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神様の刺繍  坂 柚実子  12月31日 

神様の刺繍

 2005年が終わろうとしています。生まれてからずっと、日本でもオレゴンでも年末は寒さの中で迎えてきたので、このハワイでの暖かい年末はかなり違和感があります。でも日本食のマーケットへ行くと、小さな門松やおせちが売られていますので、やっぱり年の瀬なんだ、と自分に言い聞かせています。 

 この一年、皆様にとってどんな年だったでしょうか。以前、私たちの人生は神様が天国から刺繍をしているようなものだ、ということを読んだことがあります。私たちが天国に行ったとき、神様が、「さあ、これが私が創ったあなたの人生の刺繍ですよ。すばらしいでしょう。」といって見せてくださるのです。でも今は私たちはその神様の刺繍をこの世から、つまり裏から見ているのです。だから、どうして、自分の人生の刺繍の中で、ある糸が急に遠くまでとばされているのかわからなかったり、また、ある箇所でいろんな色の糸が絡み合ってむちゃくちゃになっているのかわからなかったりするのです。でも神様はちゃんと一人一人にすばらしい刺繍のご計画があって、ある色の糸は離れているところで必要なのでぴょんと違うところにとばしたり、あるところでは沢山の色の糸を使ったりして、天国側からはとても美しい模様をつくりあげていてくださるのです。

 一月ほど前から私たちはNew Life Church Honoluluという教会に集っていますが、そこで一人の韓国人の女性に出会いました。年齢はまだお聞きしていないのですが、主人と同じくらいでしょうか。彼女は日本で生まれ、第二次世界大戦の前に韓国の大邸に引き上げ、1962年にアメリカに移住し、大学教授として長年教鞭をとって来られたそうです。一方、私の主人は、1936年に韓国の大邸で生まれ、戦後日本に引き上げ、彼女と同じ1962年にアメリカに移住しました。その二人が奇しくもハワイで同じ教会(100名ほどのこじんまりした教会です)に集うようになるというのは、神様の手で刺繍の糸がいろいろと飛び交っている感じがするではありませんか。彼女は韓国語、日本語、英語が堪能で、主を心から愛しておられますからこれからも大きく用いられようとしています。天国にいったらどんな美しい刺繍を見せていただけるのか、大変楽しみですね。

 クリスチャンとして大切なことの一つは、永遠のものさし、即ち、天国の価値観で物事を見ること、だと思います。オレゴンで教会主催の英会話クラスの先生をしていてくださるシンシア・ケニヨンさんのご主人であるブラッドさんの証を聞いたことがあります。
 それは、英会話クラスの婦人たちとそのご主人たちとを彼らの家に招いてくださったときに話してくださったのです。彼はあるとき非常に古い墓地を訪れました。アメリカの墓石にはその人の名前と、何年に生まれ、何年に死んだかという年号が彫られています。彼はそれをしばらくじっと見ていて、叫んだのです。「この人は生きていた年月より、死んでからのほうがずっと長い!」と。それが、彼にとって永遠に目を向けるきっかけとなったそうです。その彼も今は天国で自分の人生のすばらしい刺繍を見ておられます。

 私たちは、主のご計画で今の時代に生かされて、一日一日を過ごしていますが、どんなことが起こっても、いつでも天国からの見方、即ち、霊的な物の見方をしていかねばならないのだと思います。2006年を迎えるにあたり、こんなことを考えました。よいお年をお迎えください。                                                        (終わり)


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by walkwithgod | 2005-12-31 14:50 | 柚実子からのハワイ便り

暗黒と神の国の輝き リック・ジョイナー  12月31日

暗雲と神の国の輝き(1)

リック・ジョイナー (訳者:渡橋 喜代佳)


 2005年8月22日、私は夢を見た。夢の中で、感じのいい静かな通りを歩いていた。突然、西の方から大変な危険が自分の方に向かって来るのを感じた。振り向くと、非常に不気味な暗雲がこちらに迫っていた。その雲ははるかかなたまで一直線に延びており、すぐそこまで接近している。私はすぐそばの家に避難した。中に入りさえすれば、安全だった。しかし、ドアを開けようとするが、開かない。鍵は私のポケットにある。鍵に手をやるが、恐怖のあまり身動きできなくなった私は、ドアを開けようにも、ポケットから鍵を取り出すこともできない......夢はそこで終わった。
 この夢ですさまじい恐怖を覚えて、私はひどく苦しんだ。数日間その解き明かしを主に求め、預言者である友人のボブ・ジョンズにも尋ねてみた。そして、この雲がアジアから(私たちのいる西側に)もたらされる死のウィルスだということが示されたのだった。この夢のメッセージはこうだ。私たちにはこのウィルスに対して安全な場所があるし、そこに入る鍵も与えられている。それは神の国の鍵である。ところが、恐怖のあまりそこに入れないということもありえる。この暗雲がどんなに接近していたとしても、避難所である神の国もまたすぐそばにあるのだ。

道を備えよ 
まず確認しておきたいが、もし私たちクリスチャンが岩の上に家を建てているなら、この地上に来ようとしているどんなものをも恐れる理由はない。主のことばを聞いてそれに従うことで、私たちは岩の上に家を建てるのである(マタイ7:24~27参照)。主のことばを聞いたことのない、あるいは、聞いても従わなかった愚かな人々にも、悔い改めるための時はまだあるにはあるが、あまり残されていない。時が迫っているからだ。夢の中で暗雲が非常に接近していたのは、このタイミングのことだった。
 私たちには揺らぐことのない神の国があり、この地上を襲うどんなものからもまったく安全で確かな避難所がある。すでに述べたように、この安全な場所に入るための鍵は、主がご自身の教会に与えてくださった神の国の鍵である。けれども、クリスチャンだと言いながら、実際は、神の国のやり方ではなくこの世のやり方に従い、主のためではなく自分のために生きている人たちには、悔い改めの時はわずかしか残されていない。

 聖書は、この時代の終わりに世界がどのようになるかについて、非常に明確に語っている。
1テサロニケ5:2~6からは、励ましと警告の両方が与えられている。
 「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知している
からです。 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
  しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」


 この先世界がどのような事態にいたったとしても、クリスチャンは驚くべきではない。この地上を何が襲っても驚かない、終わりの時代の預言的なミニストリーが起こされることだろう。主の羊たちは、主の声を知っていると言われている。彼らはそうした事態に対する備えがなされて、主の囲いの中で安全に過ごすことができるのだ。主の声を知らないか、主の声に従わない人々は、たちまち、もっとも過酷な危機的状況にさらされるようになるだろう。
 何であっても、否定的だとわかると、それを受け入れることが教理的にできなくなっているクリスチャンが多い。彼らは、上記の引用箇所にあるように慎み深くしているのではなく、霊的な酩酊状態にある。すぐに酔いから覚めるのでなければ、次は昏睡状態に陥るだろう。繰り返すが、この世界がどのようになるかについて、聖書は非常に明確に語っている。

問題は何なのか?
  
 この時代の終わりに世界を襲う艱難や苦難は、基本的には、人間が神を無視して生きようとしている結果引き起こされるのだ。創造主との調和の中にいなければ、どんな被造物も、うまくいくことはありえない。この時代が終わると、すべての被造物が、そうした愚かなことは2度としてはならないことを永遠に証しするだろう。
 最大規模にまでおよぼうとしている暴風雨や他の自然災害さえも、その原因は人間側にある。人間にはこの地を治める権限が与えられたにもかかわらず、みずからが神の支配に服していないため、正しく治めることをしてこなかったからだ。しかしながら、神との根本的な関係が回復されて、神に従って生きているクリスチャンは、世界にもたらされようとしている事態を恐れる必要はないし、そうした事態に対しても権威を行使して、地域全体を大災害から守ることも可能である。
 主に従順な人々と従順でない人々には、はっきりした違いが見られるようになる。といっても、従順で「岩」の上に自分の人生を築いた人々が守られるのは、自分たちが大災害を免れたことを誇るためではない。主を無視して生きようとしてきた愚かな人々を助けるためである。私たちは、主がすべての人の救いを望んでおられ、いつもさばきよりもあわれみを示したいと思っておられることを、けっして忘れてはならない。マタイ5:44~46で、主はこう語っておられる。
 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」

 主は、すべての人々を愛しておられる。主を憎み、主や主のやり方に反逆する人々をも愛しておられる。愛情ある父親のように、たとえその反逆する子どもたちが悔い改めないとわかっておられても、主はその子どもたちのためにもよいことをしてくださるのだ。したがって、来たるべき破壊的状況のただ中にあっても、反逆する人々にも力を尽くしておられる神のあわれみや恵み、優しさが見られることだろう。

