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「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ ウエイド・テイラー 2月26日

「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ

ウエイド・テイラー


「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。—キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ3:12、14

私の聖書学校の先生(ウオルター・ビュートラー)は、しばしば「不満足な満足」ということを話されました。彼は主から受けたすべてのことを感謝し満足していました。しかしそれと同時にもっともっと得られるものが沢山あることを知っていたので不満足だったのです。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:10

「良い行ない good works」とは、主がご自分の目的を果たすために私たちの人生の途上に置かれる物事や状況です。まず私たちが調えられる準備期間の間は、私たちの内側でそれがなされますが、次の段階では私たちを通して他の人々の益となるように行われます。「私たちが良い行ないに歩むように that we should walk in them」という部分の「should 歩むように」とは条件であり、 神が 召されている主の目的に沿う道を選択することに関しては私たちにも責任が掛かっているということです。正しい選択は普通、一番選びやすいものとか便宜がよいというものではありません。ですから私たちが正しい道を選びとることはこの上もなく重要なのです。

私への神の御心

聖書学校を卒業したとき、 次に何をすべきかを知るために私は主を熱心に求めました。それにも拘わらず、 一見主からの指示は与えられていないように思えました。一つの聖書学校が新たに始まることを私は知っていました。その学校の目標の一つは学生たちをイタリヤ語でミニストリーが出来るようにするというものでした。私はイタリヤ人ではないので関係がないと思いましたし、イタリヤ人へのミニストリーに召されているとも感じませんでした。

ですから、私がこの学校に対して感じた「惹き付けられる感覚」を 横に押しやって、私はフィラデルフィアの北の中心部にあるセントン通りに教会を始めようとしました。1959年7月4日に私は60マイルの距離をフィラデルフィアに向けて出発しました。一つの商店を教会のために借りて、自分が住むところも探そうと思っていました。南に向かって運転していると、自分は間違った方向に向かっているという思いがどんどん強くなってきました。

私は車を止め、この思いについて主に尋ねました。すると主は、私が新しい聖書学校に行くべきことを示してくださったのです。私は車をUターンして、反対方向に走りはじめました。私は卒業後にするべきことに関して随分と祈りました。しかし主は私が主に仕えるために実際に行動を起こすまでは何も答えずに待っておられました。そして 行動を起こしたときに私がおるべき場所に関して語ってくださったのです。

聖書学校に着いてゲストルームに落ち着くと、直ぐに私は静かに祈れる場所を探しました。そして、私はここには来たくなかったこと、しかし主からの最上のものを受けたいことを主に再び申し上げました。それに応答して主ははっきりと私の霊の奥深くに語ってくださいました。「わたしはあなたがフィラデルフィアに行くことも許します。そしてそこであなたにミニストリーを与え祝福もします。しかし、ここがわたしがあなたに居てほしい場所です。そして今のわたしのあなたへの御旨はここなのです。」

翌日、私は学生として受け入れられ入学しました。数ヶ月が過ぎたころ、私が祈っていると、突然私は天で神の御前に立っている自分を見出しました。神が私の直ぐ前の御座に座っておられることがわかりましたが、輝く栄光で目がくらみ神を見ることはできませんでした。言葉では表すことのできない聖さを感じました。

御座の前に立っていると、左の方から波のような強烈な栄光の流れが鮮明な色をして私の方にむかって流れてきて私の霊の深みに入っていきました。あたかも長い貨物列車が私の内に入ってきて沢山の荷を一台一台私の霊に中におろして行ったようでした。一つ一つ次々とそれらが私の中に入る度に、私はこの学校が建っている場所でミニストリーを立て上げるのだということがはっきりとわかってきました。私の身体のすべての細胞が感光する声帯になったようで、 主が御心のまま臨在し事をなすことができる「特別に聖別された場所」を望んでおられることを私は悟ったのでした。
私が天からもとの祈っていた場所に戻ったとき、天で経験した顕在の栄光で 非常に深く触れられていたので、以前通りの日常生活に携わりその中で機能することにとても困難を感じました。「普通」にもどったのはそれから2週間も経ってからでした。

「今の御言葉」を「聞く耳」を持つ

私が召されたこの「ミニストリー」は、主が私に送られる人々を調えることであることが次第にわかってきました。 彼らが主の御声を認識し、それに応答し、それを尊び、主の顕在の臨在に敏感になるように調えることです。これは即ち、終末の主の目的のために調えられて聖別される人々をさしています。

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」黙示録19:7

この聖書学校はイタリヤ・アッセンブリー・オブ・ゴッドだったのですが、設立されて3年目に閉校となりました。その後6年間空屋となっていましたが、不思議な方法でそれが私に寄贈されたのでした。その待っている期間に、私が終末の「バプテスマのヨハネ」として用いられるために調えられていることを主は悟らせてくださいました。後に主はこれを聖書の中で最大のアイロニーを示す御言葉を通し確認させてくださいました。

「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」ルカ3:2

「アンナスとカヤパ」とは確立された宗教組織のリーダーと機能を表していますが、主はそれを回避(バイパス)されたのです。「荒野」とは、孤立した不毛の環境であり、主はヨハネをミニストリーの重要な時に調えるために荒野を用いられたのです。

宗教組織は十分に確立され機能していました。しかし主はその時宗教組織の中には主の「今のための」御言葉を与えることができる「聞く耳」を持ったものを見出すことができなかったのです。主は聖職者ではないものを選ばれ、 訓練のために彼を「荒野の体験」へと導かれたのです。

今日もなお、キリストのからだの中には主に己のすべてを捧げて、主からの新しい御言葉を受け取るために選ばれている人たちがいるのです。これは私たちが終末のバプテスマのヨハネとなる備えをするためには、絶対に「今の御言葉」を主から 受け取る必要があるということであり、それによって来るべき終末の時代に主の顕在の臨在の証人となれるのです。ですから、 このような証し (まず自分の内に、そして私たちを通して外にむかって)を完全に示すために、私たちは正しい選択をしなければならないのです。

当時の宗教的組織は(主はそれをバイパスされましたが)かつては神の栄光を経験し、主から直接啓示を受けました。しかし主が 彼らに今現在望んでおられることを理解するに当たっては、過去の経験だけに頼って理解しようとするようになってしまいました。過去において主が彼らの中で働かれたという事実は、彼らを現在の必要のために 調えるには十分ではなかったのです。彼らはもうすぐに来ようとしておられる「神の小羊」に関する「今の御言葉」を聞くことが出来なかったのです。

今の時には、間もなく現れる「ユダ族の獅子」のために 特別な召命を受けた者たちがいます。ですから、たとえ過去に多くの啓示を受け取っていたとしても、 「今主を求めるもの」が私たち一人ひとりの中に存在しなければなりません。昨日の啓示は今日の問題とプレッシャーに対応するために私たちを調えるには十分ではないのです。

真の聖霊のぶどう酒

私が聖書学校の学生だったとき(1956−1959)、主の偉大な訪れがあり、それは2週間続きました。私たちは毎日早朝から夜遅くまでチャペルに集っていました。初めのうち強烈な悔い改めと清めが起こり、その後で主の「顕在の栄光」が私たちの上に注がれました。それと共に「新しいぶどう酒の泉」が発見されました。そこから飲むものは誰でも聖霊に激しく満たされ大胆で力強くなりました。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」エペソ5:18

「多く飲んで酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があります。」の意味は、聖霊による崇高な霊的力の分与にとって代わる、偽りの代用品のことを言っています。この代用品(ぶどう酒)は、サタンによって用いられ、数えきれないほどの人生や家族が破壊されてきました。ぶどう酒を飲むことによって「益」と見えるものは、実はすべて欺きであり結果としてひどい代価を払わせるものとなるのです。

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。」エペソ5:18−19

これは聖霊の真のぶどう酒が持つ変革の成果です。それは私たちの能力以上の霊的大胆さと自由さへと私たちを解き放ち、神に栄光を帰し、私たちが大きな自由さと力をもって働くことが出来るようにするのです。

しかしその時の経験がいかにすごかったとしても、私たちは「過去の主の訪れ、ヴィジテイションの泉から飲む」ことにすがり続けてはいけないのです。私たちは新鮮で新しい超自然の領域に入るために、今主を求め始めることが緊急に必要とされています。初めて主と出会った場所を振り返っていてはいけないのです。又、「新たなもの」が自分の人生やミニストリーにどのように、いつ、どこで導入されるのかを、私たちが主に向かって要求するのでもありません。(私は車の向きを変えて、自分が受けた召しには適合していないと思える場所に向かいました。)

私たちは「不満足な満足」を持たねばなりません。即ち、自分が現在持っているものに対して感謝をすると同時に、「もっと更に」と主に積極的に求めるのです。コインには両面があります。コインの裏と表は違っていますが、その両方で完全な一つとなります。私たちの過去の経験と現在の経験を一つにして、自分が進んでいく未来への道を作らねばなりません。

ヨハネの証しは彼が「荒野で叫ぶ者の声」であるというものでした。彼は「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)と叫び 、その時の緊急を要する必要をはっきりと認識したのでした。私の召命とミニストリー はヨハネが彼の時代に語ったように、今私たちが生かされている困難な時代に、主の目的のために今の「声」を語ることができる人を調えることなのです。

そしてそれは1959年7月4日に私がフィラデルフィアに向かっていた車を止め、主からの「今の言葉」に応答して反対方向に向きを変えたことによって生まれたのでした。振り返って見て、私はその時正しい選択をしたことを本当にうれしく思います。

1959年のその日から多くの年月が経ちました。それは栄光に満ちた年月であり、霊的分与を授けた年月、多くの人々が変革された年月でもありました。また間違いを犯してしまったこともありましたが、私はそれを悔い改め主から赦しを受けました。今現在、私はワシントンDCに住んでいて、主から「今の言葉」を受け取っています。そして召命の次のレベルの働きへと移行するために、私は再び「向きを変える」かもしれません。私のミニストリーは主が意図された目的と成就にむかって今進もうとしています。

