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色々ある        坂 柚実子     1月31日

色々ある

ハワイに住むようになって、毎朝のようにパパイヤを食べています。オレゴンから遊びに来た人と一緒にスーパーに買い物に行きましたが、食料はほとんど全部といっていいほど、オレゴンよりハワイのほうが高いです。ハワイのほうが安いものは、というとパパイヤとマンゴ、パイナップルくらいのものでした。
安いパパイヤですが、朝食に食べていると、やっぱりリッチな気分です。半分に切って中の黒い種を出すのですが、私は内心いつもその種の多さに驚嘆するのです。マンゴの種は大きいのが一つだけなのに、パパイヤの種はなんでこんなに沢山に神様はしたんだろう、と思うのです。マンゴとパパイヤの木は生育形態が全く違いますから、きっとパパイヤは沢山種を作っておかなければならない理由があるのだと思います。ちなみにパイナップルはどうやって育てるかご存知でしょうか。パイナップルの実の上の葉の部分を土に植えると新しいパイナップルの苗になるのですよ。

うちの庭には、ピンクの花のジンジャーが植わっています。その花が終わりかけると花の中から新しい葉っぱが出てきて、それが新しい苗になります。私はそうやって殖やすのが楽しくて、今は庭に沢山ジンジャーの子供たちが育っています。同じジンジャーでもホワイト・ジンジャーは全く花の形も違い、匂いも違います。私の亡くなった母は台湾で子供時代をすごしたからでしょうか、家の庭にレーシ(苦瓜)やホワイト・ジンジャーを植えていましたので、私にとっては懐かしい花です。甘い清らかな匂いがします。黄色のジンジャーも又、花の形も匂いも違います。

私は何が言いたいか、というと、なんでも色々あるんだな、ということなのです。神様の創造はなんと多種、多様、多彩であることでしょう。それと反対に、人間が作るものはどうしても画一的になってしまいます。教会のことを考えるとき、神様はいろいろあっていいんだよ、と言っておられると思うのです。

グラハム・クック師がかかわっていたイギリスの一つの教会は、建物の中では集会をしない教会だそうです。それは大道芸人が集まった教会で、彼らは都会や田舎に出かけていって、集まった人に大道芸を見せながら、福音を語るのです。観衆に自分を縛りあげてもらって、縄から抜け出しながら自分が罪に縛られていたときにイエスによって救われた証を笑わせながらしていく、というようなことをするそうです。彼らは共に集まり、賛美し、御言葉を学び、祈りあい支えあっているから教会なのです。

これはちょっと突飛な例だとは思いますが、教えられる事があるではありませんか。人間的な考えではなく、神様から示されたように教会を建て上げていくとき、きっと一つ一つ、雪の結晶のようにユニークで美しい教会ができるのではないでしょうか。他と比べることもなく、競争する必要もない、それぞれはキリストの身体の一部として大切な働きをしていくように作られるのです。

私たちはハワイに来て初めの一年間はハワイで一番大きな(1万2千人)ニュー・ホープという教会に通っていました。主任牧師のコーディロ師は日本でも良く知られた方で、それはすばらしい説教者です。私たちはそこで大変恵まれましたが、私たちが遣わされるところではないことがわかりました。そして導かれてニュー・ライフ・チャーチのメンバーになったのですが、そこは120人の教会です。この大小2つの教会はそれぞれに神さまからの特別な使命をいただいており、活き活きと活動しています。又、ニュー・ライフで今まで賛美リーダーをしていた人が、今回「家の教会」を始めるということで、みんなから祝福されて教会を出て行くことになりました。オダ牧師が心から「家の教会」のコンセプトに賛成しておられ、彼の新しい出発を喜んでいるのが彼の言葉からよく分かりました。(そして神様は新しい賛美リーダーも備えてくださいました。)

メガ・チャーチも小さな教会も、又、家の教会も神様は祝福されます。大切なことは、それが主の教会であって、主の導きを求め、主に従っていくということではないでしょうか。(終わり)



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by walkwithgod | 2006-01-31 16:00 | 柚実子からのハワイ便り

暗黒と神の国の輝き(2)  リック・ジョイナー   1月25日

暗雲と神の国の輝き(2)
                        リック・ジョイナー(訳者:渡橋喜代佳)

産みの苦しみを理解する

 私たちは、分娩中の女性に陣痛が襲うように、霊的な陣痛が世界を襲っているのを見るようになる。出産が近づくにつれて母親の陣痛がひどくなり、その間隔も狭まるように、この世界を襲う苦難もますます激しさを増し、頻発するようになるだろう。嵐も激化し、地震も激化していく。病気もまた悪化するばかりだろう。そうした中で、神を知り神に近づいている人々は、キリストがこの地を支配される新しい時代が到来するための産みの苦しみをとおして、さらなる栄光を経験するのである。
 分娩中の女性は、動揺を避けるため、何か「焦点」となるものを見つけてそれに意識を集中させるように教えられるが、私たちもまた同様のことをしなければならない。私たちの焦点になるのは、主ご自身である。私たちの注意を、世界で起こっていることにだけではなく、主と主がなさっておられることにもしっかり向けていなければならない。
 ヘブル12章で言われているように、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての揺り動かされるものが揺り動かされる。揺り動かしが来るなら、何がこの世のもので、何が揺り動かされることのない神の国のものかが明らかになるだろう。前述したとおり、私たちは主のことばを聞いて主に従いながら、岩の上に自分の家を建てている。嵐や洪水はその建てたところまでやって来るかもしれない。しかし、私たちの家は倒れることなく、もちこたえるのである。けれども、もし、今私たちが詩篇32:6~11にあるこの警告に注意を払わなければ、異教徒よりも愚かな者となるだろう。

  それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。
  あなたにお会いできる間に。
  まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
  あなたは私の隠れ場。
  あなたは苦しみから私を守り、
  救いの歓声で、私を取り囲まれます。

  わたしは、あなたがたに悟りを与え、
  行くべき道を教えよう。
  わたしはあなたがたに目を留めて、
  助言を与えよう。
  あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。
  それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、
  あなたに近づかない。

  悪者には心の痛みが多い。
  しかし、主に信頼する者には、
  恵みが、その人を取り囲む。
  正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。
  すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。


 この時代(世)の終わりは、何年か先というよりは、まだ何十年か先のことになるだろう。戦略と将来のビジョンをもって生きていくことが重要である。世界がばらばらに崩壊し始めるときに、もし私たちが主を知って主のみこころを行なっているなら、私たちは築き上げていることになる。けれども、揺り動かしが始まったり、嵐が来たりするまで、「岩」の上に自分たちの家を建てるのを待つ、ということのないようにしよう。今が建てる時である。洪水が来てからでは遅すぎるのだ。
 また、これらの苦難が来たときには、ダニエル11:31~35に記されていることを、私たちも決意しなければならない。

   彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、
   荒らす忌むべきものを据える。
   彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、
   堅く立って事を行なう。
   民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、
   火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。
   彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮
   深い人につく。
   思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白
   くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。
 

  私たちはここで、「荒らす忌むべきもの」が据えられているまさにそのとき、「自分の神を知る人たち」は、堅く立って事を行なう」ということがわかる。真の戦士たちのように、「自分の神を知る人たち」は、戦いの音を聞いて逃げたりはしない------それに向かって駆け込むのだ!主は、かつてこの地上に存在した中で最高の霊的戦いの戦士たちの世代を建て上げておられる。ダビデの心をもった何万もの人たち、エリヤよりもさらに力ある何万もの人たち、バプテスマのヨハネの説教の油注ぎを受けた何万もの人たちが出てくることだろう。彼らは困難から逃げることをせず、逆に困難に突き進んで行く。「自分の神を知る人たち」は、隠れていない。むしろ、私たちの時代の大いなる闇に大胆に立ち向かうようになる。そして、この闇は、終わりの時には、すべての時代を通じて最大の闇となっていくのである。
 倒れる者も出てくるし、死ぬ者も出てくるであろう。ヨルダン川を渡るという前号のメッセージでも触れているように、私たちが神のみこころだけを行なって前進している間、その周りで多くの人々が亡くなっていくのに慣れなければならないだろう。

