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奇蹟の道を築け キース•ミラー 2010年5月16日

奇蹟の道を築け

キース•ミラー



ダイナマイトが必要だ!

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力(デュナミス:ダイナマイトの驚異的な力、勢力、強さ、聖霊による力)を受けます。」使徒の働き1:8

デュナミスには変革する力がありますー信じてください! それは爆竹のように小さいものではなく、 ダイナミックで地を揺るがすような激動的な力であり、その力が私たちの上に臨むと不可能なことは何もなくなり、すべてが可能になるほどの力なのです。それは地球を揺るがし無限で止む事のない継続的であり終りのないメガワットの神の力であり、あなたの周りの世界を揺り動かさずにはおかない力なのです。

今までにあなたの人生の中で、地を揺り動かし影響を与え物事を動かし変革させるような力を経験したことはありますか? もしあなたが次の代や後世に霊的遺産を残したいと願うならば、あなたにはこのような力が必要です。

どのくらいで満足するのか

もしあなたがそのような力をまだ経験したことがないならば、それは神が貴い聖霊によってずっとあなたに与えようと用意されているものよりずっと小さなことで、あなたが満足してしまっているからかもしれません。私たちの多くは自分の考えに枠をはめてしまい、その結果部分的な勝利で満足してしまっているのです。本来ならば私たちクリスチャンが部屋に入るだけで、そこにいる人々はイエス様のことを知りたいと懇願するはずなのです! 地域社会、職場、政治的指導者、そして王や大統領さえも、重要な事柄に関する知恵と策を教えてくれと私たちに頼むはずなのです。私たちの中からもっと多くの人が、メディヤの世界、ハリウッド、政界や実業界で影響力のある地位についているべきです。

確かに人々はイエスの救いの力を知るようになってきていますし、奇跡がそこここに起こり、祝福が私たちに注がれています。しかし、私たちはもっと偉大な神の力の顕れを見ていませんし、もっと大きな神の栄光が与えられて私たちから流れ出し、その力によって真に驚くべき変革が起こるのもまだ見てはいません。

歴史上に残る素晴らしい御業のハイウェイを築くために神が取られた方法は、使徒パウロが言っている「神の栄光の豊かな宝」を流れ込ませることによってでした。その豊かな宝は 神ご自身の満ち満ちたさまにまで私たちを満たすものであり(エペソ3:16、19参照)それはすべてのことを可能にする素晴らしいデュナミスの力を与えるものです。神の御霊と力とは決して切り離しては考えられません。

イエスのミニストリーの秘密

それは秘密ではない!

黙示録3:1を見ると、イエスは神の七つの霊を持っていたことがわかりますが、イザヤ11:2を見るとそれが更に詳しく書かれています。イザヤは聖霊ご自身がイエスの上にとどまられたと書いています。聖霊により知恵と悟り、はかりごとと能力、主を知る知識と主を恐れる霊が注がれたのです。そして聖書にはイエスは無限に神の御霊が注がれたと書かれています。(ヨハネ3:34)

イエスは制限というフタを吹き飛ばされたのです。それはイエスが「ある程度」とか「制限付き」のものでは決して満足されなかったからです。人間の知性、知恵、能力には限界があります。 主は歴史の流れを革新的に変えられましたが、それをするために主は、神の満ち満ちた 御霊の知恵、悟り、はかりごと、能力、知識を求めそれにより頼まれたのでした。 満ち満ちた無限な神の御霊だけがイエスを満足させたのです。 豊かな宝がそそがれ、満ち満ちた御霊の顕れが御自分の心から流れ出すまでは1インチなりとも動かれなかったのです。その結果、主の臨在はすべてのことにおいて顕れ出たのでした。

イエスは言われました。
「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川(rivers of living water)が流れ出るようになる。)これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』ヨハネ7:37−39

ここで「川 rivers」が複数なのに注目してください。それは貴い聖霊の流れが複数あることを示しています。一つの御霊、そしてその七つの機能、顕れがあなた方を通して働くのです。それは私たちが日ごとに聖霊の深みと自分の深みとの間の親密な交わりをすることにより、 神の力により私たちが主のご性質にあずかる者へと変えられていくということです。(第二ペテロ1:3、4)

貴い聖霊の素晴らしい流れの一つ一つは、すべてのクリスチャンが与ることができるものであり、それは 私たちがこの世を主の栄光のために変革しようとしていくとき、常に前進し発展して進めるように助けてくれます。 神の七つの御霊のすべての機能、顕れが私たちの中に流れ込み、流れ出して、それによって完全に神の御国が現実となり勝利が得られるのを私たちに見てほしいと神は願っておられます。聖霊の七つの顕れは御国の深い奥義をあらわし、私たちに偉大なることをする力を与えてくれます。そしてあなたを通して働く主の偉大な力によって、主が栄光と誉れを受けることになるのです。

結論

町を一日で改革する、あなたの放蕩息子を家に帰らせる、政府を変える、大勢の人がいっぺんに癒される、あなたのミニストリーや人生が進展するというようなことのために必要なのは、主の絶えることのない臨在があなたの上にあることであり、知恵、悟り、力、知識、主を畏れるこころによってあなたを通して主の満ち満ちた様が働いていることです。これが即ち、制限や限界を取り除くと決意したすべての人が受け取ることができる「無限の油注ぎ」です。

もし聖霊が神の満ち満ちた様であり、神が永遠—絶えることのないものーであるならば、聖霊のすべての特性もそうであるはずです。主はこの絶え間ない生ける水の川(rivers)をあなたの中に流れ込ませ、 流れ出させ、あなたの人生が毎日聖霊の力ある流れを顕し、主の力によってこの地に主の栄光をもたらすことができるのです。部分的な勝利では歴史は作れないことを忘れないでください!(終わり)

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by walkwithgod | 2010-05-16 14:38 | アメリカからのメッセージ

水嵩が増している!ペンテコステにむかって動き続づけよ!チャック・ピヤス 5月6日

水嵩が増している!ペンテコステにむかって動きつづけよ!

チャック・ピヤス
 

主が言われます。「わたしの民のうちにある川を今わたしは涌き立たせています。わたしの民のうちの川が涌き上がり今 溢れ流れます。あなたたちの川の多くは瓦礫やゴミで一杯になっています。これから数週間にわたってわたしはあなたを清めます。清められねばならない恵みがあります。清められねばならない窓があります。わたしがあなたを清める時があるのです。なぜならばE-コライ(O157)のようなバクテリヤがあなたの腸に入ってしまったので、わたしはきれいな大腸を造りはじめます。将来のためにわたしが用意しているものをあなたの胃が消化できるようにわたしはします。わたしの清めの川が流れ始めます。」

ペンテコステにむかって動き続けよ!

ペンテコステに近づいている今、私たちは思いと考え方を「収穫」にむけてシフトしなければなりません。新しい道への扉が形造られるのを注意して見守ってください!「形造られる」という意味は、ある事に形やアウトラインが出来てくることとか、或いはある物に意味や特質、性質が与えられてくるということです。

形造られる時を見るもう一つの方法は、何かが将来なるべき形に次第になってくる時がそうであるということです。これには将来その事を実行するための備えとして私たちの心とからだを整えることも含まれます。形造られるシーズンに起こることは、心にそのことへの思いを抱くこととか、それへの訓練、鍛錬を含みます。このシーズンはその事に特有の形を与えるパーツを揃える時です。

ペンテコステの鍵となる箇所は第一コリント16:8です。ここでパウロはペンテコステまでエペソにとどまろうとしています。というのは彼にとってよい働きが出来る扉がエペソで開いたからです。この形造られている扉の背後には多くの敵もいます。しかし主はこう言われます。

「このシーズンにはあなたの敵に焦点をあててはいけません。ドアが形造られるのを注意して見つめ、この新しく与えられたチャンスの中に入っていく準備を整えていなさい。わたしはあなたが敵に打ち勝つようにあなたに恵みを与えます。わたしはあなたに新しい仕事(招命)を与えるので、あなたは新しいミッションの場へと出ていくのです。」

暗闇を恐れるな

神は神の民の中のある者たちを暗い構造の中に遣わします。暗闇を恐れてはいけません。神はあなたに「夜のヴィジョン」(夜の暗やみで物が見える双眼鏡のたぐい)を与え、どのような不義の構造の中でも義の道が見えるようにしてくださいます。これは普通の海流の中でメキシコ湾流 Gulf Stream に乗って動くようなものです。メキシコ湾流はメキシコ湾で出来た暖かい海流で、フロリダ海峡を通り大西洋の冷たい水の中に流れ込みます。神は水を分けておられるのです! 今までいろいろな地域でイエスの大宣教命令を遂行するのを阻んでいた暗闇の霊どもが、今や収穫の門を明け渡すのです。

第一コリント16:9には「というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大勢いるからです。」と書かれていますが、これが今のシーズンに現実のものとなるでしょう。神の御言葉なるイエスが、今まで心を閉ざし神によって解放されることを拒んでいた人たちのグループや場所にも入って行かれるでしょう。悪魔の軍勢は紅海のように両側に分けられ、神の子供たちが、そこを通り新しい任務に着くまで両側にとどめられているでしょう。

収穫の時!