皆さんも重要な決断をするときに、過去の霊的経験や現在の状況にだけ目を奪われるのではなく 正しい道を選び取られるようにとお祈りいたします。
(終わり)


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by walkwithgod | 2010-02-26 17:14 | アメリカからのメッセージ

トランスフォーメンションと神の恵み グラハム・クック 2月15日


トランスフォーメンションと神の恵み

グラハム・クック



成熟した心に愛が満ちるとき私たちは聖霊様との交わりへと導かれます。私たちは心を聖霊様に集中させねばなりません。パウロはコロサイ3:2で「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と勧めているようにです。神を愛するためには、神のご性質について深く瞑想することが必要です。ですから主と親密な関係を保つためにはメディテイションが重要な鍵となります。 神との絶えざる交わりを保ちながら神がどのようなお方であるかを時間をかけてじっくり黙想することが重要です。


「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。」と第一テサロ二ケ5:18でパウロは言っています。主と親密であるとき、それは感謝の 言葉をもって表現されます。私たちは主への感謝を最大限 言葉に出して表す必要があるのです。主と真に親密であるならば、その事を秘密にしておくことはできません。なぜならば、それは物事や人を変革してゆく強い力だからです。あなたが主の臨在の中にとどまる方法を学ぶとき(ユダの手紙21節で「神の愛の内に自分自身を保ち」と表現されています)あなたは神の恵みの中に入れられ、そこでは預言の言葉が成就してゆくのです。恵みは私たちのために 神の心の中から 溢れ流れてきます。そして神は私たちを絶え間なく祝福が注がれる場所に置かれるのです。


神は私たちが主に似た者へと変革されることを望んでおられます。主が私たち一人ひとりの中に養われている善(goodness)は、この世に蔓延している悪に打ち勝つ力があります。神との親密さは私たちのうちに善を生み出し、その善はコミュ二ティ−全体に影響を及ぼすことができるのです。あなたの人生を覆う神の恵みが実際にあなたの住む地域や教会、そして町さえも覆うことができるとすればどうでしょうか? あなたの教会への神の恵みが非常に大きい故に、あなたの町の何千という人々がその恵みで覆われ祝福されるとしたらどうでしょうか? クリスチャンとして私たちが神の恵みの中で生活しないならば、 悪が私たちのまわりに栄えるのを私たちが許してしまうことになるのです。

神の恵みよって守られ堅固にされているコミュ二ティーを想像してみてください! それはクリスチャンたちがイエス様と恋に落ちて、主の善を彼らの周りの人々に解き放すことによって起こり始めます。「あなたがわたしの臨在で満ち満ちているので、あなたの周りの人はわたしの祝福から逃れることから出来ない」と神が宣言するとしたらどうですか? あなたが人生で果たす役目が、あなたが 出かけて行って出来るだけ多くの人々に祝福を与えることだとしたらどうでしょうか? あなたが主の祝福と親切をもって覆うべき領域に神が線を引いていたとしたらどうでしょうか? 私たちが今すでに うけている恵みを十分に用いることが大切です。私たちは自分の受けている恵みをどんどん使っていかねばなりません。 イエス様が神と人からますます愛され好意をもたれて成長されたように、私たちもこの両者から恵み(愛と好意)を受ける道を発見せねばなりません。神は私たちが まわりの人々にどんどん恵みを与えて、神の御国の領域を出来る限り拡張することを望んでおられます。


古代イスラエルの人々はこの法則を学ぶのに随分長い月日を費やしました。モーセが12人の斥候をカナンに送り込んだ時、神の恵みを自分たちのために用いようとしたのはカレブとヨシュアだけでした。他の者たちはカナンの町と軍隊を見て怯えてしまいました。民数記13:33には彼らが恐れで押しつぶされたことが書かれています。「そこで、私たちはネフィリウム人、ネフィリウム人のアナク人を見た。私たちは自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」 しかし、カレブとヨシュアは、自分たちが神からの恵みを受けていること、そしてここが約束の地だという預言をはっきり知っていたのでした。

カレブとヨシュアは、神は自分たちに必ず勝利を与えてくださると説得しましたが、イスラエル人は聞きいれませんでした。民数記14:7−10に次にように書かれています。「イスラエル人の全会衆に向かって次にように言った。『私たちが巡り歩いて探った地は、素晴らしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には乳と蜜が流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。』」しかし全会衆は彼らを石で打ち殺そうと言い出したのです。

イスラエル人に「『自分たちはいなごのようだ』と思いなさい」と命じた人は誰もいません。「自分たちはそのようにちっぽけな者だ」と彼ら自身が思ってしまったのです。その結果、神の恵みを出来る限り追求する用意のある新しい世代がイスラエルに現れるまで、 神は待たねばなりませんでした。神が私たちの前に巨人を置かれる理由は、神の恵みがどれほど大きいかを私たちが見ることが出来るようにするためです。私たちは巨人を見て怯えてはなりません。私たちは勝利を得るという期待で胸躍らせるべきなのです。

私たちの恵みは目の前にある障害物を克服することができます。 「 大きすぎてとても自分では克服できない」と私たちに見える問題が起きるのを、神はしばしば許されるでしょう。しかしこれは私たちが神の恵みを最大限用いるようにしむける神の方法なのです。ティーンエイジャーだったダビデがゴリアテに面したとき、彼が持っていたのは石投げと数個の石、そして彼がいつの日か王になるという預言的約束だけでした。ダビデはサウロ王がしていたように隠れていて、戦いは誰か他の者にやらせてもよかったのです。そもそもゴリアテはダビデが戦う相手ではなかったのですから。しかし、ダビデは神の恵みを用いたかったのです。一瞬にしてダビデは夢見る少年から戦士ヒーローになったのです。これこそ神の恵みの力です。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-02-15 07:00 | アメリカからのメッセージ

2010年 祝福の鍵  チャック•ピアス 2010年1月19日

2010年 祝福の鍵

チャック•ピアス
 


この預言をじっくりと読んでください。あなたの役割は重要です。あなたの奥深くまで手をさし入れてください。解き放たれるべき祝福があります。新しい年を始めるに当たって、私たちの鍵はここにあるのです。

神は言われます。「わたしはあなたの内にある非常にユニークなものをあなたのために組み立てています。あなたが造り出そうと試みたものをわたしが造っているのです。あなたは物事を完成させようと強く願ってきましたが、自分のパズルを自分だけでは組み立てることができないことがわかるでしょう。あなたは自分の回りにいる人たちや彼らのパズルをも完成させようと試みてきました。

しかし、わたしが彼らのために造ったパズルを完成するために必要でまだ見つかっていないパズルの一片は、わたしがまだ握っています。それが分かっていないあなたはうまく見つからないのでいらついていました。あなたは自分に必要なパズルの一片が見つからないまま、正しい一片ではないものを探しつづけ、また、他の人のパズルの見つからない一片をも探しつづけました。しかし、わたしが取り扱って来たのはあなた(自身の全体)だと言う事をあなたは今悟りました。そして今、わたしはあなたというパズルを完成させる最後の一片をあなたに見せましょう、それはあなたに必要な一片です。

今は、わたしがあなたというパズルで残された最後の未完成の一角に磨きをかけ始めるときです。あなたの一部である尖った角の鋭さが今丸く削られようとしています。そのための心の用意をしなさい、あなたの人生がわたしの計画通りに行くために必要な調節作業を、これから数週間のうちに、超自然的に起こるようにしているからです。わたしはそのための色々なしるしを既に天に送ってあり、わたしだけが総ての時(タイミング)をコントロールしているものであることをあなたが悟れるようにしました。あなたの内にわたしが始めたプロジェクトは必ず完成させるとわたしが決意していることを知りなさい。

配属されるのを待ちなさい。あなたの配置を待ちなさい。わたしはこの一片がぴったりとはまる場所を、あなたが自分の内から引き出すようにします。もしあなたが自分の奥深くに手を差し伸べ、わたしにしかその一片をぴたりとはめ込むことのできない場所を引き上げるならば、わたしはそれをはめましょう。
あなたがまだ解き放っていない祝福があります。わたしは言います、『その深いところにある祝福を引き上げなさい。あなたの奥深いところにそれはあります。その祝福があなたの口で形造られ(宣言して)出てくるならば、あなたがずっと待っていた祝福はあなたの上に注がれるでしょう。』

奥深くにある祝福を引き上げなさい。そして、あなたの敵を祝福せよ。

あなたが絶対に祝福できないと思っていた事さえも、あなたはその上に祝福を送ることができるのです。それはわたしが『あなたの敵を祝福しなさい』と言ったからです。 あなたの奥深くに祝福があり、あなたがそれを口で宣言するのを待っています。あなたがたは祝福を解き放つシーズンに入っているのですから、自分の奥深く入っていき、今まであなたの口からは出たことのない祝福をあらわしなさい。

あなたはあなたの敵をわたしがあなたの敵を見るようには見ていませんでした。あなたはあなたの過去を、わたしがあなたの過去を見るようには見てはいませんでした。だから奥深くにある祝福を引き上げてあなたの敵を祝福しなさい。あなたが敵を祝福するとき、わたしはあなたの頭を敵の頭より上にします。しかしあなたの口があなたの敵を祝福するまでは、あなたの頭を高く上げわたしがあなたに見せたいと願うものを見せることは出来ないのです。

わたしはあの大災害があなたの傍にくることを許しました。それはあなたが今までとは異なる成長を遂げるためです。あなたは成長して、今まで見えなかったものに目を開けて見るようになります。立ち上がって今まであなたを悲惨な目に遭わせようとして来ていたものを見なさい。大災難と困難を前にして、あなたがそれによって悪い姿に形造られないように、わたしがあなたを守ってきたのです。前のシーズンではあなたが見ることができなかったヴィジョンを、今あなたは見ることができるでしょう。」

