カテゴリ:主と個人的に深い交わりを持つ( 8 )

常に喜ぶ グラハム•クック    2009年10月17日

常に喜ぶ

グラハム•クック



キリストの内に生きると、私たちはよく笑うようになります。 笑ったり笑わなかったりすることは私たちが 決めることである以上に、ハッピーであることはクリスチャンとして必須条件です。私たちの人生に対する神のご計画には、私たちがキリストにある愛と喜びを見つけその愛と喜びの中で生きることも含まれています。神はすばらしい福音です! 主の愛と臨在は私たちの人生を元気づけるために不可欠且つ完璧なものなのです。

イエスはヨハネ15:11で「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」と言われました。神が私たちに語られたりご自分の性質を啓示されるときは、喜びが常に伴います。主を見つめ主の似姿に変えられていくのは、主のパーティーに招待され主と共に大いにお祝いをすることです。神が私たちに語られるすべての言葉は私たちを喜びの中に引き入れるようにデザインされているのです。天の御国のものはすべて、うれしさ、喜び、幸せ、笑いに関することなのです。神は私たちがにっこりと微笑むのを見たいのです。


神は次に何が起こるかをご存知なので、喜んでおられるのです。主は最終的な試合結果を知っておられます。初めから終わりを知っていると、敵の邪悪な計画や悪巧みを見ると笑わずにはおれないのです。 最終的には必ず勝利することを 知っていると、敵の策略は私たちにとって全く力を持たないものとなります。キリストの内にある喜びが絶えず私たちの心の深い所に流れていて、何者もそれに触れることは出来ません。しかし、そのような喜びを手に入れるためには、すべてのことを喜ぶ方法を会得する必要があります。

私にとって喜びは防衛手段です。敵に対する盾です。敵が攻めてきたとき、私たちは敵の面前で笑うことができるのです。それはまず神が敵を笑われるからです。

以前私は自分が戦場にいる夢を見ました。こちらの軍隊は敵をどうにか振り払ったところでしたが、多くの勇士を失いました。生き残ったものは多くはありませんでした。正直なところ私たちは少数であわれな状態でした。傷を負っていないものはありませんでした。私自身も少なくとも12カ所くらいの刀傷を腕に負っていました。出血もひどく、全く疲労困憊していました。

突然トランペットが鳴り響き、もう一つの敵軍が私たちの前に迫っているのがわかりました。あたりを見ると私たちのための援軍はありません。敵軍は力を増しています。刻一刻、彼らの軍列はふくれあがって行きます。勝ち目がない戦いでしたが、私たち憔悴した生き残りの者たちは集り戦闘態勢をとりました。


私が足場を固めて敵の襲撃に備えて歯を食いしばって立っているとき、私の横にレストランのウエイターのような格好をした男がいるのに気がつきました。折り目正しい黒いズボンに蝶ネクタイ、糊のきいたワイシャツを着て腕には白いタオルをかけていました。

「 一体何をしているんですか?」と私は信じられない思いで尋ねました。
「メロンとスープとどちらになさいますか?」と彼は答えました。
「えっ、何だって?」と私は聞き返しました。
「メロンですか、スープですか?」と彼は言いました。
「こんな時に食べ物の話なんかどうしてできるんだ?」と私は問いただしました。

ウエイターは私を無視して、一人ひとりに「メロンになさいますか?スープですか?」と聞いてまわりました。
「気でも違ったのか? 今起こっていることがわからないのか? 地面は血だらけなのが見えないのか?
 あそこにいる敵が見えないのか? こんなときになんでランチのことなんか話せるんだ。」と私は言いました。
「えーと、メロンですか、スープですか?」と彼は答えました。
私はすっかり腹を立ててしまいました。「おまえは馬鹿かなんかか? こんな時に食べ物の話をしたいのか?」と私は金切り声で叫びました。

突然私は目をさまし、自分のベッドルームで「食べ物の話なんて!」と叫んでいる自分に気がつきました。その瞬間、私はパワフルな啓示を受けたのです。それは詩編23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」という箇所です。

私たちが戦場で敵からの次の襲撃をどうにかして乗り切ろうと構えているとき、神はメニューを考えておられるのです。主はあたりを見回して、「ここはなんとピクニックに最適な場所なんだろう! ソーセージパンやミートパイ、チーズサンドイッチがいいだろう。本当に最高だ。」と言われるのです。神はどのような敵をも打ち破ることがおできになり、ご自分の力を完全に確信し平安をもっておられるので、 たとえ私たちが人生の最悪の戦いのただ中にあっても食事を与えてくださることが出来るのです。そして私たちがそれを確信することこそ、人生で全き喜びを持つ源となるはずなのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-10-17 07:47 | 主と個人的に深い交わりを持つ

「主を見つめて待つ」祈り(2)  坂 達也 2009年1月31日

主を見つめて待つ」祈り(2)

坂  達 也


この年の初めに当たり、多くの方がなさったように私も断食をしました。その時に感じたことがあります。
それは、断食をしていると段々体力が弱り、特に今回は「考える」頭のエネルギーが不足してくるのを感じました。 

聖書を読んで、参考書を見たりしながら(知らないうちに)深く考えこんでいると、エネルギー不足で段々考えられなくなってしまったのです。そこでやむなく、考えるのを止めて休みました。そして主をぼーっと見上げ何となく主に浸っていると、一つの、それもかなり深い「思いと考え」がすーっと心に入って来ました。その時気がついたことは、自分は全く安らかな気持ちであって、少しも自分自身のエネルギーが使われていない、むしろリフレッシュするような新鮮な力すら感じたのです。

 私はその時、成る程断食のよさの一つはこれだと思いました。今回断食をして主から改めて示されたことは、日頃「自分の考えに死ぬ」「頭で考えるのを止めて、それよりも主に聞け」と自分に言い聞かせていながら、実際にはなかなか自分で考えることを止めていないと言う事実でした。そして、それがいかにエネルギーばかり使う「徒労」であるかと言うことを、今回はっきり肉の形で主から教えられました。


さて、心を静め、総てのことを忘れて主の御前に立つ時に、クリスチャンとして最もすばらしいことの一つが起きます。それは、心の中に愛と喜びが溢れ出てくることです。

1ペテロ1:8、9に「 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」とあります。

「魂が救われている」と言うことは、心の内が、言葉では言い表せないほどすばらしい喜びに満ちあふれている状態です。ですから、これを経験されてないクリスチャンはいないと思いますが、残念なことに、それがいつもそうであるとは限りません。毎日の生活の中で色々なことが起き、しばしば失望したり、怒りがこみ上げてきたり、いらだったりします。

