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愛を表す  グラハム・クック  2010年7月28日

愛を表す

グラハム・クック



イエス・キリストの福音がギリシャの人々に届いたとき、彼らには「無条件の愛」を表す単語がありませんでした。神の愛の偉大さを十分に表す言葉がなかったのです。彼らは神の愛の持つ性質を定義できる言葉を創らねばなりませんでした。それが「アガペ」という言葉です。「愛」に関してもっとも重要なことは、私たちが「愛」をどのように用いるかということです。

「アガペ」とは見返りを期待しない無私の愛です。愛する故に愛するのです。憎しみが確実に憎しみを生み出すのと同じように、愛は愛を生み出します。愛は他人に与えると増えていき、与えないでいると減っていきます。アガペの愛は 神が、神というお方である故に、 無条件で私たちに与えてくださるものです。神はご自分の敵をも100%愛されます。その究極の証拠はヨハネ3:16及びエペソ2:1−10に書かれています。

自分というものを見失ってしまい、それによって他人に対してどのように行動すればよいか分からなくなった人たちをも、私たちは愛します。自己中心な人、高慢な人、人を侮辱する人、欲張りな人、ケチな人、偏狭な人、人を赦さない人等です。愛はすべてを受け入れ、すべての人の心に触れることができます。 難しい人々は、愛によって変えられるために愛を最も多く必要としますので、愛があるかないかを証明するもの、立証するものとなります。よい人たちを愛するのはよいことです。けれども私たちが愛し難い人を愛するとき、 それは私たちが「自分は神に愛されている 」こと(神に愛されている者であること)をよく知っている確実な証拠となります。

愛とは、御父が自分を愛していてくださることを内に感じながら、他の人々を御父が見るように見ることです。ある種の人々を愛するには、とても忍耐が必要です。
私たちは自分が持っている偏見を乗り越えるためには、あるいは、神に自分の心をいつも開いている状態になるためには時間が必要です。そして、どんなに愛そうとしてもどうしても神経にさわってしょうがない人々をどう愛するかにおいて、人生をかける一大決心をするに至るまでには、私たちには時間が必要です。往々にしてクリスチャンは忍耐強く深く考えることが苦手なようです。愛についての説教はよくしますが、実際の生活はこの世的な愛のレベルにとどまっていることが多いのです。

私たちは神の愛で人々を解放し自由にするべきなのに、かえって怒ったり裁いたり責めたりという自分の肉的な習性によって、彼らを牢に閉じ込めてしまっています。愛は人々に代価を求めません。私たちは裁きjudgmentと正義justiceとを混同してしまっています。裁きjudgmentは責め、罰し、咎めます。正義justiceは誠実integrityと尊厳dignityを伴う義righteousnessであり、公正な取り扱い、差別しない公平さです。愛は、それを全く受けるに値しない人々にも益を与えるものです。

このような愛は決して弱々しいものではありません。力強いけれども柔和であり、優しいけれども揺るがないものであり、寛大で義しいものrighteousnessです。柔和さは弱さではなく、自制された強さ(力)です。愛は人々をそのままに放っておきません。愛は人生の軌道を変えます。 自分は無関係だとは言いません。アガペの愛は他の人を引き下ろすことは決してしません。かえって彼らの人生の質を高めることに力添えをすることです。
神が愛されるように私たちが愛するとき、私たちは神が造られた人間本来の真価(自分の真の身分・アイデンティティー)に最も近づきます。神の内に自分を発見するのです。私たちは愛を実践するときが常に一番自由であり、その反対に 罪悪感を与えて人々をその中に閉じ込めるとき、自分自身も一番縛られているのです。アガペの愛は自意識過剰ではなく、神経質ではなく、独善的ではありません。
私たちが真実に愛を実践するとき、それを他人から批判されることを予期せねばなりません。私たちがアガペの愛をもってこの世に神の臨在を顕している時には、その確実な証拠として、私たちが過度に霊的ぶる人や宗教的な人から誹謗されることによってそれが分かります。

私たちは人を愛している振りをすることは出来ません。それは実在しない非現実的なことです。しかし、神のご性質を人々対して実践する練習をすることはできます。そしてそうすることによって、私たちが変革されていくのです。アガペの愛を実践するということは、非常に意識的な選択です。単に即興的に行き当たりばったりですることはできないのです。それは意識的に計画されねばなりません。このような愛は単に感情ではなく決断的な意志による行動です。「自分がどう感じるか」とは関係なく、愛することを選ぶことです。今の自分がどのような者であるかの故に、またイエスにあってどのような者になりたいかの故に、私たちは愛するのです。

愛は実際に表わされるときに増えていき、表すことを抑えるときに減っていきます。愛とは、私たちをよく思ってくれる人が自分の前に立っているときに自然に起こる感情のことではありません。もし神がまず私たちを愛してくださったとしたら(第一ヨハネ4:19)私たちはアガペの愛を外にではなく自分の内に見つけねばなりません。愛は、御国と同じように、今すでに私たちの内にあるのです!それを信じて受け取り、その中で喜んでください。愛されているように愛してください。

愛を表現する一番の方法は実践することです。愛を与えることはイエスというお方を実際に表現していくことです。アガペの愛は何かを得るためにするのでもなく、自己中心でもありません。愛はそれを使うことによって必ず自分に戻ってきます。私たちはすでに今愛を持っているのですから、他人に与えてください! 誰かから愛をまずもらわなければ自分は愛を持っていないと考えること程、私たちを自己依存させ、自己憐憫に陥らせ、苦々しさを常に持ち、皮肉っぽくものを見て、感情的不具者にさせてしまうものはありません。


私たちは今ある自分からゆっくりとスタートせねばなりません。「自分のアイデンティティーにおいて、自分がどのような人間になりたいのか」を決めていく意識的な行動として愛を実践していくことが非常に大切です。愛は報酬を必要としません。貸し借りの勘定をしません。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えます。愛は、人から認められることを必要とせず、仰々しい言葉や約束、決意も求めません。自分が注目されることも求めません。神のみ翼の陰から愛します。静かに、誰にも知られず、密やかに。そのときあなたの隠れた愛の行為を見ておられる御父は、アガペの愛をあなたに何倍も与えてくださるでしょう。私たちが愛するとき、私たちは自分自身を祝福しているのです。ですからどうか、ただ実践してください。静かに、神のために!(終わり)


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by walkwithgod | 2010-07-28 07:50 | アメリカからのメッセージ

リーダーの出くわす不都合 キャサリン・ブラウン 7月20日

リーダーの出くわす不都合

キャサリン・ブラウン



人生は常に山あり谷ありだと言いますが、クリスチャンも人生の嵐から逃れることはできません。嵐の中でこそ、私たちはキリストの真実により頼むことを更に学ぶことができます。また嵐は、リーダーであることが「都合のよい楽なこと」であることはめったにないことを、もう一度教えてくれます。

私のリーダーとしての経験から学んだことは、リーダーであることは決してリボン飾りのついた素敵なプレゼントをもらうようなものではないことです。それは祝福された特権であると共に、しばしば非常な苦痛を与えるものです。喜びと共に悲しみの旅でもあります。往々にして孤独です。それは日常の生活から神との邂逅という未知の世界へと人を連れて行き、へりくだって神により頼みイエスの衣のふさにすがるという経験をさせます。
それは心もからだも感情も、そして霊的にも非常に過酷な任務です。しばしば、それはキリストとの深い交わりの場所に私たちを連れていき、神の弟子として訓練を受け続けることになります。それは自分に関しても、また人々をキリストと歩む改革的な信仰生活へと導くことにおいてもそうなのです。リーダーになるという恵みによって人々に仕えるのは慎ましい特権ですが、リーダーであることがいつも都合がよいとは私は決して言わないでしょう。

地域の外

私の家族に最近起こったことの 証しをさせてください。みなさんにとって励ましとなることを願いますが、それと共に聖書の真理に当てはまる比喩として役立つのではないかと思います。

子供たちをみんな学校に送りだしてから、私はミニストリーの合間にやっと時間をとって予約をしていた 美容院に出かけました。長い間美容院に行っていなかったので、髪をカットし染めてもらうのを楽しみにしていました。どういうわけか私の美容院は携帯電話の電波が届かないところにあり、そのお陰で二ヶ月に一度のこの時間は、いつもは誰にも邪魔されずに静かにゆっくりできる休息のオアシスなのですが、今回はちょっと違いました。

私が変な格好になったとき( 洋服を汚さないための黒いケープをつけ、髪には紫の漂白剤をべたべたつけられたとき)義姉が突然走り込んできて「ダニエルが学校から家に帰るようにいわれたの。今すぐ帰ってきて!」と叫びました。(ダニエルは私の二番目の息子です。)私があと30分は動けないと言うと、彼女は私の義母にダニエルを迎えに行ってもらうとぶつぶつ言いながら出ていきました。なにせ私の髪はその時化学物質で覆われていて、そのまま長く放っておけば髪が溶けてしまうかもしれなかったのですから!