集会の歌い手であるレアン・スクイヤが、以上の預言を聞いて 次のように歌いました。

「今まで見えなかったものが見えます。私の目の前で水が流れはじめました。今まで見えなかったものが見えます。あなたは私の前に道をもうけられました。」

彼女の歌に対する主の答えがきました。

「あなたはわたしが『今の時』を直そうとしていると思いました。でもそれは違うのです。わたしはあなたが行こうとしている未来を調えていたのです。わたしの目はただ『今の所、今の時』を見ているだけではありません。わたしの目はあなたの未来への道を見ていたのです。」

次に主が言われました。「わたしの目は未来へのあなたの道を見ていました。あなたが握りしめようとしていた道は、あなた自身が握りしめていたものであって、わたしが握っていたものではないことが今あなたにわかるでしょう。今あなたはそれをどうやって手放せばよいかがわかるでしょう。今あなたはわたしがあなたに掴んでほしいと願っているものが見えるようになるでしょう。あなたを見えなくしていたものがあなたの周りで砕かれました。あなたの頭をわたしの方に上げなさい。そうすればあなたは上から見下ろして今までは見えなかったものを見ることが出来るでしょう。

わたしは編み合わせリフォームする

わたしは一つの統治機関を今造っており、その各部署はすでに造られています。あなたはわたしが造っている整然と動く軍隊の中で鍵となる者です。ここに上がってきて下を見なさい。そうすればあなたは軍隊のムーブメントとその態勢、そしてあなたが配置される部署を見ることができるようになるでしょう。

あなたのパズルの一片はわたしにとって重要なのです。今わたしがそれをあなたの中にはめ込むのを見なさい。それは今まで欠けていた一片であり、それによって今や祝福を造り出し、その祝福があなたの心や思いの中に流れ始めるでしょう。そしてわたしはあなたを選んで、将来用いられる構成要素の中に配置するでしょう。

あなたの回りの者たちにわたしがしていることを裁いてはいけません。あなたが過去に裁いていた先入観念を基にして、早急に人々を裁いてはいけません。なぜならばわたしは今人々を編み上げてリフォームするプロセスをしているのです。あなたが早まって裁くならば、あなたはこれから現れて輝き始める器を見逃すことになるでしょう。錆びて使い物にならないように見えた者たちをわたしは今この世に顕すからです。わたしは今のシーズンに、多くの者がそれから飲む新しい器たちをわたしは用意しているのです。」(終わり)


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by walkwithgod | 2010-01-19 10:53 | アメリカからのメッセージ

2010年は豊かな実と増加の年 パトリシア・キング 2010年1月9日

2010年は豊かな実と増加の年

パトリシア・キング



私たちは主にあって常に増加、拡大 するように定められていることはずっと理解していましたが、 それは単に足し算的な増加ではなくかけ算的な増加であることに、私は最近まで気がつきませんでした。ある日祈りの中で 、かけ算的な収穫の増加を期待するようにとのチャレンジを 私は主から与えられました。かけ算の中で最も低いレベルは2倍ですが、あなたが今すぐ2倍の収穫を得ることを想像してみてください。どのようなことになると思われますか?

創世記1:28で、主は人類を祝福して 「生めよ、ふえよ。」と命じられました。(訳者注:英語ではBe fruitful and multiply.と訳されており、Multiplyは原語においても、倍数的にものすごく増えるという意味です。)あなたの人生の上には「生めよ、ふえよ」という主の御ことばが置かれているのです。この祝福を信じて自分のものとして 受け取るとすれば、あなたの人生に神が与えておられる目的にあなたは間違いなく従っていることになるのです。

申命記1:11でモーセは、イスラエルの人々が今の千倍になるようにと祈りました。人生に神の祝福が千倍にも増えるということは、すばらしいことであり、このことは私たちがしっかりと心にとめて、自分のものとすべきことだと思います。

主は私に「豊かな収穫を得る秘訣の鍵」を教えてくださいましたので、お分ちしたいと思います。それはとどまる、剪定、種まき、刈り取りの4つです。


とどまるAbiding

イエスは、このように素晴らしい祝福と増加の中で生きるための鍵を私たちに教えていてくださいます。それは即ち、とどまる、剪定、種まき、刈り取りです。私たちが実を結ぶのは「主にとどまる」ことからきます。(ヨハネ15:1−8)私たちがボーンアゲインするとき、キリストの霊が私たちの内に来て下さり、私たちは新しく造られた者とされます。また私たちも主の内に入ります。私たちはボーンアゲインするときに「キリストの内に生きる者」になるのです。主は私たちの内に宿り、私たちは主の内に宿ります。

あなたのディボーションのとき、意識的にイエスが「宿っておられる臨在」abiding presence of Jesusを経験し活性化することができます。あなたは自分で集中することによって力を得ることができるのです。もし内なるキリストの臨在に集中するならば、主の命の力が与えられます。あなたは自分だけで実を結ぶことはできません。枝であるあなたが実を結ぶのは、木にとどまるからです。イエスが木です。樹液のように、あるいは身体の中を循環する血液のように、主のいのちはあなたの中を流れるのです。

私はディボーションのとき、イエスをお招きするために時間をとることを好んでします。目を閉じて 主が私にとって素晴らしい方であることを 感謝します。そして「イエス様、私はあなたの内にいます。あなたは私の命です。私の力です。私の健やかさであり活力です。私の知恵、私のきよさです。私の義であり必要な備えです、、、。」と真理を宣言します。

私の内にあるキリストの命を5分ほど黙想meditatingすると、私は主の臨在の力を感じ始めます。そして 主とのもっと深い交わりの中に入っていきます。私は自分の思いと必要を主にお話しします。 主を待ち望み、主が語られるのを聞きます。主がご自分の思いと願いを語られるのを 聞きます。私は主に尋ね、主が私の心に語っておられると 信じることを日記として書きとめます。 

ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」で、もし私が主にとどまるならば、主の御言葉(主の臨在の中で私が受け取る言葉)は私にとどまり、私が願うもの(主が語られたことに沿うもの)を求めることができ、それは必ずかなえられるとイエスは約束されています。 このようにして実は成るのです。 結実と増加はキリストのうちにとどまることによって生み出されます。

剪定

増加は又、人生の剪定のシーズンを通して起こります。イエスは実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶように剪定すると言われました。(ヨハネ15:2参照)多くの場合剪定は、 現在のシーズンに対する主の目的に私たちが一致するように施されます。主は私たちにもっと聖くなることや、時には縮小し、余分なものを取り除くことを求められます。私たちが縮小したり余分なものを取り除いたりするのは恐れからするのではなく、主に対する信仰と従順からするのです。剪定によって 実りが減少するのではなく、それはやがては偉大な増加をもたらし、多くの場合私たちを新しい任務に着くようにと招くものであることを知っているからです。

私たちのミニストリーセンタ−の前に、夫のロンが毎年一回剪定していた木がありました。ある日私がセンタ−に車で行くと、その木がほんの少しの枝を残すだけで、あとはすっかり剪定されてしまっているのを見つけてショックを受けました。夫がこの木を駄目にしてしまったと思って私はびっくりしたのです。その木は本当にあわれな姿になっていました。剪定のし過ぎだ、と私は思いました。ロンは一生懸命に大丈夫だと私に説明しましたが、信じられませんでした。ほとんど切り株だけになってしまっている木が、どうやってまた育つのでしょうか?しかし数ヶ月後にはその木は盛り返しました。葉っぱは豊かに茂り、まったく見事で多くの人たちが賞賛してくれました。

種蒔きと刈り取り

豊かに結実するためのもう一つの鍵は、御国の種蒔きと刈り取りの法則の中に見いだすことができます。創世記8:22で、神は 変ることのない約束を人間にしておられます。神は「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、、、はやむことはない。」と言われました。地はまだ続いていますね。ということは、種を蒔く時があり、それにともなう収穫を刈り取るときがあるということです。

マルコ4章で、イエスは蒔くことと刈り取ることについて教えておられ、種を蒔く土地の質の大切さを強調されています。もし良質な地に種を蒔けば、それは育ち多くの実を結びます。収穫は常に種よりも多く、収穫の中にもっと種があります。もし一粒の豆を蒔いたならば、それが豆の木に育ち沢山の豆をあなたは収穫することになります。蒔いたものより必ず多くのものをあなたは刈り取るのです。刈り取ったその多くの豆を蒔けば、次のシーズンにはもっと沢山の豆を収穫することが出来ます。

少しだけ蒔けば、少しだけ刈り取ります。豊かに蒔けば豊かに刈り取るのです。(第二コリント9:6参照)もし人生の中で かけ算的に実を実らせたいと願うならば、あなたは主に豊かにしていただきたいものを主に捧げねばなりません。自分が収穫したいと願うものに従ってあなたは種を蒔く必要があるのです。もしあなたが友達をもっと増やしたいと願うならば、友情を蒔くのです。癒しの油注ぎがもっと欲しいならば、癒しの祈りと病人へのミニストリーを蒔いてください。もし経済的な豊かさを刈り取りたいならば、御国の良質な土地に経済の種を蒔いてください。

イサクは飢饉の時に種を蒔き、その年に百倍の収穫を得ました。(創世記26:12参照)私たちは、 この世に何が起こっていようと、主の忠実な約束という良い地に種を蒔けば、豊かに刈り取ることができるのです。私たちはこの世のシステムや方法によって生きているのではありません。御国に生きているのです。


倍増のファクター

御言葉が「私たちは増大する」と言っているのならば、私たちは増え広がるのです。主の約束はすべて信仰によって自分に適応することができます。もし何倍にもなりたいのならば、それを信仰によって受け取りなさい。あなたの種と実は何倍にもなるでしょう。

あなたの種や実は悪いものですか、良いものですか、あるいは両方が混じっていますか? もしもあなたの人生に神の御国の価値から外れているものがあるならば、それをすべて取り除くことは大変重要です。例えば、もしゴシップという罪を犯しているのならば、その実の収穫はないことをあなたは祈ることでしょう。今は汚れていない手ときよい心で生きることが極めて重大です。すべての罪を悔い改めてください。聖霊があなたの心の奥深くまで取り扱い罪を告発するように願ってください。良質できよい種を蒔いて、良い、きよい実を成らせてください。

あなたは実を豊かに結ぶようにと召されているのです。これが真理です! 今は縮小する時ではありません。きよい種を蒔き信仰にとどまるならば、あなたはすべての良き事において増大するのです。目標を見つめ続けてください!