そこで、いつも喜びの中に生きるための秘訣があります。それは、自分の廻りに起こる一切のことが、神が許されて私たちに下さっていると信じて疑わないことです。特にいやなこと、悪いことが起こった時にそう信じて感謝することです。このことを頭の中で理解しておられる方は多いと思いますが、本当に信仰で実行している方は案外少ないのではないでしょうか。第一、この信仰に堅く立っていなければ、どうして総てを安心して主に委ねることなど出来るでしょうか。

朝一番に主の御前に立って、主を喜び、主の愛と喜びのうちに主と共に過ごす時間がいかに大切で、必要なことであるか、この祈りをする方はよくご存知です。この祈りをすることによって、その日一日の総てを主に委ねて、安心して迎える用意が出来ます。
特に、自分には不可能でどうすることも出来ないような厳しい状態にある方にとっては尚更です。そのような試練の一日を「まるで人事のように、鼻歌まじりで」過ごせるようになります。いや、そうなることが目標です。何故なら、私たちが主に一切を委ねたのなら、何が起ころうと総てが「他人事―イエスが私の代わりに生きて、解決して下さる」からです。

「主を見つめて待つ祈り」は、朝とか夜に主と静かな時を持つだけではなく、それを延長して一日中出来るようになることが理想ではないでしょうか。そのやり方は、出来るだけ多くの時間を、たとえそれが瞬間であっても、とにかく主を思い浮かべて、主と交わることです。電車に乗っている時間、車を運転している時間、あるいは人と話している時とか、仕事中でもそうするのです。

特に何か一大事が起こっている最中には(かえってそのような時の方が主を思い浮かべ易いでしょうが)慌てずに本当に「まるで他人事のように、鼻歌まじりで」対応して下さい。相手の言うことに余裕を持って「自分の言いたいことを主張せずに」、人事のように「そうですね。ごもっともですね。」と言いつつ、心の中で「主にお任せしてありますからハレルヤ!」という気持ちを持っていればよいのです。

これが出来るようになれば本当に人生を「主と共に歩く」ようになれますね。人生が楽しくなります。自分で悩むことから開放されるからです。私が持つ人生の最終目標はこれです。私は今は未だ全く至らない者ですが、いつかエノクにならって「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)と書かれているように、私も生きたままで主と共に歩いて天に取られたいのです。

天の父は私たちに必要な総てのものを与えて下さいます。それは良いことだけでなく、一見悪いこと、多々の試練も含めてです。私たちが本当に「総て主が下さったもの、甘んじて喜んで受けます。」と思えるようになれば、御言葉にあるように、総てに感謝し、絶えず祈り、総てに喜べるようになります。(1テサロニケ5:16-18)これが「主を見つめて待つ」祈りをお勧めする所以です。

ダビデは詩篇16:11でうたいます。

「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」 (終わり)

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by walkwithgod | 2009-01-31 07:25 | 主と個人的に深い交わりを持つ

「主を見つめて待つ」祈り(1)   坂 達也  12月20日

「主を見つめて待つ」祈り(1)

                           坂 達也


哀歌3:25-26に「主はおのれ(主を)を待ち望む者と、おのれ(主を)を尋ね求める者にむかって恵みふかい。主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。」と言う御ことばがあります。
又、詩篇でダビデは次のように歌っています。「1 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。2 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。3 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。」(詩篇131:1-3)

最近は「主を見つめて待つ」祈りをされている方が日本でも増えて来ていることが今回の(2008年秋)日本旅行でよく分かりました。それは本当にすばらしいことです。それにつけても、このお祈りの秘訣は「自分の心をいかに静めるか」の一事にかかっているように思います。

先ず、このお祈りをするのに一番適した時間と言えば、その日の活動が始まる前の早朝のひと時か、あるいは周りが寝静まり、一日の活動から解放された夜の遅い時間ではないでしょうか。しかし夜はその日一日の労働・心労のざわめきが残っているので、朝の寝覚め時の魂の状態の方がより休まっていると言う点で私は朝を好みます。 

次に祈る時の姿勢ですが、椅子、ソファに背筋を出来るだけ真っ直ぐにして、しかし楽に長続きする姿勢で座ります。(あるいは座禅をするようにあぐらをかいても可)私の場合はベッドの高さが63cm、下部が25cm程空いていますので、そこにひざを入れ、小さな15-17cm高の木の安座にお尻を置いて(ひざまずくように)座ります。腕でベッドの上にひじをつき、疲れたら上半身をベッドに寄りかかるようにします。しかし出来るだけ背筋を真っ直ぐに保ちます。顔は少し上向け、目を閉じて上を見つめます。これが私にとって一番楽な姿勢ですが、それでも30-40分が限度です。その後はベッドの上に背中をヘッドボードに(枕をかって)もたれかかるようにし足を延ばして座ります。疲れたらソファーに座るのもよいと思います。但し、病気の時以外は出来るだけ横になって寝る形を取らない方がよいと思います。

こうして主と対面します。最初は特に主の臨在感が無い時が多いのですが、それでもやさしい主が前におられることを信仰で意識し、心から主への敬愛と礼拝の気持ちを持つようにします。そしてその気持ちを心でやさしく主に語りかけ、あるいは手を上げて(声を出しても出さなくても結構です)主を心から感謝し賛美します。しばらくこうして主に語りかける時間を過ごした後は主の語りかけを期待して待ちます。

主の前に出ているのですから、主だけを思い、出来るだけよそ事を考えないようにします。しかし、そうしている積りでも、心のどこかで心配事や、その日にやって来る、あるいは既にやって来た大事なことから心を完全に引き離し全く幼児のように無邪気な心で主の前に立つことは、意外に難しいことがお分かりになると思います。

人間の持つ意識の状態は実に微妙に働くようです。例えば、少しでも「急ぐ気持ち」とか「何かをしよう、しなければならない」と言う思いがあると、気持ちに「気負い」が出て心が静まった状態にはなりません。
昔仕事をしていた頃に接待ゴルフをやっていましたが、ゴルフは心の思いが如実に影響するスポーツです。飛行距離を延ばそうと思えば、腕から力を抜いて只クラブを握っているだけの状態にして腰の回転に自然について行くようにすると、振り子の原理でクラブの先では大きな遠心力が働き、球は思いがけないほど遠くへ飛んで行きます。しかし実際は、遠くへ飛ばそうと思えば思うほど力んで腕に力が入り、遠心力による加速を殺してしまう結果、かえって飛ばない経験をされた方は多いと思います。腕の「力を抜け」とよく言われましたが、痩せて非力の私には、飛ばしたい一心からでしょうか、どうしても腕の力が抜けないのです。

主を見上げる祈りには、何かしらゴルフの飛行距離の秘訣に通ずる点があるようです。それは「自分の力でやろうとしてはならない」と言う点です。「自分(肉)に死んで神の力(霊)に総てを委ねる」クリスチャンの生き方の基本と似ています。