 私たちには揺り動かされることのない神の国がある。その神の国の上に建てられたものと、今の邪悪な時代のシステムの上に建てられたものとの違いが、これから先、ますますはっきりしてくるだろう。「自分の神を知る人たち」は、神がすべての力と権威と主権の上におられる方だということを知っている。あらゆる状況下で、主にとどまっている人たちは主の権威を行使していくようになり、それによって地上のどんな状況も変えられていくだろう。

私たちには恐れ自体以外には恐れるものはない


 悪魔は、人々をコントロールするのに恐れを用いるが、主を知る人たちは、信仰によって生きる。悪魔は、恐れや恐怖を用いて、大勢の人々を奈落の底に追い集めようとしている。箴言4:18~19で与えられている約束と警告はこうだ。
  義人の道は、あけぼのの光のようだ。
  いよいよ輝きを増して真昼となる。
  悪者の道は暗やみのようだ。
  彼らは何につまずくかを知らない。


 義人の道を歩いている人たちは、その道でいよいよ光が輝いて明らかにされ、確信をもって歩けるようになる。ますますはっきり見えてくるからだ。この先何が起きてもけっして驚かないようにすること-----それが私たちのゴールとなるべきである。なぜなら、私たちは見えることを可能にしてくれる光にとどまっているからだ。けれども、悪者の道を歩いている人たちは、目に見えないものにつまずくようになる。

ありそうにない提携

 ニュースメディアは、この時代の最強のテロリストだと言える。現在の世俗的なメディアは恐れと悲運を食い物にしており、どうしてもそこには欺きが入り込む。必ずしも意図しているわけではないのに、その性質上、そうならざるをえないのだ。たいした話題がない時は、どんなささいなことでもセンセーショナルに取り上げようとする。そうでなければ、だれもその新聞や雑誌を買わないし、番組を見ないからだ。
 たとえば、2、3年前のことになるが、他にビッグニュースがなかったために、サメによる被害がメディアの関心を集めたことがあった。それがあまりに誇張して取り上げられたため、恐れた何万という人々が海に行くのを控えてしまい、その年は多くのリゾート地に深刻な被害をもたらした。しかし、実際には、その年のサメによる被害はいつもの年よりも少なかったのである。海に行く途中の車の事故による死者の数の方が、サメや他の原因による溺死者の数をはるかに上回っていたのだが、そのことを言う者はだれもいなかった。もし本当に安全でいたかったら、車に乗ってはいけなかったということになる!
 同様に、わずか二回の祭日の週末で起こる車の事故で死亡するアメリカ人の数は、今までのイラク戦争における死者の数よりも多いのだ。実際、私は軍に入隊していた経験があり、どれだけの隊員が任務についていないときに車の事故で亡くなるのかを知っているので、これらの兵士たちが母国で車を運転している時よりイラクにいる方が安全であるかどうかを調べてみるのは、興味深い調査になるだろう。私はイラクの方が安全だと言っているわけではないが、たとえ危険だとしても、バグダッドをパトロールしている方が合衆国内でドライブしている時よりもはるかに危険だということはなさそうである。

 テロというのは人間がなしうる最も極悪非道な行為の一つであるため、最近このように注目されているのは、当然といえば当然だろう。とは言え、脅威ということに限れば、テロリストの手にかかるよりも、車でスーパーに買い物に行く途中の事故や雷に打たれて死亡する方が、はるかに確率として高い。間違った事を恐れてそれに多くの時間やエネルギーや資産を費やしてしまい、それよりもはるかに危険な事に対しては無防備な状態になるということが時々ある。
 メディアは、伝える内容やその伝え方によって、事実に基づいたものにもなり得るし、人を欺くものにもなり得る。伝える側は、自分たちはニュースを伝えるだけで、解説するわけではないと主張するかもしれないが、それは視聴者の知性を侮辱することであり、その言い訳はもはや通らなくなっている。半世紀前、ジャーナリストにはあらゆる職業人の中でも最大の敬意が払われていた。ところが、ニュースをすぐにセンセーショナルに取り上げようとする姿勢や、メディアの冷笑的な姿勢のために、ジャーナリズムに対する信頼が損なわれてしまった。今では、ジャーナリストというと、弁護士(法律家)や説教者よりも信頼できない者とみなされるまでになった!
 もちろん、弁護士も同様に評判を落としてきたし、最近ではクリスチャンのリーダーに対する信頼も損なわれている。この三者ともが信頼を損なったが、その原因はみな同じだ。すなわち、事実の歪曲、センセーショナルに取り上げようとする姿勢、誠実でない態度である。こうした態度はごくわずかな者にしか見られなかったのかもしれないが、その影響は全体に及ぶことになる。社会秩序に測り知れないダメージが加えられてきた。それは、まさにこの三者の信頼が損なわれたためであった。来たるべきものに備えて、この三者の誠実さと信頼とが回復されなければならない。
 この先、最高レベルの誠実さと信用を併せ持ったメディアが必要である。そのメディアは大災害の時にはきわめて重要であり、人々やそうした状況を救援するうえで通常大いに益となっている。もし、メディアがハリケーン・カタリーナの脅威についてあのように警告を与えていなければ、そして災害直後にもあのようなめざましい救助の働きをしていなければ、この嵐でさらにどれほど多くの犠牲者が出ていただろうか。こうした場合、ジャーナリストが多くの場合最大のヒーローとなる。

 弁護士も、これから先、秩序の維持や回復のためにきわめて重要な存在になるだろう。家族やビジネス、政治にかかわる問題を解決するにあたって、彼らの助けはきわめて重要なものとなってくる。

 また、誠実さと正確さが試されて信頼できる者とされた預言者も必要になってくる。事をセンセーショナルに取り上げたり、粉飾したり、利己的な目的のために自分が得た情報を用いたりせずに、はっきりと聞き、はっきりと見、はっきりと語る預言者が、私たちには絶対に必要である。真実こそがキリスト教にとって欠くことのできない最高のものであり、理由はどうであれ、真実を曲げるようなことがあってはならない。神の言葉のよき管理人として、忠実で、清廉潔白で、信頼できる人々が将来についての情報を扱うことになるだろう。彼らの預言は、これからの時代には今まで以上に非常に価値あるものとなるからである。

しっかり立っているものの上に立ちなさい

 私たちには揺り動かされることのない神の国がある。だれがその国の国民であるかは、ますますはっきりしてくるだろう。やがて、彼らは、将来に向かって大胆に確信をもって立っている唯一の人々ということになる。この時代に関しては、主イエスご自身の預言も明らかにしているが、私たちはいまだかつてこの世の中が経験したことのないような最大の苦難の時代を迎えようとしている。けれども、よいことは、もし、私たちが揺り動かされることのない神の国の上に人生を築いて来たのであれば、来たるべき苦難を生き残れるだけでなく、備えをしていなかった人々を助けるようになるのはもちろんのこと、敵に打ち勝ち、栄えるようになるのだ。実際、これが教会がヨルダン川を渡り、約束の地を所有し始める時なのである。

 現在のこの世のシステムは、揺り動かされ、崩壊していく。このしるしとして、地震や嵐といった自然災害がますます頻発するようになり、その規模や被害の記録を次々と塗り替えていくだろう。神を抜きにしてやっていけるという考えを捨てなかった人々も皆、それが不可能だということがわかってくる。「福音に従っている」人々は、自分たちを取り巻く世界が崩壊していくのと同時に、ますます自分たちが光り輝いて繁栄していくのを知るようになる。私たちはこのことを恥じてはならない。これもまたさばきの一部だからだ。けれども、私たちが繁栄するのは、私たちが贅沢に暮らすためではなく、絶望的な人々を助け、神の国が来るための道備えをするためなのである。

 ヨシュア3:16に、ヨルダン川の「上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツアレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち」と言われている。この箇所は、ヨルダン川の水は「アダムのところまでずっと後退して」とも訳すことができる。
この小さな町が「アダム」という名前であるのは、偶然でも何でもない。これは、神の民がヨルダン川を渡り始めるとき、私たちは神から相続するようにと約束されたすべてのものを所有し始め、死はアダムのところまで後退するという預言であったのだ!
 これは、アダムとエバが犯した最初の罪の結果としてもたらされた死のすべてがアダムまで逆戻りするという意味である。それこそが福音だが、実際に起こることは、私たちの理解をはるかに超えたすばらしいものとなるだろう。今がその時、今日が救いの日なのだ!今日この日、私たちは決して揺り動かされることのない神の国で生きることができ、必ず勝利するのである。今日この日に、いのちの木を選び取ろう。そうすれば、永遠に生きることになるのだから。