イエスの心からあなたへの言葉 — 実を豊かにならせて増大しなさい

主は言われます。「今は種まきのシーズンであると同時に刈り取りのシーズンです。過去に蒔いたものをあなたは収穫するであろうし、将来のためにあなたは種蒔きをするでしょう。わたしの約束は真実であり、あなたがわたしの言葉を少しのくもりもない信仰で信じ、それがあなたの心に蒔かれることを願うならば、あなたは必ずその実を豊かにならせ増え広げることになるのです。あなたはわたしの慈愛が幾倍にも増すのを見るでしょう。それはあなたが想像するよりもはるかに大きなものなのです。

あなたの心と思いをわたしの約束で満たしなさい。昼も夜もわたしの約束を思い巡らし、わたしの約束の言葉を信仰の宣言をもって蒔きなさい。あなたは自分の蒔いたものを豊かに刈り取るでしょう。

あなたはすべての事において実を実らすように召されているのです。あなたがわたしにとどまるならば、あなたは実りある人生を経験するでしょう。あなたは旱魃にあうことはありません。それはあなたの根が生ける水の川に届いているからです。天国に旱魃はありません。天国に実りのない季節などはないのです。わたしの栄光の中では木々は毎月実を実らすのです。あなたがわたしにとどまるならば、あなたも常に実を実らすでしょう。

わたしがあなたの人生を剪定するときも、あなたは実を実らすであろう。わたしは剪定ばさみを持ってあなたの枝に近づき、あなたが成長し続けるのを阻むものは何でも切り取るであろう。するとあなたはわたしの慈愛において急速に多くの実りを経験するであろう。

今すべてのことにおいてわたしを信頼しなさい。この世には艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。 すべてのものを失う者が多くなるでしょう。しかしあなたはわたしを心から信頼しているので、損失と見えることさえ思いがけない祝福と増加に変るでしょう。

あなたがわたしにとどまりわたしに従うならば、あなたはすべてにおいて増え広がるであろう。あなたはこの目的のために造られたのです。実を実らせ大きく増え広がりなさい!」(終わり)


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by walkwithgod | 2010-01-09 11:47 | アメリカからのメッセージ

過去を癒し未来をつくる主 ルーク・ホルター 2010年1月4日

過去を癒し未来をつくる主

ルーク・ホルター


私は最近 、 希望、アイデンティティー、ブレイクスルーへと教会を召して導くようにという命令を主から受けたと感じております。キリストの身体なる教会に属する 人々の多くが深い悲しみの中にいます。彼らは自分の過去の苦痛、失敗、間違いを眺めて、それらによって自分の未来が決められると思ってしまっています。 しかし神は、私たちが 神の子としての真のアイデンティティーをもてるように必ず助けてくださるのです。神は私たちによい賜物を与えたい、祝福したい、よい未来を与えたいと願っておられるのです。 

神は私たちが苦渋に満ちた過去から癒され、イエスの中に自分のアイデンティティーを見つけることを願っておられます。私たちがどのような人間となり、どのように生きていくかを決める種々のポイントは、「私たちが 自分の過去をどのように取り扱うか 、イエスをどのように捉えるか」という点にあるのです。私たちが過去を克服するために神の恵みを見いだすことこそ、私たちの心が解放されて 健全な心で2010年にむかって前進して行くための鍵となります。聖霊は、私たちが苦々しい思いや怒り、恥によって捕らえられている原因が何であるかを示してくださいます。

先ず、私たちのアイデンティティーは神との関係、神との親密さの中で確立されねばなりません。 神との関係は、 神の私たちへの思いと愛情を私たちが真に知り味わうときに基盤が築かれます。まずあなたが現在置かれている状況は、あなたが神を失望させた故に受けている罰ではないことを、はっきり知らねばなりません。もしあなたが天のパパとの関係に確信を持っているならば、きっとまた悪いことが起こるに違いないとあきらめるのではなく、 過去に起こった問題を克服し自信をもって目標を目指してあなたは歩き始めるでしょう。私たちが天と一致し、自分が神の御前でどのような者であるかという聖書の真理を語り出すならば、私たちの心は柔軟になり、癒しを受ける備えができるのです。

過去の癒しのヴィジョン


私がこのヴィジョンを見たとき、聖霊が私を伴ってくださいました。 ヴィジョンの中で大勢の人が私の前に並んでいました。聖霊は彼ら一人ひとりの過去の中にご自分がどのように入っていくかを実際に見せてくださいました。

ある時には聖霊は私の前に立っている女の人の目を通って 入って行かれ、彼女がまだ子どもだったときの寝室に私を連れて行ってくれました。女の子は横向きにベッドに横たわり泣いていました。聖霊は彼女の足を両手で包むように抱え、その手の中に息を吹きかけられました。すると、まるでこの少女の内面から光が出てきて肌を通して輝いているかのように、彼女は次第に暖かい光を放ちはじめました。

次の瞬間、私は大人になっているこの女性の前に引き戻されました。彼女の目から涙があふれ「お父さん、あなたを赦します。」と言いました。聖霊は彼女が虐待されていた少女の時までさかのぼり、彼女の心のまさにその所を癒されたのでした。

次に私の前に老人が立っているのが見えました。私は又聖霊と共に時をさかのぼり、この人がずっと若い時にソファに座ってすすり泣いているのを見ました。彼の妻がもう彼を愛してはいず、別の男の所に出て行くことを彼に告げていました。妻が出て行くと、 ソファに一人残された彼はすすり泣いていました。

すると聖霊が彼のそばに素早く行き、両手でこの若者の心を包み息を吹きかけました。前と同じことが起こり、若者が暖かい光に包まれるのを私は見ました。すると又私は引き戻され、私の前にいる老人が涙を流しているのを見ました。老人はまっすぐ前を見て「妻よ、私はおまえを赦すよ。」と言いました。

並んでいた人たちすべてにこれと同じ事が起こったのです。 すべての人は聖霊が彼らの深い痛み、傷、失望にまで 届いて彼らを癒してくださることを、聖霊にお委ねしたのです。神が言われました。「私はあなたの未来を造るために過去にさかのぼっていくのだ。」と。

列に並んでいる人達は全員が手に荷物を持っていました。列の前方には飛行機が見えました。 その飛行機の胴体には「2010年への加速」と書かれていました。私は 「もしあなたが神の約束というこの飛行機に乗りたいのなら、荷物をチェックインしなければなりません。」という天からの声を聞きました。「加速の飛行機」に乗るには荷物は大きすぎ重すぎるので、乗り込む前にイエスに渡さねばならなかったのです。人々は荷物を預けることを選び、イエスがそれを受け取ってくださいました。

私たちは人生の重い荷物を主に渡し主とともに前進せねばなりません。神は私たちが癒され回復し未来へと進んでいくように力を尽くしてくださいます。キリスト・イエスにおいて私たちが成長するとき、沢山のすばらしい事が私たちの未来のために用意されます。そして 自分が傷つけられた事柄に私たちの心がどのように対応するかによって、私たちの未来への旅が大きく左右されるのです。

勇気を出して聖霊に自分の過去にさかのぼっていただくことを選びとり、それによって私たちが癒されて健全な者となり、未来へと解き放たれるようにしようではありませんか!今日、過去の傷や失敗をいつまでも自分の心の牢獄に閉じ込めたままにしないで、私たちの過去、現在、未来をイエスに委ねることを決意しようではありませんか。今日天の父は、私たちが赦すことを選んで欲しいと願っておられるのです。

宣言の祈り:天の父よ、あなたを信頼し、あなたが私の人生の歴史の奥深くに入られ、癒しの業をしてくださることをお願いいたします。イエス様、知らずに、また悪意からであっても、私たちを傷つけた人々を赦します。そして彼らをあなたにお渡しし、お委ねすることを選びます。

「イエス様、私はあなたに(その人の名前を入れる)を委ねます。そしてこの人が私にしたすべてのことを赦します。主よ、どうか彼をお赦しください。」と口に出して宣言することを皆様にお勧めします。聖霊様、 毎日人を赦せるように私たちの心を取り扱ってください。私たちは私たちの未来のために過去の痛みを捨て去ることを選びとります。イエスの名によって祈ります。アーメン(終わり)


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by walkwithgod | 2010-01-04 05:12 | アメリカからのメッセージ

2010年ブレークスルーの鍵 ポール•キース•デイビス 12月25日

2010年ブレークスルーの鍵

ポール•キース•デイビス


今私たちは疑いもなく活発な霊の働きの時、そして敵との対決の時に突入しています。2010年は今までとはかなり違う年になると私たちは信じます。それはレムナントとなる資格のある人達-神の御前にへりくだり、砕かれた魂をもち、神から御言葉をいただいておそれおののく人達-によって大きなブレークスルーが起こると信じているからです。

最近私はニュージーランドの集会を導いていたとき、この真理を更に強く示されました。というのは、著名な癒しの伝道者であるスミス・ウイグルワースの人生上の一つのエピソードを私はその時思い起こしたのです。そのエピソードには彼が神と歩んだ秘訣と彼を通して顕された神の力の秘訣が語られています。

1922年にウィグルワースは一連の癒し集会のためにニュージーランドに出かけました。当時彼はニュージーランドのクリスチャンリーダーたちには知られておりませんでしたが、数人の牧師が集会の成功を確信してウェリングトン公会堂を借りて準備をしました。主は御力をもって彼の集会に臨まれ、多くの人たちが救われ癒されたので、みんな大層喜びました。集会が大成功だったので、予定外の集会も行われ、どの集会も満員となりました。神は最も困難と思われる病気や疾患の多くを癒されたのです。