本当に自分の魂を静めるためには、先ず、私たちの魂が詩篇131を歌ったダビデのようであるべきです。万軍の敵を前にしたダビデは、主の前に心から「へりくだり」、自分の力で戦って勝てると言うプライド(力み)と憂慮を捨てて(アバンダンメント)自らを解放し、静かに只主だけを見上げました。これが聖い、静まった「主への全き信頼」の心であると思います。そうすれば主は必ずその信頼に応えて下さいます。それが上記の哀歌で言う「主の救を静かに待ち望むこと」でありましょう。ここでぜひもう一度上記の二つの御言葉をじっくり味わってみて下さい。

このような静まった心になった時に主からの平安が来ます。いや、来ると言うよりも、元々私たちの中には主が内在されているのですから、主の平安があるはずです。私たちは日頃忙しくしていると気が付かないのですが、本当に静まった時にはその平安を感じることが出来るのです。その点主の御声も同じです。主は私たちに親しく話しかけて下さっていても、霊的な声は「静かな小さい声」(still small voice)ですから私たちの魂が騒いでいる間はそれが聞こえて来ません。
御声と言えば、私たち被造物はみな、元々創造主である主が言葉で語って造られたのですから、その創造主の御声を聞くと、むしろ懐かしい親しい気持ちがしてもおかしくないと思います。

主イエスは父の御前にいつもおだやかな心と、全き信頼をもって立たれました。そうすると主には天の父がされていることが見えるのです。それをヨハネ5:19、20で主はこう説明してくれます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです…。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」ここに主を見上げて待つ祈りの究極の姿があるように思います。

ここに天の父と父の最愛の一人子であるイエスとの関係が見事に表されています。そしてそれは取りも直さず、主イエスと私たち主の花嫁との関係であるのです。「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになる」のと同様に、夫である主は私たち花嫁を「愛して、ご自分のなさることをみな」私たちにお示しになろうとされておられるのです。私たちはその主の期待に応えて、主をいつも見上げて待ち、示される総てを受け取ろうではありませんか。

その主が私たちに言われます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」」(マタイ11:28-30)と。
私たちは、そのような主の前に出る時、総てを主に委ねているのですから何の心配もいらない、本当に心から安心出来るのです。肩の力を抜き、心の底からリラックスして下さい。自分の心に「リラックスしよう」とやさしく語りかけて下さい。これが秘訣です。

こうして心が静まった状態で主の前に立つと、多くの場合、主が既に待っていて下さり、主の愛とすばらしい臨在に包み込まれます。神様とはこんなにすばらしい愛に溢れ、やさしい方であると言うことが実感され、誰でも感激しない人はいないと思います。「愛の父」と「やさしい主イエス」とに個人的に対面出来るのです。私たちの心にある総てを理解して下さり、こんなにやさしく思いやりがあるすばらしいお方は他にはいません。思わず「主を愛します。」という言葉が心の奥底から出続けて止みません。

それはヨハネ15:5で主が言われた「…人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっている」状態であると思います。そうなれば「そういう人は多くの実を結ぶ」ようになるのです。

パウロと言う人はこの祈りをよくした人の一人であると思います。彼は本当に主と個人的に深い関係で交わる人であったでしょう。エペソ3:12-19で「12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰(別訳では「キリストの私たちへの忠実さ」)により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」と書いていますが、これが上記ヨハネ15:5と同じ状態を指しています。つまり私たちがキリストといつも結ばれた状態にある時、私たちは大胆に主の御前に出てこのお祈りをすることが出来るだけではなく、そうすることによって主の豊かな愛の中に入って行けるのです。それをパウロは続いて次のように形容してくれます。
「…14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。…16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかりそれによって満たされるように。

私はキリストの愛の深みをここまで実感できるのは、この祈りをする人の特権であると確信します。17節に「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とありますが、それは最初に主を信じた時に聖霊が内住されることを意味するのではなく、既に内住されているキリストと深い親密な交わりの関係に入ることを意味します。ここにおいてキリストと結ばれ(Union)ます。そして「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」までに到達出来るのです。それがこの祈りのゴールです。

この祈りは神との個人的なコミュニケーションで、しかも全く霊的なものですから、最初からうまくは出来ません。しかし出来ないからと言って決して落胆し、急いだり焦ったりしないで下さい。主が現れて下さるのを期待して気長に待つのです。そして諦めずにたゆまず毎日実行して下さい。それが秘訣です。

私たちの前に現れたくてしようがないのは、実は主の方です。しかし主は私たちを真に肉的な者から霊の人間に変えるために敢えて時間をかけて下さるのです。現れて下さらないのも主の愛からです。
くりかえしますが、始めたら直ぐ主の臨在が実感されなくても決してがっかりしないで下さい。むしろ主が私たちを訓練されているのですから感謝して下さい。私たちに必要なのは忍耐と言いますが、人生でこれ程「やりがい」「待ちがい」のあるものはありません。喜びを持って忍耐して祈り続けて下さい。その意味ではスポーツとかお稽古事と同じで、たゆまない訓練が必要です。

信仰生活の実践において、私たちに最も必要なことはこの「主を待つ」ことです。何故ならそれは「自分では何もしないこと」の訓練であるからです。(続く)


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by walkwithgod | 2008-12-20 07:47 | 主と個人的に深い交わりを持つ

私たちの霊性を保つためには ウェード・テーラー 2008年3月9日

私たちの霊性を保つためには

ウェード・テーラー


「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」(1コリント2:7)

私たちが受けている最も大きな賜物と祝福は、私たちが霊的に敏感であることと、それに飢え乾くことです。この飢え渇きと油注ぎによって、私たちは神の御言葉を通していただけるより深い啓示を理解することが可能になります。しかし、その飢え渇きは、放っておけば、徐々になくなって行き、ついには霊的に不毛の状態に陥ります。それを防ぐ方法は毎日、日課として神との霊的聖餐(コミュニオン)という個人的交わりを持つことをしっかりと維持して行くことです。

「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ書40:30-31)

私たちが霊性を保つためには、毎日、特定の時間と場所を「主を待ち望む」ために確保しなければなりません。これをすることによって私たちの霊のバッテリー(力)が充電されます。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、……地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

この主のご臨在を待ち望む時を持つことによって、私たちの人間的弱さにとって替る神の力を受け取ることができます。その力と霊的な強さは主のご臨在の中で主と交わる時に得ることが出来るのです。

「主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。」(詩篇25:14)

上記で「主を畏れる」とは主への畏敬の念を持つことであり、私たちが主の御前に出る時に、この畏敬の念によって私たちが集中して気を逸らさず一心に主を見つめることを可能にします。
人生で、私たちは二つの違ったレベルの命を持って生きていることを認めなければなりません。

「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(1コリント15:44)