ダニエルは2時間前に学校に行ったのですが、その時には 彼の身体に問題があるようには全然見えませんでしたので、一体何が起こったのか私には見当もつきませんでした。私は美容師に大丈夫だと安心させてから、静かに息子ダニエルのために祈り始めたのですが、その時は彼の病気がどれほど重大な状態になっていたかを知りませんでした。

しばらくすると、義母が真っ青な顔をして震えながら入ってきました。義母は 学校に車でダニエルを迎えにいったのですが、今、車の中にいるダニエルの手は麻痺し、しかも片目が見えなくなっていると言うのです。「私は椅子から飛び上がった」というのは非常に抑えた言い方です。最大の危機に取るべき行動、走るべき方向は、その嵐の目の中に走る込むことしかありません。ですから紫の髪と黒いケープのまま(このような時には他人がどう思うかは全くかまわないのです)美容院から飛び出してダニエルのところに飛んでいきました。彼は車の中で声を抑えて泣いていました。私はいとしい息子に手を置き、イエスの御名によって彼の目が癒され、頭痛が去り、右手の麻痺が癒されるようにと宣言しました。

神の力がすぐにダニエルの癒しに顕れはじめました。私はダニエルに髪の漂白剤を洗ったら直ぐに行くからと約束して、義母にダニエルをそこから直接医者に連れて行き、いきさつを話すようにと指示しました。私は夫に電話をして ダニエルと他の三人の子供たちのサポートが必要かもしれないから家に帰ってくるように頼みました。この出来事に私は衝撃を受けましたが、しかし心は落ち着いていました。それと同時にサタンに対する義憤が私のうちに涌き上がってきました。私は確固たる信仰をもって「サタン、主の御名によって命ずる、おまえが息子に触れることは絶対できない。」と声に出して宣言しました。

私は紫の漂白剤を洗い流してもらって、15分後には医者のところに着きました。驚いたことにダニエルが大変なことになるかもしれない状態であるにも拘わらず、彼はまだ医者に診てもらっていなかったのです。私は受付に行って礼儀正しく、いつダニエルが医者に診てもらえるかと尋ねました。受付の人はちょっと横柄な態度で、ダニエルが後どのくらい待たねばならないかわからないと答えました。この決まり文句のような返答は、その時の私のように緊急事態で思い詰めた親には満足できないものでした。私は一息ついてから受付の女性の目をじっと見て、低い決意を込めた声で「息子はいつ医者に診てもらえるんですか? 息子は突然原因不明の麻痺と目が見えなくなっているんです。」と言いました。すると彼女は医者を探しに行ってくれて、少ししてダニエルは医者に診てもらうことができました。

医者の診断では、ダニエルは重度の偏頭痛の発作に襲われているということでした。(彼にとっては初めてことでした)医者はむかつきを抑える薬を処方してくれて、家に帰って横になるようにと指示しました。もしまた発作が起こったならば、すぐ来るようにと言われました。私たちは家に 帰り、私は愛する16歳の息子をベッドに寝かせ、大丈夫だよと言ってもう一度彼のために祈りました。主人は会社に戻り、私は家族の人たちにダニエルはもう大丈夫だという電話をかける作業にかかりました。みなさんもご存知だと思いますが、悪いニュースは他のどんなニュースよりも家族に早く伝わるものです!私はいろいろと助けてくれたみんなに(美容師にも)お礼をいい、ダニエルはもう大丈夫で危機は過ぎたと知らせるのは大切だと思ったのです。

嵐の中にイエスと共にいる

さて、この髪の漂白剤にまつわる私の長ったらしい話が、リーダーの「 不都合 」と何か関係があるのでしょうか? 大ありなのです! まず、リーダーの介入を必要とする危機というものは、普通、とても都合の悪いときに起こることに気づかれていますか? 危機はあなたがまったく予期しないときに、最も不都合に起こります。私が携帯の電波が届かない場所にいたように、それは「 範囲の外」にリーダーがいる時に起こるのです。リーダーがいつもの環境、道具や手段、チームのメンバー等に手が届かない場所にいるときということです。困難な状況や不都合なタイミングの中で危機は起こるのです。

危機が起こったときは、油注がれたリーダーの強靭さと支えが必要です。このようなリーダーは神を信頼し、嵐の中でもキリストの強さによって立つことを求める人です。信頼できるリーダーとは、嵐の最中でもパニックに陥らないで、キリストの臨在の中に入る方法を知っており、 その事態に対する解決法を必ず与えて下さる神の真実さを信じて、祈りと大胆さをもって求め続けることができる人です。このようなリーダーは、恐れている人や痛みを感じている人たちを常に励まし安心させようとします。
リーダーとして私たちは、いつ嵐が起こり、それが自分の愛する者たちにどのような影響を与えるかをいつも前もって知ることはできません。しかし、私たちは神の力強さ、神の救いの力、人生のすべての危機に対する神の解決の故に、神により頼むことができるのです。信仰の祈りも又、人生の嵐の中でリーダーがするべき(そしてすべてのクリスチャンの)重要なことです。

イエスが示した模範

「そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、 『さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。』と言われた。それで弟子たちは舟を出した。 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹き下ろして来たので、弟子たちは水をかぶって 危険になった。そこで、彼らは近寄っていって『先生、先生。私たちは溺れて死にそうです!』と言った。

イエスは起き上がって、風と荒波をしかりつけられた。すると風も波もおさまり、なぎになった。イエスは彼らに『あなたがたの信仰はどこにあるのです。』と言われた。

弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」(ルカ8:22−25、又、マタイ8:23−27、マルコ6:47−52、ヨハネ6:16−21も参照してください。)

四つの福音書はすべて突然の嵐の中でキリストが眠っておられた事を記述しています。それぞれに人生の嵐の中で神が信頼に足る方であるといういくつかの真理を明らかにに示しています。ルカは突然起こった嵐の大きさを詳しく書き、弟子たちが小舟の上で大波をかぶって命を失うかもしれないという「非常に危険な状態」であったことを知らせています。

イエスはそれまでの過密なミニストリーで疲れきり、舟の上でぐっすり眠っておられました。口の中がカラカラ、身体は痛い、けれども心は主の素晴らしい愛で満たされて、何時間もミニストリーを続けた経験をあなたはお持ちでしょうか? 私にはそのような経験があり、その働きが終った後にはどのような眠りに落ちるのかをよく知っています。本当に深い眠りです。主はそのような深い安息をとっておられ、それは主にとって必要な「休息」の時間だったのです。
その時に激しい嵐が起こり弟子たちは震え上がりました。恐怖に怯えて、弟子たちは主ならどうすればよいかご存知だろうと期待して主を起こしました。危機が起こり、 自分たちは大丈夫だということを知る必要が弟子たちにはあったのです。主はご自分の必要を横において、今起こっている 問題に焦点を当てられました。

ルカは予期せぬ嵐の激しい攻撃の最中においてこそ必要な信仰をイエスの例を通して明らかにしています。

祈り「天の父よ、今イエスの御名により、すべてのクリスチャンのために、特に人々を助けたいと願っているリーダーたちのために、祈ります。彼らが面しているいかなる嵐に対しても、新しいレベルの信仰で応答するために、彼らがあなたの平安とあなたの力を知ることができますように。主よ、あなたのしもべたちに力を与え、彼らが聖なる大胆さで祈ることができ、あなたが彼らのためにあなたの力強い御手のわざを見ることができますように。厳しい状況の中で苦しんでいる人々を励まし、あなたの素晴らしい聖霊を彼らが置かれている状況の中に解き放ち、イエスの力強い御名において癒しと自由をもたらしてくださいますように。アーメン」(終わり)


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by walkwithgod | 2010-07-20 06:28 | アメリカからのメッセージ

聖さは輝く フランシス・フランジペン 7月15日

聖さは輝く

フランシス・フランジペン



クリスチャンの人生に真の聖さがあるとき、それは輝き出てその人の回りは明るくなります。赤ちゃんや幼児は神の臨在にとても近い存在なので、彼らの霊は純粋であり汚されていません。ですから彼らも同じ光を放っています。 彼らの心は透き通っていて偽りがないので、彼らから目に見える光が発せられているのです。そのような聖いランプの輝きを私たちが放つためには、 彼らと同じような透明さと偽りのない心を持つことが必要です。それは神の御国で混じりけのない黄金となる道です。

一つのものだけを見る目

キリストが私たちの内に入って来られた瞬間に、私たちは聖くされ、神のために聖別された者となります。この聖さは、神殿の器物が聖くされるのと同じ種類の聖化です。即ち、器物は主に仕えるために用いられるので聖いのです。器物そのものには何の徳もありません。器物の材質が変ったわけでもありません。キリスト教もその意味において、おおむね、聖いと言えます。
しかし、私たちが求めている聖さは、主のために取り分けられて完全に聖くなるということです。 私たちを通して、天の父なる神の臨在が 回りに映し出されるような聖さを求めているのです。神の御性質そのものと、神のいのちの豊かさを私たちは求めているのです。

真に聖くなるとは、私たちのうちに聖霊のいのちそのものを生み出すことを意味するので、 私たちは聖霊がどのような方であるのかを確実に知る必要があります。神の御霊は愛であって、宗教ではありません。神はいのちであって、形式ではありません。聖霊は私たちが単に異言で話したり、証しが出来るようにしてくださるだけではありません。御霊は私たちをイエスの臨在の中へと導いてくださるのです。私たちは聖さをその臨在の中で受け取るのです。即ち、イエス・キリストと一つになり、交わりを持つときに聖さを受けとうことが出来るのです。


又、私たちの求める聖さは、律法的な一連の規則でもありません。それはキリストご自身のいのちそのものです。聖霊は私たちのうちに働いて「もっと人を愛したい」という新たな願いを生み出すのではないのです。そうではなく、御霊はキリストご自身が持つ愛そのものを分与してくださるのです。 ただ単にイエスに対する自分の信仰を強くされるのではなく、主の持っておられる信仰を受け取って、 イエスが信じるように実際に信じ始めるのです。
私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神ご自身です。揺り動かされましょう。そして私たちが居心地のよい枝から振り落とされて、大いなる恐れと大いなる喜びをもって、深い礼拝と聖なる恐れをもって、ご自分の意志と目的をもって私たちを召してくださった神というリアルなお方に近づこうではありませんか。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか?」(第一コリント3:16)