この時代の終わりに世界を襲う艱難や苦難は、基本的には、人間が神を無視して生きようとしてきたことの結果である。
 人々は非常な苦しみを経験すると、もし神が愛の神ならどうしてそのようなことが起こるのを許されるのか、とよく問うものだ。実は、神がそうしたことをゆるされるのではない。私たちがゆるすのだ。終わりの時に世界を襲う恐るべき苦難は、私たちがみずからもたらすのである。詩篇115:16にこう語られているからだ。「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」主は、私たちが主に立ち返るなら、介入してくださる。けれども、もし私たちが立ち返るのでなければ、この地上にもたらされるすべてのものは、人間が神を無視して生き、治めようとする、そのみずからの愚かしさの結果なのである。
 とはいえ、これは、来たるべき苦難が神のさばきだという事実を否定するものではない。神は愛であられ、さばきさえも私たちに対する神の愛ゆえになされる。さばきのただ中においても、神はあわれみの御手を差し伸べて、暗闇にいる人々を救ってくださるだろう。神のさばきは必然的なもので、人間は蒔いたものを刈り取らなければならない。その神のさばきは公正であり、最大限のあわれみに満ちている.......これが私たちの確信であり、信頼である。

 苦難の時が始まり、罪が人間のまったく手に負えない問題を生み出していくが、同時に、それは、私たちの知るかぎり最大の収穫の時にもなっていく。恵みを示された人々は、神に反逆する愚かな人々を激しく非難してはならない。むしろ、そうした人々の救いを求めていくのだ。私たちも、かつては愚かで神に反逆していたのが、あわれみを示されたのだった。だから、最大現のあわれみを示すようにしたい。

私たちは災禍を止めることができる 
使徒パウロは、イスラエルの民が荒野で試練にあっている間、みずからの罪のために何度も大きなさばきを身に招いたことを語っているが、その後こういう言葉でしめくくっている。
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(1コリント10:11)荒野にいたイスラエルの民に起こったすべてのことは、どのようにして主とつながりを持つかということや罪の結果についての、私たちに対する啓示となっている。民数記16章ではコラの反逆についての教訓が記されており、46~48節では、(私たちはいつもそうなのだが)たとえ民がその災難を受けて当然な場合であっても、どうやってそれを止めることができるかについてきわめて重要なことを、今日の私たちに啓示している。
  モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に
香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの購いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」
 
 アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の購いをした。
  彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。詩篇や黙示録から明らかなように、香というのは通常、祈りやとりなしを表している。
上記の箇所は、私たちのとりなしがどのようにして災難を止めることができるか、その好例である。アジアからもたらされようとしているこのインフルエンザのように強力で致命的なものであっても、私たちは死んだ人々と生きている人々との間に立って、その災難を止めることができるのだ。

災禍
 災禍の詳細はまだ公にされていないが、世界保健機構の関係者たちは、かつて人類を襲った中でおそらく最悪の災禍がまもなく世界中に拡大していくものと予想している。それは、これまでのどのウィルスよりもはるかに甚大な被害をおよぼすとされるインフルエンザウィルスによるもので、現代医学をもってしても、それを止めたり抑えたりすることはできない。このことはまもなく、大々的にニュースで取り上げられるようになるだろう。しかし、たとえニュースが、また預言者が、何を言ったとしても、私たちの祈りがその流れを変えて、私たちの家族や教会、住んでいる都市をも守ることができるということを理解しておく必要がある。

 科学者によると、鳥インフルエンザは、かつてこの地上を襲った中で最も破壊的な災禍になる危険性がある。"Foreign Affairs" 7月/8月号の冒頭のページにこう記されている。「科学者たちは、ずっと以前より、想像を絶する数の人々を死にいたらしめるインフルエンザウィルスの出現を予測していたが、鳥インフルエンザは、その疾病になりうる兆候を示している。」
 私はWTO(世界貿易機構)の関係者からこの号をいただいた。そこには、この分野で最高の専門家たちによる最も衝撃的な記事が満載されていた。その記事は、彼らのウェブサイト(www.foreignaffairs.org,)からでも読むことができる。また、インターネットで「鳥インフルエンザ」を検索することも可能だ。だが、そこに書かれてある内容を読むなら、パニックになるかもしれない。もし鳥インフルエンザについて調べようとするなら、パニックや恐れというのは私たちの最大の敵だということを、どうか心に留めておいていただきたい。私たちは、恐れに支配されないように注意していなければならない。 

 ここで少し具体的な数字をあげてみよう。たとえば、ニュージーランドは、人口400万のうち140万人がこのウィルスに感染し、ほぼ30万人が死亡するのではないかと警告している。まったく想像を絶する数字である。しかし、彼らの報告書を読むなら、現在のところ、このウィルスに感染した人の致死率は54%なのである。もし感染者の54%が死亡するとしたら、この数字は、彼らの概算よりもはるかに多いことになる。けれども、彼らが概算している少ない数字であったとしても、祈りによってその数字は減らすことができる。
今は、このために祈る時なのである!
 現在のところ、このインフルエンザの感染者致死率は、人間の場合で54%から58%、動物の場合は100%になるということだ。このウィルスと戦えるワクチンはまだできていないし、できる可能性もまずないだろうと皆が認めている。また、たとえできたとしても、ワクチンを製造できていた会社の多くが、訴訟や他の問題のために、このビジネスから撤退を余儀なくされている。ワクチンを製造できる会社は世界でも2社にとどまり、その製造能力は限られている。ワクチンが製造されたとしても、世界全体でおそらく100万人分以下しか確保できないだろうと言われており、それも、パニック状態になった場合の治安維持のために、世界的な指導者や警察、軍関係者たちに用いられることになるだろう。

世界保健機構の関係者や科学者たちは声をそろえて、問題はこの死のインフルエンザが発生するかどうかではなく、いつ発生するかなのだと語っている。
 繰り返すが、人類の問題は、今や人類の手に負えないところにまで来ている。しかし、神にとって、あるいは、神を知って神に従う人々にとって、不可能はない。世界のトップがこれから起こることについて何と言おうと、私たちは主に立ち返って、主が何を望んでおられるかを知らなければならない。主がさばきよりもあわれみを好まれるということを確信して、固く立つことができるのだ。
 科学者によると、最良のシナリオで、人口の5%だけだとして、約1500万人のアメリカ人の命が失われることになる。この数字は、合衆国のこれまでのすべての戦争とすべての自然災害における死者を合計した数の数倍にもおよぶ。これがほんの2、3か月の間に起こることであり、計画している「ベストケース」なのだ。ワーストケースなら、その数字は、"Foreign Affairs"が言っているように、「想像を絶する」ことになる。これが世間で言われていることだ。繰り返すが、こうした事態は、主が指をちょっと動かされるだけで変わってくる。それでも、私たちは、何が起ころうとしているのかを知っておかなければならない。

 1918年に大流行したインフルエンザのことを記憶している人はほとんどおられないだろう。このインフルエンザによって合衆国で、わかっているだけでも何十万人もの人が亡くなったが、記録に残っていない人の数はおそらくもっと多いものと思われる。他の国の死亡者の割合となると、これよりさらに高くなる。当時は第一次世界大戦中であったが、このインフルエンザのために死亡した米軍兵士の数は、戦死した兵士の数を上回っていたとされる。だが、鳥インフルエンザは、可能性としては、これよりもはるかに危険なのだ。

 世界保健機構の関係者や科学者たちは声をそろえて、問題はこの死のインフルエンザが発生するかどうかではなく、いつ発生するかなのだと語っている。彼らはまた、それが歴史上最悪の死をもたらす災禍であると、これもかなり一致した見解を示している。このインフルエンザの発生は、今年かもしれないし、来年かもしれない。あるいは、数年先になるかもしれない。いずれにせよ、迫って来ていることに間違いはない。私が見た暗雲の夢がその時を示しているとしたら、すぐそこまで来ている。今は、あの鍵を見つけて、主の家に入る時である。そして、主の家とは、今この地上における神の国、すなわち、主の教会のことである。