まとめ

 テロ行為さえもニュースの片隅に追いやってしまうような自然災害と災禍が来ようとしている。私たちはこれらのものを恐れる必要はないが、慎み深くして、それへの準備ができていなければならない。今は、自分たちの家族や教会、住んでいる町のために祈り始める時である。今は、霊的な支配権を行使して、天を閉ざすことによって地を閉ざしたり、天を開いて地上に解き放ったりする時である。

 クリスチャンが陥りうる最悪の状態はなまぬるさである。これから数年のうちに押し寄せて来る苦難の波によって、教会からなまぬるさが取り除かれるだろう。しかし、今なまぬるさを悔い改めるなら、その方がはるかにいいのだ。私たちの神は焼きつくす火であるから、真に神を知っていながら神と神の目的のために心が燃やされないでいるということはありえない。神のために燃やされていない人々は、恐るべきあざむき(惑わし)の中にいるのであって、この世の心遣いや心配といういばらにふさがれて実が結べなくなっているのだ。

 私たちに与えられているすばらしい約束の一つは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて,これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:25~34参照)という約束である。もし、私たちがすべての決断において神の益を優先順位の第一にするなら、神も私たちの益を第一にしてくださる。神は、私たちが自分で自分の面倒をみるよりも、はるかによく私たちの面倒をみてくださるのだ。

 この時代に、主がこの地上に対してもっておられる最大の関心と目的は、ご自分の花嫁である教会を建て上げることである。教会は、今の時代のこの地上における神の国であり、神の国がこの地上に確立されるための器となる。もし私たちが神の益を第一にしているなら、よりよい仕事を得たからという理由でその仕事場の近くに引っ越すのではなく、そこに自分たちの所属すべき教会があるからという理由で家を引っ越すようになるだろう。繰り返すが、もし私たちが神の益を第一にするなら、私たちが自分で自分の面倒を見るよりも、はるかによく神が私たちの面倒をみてくださるのである。

 あの暗雲が迫って来ている夢は、私たちが神の家、すなわち神の教会にいることがどれほど重要なことかという、生死にかかわる決定的なメッセージを伝えていた。今この時点では、教会はまだ整えられておらず、多くの点で混乱状態にあるかもしれない。けれども、やがて立ち上がり、本来の召しである救いの要塞に変えられていくのだ。あなたはこの教会の一員となるように召されている。今、教会に逃げ込みなさい。洪水が来るまで待っていてはならない。主のみからだの中に自分の場所を見つけるのだ!(終わり)


 この原稿を訳していただいた渡橋喜代佳先生はリック・ジョイナー師の本「天国からのメッセージ」(マルコーシュ出版)を訳された方です。今回私たちのミニストリーにご協力いただいて心から感謝申し上げます。坂 達也


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by walkwithgod | 2006-01-25 11:55 | アメリカからのメッセージ

どこでもドアー  坂 柚実子   1月25日

どこでもドア

うちの息子は子供のときドラえもんが大好きで、日本の主人の友人からいつもドラえもんのビデオを送ってもらっていました。ドラえもんのポケットから出てくるいろんな小道具は、本当に夢があります。タイム風呂敷や竹コプター、翻訳こんにゃく等々、「こんなものいいな、あったらいいな」のテーマソングの通りですね。その中でも一番の憧れは「どこでもドア」でした。いつでも行きたいところにすぐにいける、というのは、誰もが望むことでしょう。

先日のオダ牧師のメッセージは「私たちには天国の鍵が与えられている。私たちの入っていくところは、いつでも天国にすることができる。」というものでした。どこに行っても、私たちが王の王であるイエス様と共に入っていけば、そこを神の御国にすることが出来る、というのです。私たちはどこにでも天国の入り口を持っていくことができる、そしてその鍵を持っているのです。ドラえもんの「どこでもドア」がドアの向こうに行きたい場所が現れるのと違い、天国の「どこでもドア」は自分の行くところをどこでも天国の入り口にすることができるのです。イエス様をお連れすることが鍵でしょうか。

私にはもう一つの「どこでもドア」がありました。私はオレゴン州で10畳の和室で茶道を教えていたのですが、そこで、4畳半とか2畳での点前を教えるときは、竹と木で作った至極簡単な戸のようなものを置いて小間のお稽古をしていました。マックスというアメリカ人男性の生徒が作ってくれたものでしたが、大変便利で、みんなで「どこでもドア」と呼んでいました。それを置くだけでそこが小さな茶室の入り口になり、生徒たちは神妙にそこから出入りしました。先ず、「どこでもドア」の前に正座をして気持ちを静め「和敬清寂」の心になります。そしておもむろに「どこでもドア」を開けます。室内にいる客と目を合わせて、「お茶を一服差し上げます。」と心をこめてご挨拶します。

天国の「どこでもドア」も、もしかしてそんな風に扱ったらいいのかもしれません。自分は神の国を持ち運ぶ使節なのですから、行くところ行くところにドアを設置し、開ける前にその心がまえを持ち、イエス様と共に入っていくのです。これに関して教会の人の証を聞くことができました。彼女のご主人がオフィスの引越しをする手伝いをしたとき、このメッセージを思い出して、ご主人が様々なことでイライラしていた時に神の平安と共にオフィスに入り、そこを神の御国にすることが出来たと言う証でした。

グルーバー師と祈りの歩行をされた方はご存知のように、師はどこへ行っても、必ず門のところで、詩篇24編7-10節を引用して「門よ。お前たちのかしらを上げよ。天の永遠の戸よ。あがれ。栄光の王(イエス)が入ってこられる。」と宣言されます。それと同じように、私たちも「天国の入り口・どこでもドア」をいつでも、どこにでも、持ち運んでいくことが出来たらいいですね。
(終わり)



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by walkwithgod | 2006-01-25 07:45 | 柚実子からのハワイ便り

キリストが現れる   レスティヴォ    1月25日

キリストが現われる
ナンシリー・レスティヴォ

1999年1月、私は2週間にわたって主から一連のヴィジョンを与えられ、それによって私の人生は全く変えられました。そのうちの一つをお話したいと思います。私に一番影響を与えたものです。主が私を召しておられることへの新しい高さと深さを真に理解することができるように私の目を開けてくださったのです。それはあなたの目も同じように開けられるかも分かりません。

このヴィジョンは、ドアの入り口に立っている私がイエスが群衆の中にいるのを見ているのを自分が見ているところから始まりました。イエスがある人に手を伸ばすと彼らは瞬時に癒されるのです。イエスは又、ある者には励ましのことばをかけ、愛に飢えている者の肩を抱き、悪霊に苦しんでいる者から悪霊を追い出しておられました。

すると突然、何かが変わりました。私もイエスと共にその場にいたのです。しかも、イエスと私は写真のネガが重なったように一体となっているのです。イエスと私は全く一人の人間として動いていました。
「…主と交われば、一つ霊となるのです。」 Iコリント6:17

イエスが手を差し伸べられると、私の手がそれと全く一つになって動くのです。イエスが口を開かれると、ことばが私の口から出ていくのです。イエスが一歩前に進まれると私の足が一歩進み、イエスが人を見るときは、私の目を通して見られるのです。
そして、私は理解しました。それは「私の中におられるキリスト、栄光の望み(コロサイ1:27参照)」なのです。ただし、キリストが私の中に隠れておられるのではなく、私が彼の中に隠れていたのです!
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神にうちに隠されてあるからです。」コロサイ3:3

私は傍観者として、興味と驚嘆をもってイエスの一挙一動をすべて見逃すまいと見つめていました。イエスのこんなにもそば近くで主が地上におられた時と同じ奇跡をされるのを見るのは、本当にわくわくしました。
人々は私を見ているのではないことがはっきり分かってきました。彼らは主を見ていました!主はその力と栄光をもって、すべての人に分かる姿でご自身を「現されて」いたのです。群衆も自分たちはイエスを見ていることが分かっていて、主のされるすばらしい業に完全に心を奪われていました。 
私は、イエスにだけ完全に全く何の障害もなく焦点が当てられねばならない、それが「唯一」受け入れられることである時代に私は生きているのだ、ということにはっと気がつきました。私に関することとか、何が私に出来るかとは全く関係がないのです。そうではなく、私はからっぽの器であり、イエスご自身がそこに満ち満ちてくださるのだということだけなのです。主がその中に住んでくださり、主が望まれる通りにその器を通して働かれる器になることなのです。このことが理解できたとき、私はあふれるような喜びで満たされました。