神の御霊が私たちの内に住んでおられるのです。ですから、昔からされてきた「人とは何であるのか?」という質問を自分にしてみようではありませんか。私たちは自分が他人にどのように映るのかは知っています。しかし、もし神が本当に私たちのうちにおられるのならば、 天使や悪霊にはどのように見えるのでしょうか? 私たちは霊の世界でどのような者なのでしょうか。私たちの回りの輝きはどんなでしょうか。私たちは目に見えない世界にむかってどのような栄光を輝かせているのでしょう。「見てご覧なさい。気をつけて。神の子が歩いてきますよ!」と彼らは言っているのです。考えてみてください。始めに人間を神のイメージに造られた方、創造者の御霊があなたの中におられるのですよ、、、、まさに今。

聖さとは身体全体が明るいこと

しかしこれには限定があり、条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。あなたは光と闇とに、罪と義とに、自分と神とに兼ね仕えることはできません。あなたの内には光がありますが、闇もまたあります。私たちの世界は闇の世界です。私たちの先祖は闇の子供たちでした。私たちの肉的な思いは今も尚、闇が暗躍する舞台のままになっています。つねに選択をせまられる世界で、私たちは光を選ばねばなりません。成熟した光の子となるためには私たちは決して二心であってはならないとイエスが教えられた理由はここにあります。主は「からだのあかりは、あなたがたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と言われました。

もしあなたが心と思いをもって神にのみ焦点を当てているのならば、あなたのからだには光が満ち、神の栄光が完全にあなたのうちに顕れるのです。しかし、もしあなたが二心であるならば、もしあなたが罪深い、あるいは悪い考えを持っているならば、あなたの光はだんだん暗くなり、遂にはからだ全体が真っ暗になるのです。イエスは続けて「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。

もしあなたが救われたにも拘わらず、神を求めず、或いは神に従わないとしたら、あなたは闇の中にいるのです。「いつか、どうにか、自分はきっと良くなる」というような空しい希望で自分を慰めないでください。はっきりした決意で身を固めてください!もしもあなたの内の光が闇の中にあるならば、その闇はなんと恐ろしいことでしょうか!光の子よ、あなたは闇を憎まねばなりません!暗闇は地獄の実体であり、神のない世界なのです!

しかし、私たちは光に希望をおいているのであって、闇ではありません。あなたの足は義の道を歩んでいるのであり、その道はだんだんに明るく真昼のようになるのです。「もしあなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。(ルカ11:36)」という節は、 聖さが完成した時の姿をはっきり表しています。それは、ちょうどランプが明るく輝くように私たちの身体が栄光で輝いている姿です。なんという素晴らしい希望でしょうか。私たちが神の臨在によって全体が明るく輝き、私たちの内には「何の暗い部分もない」という姿です!

霊的に成熟した神の聖徒には、光と栄光に輝く衣が用意されています。それは山上の変貌の時のイエスの衣のようです。ただ永遠の世界のためだけのものではなく、この世で着る衣です。「曲がった邪悪の世代にあって」も「彼らの間で世の光として輝く」のです。(ピリピ2:14、15)

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)

この言葉は単なる比喩ではないのです! 神の栄光があなたの内に、あなたの回りにあるのです。それは霊的にリアルなことなのです。しかしあなたの中にまだある暗さはどうでしょうか。パウロは続けて言っています。
「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。、、、けれども明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされるものはみな、光だからです。」(エペソ5:11、13、14)

あなたの暗やみを明るみに出してください。それを擁護したり弁解したりせずに正直に告白してください。それを憎んでください。断ち切ってください。暗やみが暗やみの中に留まるかぎり、それはあなたを支配します。しかし光の中に出せば、それは光になります。あなたの密かな罪を大胆に神の恵みの御座に持っていき告白するならば、神はすべての悪からあなたをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)もしまた罪を犯したならば、もう一度悔い改めてください。何度でも、あなたの中の罪の性質が砕かれるまでそうするのです。

昔の探鉱者のように、 あなたのために取り分けられた混じりけのない黄金を守るために、 御国にあるあなたの土地のまわりに杭を打って確保してください。(黙示録3:18)そしてあなたが恵みの御座にじっと座り続けるならば、永遠な何かがあなたの中で輝き始めるのです。それは溶解炉の熱い石炭のようなものです。あなたが全能なる主と共に留まるとき、主の臨在の聖なる火は、あなたが持っている木や草やわらのようなものを燃え尽くしてくださいます。イエスが持っておられた力があなたの内に奥深くに宿るでしょう。あなたの金が精錬され、あなたの衣が光り、あなたの人生が聖くされるので、天使たちも驚嘆して立ちすくむでしょう。(終わり)

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by walkwithgod | 2010-07-15 06:05 | アメリカからのメッセージ

「人を裁くこと」からの断食 フランシス・フランジペン 7月6日

「人を裁くこと」からの断食

フランシス・フランジペン



もしあなたが長期間の断食をされたことがあるならば、それが人生を変えるほどの経験であることがお分かりだと思います。断食(fast)には多くの種類があります。ニネベの王は国民と共に食物と水を断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、国を滅ぼすことをやめられました。そしてニネベの人々を断食と祈りが持つ力を世に示す者とされたのでした。(ルカ11:32参照)

断食はリバイバルを呼び起こす強い道具ともなりますが、又それとは逆に、ほとんど何も霊的な意味を持たないただの形式的な宗教的行事へと堕落してしまうこともあります。パリサイ人たちは週に2回断食をしましたが、それは人々に賞賛されるためでした。彼らの断食はプライドの故だったのです。断食の目的は 自分の目指す霊的目標に早く到達するためであり、ですからファーストFast(早い)といわれるのです。

イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちが断食をして飢え渇く目的は、正義が勝利をおさめるためです。それは私たち個人に関すること、また家族、教会、市町村、国に関する事柄において正義が勝利することです。断食(fast)はその目標により早く(faster)私たちを到達させるのです。

しかし、断食が自虐的な罰にならないように注意せねばなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではありません。あなたの肉体に栄養を与える代わりにあなたの魂を養うのです。主にもっと近づくのです。神の御言葉を読み、聖句を暗唱し、自分のためや愛する者、又教会のために祈るのです。

イザヤ58章では、断食は神の愛を人々に示すものであるとも言っています。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(6、7節)」と主は言っておられます。

ですから(食を断って)断食をするときは、困っている人や苦しんでいる人を助ける方法も考えてください。断った分の食事のためのお金を困窮している人たちを助ける援助団体に寄付することもいいかもしれません。

とりなし手の断食

人生に最も顕著な変化をもたらす断食は、私がとりなし手たちに勧めているものかもしれません。私は彼らに、一月間の「裁くことから断食」を要請するのです。それを聞いたときの彼らの反応には実に興味深いものがあります。「じゃ、何を考えていたらいいんですか?」と彼らは訊くのです。 私が言いたいことは、皆さんの思いが 人を裁くことで決着するのではなく、むしろ憐れみをもってその人のために祈る結末となるようにと申し上げているのです。

すぐに他人を裁き批判するという性質は教会におかれた呪いであり、私たち一人ひとりに死をもたらします。「呪い? 死? 」と思われるかもしれませんが、そうなのです。私たちが裁く度に、 私たちは同時に神から裁かれているのです。他人を罪に定める度に、私たち自身が罪に定められているのです。(マタイ7参照) 

多くのクリスチャンは祈り、霊的戦いをし、サタンを叱責します。しかし往々にして彼らが戦っているのは悪魔からのものではないのです。それは当然受けるべき報いなのです。私たちの人生は、自分が人々に対応する態度によって計り返されるのです。常に人々を裁いているので、自分も常に裁かれる立場に立つ結果となっているのです。(マタイ7:2参照)

「裁くことから断食する 」と言っても、それは物事を判断し、見分け、識別することをやめることではありません。しかしながら、人を裁くことは識別とは違います。人のあら探しをするのは御霊の賜物ではありません。私たちが何か間違いを見るときに、ただ批判的になるのではなく、その状況に対する憐れみを祈ることを学ばねばなりません。確かに間違いはキチンと見るのですが、その時に自分の怒りを抑え、キリストの愛の力によってその間違いを贖うことを求めるのです。

イエスは「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)」と言われました。私たちが裁いたり罪定めをしたい衝動に打ち勝って、あわれみを祈るとき、驚くべきことが起こります。 あわれみの新たな扉が私たちの前に開くのです。お分かりでしょうか。日ごと一刻一刻、私たちの前には二つの扉が置かれています。一つはあわれみの大波を私たちの人生にもたらす扉であり、もう一つは困難と障碍だらけの人生への扉です。あわれみの扉にどうやって入るのでしょうか? 神のあわれみの祝福を受ける人生のかぎは、私たちがまわりの人々にあわれみを施すことです。(マタイ18参照)

私は霊的成長がもう何年も止まっているクリスチャンを知っています。彼らは教会に出席し、十分の一献金を捧げているのですが、人を批判的に見て裁く態度を常に持っているのです。彼らは他人を批判する言葉に事欠きません。それによって彼らは自らを神の裁きのもとに置いています。他人に対してあわれみを示さないので、神からのあわれみを受けることが彼らにはできないのです。

ヤコブは 「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみはさばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)と書きました。これは厳粛な言葉です。あわれみを示さない者への裁きはあわれみがいただけないのです。