イエスと直接の個人的な交わりの関係を持つことによって、私たちの霊の命の働きが増しますが、それにつれて私たちのこの世のものに対する欲望が弱まります。私たちが日頃霊的にものを考えて行動するか、あるいは肉でするかによって、それぞれの命が強められたり弱められたりします。
私たちの霊的なレベルは、私たちがどれだけ主を待ち望むために時間を費やすかにかかっていますが、その主を見上げて主からいただこうとすることが消極的であってはなりません。むしろ主から何かを受け取ることを熱心に期待する積極性が必要です。それは待ち人が部屋に入ってくるのを今か今かと期待して待つのに似ています。主を待つ間、静かに主をワーシップし、又、主への私たちの心からの愛を表明することが大切です。

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。
… わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。」(
箴言8:17,21)
 
私たちが主への愛を心から表明すると主はそれに応えて下さり、このやりとりが私たちの霊的理解をより一層うながし(霊的関係を強め、より親密にする)主のご臨在に対する私たちの感受性を増します。私たちがより大きく主を期待する時に主の実質(サブスタンス)が私たちの中に流れ込んで来るのです。

毎日「主を待ち望む」時間を持つことによって、私たちが霊的に豊かになるために最も重要な霊の命と力の分与(インパーテーション)を受けることになるのですが、これに平行して、私たちの肉の生き方(ソーリカル・ライフ)を十字架にかけることを私たちは忠実に実行しなければなりません。そのような肉の(魂的)生き方は、私たちが主の御前で時間を過ごさせないようにし、それに替るような時間の過ごし方を提案します。このような、あらゆる私たちの霊的成長を阻止するものを総て主の十字架にかけることを決意・実行することによって私たちは霊の命と力を受けて霊的に成長するのです。

私たちが「主の臨在の中で主を待ち望む」ことをしっかり実行して行く時に、十字架にかけるというプロセスを通して、主は、私たちが主の御前に出て静かな時を過ごすことへの妨げとなるものを取り除いて下さいます。私たちは皆このプロセスを通らねばなりません。そうした後に、私たちは主が放たれる霊の命をフルに受け取るという経験が持てるようになります。これこそ主が私たちに望んでおられることなのです。

「主を待ち望む」ことはそれを実行すればする程、その能力が強まって行きます。クリスチャンは他のクリスチャンと親しい関係を持つことは望ましいことであることに違いありませんが、それが霊の飢え渇きを満たすものでは決してありません。私たちの霊は、上に挙げられ、主と縦の関係-親密で主ご自身との個人的な関係-を保持されねばならないのです。私たちが主に近づき主の御前で時間を過ごす時に、主がご自身を私たちに知らしめてくれますから、私たちは主とより親しく個人的に交わることが出来ます。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)

私たちが完全に一人になって主とだけ時間を過ごす特別の時間を設定することは大変重要なことです。
「…… わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

主の御前で私たちが主を待ち望む時に、私たちの霊は命を与えられ、霊の領域に挙げられます。私たちが自分では何もしないでただ主を待つ時に主が働かれ、私たちのしたいこと(欲望)を正しいものに整えて下さり(リオリエント)、聖霊の領域によりオープンでより鋭敏になるようにして下さいます。しかし、この霊的に成熟するプロセスは、逆に私たちが自分の業で働く時に、主は私たちを待っておられ、霊的になることが妨げられます。

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、…」(ピリピ3:10)

私たちの霊的感覚が鋭敏になると、主が私たちを主に引き寄せたいと願っておられることがよりはっきりと理解できるようになります。その結果、私たちは主と毎日交わる関係に入ることを熱望するようになるのです。これが発展して行くと、主のからだ(教会)と世界の国々に関する主のご計画に私たちが協力するように導かれます。

主を待ち望む時間を多く持つことによって霊的感性が増すと同時に、自然(肉)の領域における感性も鋭敏になります。しかし、より鋭くものが見えたり、感じたりする時に私たちは直ぐリアクトしたり報復に出たりしがちですが、そうするのではなく、そのより鋭い感受性を自分のうちにじっと持ちこたえることを学ばなければなりません。

「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。 多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。」(イザヤ42:19-20)

イエスは非常に鋭い霊的感性を持っておられたので、人間の心の中がよく分かりました。しかし、その場の状況に直ぐ人間的に反応(リアクト)することをなさいませんでした。主はご自分が天から来たこと、即ち、天の立場をよくわきまえておられ、総て人間としてではなく、天の父が言われること、父がなさっておられることにのみ従ってことを運ばれました。

私たちは自分の持っている信仰で生きることを学びます。そして霊の領域に上げられ、そこで預言的な理解をもって霊の世界に入って行きます。「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」(1コリント15:46)
「……朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。」(イザヤ50:4)

主のご臨在の中ですばらしい時を過ごすと言うことを始めても、最初は主とか主の臨在をほとんど感じることが出来ません。しかし、それを続ける時に私たちがそのことを期待し続けるがゆえに、肉の領域から霊の領域に入って行き、やがて主と主の臨在をはっきり
感じるようになります。
 私たちがどんなに忙しい生活の中にいても、「主を待ち望む」ための時間を取ることは絶対に欠かせないことです。そして、私たちがそうすることによって失望することは決してないでしょう。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-03-09 09:53 | 主と個人的に深い交わりを持つ

神の顕現の臨在 その1 ウォルター・ビュートラー  8月17日

神の顕現の臨在 その1
                                         ウォルター・ビュートラー


  数年前のことですが、主が私にどこかで一人になって主とだけ交わりなさいといわれました。それで、私は一人で祈りと断食をして主と共に過ごす場所を見つけて金曜の午後にそこに行きました。日曜の午後になって、私は祈りと断食で主を求め始めてから48時間がたった、でも何も起こっていない、ということに気がつきました。何も感じなかったし、何のお言葉もいただいておらず、主の臨在もありませんでした。主は確かに私に何かを語られたいのだということはわかっていましたが、まだ何も語られていませんでした。

私は心の中で、「神が語られるには、長い時間がかかるのだなあ。」とつぶやきました。そう思った途端、主がベルが鳴るのと同じほどの鮮明さで、そしてかみそりのように鋭く、私に語られました。 肉の耳に聞こえたのではありませんでしたが、私はその声を確かに聞いたのです。主は「神をせきたてる者は、神には落ち度があると言う者だ。」といわれたのです。

主は、私は主の来られるのが遅すぎるとつぶやいて主を批判した、言われたのです。私は主に謝り赦しを乞いました。 その途端、主を待ち望んで私がこもっていた部屋のドアを通って主が入ってこられました。主を見たわけではなく、声も聞いたわけではないのですが、主がそこにおられることは目で見るよりももっとリアルだったのです。主が入ってこられ、主の臨在が主の後ろについてきました。それは王が王座にむかって入ってきてそれと共に王の長い衣のすそが部屋一杯に広がるような感じでした。

主は私の左側、腕の長さほど離れたところに立たれ、そこに4時間おられたのです。そしてみ言葉から「神を知ること」 について教えてくださいました。主が聖書の箇所を示されたので、私はそこを開けて読みました。するとそれが驚くほど鮮明に解き明かされ、その麗しさ、深さ、意味が分かるのでした。