「…こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ3:19


ヴィジョンが終わるときに、主が次の箇所を示してくださり、私が経験していることが正しいことを確証してくださいました。
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される(be manifested)ためです。」IIコリント4:10-11

神学者の多くは、この箇所を理性で理解しやすく説明がつくようなものに変えてしまっています。しかし、今主は、今まで私たちが理解したり、私たちの理性では理解できる範囲をはるかに超えた何かをしはじめようとしておられるのです。
「明らかに示される(manifested)」ということばをThayerのギリシャ語辞書で調べてみると、
「今まで隠されていたもの、また知られていなかったものを、ことば、行為、その他の方法で明らかにすること」とあります。
  これはまさに私のヴィジョンの中でイエスに起こったことでした。主はご自分を人に見えるようにし、明らかにされ、知られ、はっきりとイエスだと分かるようにされました。主は周りにいる群衆のなかに現れて、彼らは主を見たのです!これがまさに我々主に完全に従う者を通してイエスがしようとされていることなのです。

主がこれをどうようにして実現されるのかについて私は十分にはわかりませんが、一つのことだけは知っています。それは、人々は彼らの真ん中でイエスがご自身を現されていることがわかり、イエスにだけ彼らの注意が集中されているということです。

鍵となるもの

先にあげたIIコリント4:10に、「イエスの死」ということばがあります。これはイエスの十字架上での死だけではなく、主が毎日自分の意志と自分の命に死んで来られたということをも指しています。主は何事もご自分の思いからはされませんでした。イエスにはただ一つの動機しかありませんでした。それは父なる神の御心と地上での目的を表していくということでした。
私たちも「イエスのための絶えず死に渡されていますが、、、」(11節)といわれています。イエスの命が私たち人間の身体を通して現されるためには、それが唯一の道です。自分の肉が自我の一つの領域で死ぬとき、イエスがその領域を完全に支配することが出来ます。私たちが自我に死ねば死ぬほど、イエスが私たちを通して生きることができるのです。
イエスがこのような力と権威を帯びて現れるためには、私たちは邪魔をしないように完全に退かねばなりません。バプテスマのヨハネと同じように心から「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と叫ばねばならないのです。

私たちが自我のすべての領域で喜んで死ぬ、その度合いによって、イエスは人間をとおしてご自分を十分に現される自由を持つことができるのです。
イエスは「わたしに従ってきなさい。」といわれ、そして「その中を歩きなさい。」といわれているのです。(終わり)


[この記事はウエイド・テイラー・ミニストリーからのものです。]

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by walkwithgod | 2006-01-25 07:21 | アメリカからのメッセージ

2006年への預言  ダッチ シーツ  1月19日

2006年への預言 「シフト」  
        ミニストリー・教会・ビジネス・個人・家庭の再編成(restructure)
    
                                     ダッチ・シーツ


 ミニストリーが再編成され、教会が再編成され、ビジネスが再編成され、個人も再編成され、家族も再編成される。
 今年は我々の世代が経験する最大の変化の年となるであろう。私は1月5日のダラスでの集会のために準備をしていたが、その時聖霊がはっきりと私に「人々に告げよ。」と言われたので、すぐにペンをとって 聖霊の言われることを書き記した。

1. 今年、使徒の時代への最大のシフトが起こる。なぜならば、人々は今年、そこから豊かな収穫があるのを見始めるからである。

• 「今までの時は、使徒的、預言的働きが回復されてきた段階であったが、それはわたしがこれからしようとしていることのための準備だったのである。」と主が言われる。 ミニストリーのために神が我々に与えてくださった賜物がフルに用いられるようになる結果、大いなる神の実りがもたらされ、地上における神の支配(王国)が今まで見なかったような力、権威、恵み、啓示、裁きや義を解き放つ。

2.「使徒的と預言的働きに対する反撃・反対も今年は最大となるであろう。」

• 主は主の動きに反対する者たちの仮面をはがして、皮袋(新旧ともに)や、今まで隠れていた宗教の霊をあらわにされる。今の時の真理の動きを拒否する者は、キリストの身体の中で、使徒的、預言的流れの中で動いているリーダーたちを公に批判し始めるであろう。 ある者たちはいままでも目立たない形で批判してきたのだが、今年は、公然と批判するようになる。そのとき、神は彼らを裁きはじめる。

3.「わたしは、パラダイムをさらに変化させねばならない。それは今までわたしの霊の流れの中にいなかったものに変化をもたらすだけでなく、流れの中にいた者たちに対してもパラダイムを変化させる。」 私は主が「再編成、再編成、再編成」といわれるのを聞いた。

• ミニストリーが再編成され、教会が再編成され、ビジネスが再編成され、個人が再編成され(彼らの時間の使い方、ものの考え方、活動の仕方が変えられる)そして、家族が再編成される。
• 神の御国(kingdom of God)の教えがパラダイムに大きな変化をもたらし、創世記にある神の(人間に対する)オリジナル命令(Mandate)へと我々を引き戻す。今年それが何度も繰り返し教えられるのを聞くであろう。神の御国の神学が最前線に出てくる。

4.「わたしの宣教任務声明(ミッション・ステートメント)を成就させる者たちをわたしは待ち望んでいる“ (ルカ4:18-19、イザヤ61)

• 貧しい人々に福音を伝え
• 捕らわれ人には解放をあたえ
• 盲人の目を開き
• 打ちひしがれている者に自由を得させ
• 主のめぐみの年を告げ知らせる
• わたしは主が言われるのを聞いた。「もし、わたしの教会がこれを宣教方針(ミッション・ステートメント)として実行し始めるならば、これらのこと(ステートメントの内容)がすべて成就するようにわたしはするであろう。」 又言われた。「過激的な解放の油注ぎが教会に来ようとしている。それは時として非常に激しいものとなろう。人々は一瞬のうちに過激的に解放されるであろう。」
• 主のめぐみの年というのはヨベルの年のことである。捕らわれ人は自由になり、相続財産は回復される。

5.「この年はめぐみの年、そして又、うとんじられる(恵みの反対)年である。

• あなたが今まで祈ってきたこと、骨折ってきたこと、種を蒔いたこと、切望したこと、泣き叫んで求めたこと、見たけれども味わうことが出来なかったこと、断食したこと、涙を流したこと、それらすべてのことに関して今年はめぐみの年である。主のめぐみはあなたの家族、ビジネス、経済、身体(健康)の上に注がれるであろう。
• 今年、主は人々が中途半端な態度を取るのをもはや許されない。 主は、はっきりと地面に線を引かれ、彼らが何者で誰につくのかを決めねばならないといわれる。教会の中の勢力争い、政略的な行為は裁かれる。今の時代のために主が与えられる啓示の流れに乗ることを拒否したり抵抗する者は、主がうとんじられるのをあなたがたは見るであろう。いくつかのミニストリーや教会は今年主のめぐみを失うであろう。ほかのミニストリーが建てあげられ、もっと影響力をもつようにされるであろう。主に栄光をもたらさないものは取り壊され、その反対に主に栄光をもたらすものは大いに建て上げられる年となる。

教会の眺め(Landscape)が今年変わるであろう。

6.「わたしは地上のことで心を満たしている者よりも天のことを思っている者を、今年、探し求めている。」

• 上にあるもの、即ち神の御国を求め、主が望まれることにだけ心を傾ける者を主は探しておられる。これらの者には天からの洞察力(insight)が与えられる。その洞察力により彼らは天国を地上にもたらすことができ、「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るだけではなくなる。主は彼らに御国を地上にもたらすための権威と知恵をあたえられる。
• 又、彼らが天国の物の見方で物事を見ることができるように主はしてくださる。彼らは、厄介な問題とか、厳しいチャレンジ、あるいは主から幻を与えられたときとか、家族の問題、経済的困難が起ったときも、それらを神の視点で見ることが出来るようになる。

7.「わたしは、わたしの力を信じきる者たちを探している。奇跡はそれを求める者のためにすでに備えられている。」

• チャック・ピアスは、今年は神が動かれ、しるしと不思議が大学のキャンパスで爆発的に起こるであろうと預言した。エール大学とテキサス大学の名が特に示されたが、この預言はその2つの大学に限られたものではなく、神の力がアメリカの大学に押し寄せようとしている。