私たちのほとんどは収穫の時に関する知識があまりありませんが、今は穂束を揺り動かして捧げる期間なのです。聖書には私たちは毎日最上の穀物を揺り動かして捧げながらペンテコステを迎え、そして新しい収穫の時に入ると書かれています。 今私たちは複雑な社会生活を送っていて、自分の食料が実際に生産される場所からはかけ離れて暮らしをしていますが、収穫の季節は人々にとって最も大切なシーズンでした。(創世記8:22、45:6)収穫の時期に多くの出来事が起こりました。(創世記30:14、ヨシュア3:15、士師記15:1、ルツ1:22、2:23、第一サムエル21:9、23:13)

収穫にはプロセスがあることを私たちは知る必要があります

1.冬が終るころ種を蒔き地中に埋める。
2.初めと終わりの雨のために祈る。(ゼカリヤ10)
3.穂を掴んで鎌で刈る。(申命記16:9、マルコ4:29)
4.穂を集めて束にする
5.穂束を脱穀場に運ぶ
6.道具を使って脱穀する。あなたはその道具を持っている。
7.殻粒を空中に放り上げて取り除く。風が吹いてあなたのもみがらを吹き飛ばすように。
8.穀物を篩いにかける。(アモス9:9)あなた方の幾人かはこのプロセスに入っている。
9.穀物を蔵にしまう。あなたの穀物蔵を見つけなさい。

さて、 収穫にはいくつかの大きな敵があるので、それらから収穫を守らねばなりません。

1.旱魃 あなたのすべての干涸びのもとになるものを明確にし、それらを打ち破るように主に願いなさい。
2.イナゴの襲来 あなたの収穫を食い尽くす物を取り除くように主に願いなさい。
3.稲の病気(カビ、うどん粉病など)あなたの人生のカビを取り去ってくださいと主に願いなさい。
4.熱く焼けつく風 害を与えるような風が来ないように主に願いなさい。
5.戦い 敵はあなたの地に入り込んでその地の産物を食べていた。そのあなたの地の収穫を食べていた敵に対してあなたの地から出て行くように宣言しなさい。

初穂:祝福の鍵

ペンテコステは「初穂の日」(民数記28:26)と呼ばれました。それは人々が初穂の捧げものを持ってくる日だったからです。これは収穫の季節が終了した感謝と喜びのお祝いでした。そしてこれらの捧げものは「揺り動かす捧げ物」として人々のために捧げられました。初なりの果物、ぶどう、穀物、油、ぶどう酒、そして最初の羊毛が捧げものとして必要でした。(出エジプト22:29;レビ記2:12−16;民数記18:12;申命記18:4;第二歴代誌31:5;ネへミヤ10:35、37、39;箴言3:9;エレミヤ2:3;ローマ11:16)

この時期の雨と豊穣の源は主であると言われていました(エレミヤ5:24)新約の時代にはペンテコステに聖霊が弟子たちに下りました。(使徒2:1−4)国々からユダヤ人たちがこの恒例の祭りを祝うためにエルサレムに来ていました。ペンテコステと仮庵の祭りの間が初穂のささげ物をする期間でした。

あなたが捧げるべき初穂を主に願いなさい。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-05-07 11:28 | アメリカからのメッセージ

車輪の中の車輪になる ウエイド・テイラー 4月28日

車輪の中の車輪になる

ウエイド・テイラー




イエスが最初に地上に来られた時に、ご自分一人のからだを通してへりくだりをもってなされたすべての業を、今度は集合体である「キリストのからだ」を通して再びされようと主はしておられます。これは再臨の時に備えるためです。

この「集合体であるキリストのからだ」の一部とされる人たちは、 顕現の栄光をもって働けるようにと現在「整えられつつ」あります。それは彼らが「生きたまま殉教している者」、即ち 人々が彼らを見るときにそこにただイエスの姿しか見えない者とされるということです。イエスがこれらの「勝利者(聖徒)」のところに来られて栄光を受けられる時が迫ってきています。

「 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 その日に、主イエスは来られて、ご自の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。」(第二テサロ二ケ1:7−10)


この箇所は、 この目的のために主が整えられた人々を通して顕される「栄光」について書かれています。


「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。 」 エゼキエル1:4


これは集合体としてのキリストのからだが終末の栄光の中で働いている姿であり、その働きによって神の支配される千年王国が地上に確立されるのです。


 「それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。」
エゼキエル1:16

  私たちは今「六日目」が終ろうとしている時に生きています。それはイエスの終末の目的に用いられる「勝利者たち」を整えるために、主が顕在の栄光を顕し始められるときなのです。それが「車輪の中にある車輪」であり、私たちの命が主の命と合体し、主の命を表現するものとなり、国々やすべての人類に大きな影響を及ぼす力となるのです。

「わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。」エゼキエル1:15

これは私たちの生き方がイエスに「完全に服従し」、聖徒たちのうちにおいて栄光を受けられるイエスと一つ(地の上の一つの車輪)となって 「動いている」ことを表現しています。ですから車輪と神の御心とは同義であると考えられ、私たちが栄光と調和と従順のうちに主と共に動いていることを表しています。

この栄光は動いている栄光であって、その中で私たちは 栄光溢れる主の顕現の臨在に気づいて溢れるのであり、またその中で私たちはこのような高いレベルの油注ぎと、それによって可能ならしめる終末の力を受けた時にどのように働けばよいのかを学ぶのです。


「またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
:9 翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。」
エゼキエル1:5−6、9

「彼らはおのおの四つの顔を持ち」とは、主との関係における私たちの四つのアイデンティティーを表しています。即ち、勝利者、花嫁、息子、男の子 man-child (黙示録12:5)の四つです。私たち一人ひとりはこの「車輪」の中の違う部分であり、それぞれ違う働きをしています。「四つともよく似ている(16節)」とは、私たちの命が主に全く服従している故に「主の命」を表すものとされていて、集合体としてのイエスのからだとして機能していることを表しています。

「(おのおの)四つの翼を持っていた」とは、私たちはそれぞれが 御霊の領域で動ける能力を自分のうちに培われていたということです。

「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ 40:31

「彼らが進むときには向きを変えなかった。」この従順なる服従は私たち(車輪)のうちからはじまり、そして、外側にむかって私たち自身(車輪の中の車輪)から広がっていき、ついには地上全体を満たすのです。

 「そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。」エゼ キエル 1:14

これは心を一つにした完全な服従と従順を表すと共に、「霊による瞬間移動」のことを言っています。終末においてこれは次第に頻繁に起こるようになります。

 「生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。」エゼキエル 1:13


  私たちは栄光の中で 洗い清められる(イザヤ6:5)だけではなく、「栄光から栄光へと」変えられつつあるのです。私たちの姿が「燃える炭」のようであるというのは、私たちが非常に濃い油注ぎの中で神の七つの御霊を知り、それを通して機能することによって、他の者たちが見えない事や理解できない事を見て理解するという鮮明な霊的感知力と目的を持っている状態を表しています。

