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「主の家」  フランシス・フランジペイン  12月14日


主が家を建てられる時
                        フランシス・フランジペイン


キリストの教会が天と完全に一致調和する時、主の霊が私たちの町を覆っている暗闇の力を除き去ってくださることが、実際起こりうるのです。主の臨在がどれだけその町を守るかは、教会が神とどれほど密接に結び合わされているかの度合いによって決まります。犯罪も不道徳なことも、神との結びつきが強いほど減少し、リバイバルが自然に起こり始めます。しかし、あらかじめ警告しておきますが、主の家を建てるのが主である時にのみ、主が私たちの町を守ってくださるのです。(詩篇127:1)

集合的な町の教会
「神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。」 I 列王記6:7
過去数年の間、神様は教会を「石切り場」におかれました。そこで、リーダーたちの形を削り、彼らが主の家の一員となるにふさわしい心を持つようにと砕き整えられました。キリストという御言葉の金槌で、多くの牧師や信徒たちは、今まで持ってきた岩のようにコチコチの宗教的、教義的な見解を打ち壊されました。神様は彼らの持つキリスト教の定義を、シンプルで、純粋に、キリスト個人への熱愛だけを問題にすると言う、本来の聖書的教義へと変えてこられました。(IIコリント11:3参照)

それと同時に、主は、人間の本質であるねたみと利己的野心という根源に斧を置かれました。(ヤコブ3:16参照)世界中で、男性でも女性でも神の聖徒である者たちは、生ける主の神殿となるようにぴったりと組み合わされつつあります。 彼らの心に燃えているのは、一つの町の総ての教会が一致して一つの教会になるという新しいヴィジョンです。
それぞれの教会の信徒たちが集まることによって、神のしもべたちは一つの町の教会を建て上げようとしていますが、それは、アメリカ流の自分を売り込んだり人間的に事業を拡大したいという思いからではなく、町全体の教会の合同の祈り会と、(純粋に)クリスチャンの愛を土台として、その「町の教会」を築き上げているのです。大きな熱情と深いへりくだりをもって、彼らはただ一つのことを目標としています。それは、キリスト御自身が教会(キリストのからだ)の中に形造られることです。(ガラテヤ4:19参照)
そうすることによって、彼らは主の家の基礎を築いているのです。これらの「生ける石」 が、いかに互いに愛をもって受け入れ合い、いかにぴったりと組み合わされているかという事実は、キリストの知恵と力がどれほどすばらしいかを証明しています。それはちょうど、ソロモンが主の家を建てた時「工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では、聞かれなかった。」とあるように静かに進められているのです。

これら男女の聖徒たちは、しばしば非常に異なった教会のバックグランドを持っているのですが、お互いの教会へと出かけて行って、ともに肩を並べて祈り合うようになっています。彼らの共通の祈りは、全能の神が自分たちをキリストにあって一致させ、主の家を完成させてくださること、そしてそれによってキリストご自身が彼らの町を癒してくださることです。
神様は彼らの祈りに答えてくださるでしょう。 町のすべての教会が一致して祈るところに今、主の家は姿を現しはじめているのです。金槌でたたかれ、寸法通りになるように削られた困難な時代は終わろうとしています。霊的な力の時代が近づいています。

キリストの従順
この働きは妥協で生まれるものではありません。 このムーブメントの目標が一致であると考えるのは間違いです。そうではなく、私たちの目標は従順なのです。
すべての者が神に従順になり、キリストに似たものになりたいという願いを持ち、祈るとき、「一致」という言葉に新しい意味が与えられました。私たちの焦点はキリストにあるのです。パウロは、「すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させ」るようにと、教会に教えています。(IIコリント10:5)
私たちの思いの中で、まだキリストのとりこになっていない領域というのは、地獄との戦いに負けつつある領域です。しかし、私たちのヴィジョンが主にだけ焦点が向けられ、従順によって主に似るものとなってくると、パウロが語っている結末が達成されます。 「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(IIコリント10:6)

この箇所が意味することを全部説明しようすれば、それは単なる憶測の域を脱しないものになると思います。パウロが血肉のことをここで言っているのではないことは確かです。彼は血肉によって戦っているのではないからです。(エペソ6:12参照) ここで言われているのは、教会の従順が完全にされた暁には、この世がまだ見たことがないほどのものすごい(超)霊的な力が現われるであろう、と言うことです。
この超レベルの霊的な力はパウロの時代には実現しませんでした。確かに十字架によりこの世の君が裁かれ、無力にされ、武器を取り上げられたことは起こりましたが、すべての不従順は一世紀には明らかに罰せられるには到りませんでした。主ご自身にお聞きしてみましょう。「従順が完成された教会が霊的邪悪さや不従順を裁くことが出来ることは分かりますが、それ以外にも、多くの都市が開放されると言うようなすばらしいことがそのような教会から生まれて来るのでしょうか。」と。