「自分はクリスチャンなのにイエスが約束してくださった豊かな人生をどうして経験できないのだろうか?」とあなたは思っていますか?(ヨハネ10参照) 多分それはあなたがあまりにも批判的で人を裁いているからです。でもよい知らせがあります。あわれみは裁きに打ち勝つのです。あなたが自分の人生には間違っているところがあり、自分は罪人であるとわかっていても、あわれみ深くなろうと努力するならば、神はあなたが他人に対応するようにあなたに対応してくださると約束されています。あなたのこころの中であわれみを必要としている部分は、神があわれみ深くしてくださる人生の中にいやしを見つけることでしょう。

愛する皆さん、これからのあなたの人生に変化をもたらすことが出来るのは何であるか、熟考してみてください。多分それはあわれみによる断食をすることではないでしょうか。そうです、30日間、あなたが裁くことを断つならば、どのような変化が起こるかを見てみてください。(終り)

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by walkwithgod | 2010-07-06 16:56 | アメリカからのメッセージ

眠りの霊の ヴィジョン  キャシー・ウオルターズ 6月29日

眠りの霊のヴィジョン

キャシー・ウオルターズ



最近のことですが、ある朝私が目を覚ます直前に、若くて美しい女性がベッドに寝ている夢(又はヴィジョン)を見ました。彼女はとても気持ちよさそうにしていて、美しく穏やかでした。 彼女は本当に「白雪姫」のようでした。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1:18)

すると、ハンサムな王子が彼女に近づき接吻するのを私は見ました。彼が手を伸ばすと、彼女は目を開けて微笑みました。そして起き上がり王子と共に去っていきました。 それから私は同じヴィジョンを何度も繰り返し見せられたのです。
夢やヴィジョンの中の「若い女性」は、ほとんどの場合教会を表しています。しかし私は何故同じ場面が何度も繰り返されたのか不思議に思いました。そしてそれが多くの地域、場所にある教会のことだということに私は気がついたのでした。

「眠りの霊、まどろみの霊」は人を欺きます。というのは、眠りの霊が支配する教会や地域では人々が何もしていない、ということではないからです。人々は神のために忙しく立ち働いているかもしれないのですが、眠りの霊のために自分たちの真のアイデンティティーや神から受け継ぐべき遺産に対して眠ってしまっているのです。 御国のために非常に忙しく働いている多くの人々に私は今まで会いましたが、彼らは自分たちがどのような立場にある者か、光なる主の聖徒として受け継ぐべき物が何であるかに対して全く無知なのです。

眠りの霊は悪霊の中でも最も油断のならない、狡猾なものの一つです。というのは、眠りの霊はあたかも自分は神であるかのように装うからです。それによって人々は神に仕え神のために働かねばならないという「良心の呵責」をいつも感じさせられます。ある人たちは休みをとって楽しい時をすごすことさえも罪に感じるのです。しかし主は 「主を喜び楽しむ」ようにと私たちを召してくださったのです。マタイ11:30に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とありますが、これはギリシャ語では「わたしのくびきはやさしくてわたしの荷は軽くて喜ばしい。それは厳しくもなく重くもない。」という意味です。宗教の霊はすべてのものを「重苦しく」してしまいます。

親しい友人が最近こう書いてきました。「私はもうすっかり疲れくたびれ果てました。一生懸命努力したり、色々なことを心配したことが主な原因だと思います。『これをしなくてはならない、、何かをしなくては、、』といつも感じるのです。本当にいやになります!」この人は私たちの真の召しが何であるかをよく知っている人なのですが、時として私たちは「頑張って一生懸命働かねばならない」という泥沼の中にまたひきずりこまれてしまうのです。

イエスは あなたを働きのために招聘したのではない

イエスはあなたに100%の資格を与えてくださいました。あなたが何かをして勝ち得る(取得する)ものはもう何もありません。救いは初めから終りまですべてイエスによるのです。主があなたを救い、あなたを召し、あなたを贖い、 御霊をくださいました。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることの出来る方」はイエスです。(ユダ24)

「新しい心と新しい霊をあなた方の内に授ける(エゼキエル36:26)」というのが新しい契約の約束です。あなたは主の勝利のトロフィーであり、作品であり、創造なのです。生ける神の御霊があなたの内に住んでおられるのです。これ以上あなたは救われることが出来るでしょうか?

目を覚ましてください。主が呼ぶ声に目を覚まし、主にあるあなたの召しが何であるかに目覚めてください。王の王、主の主、宇宙の創造者、あなたの天の父(アバ)であるお方の子供とされることは何と素晴らしいことでしょうか。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。(雅歌2:2)」と主は言われています。主は「わたしのために働くように」と言われたのではありません。
 主はあなたを滅茶苦茶に愛しておられるのであって、あなたが主のために働くことを望んではおられません。イエスはあなたをご自分のために働くようにとあなたを招聘されたのではありません。主があなたを喜ばれるように、あなたが主を喜ぶようにと召してくださったのです。

私たちの受け継ぐものとは

あなたは プリンセスになって舞踏会に行きますか? それとも台所にとどまり召し使いのままでいますか? イエスも「わたしのするわざはわたしのわざではなく、わたしを遣わされた方のわざです。わたしの話す言葉はわたしの言葉ではなく、わたしを遣わされた方の言葉です。」と言われました。私たちもそれと同じなのです。私たちはイエスのために働くために召されたのではないのです。どうかわざという王座から降り、辞任し、退位してください。そして主の油をあなたの内に流れさせてください。それはがんばることではなく働くことでもありません。主の御霊に委ねるのです。主ご自身があなたの内に生きてくださるように主にあなた自身を明け渡し、主に生きていただくのです。

あなたの受け継ぐべき物に目覚めてください。 イエスはあなたが主と同じ遺産を受け取れるようにと十字架につき復活してくださったのです。御霊の領域、超自然の領域、天使、天国を訪問すること等はあなたの人生の中で普通の出来事となるべきです。あなたの遺産はこれです:主と踊り、主の内に宿り、主の内に歩むことです。

私は人々に 「Snuggle, don’t struggle. もがかないで主に寄りそいなさい。 Nestle, don’t wrestle じたばたしないで主に休息しなさい」という言葉を好んで申し上げます。すべての「一生懸命すること」があなたを眠らせ続け、愛する方にある喜びを味わえないようにします。そして「努力し頑張り続けるベッド」の中であなたはまどろみ続けるのです。しかし、あなたに出来ることはただ主に委ねて主を楽しむことだけです。主はあなたが主を楽しむようにと召してくださったのです。主を楽しむとき、初めてあなたは主に仕えることができ、何かお役に立つことができます。

よい知らせに目を覚ませ

申し上げにくいことですが、あなたの「宗教」に心から興味を持つ人など誰もいないのです。でも、もしあなたが何か良いものを持っているならば彼らは興味を示すかもしれません。神の慈しみはあなたの人生の中で人々に見られるべきものです。すべては主なのです! この良い知らせ、福音、に目を覚ましてください。宗教は眠りをもたらします。それは人々を肉的な宗教の領域でいつも忙しくさせます。サタンはあなたが油注ぎの外にいる限り、あなたがどれだけ働いても一向にかまわないのです。御国のために役に立つのは主の油注ぎだけだからです。

ガラテヤ3:1「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」
同じ質問をあなたにさせてください。あなたは新しい人生をどのように始めましたか? 神を喜ばせようとしてがむしゃらに働いたことによるのですか? それとも あなたへの神のメッセージに応答したからですか? いつまでもこのような愚かさを続けるのですか? 神が始められたことを自分の努力で完成できると思うのは愚かな人だけです。新しい人生を始めるだけの賢さも強さも自分にはなかったと思うのならば、なぜ自分で完成できると考えるのですか?

目を覚ましなさい! 起きなさい! 自分の遺産とキリストにあって自分がどういう者であるかということに立ち上がりなさい。

自分のわざをやめて主の安息に入りなさい
ヘブル4章には、神の民のためにまだ安息があると書かれています 。しかしその意味するところは、自分のわざを終えて 主の安息に入ることです。眠りの霊は人々を真の遺産に対して盲目なままにさせます 。主はあなたとダンスをするのを待っておられるのです。イエスは、あなたが起き上がって主の御臨在の中に入り主を楽しむようにと召しておられます。

確かにしなければならないことは沢山あります。でもそれをするのはあなたではなく、あなたを通して働かれる主なのです。そして主がすべての栄光をお受けになります。なぜならば主がすべてのわざをされるからです。アーメン(終わり)


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by walkwithgod | 2010-06-29 15:36 | アメリカからのメッセージ

BPのオイル流出に関する   ジョン•シールスキー   6月18日

BPのオイル流出に関する夢

ジョン•シールスキー


日曜日の早朝、主は私にメキシコ湾のオイル流出についての夢を見せてくださいました。主はそれを聖書の中の長血の女にたとえられたのです。興味深いことに、彼女は12年間長血をわずらっていました。12というのは神の使徒的完成の数であり、神の秩序、神の統治の数です。私たちは現在、 地上における神の統治の代理人であり、神の大使です。(私はこのオイル流出が12年間続くと言っているのでは決してありません。これはシンボルとしてのイメージです。)

長血の女と同じように、教会はその密やかな場所から今もなお血を流し続けているのです。しかし私たちは今までそれを認めようとはしてきませんでした。この「出血」を止めることができる唯一のものは祈りであり、それは即ち主との真の親密さ intimacy です。親密さの目的の一つは(人生のすべての面においてですが)産み出すこと、繁殖、再生、再現であるという事実を私たちは見失ってしまっています。
神は私たちのうちに 御子イエスの命を再生 reproduction することを願っておられます。ところが私たちは、他人にどう思われるかということを恐れてこの「重荷」を負って来ませんでした。その結果、責任を取らないが故に権威がなくなり、権威がなくなったが故に私たちには力がないのです!