私たちには権威がある
 ほんの数年前のことだが、インフルエンザが発生して、ほとんどすべての州で死亡者が確認されたことがある。そのことは頻繁にニュースに取り上げられており、州ごとの予想死亡者数も公表されていた。ボブ・ジョンズは、もし私たちが主から与えられている権威を行使するのであれば、この災禍を止めることができるという夢を見た。そこで、その日のコンファレンスで、ボブと私は立ち上がり、そのインフルエンザに対して権威を行使し、それが合衆国全体で終息するように祈った。すると、その日以来、このインフルエンザによる死亡が確認されなかったばかりか、再びニュースに取り上げられることもなくなったのだ。
 今では、ボブと私は毎年こうした祈りをしているが、少なくとも私たちが霊的な権威を与えられていると感じる領域においては、主が私たちの祈りを聞かれて、インフルエンザの流行を止めておられるのは明らかだ。もし、教会が立ち上がり、与えられている権威を行使し始めるなら、来たるべきこれらの災禍による死を止めることができるか、少なくとも、大幅に減らすことができるのである。

 私たちは、この時代(世)の終わりが近づくにつれ、このような災禍が来ようとしていることはよくわかっている。黙示録にあるように、中には、地上にいる人々の3分の1を死に至らせるほどに破壊的な災禍もあるのだ(鳥インフルエンザがそうだと信じている人もいる)。これらのものは決定されており、変えることはできない。とはいえ、クリスチャンもそうした災禍にあわなければならないというわけではない。私たちは守りを得られるし、他の多くの人々にとっての守りともなりうる。鳥インフルエンザの危険にさらされているクリスチャンというのは、前から自分たちに与えられている神の国の鍵を用いなかったクリスチャンのことである。

 私の夢では、迫っている暗雲から無事に逃れるためには、家の中に逃げ込まなければならなかった。その家とは主の家である。だとすると、これはどんな意味なのか。それは、教会と密接に関わり合っていない大勢のクリスチャンは、危険にさらされているということだ。この時代においては教会が地上における神の国なのである。1コリント11:27~30で、パウロはこう警告している。
「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」

 ふさわしくないままで聖餐式にのぞむとは、その礼典があらわしていることの現実が自分たちの生活にないのに、その礼典にのぞむことである。この場合、その現実とは、キリストのからだとの親しい交わり(communion)、あるいは、キリストのからだに共に結び合わされていること(common-union)を言う。多くの人々は、痛ましいことに、礼典にのぞむことで「親しい交わりをもつ」という自分たちの義務を果たしているのだと思い込まされているが、それこそがまさにふさわしくないままで礼典にのぞんでいることなのである。こうした礼典は、私たちの義務を思い起こさせるために与えられているのであって、けっして私たちの義務に取って代わるものではない。もし、聖餐式の礼典にのぞんでいながら、「みからだをわきまえる」ことをしないなら、すなわち、「エペソ4章に命じられているように、正しくみからだに共に組み合わされて、現実に親しい交わりをもつ」ということをしないのであれば、私たちは、まさにここの箇所が警告しているように、弱くなったり、病気になったりするだろうし、死ぬ者さえ出てくるだろう。
 
 ここ数年間にわたって主が私に与えてこられた最も重要な警告は、教会の親しい交わりから離れているクリスチャンに向けられていた。これに関しては、「スターバックス(訳者注:コーヒーショップの名)での友人同士の集まりが私たちの教会です。」というものから、「主が私たちと共にいてくださるのだから、2人か3人集まる所はどこでもそこが教会なのです。」というものまで、ありとあらゆる弁解の言葉を聞いてきた。たしかに、わずか2人か3人が集まることのできる場も教会でありうるとか、どんな集まりも教会生活の一部だという考えにも、それなりの真理は含まれていると思うが、私たちにはキリストのみからだに共に結び合わされていること(common-union)が求められているのであって、そうした考えはこの求められている全体像にはるかに及ばないのである。

 また、たしかに、今は教会の根本的な変革(トランスフォーメーション)がなされていて、この時代に聖霊の働きが拡大しているミニストリーの一つは、市場でのミニストリー(マーケットプレイス・ミニストリー)であるし、主はご自分の教会が1日24時間、1週間で7日機能していることを望んでおられる。しかし、だからと言って、このどれもが私たちにとって地域の教会生活の重要性と必要性を否定するものではない。ここ数年間にわたって主が私に与えてこられた最も重要な警告は、教会の交わりから離れているクリスチャンに向けられていた。

 私たちが地域の教会の一員である必要はないという欺きのために、多くの人々が、クリスチャンとして真に成熟するために必要な、真の教会生活でのいのちの触れ合う人間関係から離てしまっている。私が夢で見たあの暗雲が過ぎ去った後には、そんな惑わしにある人はあまり残ていないだろう。まさに上記の箇所でパウロが警告しているように、彼らは、弱い者や病人であり、多くは死んでさえいる(訳者注:英語の欽定訳聖書ではここの動詞は"sleep"「眠っている」)。そして、来たるべき病に非常に冒されやすい人々なのだ。
 1ヨハネ1:6~7でこう言われている。
 「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるな
ら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わ
りを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます。」


 この箇所にある「交わり」と訳されているギリシャ語の単語は「コイノニア」で、週に一度礼拝に出席した時に背中をポンとたたいたり、握手したりといった程度をはるかに超えた交わりを言う。それはごく普通の関係を超越した、生きた深い関係である。これが、私たちが光の中を歩んでいるならば、持てている交わりなのだ。新約聖書では、救われた人々はすべて教会に加えられている。彼らは、単にうわべだけの薄っぺらな関係の中で過ごしていたというのではなかった。

 多くの人々がぎりぎりのところで隠し持っていた鍵を使おうとするが、そのときにはパニックに陥っているため、使うことができなくなる。今が、惑わしやあざむきのためにキリストのみからだから離れてしまったことを悔い改める時である。ぎりぎりまで待ってはならない。私は、すべてのクリスチャンが教会から逃げるのではなく、教会に逃げ込むことを心から願っている。

 どんなに失敗したり、人を失望させたりしようと、また、ときには退屈であろうと、教会こそが、やがて世界を襲おうとしている災禍から逃れることのできる唯一の避難所である。その失敗や失望に耐えている人々は成熟して、今はまだ想像もできないほどの喜びに入れられるようになり、後の時代には、キリストのみからだの交わりもその喜びに入れられていく。もし私たちが、みからだのメンバーがこの喜びにいたるために経験しなければならないすべての取り扱いから逃げているなら、みからだが本来のあるべき姿に変えられたとき、私たちはそれにふさわしくない者となるだろう。そのときには、あのドアの鍵はかかっていて、その鍵を手にすることができなくなるのだ。(続く)


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by walkwithgod | 2005-12-31 08:55 | アメリカからのメッセージ

神の国の福音とトランスフォーメーション  坂 達也 12月20日

「神の国の福音」とトランスフォーメーション 
 アメリカにおいて、ここ5年位でしょうか、今まであまり聞かれなかった新しいクリスチャン用語、例えば「マーケット・プレース・ミニストリー」とか「四つの壁から出る」とかいう言葉が「流行って」います。また、多くの人が「キングダム」(王国)と言う言葉を強調するようになりました。又、今世界的なクリスチャン用語となりつつある「トランスフォーメーション」と言う言葉も、比較的最近のクリスチャン慣用句であると思います。

そこで考えてみますと、イエス様は常に「天の御国」のことを頭においておられたことが聖書からはっきり分かります。主が宣教を始めて最初に言われた言葉は何だったでしょうか。 それは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でした。そして自分たちのところにイエスをひきとめようとする人たちに対して「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を述べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(ルカ4:43)と言われました。明らかにイエス様はご自分が天の御国の王であることを明確に意識して私たちにお話をされました。

 私たちは今、終末の時代に間違いなく突入しています。それはイエス様がもう一度この世に帰って来られる日が近づいていることを意味します。しかも、今度帰って来られる時は、天の御国の王として来られることを思い出して下さい。いよいよ「天の御国が近づいた」のです。
私は、これからのクリスチャンと今までのクリスチャンとの生き方に何か差があるとすれば、それはこれからのクリスチャンは本当に御国メンタリティーを持たねばならないと言う一点であると言う気がします。

 主は、私たちに祈りを教えられた時に「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように…。」(マタイ6:9-10)と祈るように指示されました。この祈りは明らかに「天の御国の実現」のための祈りです。この地上に神の国が設立され、そこにおいては「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれ」ねばならないのです。

そして「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)と警告されました。つまり天の御国においては、私たち御国の民は徹底して王に従順であって、常にみこころを行うことが要求されるのです。