翌年の夏に、私はタイのバンコックにいたのですが、道を歩いていくと道ばたに蓮のつぼみが落ちていました。それを拾って花びらを指で開いてみた私は、花の内部の美しいデザインに驚嘆しました。主が私にされたのは丁度それと同じようでした。 主がみ言葉を自ら開いてくださり、その美しさと豊かさを見せてくださったのです。私たちが神を知ることとは、神の御心の直ぐそばに行くことです。この「知ること」の中には、神の顕現の臨在を知り、そして個人的に経験するということも含まれています。

6時になったとき、主はドアの方に向きを変えられ、「そして、主は彼を試みるために去った。」と言われ、主の臨在も部屋の隅々から集められて主のあとについて部屋から出ていきました。
4時間にわたる「キリストご自身」から、「神を知る真の知識」 について「個人的に教わる」という経験は、私が期待し待っていたものをはるかに凌駕していました。このとき主から教わったことを100以上の国々に行って伝えるように後に遣わされるようになるとは、そのときの私には全くわかりませんでした。

この主の訪れを後になって人に話すときには、一つ一つの言葉を選ぶのにも私は非常に注意を払いました。 これは絶対に粉飾しない真理であり、起こったままを私の知る範囲でできるだけ正確に思い出しながらお話しします。

主は「主は彼を試みるために彼から去った。」 と言われました。学校で教師は教えたあと、テストをします。 それで私は、主は私を教えてくださったからそのテストをされるのか、と思いました。 私はじっと待っていましたが、何もおこりませんでしたので、もう寝ようと思いました。まだ8時でしたが、私は金曜日からほとんど睡眠をとっていなかったからです。

すると、サタンがドアを通って部屋に入ってきました。私はそのときベッドの横に立っていたのですが、入ってきたのはサタンだとすぐにわかりました。サタンは主が入ってこられたのと全く同じように部屋に入ってきて、主が立たれたところに立ちました。彼のあとについて悪魔的臨在が長い衣のすそのように部屋一杯に広がりました。 その様子は主の臨在が部屋に満ちたのと同じでした。サタンが話し始めたとき、私の中に恐れは感じませんでした。彼の声は肉の耳には聞こえませんでしたが、特徴あるサタンの声を確かに私は内に聞きました。

サタンは「主はお前のところには来なかった。」と言いました。私は大声で「主は確かに来られた。」と応えました。次にサタンは「聖書は神の言葉ではない。」と言い、私は「いや、確かにそうだ。」と応えました。サタンは 「主はおまえに教えはしなかった。」と言い、私は「いや、確かに教えられた。」と応えました。

このような問答のあと、彼は「どうしてお前は神を否定しないのだ?」と言い、私は「なぜ否定などできようか?」と応えました。彼は「なぜなら神はリアルな神ではないからだ。」と言い、私は「神はリアルだと私は知っている。」と応えました。次に彼は、「お前は救われてなどいない。」と言い、私は「私は自分が救われていることを知っている。」と応えました。

このあと、サタンは「お前は祈りすぎだ。」と言い、私は「そんなことはない。」と応えました。サタンはもっと強い調子で、「お前は祈りすぎて気が変になっているのだ。」と言い、私は「私は祈りすぎてなんかいないし、気も変になっていない。」と応えました。

私はベッドの横に立っていたのですが、このような問答がしばらく続きました。すると部屋が回り始めたように感じ、私はどんどんと速度を速めて回るメリーゴーランドの中にいるように感じました。サタンは「 ほら、見ろ、お前は気が変になってきた。」というので、私は「違う、これはただの幻覚だ。 何も動いてはいない。お前が私をだまして部屋が回っているように思わせているのだ。」と応えました。

これは本当に大変な事態でした。部屋の中のすべてのものがぐるぐると回り、私は三角や四角、木や岩、山などの幻覚に襲われました。サタンは、「さあ、神を否定する準備は出来たか?」と聞いてきましたので、私は「絶対に否定などしない。」と言いました。

主が私に教えてくださったことを全面的に否定させようとするサタンの攻撃に対して、私は堅く立って抵抗しました。するとサタンはくるっと向きを変えてドアから出ていきました。そのうしろからは悪魔的臨在が部屋の四隅から集まって衣のすそのようについていきました。再び主が私と共におられるのを感じました。

10時になっていたのに気がつき、もう寝ようと思いました。そのとき、サタンが再び入ってきて同じところに立ち、悪魔的臨在もその後ろについてきて部屋を満たしました。今度はすべてのことがもっと強力に感じられました。サタンと私は同じ問答を再び繰り返したのですが、一つだけ違いがありました。サタンからものすごい力が出ていたのです。彼が「さあ、もうあきらめる準備はできたか?」と言ったときには、その言葉には恐ろしい権威がありました。

自分がどんどんと弱くなっているのがわかりました。私のサタンに対する答も前のようにきっぱりしたものではなくなっていました。彼は私が降参するようにと激しく攻撃し、私は出来る限りの抵抗を続けましたが、ついに私は「もうこれ以上駄目だ。」と心に中でつぶやき、敗北者のようにベッドに身を投げ出しました。

私がベッドに倒れこんだ途端、自分の内でなにかがそっと動き始めるのを感じました。それが聖霊の存在であることが私にはわかりました。そして、私の中のその存在に意識を集中しました。サタンはまだそこにいましたが、私は彼を無視してこの主の存在をじっと感じていました。するとその存在はゆっくりと大きくなり、歌いはじめました。私ではなく内なる聖霊が歌ったのです。聖霊が“Isn't He wonderful, wonderful, wonderful, isn't Jesus my Lord wonderful. 主はすばらしい、すばらしい、すばらしい、主イエスはすばらしい”と歌うのがはっきりと聞こえました。

聖霊は歌い続け、その臨在がどんどん大きく強くなっていきました。私はじっと耳をかたむけました。サタンも多分その歌を聞いていたと思いますが、何も言いませんでした。ついに聖霊の臨在は私ののどにまで達し、私も彼にあわせて歌い始めました。私の中で歌う聖霊とともに私は大声で歌いましたが、サタンは黙ったままでした

聖霊が歌うのをやめましたので、私はそのままじっとして待ちました。聖霊は「敵が洪水のように押し寄せるとき、主の霊は敵にむかって防御のための武器を挙げる。」と言われました。それを聞いてサタンはすばやく立ち去り、主の栄光が部屋全体に満ちました。私がもう抵抗できないほど弱くなったその瞬間に、聖霊が私を防御しに来てくださったのです。 もう、真夜中になっていました。次の日私は家に帰りました。