どのように共に祈り、天から聞き、天にとどき、天と一致すればよいのか

 聖書には、この長血の女は手を伸ばしてイエスの衣のふさに触れたと書かれています。当時その衣は人が祈るときに頭から被るものでした。イエスが「祈るときは奥まった部屋に入り戸を閉めなさい」と言われたのはこのことでした。ラビ達が衣を被って祈る時、彼らは外の世界を遮断し、邪魔されずに祈ることができ、父なる神の臨在の「密やかな場所」である「祈りの衣」の下で一人になることができたのです。

 神の家は常に「祈りの家」としての役割を持っています。これは最も重要な中心的課題と取り扱われるべきであり、私たちが実際に実行すべきことです。これまで私たちはそれについて議論したり、神学的に取り扱ったりはしてきましたが、キリストの身体とし実際にそれを実践することはほとんどありませんでした。私たちは、祈りとは「そのような召しを受けた」とりなし手たちのグループだけがするものだと感じています。しかし、そうではないのです! 教会はこのような現状なので流れ出す血が止まらないのです。

長血の女がイエスの衣のふさに触れたとき、彼女は実際に永遠の命に触れ、それと一つになったのです。永遠の命とは、即ちイエスが持っておられた御父との個人的な霊的交わりであり親密な関係です。(ヨハネ17:3参照)その時、彼女の血の源はすぐに止まったのです。

同じように、祈りについてイエスは次にように教えておられます。「まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19、20)

 私たちが共に祈り天から聞くことを始め、天が語り天が願っていることに関して一致するならば、神は、メキシコ湾の現在の事態の当事者たちの心と思いの中に、超自然的な知恵と理解を解き放って、オイルの流出を止める方法がわかるようにしてくださる、と主が言われているように私は感じたのです。

見方を変える:神の慈しみと憐れみのうちの希望

 今まで私たちが感じてきた一つの大きなジレンマは、すべての出来事を地球に対する「神の裁き」であると解釈していたことにあります。起こっていることはすべて神の裁きだという見方をするならば 、祈ろうと考えることさえ神の御こころに反する非生産的なことのよう思えます。
 それは愛と信仰を相殺して(二つの電流を)ショートさせることになり、私たちを 弱く無力で希望のない気持ちにさせます。しかしよい知らせがあります! キリストが私やあなたの中に生きておられる限り、神の栄光を見る希望も私たち一人ひとりの中にあるのです!私たちを通して全世界が希望を見る事ができるように、この希望を解き放たねばなりません!

もし私たちがそうすれば、この事態に対処する力のある人たちに素早く解決策が与えられるばかりではなく、今後このような大事故を阻止する発明や技術に関する新しいアイデアが天から解放されると私は信じます。この問題を解決する創造的アイデアは、悪いものを良いものに変えるという意味において最高のものです。ですからそのように祈ろうではありませんか!

もう一つ皆さんに祈ってほしいことがあります。それはこの事故に関連したすべての人たちが適正に裁かれるだけでなく、主の光の前に導かれることです。皆さん、私たちにはこのような権威が与えられているのです! 今はつぶやいたり不平をいうのを止めて、権威の中に歩むときです! しかし先ず私たちはその中での自分の役割、或いは責任を負わねばなりません。そうです、私たちが御国の住人となったのは「この時のため(エステル4:14)」なのです!

私たちの「長血」とは?

私たちの長血の問題とは、つまるところイエスの血潮と、それによって表された御父の愛を私たちが本当に理解し受け取っているかどうかの問題であると私は思います。 このような大きな愛を、私たちは自分の心やおもいの中にまだ完全には受け入れることができないでいます。その結果、私たちの見るものはすべて曲がったり歪んだりしてしまうのです。それは 御父との真の交わり、親密さを私たちが経験することを望んでおられる御父の思いまでも歪めてしまっています。あわれみは常に裁きに打ち勝ち、最後に勝利するのです!

メキシコ湾のオイル流出は私たちの密やかな場所からの血の流出と平行しています。私たちは「初めの愛」から離れてしまったのです! 私たちみんなが 、祈りと一致により「イエスの衣のふさ」に手を伸ばして触れることを始めるならば、私たち自身の血の流出が止まるだけではなく、メキシコ湾の環境大惨事も解決されることでしょう。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-06-18 17:34 | アメリカからのメッセージ

主の言葉を聞くことの飢饉 ボブ・ジョーンズ 2010年6月8日

主の言葉を聞くことの飢饉

ボブ・ジョーンズ 2010年6月14日


「見よ。その日が来る。—神である主の御告げ。—その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見出させない。」アモス8:11−12

これは預言者アモスの言葉ですが、現在のアメリカの教会に直接当てはめることができるものです。教会は神に対して不従順を続けてきた結果として、知覚麻痺、無感覚の霊に支配されているのです。

この地の飢饉とは、御言葉を聞くことを妨げている霊がキリストのからだなる教会を毛布のように覆ってしまっていることです。 今の世はめまぐるしいスピードで動いていて、御言葉を聞くための手段も数多く提供されています。 テレビ、書籍、CD、DVDなどです。ですから御言葉の不足が問題なのではなく、御言葉をどのように聞くかということに問題があるのです。それは、御言葉があたかも聞こえない耳にむかって発せられているようで、 その結果、「語られる御言葉であるイエス」を人々が理解することに混乱を招いているようです。丁度エデンの園で蛇が 神の語られた御言葉をねじ曲げてエバに告げたようなものです。

「こう書いている通りです。『神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。』」ローマ11:8


メキシコ湾のオイルの流出は、この国がこれから迎えようとしている問題のほんの始まりにすぎません。アメリカのただ一つの希望(確信のある期待)は、現在の霊的麻痺あるいは無感覚状態から目を覚まして神に叫び求めることです。教会が膝まずいて祈り神に憐れみを乞い求める時、神は正しい者の祈りを聞いて地を(そして海も)癒してくださいます。

この国の救いは神をおいて他にはありません。私たちはメキシコ湾のオイルのパイプを塞いでくださいと神に叫び求めねばなりません。塞ぐことが出来るのは神お一人だからです!そして神は教会が叫び求めた時にその事をしてくださるのです。

神の民への約束

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。(共同訳)」第二歴代誌7:14

これは 教会にとって(ノン・クリスチャンにとってではありません)力強い御言葉です。これは、「わたしの名をもって呼ばれているもの」、即ち神の民への約束なのです。クリスチャンはキリストの権威と力の中に歩む者です。私たちが叫び求めるとき神はそれを聞き、応答してくださるのです。

アメリカの教会が目を覚まして神に叫ぶならば、神が私たちに大きな裁きを与えないですむような選択を、私たちが神に与えることになるのです。私たちに今残されている唯一の解決方法は、神がご自分の民の祈りに答えて下さることだけです。人々が無感覚から目を覚まして、天からの声を聞き始めるように、どうか神に叫び求めてください。

この国を覆う無感覚、無関心、麻痺の霊が打ち破られるように祈ってください。御言葉が不足しているのではありません。人々が本当に霊で聞いていないのです。そして御言葉を聞いたならば、従ってください! 天は第二歴代誌7:14にある通りの応答をしようとして聖徒たちの祈りを待っているのです。聖徒たちは今ひざまずいて祈らねばなりません!

端的に言うならば、主にあがなわれた者がそういうのを神は待っておられるのです!(終わり)

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by WALKWITHGOD | 2010-06-14 15:10 | アメリカからのメッセージ

新しいサウンドの到来  レイ・ヒュウズ  6月7日

新しいサウンドの到来

レイ・ヒュウズ


(2010年5月24日 モーニングスターミニストリ−ズでの話の一部 )


今日はダビデの幕屋について話したいと思います。この話は、いつもはワーシップに関わるミュージシャンたちに対して話すのですが、今日は牧会者、リーダーの立場にある人たちに対してお話したいと思います。というのは、私はリーダーたちがこのことを理解するのが今非常に重要だと感じるからです。それは現在御国 (キリストのからだなる教会)の中で劇的なシフトが起こっていて、今まで聞いたことのないサウンドが始まろうとしているからです。今は新しいサウンド、新しい歌へと移行する時です。

ダビデの時代には詩編は「150編」からなっていたのではありません。詩編全体がダビデの幕屋で32年間の間、24/7で、絶えることなく歌われていた一続きの音楽の表現だったのです。
詩編の番号というものは後の時代になって付けられたものです。番号以外にも多くのことが後になって付け加えられたのですが、それによってダビデの幕屋の時代にあった美しさと力、権威が取り去られてしまいました。

「 praise(賛美せよ)」という言葉は詩編には存在しません。「praise」という英語に訳されている言葉は、ヘブル語では7つの異なった言葉があります。私たちは英語の「praise」という言葉を見ると、みんな同じことを表しているのだと思ってしまうのですが、そうではないのです。まずこのことを知っていただきたいと思います。

7つのヘブル語はそれぞれ、私たちが主にむかって身体を用いて行う全く異なる行為を指しています。それは32年間のその時その時に、人々がどのように生き行動すればよいか指し示したのです。
24組の音楽隊が交代で絶えず仕えていました。そして 新しい理解、新しい預言的言葉、新しい言葉使いが、常に新しい音楽的表現が、新しい楽器、新しいリズム等によって表わされ、それが丁度映画音楽のように、神の御こころのサウンドトラックとして使われたのです。即ち、神がその瞬間に語って おられることを表現したのです。映画のサウンドトラックのように、その時の神の言葉、御思いを強調してその効果を高め、聞く人々や回りの霊的環境への影響力を非常に強めたのです。 今、神の御国に新しいサウンドが解放されようとしていますから、このことを学び、理解し、親しんでおくことが非常に大切なのです。