 「そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。」詩篇 132:17

  主は地球上にいくつかの特定の場所を選び、そこを「ホットスポット/熱い場所」として特別に確立されつつあります。これらの場所においては主の栄光が顕現され、強烈な聖霊の火による御業が起こるのです。 終末の主の目的に参加するように整えられている者たちは、これらの「特別に選ばれた場所」を認識することができ、そこに集まってきます。そして強烈な油注ぎと力をもって世界へと遣わされて行きます。

 「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、」ダニエル 7:9

「火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。」  詩編97:3−4


これは「事を成し遂げる言葉」のことを言っており、私たちが顕現の栄光の中におられる主と共に働き、聖霊の火によって「鉄の杖」で統治することです。そのような働きをするためには高いレベルの霊的耳と従順が要求されます。

「それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。」   エゼキエル1:20-21


「車輪」は栄光のうちに来られる主(かしら)であり、車輪の中にある車輪—主の命の中にある私たちの命ーを通して主はご自身を顕現されるのです。 主が終末に来られる時、多くのものが救われ、艱難時における裁きがなされ、千年王国が確立されるという三つの御計画を、主は私たちを通して達成されるのです。その結果「すべての目が彼を見る(黙示録1:7)」ようになります。

 「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。 」 2テサロニケ 1:10


「車輪の中にある車輪」とは私たちの命の中に神が介入され、主が主権をもって来られることを表しています。主は私たちを通して働かれ、終末における主の目的を達成されるのです。これは私たちが持っている信仰とか能力を完全に超越するものです。これは非常に高度な召命なので、他の者たちに要求されるものを越えた完全な服従と清さを持つことが必要です。

 「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」
イザヤ60:1−3


これは、ある一つの神の介入(主の再臨の一環としての) を通して私たちが主の顕現の栄光へと引き上げられ、神の目的のためにその権威をもって働く能力が与えられることを語っています。私たちは今、終わりの時、即ち最後の準備の時に生きています。主の召しに応答するものは完全に一致した高いレベルの集合体へと導かれ全く一つとなるので(イエスとの一致、互いとの一致)、主の命とミニストリーそのものを表すものとされます。

今までに経験したことのない最大の主の訪れヴィジテイションは、二重の目的を持って起こります。第一の目的は人々を終末の主との集合的な関係へと召し出すことです。第二の目的は国々を裁くことであり、それはこの「車輪の中の車輪」という集合体の働きによって行われます。


現在、主は「 先駆けとなる者たち」を主の臨在の中へと引き上げ始められています。彼らはこれから来る時代の「味見」を経験し始めています。

 「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、」ヘブル書 6:5

先駆者として主の召しに正しく応じるならば、私たちは力をもって働くことが出来るようにされ、御国の権威が事を達成していく(前もって味見する)味を味わうことができるのです。


 「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」  黙示録2:26-27

これはこの「車輪の中の車輪」が主の顕在の栄光の中で働き、地上で神の千年王国を確立することを言っています。

 「生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。」   エゼキエル1:19

「太陽(sun=son御子)を着ている」集合体の花嫁を主は今整えられています。その花嫁は、主から直接受ける啓示により上に「挙げられて」、千年王国を前に人類に来ようとしているヴィジテイションと裁きに参加するのです。

 「 また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。」
黙示録12:1−2

  彼女が「みごもっていて産みの苦しみ」をしていたというのは、とりなしの祈りのことです。マリヤがイエスによる私たちの救いを産み出すためにみごもったと同じように、今日もこれからの時代の進展 transition(終末における神の介入)を産み出すために「みごもらされた」とりなし手たちがいるのです。マリヤがそうであったように私たちも「どのようにして」とか「どうして」とかを理解する必要はありません。ただ「私たちのからだを生きた供え物としてささげて」従えばよいのです。

私たちは一晩祈っただけではこのようにはなりません。高いレベルのとりなしへと導かれる過程があるのです。私たちがするべきことは自分をささげ、私たちの中で出産が生み出されていくのを見ていればいいのです。この出産による成果は経験を積むにしたがって増し加わっていきます。

 「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」  黙示録12:5


  聖書には「男の子 man-child」と「勝利者たち overcomers 」がどちらも「鉄の杖」で国々を治めると書かれています。両者は同一のものを指しており、それはエゼキエルによって「車輪の中に車輪があり、四方に向かって動いた」と言われているものです。

  この「四つの側面 」 は調和と一致をもって働きます。 私は「勝利者」としての資格が認承されます。「花嫁」として完全に主に服従しています。「息子」として主の目的を果たすために主と共に働く関係に入ります。「男の子」として与えられた権威をもって働きます。キリストのからだのなかには性別はないので、これはすべての者を表す言葉です。

主が力をもって臨まれる日に「(マリヤのように)心から喜んで従う」人たちの上に主の御心は注がれています。彼らは「とりなし手(集合体としてのマリヤ)」として地上での 主の目的を産み出す人たちです。主は常に人間を通して働かれてご自分の目的を達成されるのです。

私たちは実際に自分の体験として 神の働きによって次第に 勝利者としてこの「車輪の中の車輪」へと挙げられるように整えられる過程を経なければなりません。
その時に初めて主はこのように言われるでしょう。

 「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」マタイ 25:23  (終わり)


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by walkwithgod | 2010-04-28 07:51 | アメリカからのメッセージ

時に備える #16 リック・ジョイナー 4月20日

時に備える #16

リック・ジョイナー



  今の時代を理解し把握するために、私は すべての物事を常にその根源まで掘り下げ、 神の御手がそこにあるかどうかを調べるようにしています。詩編90:17には「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」とあります。私はこの祈りをしばしば祈ります。というのは私は単に忙しく働くのではなく、「父なる神の仕事」をしていたいからです。私がしていることが本当に神の仕事かどうか、又、私が調べていることが神の目的のためかどうかを私ははっきりと知りたいのです。多くのことが私の興味を惹きはしますが、私は自分を楽しませるために生きているわけではありません。私は主の御心を行うために生きているのであり、自分のしていることが本当に御心かどうかをはっきりと知りたいのです。

 私たちのミニストリーには 預言的な人が沢山来るので、そのミニストリーのリダーとして 私はここ何十年か預言というものを理解しようと努めてきました。そして聖書のどこを探しても主がご自分の預言を確認のためにもう一度言われるという箇所がないことがわかりました。イスラエルの歴史の中で最も義(ただ)しい王の一人であったヨシヤの例を見てみると、彼は主が全く思いもよらない者の口を通して語られた時その声に従わず、それ故に死を迎えました。その言葉はただ一度語られただけでした。物事を証拠もないのに思い込むことは危険です。特に聖書の中で確立していない事を「法則」であると教えることは大変危険です。

 またある事が聖書に一度書かれているからそれが法則であるということもできません。しかしもし一度書かれているのなら、それは起こりうることであるとは言えます。私が信じる健全な神学の基本は、聖書全体がある一つのことを言っていたとして、ある一節とか一例がそれと違うことを言っているときには、自分の神学を一つの例外に判断の基礎を置かないで、聖書全体が言っていることに基礎を置くべきであるということです。勿論、例外と見えることも理解するように努めるべきですが、それが理解できるまではそれを自分の神学の基礎としたり、それについて人に教えたりすべきではありません。


 確かに主が人々に繰り返して語られた事はあるにはあるのですが、それはむしろ例外です。ほとんどの場合、主は一度だけ語られました。そして主は私たちが一度聞いたらすぐ従うようにと期待しておられるのです。
親が子供にいつも何度も言うくせがついているので、子供はしつこく言われるまで従わないとか、親がいらいらして大声を出すまで従わないということがよくありますが、主はそのような親とは違います。主は「『はい。』は『はい。』『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と 言われました。(マタイ5:37) 主はご自分の子供たちに一度言われたらすぐに従うように教えておられるのではないでしょうか。一度目の言葉で主の御心は全部わかるはずです。