皆さんはどうしてこのようなサタンの攻撃があったのか、といぶかしく思われるかもしれません。4時間にもわたって主が神を知ることについて、また、主の個人的な顕現の臨在について教えてくださったのです。ですから敵は、主が私に与えてくださったまさにその事を滅ぼそうとしたのです。 サタンが最も憎むことは、私たちが神を個人的に知ることです。サタンは主の民が「主ご自身の顕現の臨在」を体験することを絶対に阻みたいのです。

サタンが私を打ち負かそうとあれほど激しく攻撃してきた理由は、「個人的に主を知ること」と「主の顕現の臨在のリアリティ」に関するこのメッセージがクリスチャンにとって極めて重大ことだからだと私は信じます。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-17 18:05 | 主と個人的に深い交わりを持つ

主の親しき友ウォルター・ビュートラーについて  ウエード・テーラー  8月11日

主の親しき友ウォルター・ビュートラーについて 

ウェイド・テイラー



ウォルター・ビュートラー師は私が学んだ聖書学校の教師でした。師は他に類を見ないほどに主イエスを個人的に親しく知り、主と共に歩いた人でした。稀にみるような主との親しき交わりの中での彼の生活は、周りの者にもその素晴らしさがよく分かりました。師が教えている教室に、主イェスはしばしば訪れてくださり、ご自身を顕され、師に教えを受けていた学生たちの人生の上に働いてくださいました。 その一人であった私の人生もチャレンジを受け変えられてゆきました。
師は度々学生たちに、主を個人的、体験的に知るようにと勧めました。師自身のユニークな主との霊的歩みと体験を話してくださり、私たちももっと主を熱心に求める気持ちを持つようにというチャレンジを与えてくださいました。

師のミニストリーにより、私の霊的な歩みの2つの面が非常に重要になりました。 第一は、「主を待ちのぞむ」という質の高い時間をついやすことのはかり知れない恩恵を理解したことです。第二は主の「顕現的な臨在」(Manifest Presence)を体験することが可能であることを知ったことです。師の教えのおかげでこの2つは私の人生の中で現実のものとなりました。

ビュートラー師が教えられた霊的原則は、私の霊的生活に大きな影響をあたえ、私のミニストリーの基礎原則ともなりました。
 
それは「私たちが神のために愛の家を建てるならば、神は私たちのためにミニストリーの家を建ててくださる。」というものです。
この原則は真理であり力があることを私は証言することができます。

ビュートラー師は広範囲にわたって海外でのミニストりーを行い、「主の顕現の臨在」と「神の導き」について1974年の亡くなる直前まで教えられました。

あるペンシルバニアのペンテコステ派聖書学校にビュートラー師が訪れたときの一学生の記録をここに載せます。

「神の祝福だけでなく神ご自身を求めたウォルター・ビュートラー師の思い出」

ウエスタン・ペンシルべニア聖書学校の学生たちは興奮で騒然としていました。ウォルター・ビュートラー師が来週この学校に来るというのです。私は彼の話を聞いたことがなかったので、上級生たちがこんなに興奮するのなら、素晴らしい人に違いないと思いました。

 とうとうその当日となりました。 会堂は一杯になりました。学生だけではなく、遠いところからも人々が詰めかけていたのです。

   彼が話し始めると、今まで私が聞い話とは何か少し違うことに気がつきました。彼がイエスについて話すとき、イエスについての大量の情報を提供するのではなく、あたかもイエスが彼の友達であるかのように話したのです。このことが私の興味を引いたので、私はもっと注意深く聞くことにしました。彼の話す話はただの話以上のものだということがわかってきました。それは彼が友達イエスと一緒にした冒険談の数々だったのです。

彼は彼の友達(イエス)のことを教えるために世界中に出かけていきました。通常一人で旅行をしましたが、神の臨在がいつも伴っていたので、実際のところ一人ではなかったのです。彼とイエスがロンドン行きの飛行機に乗って大西洋上空を飛んでいたときの話です。二人で愉快な旅をしていたのですが、イエスが急に「ウォルター、今度はピラミッドのところで会うからね。」と言われていなくなるのがわかりました。彼はロンドンに到着すると、すぐにエジプト行きのチケットを買い、エジプトに行き、ピラミッドのところで腰をおろしました。 すると、彼の友達(イエス)の臨在を感じました。間もなくエジプト人のビジネスマンが彼の横に座りました。主が彼をエジプトに呼ばれた理由はこの人だったということが彼にはわかりました。彼がこの人に友達のことを話し始めるのに時間はかかりませんでした。エジプト人は、「主は私の友達にもなってくれるでしょうか?」と聞くので、彼は喜んでイエスを紹介しました。そして、また飛行機に乗って旅を続けたのです。友達と一緒に。

ビュートラー師は、彼が友達と一緒にした冒険談をいくつか話してくれましたが、一つの話を忘れることができません。彼があるときバンコックの飛行場につくと自分のスーツケースがありません。彼はモテルに行き、そこで飛行場からの連絡を待ちましたが、なんの連絡もありません。彼はまた飛行場にいってコンベイヤー・ベルトのあたりを見回しましたが、ありません。もうなくなってしまったとあきらめて、必要なものを買うことに決めました。その場を去ろうとしたとき、突然主の臨在を感じました。 主はそこを立ち去りたくないのだ、と彼は感じました。もし、主がここにとどまりたいのなら自分もいなくてはならないと、彼は思いました。彼は友達の臨在を感謝し礼拝しました。深い礼拝をささげていると、彼のスーツケースがベルトにのってきました。 別の飛行機の荷物にまぎれてしまっていたのです。

友達の話をし終えると、彼はとても変わったことをしました。彼はゆっくりと会衆に背を向け、じっとそのまま立っているのです。こんなことは見たことがない、と私は思いました。誰も動きませんでした。聖なる静寂がその場を覆いました。 沈黙がしばらく続きましたが、突然一人の女の人が泣きながら立ち上がり、会衆の前で自分の罪を告白し始めました。信じられないことでした。ビュートラー師といえば、彼は彼女が告白を終わるまで会衆に背を向けたままでした。彼女が終わるや否や、他の人が立って罪を告白し、そのように次々と人々が立って自分の罪を告白したのです。ついには私も立ち上がりました。主の臨在が満ちていました。それは厳かであり、憐みに富み、愛にあふれていました。 やがて静かさが戻ると、彼は会衆の方に向き、彼の友達を愛してくれてありがとう、と私たちに感謝を述べてから壇上から去っていきました。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-11 17:02 | 主と個人的に深い交わりを持つ

二種類の主の臨在      ウェイド・テーラー   6月29日

二種類の主の臨在 

ウェイド・テイラー 
(階段の秘密-雅歌による霊的成長の手引き から抜粋)

主の臨在には二種類あることを知らねばなりません。

第一のものは、救われた者すべての内に来てくださる「内住の臨在 abiding presence」です。イエスを救い主として受け入れさえすれば、聖霊は必ず与えられます。すべて救われた者にとって、聖霊の内住は現実のものであり、私たちはそれを確信することができます。聖霊は誠実であられ、私たちの救いを保ち、イエスというお方を私たちに活き活きと示してくださいます。