詩編33編を見てみたいと思います。
「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあります。真に正しくないものが喜ぶということは出来ません。正しい者(righteous)な者だけが主にあって喜ぶことが出来るのです。即ち、人がもし父なる神と正しい関係にないならば、喜ぶことはできないのです。この「喜ぶ(rejoice)」という言葉は大変素晴らしい言葉で、実はコマ独楽のようにくるくる回るという意味なのです。

神は私たちのために喜んで独楽のようにくるくる回っていると言われます。ゼパニヤ3:17に「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎをあたえる。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあります。

それは神が激しい感情をもってくるくると 私たちの回りで回ることを表しています。神は私たちに歌を歌ってくださると共に、丁度地球が軸を中心にして回るようにくるくると回られるのです。 しかも情熱的な愛情に満ちあふれて神はご自分と正しく結ばれている者たちの回りでくるくると回られるのです。
勇士であられる神が、あなたがたのただ中でそうされるのです。

ちょっと言い換えてみますと、「私のただ中におられる主なる私の神は勇士だ。神は私に歌い、私を喜ばれる。」ということです。ですから私たちのうちからほとばしり出るサウンドは、神が私のただ中におられるのですから、神の権威と創造とに直接的に関与しているのです。詩編全体を通じて多次元的な表現があり、絶えず動きがあり、絶えずサウンドがあり、その日の神の言葉に対する応答があるのはそのためです。

ワーシップチームがステージに上がってダビデの幕屋式に演奏を始めるとしましょう。仮に私がダビデだとして、私が「さあ、この歌を土曜日の4時まで歌いましょう。」と言ったとします。今(月曜日)から土曜日の4時までこの詩によって歌い、それを回りの霊的環境に絶えず解き放っていきます。するとついには歌っていることがその時に現実となり、神が「事は完了した」と言われるのです。

第一歴代誌16:42に「へマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルがあり」と書かれていますが、ラッパとシンバルの響きは今までの歌を止めてチェンジせよ、という合図でした。その合図があると、今までの歌を止めることが許可され、今新しく神が言われ、されていることに移るのです。これが即ち「新しい歌が解き放たれた」ということです。

次に「主を賛美せよ」と言う言葉があると、新たな賛美が神の民の中で起こり始めますが、それは今までしていた賛美の表現とは異なるものになるのです。それは新しい歌であり、神が新しく民のただ中で「今」しておられることに関する賛美になります。歌い手たちが賛美の召命と油注ぎを受けている人たちであり、これらの事をよく理解し、訓練された人たちだったということは明らかです。

彼らは自由で安全な環境の中で、思う存分に創造的に表現することを許されていたのです。それは治世に関わることであり、又、霊的なことでもありました。ですから彼らはギリシャ的な音楽(言ってみれば、それは数学、科学、幾何学と楽器とを絡ませていろんな音符、記号をつけたもの)という枠の中には閉じ込められていませんでした。彼らの音楽はギリシャ的な音楽を越えたものでした。それは彼らの心からほとばしる情熱であり、神の臨在の中で完全に表現されたのでした。

ダビデが「主を賛美せよ!」と言う時、その「賛美」という言葉はヘブル語の「ハラウ」だったかもしれません。ハラウとは、「馬鹿げた、気が違ったような、輝く、叫ぶ」というような意味を持っています。「ハラウ(賛美) ヤ(神)」は、即ち「ハレルヤ」です。又、ハラウは 澄んだはっきりした音であり、「輝く」とはそのことを指しています。それは音よりもむしろ光と関係があって、音と光の架け橋となるものと言えるでしょう。つまりハラウとは、音楽、サウンドによって神の栄光を人々の上に輝きださせるということなのです。

第一歴代誌15:22に「ケナヌヤはレビ人の楽長で、音楽(songs)に通じていたので、これを指揮した。(口語訳)」とあります。ここで「song」と言っているのは、今私たちが考える歌とは全く違うのです。「song」とは音楽隊に与えられるサウンドですが、それには神からの霊的な重み、神の油注ぎのマントルがあるのです。このサウンドが解き放たれると、今だけではなく過去にも未来にも影響を及ぼす力が放出されます。音楽隊はこのような油注ぎを担えるように訓練されています。

サムエル記上10:5で、サムエルはサウロ王が楽器を奏でる預言者の一団に出あうことを告げています。丘から下ってきた楽隊の奏でていた歌は、サウロを新しい人に変える力を持っていたのです。それは、早さとか高さで人々の気持ちを高揚させるような人工的なものではありませんでした。楽隊の奏でる音によって、神の力や栄光、濃厚な油注ぎをその時そこに顕すものであり、それは政治的空気や経済機構も変える力があったのです。新しい歌、新しいサウンドが解き放たれました。

7つのヘブル語の賛美という言葉(バラク、ヤダ、トダ、シャバ、ハラウ、ゼマー、タヒラ)は、一つ一つ違う賛美の仕方を示しているのであって、私たちから違う行動、違う行為をそれぞれ要求しています。ワーシップは私たちの神への霊的応答です。

「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあるのを見たとき、これはダビデの幕屋式に喜び歌うことを言っていることを忘れてはなりません。次に「賛美は心のすぐな人たちにふさわしい(comely, beautiful)」とありますが、ここで使われているの「賛美」という言葉はヘブル語でタヒラという言葉です。これは多次元的な賛美の表現です。タヒラは即興的な霊の歌であり、詩編22:3で「イスラエルの賛美を住まいとされる」と言われた賛美はこの賛美(タヒラ)だけなのです。確かに主は私たちのすべての賛美に応答されて、王座に着いてくださいますが、「住まわれる」と言われたのはこのタヒラの賛美なのです。タヒラというヘブル語は 数々のうるわしいことを表しています。霊の歌、霊の祈りです。神はその中で王座に着かれ住まわれるだけではなく、その賛美の霊的環境と結婚されると言われています。

その意味は永遠の契約を神がされるということです。神が民の賛美のただ中で王座に着かれるならば、その影響は何代にもわたって続くのです。そのような霊的環境になったとき、ダビデは時として命令をくだしました。「主を賛美せよ!」と。そのときの賛美を表すヘブル語は「シャバ」という言葉だったかもしれません。これは「叫べ shout」ということです。

神が人々の賛美に中に住まわれるときの霊的環境、霊の油注ぎ、濃厚な主の臨在を、私たちは今非常に必要としています。新しい歌、新しいサウンドを解き放って、御国をシフトさせ、すべてのものを変えねばならないのです。

詩編33、96、98、149などに「新しい歌を主に歌え」という言葉があります。詩編33編を見ると、「賛美(タヒラ)は心の直ぐな人にふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。(ヤダ=手を上げて賛美せよ)」とあり、次に「十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。」と続き、そして「新しい歌を主に向かって歌え。」という重要な言葉があります。明らかに神は私たちに歌をチェンジしてほしいのです。

私が信じて口から出した言葉が私の歌になります。私が今までの人生で信じて口に出した私の歌は、必ずしも神がのぞまれた歌ではありませんでした。敵が私たちに関して言うことを信じるならば、それが私たちの歌になってしまうのです。私たちについて神が言われることに同意するならば(個人としても、共同体としても)それが私たちの歌となるのです。

朝起きたとき、ばかばかしい歌が頭の中で聞こえていることがありますか。あなたはその歌をお昼まで歌ってしまうことになったりします。それがどうしても頭から離れないのです。あなたはそれを午後2時までずっと歌っていたりするのです。その歌を忘れるためには、新しい歌を歌うしかありません。どうしてかお分かりでしょうか。それは新しい歌が古いサイクルを打ち破るからです。

教会の音楽システムもサイクルになってしまって、ぐるぐる同じことをするサイクルにはまってしまっています。それは打ち破られなければならないのです。そして新しい歌が入る余地をあたえなければなりません。そうでないと、私たちは古いサイクルを歩き続けることになって、新しい歌が霊の力をもって事をなしとげることを出来なくしてしまいます。神がかつて言われたことを繰り返すだけになってしまうのです。

確かに5年前には今のワーシップでうまく行っていたでしょう。しかしそのまま続けると、牧師はワーシップに携わる人たちにフラストレーションを与えることになります。彼らは古いサイクルにはまってしまって、制限され型を押し付けられて、いつものような日曜礼拝を続けることだけしか出来なくなるのです。

しかし彼らはそのようには造られていないのです。私たちは「今日の礼拝はよかったね。よい日曜日だった。ワーシップチームもよくやった」などと言うのです。でも私たちはただ「すてきな日曜日」であれは良いのではないはずです。

神様はそれ以上のことをなさりたいのです。神は御臨在の力を解き放つようなことをなされたいのです。人々の中の隔ての壁を取払い、境界のない恵み、無制限な創造性を望まれているのです。これこそ神が今、教会に解き放ちたいと思っておられる新しい歌が出来ることなのです。私たちの考えは同じところをぐるぐるまわるサイクルにはまってしまっています。

新しい人が来て、ちょっと変ったサウンド、ちょっと変ったメロディーを奏でるとそれを歓迎し、少しの間はそれで満足します。音楽に新しさを求める人々の必要性がそれで満たされるからです。けれども神はそのようなものをずっと越えたものを私たちに与えたのです。即ち霊の力の領域に入り、神の「今」の言葉を表すようなサウンドです。そういう新しい歌が歌われるようになると、私たちの間に真の解放が起こり始めます。 暗闇にいた人々も立ち上がってデスティニーにむかって進みはじめるのです。(終り)


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by walkwithgod | 2010-06-07 13:11 | アメリカからのメッセージ