 すべての集会が終ってから、受け入れ牧師の一人がウィグルワースと海辺を散歩していた時、ウィグルワースに神の力を大きく顕すことができる秘訣は何であるのかと尋ねました。ウィグルワースは、「その質問は出来ればしてほしくなかったのですが、お尋ねですからお答えしましょう。私は心砕かれた者です。私の妻は私にとってすべてだったのですが、11年前に亡くなりました。葬儀がすんで、私は妻の墓に行きそこに横たわりました。そこで死にたかったのです。しかし神が 語られ私に立ち上がって歩きなさいと言われました。私は神が私に2倍の御霊(妻と私の分です)をくださるならば、福音を語りますと申し上げました。神は恵み深く私の願いを聞いてくださったのです。しかし私は大海原を一人で航海しているのです。私は孤独な者です。そして多くの場合、私に出来るのはただ泣きに泣くことだけなのです。」

悔いて砕かれた心こそがウィグルワースが神に用いられた秘密だったのです。それは詩編51:17に書かれています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

ニュージーランドの海辺を散歩しながら、ウィグルワースは自分が神に用いられていることは決して羨むべきことではないことを強調しました。そして彼は終末時代の最後の世代が見るものを羨むと言ったのです。彼は主から3回オープンヴィジョンを見たことを説明してくれました。そのうちの2つは1922年の集会において既に成就していました。しかし3つ目のものは自分が死んでから起こることだと言いました。「ああ、それは本当に驚くべきことです!本当にすごいことです!私は神の秘密を告げることはできませんが、私が言うことをあなたは覚えていることでしょう。私たちが経験した今回のリバイバルは、神がこれからされることに較べれば小さなものなのです。」

彼と会話をしたこの牧師は、ウィグルワースは主の再臨の前の世代に起こる聖霊の大傾注のことをさして言っていることがはっきり理解できたと記録しています。彼は「主がこられて教会を取り去られる直前に前代未聞の聖霊の大傾注が起こるという特別なヴィジョンを、この伝道者が恵みによって与えられたことはまさに明らかである。」と書いています。

より高いレベルに

明らかにウィグルワースは、今の時代に対する神のご計画を垣間見させていただいたのです。また、1936年に彼が南アフリカに居たときウィグルワースは、私たちがカリズマのリニューアルとして 知るところとなった聖霊のムーブメントに関して正確な預言をしています。彼やその他多くの先駆的な霊的チャンピオンたちは、私たちの世代が神から享受できる事柄を預言的に見て予告することを許されたのです。

ウィグルワースが大事な妻ポリーを亡くしたことは非常に悲しいことです。しかしながら、それが 一つの世代を変えるために神が用いられる何かを彼の中に造り出したのです。私たちは彼と全く同じような損失は経験しないかもしれませんが、私たちの究極的なゴールは、現在の自分の状態を知り、神のような性格に全く欠けているという遜りと砕かれた心をもって 神の御前に立つことです。神は決してこのような心を さげすまれず、御霊の顕れの力ある油注ぎを与えてくださるでしょう。

ニュージーランドでの集会のあと、私の人生に重大なチャレンジが与えられたことを深く感じました。そのチャレンジとは、神ご自身が導いて、私たちの聖めと、神への献身をより一層高いレベルに引き上げられようとしておられることでした。それを強く感じたのです。神は今まで私たちが自らを神に捧げてきた度合いよりもっと大きな献身を受け取る価値のある方です。勿論教会には神の御国が顕れるのを見るために多くの犠牲を捧げてきた人が大勢いました。そうではあっても、多くの場合、全体的に見て、私たちはもっと高いレベルの献身を目指さねばならないのです。

真のリーダーシップの必要

今、物事をはっきりとさせ、人々に進むべき方向を示し、神の知恵を与え、信頼に足る預言の声が出現することが必要とされています。神が治める御国が出現することがますます強調されて来ている今、それと同じだけ 終末の時代の世代への神の約束を、聖書的に理解し把握することが要求されています。御国を治める責任をとるべく訓練され整えられた人たちに分与される特別な霊的能力があります。エペソ1:17−19に約束されている知恵と啓示の霊が今ほど必要とされている時代はかつてありませんでした。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目ははっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

バビロンにいたダニエルと三人の仲間たちのように、私たちはあらゆる書き物を理解するための知恵と知識と知性を天から分与されることを非常に必要としています。私たちは夢やヴィジョンを洞察し解釈する力をどうしても必要としているのです。(ダニエル1:17)

すべての真の霊的リーダーシップは、主との友情関係から生まれるというのが私の見解です。主は昔弟子たちに、もはや彼らをしもべとは呼ばないで友と呼ぶと言われました。そのような親密な関係intimacyの中から神の奥義、秘密、はかりごとは分与され、父なる神のこの世代に対する思いや計画が伝えられるのです。ですから、私たちが最も求めねばならないものは、必ずしも霊的職務を受けることではなく、主イエスとの友情関係なのです。私たちがどのような者であり何に召されているかということは、私たちが御国の権威を受けエノクのように神と共に歩くときに明瞭に認識されるようになるのです。 

超自然の能力

私はダニエルの生涯についてしばしば研究し執筆してきました。彼は天において高く評価され大いに愛されている人です。 何年も前に主が私に、 ダニエルは、彼がヴィジョンで見た世代のための模範となるひな型であると言われました。多くの点においてダニエルと三人の仲間たちは、 終末の時代の特別な仕事のために主がご自分の民を整えられる方法を預言的に示しています。肉のイスラエルがバビロニアに捕囚されたことは、私たちの現在の状態と私たちがやがて解放されるという主の約束を予表しています。

ダニエル書1:17は、忠実な若者たちに分与された天からの特別な能力についてです。
「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」

主はインスピレーションによって、彼らに色々な文書を理解するための知能と啓示による知識とを与えられました。 霊の理解と天の知恵を悟り言葉に表す特別の才能を、主は彼らのうちに起こさせたのです。ダニエルには、あらゆる種類のヴィジョンと夢を超自然的に解く賜物が特別に与えられていました。

このパターンは、 従順で忠実な献身的心を持つ者を主が見つけ出されることにおいても、今の時代に適用されるものです。聖書や創造、科学、芸術、その他多くの事柄に関する啓示的洞察と超自然的な知識が巨大な倉庫に蓄えられていて、ダニエルと三人の仲間によって築かれたモデルに倣う聖人たちに与えられ委ねられようとされているのです。

私は数年前に預言的経験の中で、 ダニエル1:17と エペソ1:17は霊的に連なっていると主から告げられました。この二つの箇所は同じ約束が違う時代の中で語られているのです。一つは旧約の艱難時に神がどのように取り扱われたかだけではなく、将来人間社会に神が超自然的に介入されることをも指し示しています。もう一つは新しい契約の中ですべての世代の聖徒たちが受け継ぐべきものを表しています。

私たちはそれぞれに個人的な限界を持っているにも拘わらず、主はいのちを与える御霊であられます。主は私たちの死ぬべき身体に主の御霊によっていのちを与え、私たちに主にあるものとして啓示の御霊を与え、奥義、秘密、啓示的知識を与えてくださると約束してくださいました。

過去からのしるし

20世紀初頭にマリア・ウッドワース・エッターの集会に出た者の多くは、霊に取り上げられ、主のヴィジョンや啓示を経験しました。このときの出来事は正確に記録され証明されています。この時主との邂逅の中である者は宣教師として国外に出て行くようにとの召しを受け、ヴィジョンから覚めたときには彼が遣わされる国の言葉をすらすらと話せるようになっていました。

私たちに御国を顕し、主にしかできないすばらしい御業を行われることは父の喜びです。主にとってはアブラハムとサラの身体を若返らせて力を与えることは少しも難しいことではありませんでした。サラの死後、100歳をずっと超えた アブラハムは、全能の神エル・シャダイとの出会いによって与えられた力に満たされ続けていたので、妻ケトラによって更に多くの息子たちを得たのです。

それと同じように、使徒パウロに与えられたような超自然的な賜物をもって私たちを調え、主のうちに隠された想像もできない素晴らしい宝を得られるようにしてくださるのは主にとって容易い事です。また聖書がはっきりと約束しているように、 「御霊は深くて測りしれないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自分に光を宿す」のです。(ダニエル2:22)

神の奥義と秘密

使徒時代の初期に、今までに無かったことが起こりました。弟子たちは彼らの経験していることに聖書的裏付けを与えるために預言者たちが書いた預言を調べました。ペンテコステの日にこのような預言の成就が起こるとは誰も予測しておりませんでした。ペンテコステを指し示す聖書箇所は沢山ありましたが、今彼らの体験そのものが初期の教会に与えられた御国の奥義への啓示的洞察を解き放ちました。

神のお心の中に大切な考え、計画が秘められており、それらはある決められたときまで封印され保存されていました。しかしその決められた日が今訪れているのです。そして、主は霊の分与を解き放たれつつあり、それらのご計画をダイナミックに実現させようとしておられるのです。聖書の真理と御国の奥義が今まさに私たちの前にあり、16世紀初め、ドイツのヴィッテンブルグでマルチン•ルターが95か条のご誓文を打ち付けた時ように、今日大きな影響を与えようとしているのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-12-25 07:07 | アメリカからのメッセージ

心に明けの明星が上るとき フランシス・フランジペン 12月18日2009年

心に明けの明星が上るとき

フランシス・フランジペン



国のために戦うことは尊いことであり、悪に立ち向かうことは雄々しいことです。しかし、その戦いの遅々とした成果に絶望しないためには、私たちはもっと大きな視野で物を見る必要があります。すべての者が膝をかがめ、すべての口がイエス・キリストは主であると告白する日が来るのです。愛する皆さん、キリストの再臨の前であっても、父なる神は勝利の教会のために多くの霊的ブレイクスルーを備えていてくださいます。父はご自分の一人子イエスに、キリストのご性格と力を帯びた光り輝く教会を与えられるのです。


明けの明星

他のすべての日がそうであるように、主の日は突然始まるのではありません。5時59分に真っ暗だったのが突然次の瞬間輝く朝になるのではないのです。近づく光の中で 夜空の暗闇が次第に薄れていきます。夜から朝に移り変わる途上で、もう一つの事が起こります。暁の光が差す前に、明けの明星が東の水平線状に輝き始めます。それは来るべき新たな日を告げる忠実な先ぶれです。

この明けの明星というユニークな星は、実は金星という惑星です。朝、東の水平線上に 太陽を「見る」のに丁度よい時間に丁度よい場所に現れ、まだ暗闇にいる者たちにもうすぐ夜が明けることを告げ知らせます。明けの明星はやがて来ようとしている光を指し示す、小さいけれども明るく輝く予告なのです。

明けの明星は、神が終末の真の教会に対して望むことを表す非常に適切な聖書的イメージです。終末に関するペテロの言葉をよく聞いてください。

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心のなかに上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」第二ペテロ1:19

ペテロの言葉は、終末の出来事の 劇的な場面の一つである神からのヴィジョンに関するものであり、意味深いものです。主が帰ってこられる前に神の民の心の中に「明けの明星」が現れ上るとペテロは言っています。明けの明星の重要性は、まだ夜のうちに先ぶれとして現れることにあることを忘れないでください。昼間は見えません。ここでペテロは、 千年王国という主の「一日」が明ける前に、キリストの再臨を期待する私たちの心の中に明けの明星が上ると言っているのです!