 そのために私たちはどうすればよいのでしょうか。第一に、「御国に属するクリスチャン」とは一体何者であるかを、私たち自身がこの際、改めて再認識する必要があると思います。
クリスチャンとはボーンアゲインした人のことを言いますが、それは霊が生き返った人と言う意味です。つまり、クリスチャンとは元来霊的な存在で、霊によって神とコミュニケーションをし、神に従っていくように造られています。
 創世記1:26にあるように、人間は神に似せて造られており、神のイメージを持つ者ですから、霊に生き返ったクリスチャンとは元々の神に似た、神と同じクラス、同じ部類に属する者であるのです。
 しかし、私たちは、長い間ぬるま湯につかった様なクリスチャン生活を送って来ましたから、あまりにも人間的になり過ぎてしまっています。神学を頭でこねまわし、人間が考えた教会成長論をふりまわし、伝道方法も神様にお聞きせず、ない知恵を振り絞って教会の人数をふやそうと躍起になっている姿は、神様不在の状態に近いのではないでしょうか。
ですから奇跡も何も起きません。しかもそれが普通で、奇跡が起きないことをおかしいとも思わないのです。クリスチャンが全く情けない姿に成り果ててしまっています。

 クリスチャンがあまりにも人間的で、霊に生まれ変っていない旧態依然の人間を生きているとすれば、その人は未だに「サタンに支配されている者」であることをご存知でしょうか? マタイ16:21-23に 「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(新改訳)
 ここで「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言う部分ですが、ここは英語の新欽定訳のように「 神の思いに満たされていないで、人間的な思いに満たされている状態」を意味しますから、実質的にペテロは神に従属しないで(神に属する者は神の思いに満たされているはずです)、むしろサタンに従属したままの者であることを示すために、イエス様が敢えてペテロをサタンよ、と呼ばれたのであると思います。

 サタンがこの世の支配者であることが次の御言葉から分かります。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(ルカ4:5-7)もし私たちがサタンに対してそのような意識を持っていないとしても、少なくともサタンはこの世は自分のものであると言う意識でこの世に君臨して来たことが、上記の御言葉からはっきり分かります。サタンは初めからその目的で人間を騙し、この地上の支配権を人間から奪ったことを思い起こして下さい。

 それを踏まえて、イエス様はサタンの手からこの世を奪回するために「教会」を建てると言われました。「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。…」(マタイ16:18、19)主は、私たち教会がこの世の敵の門を崩し、サタンからこの世を奪回して天の御国にすることを命じておられるのです。私たちはサタンに対して霊の戦いを挑み、これに勝利しなければならないのです。
 そして、今まで敵の捕われ人となって来た王国の市民を取り戻し、彼らを御国の民として救いの業を完成させると言う王イエスの御心を成し遂げねばなりません。つまり、私たち教会には御国の建設と言う大きな任務と責任があります。私たちは、王から直接召命を受けた御国建設のための働き人、あるいは戦士である訳です。

 そこで、天の御国と、主がその王であり私たちは王国建設のために召されている者であると言う明確な意識をクリスチャンが持つ時に、次の4つのことが起こって来ると思います。
 
1.この世に対する考え方が変わる。
2.教会のあり方、目的、目標が明確になる。四つの壁の中から出て、社会へ出て行くようになる。そしてそれは market place ministryにつながる。
3.リバイバルに対する考え方が変わる。
4.御国-教会(キリストのからだ)の完成への新たな励ましとなる。

以下で、この4点をもう少しご説明したいと思います。

1.この世に対する考え方が変わる 
これに関しては既に上記で触れました。 
2.教会のあり方、目的、目標が明確になるサタンの王国を奪回し、神の王国の権威をもってこの世を統治するためには、クリスチャンは「人を教会の建物の中に連れてくる」と言う今までのような消極的な受身の姿勢から、積極的に「街に出て行き」、どこででも人のニードに応えて人を癒し、カウンセリングし、御国の福音を語って行くべきであることが、御国の建設に必要であることが分かって来ます。そしてその地を癒し、サタンからその地を奪回するのです。私たちの日常の生活の中で御国の福音が実用的に適用されねばならない時が来たと信じます。
3.リバイバルに対する考え方が変わる:トランスフォーメーション 御国の見地に立つと、教会は単にその地に住む人間だけではなく、その地のすべて、つまり、町ごと、国ごとを抜本的に変革し、リバイバルさせねばならないと言う大きな視野に立つことが要求されてきます。これはアダムが受けた人間本来の義務と権威に立ち返ることを意味します。その点、最近世界中で起こり始めているトランスフォーメーションとは「神の国のリバイバル」と言えないでしょうか。単に人間を個人的に救うという考えにとどまらず、主によって地域(ひいては国全体)の政治と経済と社会が癒され、根本的に変革されると言うビジョンを持って、そのためにその地域の教会が一致して真剣にとりなして行かねばならないと思います。
4.御国―教会(キリストのからだ)を立て上げ完成させると言う大目標 
「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」(エペソ4:12)には、私たち御国のクリスチャン(聖徒たち)に人格的トランスフォーメーションが起きなければなりません。
 それは「あなたがたはたしかに彼(キリスト)に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:21-24口語訳)ことが実現することです。
 御国のクリスチャンが総てを主に委ね、聖霊様にのみ従って、全たき信仰で生きるクリスチャンにならねばなりません。それは真の愛と義と聖とを具えた神にかたどって造られた新しき人であり、最終的に主が「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会をご自分の前に立たせること」(エペソ5:27)が目標です。主が再臨される時に、本当にその「栄光の教会」が成就されねばならないのです。 

 クリスチャンがこのように変えられていかなければ、たとえ私たちがどんなに肉で努力しても、クリスチャン同士の間、又、教会間の一致は実現しないと思います。教会が一致して市とか町、又、国のために祈る時に、主がトランスフォーメーションを起こされることを、私たちは今はっきりと認識する必要があると信じます。 (終わり)

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by walkwithgod | 2005-12-20 14:04 | 坂達也からの今月のメッセージ

ギャロップ世論調査  世界のニュース  12月17日

ギャロップ世論調査:アメリカ人の神に対する信仰は根強く残っている

Published: December 13, 2005 12:15 PM ET
2005年12月13日


ニューヨーク発 「神は死んだ」という議論がおこってから40年が過ぎようとしているが、人間以上の力のある存在を信じるアメリカ人が大多数であるということが、今回のギャロップ調査の結果、明らかになった。 実に94%に人が神は存在すると考えている。‘

僅か5%の人が「神は存在しない」と感じているが、そのうちの大部分はそのことに「確信はない」と言っている。 たった1%だけが「神は存在しないことを確信している」と答えた無心論者である。

それでは、神の存在を信じている人たちは、どの程度信じているのだろうか。 実のところ、10人のうち8人までが、「神の存在を確信させられている」と答えているのだ。 (この調査ではその理由を書く欄はなかった。)

神の存在を信じる比率は、保守派のほうがリベラル派より多く(87%対61%)、女性は男性より少し多く(82%対73%)、アメリカ南部に住む人のほうが東部の人より多かった。(88%対70%)

驚くべきことは、教会には全く行かなかったり、ほとんど行かない人たちのうちの61%が、神は存在すると信じていることである。 
この調査は2005年11月17-20日に、1002人の大人に対して行われた。(終わり)


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by walkwithgod | 2005-12-17 11:31 | 世界のニュース

ハワイの12月   坂 柚実子   12月16日

ハワイの12月

ハワイは大まかに言って2つの季節に分かれるそうです。「暑い夏」と「暖かい夏」の二つです。
つまり、日本で冬の時は「暖かい夏」の季節で、丁度気持ちのいい気温で大変過ごし易いです。すずしい朝夕にはカーディガンをはおるくらいです。

先日トマトの苗を買いに行きました。12月にトマトの苗を植えられるなんて、やっぱりハワイ生活は楽しいな・・・と心弾ませて行ったのですが、いつも野菜の苗がおいてある場所は、みんなクリスマス・ツリー売り場になってしまっていました。オレゴンあたりから出荷されてくるものが多く、懐かしいオレゴンの木の匂いを、しばし、楽しみました。

クリスマス・ツリーと呼ぶのは特定の(つまりキリスト教の)宗教色を出してよくないから、ホリデー・ツリーと呼ぶべきだ、なんて言う議論もアメリカではかなり出回っていますが、クリスマス・ツリーがアメリカ人(他の国のことはわからないのでアメリカに特定しますが)の心の中にどれほど深く入りこんでいるかは、日本育ちの私たちには想像以上のものがあります。彼らは物心ついたときから、クリスマスになると居間の中心にクリスマス・ツリーが飾られ、その下にきれいに包装されたプレゼントが並んでいるという、なんとも素敵な光景のなかでクリスマス気分を味わって来たわけですから、ツリーのないクリスマスは、もう、それはとても寂しいものになってしまうのです。