8.「わたしのリーダーたちに、もっと多く祈り、もっと少なく働くように告げよ。」

• このことばを聞いたとき、この意味は「もっと祈れば、その結果として働くのが少なくてすむ」、ということだと私には感じられた。

9.「今年は正しく整列化される(正しい線に並ぶ)べき最も重要な年である。」

• もし、我々が、リーダーたちと正しい関係につながっていなかったり、共に歩むべき人たちと結び合わされていなかったり、我々の上で権威をもつ人たちによる覆いを受けていないとすれば、我々は実を結ぶことがなく、健康も失い、他のさまざまのことでも困難に合い、啓示を失い、目標も失う。正しく配列されていない者にとって後退が始まる。

10.「正しいタイミングでことを行うことが最も重要となる年である。」

• よい機会は来てもすぐ去っていくであろう。
• 一心に努力するタイミングはきわめて重要である
• 正しいときに正しい場所にいるのはきわめて重要である。

11.「富の大きな移行が今年始まる。」

12.「神の川が流れてくるが、それは今まで知られていたようなものではない。」

• ただリフレッシュしたり、リニューアルするだけではない。
• それよりもっと深いものであり、大いなる力と収穫をもたらす。

13.「今年は、神からユニークな仕事が与えられる年である。」

14.「今年は、わたしが創造力を豊かに解き放つ年である。」

• ビジネスにおいて
• テクノロジー(技術)において
• 発明において
• 歌、アイディア、戦略において
• 「天の秘密が地上に下ってくる」と主が言われるのが聞こえた。あるものは本当にすばらしい啓示で、世界のある地域全体が改革(トランスフォーメーション)されるための創造的なアイディアが啓示として天から解き放たれる。

15.「アメリカ政府の一部に大混乱を引き起こす。」

• 汚職、腐敗が暴露される
• 間違った動機が暴露される
• アメリカに非常に激しい裁きが来て、神はご自分の側に立つ者は誰かを示される。

16.「今年は若者のムーブメントを抑えつけていた蓋がとりさられる。」

• これは、私が巨大な圧力鍋が激しく揺れ動き、今にも爆発しそうになっている幻を見た時、主が言われたことばである。そして突然、鍋の蓋が吹き飛ばされて、中身があたり一面に飛び出した。

今年のシフトは途方もなく大きい。主と共にシフトして、今年があなたにとって今までで最高の年となるのを見なさい。

イザヤ43:18-19 「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

さあ、主と共にシフトしようではないか!(終わり)



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by walkwithgod | 2006-01-20 04:50 | アメリカからのメッセージ

2006年への預言    ダニー ステイン    1月19日

2006—熱いか冷たいかの年
                                ダニー ステイン                                 

詩篇46:1-11 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ」

熱いか、冷たいかを選ぶ年、なまぬるいままでいることは非常に危険

今年、主が私に示された中心的なことは、2006年(2007年の初めも含む)は熱いか冷たいかの年であるということです。つまり、なまぬるかったり、中途半端な年ではないと主は言われたのです。

1990年代の初めに、主は私に、空間と時間に宙吊りになっている教会の建物の幻を見せてくださいました。その教会の上にイエスが立っておられました。教会はイエスの足ほどの大きさでした。教会の真ん中をめがけてイエスは両手に剣を持っておられました。イエスの顔には何にも増して一つのことを決意している、という表情が浮かんでいました。私にはイエスが決められた(適切な)時を一心に待っているということが分かりました。

次の瞬間、イエスは剣を教会の中に差込み、真二つに切ってしまわれました。教会の中にいた人々は二組に分けられて、教会の中は恐怖でみちあふれるのを私は見ました。
半分は上に上げられて、「キリストの花嫁」と言われているものとなり、その信仰の故に明るく栄光に輝いていました。

もう一方の半分は、「宗教的な暗やみ」として知られているものとなりました。それは、暗やみと不信仰の故であり、彼らは忘却へと落ちていきました。これらの者たちも回心したならば花嫁に変えられたのですが、神はこれ以上失われた者たちが光の中に隠れているのを許されないと宣言されたのです。

主は、このことが今年起こると語られたと私は信じます。光と闇の間にははっきりした区別があるのです。中途半端でいる人は大怪我をするか命を失います。(霊的に、そして肉体的である可能性もあります。)

その理由は、光の中にいる人が中間にいる人にむかって、そこから出るようにとはっきりと宣告していたからです。これはヘブル6章が実現していることだと私は信じます。
ヘブル6:4-6 「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
Iペテロ4:17 「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」

今年は熱いか冷たいかがはっきり分かれるときであり、我々の従順が明確に問われるときなのです。

又、一方では、栄光が今までよりより大きな規模で解き放たれる年となるでしょう。主のしもべたちの信仰が大きくなり、奇跡が爆発的に起こります。これは世界的規模で(西欧でも!)起こるでしょう。

すでに現れている栄光のひな形や影、また2006年のはじめに解き放たれる栄光は、これからの1年半の間にはっきりと明白になってくるでしょう。それらは、来るべきものの良いことも悪いことも含めての前ぶれです。教会の中で、「死」の雛形を表していたものがこれからはもっと公にはっきりと現れてくるでしょう。また、「命」の雛形を表していたものが、大きく解き放たれて、大きな奇跡が、努力や断食や何年も祈り続けることなしに起こってくるでしょう。

砕かれ通す年


今年は打ち破りの年ではなく、砕かれ通す年です。主によって砕かれることを耐え忍び通した者は、天の領域に入っていくでしょう。 主の傷の豊かさを分け与えられるように信頼され、へりくだりを経験したものは、天の領域で昇格していくでしょう。

Iペテロ5:6 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

時が来ました! 信じる者が集まるところに天国のしるしがどんどん現れるようになるでしょう。天国から直接送られて来るしるしが起こるでしょう。それは金粉や、羽根、オイルだけではなく、天国からの訪問者と主の訪れが集会にあらわれるのです。また、驚くべき高度な作品とか、天国からの芸術品が、いままで地上では知ることができなかったような色彩とか、音色、あるいは現象として起こるでしょう。

時には、天が大きく開いて、主の臨在と力が集会の中にとめどなく流れ込むように感じられることが起こるでしょう。 エノクのように一人で神と共に歩くことを願うのではなく、この世代に生きる者たち総てが神と共に天の領域を歩き、その栄光を地上にもたらすことを熱望する時なのです。

誰の権威によってするのか?

マタイ21:23-27 「それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。]

Iコリント2:4-5 「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」
人が人を信用し、人に頼ろうとするとき、それは常に失望に終わります。人はお互いに他人に対して自分の罪を隠すことができるからです。 最も信頼でき、頼みの覆いとなってくださるのは神ご自身です。 我々が主の御前で何一つ隠し事をせずに歩くとき、兄弟姉妹との関係においても何も隠さず正直に歩くことができるのです。その時彼らは我々の人生に神の恵みが映し出されているのを認めるでしょう。

一匹狼になることではないのです。主のみ声を聞く羊の群れの一匹になることです。用心深さによるのではなく、信頼によって、私たちを見守ってくれている人々との関係を築くときに、彼らから間違いを直されたり、励まされたりすることが起こるのです。


トランスフォーメーションと回復の年

今年は改良(リフォーメーション)の年ではないのです。歴史を通して教会はいつも、過去の油注がれて活発であったと思われるパターンに改良しようとして来ました。 又、今年はリニューアルの年でもありません。リニューアルは、やはり、以前起こったよいこと、それは人を励まし助けたのですが、それをもう一度もたらそうとするものです。

今年はトランスフォーメーションと再生(rebirth)の年です。教会に与えられた神の(本来の)目的に帰るという動き(回復)が今進んでおり、神の民の心のうちにそれがすでに記されつつあります。多くの者は、今まで自分たちがやってきた方法ではうまくいかず、神は新しいことをされておられるということにはっきりよ気がついています。

使徒行伝3:21 「…、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、…」

イエスはご自分の教会のためにだけ帰ってこられるのですから、我々は教会を愛さねばなりませんし、決して教会の悪口をいったり中傷してはなりません。しかし、教会とは建物、ムーブメント、教派、伝統等ではなく、あるいは宗教的行事を優先させようとする人間的なやり方でもありません。(真の)教会とは、聖霊によってトランスフォームされ、聖霊の油注ぎと力を受けつつ歩み、自分の周りの暗やみの部分に主の栄光を照らし出す人々によって構成されているのです。