主が都市を守られる時
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」 詩篇127:1
この箇所を調べる前に、ヘブル語の聖書の特徴を説明することが大切だと思います。旧約聖書の著者は多くの場合、真理を伝えるために同じ意味のことを2回繰り返しました。特に詩篇と箴言によく使われる手法です。 例として、「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。」 箴言18:20  ここでは、同じ内容が二つの言い方で2回表現されています。 もうひとつの例です。「私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。」 詩篇78:2 ここでは美しくかつ機能的な詩的リズムで真理が伝えられていますが、 2つの関連した考えを一つの慣用句にまとめてあります。
それと同じように、詩篇の作者が「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」 と言うときは、同じ真理を2つの言い方で言っているわけなのです。 
この2つを繋げているのが、主の働きです。即ち、「主が建てる家は立ち、主が守る町は守られる」のです。主はどのようにして町を守られるのでしょうか。主の家は「祈りの家」です。とりなしの祈りが神の臨在を町の中に招きます。言い方をかえれば、「主が家を建てられるときに、主が町を守られる」のです。 主の建築計画には、主の民が主の油注ぎによって力を得て、祈り、町を愛し、町のためには労を惜しまない、ということが必要とされています。 主の家が建つことによって私たちのコミュニティーは変えられて行きます。
イエスご自身も「・・・わたしの教会を建てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と約束されてこれを裏づけされています。つまり、主の家が主の御言葉にしたがって建てられるとき、個人や町に対する敵の要塞は打ち砕かれると主は言われているのです。
ひとつの町にリバイバルが起こると、天にあるもろもろの悪霊どもの力はどうなるのでしょうか。答えは、その地域の教会に満ちる神の霊がそれに置き換えられるのです! パウロはエペソ3:10で、天にある支配と権威に対して神の豊かな知恵が示されるのは、「教会を通して」であると言っています。 それでは、霊的領域では何が起こるのでしょうか。教会はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されています!(エペソ1:3) この場合、地域社会に及ばされるすばらしい影響力は天から来ます。主が町を守られるのです!

教会がキリストの指示通りに建てられず、利己的で分裂した状態にとどまるとき、暗闇の主権や力は町の人々の魂により大きく影響を及ぼす権利を手にいれます。このような町では、悪の霊が町を見張ります。これが本当かどうかは霊的識別力があまりなくてもすぐに分かります。郊外から車を走らせて、ある都市に行く機会があれば、その都市に入るときにそこに重苦しい雲がかかっているのにはっきり気がつくでしょう。この目に見えない壁が、この地域を圧迫して支配している悪霊の影響力の縄張りの境界なのです。その都市のサタンの力は「十分に武装している強い人」であり、「自分の家を守っていて、その持ち物は安全なのです。」(ルカ11:21)しかし、町のすべての教会がキリストに従順になるとき、すべてのクリスチャンがひとつにされ、地獄の力によってもその一致は阻止されることはありません。 教会の祈り、愛、行動を通して、主が町を守られるのです。

何でもあなたがつなぐものはつながれる
霊的世界と人間の思いや行動との相互作用について御説明しましょう。 霊的領域は天使、あるいは、悪霊によって占領され、それがどちらになるかは地上にいる人間がとる態度によって決定されるのだと、私は考えます。地は主のものではありますが、主はすべてのものを人間の足もとに、つまり、人間の責任下に置かれました。
サタンがイエスにすべての世界と栄光は「私にまかされている」 と言ったのは、半分だけ真実でした。世界は確かにサタンに渡されましたが、それは神によってではなく、人間が渡してしまったのです。
「サタンは私たちの家の近所や町を攻撃する許可を神から受けている。」という間違った考えを私たちは持ってしまっています。確かに、サタンは暗闇の領域へ侵入することはできますが、そこを占領できるのは、人間が罪を犯すことによってサタンにそうすることを許してしまう時だけなのです。
イエスはそれ故に次にように言っています。「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19、マタイ18:18) この2つの箇所は、一見異なった状況の中で同じことを教えていることに注意してください。マタイ16:18-19では、サタンを取り扱っており、マタイ18:15では罪を取り扱っています。 この二つの領域は相互に関係しています。人間の罪―悪い考え、言葉、行動―そのものがまさに私たちの町を支配するサタンの要塞になっているのです。ですから、教会の義が増し加われば加わるほど、サタンの隠れ家を奪うことができ、霊的領域からサタンを追い出すことができるのです。サタンは忍び込もうとするかもしれませんが、居座ることはできません。 教会が真に神に近づくとき、サタンは逃げ去るのです。

新しいヴィジョン
私たちが主の家を建てるために共に働くならば、私たちの力は減少するのではなく増大します。私の町のある牧師が、中絶クリニックとアダルト・ショップの前でデモをして神様のために働いていました。町にある多くの教会が共に祈る前は、このデモに参加する人は一番多い時でも120人でした。しかし、多数の教会が彼と祈りを合わせるようになった時、4000人以上が中絶反対のデモに参加したのです。その後は、テレビや新聞の胎児(の命)に対しての見方は、もっと理解の深いものとなりました。