私は数年前、「クリスマス・ツリーは異教の習慣であり、クリスチャンはするべきではないのではないか。」というすごく説得力のあるビデオを見てしまいました。何でもすぐ影響を受けてしまう私は、「今年から我が家はクリスマス・ツリーは飾りません。」と宣言しました。子供たちはもう独立していて家には住んでいなかったのですが、クリスマス休暇で帰宅して来てそのことを知り、私の想像した以上にツリーのないことを悲しみました。彼らはアメリカ生まれですから、ツリーに対する愛着はやはり、とても強かったのです。

今はクリスマス・ツリーに対する私の気持ちは、かなりやわらいで来ました。西欧の文化の中ではぐくまれたクリスマス・ツリーに対する人々の気持ちを、むげに踏みにじることはないと思っています。しかし、やはり、クリスマス・ツリーがイエス様に取って代わってクリスマスのシンボルになってしまっているとすればそれはおかしいです。アメリカでクリスマスがイエス様そっちのけの風潮になって来ているのに抗議して、数年前から「Jesus is the reason for the season」という言葉が教会で言われ始めました。語呂がいいでしょう。イエス様こそクリスマスを祝う本当の意味ですよ、と言う訳です。私もこのことを改めて心にとめ、クリスマスを迎えたいと思います。(終わり)


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by walkwithgod | 2005-12-16 03:15 | 柚実子からのハワイ便り

「主の家」  フランシス・フランジペイン  12月14日


主が家を建てられる時
                        フランシス・フランジペイン


キリストの教会が天と完全に一致調和する時、主の霊が私たちの町を覆っている暗闇の力を除き去ってくださることが、実際起こりうるのです。主の臨在がどれだけその町を守るかは、教会が神とどれほど密接に結び合わされているかの度合いによって決まります。犯罪も不道徳なことも、神との結びつきが強いほど減少し、リバイバルが自然に起こり始めます。しかし、あらかじめ警告しておきますが、主の家を建てるのが主である時にのみ、主が私たちの町を守ってくださるのです。(詩篇127:1)

集合的な町の教会
「神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。」 I 列王記6:7
過去数年の間、神様は教会を「石切り場」におかれました。そこで、リーダーたちの形を削り、彼らが主の家の一員となるにふさわしい心を持つようにと砕き整えられました。キリストという御言葉の金槌で、多くの牧師や信徒たちは、今まで持ってきた岩のようにコチコチの宗教的、教義的な見解を打ち壊されました。神様は彼らの持つキリスト教の定義を、シンプルで、純粋に、キリスト個人への熱愛だけを問題にすると言う、本来の聖書的教義へと変えてこられました。(IIコリント11:3参照)

それと同時に、主は、人間の本質であるねたみと利己的野心という根源に斧を置かれました。(ヤコブ3:16参照)世界中で、男性でも女性でも神の聖徒である者たちは、生ける主の神殿となるようにぴったりと組み合わされつつあります。 彼らの心に燃えているのは、一つの町の総ての教会が一致して一つの教会になるという新しいヴィジョンです。
それぞれの教会の信徒たちが集まることによって、神のしもべたちは一つの町の教会を建て上げようとしていますが、それは、アメリカ流の自分を売り込んだり人間的に事業を拡大したいという思いからではなく、町全体の教会の合同の祈り会と、(純粋に)クリスチャンの愛を土台として、その「町の教会」を築き上げているのです。大きな熱情と深いへりくだりをもって、彼らはただ一つのことを目標としています。それは、キリスト御自身が教会(キリストのからだ)の中に形造られることです。(ガラテヤ4:19参照)
そうすることによって、彼らは主の家の基礎を築いているのです。これらの「生ける石」 が、いかに互いに愛をもって受け入れ合い、いかにぴったりと組み合わされているかという事実は、キリストの知恵と力がどれほどすばらしいかを証明しています。それはちょうど、ソロモンが主の家を建てた時「工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では、聞かれなかった。」とあるように静かに進められているのです。

これら男女の聖徒たちは、しばしば非常に異なった教会のバックグランドを持っているのですが、お互いの教会へと出かけて行って、ともに肩を並べて祈り合うようになっています。彼らの共通の祈りは、全能の神が自分たちをキリストにあって一致させ、主の家を完成させてくださること、そしてそれによってキリストご自身が彼らの町を癒してくださることです。
神様は彼らの祈りに答えてくださるでしょう。 町のすべての教会が一致して祈るところに今、主の家は姿を現しはじめているのです。金槌でたたかれ、寸法通りになるように削られた困難な時代は終わろうとしています。霊的な力の時代が近づいています。

キリストの従順
この働きは妥協で生まれるものではありません。 このムーブメントの目標が一致であると考えるのは間違いです。そうではなく、私たちの目標は従順なのです。
すべての者が神に従順になり、キリストに似たものになりたいという願いを持ち、祈るとき、「一致」という言葉に新しい意味が与えられました。私たちの焦点はキリストにあるのです。パウロは、「すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させ」るようにと、教会に教えています。(IIコリント10:5)
私たちの思いの中で、まだキリストのとりこになっていない領域というのは、地獄との戦いに負けつつある領域です。しかし、私たちのヴィジョンが主にだけ焦点が向けられ、従順によって主に似るものとなってくると、パウロが語っている結末が達成されます。 「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(IIコリント10:6)

この箇所が意味することを全部説明しようすれば、それは単なる憶測の域を脱しないものになると思います。パウロが血肉のことをここで言っているのではないことは確かです。彼は血肉によって戦っているのではないからです。(エペソ6:12参照) ここで言われているのは、教会の従順が完全にされた暁には、この世がまだ見たことがないほどのものすごい(超)霊的な力が現われるであろう、と言うことです。
この超レベルの霊的な力はパウロの時代には実現しませんでした。確かに十字架によりこの世の君が裁かれ、無力にされ、武器を取り上げられたことは起こりましたが、すべての不従順は一世紀には明らかに罰せられるには到りませんでした。主ご自身にお聞きしてみましょう。「従順が完成された教会が霊的邪悪さや不従順を裁くことが出来ることは分かりますが、それ以外にも、多くの都市が開放されると言うようなすばらしいことがそのような教会から生まれて来るのでしょうか。」と。

主が都市を守られる時
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」 詩篇127:1
この箇所を調べる前に、ヘブル語の聖書の特徴を説明することが大切だと思います。旧約聖書の著者は多くの場合、真理を伝えるために同じ意味のことを2回繰り返しました。特に詩篇と箴言によく使われる手法です。 例として、「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。」 箴言18:20  ここでは、同じ内容が二つの言い方で2回表現されています。 もうひとつの例です。「私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。」 詩篇78:2 ここでは美しくかつ機能的な詩的リズムで真理が伝えられていますが、 2つの関連した考えを一つの慣用句にまとめてあります。
それと同じように、詩篇の作者が「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」 と言うときは、同じ真理を2つの言い方で言っているわけなのです。 
この2つを繋げているのが、主の働きです。即ち、「主が建てる家は立ち、主が守る町は守られる」のです。主はどのようにして町を守られるのでしょうか。主の家は「祈りの家」です。とりなしの祈りが神の臨在を町の中に招きます。言い方をかえれば、「主が家を建てられるときに、主が町を守られる」のです。 主の建築計画には、主の民が主の油注ぎによって力を得て、祈り、町を愛し、町のためには労を惜しまない、ということが必要とされています。 主の家が建つことによって私たちのコミュニティーは変えられて行きます。
イエスご自身も「・・・わたしの教会を建てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と約束されてこれを裏づけされています。つまり、主の家が主の御言葉にしたがって建てられるとき、個人や町に対する敵の要塞は打ち砕かれると主は言われているのです。
ひとつの町にリバイバルが起こると、天にあるもろもろの悪霊どもの力はどうなるのでしょうか。答えは、その地域の教会に満ちる神の霊がそれに置き換えられるのです! パウロはエペソ3:10で、天にある支配と権威に対して神の豊かな知恵が示されるのは、「教会を通して」であると言っています。 それでは、霊的領域では何が起こるのでしょうか。教会はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されています!(エペソ1:3) この場合、地域社会に及ばされるすばらしい影響力は天から来ます。主が町を守られるのです!