2006年のことばは「解放」

エレミヤ34:8-20 「ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言して後、主からエレミヤにあったみことば。 ・・それは各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。 契約に加入したすべての首長、すべての民は、それぞれ、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから彼らを去らせた。 しかし、彼らは、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した。・・ そこで、主からエレミヤに次のような主のことばがあった。 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。 七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間、あなたに仕えさせ、その後、あなたは彼を自由の身にせよと。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けなかった。 しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行ない、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した。』 それゆえ、主はこう仰せられる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに・・主の御告げ。・・剣と疫病とききんの解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国のおののきとする。 また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。 二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった。 わたしは彼らを、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。そのしかばねは空の鳥、地の獣のえじきとなる。」

教会を神のご計画にそって完成させるのが神の御心です。教会の完成は自分が誰に属しているかを理解している者たちによって達成されるのです。神は神の民を囲いの中に入れようとする者たちを召したのではなく、神の(最初からの)目的を達成するために、神の民を装備する者たちを召すのが、神の意図なのです。

主は大災害の中にではなく、救済の中におられる


2005年10月、私がアイダホー州にいるとき、主が私に現れて、近々幾つかの大災害が起こることを教えてくださり、I列王記19:11-13を示されました。
主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
この所では、風、地震、火事のあとに「静かに細い声a gentle blowing」があったと書かれています。 2005年にあったハリケーン・カテリーナのようにすさまじいものがやって来るでしょう。

――ハリケーンや竜巻
地震 ――これは、サン・ディエゴから太平洋側北西部にかけての地震であると私は思います。震度6.49の地震が先に起こり、数日後に震度8.7の地震が来ます。又、ニュー・イングランド8州にも小規模な地震がおこる可能性があります。
     
火事――隕石や、電圧の急増、又、旱魃による火事などです。シカゴがその災害地の一つになると私は思います。
そして最後に――静かな細い声 the gentle blowing

主は、昔も今も、風や地震や火に中にはおられないのです。これはクリスチャンがはっきり理解しておかねばならないことです。そうでないと我々は人を裁いてしまうからです。エレミヤ29;11には「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。主は静かな細い声の中におられるのです。これは大きく響き渡る神の宣言の声、(しかし)それは平和の響き、とも訳すことができます。主は今最終的な動きに入られました。それは(終末に生きる)神の民を通して響きわたる神の声なのです。

「…おまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」ルカ19:44

神がエリヤ(訳者注:エルサレムの意味?)をこのように取り扱われたのは、エリヤが神の訪れをのがすことがないようにでした。
神の訪れの日というのは、神がご自分の教会を通して神の栄光を解き放たれる日のことです。そのとき、我々は地上に救いの供給源となることができます。それは、我々の生きる生活の中にその救いの源なる神を持っているからです。
Iペテロ2:12 「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」

エリヤの油注ぎのマントはエリシャへ2倍になって引き継がれました。我々は今、エリシャの世代なのです。神の慈しみと力が証しされるのを聞きつつ、今、その2倍の油注ぎの中へと進んで足を一歩踏み出していき、より大きな神の御業を成し遂げる世代なのです。

様々な大災害が来た後には、信仰によって「声」が出て行くでしょう。最初に出てゆくのは、力をともなった神のめぐみと憐れみを持ち運ぶクリスチャンたちの声でしょう。被害は甚大でしょうが、救われる者も多く、又、そのような大災害がもたらす死者の中から多くの人が生き返るでしょう。
災害が起きたときに、現在聖霊の働きを尊重しているところは守られて、被災者たちのための避難所となることが、私に示されました。 聖霊の働きを尊重せず、神がいこわれるところを作るより、人々を満足させることに焦点をあてていたところは残念ながら破壊されるであろう。

イザヤ66:1 「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」

神は信仰の中にいこわれる


過去数十年にわたって我々は世界で様々な流れ、動き(ムーブメント)が起こるのを見てきました。1980年代の初期には、キリストの教会に多くの癒し手を通して癒しの業が解き放たれました。1980年代の終わりには、預言の働きが解き放たれました。1994年にはトロントで劇的なリニューアルが起こり、それは今でも発展して続いています。
トロントに続いて他に栄光のムーブメントや、リニューアルが川のムーブメントになっていきました。神が教会を導いておられる方向にむかってその一つ一つが重要な役割を果たしてきましたが、それらのムーブメントの最中からより偉大なムーブメントが起こり出て、イエスが「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18;8)といわれた叫びに対する答えとなっています。

信仰が解き放たれることが終末の時代の最も大きな地上でのムーブメントになるでしょう。イエスが求めておられるのはそれなのです。信仰は神を喜ばせます。人々は神のうちにいこうことができるから(ヘブル11)、信仰のうちに神はいこわれるのです。これはヨハネ15章にある我々が主のうちにとどまり、主が我々のうちにとどまることであり、その結果として多くの実を結ぶようになるのです。

巨人が目をさました

1982年に私は、小さな田舎の白く塗られた教会の建物の中で眠っている巨人の夢を見ました。主の手がおりてきて、巨人の肩をつかみ、彼を眠りからさましました。巨人は立ち上がり、その小さな教会の建物は粉々に砕けてしまいました。
そのとき主が私に言われました。 「教会が立ち上がるときには、もはやいかなる建物の構造(宗教的なもの、組織、教派、その他の構造)でもそれを中に収めることはできないのです。」 

我々は今、これまでだれも経験したことがないような教会活動が実際に現実のものとなる、そのような時にむかって前進しています。すばらしい主の臨在が現れ、主の光が暗やみに照り輝くでしょう。教会よ、今、立ち上がりなさい。そのためにこそ教会は生まれたのですから。(イザヤ46:3-13) (終わり)


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by walkwithgod | 2006-01-19 18:49 | アメリカからのメッセージ

ホノルルでの私たちの教会  1月18日

私たちの教会

 私たちは、一年半前にオレゴン州からハワイに移住してから、自分たちがつながるべき教会を主に求めてきましたが、今回、New Life Church Honoluluがそれであると示され、メンバーとなることになりました。メンバーになるための説明会では、この教会がどのようにして生まれ、神からどのように導かれてきたか、また、神から示されているこれからのヴィジョンは何かを、主任牧師であり日系三世のフランシス・オダ師から聞くことができました。
 
 個々の教会はそれぞれにユニークであり、それぞれに神からユニークな使命をいただいているわけですが、この教会はマーケット・プレイス・ミニストリーが使命の一つだそうです。今、世界的にマーケット・プレイス・ミニストリー(人々の日常の生活の場や仕事場でのミニストリー)の重要性が謳われていますが、この教会は10年前にすでに神からそのことを示されていました。そのときはキリスト教界では全く理解されず、カルトではないかと危険視されたこともあったそうです。

 又、神から「教会のようでない教会、a church that does not look like a church をつくりなさい」ということばを受け取って、牧師はそれはどんな教会なのかと祈りました。そして答え(それが答えなのか、答えの一部なのか分からないといわれましたが)が示されました。皆さんは、それはどんな教会だと思われますか。

 オダ牧師に示された答えというのは「教会のようでない教会とはイエス様のような教会である。」というものです。イエスは美しい式服ではなく普通の格好をしていて、自分の地位や人々からの評判は気にもかけず、罪人と交わり、空腹なものには食べさせ、病人を癒し、人々に仕えられました。当時の宗教家たちとは全く違っていました。伝統的ではなかったのです。教会が教会らしい、というのは悪いことではありません。教会らしい教会を必要としている人々も沢山います。しかし、ニュー・ライフ・チャーチは教会のようでない教会になりなさいという神からの召しを受けたのです。教会でするべきこと、つまり礼拝とか、サンディースクールとかは勿論するのですが、それに加えて、普通は教会に足を踏み入れないような人たちに対して、いろいろな方法で神の愛を示していくのです。

 この教会はホノルルのチャイナ・タウンの一角にあります。このチャイナ・タウンがこの教会のまず第一のミッションの場で、祈りの歩行も行われています。又、チャイナ・タウン全体の催しとして毎月第一金曜日の夜を「ファースト・フライディ」と呼んで、 画廊などがオープンしたりバンドが演奏したりして、沢山の人が来るそうです。今教会が計画しているのは、その時に教会もドアをオープンして、クリスチャンのアーティストのショウや、コンサートをしようというものです。この教会はもともと劇場だったので、建物的にもそのようなことをするには、ぴったりなのです。現在計画が進んでいて、三月の第一金曜日に一回目をする予定です。