デスティニーを選び取る ジョアン・マクファター 6月1日

デスティニーを選び取る

ジョアン・マクファター



「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』」エレミヤ1:4、5

「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」詩編139:16

エレミヤとダビデは、彼らが母の胎内に入る前に神からの召命を受けていましたが、 すべて生まれてくる人間は、男も女も、彼らと全く同じなのです。しかし神は人間に自由意志を与えられることによって、その召しを実際に受けとって生きるかどうかという選択を私たち各自に委ねられたのです。イエスも次のように言っておられます。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」マタイ22:14

私たちの選択は、自分が満ち満ちた主の栄光がとどまる器となるかどうかという決断によってなされます。私たちが主の栄光を持ち運ぶようにまだ調えられていないときに、主はそのような栄光を私たちの上に注がれる事はありません。そんなことをしたら私たちはそれによって滅びることになるからです。デスティニーは私たちすべてを招いていますが、その招きがどういう結果になるかは、私たちの自由意志の使い方によって決まります。

私たちの心が創造主の声に対して絶えず「私はあなたを選びとります!すべてのものにまさり私はあなたを選びとります!」と応答していくならば、私たちは自分のデスティ二—の道をつき進んで行っているのです。

デスティニーは目的地そのものではなく、そこに行き着くまでの旅である

主が私たちの始めであり、又 私たちのデスティニーです。私たちはこの世が始まる前から主の中にいました。そして又主の中に住まうために帰っていくのです。私たちは今すでに主の中にいるのです。それは、私たちが主の流された血潮の赦しの恵みを信じ、それを受け取っているならば、です。

主の書物の中に書かれた自分のためにあらかじめ定められた日々をそのように生きて行く(そのコースを走る)ことが私たちの旅です。それは一日ずつ忠実に生きて行くと言うレースであり、何よりも主を選びとって行くという決断を一つずつ続けるレースです。毎日の生活の中で出会うすべての分岐点で主を選びとって走り、意識的に「主を選びとる」という決断をしていくことによって、私たちは デスティニーの真ん中にいる事ができるのです。何故ならデスティニーとは主のうちにだけ見出すことができるものだからです。

「神はひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」使徒17:26−28

私たちの西洋的考え方では、 自分が目指しているある目的や仕事、或いは地位に到達することがデスティニーを達成することだと考えます。それは自分が作り出した自分の希望の型であり、例えば歌手とか牧師、或いは銀行家になりたいとかいうものです。でも神が考えておられたのはそんなことではないように思います。自分でデスティニーだと思っていることに到達する望みが、毎年遠のいていくように思える人が多いのは、その所為かもしれません。私たちは一つの型(体制・環境)を自分のために作って、その中で自分を機能させようとします。まず型があり次に機能が来るという考え方は、私たちの文化に大きな影響を与えたギリシャ的思考の結果です。

私たちの真のデスティニーは、主が私たちのために造られた日々を「実際に日々生きる」ということの中に秘められているのであって、自分の肩書きとか職業のためにではないのです。それは「自分は預言者である」から預言をするということではなく、主の御声を聞き、 御父の心で愛をもってそれを預言する(人に伝える)ことを毎日学ぶ、その日々のプロセスそのものがデステイニーです。預言者としてそのように機能するとき、私たちは真に自分のデスティニーを見出すのであり、それは即ち主に似た者となるということです。

それはどのような仕事やミニストリーについていても同じことが言えます。主の書物には、私たちそれぞれが日々違う人生を生きるように書かれています。しかし、その中で私たちがどのように生きればよいかを学んで行くことが、自分のデスティニーを日々歩むことであり、それはすべての人にとって同じプロセスなのです。即ち、それは主のようになる事であり、主と一つとなるというプロセスです。

デスティニーは終りに達することではなく、そこに至るまでの「旅路」であり、主ご自身が主の書物に書かれた日々を私たちが忠実に生きていくことです。一日一日を主の中で生きるという人生こそが私たちの真のデスティニーであり、その中で私たちはもっと主と似るものとされていくのです。それが行われる型、つまり先生とか伝道者、あるいはパン屋とかいうことは、毎日のプロセスに較べれば二義的なことです。もしかして私たちは肩書きや名声を手に入れることに焦点を当ててしまっていて、この「旅路」の喜びを失っているのではないでしょうか。私たちが今日まで生きてきた日々、その中でしたすべての間違い、すべての失敗、すべての成功から私たちのデスティニーはなっているのです。


デスティニーは動詞であり、デスティニーは一人のお方である


私たちが「デスティニーは名詞である」と考えるのが 間違いのもとかもしれません。実は神にあってデスティニーは名詞であると同じくらいに動詞であるのです。 「それは一人のお方である」と言ったほうが或いはもっと正確かもしれません。即ち、それはイエス・キリストというお方と一つになるというプロセスです。何の仕事をしているかに拘わらず、このプロセスは全く同じです。自分の召命に応答しその中で成長して行くプロセスが、私たちの本当のデスティニーなのです。それは私たちすべての者にとって同じです。

ですから私たちは、人生の中を、良いこと、悪いこと、醜いこと、血みどろの戦いや栄光などすべてを通り抜けていくときに、「小さな始まりをさげすんではいけない」とか 「それをこの上もない喜びと思いなさい」と励まされているのです。気づいていてもいなくても、あなたは今デスティニーのただ中にいます。
人生の一日一日の集計が主にあって私たちがどのような者になるかを決めるのです。舞台裏で人目につかずに黙々と働いた人々の日々の重要性が、人々の前で目立って活躍した人たちの日々に比べて決して劣るとは言えないのです。

すべての事がデスティニーの成就のために相働いているということを知って、私はとても励まされます。失望や心痛、裏切られた時に私たちが何を選択するかということが、神との一致、愛 の場所へと私たちを連れて行くのです。

私たちは「自分はなんてかわいそうなんだろう」と思うことを選択することもできますし、自分の置かれた場所や、いつまでもそこに置かれていることに対して不平を言ったり、運の悪さ(実際にはそれが悪い方向に行くのを阻止してくれたのかもしれないのですが)を嘆いたりすることもできます。でももう一方の選択は、主を見つめて「私はあなたを選びとります!どんなに悪く見えようと、どんなに長くかかろうと、自分や他のものではなく私はあなたを選びとります!」と言うことです。

それは又、私たちがどのように自分の昇進、恩顧、繁栄を取り扱うかということでもあります。それらを得たというのが大切なのではなく、 その地位であなたがどのように人々を統率し治めるかということが重要なのです。自分のためにだけその地位を用いるのでしょか、それとも人々に尽くすために用いるのでしょうか?私たちは自分が受けた恩顧を、人々が彼らの召命の中で強められ引き上げられる(自分より上にさえも)ために用いるでしょうか?私たちに与えられたすべての特権の中にあっても、私たちの内からは常に「主よ、私はあなたを選びとります!あなたは私の受ける分、私のデスティニーです!」という叫びが起こっているでしょうか?
雅歌の中でそれが巧く表されています。

「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」雅歌8:6−7


主こそ デスティニー

私たちがこの世を去るときの質問とは次のようなものでしょう。「私たちは主に似ているでしょうか?」「愛することを学んだだろうか?」「日々自分に死んで、私が生きるのではなく私の中のキリストが生きてくださったか?」
私たちの真のデスティニーは、召命が何であろうと「主の中」であり、「主のようになること」です。どのような仕事や召命であっても、そのことにおいて私たちは主の御前で同じレベルに置かれているのです。私たちはキリストの花嫁として花婿と同じ性質を持つべきであり、主が生きられたように人生を生きるべきです。主に似る者となり、主のように行動し、主のように応答し、主の内に一つとなることこそ私たちのデスティニーであり、 型とは関係ありません。主が私たちのデスティニーです!

「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」エペソ1:10−11

「 ついに時が満ちる時」に近づいている今、この理解をもって働く人たちが集められています。私たちは主が愛されるように愛す者にならねばなりません。それはあたかも愛そのものが歩いているかのようになり、自分の命を捨てる用意が出来ていて、自分より他人を先にするということです。それは今という時の私たちのデスティニーです。私たちの人生がどのような形をとっていようとも、目的は私たちが主のようになり主と一つとなることであり、無私の愛で働くことなのです。このような高レベルの成熟、自分に死ぬ事が主の臨在をもたらします。(終わり)

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by WALKWITHGOD | 2010-06-01 14:55 | アメリカからのメッセージ

御国の領域で生きる ジェシカ•ジョーンズ 5月23日

御国の領域で生きる

ジェシカ•ジョーンズ



御国に生きる生き方というのは、実はとても簡単なのです。それにもかかわらず、それはクリスチャンにずっと今まで手のとどかない世界のことになってしまっています。でも長ったらしい方程式など何もないのです。それはただあなたの人生の一分一分、一つ一つの状況を神の御手、即ち霊的な御国の領域に委ねるということです。

イエスはそうされました。使徒たちもそうしました。そしてそれは私たちの人生上のあらゆることにおいても非常に素晴らしく効果があることなのです。初期のクリスチャンたちはユダヤ人でした。彼らは皆、何千年にもわたって伝えられてきた神を畏れる生き方の契約を把握していました。すべてのユダヤ人家庭の一部となっていたその理解を、私たちは失ってしまいました。それは4世紀のコンスタンチヌスの治世で起こったユダヤ人に対する迫害によって、クリスチャンとユダヤ人が分たれてしまったからです。

「朝起きてあなたの足がベッドから床につく前に、あなたの一日をわたしの権威の下に委ねなさい。」と主は私に言われました。

初めてそのようにした時、それは実際どんな意味なのかを私は主にお訊きしてみました。

「父なる神様、私はこの日を、今日のすべての活動を、問題を、状況を、決断を、すべてを、一分一分をあなたの御手の中に、あなたの権威の下に置きます。私に関するすべての事に 、どのような方法ででもあなたが介入する許可を差し上げます。それは今日一日があなたにとって益となり、御心に適うものとなるようにすべてのことが相働くためです。イエスの御名によって祈ります。アーメン」