教会がキリストの指示通りに建てられず、利己的で分裂した状態にとどまるとき、暗闇の主権や力は町の人々の魂により大きく影響を及ぼす権利を手にいれます。このような町では、悪の霊が町を見張ります。これが本当かどうかは霊的識別力があまりなくてもすぐに分かります。郊外から車を走らせて、ある都市に行く機会があれば、その都市に入るときにそこに重苦しい雲がかかっているのにはっきり気がつくでしょう。この目に見えない壁が、この地域を圧迫して支配している悪霊の影響力の縄張りの境界なのです。その都市のサタンの力は「十分に武装している強い人」であり、「自分の家を守っていて、その持ち物は安全なのです。」(ルカ11:21)しかし、町のすべての教会がキリストに従順になるとき、すべてのクリスチャンがひとつにされ、地獄の力によってもその一致は阻止されることはありません。 教会の祈り、愛、行動を通して、主が町を守られるのです。

何でもあなたがつなぐものはつながれる
霊的世界と人間の思いや行動との相互作用について御説明しましょう。 霊的領域は天使、あるいは、悪霊によって占領され、それがどちらになるかは地上にいる人間がとる態度によって決定されるのだと、私は考えます。地は主のものではありますが、主はすべてのものを人間の足もとに、つまり、人間の責任下に置かれました。
サタンがイエスにすべての世界と栄光は「私にまかされている」 と言ったのは、半分だけ真実でした。世界は確かにサタンに渡されましたが、それは神によってではなく、人間が渡してしまったのです。
「サタンは私たちの家の近所や町を攻撃する許可を神から受けている。」という間違った考えを私たちは持ってしまっています。確かに、サタンは暗闇の領域へ侵入することはできますが、そこを占領できるのは、人間が罪を犯すことによってサタンにそうすることを許してしまう時だけなのです。
イエスはそれ故に次にように言っています。「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19、マタイ18:18) この2つの箇所は、一見異なった状況の中で同じことを教えていることに注意してください。マタイ16:18-19では、サタンを取り扱っており、マタイ18:15では罪を取り扱っています。 この二つの領域は相互に関係しています。人間の罪―悪い考え、言葉、行動―そのものがまさに私たちの町を支配するサタンの要塞になっているのです。ですから、教会の義が増し加われば加わるほど、サタンの隠れ家を奪うことができ、霊的領域からサタンを追い出すことができるのです。サタンは忍び込もうとするかもしれませんが、居座ることはできません。 教会が真に神に近づくとき、サタンは逃げ去るのです。

新しいヴィジョン
私たちが主の家を建てるために共に働くならば、私たちの力は減少するのではなく増大します。私の町のある牧師が、中絶クリニックとアダルト・ショップの前でデモをして神様のために働いていました。町にある多くの教会が共に祈る前は、このデモに参加する人は一番多い時でも120人でした。しかし、多数の教会が彼と祈りを合わせるようになった時、4000人以上が中絶反対のデモに参加したのです。その後は、テレビや新聞の胎児(の命)に対しての見方は、もっと理解の深いものとなりました。

町の教会が一致すると、ティーンエイジャーが受ける恩恵はすばらしく大きくなります。町全体のユースグループに大勢のクリスチャンのティーンエイジャーが集まって一致している様子を想像してみてください。 年長のティーンエイジャーは若い者に対してリーダーシップをとったり、牧会的な世話をする訓練をそこで受けることができます。
海外へのミッションが大切なことに変わりはありませんが、牧師たちはまず自分たちの町が第一のミッションの地であり、それをサポートすべきだと言うことが分かり始めて来ました。地域の牧師たちが協力して信徒たちを訓練し、同じ町の他の教会を建て上げるためにそこに派遣するようになって来ています。はっきり言って、一体現在の教会と「主の家」との違いは何なのでしょうか。過去において確かに主は教会をリバイバルで訪れて(visit)くださいましたが、主の家では主は力をもって住んで(dwell)くださるのです。癒しと開放は当たり前のことになるでしょう。聖さと恵みが満ちます。 主の家が建てられると主の守りがそこにあるのを人々は感じるのです。

生きた証
私たちの教会はアイオワ州のシーダー・ラピッズという町にあります。私たちがこの町の他の牧師やとりなし手と共に祈り始めたとき、アイオワ州全体では、凶悪犯罪が11%も増加していました。 しかし同じ時期にシーダー・ラピッズでは、凶悪犯罪は17%も減少していたのです。その年のFBIの調査で、全米の10万人以上の都市の中で、シーダー・ラピッズが最も安全な町だと証明されました。その後の敵の反撃にもかかわらず、今でもこの町はアメリカで最も安全な町の一つに数えられています。 また、多くのめざましい敵からの大勝利が次々と起こってきています。
都市で主の家が確立される度合いに比例して、不法は減少していくでしょう。主の家を建てるのでなければ、すべての働きは無駄になる、と言う時がやって来ようとしています。しかし、聖霊の励ましは揺るぎません。主が家を建てるとき、主が町を守られるのです!

  主よ、私の人生を取り扱ってくださってありがとうございます。私の町の他のクリスチャンたちとぴったりと組み合うように私の心を変えてくださってありがとうございます。神よ、この地域にもっと働いてくださり、すべての教会が一つの身体、一つの勢力、あなたの手中にある敵を攻撃するための一つの武器となるようにしてください。あなたの家を建て、そしてそこにお入りください、主イエスよ。そして、あなたの家の戸をあけて、町の通りに出てください。町を力で守ってください。 主イエスの名によって祈ります。アーメン (終わり)by Francis Frangipane



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by walkwithgod | 2005-12-15 04:38 | アメリカからのメッセージ

卓越するクリスチャン  12月11日

卓越するクリスチャン        
                      坂  達 也

 デニス・クレーマー師はその「マスターズ・コール(主の召命)」と言う著書で、平均的クリスチャンの問題点を取り上げ、そこからどのようにして抜け出せばよいかを扱っております。
師はこの「平均的クリスチャン」を次のように定義しています。
 「悲しいことですが、イエスキリストの教会は平均的な信者で一杯です。この平均的な信者とは、非常に誠実で、間違いなくよい人ではあるのですが、霊的には未熟で不健康、霊的身体障害者と言うか、多分不能者に近いようです。愛すべき親切な人たちですが、大分前から霊的な敵に脅威を与える人ではなくなりました。
 地獄(悪魔)はそのような平均的信者を霊的に無害な人と見ていますが、それは正確な見方です。彼らは、多分、自分が持っている霊的機能容量の40%程度しか働かせていない人たちです。そのような人たちが教会の中で何が問題かと言えば、彼らは自分の教会における召命が変わって来ているのに、それに気が付いてもいず、全く変わってもいないことにあります。
 この悲劇は、彼らの無知から起こっていることで、その人たちの不従順とか反抗からでは勿論ありません。彼らは確かに天国には行けますが、この地上の王国での貢献度はほとんど皆無で、霊的に全く取るに足らない、無能者でありましょう。彼らは人生をひどく無駄に過ごしているのです。
 平均的な人生を生きることは、重度の疫病にかかっているのに等しいことかを知り、平均的クリスチャンからの脱出を計らねばなりません。……あなたへの神の召しとは常に変化するもので、それを感知して適切に呼応することの重要性に素早く気がつくべきです。だれも単に平均値ではありたくはないはずです。」