町の教会が一致すると、ティーンエイジャーが受ける恩恵はすばらしく大きくなります。町全体のユースグループに大勢のクリスチャンのティーンエイジャーが集まって一致している様子を想像してみてください。 年長のティーンエイジャーは若い者に対してリーダーシップをとったり、牧会的な世話をする訓練をそこで受けることができます。
海外へのミッションが大切なことに変わりはありませんが、牧師たちはまず自分たちの町が第一のミッションの地であり、それをサポートすべきだと言うことが分かり始めて来ました。地域の牧師たちが協力して信徒たちを訓練し、同じ町の他の教会を建て上げるためにそこに派遣するようになって来ています。はっきり言って、一体現在の教会と「主の家」との違いは何なのでしょうか。過去において確かに主は教会をリバイバルで訪れて(visit)くださいましたが、主の家では主は力をもって住んで(dwell)くださるのです。癒しと開放は当たり前のことになるでしょう。聖さと恵みが満ちます。 主の家が建てられると主の守りがそこにあるのを人々は感じるのです。

生きた証
私たちの教会はアイオワ州のシーダー・ラピッズという町にあります。私たちがこの町の他の牧師やとりなし手と共に祈り始めたとき、アイオワ州全体では、凶悪犯罪が11%も増加していました。 しかし同じ時期にシーダー・ラピッズでは、凶悪犯罪は17%も減少していたのです。その年のFBIの調査で、全米の10万人以上の都市の中で、シーダー・ラピッズが最も安全な町だと証明されました。その後の敵の反撃にもかかわらず、今でもこの町はアメリカで最も安全な町の一つに数えられています。 また、多くのめざましい敵からの大勝利が次々と起こってきています。
都市で主の家が確立される度合いに比例して、不法は減少していくでしょう。主の家を建てるのでなければ、すべての働きは無駄になる、と言う時がやって来ようとしています。しかし、聖霊の励ましは揺るぎません。主が家を建てるとき、主が町を守られるのです!

  主よ、私の人生を取り扱ってくださってありがとうございます。私の町の他のクリスチャンたちとぴったりと組み合うように私の心を変えてくださってありがとうございます。神よ、この地域にもっと働いてくださり、すべての教会が一つの身体、一つの勢力、あなたの手中にある敵を攻撃するための一つの武器となるようにしてください。あなたの家を建て、そしてそこにお入りください、主イエスよ。そして、あなたの家の戸をあけて、町の通りに出てください。町を力で守ってください。 主イエスの名によって祈ります。アーメン (終わり)by Francis Frangipane



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by walkwithgod | 2005-12-15 04:38 | アメリカからのメッセージ

聖霊は今御国の精鋭を用意しておられる  12月3日


   卵をひなに孵すめんどりのように
            今私たちを覆って下さっている主のご臨在
                                           ウエード・テーラー


  「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」(ルカ13:34)
 めんどりは、次の世代を生み出すために、本能的に卵の上に坐って卵を温めます。それと同じように、主が私たちをより高い霊的領域と使命へと生み出したいと思われる時には、聖霊がその人を卵を抱くように静かに覆われるのです。特に今の時代にそれが起こっています。

 「 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。」(ヨハネの黙示録2:26,27)
 世の中は一段と混乱とフラストレーションの様相を呈しています。しかし、その間にも主は、主のご計画の時が満ちた時に、政府の高官となって「鉄の杖」で世を治める者たちを今静かに準備されています。
 卵の殻の内側で命が形作られていくのと同じように、今、聖霊によって命を与えられて胎動を始めた私たち一人一人の内に、新しい時代への生きた希望が形作られています。
 たとえ、私たちが自分に一体何が起こっているのか、又何のために自分が整えられているのかが分からなくても、聖霊の取り扱いを内に感じそれに呼応していく時に、聖霊は私たちを覆うことによって、私たちが主に取り扱われる過程を完成させて下さっているのですから、その聖霊の働きを妨げないで、積極的に協力していくことが大切です。その過程を経て初めて、私たちは終末の時に主の協力者として活動する者となる用意が出来上がるのです。

 「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。」(マラキ書4:1-3)
 この聖霊の内面的な深い取り扱いは、私たちの存在の中核に作用し、私たちを変え、それによって主のより高い使命(目的)にかなって用いられる者としてくれます。そうなってはじめて、主がこれからの時代に与えようとされている力を私たちが正しく使えると言う信頼を主から受けることが出来るのです。
 