 私は自分の子供たちにも同じように教えようとしています。私が言うことを口答えしないで一回目ですぐに聞き従うことです。勿論、彼らが私の言ったことがはっきりわからなかったときは別です。そのような時はもう一度訊ねることは勿論かまいません。しかし特別私が意見を変えねばならないような大きなことがない限り、私の言いつけに子供たちが反論することを私は許しません。このことを私は軍隊やパイロットの訓練で学びました。歩兵隊の演習の時、 もし私が命令に従わなければ多分死ぬであろうし、私の部下も多分死ぬであろう、そして恐らくそれによって全軍を危険にさらすことになるであろう、と教えられました。どうしてでしょうか? 味方の軍隊が誰も送りこんでいない場所から弾が飛んできたら、それは敵からだと思うでしょう。状況が危機的であればあるほど、命令をはっきり聞いてすぐに従わないことは非常に危険なのです。

 パイロットとして私がもしある高度と方向を保つようにと言われたのにそれを聞かず従わないならば、私は他の飛行機と同時に同じスペースにいることになるかもしれません。それは勿論望ましいことではありません。空撃飛行の時、もし命令された方向と高度にいないならば、あなたは敵機だと思われて味方に撃墜されてしまうかもしれません。言いつけに従わなかった歩兵と同じです。

 終末に近づいている今、主の御声を聞いて従うことがますます重要になってきていますし、やがてそれが生死を分けることとなることでしょう 。私たちのミニストリーは出発当初から主の御声を知ることを重視して来ました。従って何十年も主の御声をもっとよく知ることを探し求めてきたのですから、私が知っている他のミニストリーと同じくらいには学んできたと思います。しかし、これは私が主から繰り返し聞くことなのですが、来るべき時代に備えるために私たちはもっともっと主の御声を今よりもはっきり聞く必要があるのです。(終わり)

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by walkwithgod | 2010-04-20 16:33 | アメリカからのメッセージ

潮の満ち引き グラハム・クック 2010年4月13日

潮の満ち干き

グラハム・クック



  これは神の御性質のパラドックの一つですが、神は常に不変である方であると同時に、その時々のシーズンを持っておられます。私たち人間にとってこのような概念はとても理解しにくく、どう扱っていいかわかりません。しかし永遠なる神がなさるすべてのことにはシーズンがあるのです。自然界において神は4つのシーズンを造られ、種まきと刈り取り、労働と休息というように地球の活動を営ませています。これと同じことが霊的な領域でも言えるのです。
しかし何故かほとんどの教会は、 完全なバランスを見つけてそれを常に同じように保とうと必死になっています。彼らは 教え(説教も含め)とワーシップとのバランスや、御言葉と御霊とのバランスを常に保とうとしているのです。

 しかしながら神はそのようなバランスという考えを拒否されます。神の御霊は私たちの人生の中で潮のように満ちたり退いたりするのです。私たちは神の御言葉によって満たされ導かれるときもあり、また、御霊によって満たされ導かれるときもあります。私たちのするべきことは神が今何をされているのかを見て、その中で神に応答し行動をとることです。
 神がもし御言葉を通して奥義を啓示されているのなら、私たちは当然聖書に焦点を当てねばなりません。もし神が聖霊の賜物や御業(啓示も含む)を通して物事を明らかにされているのならば、そちらにどんどん進んでいかねばなりません。

私たちは絶え間ない御霊の流れの中で生きることはできません。それは不自然なことなのです。満ち潮になったならば、必ずその後には引き潮があります。私たちが御霊の引き潮になったとき、神は 御言葉の不変性へと私たちを導いてくださるのです。そしてその御言葉が 次に来る御霊のシーズンをしっかり下から支えるものとなるのです。

神は御霊の引き潮のシーズンを次のブレークスルーについて私たちに教えるために用いられます。ですから御霊の引き潮の時に私たちが何をするかということが、次に神が私たちをその中に導かれようとしている(満ち潮の)流れのために大変に重要なのです。 満ち潮と引き潮の両方を神は私たちを導くために用いられます。

神のシーズンは規則的に必ず又巡ってくるものであることを、クリスチャンはまずしっかり把握し信じなければなりません。もし神が当初にあなたに何も語られない場合は、いつかは必ず語ってくださいます。その御言葉が来るまで、私たちは主の内にじっと安息することを学ばねばなりません。私たちはしっかり「確立すること」と「探し求めること」という両方を同時に行うことは絶対に不可能です。

このようなパラドックスをバランスよく保つという能力を私たちは神から与えられておりません。その代わりに私たちは、神がそのシーズンに何をされているかによってこの二つの両極端の間を行ったり来たりするのです。ある時には私たちは全く確立されて神の御言葉にしっかりと結び付けられています。またある時には、私たちは深い旅に出て御霊の奥義を探索します。

御言葉の絶え間ない流れの中にだけ常にとどまることは、神を知的な思考の中に閉じ込めることになってしまいます。その結果、私たちは神を「知性をつくして」だけ愛することになるでしょう。しかし 探し求め探索するとき、私たちは神を「力をつくして」愛し始めるようになり、神により頼むのです。私たちの人生は御言葉の素晴らしい冬のシーズンと御霊の燃えるような夏のシーズンのどちらをも経験しなければならないのです。

 神の満ち潮、引き潮をちゃんと理解している教会を想像してみてください。御霊が動いておられるときは、人々は自由に探索し最高のかたちの賛美をもってワーシップをするように解放されます。夜の集会はただ神を賛美するだけとなることでしょう。神の力の顕れや働きが毎日起こることでしょう。
http://www.exblog.jp/myblog/entry/new/?eid=a0051378#
 そしてその同じ教会は十分成熟しているので、神が彼らを御言葉に引き戻される時にはそれを察知できます。このような教会はダイナミックな教え(テイーチング)と真理の場所となることでしょう。彼らは神の御言葉(神の子供たちの心に与えられた御言葉)が御霊を深く探り求めるときに必ず共にあることを信頼します。人々は教師や牧師が、次に来るべき御霊の偉大なる満ち潮のために彼らを備えてくれることを知っているので、彼らの周りに喜んで集まってくることでしょう。

御言葉と御霊は 素晴らしい関係で結ばれているのです。両者は決して衝突したり矛盾したりしません。お互いに譲りあう時を知っています。満ちるべきとき、退くべきときを知っているのです。(終わり)

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by walkwithgod | 2010-04-13 16:26 | アメリカからのメッセージ

神に完全に占有される キャル・ピヤース   4月7日

神に完全に占有される(英語でpossess)

キャル・ピヤース




(3月20日、ホノルルでの「ヒーリング・ルーム」集会におけるメッセージの収録テープより)

神は、自分だけの思考にとどまらずにもっと主のお考えを聞きたいと熱心に求め続ける人には誰でも、喜んでキリストの思いの内をダウンロードしてくださいます。

 ところで、私たちは自分の脳を一割という僅かな部分しか使っていません。その理由は、神を知らない人がそれ以上頭脳を使ったら死んでしまうからなのですが、 本当に神に100%囚われたい、占有されたいと願う人には、残りの9割 を主の思いと考えで満たして下り、神の持つ知識と能力を私たちが使えるようにして下さるのです。但し私たちの元々の頭で使っている一割の部分は、十一献金の形で主に差し出し、自分が100%主の持ち物になる決心をしなければなりません。

重要なことは、神は単に私たちを整え装備しようとされているのではなく、私たちを丸ごと占拠し、完全に自分のものとされようとしておられることです。今夜私は、私たちキリストの花嫁に対して神が持っておられる目的(ゴール)についてお話ししたいと思っております。

それは、私たちがどうすれば限度(リミテーション)の全くない神の最大限の収容能力(キャパシテイー)になれるかということです。神にとっての限度(制限するもの)とは私たち人間です。ですから私たちは神を制限しないで、神のすべてが放出(リリース)されるような者にならねばなりません。


 私たちはブレーク・スルー(打ち破り・突破)を求めていますが、神はブレーク・アウト(包囲突破して外に出る)を求めています。それは汚臭を放つちっぽけで古びた私たちのマインド・セット(考え方)から私たち自身が出ること、人間の宗教を抜け出して神の啓示で生きる生き方へとブレーク・アウトすることです。