 クレーマー師が描く「平均的クリスチャン」とは「ぬるま湯的(人間的)クリスチャン」であり、又、霊的な飢え乾きのないクリスチャンと言えます。

 日本人の伝統的思想の中には、「事なかれ主義」があり、又、「出る釘は打たれる」ことへの恐れからでしょうか、「凡人でよし」と言う、昔からの凡人容認の考え方があるように思います。しかしことクリスチャンに関する限り、聖書には絶対にそのような考え方はありません。
クリスチャンの目標は卓越することにあります。凡人が凡人であるのは、進歩が無い証拠です。凡人とは広い門から入る人であり、クリスチャンとは狭い門から入る人でなければならないはずです。
 狭い門から入る人はキリストの後を追う人であり、卓越する、ぬきんでる、秀でる人です。何に抜きん出るのでしょうか。それは「肉の人間」から「霊の人間」に生まれ変わることを意味します。それは「永遠のいのちを持つ、よみがえりの霊的な人間」に「抜きん出る」ことです。
 そのためには最大限の努力をしなければなりません。世の中には努力家と言う人たちが大勢いて、その多くの人たちは賞賛を受けます。彼らは人並み以上の努力をすれば物事に成功することを知っている人たちです。勿論、聖書においても、私たちが「あらゆる努力をする」ことを勧めております。しかしここで注意しなければならないのは、クリスチャンの場合はその努力する内容が違うことです。
 2ペテロ1:5-7の口語訳では「あなたがたは、力の限りをつくして(新改訳では「あらゆる努力をして」)、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心(敬虔)を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛(アガペ)を加えなさい。」とありますが、言ってみれば、これが私たちクリスチャンの努力目標です。これは取りも直さず「永遠のいのちを持つ、よみがえりの霊の人間」になることであり、実際には、聖霊によって私たちがそのように変えられてゆくことのです。
それでは、そうなるために「力の限りをつくして」、「あらゆる努力をして」とは具体的にどうすることなのでしょうか。どうしたら信仰に徳と、知識と、節制、忍耐、信心(敬虔)兄弟愛、アガペの愛を加えることが出来るのでしょうか。

その答えは歴代志上22:19に書かれています。それは「あなたがたは心をつくし、精神をつくしてあなたがたの神、主を求めなさい。…」(口語訳)です。つまりその方法とは「主を求める」ことの一言に尽きるのです。ただ一つのこと「主を求める」ことに、常日頃、誠心誠意、私たちの最大の努力を傾注することであると思います。クリスチャン(キリスト者)の本質はこれ以外にありません。
IIペテロ1章では「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって」とあり、その方法が少し違うように書かれているようですが、実際には「主を求める」ことによって「神とわたしたちの主イエスとを知る」ことができるのですから、同じ事ことを言っていると思います。
これをこの世で最も努力した方はイエス・キリストです。マルコ1:35に「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。イエスは常に父を求め、父に忠実に従うこと以外には何も求められませんでした。
主のあとを追う私たちも同じように、何も求めず、先ず主の前に立ち、ただ主ご自身だけを求めれば、後は総て主がなさって下さいます。
うそだと思う方は、毎朝早く起きて、主の前に座り、ただじっと一時間ほど主を求めてください。何も考えないで、ただ主の愛に満たされて、「心をつくし、精神をつくして」主を求めて座っているのです。毎日それを日課として忠実に実行して下さい。「石の上にも三年」と言うことわざがあります。努力とは決意して実行に移し、やり遂げることです。これなら誰でも出来るはずです。三年とは言いません。一ヶ月もそれを忠実にすれば、主があなたを放って置きません。必ず主があなたに現れ、あなたは主とのすばらしい時を過ごすようになり、主の御声が聞こえるようになります。
そうなる時、あなたはただの平凡で人間的なクリスチャンから抜き出て、主に特別に愛される非凡なる霊的なキリスト者(キリストに似た者)に変えられて行きます。
「これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。」(IIペテロ1:8-11)
                             
    
(終わり)
 

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by walkwithgod | 2005-12-11 00:55 | 坂達也からの今月のメッセージ

緊急の祈りのリクエストです。 12月10日

緊急のとりなしのお願い
                              坂  達 也

 昨夜ホノルルでパラ・チャーチ・ミニストリーをしている(既に柚実子がご報告しております。)LMIのディーン牧師から下記のような緊急のメッセージを受け取りました。これはハワイに関する預言ですが、折から世界中で憂慮されている「鳥インフルエンザ」がハワイ諸島を襲ってくると言う警報です。発信先が信頼のおけるボブ・ジョーンズ師とか、キャシー・ウオルター師からのものですから、この知らせは主から発せられたものと信じます。ぜひとも私たちが今住むハワイの人たちのためにおとりなしをお願いいたします。下記がその預言です。

 緊急の祈りのリクエストがあります。どうか、出来るだけ多くのとりなし手に知らせてください。昨夜New Beginnings Christian Fellowship の集会に出席しました。 キャシー・ウオルターズがゲスト・スピーカーでしたが、彼女がボブ・ジョーンズからハワイの人々に伝えるようにと託された言葉を話してくれました。 ボブ・ジョーンズは現在のキリスト教会のなかで、大変正確に神の言葉を聞くことが出来る預言者です。彼の預言の言葉は、「ハワイのとりなし手たちにハワイ州の周りに祈りで防壁を立てあげるように伝えなさい。敵はアジアの鳥インフルエンザを送り込んで、攻撃しようとたくらんでいるから。」と言うものでした。
 そして今日、私は古くからの友人から電話をもらったのですが、彼女はキャシー・ウオルターズが昨夜話したことは何も知りませんでした。 その友人の話はボブ・ジョーンズからの警告を確証するものであると私は思います。彼女の祈り会のメンバーの一人が一つの大きな岩とアメリカ北西部から一羽の巨大な鳥が飛んでくるヴィジョンを見ました。この鳥には長いくちばしがあり、それで岩をつつきました。その岩はカワイ島でした。カワイ島から霧のようなものが立ち上り、オアフ島に向かって動いて行って、どんどん広がり、ハワイ諸島を全部覆ってしまいました。これを見た人は何のことなのか全くわからなかったのですが不審に思い、私の友人に電話をしてきたのでした。
 預言のシンボルの中では、鳥は悪魔が侵入することを表すシンボルです。 ですから、私はこれはボブの警告と同じで、敵がハワイ州に鳥インフルエンザを解き放つ計画があるからそれに対して私たちは祈るようにという警告を受けたのだと感じます。
どうか、主がこの敵の攻撃をそらして、ハワイ州を鳥インフルエンザから守ってくださるように祈ってください。主がハワイ州の周りに守りの外壁を建ててくださるように祈ってください。もし、鳥インフルエンザが流行ったら、ハワイの経済がどれほど打撃をこうむるかお分かりでしょうか。
 もちろん、何が起ころうとも、主は敵が企んだ悪をも善に変えてくださる方ですから、いつも希望はあります。もし、何か主から示されたことがありましたら、連絡してください。 ディーン牧師


 以上緊急の祈りのリクエストです。宜しくお願いします。 (終わり)


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by walkwithgod | 2005-12-10 12:08 | 坂達也からの今月のメッセージ

柚実子のハワイ便り  12月7日

マーケットプレイス・ミニストリー

今回も、ラウリマ・ミニストリーのディーンさんから聞いたお話です。
ホノルルの市役所にクリスチャンが集まって、週一度の祈り会を始めたそうです。最初はかなり集まったのですが、次第に人数が減ってきてしまいました。そこで、ディーンさんが、祈り会の代わりにヒーリング・サービス(癒しの集会)をしたらどうかと提案し、その案が受け入れられました。つまり、すでに市役所で働いている人たちがランチをしている所に行って、「癒しの必要な人はおりませんか? もし、いらしたらお祈りさせていただきます。」というのです。

 第一回目は3週間前だったのですが、二人の方が「祈ってください」と言われ、二人とも癒されました。そして、2週間後に行ったとき、別の方が来て、「2週間前に、私は祈ってもらいませんでしたが、あなたが他の人のために祈っておられたとき、神様の臨在を濃く感じて、私の神経痛が治ってしまいました。この2週間の間も、ずっと痛みは戻ってきていません。」と伝えてくださったそうです。神様の臨在はなんとすばらしいことでしょう。

この日は、新しく、車いすに乗った中年の婦人が、祈ってください、と来られたそうです。ディーンさんが祈ると、神様が7歳の少女が白いドレスを着て、くるくると回りながら、楽しそうに踊っているヴィジョンを見せてくださいました。それは、彼女が障害を持つ前の姿でした。彼女はディーンさんといろいろと話すうちに、神様がどれほど彼女をずっと見守り、慈しんでおられたかを感じ、心が喜びで満たされました。神様は「あなたは、身体が不自由だけれど、それだけに他の人が感じない霊的なことをもっと知ることが出来ているのです。あなたの心は自由なのです。」と彼女に言いました。彼女はこの日は車いすからは解放されませんでしたが、心はまったく変えられ、喜んで帰っていったのです。

この秋の日本旅行でも、悩みのある方がグルーバー師に祈って頂き、暗い顔つきだったのが、祈られたあとは表情が明るくなり、微笑みをうかべ、全く別人のように変わるのを何度も目撃してきました。「主にある喜び」を霊のうちに体験されたのですね。