 すべての被造物が終末の贖いの顕れを待ち望んでうめき始めています。イエス様は私たちに命を得させ、もっと豊かに得させようとこの世に来てくださいましたが、この世はまだイエス様のもとに来ようとはせず、むなしく探し続けています。それゆえに聖霊は、ご自分のしもべたちの上を静かに覆って、主が力をもって来られる時に効果的に働くことができるようにと今、備えをしておられるのです。
 主は今、ご自分が懐に抱いて暖め育てている人々にこう言われます。-「私をいまだに拒絶しているすべての者たちを、私は愛し、慈しんでいる。彼らが感じているフラストレーションを私も共に感じているのだ。」と。
 それ故に、主は今、聖霊によるひなに孵す覆いの臨在に喜んで応える者たちの内側を整える準備の作業を急ピッチでしておられます。これらの人々は、主がなさろうとしている準備の作業に、自分の存在、身体、魂、霊のすべてを無条件で差し出すことが要求されています。この主の働きに反するすべてのものを、私たちのうちから取り除かれようとする主の作業に私たちは一切を委ねなければなりません。

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」  (ロマ書12:1)
 主はご自分のしもべたちを今召しておられます。それは召された者が今の時に主への忠実な信仰で立つだけではなく、その生き方によってこの世の中で真の命を表現し、実演・実証してゆく者となるように召しておられるのです。この真の命こそ、主が、傷つき迷っている世の人々に与えたいと心から願っておられるものです。
 
 私たちが生み出され、より高い霊的領域で機能し始めるためには、「天が開く」ことを堅く信じ、又、それを勝ち取っていかねばなりません。私たちはその「開かれた天」の下で主を待ち望み、すべてをなさしめ、そのための力を与える主の恵みを受け取るのです。
 この終末のミニストリーを生み出すために、主が私たちの上を今はぐくみ覆っていて下さるのですから、私たちは主に対する愛と、又、聖霊が私たちの内に働いて私たちを変えようとしておられることを心から受け入れると共に、それへの感謝の念を常に言い表さねばなりません。それは、終末に主が解き放そうとしておられる王国の権威を私たちが正しく扱えるようにと今聖霊が私たちを整えていて下さるからです。
 聖霊様の覆いが続けられ、私たちがその聖霊の働きを受け入れて従う時に、主が私たちを整える準備の作業を必ず完成させて下さると言う望みを抱いて、私たちは安息に入ることが出来るのです。(終わり)



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by walkwithgod | 2005-12-03 03:16 | アメリカからのメッセージ

アメリカからのメッセージ 11月26日

 キリストの内にある宝を受ける時
                ポール・キース&ワンダ・デイビス

                 (WhiteDove Ministries)

2003年の終わり頃は、私にとって、今までで一番すばらしい啓示を与えられた幸いな時となりました。私は天の宝の部屋へ行くという驚くべき旅をしたのです。この経験を私は“Books of Destiny”という本に著しました。

使徒パウロはコロサイ人への手紙2:2-3で、我々がキリストにあって受けることができる豊かな遺産に関しての、励ましの言葉を書いております。

「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって、結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」

私たちが得るのは、この世の富ではなく、キリストのうちに隠されている知恵と知識という極めて貴重な宝です。啓示の御霊の助けによって、私たちがキリストの心の深みを探り求め、この膨大な富の価値を知ることができるのは、クリスチャンの特権であり、恵みです。

私たちが生かされている今という時代には、イエス・キリストのうちに隠されている神の奥義と秘密を知る機会が、以前よりずっと多く与えられています。預言者ダニエルはこのことを予知していました。ダニエル書12:3-4には次のように書かれています。

「賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって、永遠にいたるでしょう。ダニエルよ、あなたは終わりの時まで、この言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。」(口語訳)

神の国とその偉大な真理が、キリストのからだなる教会に回復されることが、終末の時代の特徴でしょう。それは啓示の時代であり、真理が回復する時であり、またそれと共に、闇の力の策略があらわにされる時ともなるでしょう。

神の真理がどのように私たちに知らされるか

真理は神の御言葉を通して啓発され、様々な手段で伝達されるでしょう。天からの啓示を受けた神の息子や娘たちによる美術や文学がおこってくるでしょう。創造者なる神の御心を知る、油注がれた芸術家たちによって、絵画や詩はもっと崇高なものへと引き上げられるでしょう。 天から新しい技術を授けられるクリスチャン建築家によって画期的な青写真が引かれることでしょう。

科学はものすごい進歩を遂げるでしょう。 細胞や分子の構造が、以前よりもっと明らかに解明されるでしょう。

真の教師イエスに出会って、彼から直接教えを受けた教師たちが、教会に真理をもたらし、その真理によって教会は、エゼキエル書44章にあるように「聖なるものと俗なるものとの違い、汚れたものときよいものとの区別」ができるようになります。偉大な奥義は神の御心の中に蓄えられていますが、それが終末の教会によって、探し求められ、発見されるでしょう。