皆さん、この終末の時代に勝利を得る者たちに栄光がもたらされるのです。私が「栄光」と言うのは、私たちの内なるキリストの生ける臨在が、私たちを通してより豊かに顕れ出ることを意味しています。パウロが「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」と言っている通りです。(第二コリント4:11)

私はイエスのいのちそのものが実際に現実的に「私たちの死ぬべき肉体に明らかに顕わされる」と言っているのです。 中には自分自身の人生上の問題で精一杯の者もおります。しかし 私たちは、神が私たちを導き用いたいと望んでおられる神のヴィジョン から決して目を 離してはなりません。曲解されること承知の上で率直に言いますが、終末の時代には神は敢えて神の民を通してご自分を顕そうとしておられるのです。

ですから私たちが明けの明星について話すのは、なにかニューエイジの教義を話しているのではなく、実際に 神の臨在の霊的「ワット数」が増大することを言っているのです。そのような輝きは我々自身からから発せられるものではないことを私たちは知っています。それは私たちが主イエスと一つになることによってのみ発せられます。そしてそれは私たちがキリストの言葉に従いそれと完全に合致するように成長するときに、聖霊によって私たちの中で形成されていくのです。

しかし、ここで気を付けるべきことがあります。何度も何度もイエスは弟子たちに、この世を愛し(飲まれ)てはいけないこと、また、この世での色々な戦いに倦み疲れてはいけないことを警告されました。イエスが「彼に明けの明星を与えよう」と言われたのは、世に打ち勝つ勝利者に対してであることを忘れないようにしましょう。(黙示録2:28)それから主はご自身が「明けの明星」であると言われました。(黙示録22:16)

携挙の前、 イエス・キリストの再臨の前に、キリストに従う者たちが明けの明星のように適切な時に適切な位置に置かれる日が来ます。そして彼らがキリストの再臨の先ぶれとなるのです。彼らはすべての国民、部族、民族、国語のうちから現れて来るにも拘わらず、 一つになる、一つであるのです。それはキリストが彼らに主の栄光の輝きをお与えになるからです。(ヨハネ17:22)

私は我々が罪を犯さなくなると言っているのではありません。誘惑は常にこの世にあるでしょう。しかし、もしキリストに忠実であるならば、もしこの時代の様々な問題や心配事に飲み込まれてしまわないならば、主イエスの臨在が明けの明星のように私たちの上にとどまり、その輝きが人々の目に明らかになる時がやってくるのです。その時に、預言者イザヤの言葉が成就します。イザヤはこう言っています。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」イザヤ60:1−3
(終わり)


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by walkwithgod | 2009-12-18 07:30 | アメリカからのメッセージ

誘惑からの脱出の道 ビル・ケラー 2009年12月12日

誘惑からの脱出の道

ビル・ケラー


第一コリント10:1「あなたがたの会った試煉はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試煉に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試煉とともに、脱出の道も備えてくださいます。」


先日私は、人生の中で出会う戦いに勝利するためには、神から戦略を頂く必要があることを話しましたが、今日は私たちが毎日直面する誘惑について話したいと思います。
日々誘惑に負けていると、ついにはその問題の中に私たちは陥り、それと戦わねばならぬ羽目になってしまうのです。ですから、 誘惑が最初に来たとき、どのようにそれに打ち勝つかを把握することが重要な鍵であり、それによって 人生の貴重な時間の多くを自分の問題と戦うために費やしてしまう無駄を回避することができます。もし自分の時間を無駄に使うならば、神が私たちに望んでいる働きをする主のしもべになる道が阻まれます。

このポイントをよく聞いてください。サタンがあなたの魂を奪うことに失敗したとき次に狙うことは、あなたを自分自身の問題との戦いでいつも精一杯にさせておくことです。あなたが個人的な戦いに時間を費やせば費やすほど、神に仕える時間は少なくなります。これこそが誘惑に打ち勝つことがいかに重要であるかの理由なのです。

「邪悪」は私たちの心heartから出てくる事を聖書ははっきり教えています。邪悪さの 進み方は、まず私たちの心から出発し、次に思いmindへと移っていき、そして遂には行動に具現されます。「きよい心を造ること」がどれほど大切かという理由がここにあります。そのためには毎日主と 親密な深い交わりを持つことが大切です。きよい心を造れば、 心から出るものが純粋できよいものとなり、私たちの実際の言動もをそれによって決定されます。誘惑は私たちの心の中にある罪と邪悪さに端を発し、次に私たちの思いに入っていきます。

誘惑を成長させる肥沃な土地は私たちの思いの中にあります。私は「思いを一新する」ことの重要さ、自分の思いの中に毎日何を入れるかがいかに大切であるかを何度もお話ししてきました。誘惑が増大するのは私たちの思いの中であり、それが究極的には実際の行動として現れてくるのです。


今日の聖書箇所は、神からの特別な約束の一つです。神は常に私たちのために脱出の道を備えて下さると言っています。その脱出の道は、誘惑がまだ私たちの思いの中にある時に起こります。それが誘惑に打ち勝つべきタイミングなのです。もしそれが私たちの思いの中に巣食うのを許してしまうならば、その時さいはすでに投げられ、遂には反抗的な行動という結果を生むに至るのです。この記事を読んでおられる方のなかで、自分が誘惑されたとき神が脱出の道を備えて下さらなかったと言える人は一人もいないはずです。

問題は、あなたがそれを無視するところにあります。何度も主は私たちに逃れるチャンスを与えてくださるのですが、私たちは自分の前に置かれたストップサインや赤信号、柵を突きぬけて進んで行き、その結果、どうしてこんなにめちゃくちゃな事態になってしまったのだろうといぶかしく思うのです。誘惑に打ち勝つには、誘惑がまだあなたの思いの中にあるときに神が与えてくださる脱出の道を用いねばならないのです。誘惑から脱出する道を拒絶した途端、あなたが実際に反抗的行動をとってしまうのはもう時間の問題にすぎなくなるのです。


私はあなた方を心から愛しています。多くの人が毎日人生上の戦いを戦っておられることを知っています。大変困難な状況に置かれておられます 。私の目標は、あなた方がそのような困難な状況に打ち勝つのを助けるだけではなく、 これからはそのような状況に陥るのを避けられるようにすることです。
主イエスはあなたを大変愛しておられます。主は人としてこの地を歩まれたので、あなたの弱さを理解してくださり、人生の誘惑をあなたが避けられるように助けると約束してくださいました。日々主と親密な関係を持つことは、あなたを強めます。主への愛と主のために生きたいという願いを強く持つことによって、主が誘惑に打ち勝つために備えてくださる脱出の道をあなたは選び取ってゆくことが出来るのです。

毎日襲ってくる誘惑をあなたが認識し、勝利の生活をするために神が与えてくださっている道具を用いるようにと、私はあなたのために祈ります。絶えず自分の個人的な戦いだけに明け暮れるのではなく、私たちが主のために生き、主に仕えて生きるとき、どんなに素晴らしい平安、喜び、豊かさのあふれる人生になるかを考えてみてください。あなたが今度誘惑に直面するとき、あなたのために備えられた脱出の道を選び取り、キリストがカリバリ山で得た勝利の内に生きることを決意されますようにお祈りいたします。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-12-12 09:29 | アメリカからのメッセージ

神からの約束は護られ保管されている ダグ・アディソン 12月4日

神からの約束は護られ保管されている

ダグ・アディソン


2009年9月、10月から開始され次の年にずっと引きつがれて行く「 新しいシーズン」が多くの人々にもたらされるという 啓示を、 過去数ヶ月間に私は数多く受け取りました。「今は新しい始まりであり、新しいチャンスの時である。」という神の言葉を何度も繰り返し私は聞いたのです。

子を孕むのに似ている

私たちの人生の中に神が何か新しいことを始められるのは、胎児が生まれるまでに9ヶ月お腹の中にいるのに似ています。神からの新しいものが私たちの人生の中で発達し成長するには時間を要するのです。自分の人生を振り返ってみても、 私の人生に変化がやってくることを神がはっきり語られるのを聞いたことが何度もありますが、その変化が実際に起こるのは、多くの場合およそ9ヶ月後でした。

私はノースキャロライナのモラビアンフォールズに住んでいたのですが、2008年の4月にカリフォルニア州の海岸沿いにあるいくつかの教会を回って話をしていました。その時神が、私の家族はこの地方に移り住むこと、そこで神が始められる新しい働きに参加することを明瞭に私に語られました。自分からは何もしなかったのですが、一連の出来事の結果として私たちは9ヶ月後の2009年1月にカリフォルニアのサンタマリアに引っ越しました。サンタマリアに移ってから特に何も起こらないように見えました。しかし9ヶ月後の9月に、私は天使から2度の訪問を受け 、 それによって私たちが引っ越した理由である神のご計画と次にするべきことをもっと明確に知らされたのでした。9ヶ月の妊娠期間の間、赤ちゃんが隠されているように、 神は往々にしてある一つのシーズンの間、私たちを隠されることがあるのです。