ハワイでは今、多くのクリスチャンがハワイのトランスフォーメーションのために各所で祈り会を持っています。その中で、始まっているのが、マーケットプレイス・ミニストリーです。教会の中に人々を連れて来なければならない、というメンタリティーから開放されて、この世に出て行って、自分たちや人々が働いている場所でもクリスチャンとして証のある生活をしていこう、というムーブメントです。 レストランで食事をするときは、いつもの食事の前の感謝の祈りの中に、そのレストランとそこで働く人々を感謝し、神が祝福してくださるようにという祈りを入れます。職場でも、クリスチャンたちが集まって、祈りをし始めています。また、一軒ずつ家を訪ねて、「何かお祈りできることはありますか?」と聞いて祈りのリクエストがあればすぐ祈ってあげるという働きもあるそうです。クリスチャンがどこでも自分の行くところに「神様の臨在」を持ち運んでいくときに、神様がすばらしいことをしてくださるのですね。(終わり)


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by walkwithgod | 2005-12-07 05:49 | 柚実子からのハワイ便り

主と個人的に深い交わりを持つ理由  12月6日

なぜ主の御声を聞く必要があるのか(1)
            
              坂  達 也



 パウロはアテネの町が偶像で一杯なのを見て心に憤りを感じたと、使徒行伝17:16に書いてありますが、日本も当時のギリシャに劣らず、至る所偶像だらけではないでしょうか。
 聖書では神様が偶像を極端に嫌われることが書かれています。その理由は、私たちが信じる真の生きている神様は、ものを言われる神様であるからであると思います。その事実を人間に知ってもらいたくないサタンは、人間にものを言わない偶像を作らせ、それを有難がって礼拝させようとして来ました。つまり偶像とは、私たちが真の神様と親しく語り合うことをさせないようにするためのサタンの策略である訳です。
 そのサタンの策略にまんまと引っかかったのは未信者だけではありません。多くのクリスチャンですら普通、神様が親しく個人的に「語られる神」だとは思わないようにさせてしまったのです。
 私はクリスチャンが偶像を見る度に、サタンの計画を逆手に取って、「私たちの神様は生きていて、ものを言う神様である」と偶像に向かって宣言すればよいと思います。そしてそのことを心から神様に感謝すべきであると思います。

 聖書を見ますと、私たちの信じる神様とは、初めから終わりまで徹頭徹尾、「語られる神」であることが明らかです。第一、神様の創造は、神様が言葉に出して命令されることによってなされましたから、神様の話す言葉にはものすごい力があることが分かります。サタンはそのことをよく知っています。ですから私たちが神様の御声を聞いてそれに従うことを、何よりもサタンは恐れるのです。
神様はアダムに地球上のすべてを支配する権威と責任を与えました。そしてアダムに親しく語られ、指示をしながら導いたことでしょう。神様の言われる通りに行う時、アダムは超自然的知恵と力が備えられることを知っていたはずです。
 同じように、神様は荒野で40年間毎日モーセに語り続けました。私は、神様の御声を聞いてそれに忠実に従う時に、物事がその通りになることをモーセほど経験した人はいないと思います。
 神様の御声を聞く時には、それを実行に移す信仰の力が与えられると私は信じます。それに反して、人間が自分の頭で考えて行動する時には、そのような神様の知恵と力が普通は得られないと思います。

 私たちの日常の生活において「信仰がなくては、神によろこばれることはできない。」(ヘブル11:6)とありますから、私たちが常に神様に喜ばれる信仰で生きるためには、神様の御心をいつも知り、それに忠実に従って生きる必要があります。
 それではどうしたら神様の御心を知ることが出来るのでしょうか。その答えは「神に近づき」「神を求める」ことであると書かれております。つまり分からない時は何事でも神様に聞くことです。そうすれば神様は忠実な方ですから、それに必ず「報いてくださる方」、答えて下さる方であると、同じヘブル11:6に書いてあります。
そこで、その神様が「報いてくださる」方法ですが、多くの場合、神様が聞いた人に答えを「語ってくださる」のです。これが「主の御声を聞く」ことです。

 御心を知るための最も重要な方法は聖書を読むことであることは、クリスチャンなら誰でも知っていることです。少なくとも、神様がどう言う方で私たちに何を望んでおられるかという基本的な知識を得ることが出来ます。しかし、聖書をいくら読んでも、それが頭だけで読むなら単なる頭の知識に過ぎず、しっかりと心の中(霊的)にとどまりません。
 ところが聖書を読んで、主にその意味するところを個人的に聞いて「祈りながら待つ」時に、主が語って下さいます。あるいはその御言葉の「はっきりとした理解」が自分の心に飛び込んで来ると言う表現も出来ます。それが聖書を通して主の御声を聞くと言うことです。ですから聖書を毎日読むことが大切なのです。
 しかし、主の御声を聞くのは聖書を読む時だけとは限りません。私たちに内在される聖霊様は、いつも私たちの霊に語っていて下さいますから、いつも霊の聞き耳を立てていれば主の御声が聞こえてくるはずです。
 主の御心を知ることは非常に大切ですが、それ以上に大切なことは、主の御心を知ってその御心を実行するだけの信仰を持つことであると思います。実はこの信仰を得るのも主からです。そのためには、主からの「御声を聞く」ことによってその信仰が得られると、私は信じております。

 さて、神様が「語られる神」であることが一番普遍的に知られているのは、神様が預言者を立てて、その預言者を通じて語られることです。預言者、あるいは預言的な賜物を持っている人は今の時代にも大勢おります。ですから、クリスチャンであるあなたが、自分の将来について神様がどのようなご計画を持っておられるかを知りたいと思う時に、そのような預言の賜物を持つ人を通して、主へ「おうかがい」を立ててもらうことが出来ます。そのこと事態は決して悪いことではありません。
 しかし大切なことは、そのいただいた「預言」をよく吟味することです。自分の牧師とか霊的に信頼の置ける友人にその預言の内容を吟味してもらうのがよい、と一般的に言われておりますが、それ以上に重要なことは、本人自身が主の前に出て、その預言が本当に主からのものであるかどうかを、直接主に確かめることであると思います。
 なぜかと言えば、主から直接いただく答えとしての「御声を聞くこと」によって初めて、私たちはその御言葉(預言)を本当に「信仰で受け取る」確信が得られるからです。その確信とそれだけの信仰が得られれば、それが実現・成就するまでに少々時間がかかっても(時には何十年も掛かる場合もあります。)その確かな信仰によってそれを祈り続け、そのための準備(の行動)をし続けることが可能になると思います。もしこの預言の吟味と確認を直接主にしないとすれば、それは未信者がよく求める、単なる「八卦見」で終わってしまうことになりかねません。

 又、本人が預言的な賜物を持つ人であっても(私たちは皆、預言的であるべきですが)、その人が重要なこと、あるいは自分の特に関心のあることだけは主におうかがいを立ててその答えを得るにしても、後のことは主に聞かないで自分の判断で勝手に行動をしながら生きているとすれば、これは真の信仰で生き、常に主に喜んでいただけるクリスチャンとは言えません。そう言う人のことを聖書は「二心の人たち」(ヤコブ4:8)と言っていると思うのです。これは逆に、霊的に成熟しつつあるクリスチャンにとって大変危険な落とし穴であると言う気がします。
ヤコブ4:8には「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」と書かれています。真の霊的なクリスチャンとは、必ずしも霊の賜物を多く持つことではありません。なぜなら賜物は肉で生きているクリスチャンでも用いることが出来るからです。霊的なクリスチャンとは、常に神に近づいた状態で生きる主と個人的に親しい人です。

 私たちクリスチャンとは、すべてを主に委ね、自分の十字架を負って(と言う意味は自分で生きることをやめることですが)イエス様のあとについて行く者なのですから、常に主を見上げ、主の御声に聞き耳を立てて、主に近く(とどまって)生きると言う霊的なライフスタイルを身に着けねばなりません。それが出来るようになるにつれて、私たちは段々と主の思いが自分の思いとなり、自然に主の御心の中で平安を得て、御心を生きられるようになると思います。それと同時に、人間的なもの、あるいは悪魔の策略をより敏感に察知し、忍び寄る敵の誘いの手を決然と退けることが出来るようになります。それが「主と共に歩く」ことではないでしょうか。
 そのために最も重要なことは、毎日主と個人的な深い交わりを持ち、主とは切っても切れない親密な関係になることです。そうすれば私たちは、単に聖書を読んで知る以上に、主の御心と思いが分かるようになると思います。(終わり)



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by walkwithgod | 2005-12-07 01:09 | 主と個人的に深い交わりを持つ