教会の歴史の中で、非常に重要な節目に置かれている現在のクリスチャンが受ける分とは、このようなものなのです。この世代は、神のスケジュールのなかの「時が満ちた」という部分に突入し、扉を大きく開いたのです。 今はまさにカイロス、神が定められた特別の時であるのです。

もっとも重要な事は、神の力と栄光が、具体的な形で地上に現されるという点です。私たちの中におられるキリストが、栄光の望みです。神にすべてを委ねた人生の価値や、キリストの性質を持つことによって与えられる霊的な富のすばらしさは、到底量ることができないほど偉大なのです。

一つの実証

私はアイダホー州のカンファレンスで、コロサイ2章の宝の部屋について語ったのですが、そのあとでエリヤ・ハウス・ミニストリーの理事であられるジーン・ニーデルクラインさんから、私の話を実証するすばらしい証を聞くことができました。彼は私の話を聞いて、私に手紙と新聞の切り抜きを送ってくださいました。その記事には、このような子供は世界で一人しかいないと専門家たちが口を揃えて言っている、詩と絵画の天賦の才を備え持った10歳の女の子のことが書かれていました。

その子の名前はアキアンといい、彼女は4歳の時、超自然的に天国に行き、主にお会いして、主から芸術の賜物をいただいたというのです。彼女は「私は神様に会って天国に連れて行ってもらったの。」と言ったと、記事には書かれていました。

その体験をしてから、彼女はすぐに肖像画やスケッチを描き始めたのですが、それは明らかに4歳の子供の域を超えたものでした。彼女は詳細ネ天使の絵を描いたり、驚くべき霊的真理を表す詩を書いたりしたのです。彼女の家庭は無神論で、神に関しての知識はなにも教えられていなかったのですから、まったくそれは驚くべきことだったのです。

これから来るべきものの前兆

アキアンは、まさに、これから天の宝庫に招かれて、キリストのうちにかくされた知恵と知識の富を受け取ることが許される人々の、最初のしるしなのです。彼女は「神様が私にビジョンを与えてくださるので、私はただそれを描くだけなの。夢のようなかたちで私はそれを受け取るのよ。」と言っています。

彼女は毎日祈りの時を持つのですが、多くの場合、その祈りの時に神からのインスピレーションを受け取るようです。彼女の絵の多くは、今の時代の霊的状況を反映する深い意味を伝える寓意に満ちています。

彼女は神様から、すべての人類の顔を描きなさい、と言われたということです。その結果、彼女の作品の中で一番印象的なものは、一人のアジア人の女の子のものと、アフリカ人の兄と妹を描いたものです。 彼女の体験や作品は驚くべきものなので、彼女はオプラ・ウィンフリーの番組やCNNにも出演しました。彼女のゴールは「自分の絵を通して人々を神様に近づけ、自分の詩を通して人々の心を神に引き止めておくこと」だと言っています。

CNNのルー・ドブスは感歎して、彼女について次のように語りました。「彼女の絵が他の天才少女、少年のものを引き離しているのは、彼女のものは本当にリアルで、感情にあふれていることだ。普通、天才と言われる子供たちの絵は、抽象画が多い。子供でありながら、このような高度のリアリティを持つ絵を描くことができるのは、まったく驚くほど珍しい。彼女の細密な描写やセンスのよさはまったく信じられないほどだ。これは天賦の才だ。驚くべき才能だ。なんという非凡な子供だろう!」

あるロシアの解説者はこう言っています。「8歳の子供が、このような知恵と憐れみと愛を湛えた目をもつ人物を描くことができるとは、なんと説明していいのかわからない。ビジュアルな力と共に、技術や感情的な細部にわたる表現は、まったく仰天するほどであり、ずばぬけている。私は、難しい問題が多くて疲れた日などは、彼女の絵をを見るだけで救われる気がする。彼女の自画像をみると、彼女から光が実際に出てくるようだ。なんという偉大な使命を彼女はこの地で与えられていることだろう。」

このように世界中の人が、彼女の芸術をどう説明し表現しようかと苦労しているのですが、それを私たちクリスチャンは「聖霊の油注ぎ」という一言で説明できるのです。 主を知るゆえに他の人とは何か違う資質をもっている人を説明するときには、よく「カリズマがある」とか「個人的魅力がある」とかという表現が使われます。 しかしそれは、実際は神からの恵みであり油注ぎなのです。 美術や文学、音楽、テクノロジー、経済に対する今までの理解を変革し、一新するために、神が編成しようとしておられる軍隊に招聘されるのは、こういう人達なのです。

アキアンのウェブサイトは www.artakiane.com です。

アキアンとの出会い

私は2004年の終わりまで、国中の様々な集会でアキアンのことを紹介しました。そしてとうとう、ある人のお世話で、私と妻と二人の友人の4人が、ノースキャロライナ州のシャーロットという町にある画廊でアキアンと彼女の母親とに会うことが出来ました。この出会いは、いろいろな意味で大きな祝福となりました。