この祈りをする理由は、私たちの一日を地上の領域から切り離して、神の領域、神の御手の中に置くためです。あなたの一日をこの世の空中の力であるルシファーの権威の下から、神の領域へと移すのです。神があなたの為にあなたの人生に介入されることを許可する祈りです。神とその他のもろもろの霊にむかって、あなたはルシファーやその手下どもとではなく、ただ神とだけ共に働いているのであり、神に完全にコントロール権があることを宣言するものです。あなたは神を信頼し、自分(それは即ちこの世の力)がコントロールするのではなく、神にすべてのコントロールを明け渡すことを宣言するものです。

私は今までに何度もこれと同じ祈りをしてきましたが、それがどれほど意味深いものであるかを今のようには理解していませんでした。「主よ、決して私を離さないでください。あなたが望まれる事とか私がするべきことがあったならば、いつでも私がしようとしている事を変更することをあなたに許可いたします。」私が17歳のときに実はまさにこのことを意味する祈りの歌を与えられたのでした(曲に合わせるともっといいのですが)。そして私は何年もそれを歌って来ましたし、今でもギターを手に持つと歌います。実際のところ、ギターがない時でもこの歌のヴィジョンが 頭の中を度々よぎります。

私はいろんなことを言ったりしたりしていますが、本当に私は人生のすべてを主にお捧げし、主の御手に中にお委ねしました。
確かに私は言うべきでないことを言い、するべきでないことを度々してしまします。 主が必要と思われたならばいつでも私の人生に介入し干渉してください、という許可を主に与えたにも拘わらず、 私は自分の人生を主の御手の中から取りもどし、自分で生きてしまってばかりいるので、そのような情けない結果になるのです。

これはどういうことでしょうか? 自分の人生を本当に主の御手の中に置く時、私は自分の人生を御国の領域に置いたことになるのです。しかし、それをまた取り戻して自分でコントロールするならば、私は自分を御国で生きる状態から取り出してしまい、またぞろルシファーの権威の下に置いてしまうことになるのです。そうです、クリスチャンでも自分の人生をルシファーの統治下に置いてしまえるのです。というのは今ルシファーがこの世の君だからです。ですから、もし私たちが御国で生きることから抜け出してこの世の肉の領域に入るならば、私たちは神の御国から出てルシファーの王国へと入るのです。

私が母に関して一番憶えていることの一つは、彼女があることを私に教えようとした時のことです。母は部屋の戸口に立ち、片方の足だけを部屋の中に入れ「 入ることも出来るけど…」と言い、次にもう片方の 足を部屋の外におろして「出て行くことも出来る..」と言うのです。母は同じことを言いながら戸口でこれを数回したので まるでダンスをしているようでした。そして母は部屋の外に出て行ってしまいました。

私たちは同じことを神に対して何度もするのです。一時片足を神の王国に入れて「入ることも出来るけど…」と言い、すぐにまたこの世に戻って「出て行くことも出来る…」と言うのです。そして残念なことに私たちは母がしたように向きを変えて外に出て行ってしまうことが多いのです。

私たちは心配事を十字架のもとに持って行き嘆願したかと思うと、またその心配事を拾って家に持ち帰るのです、、そして自分の解決法を探すのです。

私たちが十字架の下に行く時、霊的御国の生き方の中に入るのです。そしてその自分の愛玩物を拾い上げて家に帰るときは、 ルシファーの王国に再び入るのです。

次の祈りは今日聞いたばかりのものですが、とても素晴らしいので皆さんにお分ちしたいと思います。オクラホマ州のダビデの家というミニストリーのカーティス・ランドリーさんから来たものです。

父なる神よ、主イエスの御名によって私はこの 問題(経済的か、病気、子供の事かなど、はっきり言う)をあなたに差し出し、十字架の下に置きます。父よ、イエスの御名により、私はこの問題の結果とのいかなる魂的肉的な絆を断ち切ります。

イエスの御名により、私は私の思い、意志、感情、またあらゆる空しい想像がこの問題に関して駆け巡り働くことを許しません 。主よ、私はあなたに感謝します。私がこの問題に関して感情的ではなく、又いかなる恐怖も抱いていないことを。主よ、御言葉にはあなたが私に恐れの霊ではなく健全な思慮深い霊を下さったと書かれています。

私はキリストの健全な思慮深い思いを受け取ります。私は今私の中にキリストの健全な思いを受け取ります。それが私の栄光の望みです。私はすべての魂的肉的な絆を断ち切り、私の魂が良いこと、純粋で清いことにのみを心に思うことを命じます。

私はダビデのように祈ります。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」父よ、私はこの問題(今あなたが祈っている問題、状況をきちんと言い表す)を自分の手の中に持つことを選びません。主よ、あなたに感謝します。あなたの御言葉に「主は決して正しい者を平安と信仰の場所からゆるがされるようにはなされない。」とあることを。私はそれを自分のこととして今宣言します。私はそれを自分のこととして今信じます。私はそれを自分のこととして今受け取ります。イエスの御名において、アーメン

詩編55:22「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
第二テモテ1:7「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」


イエスは人の子 Son of Man でした。彼は人でした。勿論彼が神の子 Son of God であったことを私は知っていますが、 人であったイエスについて私はあなたに話したいのです。

イエスは絶えず祈られました。主が何を祈っておられたか考えたことがありますか? パウロも絶えず祈りました。彼は何について祈っていたのでしょうか? 私も絶えず祈ろうとしたことがありましたが、その試みはわずか数分で終ってしまいました。

私たちは、祈りとは何かをお願いすることだと考えています。それが人々のためであっても、やはり物事や人のためにお願いをしているわけです。私自身はお願いすることをそんなに沢山思いつきません。いくつくらいの事をイエスは神にお願いしたと思いますか?主は家を持っていませんでした。


着るものやサンダルもあまり持っていたとは思えません。所有物はありませんでした。 遺書に書き記すようなものは何もなかったのです。ただヨハネに母の世話を頼んだだけでした。たった一つの衣はローマのくじに使われました。つまり、彼はこの世の領域では何一つ誇るものは持っていなかったのです。

では、一体イエスは何を祈ったのでしょうか?
パウロも無一物でした。ですからパウロは一体何のために祈ったのでしょうか?

私はイエスとパウロは二人とも同じことを祈っていたのではないかと思うのです。彼らは自分の人生の一分一分が神の御手の中でしっかり守られていることを願ったのです。二人はすべての呼吸が確実に神のコントロール下にあるようにと絶えず祈り、彼らのために介入する許可を神に与えていたのです。

そして祈りは一方通行ではありません。二人は人生すべてのことに関して神の語られる言葉を聞くために耳を傾けていたのです。

これはどういうことでしょうか?

パウロはルステラで石打ちにあいました。人々は彼を死んだものと思い町の外に引きずりだしました。彼は瀕死で横たわりながら、結果がどのようになろうともその時を神の御手に委ねたのだと私は思います。神はパウロのために介入する許可を与えられていましたし、使徒がもう一人死ぬということよりもっと良い計画を持っておられたので、パウロを生き返らせルステラにもどって福音を語らせたのでした。


ちょっと今考えてみてください。パウロの頭に石が一つか二つ当たったとしましょう。というのは人を石打ちにする時に一番効果的なのは頭だからです。石が当たって地面に倒れたあとは
人々はその人の身体全体をめがけて石をなげ、もっと苦痛を与えようとするでしょう。

パウロは頭に数カ所傷を受け、多分頭蓋骨が割れ、骨も大分砕かれていたでしょう。確実に死に至るような石打ちを受けていたのです。

私は石打ちにあった人々がどのように死を迎えるかについて調べたことがあります。20分ほどで死に至り、それは蹴られたり打叩かれて死ぬのと似ていて、 激しい痛みの伴う残酷な死に方です。

しかし、パウロの命は父なる神の御手の中にありました。父は彼を生き返らせ、町にもどって福音を語らせました。彼はぼろぼろになった泥まみれ血まみれの服を着て町に入っていきました。彼は 足を引きずることもなく完全に癒された姿でユダヤ人に彼らが歴史の中で聞いていた神について躊躇することなく語ったのでした。

一方イエスは、会堂の人々によってガリラヤの町の外にある丘の上に追いやられました。人々は主を崖から突き落とそうとしたのです。しかし、イエス(人としての)は、群衆の中を通り抜け誰にも見られずに去ってしまわれました。人々はすでにそこにはいない人を突き落とそうと群がっていたのです。

この話を以前にも聞いたことはありませんか? ラベンズブルックの強制収容所に入れられたコーリー・テンブームの話はどうでしょうか。彼女は扉のところに立っていた看守の厳しい目を通り抜けて聖書を持ち込むことが出来たのです。

神がある人のためにされたことは、他の人にもして下さるのです。神は人をかたより見る方ではありません。そして奇跡は滅多におこらないと考えるべきではありません。私たちの世界で滅多にないとか奇跡的だと考えられることは、御国の領域の生活では普通のことなのです。そして霊の領域がこの世の領域に取って変るならば、ここでもそれは起こるのです。言葉を変えれば、私たちが人生を神の御手に委ねて、神が私たちの領域を神の領域に置き換えてくださるのを許可するならば、奇跡は私たちの生活の中で当たり前の事となるのです。(終わり)

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by walkwithgod | 2010-05-23 14:58 | アメリカからのメッセージ