神の新しい動きの前にサタンが来る

多くの人が見落としてしまうのですが、聖書に書かれている原則の一つに神が私たちの人生の中で何か新しいことをされようとする時、サタンがその寸前にやって来て、私たちを落胆させ、神からのブレイクスルーが起こる前にあきらめさせようとするのです。ダビデはイスラエルの王になるようにサムエルによって油注がれましたが、そのあとサウロに追われ殺されそうになりました。イエスは地上でのミニストリーを始めるにあたって聖霊を受けられましたが、その直後荒野に導かれサタンに誘惑されました。サウロ(使徒パウロ)はダマスカス途上で劇的な回心を遂げたあと、命を狙われるまでに迫害されました。このテーマは聖書全体を通してあらわされているのであって、これらはその中のほんの数例にすぎません。

神はしばしば私たちを何か新しい事に召されます。するとたちまち地獄の口が開いたかと思われるほどに、神が語られたこととは逆に見えることが起こり始めます。神があなたに語られたそもそもの理由は、私たちが嵐の中を通り抜けられるように私たちを強め、どのような状況の中にあっても主が共におられることを私たちが知るためなのです。

「今年の9月以降、 多くの人々に過激的に斬新なことが起こる」と神が語られました。私は9月中ずっと神からの素晴らしい啓示と訪れを受けました。ところが10月に入ると、すべてのことが全く逆の様相を呈してきました。私はこのようなパターンをずっと経験してきたので、ひどく驚くことはありませんでした。このような時に 対処する一番よい方法は、神があなたに最後に語られたことに忠実に従って歩み続け、サタンからの妨害には目を留めない事です。

新しい計画、作戦、ミニストリー、賜物、油注ぎ、奇跡、ビジネス、関係等、これらが今あなたに来ようとしています。大切なことは決してあきらめないことです。サタンや暗闇の勢力は、あなたにそれを手に入れてほしくないのです。あなたが求めているものをあなたは受けられるのです。もしあなたが「新しいものをください」と神に願い求め、嵐に耐え抜くならば、それは必ずあなたの人生に起こってきます。もしあなたが疑い始めて、神があなたに約束されたことをあきらめるならば、神が計画された高いレベル(次元)ではことが起こらなかったり、その実現が遅れたりすることになる可能性が高いでしょう。

イエスは私たちへの神の約束を護られる

私は11月17日に一つの夢を見ました。それは、神が私や他の多くの人々にされた約束を盗もうとして敵がやって来るという夢でした。私は海辺にむかって逃げましたが、そこに着いてみると、魚や海藻は生きているのですが水は干上がっていてありませんでした。どうしようと戸惑いながら私がそこに立っていると、紫と紅の衣をまとったイエスが私のほうに歩いて来られました。私は主に敵が神の約束を盗もうとしていることを 話しました。

主は何も言われずに、右手で私の内の深いところからあるものを取り出し、バスケットボールくらいの大きさの古びた丸い鉄の鳥かごのような物の中にそれを入れました。主は籠に鍵を掛け、鍵はご自分が持ち、籠を数メートル先の 砂の上に投げました。 せめてもう少しうまく隠せばいいのに、と私は心の中で思っていました。見ると、そこら中に ボール型の同じような籠が沢山転がっていました。それら一つ一つが人々に与えられている約束であり、主イエスがそれを護るために一番適切な場所に保管されているのだということを私は理解しました。


この夢は神が私たちに約束してくださったものは必ず実現するというコンファメーションです。海が干上がっているように見えたにも拘わらずそこには生命があったという事は、今はまだ来ていないけれど確実に近づいてきている神のムーブメントを象徴しているものであり、生命のない荒野ではなかったのです。

神から私たちに与えられている約束は安全な所に保管されていて、聖霊の次の波が来た時に実現化されるのです。それは丁度チェスのようです。神は次のシーズンへの準備としてご自分の戦術に従って私たちをそれぞれの適所に配置されるのです。

イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(終わり)


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by walkwithgod | 2009-12-04 16:14 | アメリカからのメッセージ

何故先祖の罪(を赦す)ための祈りを祈るのか ポール・コックス 11月21日

何故先祖の罪(を赦す、悔い改める)ための祈りを祈るのか

ポール・コックス



私は 度々「先祖の罪を処理するための書いた祈りを祈る(コックス師のミニストリーの一つ)ことがどうしてそんなに重要なのだろうか?」と自分に問うことがあることを告白せねばなりません。つまるところ私たちが主イエス・キリストを全面的に信頼する時点で、私たちは救われるのです。それ以外に何かをすることが必要なのでしょうか。このように問うのは私だけではありません。長年にわたり多くの人が条文化された(書かれた)祈りをする必要はないと言っていますし、それどころかそのような祈りは聖書的ではないと言う人さえあります。 

又、ある人たちは先祖の犯した罪を悔い改めることに関して疑問を投げかけています。多くの人は「すべての業はキリストの十字架において完成されているのだから、他にすべきことは何もない。すべては解決している。私たちに必要なものはすべてある。先祖に関する祈りはもはや必要ではない。」と言うのです。

さて、ここにこの問題の難しさがあります。20年間にわたり、私は多くの人々にミニストリーをしてきました。 先祖のための祈りと文章にした祈りをするように導き、この祈りを通して多くのクリスチャンが主の力で大きく変えられるのを私は見てきました。この変化を通して人々はイエス・キリストとの親密さを増し、更に解放されました。ですから、 十字架において業は完成されたという事実と、 過去20年間の私のミニストリーにおいて見て来た事との間には明らかに矛盾があり、それをどのように一致させればいいのでしょうか。 究極的な権威は私たちの経験にはなく、それは常に聖書にあります。ですから私たちの経験と聖書が一致しないときは、それが何に関することであろうと聖書が勝利するのです。私はそれを信じ実行しています。ですから、聖書が何と言っているのか今見てみましょう。

行ないではなく恵みによって救われる

ここに基本があります。私たちは恵みによって救われるのです。

エペソ2:8—10「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

クリスチャン生活の中の行ないが 真の救いを証明する

ヤコブ2:17−20「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。』行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じていて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」

私たちは恵みによって救われ、 救われたことを証明するのが私たちの行ないであることがはっきりしましたが、このプロセスで私たちが果たすべき役割は何なのでしょうか? ある人たちは私たちの役割は何もないと言い張ります。確かに救いはキリストの業によってのみ存在します。私たちが信仰を持つに至ることさえ、聖霊が引き寄せてくださらなければ不可能です。ロ−マ人への手紙は私たちの聖化sanctificationはプロセスである(その工程にある)ことを明らかに示唆しています。それは私たちの内におられるキリストの働きによって達成され、聖霊の力によって私たちは変えられていきます。ですから次の質問を再びする必要があります。「私たちが栄光から栄光へと変えられていくために、私たちが果たすべき役割はあるのか?」と。(第二コリント3:18参照) 

答えは「はい、あります。」であると私は思います。栄光から栄光へと変えられるための責任を私たちは持っているのです。ピリピ2:12—13を見て下さい。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」

私たちが考えるべき重要な部分は「自分の救いを達成する」というところです。これはどういう意味なのでしょうか? これは救われるための行ないを意味しているのではないことは確かです。救いは行ないによるのではなく信仰によることは聖書に明らかです。ですから私たちは「自分の救いを達成する」とは何を意味するのかを理解する必要がでてきます。

ピリピ2:12「自分の救いを達成する」とはどういう意味か

この問題は私のミニストリーの基礎となるものであり、祈りに関する本を出版する理由でもあります。もしこのようなミニストリーが聖書に基づかないものならば、それを追い求めることは誤りです。このことを心に留めながら「ベイカー新約聖書注解書」から少し長く引用したいと思います。これは詳細な記述なので読者にかなり集中して読んでいただかねばならないことは承知しております。しかし、 クリスチャンが成熟のために課せられている「自分の救いを達成する」という役割の重要さが明らかにされないならば、この本の意義が全くなくなるのです! そういうわけですので、ピリピ2:12の神学的議論の部分をここに引用いたします。

「しかし、救いの聖書的定義は義認justificationだけに限りません。救われるために、クリスチャン生活の全てが神の購いの業であるのです。ですから、「私たちはすでに救われている」ことは重要な意味を持つことに間違いありませんが(エペソ2:5、8;テトス3:5)、しかし別の意味では、まだ救われていないのです(ローマ5:9—10;1コリント3:15;5:5;2テモテ4:18)。

カルビンは「救いは私たちの召しの全行程であり、神がその完全性perfectionを達成されるために用いられるすべてのことを含み、それは神の選びによって私たちに定められていることである。」と的確に述べています。救いが全うされるためにはそれが私たちの人生のなかで義として表されねばならないので、私たちの行ないは救いの行程の中に入っているのです。私たちはエペソ2章の9節(行ないではない)と10節(よい行ないをする)が並列されていることを決して忘れてはなりません。ピリピ2章の中で、信者の個人的救いの達成はキリスト教共同体の中の一員としての責任としての形を取ると言っています。即ち他の人のためになることを求める義務です。

この聖書箇所が「救い」の本質を教えていると認める人には、12節を13節によって(あるいは13節を12節によって)意義づけようとする傾向があります。つまり、「神の恵み」を強調することによって「人間の行い」の部分を小さくしてしまう(あるいはその反対)のです。例えば、私たちの意志に反することを神は無理にさせることはないという真理を大変強調し、その結果「神の恵み」というものをほんの些細な霊的助けにしか過ぎないものとしてしまい「神はいつも私たちを助けてくださるのであり、私たち自身が自分のしたいことをしなければならないのだ。」という考えでです。それと反対に、(行いを強調すると)律法主義(だと非難される)恐れが、私たちを多かれ少なかれ聖化sanctificationというものを受動的(消極的に)に理解させてしまい、「私たちの責任は単に神の恵みのうちに安息することであり、神に私たちのうちで働いていただければそれでよいのだ。」と考えます。聖書には、この二つの強調点が並列的に書かれていることから見て、このような結論を出すいかなる試みに対しても大きく反論を叫んでいます。聖書がここで言っていることは、単に人間側と神側の両面があることを強調しているばかりでなく、この一つの箇所で、私たちは両方の要素の重要性が多分もっとも強い聖書的表現で語られていることを見ることができるのです。