 又、私たちはここにある日本語部の中でもお手伝いをさせていただくことになりました。主人は月二回メッセージを担当し、私はピアノで賛美チームに参加させていただきます。これはすべて主の御計画であるという平安があり、ハワイにこのような働きの場所を用意してくださった主に心から感謝しています。(終わり)



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by walkwithgod | 2006-01-18 08:57 | 柚実子からのハワイ便り

預言的イメージの表現  キム・クレメント  1月13日



預言的イメージの表現
                         キム・クレメント


 ヨネ4:16-18 「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』 女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 』

 その後、彼女は水がめをそこに置いて町に戻り、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:29)
 
 イエスが井戸のそばでサマリヤの女と話したとき、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われました。 イエスは彼女の人生の中の一つの小さなポイントにだけ焦点を合わせたのですが、その結果として彼女は町に走っていって、人々に「私の人生のすべてを話した人がいますから、来て会ってください。」と言ったのです。 イエスは彼女の人生のすべてを語ったのではありませんでした。一つのことだけ話したのです。しかし、それが彼女の全世界、人生のすべてだったのです。ですから、あなたにとっても、現在あなたが面している「まさにその事」が、あなたの全人生なのです。

 他の人の重荷と自分の重荷とを比較して、自分の重荷の方がずっと小さいと思うことはできません。私の重荷は私にとっては大きいものであり、敵はいつも私の人生を最後にはやっつけたいと考えています。敵は些細な事柄をいつも掘り起こしてきて私たちが前進するのを阻止しようとします。

 ヨハネ8:32に「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。真理そのものではなくて、真理を知ることがあなた方を自由にするのです。真理はあなたを自由にしません。真理を知ることが自由にするのです。ひと度あなたが真理を知るならば、真理はあなたを自由にするのです。この真理というのは、神から与えられた真理です。もし、誰かがあなたのことを悪く言っていて、それがあなたにわかった場合、その真理はあなたを自由にはしません。かえってあなたを傷つけるでしょう。神の真理は直接神から与えられます。聖書には神の言葉は真理であると書かれています。医者は医学的な観点からあなたに事実を告げ、それは多分真理かもしれません。しかし、今私がお話している真理は、神がみ言葉によって与えてくださる真理のことなのです。

 私がある人に個人的な預言の言葉を与えたとします。そのとき彼がそれは確かに神のことばだと信じ、神からの「真理の知識」を得るならば、その後どんなに敵の攻撃にあったとしても彼は「真理の知識」という武器で敵をやっつけることができるのです。ですから、彼が神から受け取った真理を事実(fact)にするか、ただの絵空事(fiction)にしてしまうかという力を彼は与えられているわけで、したがって責任は彼の肩にかかっています。

 医者はあなたを診断して得た事実を基にしてあなたに真理(真実)を告げるかもしれません。一方、神は神の真理を基にしてあなたに事実を告げられます。あなたはそれを目で見ることが出来ないかもしれませんし、明らかでないかもしれませんが、神は確かに真理に基づいた事実をあなたに語ってくださるのです。私たちは自分の人生は自分の望み通りであってほしいと思います。完全な人生を望みます。しかし、そうはなりません。問題や困難が絶えず起こってきます。 このようにあなたを襲ってくる問題から真理はあなたを開放してくれるのです。


 真理のことばを受けてからは、周りの状況がどのようになろうとも、自分は真理を知っているのだということを忘れないでください。神はあなたに一つの約束を下さいましたが、事の成り行きは預言の霊とくいちがってくることがあります。 しかし、預言の霊は真理の霊であり、又、キリストは真理の霊です。このようなくいちがいが起こるとき、もしあなたが真理を持っていたら、神の真理をあなたの真理にする力をあなたは持っているのです。たとえ物事が反対のほうに進んでいると思われるときでも、真理は真理であり続け、あなたはそれを事実にしていく力を持っているのです。


真理はいつまでも真理


 神が究極的な真理です。私たち個人の真理は現実です。それは知恵ですが、時間と空間のなかでそれを事実としていかねばなりません。私は真理の力に関してすばらしいことがわかりました。その真理をあなたが事実とするならば、真理はなんでも出来るのです。どうやって事実にするのでしょうか。あなたの信仰がそれを事実にするのです。あなたの想像がそれを事実にするのです。あなたが夢見ることはすべて真理でなければなりません。現在の状況に飲み込まれてしまってはいけません。

 神があなたに語られるとき、一つのことばだけをくださいます。
「ある人には御霊によって知恵のことば(the word of wisdom)が与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことば(the word of knowledge)が与えられ…」 (Iコリント12:8)
 
 これはあなたは、知恵の一つのことば、知識の一つのことばを与えられるということです。 どうして神は一つのことばだけをくださるのでしょうか。どうしてちゃんとした文章をくださらないのでしょうか。それは、私たちは神のかたちに造られたので、一つのことばから文章を造りだす力を持っているからなのです。もし私たちが間違った文章を書いたならば、神はそれを消して、もう一度書き直させます。そうやって最終的に神が意図された文章になるまで何度も書き直させるのです。

 神は全能の神なのだから、最初からなぜちゃんとなるようにしてくださらないのだろうか、と思われるかもしれません。それは神は私たちを神のかたちに造られたので、私たちが自分でちゃんとできる力を与えられているからです。ですから、神から「富」ということばを受けたとき、あなたは「富は私を堕落させ、悪くする」という文を作ることもできるし、または、「富は神の国を拡大する力を私に与えてくれて、福音が全世界に広まる」という文を作ることもできるのです。 もし、あなたがするべきであると分かっていることにむかっての一歩を踏み出さないでいるときに、真理はただの絵空事になってしまうのです。

 神はアダムとイブに、地を従わせて支配せよといわれました。これが真理です。しかし、彼らは支配できませんでしたから、その真理は絵空事になってしまいました。彼らはするべきではないことをしてしまったのです。神が私たちの知識や認識のうちに限定されてしまう方だと、どうして私たちは考えてしまうのでしょう。回りの状況がどんなに悪くなったとしても、もし、聖書や預言のことばや約束によって「真理」が与えられているならば、神はご自分が約束されたことば通りに事を行うことが出来るのです。 神は私たちに毎日自分に死ぬという選択肢を与えておられます。古い自分や自分の感情、又、自分をとりまく状況に死ぬ選択をすることができるのです。

 神がどのような方法で語られるかという秘密をお話しましょう。神はあなたと直接話したいのです。神が自分に語られているかどうか、どうしてわかるのでしょうか。神の声はどんななのでしょうか。どう説明したらいいのか私はわかりませんが、言えることは、神が話されるとき私には分かる、ということです。どんな声か、ということは言えません。サムエルがはじめて神の声を聞いたときは、祭司エリの声だと思ったのですから、それは聞きなれた声のようだったのです。ですから、神の声は聞きなれたような声だということができます。神が語られると、神からことばが発せられると、あなたの周りに起こっているそれとは全く反対である状況の力をも、すべて打ち砕くことができるのです。

 神はあなたと話すとき、預言者を介してしたいとは思っておられません。又、天使も使いたくはないのです。神はあなたと直接話したいのです。しかしながら、罪のためにあなたの自意識はいつも目覚めており、自分の問題や弱さを意識しています。それで、神はあなたを眠らせて、夢の中であなたに語られるのです。またあるときは幻を使われることもあります。夢や幻の中で何が起こっているのでしょうか。あなたは眠っているので、自分の問題のことは意識にありません。ですから、神はあなたとコミニケーションがとれるのです。けれどもそれが神の最高の方法ではありません。使徒行伝2章には、「すべての人が」預言をし、夢や幻を見るであろうと書かれています。

 真理は至高の現実であると考えられます。至高の現実は現在の現実から私たちを自由にします。事実とは、実際に起ることに基づく知識で、実際にそうだと信じられることを言います。フィクションとは、事実を表していない想像とか見せかけです。

 たまに私は何か悲しい夢を見て泣きながら目を覚ますことがあります。私にとってそのわずかの間だけそれは事実でした。その出来事は夢ではありましたが、そのときの私にとっては現実であり、事実のように感じられたのです。神があなたに語るときもちょうどそのようなのです。夢から覚めた瞬間はまったく現実のように感じられ、夢を見ていたということがまだはっきり分からないのです。