第二のものは、主が知性、意志、感情を持ったパーソン(人格)として来られる臨在です。主は私たちの霊の小部屋にはいることを切望され、そこで私たちと語りあいたいと願われるのです。そして、そこから更に私たちを主の部屋につれて行ってくださり、 主の御計画を打ち明けてくださいます。このような主の訪れは「顕現的な臨在 manifest presence」 と呼ばれ、これを受けるには条件があります。主が私たちの霊の扉をたたかれるときに、それを識別する力と正しく応答する力とは、私たちが自分の「霊的感度」や「霊的姿勢」をどれだけ訓練し発達させているかにかかっています。ですから、私たちはいつでも自分の霊が主にしっかりと向いているようにし、主が私たちと交わりを持ちたいと願ってこられるときには、それをすぐ察知できるようにしていなければなりません。

イエスはヨハネ福音書で、ご自分を現されるときに必要な私たちの条件を明らかにされています。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 ヨハネ14:21

私たちの主を愛する気持ちが大きくなるにつれて、主が訪れてご自身を現わして下さるのを期待しながら待つようになっている自分に気がつくでしょう。私たちは主が来られたとき、自分の霊の戸をどうやってあければいいかを学ぶ必要があります。

新生したとき私たちは霊に生まれ、「新しく造られた者」となります。肉体の感覚が成長とともに徐々に発達するように、私たちの新しく造られた霊的感覚もどんどんと発達していかねばなりません。この内なる霊的感覚によって私たちは主の現われを察知するのです。

黙示録3:20a
「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく…」

主との友情を心から願う人たちは、すばやく私たちの霊の戸をたたく主に応答して、自分の霊の小部屋へと主を招き入れます。この部屋は私の内なる人の中にあり、主と交わりをする場所です。それは私が主とふたりきりになるための特別の私の部屋であり、又、主が私とふたりきりになるための主の部屋なのです。というのは、私が一緒に食事をしてください、と主を私の部屋に招きいれると、主はそこから私を主の部屋への階段を教え、導いてくださり、そこで私は主とともに食事をするのです。そこで私は主のいのちに与り、主と一つになるのです。

雅歌5:2-3では、花婿が花嫁の都合の悪いときに訪れようとしましたが、花嫁はそれに答えませんでした。花嫁が「部屋の戸」を開けるのを躊躇したので、花婿は落胆してそこを去ります。しかしながら、彼は花嫁に「賜物と祝福」 を残していきましたが、それが「主ご自身の現われ」のすばらしさに比べれば、全く価値のないものであることを、彼女がはっきりとわかるようにしたのです。イエスは私たちが主を「祝福を与えてくださる方」としてのみ知るのではなく、「一人のお方」として主ご自身を知ることを熱望しておられるのです。

雅歌の時代には、家の戸の取っ手は内側にありました。ですから、戸を開けるためには、小さな穴に手を差し入れて中の取っ手をはずさねばなりませんでした。主は花嫁に会いたいと熱望されて、戸の穴に手を入れて取っ手をはずそうとしましたが、開けることはしませんでした。私たちの心の小部屋の戸は、私たちがコントロールしていて、私たちにしかあけられないのです。主がこのよう手を差し伸べられたことは、花嫁の心をかき乱しました。

箴言5:4
「私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心はあの方のために立ち騒ぎました。」

主は決して私たちのプライバシーを侵害することはありません。私たちが戸をあけなければならないのです。主があけることは決してありません。この原則は聖書の中にはっきりと書かれています。主は外に立ち、戸をたたいて私たちが戸をあけるのを待っておられるのです。もし、戸をあけなければ、主は去っていかれます。

黙示録3:20b
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって…」

花婿の手が取っ手のほうに伸ばされるのを見て、花嫁は彼の思いを知り、やっとそれに応答して戸をあけます。

雅歌5:5-6
「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。私が愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。」

彼女が戸をあけたとき、主はもうそこにはいなかったのです。彼女の応答が遅れたために、主は彼女の部屋の戸口からご自分の「顕現の臨在」をやむなく取り去られました。しかし、主がそこにおられた結果として、取っ手に油が注がれていました。彼女が取っ手に触ると油注ぎが彼女の手にあふれました。それは主が去られるときに、彼女に手一杯の祝福を置いていったからです。以前でしたら、彼女は主がおられなくてもこの祝福だけで十分満足していたのですが、いまは彼女はうろたえ、花婿なる主ご自身の臨在を熱望するようになったのです。

花婿が訪れたときに花嫁がすぐに応答しなかったという失敗の経験は、彼女にとって大切な成長のステップとなりました。彼女はすぐに応答してさえいれば、彼の奥の部屋にのぼっていくことができたという「秘密」を学んだのです。主の「顕現的な臨在」に応答するチャンスを彼女は今回逃がしてしまいました。しかし、その苦い経験を通して、主が自分の部屋をノックされるときは、すぐにそれが聞こえるように、自分が早急に内なる霊的感度を養わなければならないことを学んだのです。また、自分がその時何をしていても、主が近づかれたときはそれを置いて、すぐに主に応答する大切さも学びました。

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に(注:KJVではearlyとなっており、遅れないですぐにという意味がある)捜すものは、わたしを見つける。」箴言8:17

花婿は自分が否まれることに対して非常に敏感なので、自分を現わすのをためらう方だということを、花嫁はすでに鮮明に描き出しています。彼女は「私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。」(雅歌2:9)といっています。

主の現れはデリケートであり、そこなわれやすいものであることを、花嫁はすでに知っていたのです。ですから、主のノックにすぐに応答しなければ主は立ち去ってしまうこともわかるべきでした。

私たちはこの花嫁の失敗から学び、私たちも主を落胆させることのないようにしなければなりません。主の臨在をすぐに察知できるような霊的感受性をもっと養うようにいつも努めなければなりません。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-29 15:45 | 主と個人的に深い交わりを持つ

主と個人的に深い交わりを持つ理由  12月6日

なぜ主の御声を聞く必要があるのか(1)
            
              坂  達 也



 パウロはアテネの町が偶像で一杯なのを見て心に憤りを感じたと、使徒行伝17:16に書いてありますが、日本も当時のギリシャに劣らず、至る所偶像だらけではないでしょうか。
 聖書では神様が偶像を極端に嫌われることが書かれています。その理由は、私たちが信じる真の生きている神様は、ものを言われる神様であるからであると思います。その事実を人間に知ってもらいたくないサタンは、人間にものを言わない偶像を作らせ、それを有難がって礼拝させようとして来ました。つまり偶像とは、私たちが真の神様と親しく語り合うことをさせないようにするためのサタンの策略である訳です。
 そのサタンの策略にまんまと引っかかったのは未信者だけではありません。多くのクリスチャンですら普通、神様が親しく個人的に「語られる神」だとは思わないようにさせてしまったのです。
 私はクリスチャンが偶像を見る度に、サタンの計画を逆手に取って、「私たちの神様は生きていて、ものを言う神様である」と偶像に向かって宣言すればよいと思います。そしてそのことを心から神様に感謝すべきであると思います。