神はどのような人たちをこれから神の王国で起こそうとされるのでしょうか。創世記1:26に「神はわれわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と言われました。これが神のゴールです。「われわれに似る(同じイメージを持つ)」のは「神を代表するため」であり、「われわれのかたちに(似る)」とは「神の思いを持つ」ということです。
この神から与えられた資質を最初のアダムは失い、第二のアダムであるキリストがそれを元通りに回復されました。あなたは神ではありません。しかし元々神に似た資質を持ち、キリストによって新たに造り替えられたのです。その目的は、神がその造り替えられた人を完全に占有し、神が満ち溢れている「神のような人」をこれから起こすためです。

そのような人は聖霊に完全に従い「キリストの心があるのです。」(1コリント2:16) そのような人は自分が死んでいるので、もはや自分で考える必要は全くなくなり、キリストの心で行動します。そのような人は神が持つすべてに満たされていますから、 何の制限もなく神が満たしたものをフルに用いることが出来る器とされ 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」(ピリピ4:13)人になります。

そのような人はすべての制約から解放され、神の霊に満たされて、神の領域で生き、突然に奇跡を行うことが出来る人となり、突然に、すべてのことが神のためにあることに気が付きます。すべてが自分のためではなくなります。私たちがただ読んでいた聖書も、突然、 それによって私たちが生きる聖書となります。

その人のすべてを神が占有していますから、その人にとって悪魔は既に完全に敗北している存在であり、全く問題ではなく、悪魔がする事は何も気にならなくなります。何故なら、私は主の体であり、主が私の頭であるからです。私は既に狭い箱から出ている者であり、この地に焦点を当てて生きるのではなく、天に焦点を当てて生きます。そこからすべてのものが来るからです。そこに源があるからです。サイン&ワンダーと奇跡のすべては神から来ます。


「自分は弱い器で何も出来ない」と思われるかもしれませんが、そうではありません。2コリント12:9で主は「わたしの力は弱さのうちに(あなたが弱い時に)完全に現れる。」と言われた通り、神の力はあなたの弱さにおいて その力が発揮されます。あなた自身がどれほど弱いかを全く気にすることはありません。ただ弱い自分を自覚して、主に自分を明け渡せばよいのです。

あなたが神の現れを待つのではなく、神があなたを待っておられるのです。何故なら、あなたは既に主の体、主の持ち物であるにもかかわらず、あなた自身の身分証明(アイデンティテイー)を堅持し、神の持ち物というアイデンティテイーを認めたがらないからです。あなたは自分の名義で、自分で自分の人生を生きようとしています。だからいつも疲れて弱いのです。
ですから私たちを愛する神は、私たち自身のために、自分で生きる権利を完全に放棄し、「すべてが神のためであり、神がすべてをなさる」ことをこの際はっきりと決意することをあなたに求めておられるのです。

主は御国の鍵を私たちに下さいました。それは占拠駐留(OCUPATION)という名の鍵です。 主が人々を占有することです。端的に言って、主はあなたの意志 WILLのすべてが欲しい、あなたの意志の代わりに主の意志であなたを満たし、あなたが100%主の御心で行動することを願っておられます。人が神を持つのではなく、神が人を持つのです。つまり、誰があなたを所有し、あなたの人生を経営するかということであり、更に言えば、あなたを造った製造者(創造者)があなたという人間の所有権を持つということです。これが「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)の意味です。

神は宇宙を造られました。そしてその神があなたの中におられますから、あなたもこの地球の創造者になれるのです。あなたは神の人であり、神のようになる人です。そして霊である神によって造られているのですから、あなたは肉に属している人のようにではなく(1コリント3:3)御霊に属する人(3:1)のように歩くのです。

御霊の人とは超自然の人であるということです。何故なら、あなたの中には超自然の神がおられるからです。私たちの肉の体に霊が宿っているので、私たちは天と地の間をとりなすことが出来る、神に属する神のような男、あるいは女であるのです。

私がこのような話をすると宗教的な人たちは脅かされているように感じます。彼らは私の言うようなことを信じようともしませんから、私の話を嫌います。しかし、それを信じる私たちは、信仰でその中を歩みます。宗教は私たちが神から離れていることを要求します。宗教は、神は天に、そしてあなたは地上にいて、霊にボーンアゲインした後も、一生を悪魔に打ちひしがれて生きることを求めます。

あなたはロマ書8:29で 「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」と言われているように、御子のかたちと同じ姿になるように定められているのですから、あなたは神のようになるのです。ということは、神が完全にあなたを所有されるのです。神にあなたのすべてをとらえられ所有されたら、この世で何も恐れるものはありません。あなたがフルタイムで神になれば悪魔の必要は全くなくなります。

これらのことが起こるためには、あなたは自分の意志を完全に主に明け渡し、完全に神に従属することが前提です。自分の意志を完全に神に渡した時、あなたは主の体になるのです。そしてやがてあなたはトータルに神を所有し、又トータルに神に所有されます。
神のような人は「神が私を完全に所有している」と言い、又、「私はあなたが私の中に来られたように、私もあなたの中に移り住みたいのです。」と言う人です。そのような人は「私はあなたが行けと言うまで行かず、あなたが話しなさいと言われるまで話しません。」とも言うでしょう。よみがえりの力で完全に満たされていますから、どこへ行くにも、神はその人の前を行き、又後ろも守られるでしょう。
そして私たち自分自身の能力から解放され、神の能力の中に解き放たれます。このような神の人が奇跡を起こす人になるのです。

あなたの体は霊の神によって造られたので、霊の体です。しかし私たちの体は、常識として、あるいは宗教的な人たちからは「肉の体である」と教えられて来たためそう信じていますが、実際には超自然の体です。ですからあなたがキリストによって買い取られた時、あなたは「新しく造られた者」となり、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった」のです。

アダムはいつも神の臨在と共にあり、神と話していましたが、罪を犯した時に神から離れました。しかしその「神との離別」はキリストの血によって覆われ、私たちは元の義の関係に回復されました。1コリント6:20で「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と言われている通り、私たちは内におられる神の栄光を現すことが出来るのです。神の霊が人間の霊を動かす時、私たちの肉の体は正しい秩序の中にあるのです。

1コリント15:44で「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」と言われているように、肉の体があり、又霊の体があります。しかし、あなたの肉の体は神の霊によって占有され、神の意志によってあなたの体が動かされているのであれば、あなたの体は霊の体と言えるのであり、あなたの体によって神の地上における目的が達成され、それが私たちにとっても最良のことであるのです。
とすれば簡単です。神が望まれる通り、私たちが自分の意志と能力を捨て、神の意志と能力のみで生きることに同意すればよいのです。こうして初めてあなたは神と同じ種類の人(God’s kind of man)となり、あなたは神と同じものを見、同じ考えになります。

神は常に、イエスの血を通して買い戻された回復された姿の私たちを見ておられますから、私たちを見られる時、私たちを通して神の目的が達成される将来の姿(結果)を見ておられるのです。つまり、神は私たちの問題を見ているのではなく、キリストの血によって得られる問題の答え(達成された結果)を見ておられるのです。
と言うことは、神(聖霊)に満たされ、神に「所有されたあなた」が神と共に歩き始める時、私たちは主にあって何かが欠けている問題を見ているのではなく、いつも問題の答えと結果を見ることが出来るのです。言い換えれば、主は「手が欠けている」状態を見ているのではなく、その「欠けている手」そのもの(答え)を見ておられるのですから、私たちも同じことが見えるのです。

あなたが神と同じものを見る時、あなたは完全な信仰で歩んでいるのです。何故なら、あなたは問題も見ていますが、それ以上に、その答えと神の目的が完成された形を見ているのですから、完成に達することが現実なものとなっているからです。
こうして私たちは主にあって「・・・どんなことでもできる」(ピリピ4:13)人になれます。

そうなると、主から何かをしなさいと言われる時、それが実現するまでのプロセスの困難さは全く問題にはならなくなります。ただ主が言われることだけが重要なことであり、主が言われた瞬間に、それを聞いたあなたは既にそれを完成した形で所有しているのです。つまり結果は最初に得ています。勝利は最初に決まっているのであり、戦った結果で決まるのではありません。この世では最後の結果で決まりますが、神の王国では、勝利はレースが始まる時に確立されます。