私たちは、まず、この10歳の女の子が霊的にどれほど成熟しているか、主をどれほど愛しているかを見て大変驚きました。また、そこで彼女の作品を見ている人々が、深い霊的感銘を受けているのもわかりました。

画廊に来ている人々の多くが、彼女が描いた主イエスの肖像画の前に立ち、涙を流していました。彼女の一番最近の作品は、聖書の中には書かれていないイエスの姿です。

そこには、彼女が幻で見たティーンエイジャーのイエスの姿が描かれているのです。イエスが長時間祈られ、これから自分が進むべき人生の指針と洞察力を父なる神に求めておられる姿です。人々の心に衝撃を与えるようなイエスの姿が描かれています。

彼女は、まず主から一つのイメージをオープン・ビジョンで受けとり、それをカンバスの上に描きます。 彼女の唯一のゴールは、人々を主イエスに引き寄せるということです。

キリスト教界から拒絶される

アキアンと母親の話を聞いて、大変驚いたことがあります。 それは、キリスト教界の多くが、彼女の作品も、主との超自然的な出会いの証も受け入れていないということです。

彼女たちの話では、自分はクリスチャンであるという人達から、毎日100通ものメールが送られて来て、それはすべて彼女の証を疑い、批判するものだということです。それと反対に、彼女の絵の霊性を理解しない一般のメディアや画廊などが、彼女の絵を歓迎しているとのことでした。彼らはただ「天才少女」として彼女を見て、何か自分たちの利益につながると考えるのです。

その話を聞いて私たちは、できるだけ多くのクリスチャンに彼女の証を話すようにしています。 それによって教会が、彼女がすばらしい賜物を神からいただいていることを認めて、彼女や彼女の家族を祈りによって支えるようになることを願っています。 このようなすばらしい賜物が、私たちの手から滑り落ちて、この世の神の手中に落ちることを許してはならないのです。

彼女が賜物を伸ばしていくだけでなく、個人的にも成長してゆける健全は霊的環境が、今もっとも彼女に必要なことです。歴史的に見ても、このように個性的な創造力をもつ人材を、擁護し成長させていくことに、教会は多くの場合失敗してきました。私たちは、ともすれば、そういう賜物のある人たちを追放したり、又、逆にその人の才能にあまりにも大騒ぎをしてしまったりするのです。

アキアンに、そのどちらも起こらないようにと、私たちは祈ります。
彼女のために祈る人たちが起こされて、彼女を守り、彼女が自分に与えられた賜物を伸ばしていくのと同時に、霊的にも成長していける霊的環境を備えることができることを私たちは望んでいます。

教会の中には、彼女の証と賜物の性質を理解し、信じ、喜ぶ人々がいるということを、私たちは彼女に伝えました。私たちはできる限りの励ましを彼女に与えました。

私が、これからも神の御心の啓示をうけて描くことを決してやめないでください、と言うと、「私はやめることなんかできないわ。主が私に見せてくださることを描かねばならないんですもの。」と彼女は答えてくれました。 (終わり)


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by walkwithgod | 2005-11-27 15:32 | アメリカからのメッセージ

Creative Truth  創造的真理

キム・クレメント

イエスの力が最も顕れたのはいつだったと思われますか? それは主がサタンに面した時だったのです!それと同じように、あなたが手強い敵や厄介な問題に遭遇しそれに打ち勝つ時に、最もあなたの力は発揮されるのです。ですから、敵や逆境が襲ってきたときには、今までとは違う角度でそれを見なければなりません。

エペソ3:20に「(主は)私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことが出来る方(である)」と書かれています。

墓の中の真理は胎の中の真理のような力はない

真理には二つのレベルがあります。すでに確立された真理とまだ確立されていない真理です。後者は、まだ成熟しきっていない、まだはっきり見えない、ぼんやりとその辺りに浮かんでいる感じのものです。私が「真理」というとき、それは真理の発見を意味しています。あなたの人生に何かが起ころうとしている、今まさに自分はそこに踏み込もうとしていることが分かっている、けれどもまだ生まれ出てはいないもの、その「新しい真理」をあなたがはっきりと見出していくとき、あなたの力は最も発揮されるのです。あなたの人生の中には「まだ分らないもの」があるべきなのです。次に何が起こるのかが分らないとき、人は非常にフラストレーションや怒りを覚えます。しかし、もし、あなたの人生で次に何が起こるのかみんな分かっていたら、退屈するのではないでしょうか。はじめから分かっていたら、あなたは邪魔なものは取り除くし、厄介なことからは身を避けることでしょう。ですから神様は少しだけは教えて下さいますが、あとは暗やみの中を手を取って導いてくださるのです。それは、あなたに将来起こることのすべてを知って欲しくないからです。暗やみの中にこそ宝が隠されているのです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、あなたは暗やみの中にいるときに信仰の一番頂点にいるのです。

「見るところによってではなく信仰によって歩く。」(IIコリント5:7)