 IIペテロ1:16-21 「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 山上でイエスと共にいたとき、天から声がして「これはわたしの愛する子」というのを聞いた弟子たちはそれを信じました。彼らにとってこれは「事実」でした。なぜなら神が語られたからです。神が何かを語られるとき、それはすでに成就したのです。神が語られたことは真理であり、私たちはそれを信じ、それを生きることによって「事実」にしなければならないのです。

 三人の弟子は、そのときはまだ「事実」としては証明されていなかった「真理」の目撃者となったのです。イエスは十字架にかかる前だったのですが、復活の栄光の姿としてご自分を現されたのです。ルカ伝によれば、イエスのお姿が変わり、弟子たちはそれを目撃したのです。それなのになお神は、「これはわたしの愛する子…彼のいうことを聞きなさい。」といわれました。弟子たちはイエスが栄光に輝く復活の主の姿になられるのを見ました。しかし、イエスが神の子であり、「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは」イエスに聞き続けねばならないことを、神はご自分のことばで確認したのです。

 イエスがもとの姿に戻られたとき、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」(マタイ17:9)といわれたことを思い起こしてください。また、ペテロが「確かな預言のみことば、the prophetic word confirmed」 と言っていますが、どうしてそれは確かなものとされたのでしょうか。それは彼らが見、且つ、聞いたからです。信仰は聞くことに始まります。そして信仰は目にビジョン(幻)を与えます。あなたが信仰とビジョンをもつならば、みことばはすでに確かなものとなったのです。

預言のことばは確証される


 神がみことばを下さるとき、それをあなたが聞き、且つ見るときにだけ確かなものとなります。それは幻や夢、また霊のうちで見るのです。あなたがそれを与えられ受け取るとき、それはすでに事実であり、すでに真実であり、すでに成就されており、すでに確立されているのです。三人の弟子たちはイエスが十字架にかかるのを待つ必要はありませんでした。イエスが生ける神の子であると告白するのに、イエスの復活を待つ必要はありませんでした。なぜならば、神がすでにそう言われたからです。それはすでに事実でした。イエスはすでに十字架にかかったのです。
 山上にいたとき、イエスは肉体的にではありませんが、すでに十字架につけられていました。それは天ではすでに確立されていたことで、それが弟子たちに表されたのです。それでペテロは「私たちはさらに確かな預言のみことばを持っています。…暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」と言っているのです。


 神はあなたが直面している問題に対するあなたの見解を変えてくださいます。あなたの見方が変わると、すべてのことがそれと共に変わっていきます。あなたの見方が変わると、あなたも変わることができるようになります。祈りはあなたを変え、あなたは物事を変えていきます。神がみことばの中に示しておられる必要条件を忠実に守って、真理を事実へと変えていきなさい。

 もし神が、あなたは富むものになるであろうといわれたら、それが起こるのを待っていてはいけません。みことばに書かれている繁栄を持続させるための条件を行い、それを「事実」としなさい。ルカ伝には「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」と書かれています。神は約束されたことを、あなたがそれにどう対応するかに応じて与えてくださるのです。 (終わり) 


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by walkwithgod | 2006-01-13 02:36 | アメリカからのメッセージ

神への信頼   坂 柚実子   1月9日

神への信頼

私の母方の祖父は中村寅松といって第八高等学校の教師でした。残念ながら私は一度も会う機会はなかったのですが、生徒たちに慕われたよい教師だったようです。祖父には私の母を含め七人の娘と一人の息子がおりましたが、そのうちの一人の娘が療養生活をしていたところに祖父が見舞ったときに与えたという色紙があります。それには

   「 過去に泥まず(なずまず)
     未来を憂えず
     日々是好日 
    昭和十六年 正月」

と書かれていました。父親が療養中の娘に対して、「後のことも先のことも何も心配しないで、一日一日、心穏やかに暮らして病気を早くなおしなさいね。」ということを言いたかったのではないでしょうか。「日々是好日」というのは中国の仏教書である碧巌録の中にある言葉だそうで、茶道でも使われますし、日本人には大変親しまれている言葉です。その意味は、「悪いことでも、良いことでも、たとえ何が起こったとしてもそれを良しとして受けとめて今日を生きる」ということだと聞きました。

一方、フランスの16世紀のキリスト者であるガイオン夫人の本に、神にすべてを明け渡すことを説明した言葉があり、それは

「神に自分を明け渡すとは、過去を忘れ
             未来を神に委ね
             現在を神にささげることである。」というものです。

この二つはよく似ていますが、「日々是好日」は悟りの境地であり、明け渡しは神への全き信仰であると言うことが出来るのではないでしょうか。

過去、未来、現在をすべて手中に治めておられる父なる神に信頼してこの年を始めることができることは本当に感謝なことです。激動が予想される2006年、主と共に日々すごしたいものです。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-01-09 19:35 | 柚実子からのハワイ便り

今という年  ウエード・テーラー  1月7日

新しい年に
               ウェイド・テイラー


イエスは言われました。
「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。』(ルカ13:32) 
 主は又、次のように言われました。
 「主はモーセに仰せられた。『あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。』(出エジプト19:10-11)

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」(ホセア6:1-3) 

  これら三つの聖書箇所では、準備のための2日間がまず設けられていて、それは「三日目」に起こる重大なことのための備えのためであることが書かれています。

  最初のルカ13:32で、主は「わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し…」と言われました。イエスは現在父なる神と共に天に座しておられますが、今の期間に選ばれて完全にされる者たち(chosen and perfected)がキリストの身体なる教会の中にいるのです。イエスは、ご自身が「三日目」に「全うされる perfected」と言われました。この「全うされる、完全にされる」時というのは、かしらなるイエスと身体なる教会が一致し、一つとされる時という意味です。

 二つ目にあげた出エジプト19:10-11は、備えの期間の後、主がすべての人々の目の前に下りてこられるというところです。この箇所から、イエスは「三日目」に人々にあきらかに見える形で、キリストの身体なる教会のかしらとしてご自分を現され始めるということがわかります。
このように、イエスがご自分ひとりの身体を通して現された業を、教会という身体全体を通して再びされようとしているのです。

 三番目のホセア6:1-3では、「三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」と書かれています。
すべての被造物が主の臨在…即ち、私たちが主の御前に生きること…が現れるのを待ち望み、うめいています。「うめき」とは激しいとりなしを意味していて、それによって教会が変えられていくのです。今の時代、主は多くの人たちを「激しいとりなし」をするようにと召しておられます。彼らは必ずしもすべての状況を把握していないかもしれませんが、主が今介入してくださるようにと真剣に祈っているのです。

「この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。… 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」(黙示録12:2,5) 

  この聖書箇所を現在に当てはめて見ると、一日目、二日目、三日目という意味を理解する助けとなります。

一日目…今日 「召し」 選ばれる
  今のとき、私たちにはある選択をする機会が与えられています。
「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)
この主による選びは、私たちが、自分中心の生活から離れてキリスト中心の生活をするための犠牲を、どれだけ喜んで払う意志があるかどうかにかかっています。キリスト中心の生活とは、私たちが全く透明になって内なるキリストご自身が私たちを通して「三日目」にこの世に現れるような生活ということです。

二日目…明日 「準備」 調えられる
 私たちの主に従うという決意がテストされるときです。それは、主と共に御座にすわる資格が与えられ勝利者となるためです。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」     (へブル12:6)

 この「むち」により、私たちの内にある自分中心の生き方が十字架につけられ、時としてむくむくと起き上がってくる様々な「自分中心の生き方」に打ち勝つことができます。

三日目 「現れ」  主と共に効果的に働く
「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け…」(IIテサロニケ1:10a)
 私たちは2日の間、準備されてきましたから、三日目に入ることができるのです。「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」とホセア書にあるようにです。

「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」     黙示録5:10

 
 私たちは現在、「二日目」がほとんど終わろうとしている時代に生きております。主が重大な変化を起こそうとされています。主の「臨在の現れ」がどんどんと増し加わっています。私たちは更にすばらしく新しい力と油注ぎを与えられています。主は今まで教会が見たことがないような癒しと奇跡をもたらそうとしておられるのです。

  私たちは今までこの「三日目」を迎えるための準備期間にいたのですが、今はその「三日目」がいよいよ来ようとしているのです!(終わり)



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by walkwithgod | 2006-01-08 09:15 | アメリカからのメッセージ