「神が花嫁であるあなたを完全に所有する能力がある」ということ(真理)をあなたが明確に理解する時に、あなたは真に自由になり、解放されます。(終わり)






{訳者注}キャル・ピヤース師は、元々カリフォルニア州レデイング市にあるベテル・アッセンブリー教会(ビル・ジョンソン師の父親の時代からの教会)に所属していましたが、1997年に導かれワシントン州スポケーン市に移住しました。その地は癒しのリバイバルが起きたことで著名なジョン・G・レイク師の本拠地で、80年前の同じ場所でレイク師の後を継ぐ形でキャル・ピヤース師による「ヒーリング・ルーム・ミニストリー」が興されました。その後このヒーリング・ルーム・ミニストリーは世界に広がり、ピヤース夫妻は現在世界中のヒーリング・ルームと各地の教会、カンファレンスの講師として廻っておられます。


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by walkwithgod | 2010-04-07 11:33 | アメリカからのメッセージ

まず神が愛された故に グラハム・クック 3月28日 


まず神が愛された故に

グラハム・クック 



  神が私たちに求められるものは、すべてまず最初に神が私たちに与えられます。 キリストによって私たちの内にすでに与えられているものでなければ、神は決して私たちに要求されません。私たちの持ついかなる啓示もそもそもは神によって与えられたものです。私たちが神に捧げるワーシップも、神が私たちの内に置かれたものです。神に捧げる私たちの愛はすべて、神がまず私たちを愛してくださった故に存在するのです。私たちが神に捧げる栄光はすべてもともと神から来たものです 。私たちがすることは、神がすでに与えてくださったものをそのまま神にお返しするだけなのです。

このように御霊のうちに生きることは、直感的、直覚的なことです。私たちが神に頼って生きることに喜びを持つようになると、 常に期待し待ち望むという姿勢で生きることができます。クリスチャンは決しておどおどと人生を恐れて生きるようであってはなりません。常にイエスに夢中で魅了されっぱなしの人生を送るべきです。


私は期待感でわくわくしながら人生を過ごしたいのです。 周りで起こっている様々な状況に脅かされることなく、神ご自身と神がなさることにいつも魅了されて生きることを私は今学んでいます。 私は自分の人生の毎日の出来事、問題、課題の中に神を見出したいのです。神は毎日四六時中、何かを計画されておられることを私は知っています。私はそのご計画に参画したいのです。私が毎日置かれている状況の中で、神がご自身(の性格)をもっと私に教え、あらわしてくださることを知りたいのです。私はローマ人への手紙8:28の「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という法則をしっかり信じて実践したいのです。

私たちが幼な子のようなシンプルさで生きるならば、私たちを打ち負かせるものは何もありません。「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とローマ8:37でパウロは言っています。勝利者とは、自分一人が解放されるだけではなく、他の人々をも自分と同じライフスタイルで生きる自由さへと解放することです。

まだクリスチャンになっていない人に「伝道しよう」とすることは、私たちができることの中で最低、最悪のことです。神は私たちに「伝道する」ことを要求されてはおりません。そうではなく、私たちの周りの人たちが、私たちの中にある神のご性質のよさを見て興味をそそられるような生き方をすることこそ、神が望んでおられることだと私は思います。そして人々が神に関して、あるいは私たちを見て感じることについて何か質問された時には、いつでも答える用意が出来ていなければならないと思います。私たちは常に神がしておられることを見張っていて、神のその時のご計画に従って神と共に歩いて行かねばなりません。これこそイエスが神の愛を人々に伝えた時に用いられた方法であり、主はヨハネ5:19で次にように説明されておられます。「まことにまことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

神がある一人の人をあなたに示されて、その人に何か特別のことをしなさいとか又は言いなさいと告げられるときは、神はすでに私たちがその人に与えようとするものを私たちの心に与えておられるのです。それをその人に伝えることによってその人の心が変えられる、その心と私たちの従順さが神のもとに返されるのです。マタイ10:8でイエスは「あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言っておられます。伝道とは、神がある人の人生の中に始めたいと思われるサイクル(コミュニケーション)の一端を担うことです。


  神にすべてを頼り委ねる生き方の喜びとは、どのような状況も私たちの内の神の働きを止めることは出来ないということです。イザヤ54:17に「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。」とあります。私たちの内にある神の力は、それだけで何事をも克服することができるのです。 私たちが神の真の偉大さを見るとき、 驚嘆の思いに満たされるとき、 幼な子にようになるとき、私たちは神が見られるように自分自身を見ることが出来るようになります。即ち、 誰も止めることができない(神の)慈愛と善の推進力として自分を見るようになるのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-03-28 08:04 | アメリカからのメッセージ

あなたを熱く追い求める神 ライアン・ワイアット 2010年3月23日





あなたを熱く追い求める神

ライアン・ワイアット




 2010年に入ってから、神が御自分の民に特別な呼びかけをしておられることを私は感じています。「今この時」が恵みのシーズンであることを私は強く確信しています。私たちが生かされている「今」と言う時は、神のご計画の中で教会がそのデスティニーに向かってさらに突き進んで行く シーズンであると私は確信しています。今こそ神が勝利を明らかに顕され、私たちの人生を前進させてくださるシーズンです。

しかし勝利し前進するためには、 条件が一つあることも私は感じています。前のシーズン、そして過去数年間は多くのクリスチャンにとって波乱に満ちた困難な時でしたし、また世の中においてもそうでした。ここではっきり申し上げたいのですが、このような激動や苦難がこれで終わりを告げるとは私は考えていません。実際多くの場面でこの傾向は更に増加すると思います。

それはそうなのですが、 今は神の民が前進する時であることには間違いないのです。今は神の民が、意気消沈、絶望、失望、無関心、自己満足から抜け出し立ち上がる時です。今は神の民が 新たな希望、新たな期待、新たな大胆さと勇気をもって勝利のうちに立ち上がる時なのです。今こそ神の民が敵に奪われてしまっていたものを取り返す時です。再び信じる時です!

向きを変え道をそれて火に入れ

今年勝利をもって立ち上がるためには一つの条件があります。神は「向きを変え道をそれて火の中に入れ」と言われています。私はテネシー州のノックスビルでハビテイションという教会を導いています。2010年の初めから、教会の人々の間に大いなる心の高まりがあり、 神の臨在とブレークスルーの感覚が一週一週どんどんと強くなっていくのを実際に感じてきました。これはノックスビルだけに起こっていることではありません。カンサス・シティーのIHOP(国際祈りの家)やノースカロライナ州シャーロットのモーニングスター・ミニストリー、その他世界中の多くの場所で神の霊の覚醒、鼓舞、奮起、傾注が起こっていることをすでに多くの方はご存知でしょう。何かが起こっているのです!

そしてこのところ神は、出エジプト記3:1−5にあるモーセの話から私に語られています。



モーセがいつも通りに仕事をしていたとき、何かを感じ何かを見たのです。彼は燃えているのに燃え尽きない柴を見ました。モーセが「なぜ柴が燃えていないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」と言った事実に神は私のために光を当ててくださいました。 聖書ではその次に「主は彼が道を横切って(道をそれてー新共同訳)見にくるのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。」と書かれています。神はモーセに召命を与えたいと思われました。しかし聖書によると、 モーセが燃えている柴の方に道をそれて行こうと決心したのを見るまでは、主はモーセに語りかけられませんでした。

今、リバイバルの音が霊の中に響いています! 今、覚醒の音が霊に中に響いているのです! この招きを感じている人、この高まりを感じている人、そしてこのシーズンに「道をそれる」意志のある人を神は探し求めておられるのだと私は信じます。神は何をしておられるのでしょうか? 主は私たちが向きを変え道をそれて主の炎の中に入るようにと私たちを招いておられるのです。

非常に多くのクリスチャンがこれまでのシーズンでは幻滅を感じたり失望したりしてきました。非常に多くのクリスチャンが冷たくなり希望を失いました。非常に多くのクリスチャンがヴィジョンを失い、無気力で自己満足に陥っていました。神は私たちが今までの決まりきった日常から向きを変えるようにと招いておられるのです。日常の生活という道からそれるようにと招いておられるのです。今まで私たちを阻んできたものから離れるようにと招いておられるのです。向きを変えて主の炎の中へと入るようにと招いておられるのです!