この暗やみというのは、罪の暗やみではありません。次に何が起こるのか全く分からない場所、という意味です。暗やみの中でつまづく時、私たちは一番大きな力が発揮できるのです。(勿論、その経験は決して喜ばしくは感じられませんが)暗やみの中にいる時ほど私たちが強くされる、そして勿論フラストレーションのある、時はありません。将来のことはチラッとは見えるかもしれませんが、詳しくは全く分りません。神様は詳細は語られないからです。というのは、もし詳細が分ったら私たちに信仰は必要ではなくなりますし、「信仰がなくては神を喜ばせることは出来ない(ヘブル11:6)」のです。

もし、あなたの人生に何が起こるのか、はじめから全部分かっていたならば、あなたは神を喜ばせる信仰を持つことができないのです。

集会で人々に預言をし始めるとき、私は彼らについて何の知識もありません。それは私にとって最も危うい場所なのですが、それと同時に最もすばらしい、力のある場所でもあるのです。なぜならば、そのとき私の信仰は頂点に達するからです。私の信仰は当惑させられ、激しく揺り動かされます。主が私を激しく揺さぶり、私の中のまだ生まれていない「信仰」が突然胎動を始めるのを私は感じるのです。

あなたの中にまだ生まれていない信仰が宿っているのをご存知でしょうか。神様があなたを窮地に追いやり、信仰という泉から水を飲むしかあなたには方法がなくなるとき、あなたの中の信仰は胎動を始めるのです。「分からない」というのはあなたにとってよいことなのです。多くの人が私に電話をかけてきて、神様が自分の将来に何を計画しておられるのかを教えてくれ、と聞くのですが、私はほとんどの場合、「私にも分かりません。神様は私に何も語られていませんよ。あなたがまだわからないようにと主は望んでおられるのです。」とお答えします。主があなたのために次に計画されていることは、必ず、あなたが十分に対処できることです。それにあなたが出会う時、あなたの信仰が始動し、神はあなたを新しい境地へと進ませてくださるのです。

神様がアブラハムに語りかけたときは、彼の国、父の家から出て行くようにと言われました。アブラハムは神に従い、言われたところへと出かけて行きました。それによって彼は「信仰の父」と呼ばれ賞賛されました。
アブラハムは自分の行き先を知りませんでしたが、何か偉大なことが起ころうとしていることは分かっていました。行いのない信仰は死んでいます。

「墓の真理」では役にたちません。それはいつも葬られては復活させられるものです。ある時代に一つの真理が確立されると、しばらくは生きていますが、その後、教義や信条によって葬られてしまいます。教会は真理の周りに垣をめぐらします。すると次の世代の者がそれを見出し、また命を与え、前の世代の二倍の価値をその真理に与えます。

しかし、どの世代にも預言的な人たちがいます。彼らはパンだけを食べて生きていくことに満足しないのです。すでに作られたパンを食べるだけでは満足せず、彼らは神様の口から出るパンを求めるのです。人々は使い古された真理に飽き飽きしています。多くの説教者たちは、そのような古い真理に「自分の考え」や「自分の確信」をどんどん付け加えて完璧にしていきます。ですから、それを聞く者には自分の信仰を働かせる余地が全く与えられないのです。確かに確立された信仰、真理は大切です。しかし、創造的な新しい真理こそが、あなたの信仰を生まれださせるのです。

預言、このフラストレーションを引き起こすもの

この預言というフラストレーションを引き起こすものは、どのように捉えたらいいのでしょうか。聖書にはすべての人が預言をすると書かれています。

「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなによってさばかれ(ます。)」(Iコリント14:24)

「あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」(Iコリント14:31)

神があなたに語られるのは、まだ起こっていないことに対する信仰(預言的信仰)をあなたに与えたいと思われるからなのです。まだ起こっていないにもかかわらず、その事に対する信仰をあなたは得るのです。神からの言葉を受け取るとき、それが実際に起こる前に「それは必ず起こる」という信仰を神はあなたに与えてくださいます。ですから、その事が実際に起こり始めるときまでには、あなたはすでに自分の思いの中でそれを実現していますから、そのための信仰をその時になってあわてて掘り起こすという作業をしなくてもいいのです。

あなたは聖書を長時間読み、御言葉を学び、「御言葉が私に信仰を与えてくれた。」と言われるかもしれません。しかし、それだけでは十分ではありません。あなたが自分で獲得しなければならない信仰の領域があるのです。預言の言葉が来たとき、物事が実際に起こる前にあなたが信仰を持つことを、神様は望んでおられるのです。聖書を読むことは、私たちが地上で人生を歩むときに神様の基本的法則をどのように使っていけばよいかという知恵を授けてくれるものです。

神の姿を認識することを学ぶ

「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして、言った。『主よ。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。』」(創世記18:1-3)

