出てくるが、英語ではFULLNESSで、はっきりしている。しかし日本語は曖昧である。例えば「私、もうお腹一杯」と言う時に、その一杯さ加減は主観的で、人によって違う曖昧さが残るのと同じで「満ち満ちた」にも曖昧さを私は感じる。その替りにガソリンスタンド用語の「満タン」と言えばはっきりする。つまり完全な人になるとは「キリストを満タンにする」ことであり、実は私たちクリスチャンは既に、キリストが聖霊として 満タン状態で内住しているのである。私たちは信じて聖霊を受けた時、その一部だけを受けて、後足りないところを後で徐々に補充するのではないのだ。問題はその満タンの聖霊をフルに活用し「力」に変えていないことにある。ベントレーとかジョーンズが「もっと聖霊を求めよ。油注ぎの分与を受けよ。神の臨在の中で生きよ。」としきりに叫ぶのは、私たちに内住する聖霊が少し足らないからではない。私たちの内でフル活動をしていない聖霊の力を呼び起こし「活性化させる(英語でactivate)」ために、あるいは「火付け、触媒(catalyst)」の働きを受けるための聖霊の油注ぎを熱心に求めるようにと勧めているのである。それは発火を促すためであると言ってもよい。ベントレーから「油を分与され」、それにあなた自身が信仰のマッチで火を付ければ、あなたの中にある満タンの全聖霊が燃え上がって力となってくれるのである。又、聖霊の濃い臨在の中に私たちが入れば、その場所の霊的空気が変わる。その意味は、主の濃厚な臨在の中に入ると、あなたの内なる聖霊が燃え上がる発火点はうんと低くなるのである。だから放っておいても火が付き、勝手に癒しが起る。聖霊のアウトポアリングとは内なる聖霊を溢れ出さすことなのだ。つまり、私たちの内には、総ての病気を癒し超自然の奇跡を起す力が既に内在しているのだから、その力を引き出せばよい。そうすればクリスチャンは誰でもイエスがしたと同じ位の癒しと奇跡を起せるのである。

さて、ジョーンズは、毎年ポール・キース・デイビスと共同で、次の年がどのような年になるかを「Shepherd’s Rod」と言う小冊子で発表して来ており、私は今回念のために約一年前に彼が2008年について何を語っていたかをチェックしてみた。それによれば、その当時主は彼に「今のシーズンは先ずハーべスターをハーベストすることにあり、そのために主は『過激的な信仰と情熱を持つ若者たち』を今年動員する」と語られたと言う。そしてジョーンズが見たビジョンは、砂漠地帯を走る狭くて真っ直ぐな道があり、その上にはきれいな多彩色のカーペットが敷かれていた。このカーペットは神との契約を表し、この道を歩く限り必要なものの総てが神によって具えられていると言う。その道はヨルダン川岸まで続き、その川を渡るための道である。もし人がこの狭い道から外れれば、その外は砂漠の岩だらけの道である。私たちが道に留まって進むためには絶対に聖霊の導きが必要であることが示され、そのために聖霊のアウトポアリング(この言葉がフロリダより前に使われていたのに驚いた)によって神が導く御声がよく聞こえるようになる、それはイザヤ30:20-21で「あなたの目はあなたの教師(聖霊)を見続けよう。…あなたの耳はうしろから、『これが道だ。これに歩め。』という言葉を聞く。」であった。又、イザヤ 35:7-8「その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者はそこを通れない。」が示され、その道沿いには「霊的成熟」が具えられているのが見えたと彼は言う。それに加えて、多彩色のカーペットの出発地点に色々な道具が山積みされているのが見えた。それが何かと尋ねると、主(御使い)は「今まで使って来た霊的な道具(種々の賜物)は古くなって、これからは使い物にならないから出発の前に捨てなさい。これから来る新しい未曾有のリバイバルでは忠実に主の御声に従うことだけが唯一必要な道具である」と説明されたと言う。
そして、ジョーンズの奥さんがその前日に夢を見たことが書かれてあった。その夢では彼女は旅行に出掛けるところであり、目的地はヨルダン川であると言われ、渡された列車の切符を見ると888と言う数字が見えたと言う。その数字の解釈は2008年8月8日が「出発の日」ではないかと書かれてあった。その通り8月8日に旅立つ若者の按手式が行われたのだから私は少なからず吃驚した。