あなたが今のシーズンで向きを変え始めると、神はあなたの心を暖め溶かしてくださいます。あなたが向きを変え始めると、神はあなたの渇いた土の心に浸透し、あなたを目覚めさせて新しい情熱を与え、 主を炎のように熱く求めるようにしてくださいます!これはあなたが自分で自分を奮い立たせるということではありません。今シーズン主があなたに求めておられることは、ただ向きを変えて主の臨在の炎の中で時を過ごすということだけです。神の炎がことをなしてくださいます。神の火のような臨在があなたの心に広がり、あなたを呼び覚まし生き返らせてくださるのです。

神はあなたを熱く求めておられる

今神が私に強く示してくださっているもう一つの箇所は、ルカ24:13−34です。二人の弟子がエマオへの道を歩いていたときに復活されたイエスが彼らの横に来られました。弟子たちは復活された主が誰なのかわかりませんでしたが、一緒に歩くうちに自分たちの心が内に燃やされ始めたのを感じました。夕暮れになり町に近づいたとき、聖書にはイエスがそのまま 先に行かれる御様子だったと書かれています。二人の弟子は強く願って 主が「向きを変え道をそれ」その夜一緒に泊まられるように頼みました。彼らの強い願いの故に、イエスは彼らの家に入られ、食卓につきパンを裂かれました。その時、弟子たちの目が開かれ、この方が復活の栄光の姿のイエスであることがわかりました。


これを書いている今でさえ、私は神の臨在が私を覆うのを強く感じています。 御自分の民に「今あなたが進んでいる道をそれ、そしてよく見なさい。」と強く招いておられる神の御心を私は感じるのです。あなたがひどく渇いていたとしても 、自分が餓え渇いていることを認めて神の臨在を求めるという決意をするならば、あなたの心は再び生き生きと潤い始めるでしょう。すべての失望を捨て去ることを選びとってください 。すべての落胆を捨て去ることを選びとってください。もう一度信じることを選びとってください。もう一度希望を持つことを選びとってください。神の慈愛と火のような臨在があなたを再び目覚めさすことを期待することを選びとってください。


神はもっと多くのことを語っておられますが、今日は次の言葉をもって終わりにしたいと思います。あなたが神を求めるよりももっと神はあなたに飢え渇き情熱をもってあなたを求めておられます。神はあなたを熱く追い求めておられるのです!あなたが主の臨在の炎で燃え上がることを主は望んでおられます。最近あなたを阻んでいたすべてのものから完全に自由になることを神は望んでおられます。今日自分を神とアラインさせることを選びとってください。今日「向きを変えて」神の臨在の炎の中に入ることを選びとり、今シーズンのための新たな希望、新たな勇気、新たなヴィジョン、新たなエネルギー、新たな油注ぎを受け取ってください!(終わり)

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by walkwithgod | 2010-03-23 13:01 | アメリカからのメッセージ

時に備える リック・ジョイナー 2010年3月16日

時に備える

リック・ジョイナー
 


私たちのミニストリーにおける肩書きは、自分のミニストリーを理解してもらうのに確かに役立つときがあります。しかし最近では霊的肩書きの濫用や不適切な使用が霊的価値をひどくひき下げてしまう結果となっています。ミニストリーをしている人々のうちには、自分は使徒であるとか、ビショップ、又は 預言者であるという人たちが大勢いるのです。そういう人に あまりにも頻繁に会うので、「私は牧師です」とシンプルに言う人に会うと、その謙虚さの故にだけでも その人に尊敬と信頼の念を抱くのです。

しかしながら今私たちはそれらのミニストリーが教会に回復されてきている時代に生きているのであり、そのことを期待しないというのでは主のご計画を見失うことになってしまいます。私たちはそれらの人々を認め受け入れることをしていかねばなりません。私たちが預言者を預言者だとして受け入れるならば、私たちも預言者の受ける報酬を受けるのです。しかし預言者をただ教師として受け入れるならば、私たちは教えだけしか受けとることができません。 これはすべてのミニストリーにおいて同じことが言えます。もし使徒を教師としてだけ受け入れるならば、私たちはその人から教えだけしか受け取れません。しかしながら、もし 教師を使徒として受け入れてしまうならば、私たちは恐らく 間違った悪いリーダーシップを受けることに なってしまうでしょう。ですから、ミニストリーの責任者には「自分たちの中で働く者をよく知る」責任があるのです。

パウロは自分が使徒であることを声を大にして弁明しました。確かにミニストリーの肩書きはそれを使うべき時や必要性がある時もありますが、パウロの弁明は自分のためではなく人々のためのものでした。彼の弁明は自分を売り込もうとか大言壮語するというのではなく、 パウロの子供たちを教える父親としての心から出たものでした。それは恵みと威厳、崇高な知恵に満ちていました。そしてそれらの徳は王なるイエスに遣わされた真のメッセンジャーとしての品質保証であることを私たちは知ることになりました。

それと同じように、主からの啓示や夢、ヴィジョンにはそのような恵みと威厳が備わっています。今の時代、主は 命令されるのではなく 招かれることによって 私たちを導かれています。主はご自分が願われることを実行する権威をもっておられますが、黙示録3:20にあるように、主はご自分の教会の外に立って戸を叩かれ、それを聞いて戸を開く者があるかどうかを待っておられるのです。その理由は、今は主と共に共同相続人となる者たちを主が探しておられる時だからです。共同相続人とはただ強制されて従う者ではなく、真理を愛するが故に主に従う者たちです。ですから、私たちがある真実な預言的啓示を受けたとしても、 それを直ぐに行動に移さねばならないというプレッシャーを決して感じるべきではなく、むしろそれは主からの招き(召し)であると感じるべきです。何かに対する警告を主から受け直ぐに行動を起こさねばならない時もありますが、それも必ず主の恵みと威厳も伴ってくるはずです。それはヤコブ書3章にあるように、プレッシャーとしてではなく私たちがそれに応答することを招いているものなのです。

何かを急いでするようにとせき立てられているように感じるとき、それは主からのものではなく、その時私が取ってしまう行動は大抵大きな間違いとなるということを私は学びました。主は始めから結末を見ておられるので、私たちにあわてて何かせよとせき立てる必要を感じられることは決してないのです。聖書には「主を待ち望め、忍耐せよ」という勧めは沢山ありますが、あわてて何かをせよと言っている箇所は一つも知りません。私は多くの経験をし、多くの間違いをしてきたので、本当に主が語られ導かれるときはどのようにであるかという事を学ぶことができました。


  さて、真のミニストリーには 重要な必須条件が一つありますが、これは私たちがミニストリーのやり方として普通考えているものとはかなり異なると思います。それは、聖霊は「助け手 The Helper」であり「実行者 The Doer」ではないということです。「私たちのミニストリー には自分たちが混じってはいない、すべて主です」と人々が言うとすれば、それが 真のミニストリーであるならば、彼らは誤解しているのです。そのミニストリーの人たちが「混じっている」ことは悪いことではないばかりか、必要なことです。 主がすべてのミニストリーに私たちを全く混じ入れさせないで100%主がなさると思われたのであるならば、主はこの世を去りはしなかったでしょうし、誰にも何もさせなかったでしょう。

ルカ10章において主は弟子たちを二人ずつ遣わし、福音を語り、病人を癒し、悪霊を追い出させました。弟子たちは非常に素晴らしい成果をあげたので、彼らが戻ってきたとき主は 「わたしはサタンがいなづまのように天から落ちるのを見た」と言われました。しかし弟子たちがイエスに祈り方を教えてほしいと頼んだのは次の11章になってからの事でした。彼らはこれらすべての業が出来たにも拘わらず、まだ祈り方さえ知らなかったのです。