アブラハムは彼らが神であることが分り、「主よ。」と呼びました。あなたは神がどのような姿をしておられるか知っていますか。神は水を出す岩の中におられるかもしれないし、燃える柴の中におられるかもしれません。もし燃える柴の中に主がおられると知ったならば、あなたはきっと火のそばにキャンプをはり、柴が燃え尽きて灰になるまでそこにとどまることでしょう。しかし、灰になった時には移動せねばなりません。

過去に起こったリバイバルのほとんどは灰の山になってしまいました。人々はその灰の山の周りに集まり、そこから火を受けようとするのです。そうではなく、私たちはエジプトに行くべきなのです。そこに火があるからです。もはや燃える柴の中ではなく、エジプトに火は移ったのです。モーセは燃える柴の中から神の声を聞き、エジプトに行ってイスラエルの民を圧制者から救いだすようにとの指令を受けたのです。

神様は雲の柱、火の柱でイスラエルの民を導かれましたが、それはモーセが燃える柴のところに留まらなかったからこそ経験できたことであり、それによって彼らは約束の地に入ることができました。(出エジプト13:21)

歴史上、たくさんの大リバイバルが起こりました。特に20世紀はカリフォルニアのアズサ・ストリートから始まり、世紀末まで各地でリバイバルが起こりました。しかしながら、リバイバルが灰になってしまったときには、もう一度そこに火を起こそうとしてはならないのです。次の場所に移るべきです! 何か別のことが起こるのです! その火を別のところで、別の形で、見つけるのです! 今、神は私たちをマーケット・プレイス(職場、街中など人々が毎日生活している場所)に遣わしておられます。今までのように、安全な教会の建物の中で集会をするだけでは駄目だと主は言われているのです。エジプトに行かないでは「火」を見たり、聞いたり、知ることは出来ないと主は言われます。 あなたは変えられなければならないのです。あなたは本当にエジプトに行く用意ができていますか?     

アブラハムが御使いの前に立ったとき、彼は水とパンをまず与え、それから上等の子牛をほふりました。それはアブラハムがこの訪問者が神様であると気づいたからです。(創世記18:4-9)

アブラハムは彼らに供するものを増やしていきました。それは神様にもっと長く留まっていただいて、彼の家に何かよいものを下さることを願ったからです。アブラハムは主が「訪れること visitation」だけでは満足しないで「住まわれることhabitation」を望んだのです。アブラハムは神からの約束が果たされるべき時がきていることを知っていました。それで彼は自分の持っている最上の物を捧げたのです。御使い(神)は留まりました。そして「あなたの妻を連れて来なさい。」と言ったのです。神様は訪問を滞在に変えて、約束の子が来年の今頃生まれとる約束をしてくださったのです。(創世記18:10)

神様があなたの家に長く滞在されれば、あなたの家で何かが生まれるという約束をしてくださるのです。アブラハムの場合は一つの国家が生まれました。あなたの中にも神様の臨在によって生まれる時を知らされるのを待っている国家があるかもしれないのです。 ですから神の訪れvisitation だけで喜んではいけません。

重要なあなたの応答

「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そし
ておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やってくる。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。』」(ルカ19:41-44)

訪れvisitationは、ギリシャ語ではEpiscopeといいますが、視察とか検閲という意味を持っています。ですから、神があなたを訪れるのは、今までより偉大なことを受けるための準備があなたに出来ているかどうかを視察に来られるのだということが分ります。イエスがエルサレムを見られた時、涙を流され、言われました。「おまえは、神の訪れの時を知らなかった。」と。それはつまり、「あなたは検閲の時を知らなかった。故にあなたの子どもたちは敵によって踏みつぶされる。」と言われたのです。ですから神の訪れの時にあなたがどう応答するかが重要なのです。神は訪れて視察され、主が今度来られるときにそれに応じて報いをあたえるのです。主が訪れたとき、あなたのおかれた状況はあまりよくないかもしれません。ですから自分のその時におかれている状況で主の訪れを判断してはいけません。イエス様が検閲にこられたとき、エルサレムはよい状態ではなかったのです。

神様の訪れはアメリカでも起こりました。大きな火がカナダやフロリダ、そして西海岸にも20世紀の初頭からやってきました。それはこの世代に必要なものをもたらしてくれました。そして、これらの火は終息しました。これからはもう長い間、あのようなリバイバルの火は教会の中では起こらないでしょう。しかし、それよりも大きな火があなたの家庭に訪れ、神様はあなたの家族を祝福してくださるでしょう。火は又、マーケット・プレイスに移りました。「あなたはテレビや新聞などのメディヤ、マーケットプレイス、そして新しい場所で私を見出すであろう。」と主は言われます。リバイバルの火を再び見たいのならば、あなたはマーケットプレイスに行かねばなりません。教会の中にだけそれを求めてはいけません。火は街のなかにすでに移ったのです。(終わり)
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by walkwithgod | 2005-11-18 17:24 | アメリカからのメッセージ