ベントレーの見たビジョン

若者の按手が終わった後、ベントレーはレイクランドが始まった二週間後に与えられたと言うオープン・ビジョンを披露した。それは主がこれから起す終末のリバイバルの進行過程を説明したものであった。そこには階段が全部で十二段あり、まず三段上って最初のフロアーがある。次に三段上って第二のフロアーがあり、これを繰り返して、全部で四つのフロアーが見えた。最初の三つのフロアーは外庭、聖所、至聖所に例えられた。第一のフロアーでは自分の罪の生活に気がつき、恥じ、罪の責め、汚れを悔い改め、洗いたいと願う人が多くいた。第二のフロアーは供えのパン、純金の燭台等があるところで、多くのクリスチャンがそこで祈りと賛美と礼拝を行っていた。第三のフロアーは至聖所で、そこは栄光に満ち、神の畏れと臨在が濃厚であった。人々は何かを祈るのではなく、ただ神を畏敬し平伏し臨在に浸った。フロアー毎に霊的な成熟度合い、リバイバルの進行状態、栄光と臨在の度合いが増し加わることが示されていた。神の栄光と臨在への飢え渇きも各階毎に大きくなり、それにつれて栄光と臨在が増した。又、各段階で癒しの度合いが違っていた。最初のフロアーは一般的な癒しが行われていたが、第二のフロアーでは、顕著な、驚くべき奇跡(使徒19:11)とか使徒五章の癒しが行われ、第三のフロアーでは死人がよみがえり、そこは聖さが満ちていて人格とか性質が取り扱われていた。 
しかし、この三つのフロアーの上にもう一つのフロアーがあった。そこにはロマ書八章の世界があった。被造物が総ての滅びの束縛から解放され、神の息子・娘たちが真の栄光と自由を得て、圧倒的な勝利者となる「よみがえりの命」で生きる場所であった。そこでは、もはや死人を生き返らすと言うような業は行われず、人々は「神の性質」を完全に着て、しみもしわもない完成された「花嫁」「キリストのからだ」となった。油注ぎも個人だけでなく、コミュニティー全体に注がれ、注がれたコミュニティーは五〇キロ四方毎に変えられていた。 主はベントレーを通して、これから来る最後の大リバイバルで何が取り扱われ、教会がどう変らねばならないかを示されたのであった。 

ここで最近のリック・ジョイナーのリバイバルに対するコメントを付記してみたい。彼は終末の大リバイバルをロケットの発射に例えた。ロケットを宇宙の最終軌道上に打ち上げるためには、第一段階に達するためのブースターが完全に燃焼されなければならず、(完全燃焼せずに次の段階に移れば力不足でロケットは最終軌道に乗らない)それが燃え切った時点で次のロケットが点火され、それが完全に燃焼されて第三段階に到達する。ジョイナーも第一の段階はハーべスターの召集・養成であると言い、第二段階でその養成されたハーべスターがものすごい魂のハーベストを行うと預言する。第三の段階では「社会のトランスフォーメーション」が起る。そして、最終的に王国の完成と言う永遠の軌道に乗せるのがその終末目的であると言う点でベントレー、ジョーンズと一致している。

さて、最後にこの八月八日の集会に関して私自身の感想を述べさせていただきたい。私は最初にこの日の実況放送を三時間余り、ぶっ通しでGODTVの前に釘づけになって見た時、言い表すことが出来ない感動とショックを感じ、しばらくは何も手が付けられなかった。その後の二日間は何も書けなかった。勿論それは、圧倒的な臨在があったからこそではあるが、油注ぎとか濃厚な臨在と言ってしまう以上のものを感じたのである。今までは聖書を書かれたものとして受け取っていたに過ぎなかったものが、生まれて初めて目の前で聖書を生きて動くものとして見たような気がした。自分がその中に生かされ、参加している興奮と戦慄を覚えた。終末に生きる私たちは、これから聖書に書かれている総てのことを主と共に、主に従って終結・完成させる仕事に参加するのだ。これが興奮しないではおられないのである。二〇〇八年八月八日から世界の霊的空気が変わり、新しい段階に入ったことを私ははっきり感じる。(終わり)



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by walkwithgod | 2008-09-02 04:36 | 坂達也からの今月のメッセージ