主が弟子を信頼しものすごい権威をお与えになったとき、彼らが 完全ではなく成熟もしていなかったことは明白です。しかし、彼らに癒された人や解放された人、 御国が来るという福音を聞いた人たちの中にそのことで不平を言った者はなかったと思います。イエスが十字架に架かられる直前でさえ、 誰が一番偉いかと言う事で弟子たちは言い争っていたのです。そして その数週間後には教会が形成され始めるという最も大切な時代のリーダーに彼らがなろうとしていたのです。それから何年も経ってからさえ、弟子のうちにはまだ大きな失敗を犯している者もいました。 ペテロはアンテオケにおいて一番若い使徒から「彼に非難すべきことがあったので」と叱責されねばなりませんでした。

ミニストリーやリーダーリーダーシップに対して(それがいかに成熟しているものであっても)完全を求めるのは愚かなことです。私たちは「土の器」に希望をおくのではなく、器の中にある「宝—聖霊」にこそ希望をおくべきなのです。もし私たちが正しく聖霊を信頼するならば、 人々に頼りすぎたり失望させられたりはしないでしょう。ミニストリーやリーダーたちが真に主のしもべであるならば、 自分が信頼されることを求めないで、人々が主にこそ信頼することを望むでしょう。 イエス御自身が崩れることのない土台なのです。もし 人々が主にではなく自分に信頼するようにしむけてしまうならば、私たちは失敗者でありその土台も崩れるでしょう。なぜならば主より他に そのような重荷を負うことのできるものは誰一人いないからです。

それは完全主義者のメンタリティーであり、主よりも自分自身に信頼する思いがその元となっています。このメンタリティーこそが、多くの者が自分の召命やミニストリーに(信仰で)踏み出していこうとするのを妨げているのですから、これは重大な問題です。私たちは完全になってから主に用いられるのではなく、主に用いられることによって完全にされていくのです。 (終わり)

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by walkwithgod | 2010-03-16 16:21 | アメリカからのメッセージ

あなた自身の脂肪を燃やせ!チャック・ピアス 2010年3月6日

あなた自身の脂肪を燃やせ!

チャック・ピアス 



私たちは新しい 栄光 の 領域 へと入ろうとしています。今は非常に重要な時であり、主は 私たちが「主の栄光を見るように」と 召しておられます。 私たちは今 、新しいシーズンのために 新しい 自分のアイデンティティーを築き上げつつあるのです。私たちは栄光を着るのです。そのためには新しい預言を求め、それを実行するに必要なより高レベルの供給が与えられることを主に願ってください。富と栄光は切り離せません。この一週間、主は私たちが前進するために助けとなるいくつかのパターンを私に示してくださいました。私たちは現在自分が立っている場所をしっかり把握 し、それより更に進んで行かねばなりません。


先週の集会で主は次のように語られました。「あなたは今までいた所よりも更に進んでいきます。一つのシーズンにおいてあなたは火を持っていましたが、今はそれを越えて、あなた自身が次のシーズンの火となるのです。あなたは弓を引いて、今までに行った場所を越えた所に矢を放ちます。あなたは浅瀬や渦を巻いているところを渡りながら水の中に入っていくでしょう。あなたは水嵩が増してもひるまず、どんどん進んでいくのです!」

私には見えます。あなたはまるで吹雪の中で道を失い、どうにかしてそこから抜け出したいと懸命になっている人のようです。もうすぐ深い森から出られそうなのですが 、あなたは疲れ果てて横になって眠ってしまいたいと感じています。私は主が言われるのが聞こえます。「あなたの中に火がやってきて、今のシーズンにあなたを眠らせようとしているものを溶かし去るでしょう。あなたは『魂の活力』を失いました。しかし、わたしはあなたの魂を再び燃え上がらせさせます。なぜならばあなたの中には 今のシーズンに燃える熱い火というアイデンティティーがあるからです。その炎の門を通って、あなたは加速の勢いがつくのです。その勢いの瞬間を掴みさえすれば、あなたが今までずっと待ち望んできた事を実現に持って行く ことができるでしょう。あなたは過去に『その事が私から逃げて行く』と言いました。しかし、 わたしが 今 あなたの魂に火をつけて爆発させ 、そこで眠ってしまっていた起こされるべきわたしの栄光を呼び覚ます瞬間を捕らえなさい。

「あなたの魂は渇ききり叫び求めていました。しかし今日あなたの魂の中に勢いよく水が流れる音が起こり、それがあなたの魂を癒すだけではなく、目が見えるようにします。あなたは自分の魂の奥底を見ることができ、それによって自分のアイデンティティーがはっきりあらわされるでしょう。わたしの御座から川が流れ出て あなたの魂に流れ込むのを止めないようにしなさい。そうすればあなたの魂は前進していくための新しいエネルギーを受けて、わたしの中で生き生きと生き返るでしょう。あなたの魂は今こそ見えるようになるのです!  あなたの奥深くにある願いを映し出す自分のアイデンティティーを今まであなたは見た事がありませんでした。しかしわたしは川を流してあなたが今まで見たことのないものが映し出されるようにします。」


「地上にいるわたしの民のアイデンティティーは今変わりつつあり、彼らが未来へと渡って行くときには異なるアイデンティティーを持つようになるでしょう。わたしを映し出さない(わたしのものでない)ものは取り除きなさい。過去においてあなたがわたしの言葉を消化するのを妨害するいろいろな言葉が発せられてきました。それらの言葉によってあなたは恐れを抱き、わたしがあなたに進んで行けといった場所に進むことができませんでした。しかし、妨害の言葉は今やあなたの中の川と火によって押し出されていくので、あなたは大胆さをもって「今のシーズン、私はこのような者だ」ということが出来るようになります。


かつて燃えていた(生け贄を焼く)火が再び燃え始めたので、わたしが求めている生け贄の香りがわたしの民から立ち上っています 。あなたは過去に燃える香りは嗅いだことがありますが、火を見たことはありませんでした。燃える匂いを嗅いでじっと見ていなさい。わたしが火の上に息を吹きかけているから、今火が燃え上がろうとしているからです。あなたには燃えた匂いがついているが、今や あなた自身の中に火があかあかと燃え上がるでしょう。わたしの民の中に新しい火が起こされねばならないのです。わたしにその火の門を開けてくださいと願いなさい。そして今まで数ヶ月間あなたを清めるために燃えてきた匂いが今新しく燃え上がる火となるようにとわたしに願いなさい。

脂肪が火の中に入れられようとしています!  今まであなたは肉の力で自分の体重を減らそうとしてきました。あなたは重さをなくそうとしてきましたーそれは身体のことだけではなく霊的な重さもですー 今、その脂肪が火の中に入っていきます。天の火の門が 開かれ、今脂肪が火の中に入っていきます!あなたは川に向かって 川を越えるべく進んで行き、今までのシーズンにあなたがいた水嵩を越えて 更なる深みへと進んでいきます。

集会にいたレアン・スクイヤが次にように言いました。「脂肪に関する一つのことは、すべての毒素がそこに貯まることです。神がすべての脂肪を火に投げ込みなさいと言われたのはすばらしいことです。私はパウロが蛇に咬まれたときそれを火の中に振り落としたことも思いました。主は言っておられます。『今までのシーズンであなたに貯まってしまった脂肪 の中には様々なものがあり、あなたはそれをわたしに捧げなければならないとわたしは言います。なぜならば、その中には蛇(複数)がいるからです。わたしがそれをわたしの祭壇の上のわたしの火によって焼き尽くせるように、それを振り落とすことをわたしはあなたに願っています。』」

「わたしに生け贄を持ってきなさい。そして今まであなたがいた所を越えて前進しなさい。あなた自身を生け贄としてわたしに持ってきなさい。あなた自身を生け贄として捧げる時、今まであなたを抑えていたもの(あなたの中でもやもやしていたもの)があなたから出て行き、あなたに解放がやってくるでしょう。わたしがあなたに立ってほしいとずっと願ってきた場所に自分がしっかり立っているのをあなたは発見するでしょう。解放の業が今や始まったのです。洪水の門、解放の火の門、が今開かれ、解放がわたしの民の間に起こっているのです。彼らはわたしに新しい方法で生け贄を捧げています。わたしがあなたの中に火を付ける瞬間をじっと見守りなさい!」(おわり)


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by walkwithgod | 2010-03-06 13:04 | アメリカからのメッセージ