 聖書を見ますと、私たちの信じる神様とは、初めから終わりまで徹頭徹尾、「語られる神」であることが明らかです。第一、神様の創造は、神様が言葉に出して命令されることによってなされましたから、神様の話す言葉にはものすごい力があることが分かります。サタンはそのことをよく知っています。ですから私たちが神様の御声を聞いてそれに従うことを、何よりもサタンは恐れるのです。
神様はアダムに地球上のすべてを支配する権威と責任を与えました。そしてアダムに親しく語られ、指示をしながら導いたことでしょう。神様の言われる通りに行う時、アダムは超自然的知恵と力が備えられることを知っていたはずです。
 同じように、神様は荒野で40年間毎日モーセに語り続けました。私は、神様の御声を聞いてそれに忠実に従う時に、物事がその通りになることをモーセほど経験した人はいないと思います。
 神様の御声を聞く時には、それを実行に移す信仰の力が与えられると私は信じます。それに反して、人間が自分の頭で考えて行動する時には、そのような神様の知恵と力が普通は得られないと思います。

 私たちの日常の生活において「信仰がなくては、神によろこばれることはできない。」(ヘブル11:6)とありますから、私たちが常に神様に喜ばれる信仰で生きるためには、神様の御心をいつも知り、それに忠実に従って生きる必要があります。
 それではどうしたら神様の御心を知ることが出来るのでしょうか。その答えは「神に近づき」「神を求める」ことであると書かれております。つまり分からない時は何事でも神様に聞くことです。そうすれば神様は忠実な方ですから、それに必ず「報いてくださる方」、答えて下さる方であると、同じヘブル11:6に書いてあります。
そこで、その神様が「報いてくださる」方法ですが、多くの場合、神様が聞いた人に答えを「語ってくださる」のです。これが「主の御声を聞く」ことです。

 御心を知るための最も重要な方法は聖書を読むことであることは、クリスチャンなら誰でも知っていることです。少なくとも、神様がどう言う方で私たちに何を望んでおられるかという基本的な知識を得ることが出来ます。しかし、聖書をいくら読んでも、それが頭だけで読むなら単なる頭の知識に過ぎず、しっかりと心の中(霊的)にとどまりません。
 ところが聖書を読んで、主にその意味するところを個人的に聞いて「祈りながら待つ」時に、主が語って下さいます。あるいはその御言葉の「はっきりとした理解」が自分の心に飛び込んで来ると言う表現も出来ます。それが聖書を通して主の御声を聞くと言うことです。ですから聖書を毎日読むことが大切なのです。
 しかし、主の御声を聞くのは聖書を読む時だけとは限りません。私たちに内在される聖霊様は、いつも私たちの霊に語っていて下さいますから、いつも霊の聞き耳を立てていれば主の御声が聞こえてくるはずです。
 主の御心を知ることは非常に大切ですが、それ以上に大切なことは、主の御心を知ってその御心を実行するだけの信仰を持つことであると思います。実はこの信仰を得るのも主からです。そのためには、主からの「御声を聞く」ことによってその信仰が得られると、私は信じております。

 さて、神様が「語られる神」であることが一番普遍的に知られているのは、神様が預言者を立てて、その預言者を通じて語られることです。預言者、あるいは預言的な賜物を持っている人は今の時代にも大勢おります。ですから、クリスチャンであるあなたが、自分の将来について神様がどのようなご計画を持っておられるかを知りたいと思う時に、そのような預言の賜物を持つ人を通して、主へ「おうかがい」を立ててもらうことが出来ます。そのこと事態は決して悪いことではありません。
 しかし大切なことは、そのいただいた「預言」をよく吟味することです。自分の牧師とか霊的に信頼の置ける友人にその預言の内容を吟味してもらうのがよい、と一般的に言われておりますが、それ以上に重要なことは、本人自身が主の前に出て、その預言が本当に主からのものであるかどうかを、直接主に確かめることであると思います。
 なぜかと言えば、主から直接いただく答えとしての「御声を聞くこと」によって初めて、私たちはその御言葉(預言)を本当に「信仰で受け取る」確信が得られるからです。その確信とそれだけの信仰が得られれば、それが実現・成就するまでに少々時間がかかっても(時には何十年も掛かる場合もあります。)その確かな信仰によってそれを祈り続け、そのための準備(の行動)をし続けることが可能になると思います。もしこの預言の吟味と確認を直接主にしないとすれば、それは未信者がよく求める、単なる「八卦見」で終わってしまうことになりかねません。

 又、本人が預言的な賜物を持つ人であっても(私たちは皆、預言的であるべきですが)、その人が重要なこと、あるいは自分の特に関心のあることだけは主におうかがいを立ててその答えを得るにしても、後のことは主に聞かないで自分の判断で勝手に行動をしながら生きているとすれば、これは真の信仰で生き、常に主に喜んでいただけるクリスチャンとは言えません。そう言う人のことを聖書は「二心の人たち」(ヤコブ4:8)と言っていると思うのです。これは逆に、霊的に成熟しつつあるクリスチャンにとって大変危険な落とし穴であると言う気がします。
ヤコブ4:8には「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」と書かれています。真の霊的なクリスチャンとは、必ずしも霊の賜物を多く持つことではありません。なぜなら賜物は肉で生きているクリスチャンでも用いることが出来るからです。霊的なクリスチャンとは、常に神に近づいた状態で生きる主と個人的に親しい人です。

 私たちクリスチャンとは、すべてを主に委ね、自分の十字架を負って(と言う意味は自分で生きることをやめることですが)イエス様のあとについて行く者なのですから、常に主を見上げ、主の御声に聞き耳を立てて、主に近く(とどまって)生きると言う霊的なライフスタイルを身に着けねばなりません。それが出来るようになるにつれて、私たちは段々と主の思いが自分の思いとなり、自然に主の御心の中で平安を得て、御心を生きられるようになると思います。それと同時に、人間的なもの、あるいは悪魔の策略をより敏感に察知し、忍び寄る敵の誘いの手を決然と退けることが出来るようになります。それが「主と共に歩く」ことではないでしょうか。
 そのために最も重要なことは、毎日主と個人的な深い交わりを持ち、主とは切っても切れない親密な関係になることです。そうすれば私たちは、単に聖書を読んで知る以上に、主の御心と思いが分かるようになると思います。(終わり)



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by walkwithgod | 2005-12-07 01:09 | 主と個人的に深い交わりを持つ