まず、パウロの人間的行ないに関する意見を見てください。新約聖書のいくつかの箇所で、救いにおける人間自身の責任がかなり強調されていることはたしかですが(特に2ペテロ1:10「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」)、ピリピ2:12ほどあからさまに言っている箇所はありません。彼がここで「katergazomai」という動詞を選んでいることがまさに注目に値します。クリソストムはこの言葉は「多大な努力をもって、多大な注意をはらって」という意味を持つと説明しています。この動詞自体にそのような意味合いを見つけることはできないのですが、 古代ギリシャの有数な話し手であるクリソストムが、この動詞を「強調されている表現」と受け取っているのを全く無視するべきではないでしょう。従ってバウアー(Bauer)の「到達する、達成する」という訳は、この動詞の意味合いをよく表していると思います。彼はピリピ2:12を「もたらす、生み出す、造り出す」と訳していますがそれは正しいといえます。私たちが聖化されるためには、自分で意識して行動に移らねばならないことをパウロがこの箇所で力説していることは疑う余地がありません。この考えは私たちを立ち止まらせるべきです。私たちの救いは、最初から最後まで神の働きだと私たちは告白するのですが、この箇所では、私たち自身がそれを実行してもたらさねばならないものとして書かれているのです。


聖化のためには全て神のみ業により頼むことをこの箇所ほどはっきり言っているところはありません。まず初めに、すべて神のみ業が発端となって私たちの業(行い)が起こると見ていることです。私たちの業は神の恵みあってこそ可能であるのです。次に、文の構成が非常に強調的であることです。パウロは単に「神が働かれる」といっているのではなく「働いておられるのは神であり、働きはすべて神である」と言っています。
第三に、神の影響力は私たちの業に及ぶだけではなく、私たちの意志にまで及ぶというユニークな言葉が使われています。この考え方は他の箇所でも暗に示されています。(ヨハネ1:13、ローマ9:16)カルビンは次のようにコメントしました。「すべての行動は二つの主な部分で成り立っている。それは意志と実施の力であり、パウロはこの両者を神に帰している。そうであれば私たちが誇るべき何かが残っているでしょうか?」 
第四に、パウロは 私たちが神の絶対的主権により頼んでいることを「主はみこころのままに全てを行われる='His good pleasure'」という言葉を遣うことによって強調しています。これは「神の恵み」を云い表すための神学的用語であると言えます。

ポイントは、聖化には意識的な努力とそれへの誠実な集中が要求されますが、私たちの行いは、神の恵みを受けとるためという見地から見て、(自分がするという)律法的なスピリットではなく、むしろへりくだりと感謝のスピリットで行われるのであり、そこにはキリストなしでは私たちは何もできない(ヨハネ15:5)、キリストだけが栄光を受ける方であることを認めるのです。

私たちの内に働かれる神のみ業は、私たちが働くことによって止められるのではなく、また私たちの働きも神が働かれるときに止められるのではありません。神の分担と私たちの分担があって両者が協力してよい結果を生み出すというものでもないのです。神も働かれ、私たちも働くのです。しかしその関係は、神が働かれるゆえに私たちは働くのです。私たちが救いを得るために働くのは、神が私たちの内に働いておられる結果です。ここに私たちがすべきすべての業の説明があるばかりではなく、私たちが喜んで働く誘因と動機があります。…私たちが固執して(意欲的に)働き続けば続けるほど、私たちに力と恵みを与えて下さるのは神であることをもっとはっきりと認識するようになるのです。」( Moises Silva, Philippians, Baker Exegetical Commentary on the New Testament, 2nd ed. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2005).)

これまでの引用をまとめてみましょう。第一に、 救いのために私たちのうちに働いてくださるのはキリストであり、救われたあと私たちを造りかえてくださるのもキリストです。第二に、救いを完成させるためには私たちがするべきことがあります。第三に私たちの役割はあがなわれたキリストの身体なる教会の中の一員としてのものです。


救いのプロセスの聖書的な姿と筋道

ピリピ書で論理的に述べられていることが、ヨシュア記においては物語として描かれています。「イスラエルの地はイスラエルの人々に与えられた」と主ははっきりと言われました。

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア1:2−3

3節にはこのギフトを受けるための重要な条件が書かれています。彼らにすでに 与えられた土地は彼らによって取得されねばならないのです。ヨシュア1:3に「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」とあります。イスラエルの人々はその地を所有するために果たすべき役割があったのです。彼らは単にヨルダン川を渡り、天幕をはり、主が来られるのを待つだけではありませんでした。彼らは自分たちの所有物を獲得せねばならなかったのです。どのようにしてでしょうか? 彼らは自分たちに課せられた責任を「歩く」必要がありました。「あなたがたの足の裏で踏む所はことごとく、あなたがたに与えてある。」と主は言われたのです。

言葉を変えるならば、彼らはその地にあった敵の要塞を攻撃し、それを打ち壊し、その地を勝ち取らねばなりませんでした。これはクリスチャン生活の戦いを表しています。私たちはキリストの血潮により約束の地、即ち神の御国に入りました。「ヨルダン」という言葉は 「裁きをする」という意味があります。ヨルダン川の中を歩いていくとき、裁きは私たちに触れることはありません。主の力によって川がせき止められたからです。私たちは約束の地に入り神の力によって私たちの人生の中にある敵の要塞を打ち壊していきます。神はご自分の役割を果たされ、私たちは私たちの役割を果たします。
私たちの役割とは、霊的な鍛錬をすることであると同時に、自分の意志で出来る限り 古い性質から解放されることであるのです。 ここに先祖代々の罪の赦しのために祈ることが関係してきます。

神はすべての人が解放されるのを望まれる

私自身の経験から言うのですが、祖先の罪からの解放とか文章化した祈りを祈ることを信じない人たちは、どのような理由や証拠を示しても満足しない(聞く耳がない)ことを私は知っています。牧師として 解放のミニストリーを数ヶ月始めた時に、数人の教会の執事が私のところに来て、彼らが心配していることを話してくれました。その話し合いは時として激しいものとなりました! ついに一人の執事が言いました。「じゃ、もしそれが真実ならば、どこにそのミニストリーの実があるのですか?」 私は彼の要求を満たすことにしました。彼に実を見せるために、それまでに先祖代々の罪の赦しの祈りによって非常に助けられ解放された幾人かに、主がどのように彼らの人生に触れてくださったかを証してもらう礼拝を日曜の夜に計画しました。私がこれらの人々に解放のミニストリーをするようになったのは、私が彼らを牧会するようになってから9年ほども経ってからなので、彼らの証言は特に意味深いものでした。彼らがまさに解放のミニストリーによって変えられたことは明らかでした。

礼拝の後、例の執事が私のところに来て「この人たちが何と言おうと私には関係ない、私はこのミニストリーを信じません。」と言いました。次の執事の集りのときも議論は続きました。ついに私はいらいらして言いました。「私が人々を助けるのが嫌だというのなら、あなた方が彼らを助けてください!」それに対する彼らの応答は私を驚かせました。彼らはみんな手を上げて「私たちには出来ません」と言ったのです。ここにこの問題の核心があります。このミニストリーを信じない人たちは、それを信じないだけではなく、苦悩の中で苦しみ続けるクリスチャンを助ける他の解決法や答えを持っていないのです。彼らの応答はその時点までの彼ら自身の経験から出たものであると同時に、 人のために祈ることに関する彼らの聖書的神学的理解から出たものでした。

このような議論は、聖書を知っている人にとっては驚きではないはずです。イエスご自身もいやしや解放のミニストリーに反対する宗教的な人々に遭遇しました。聖書の中でもっとも驚くべき箇所の一つはラザロの復活です。

「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。『われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:43-53)

驚くべきこととは何でしょうか。イエスが一人の人を死からよみがえらせました。ラザロや彼を愛する人々の喜びを考えてみてください。しかし宗教的な人々はそれを見ようとしませんでした。彼らは自分たちの関心事と信念 だけしか眼中になかったのです。真理が問題ではなかったのです! ラザロをよみがえらせたことに対する彼らの唯一の反応はイエスの死を企むことでした。

私と教会の執事との会合は、最終的に全会衆の会合に行き着きました。議論は果てしなく続きそうでした。ついに私はその教会を去らねばならないと決意しました。会合の直後の会話を思い出すのですが、私は一人の友人にこう言いました。「私はミニストリーでしたいと思ったのはただ人々を助けたいということだけです。そして今やっと人を本当に助けることが出来るようになったのに、執事たちは私にそれをさせてくれません。」私は失意のうちにその教会を去りました。しかし主は私をそのままにはされませんでしたし、解放のミニストリーもそこでおしまいにはされませんでした。主の御心は人々が解放されることを望んでおられるのです。私は主からの私の人生への召しに従順に従いました。何年も経って、解放のミニストリーの実ははっきりと顕れました。主は忠実であられました。確かに 反対はありますが、人々の人生は今も変えられているのです。(終わり)


【訳者注】
ポール・コックス師は祈りの歩行もされると思いますが、彼の主なミニストリーは、クリスチャンは誰でも先祖が犯した罪ののろいを継承していて、それを断ち切る祈りをすることによって開放されると言うミニストリーで、基本的にはヘンリー・グルーバー師のミニストリーと同じです。グルーバー師も、個人的にその人の家系の罪からの断ち切りの祈りを薦め、この祈りは誰でも自分で祈り・宣言することが出来ると教えます。坂 達也

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by walkwithgod | 2009-11-21 08:59 | アメリカからのメッセージ