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百聞は一見にしかず      JP ジャクソン  5月25日

百聞は一見にしかず

<                                b>ジョン・ポール・ジャクソン 

アガサ・クリスティのミステリー小説よりも、神のほうがもっとミステリーに満ちておられます。どこでもいいですから聖書を開いてみてください。すぐにそれは小学一年生用の単純な読み物ではないことが分かるでしょう。神のミステリーは深く完璧に隠されているので、時にはアインシュタインの相対性原理のほうがまだ分かりやすいと思えるほどです。 神はどうしてそのようなお方なのでしょうか。

聖書は神のご性質を、言葉でそのまま言い表すことはしないので、聖書を読むときは、その行間を読まねば神はどうようなお方なのか、本当に何がそこで起こっているのかを把握することはできません。神からのメッセージは非常に深く、私たちがそれを理解するためには、十分に時間をかけて神との親密な関係を培っていかねばならないようにされているのです。ですから神はたとえ話で話されます。又、隠喩を使ったり、夢やヴィジョンやその他色々と変わった出来事の中で、私たちに語ってくださいます。それはちょっと見ただけでは何のことが分からないことがしばしばです。

クリスチャンにとっては、神との親密な関係なしには、何事にもひとかけらの価値もありません。聖書が「主は闇を隠れ家として、回りに置かれた。(詩篇18:11)」と言っている理由の一つはここにあります。主がご自分を隠されるのは、私たちが神を探し求めて見つけるためであり、それにはずいぶん時間を要し、主と親密になることに絶えず心を集中させていなければならないからです。

私たちが小説を書くときの大きな原則の一つは、「直接的に書かないで、描写する」ということです。もしあなたの小説の主人公が神経質な男であったとしたら、「彼は神経質であった。」とは書いてはいけないのです。もしそんな風に書いたら、あなたの小説は退屈で面白くなくなります。ですから、もっと詳細に描写しなければなりません。その主人公がどういう行動をとっているのかを描写して、主人公の姿が読者の心に浮かぶようにするのです。「絵」を使うのです。 千の言葉を使うよりも一つの絵を見せたほうが効果的であり、その絵を理解するには時間がかかり、そこに隠されている意味を真に悟るには、神と親密な関係を持ち続けなければならないからです。

聖書は神を示しています。神の姿を描き出しています。聖書に描かれている神の姿を理解するには、非常に長い時間主の御前で静まって瞑想することが要求されます。神の隠喩のいくつかは比較的単純でわかりやすいかもしれませんが、それが単純であれ複雑であれ、聖書の言葉が描き出す「絵」を理解するには、聖霊の助けがなければできません。

同じように、神の創造そのものが神を描きだしています

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざをつげ知らせます。石は叫び地は主の栄華をたたえています。これらはすべて神の姿であり、神の性格と特徴を示し、神のあなたに対する御思いを表す「絵」なのです。行間を読んでください。あなたの周りの世界が今までとは違って見えてくるに違いありません。

日常の生活の中に神を見出してください。試してみてください。そして神が何をあなたに言っておられるか見てください。ぜひ今週、一つの物―それは全く何でもいいのですーをよく観察し、それを通して神が何をあなたに語っておられるのかを聞いてみてください。きっと驚かれることと思います。あなたの前に全く新しい世界が開かれ、そこであなたは神と、今までは不可能と思っていた非常に深いレベルで、交わることができます。

神は日常生活の中で語られます。神はご自分の栄光を星の中に書かれますが、それと同時に、あなたの机の上のノートにも書かれる方です。神はびっくりするようにすごい預言的邂逅の中で栄光を表わされますが、一方で、あなたの近所の人の一言の挨拶の中にも表わされます。
ですから、これからは目をしっかりと開いて、神を見つけてください。全世界は神の栄光を語り続けています。そして、神がどれほど驚くべき方であるかを真に理解するには、時間をかけて神との親密な関係を求め続けていくことが不可欠なのです。(終わり)

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by walkwithgod | 2006-05-25 12:12 | アメリカからのメッセージ

癒しの御使い


癒しの御使い
                                       ビル・ヨント 

癒しのために働く天使たちが、神の癒しが地上にもたらされるのを祝って祝杯を交わそうとしているのを私は見ました。彼らは「癒しの入っている鉢」を手にしていましたが、それがぐらぐらと今にも傾きそうになっていました。
天使たちはヨハネの手紙第三の1:2の「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」という御言葉をもって乾杯していました。

私は多くの者が、癒しを信じて信仰の戦いを勇敢に戦っているゆえに魂に幸いを得ているのを見ました! 父なる神の御心は、癒しだけではなく、全き健康を人々に与えることでした!

誰かの癒しのために祈ったけれども、その人が死んでしまったという経験をお持ちでしょうか? 私たちはみんなそういう経験がありますね。でもその人の癒しのためにあなたが祈った祈りは無駄ではく、神はその祈りを今も大切にしていてくださることをご存知ですか? 又、その人の死も無駄ではなかったのです。

あなたが愛する者のために癒しを信じて祈り、それでも癒されなかったときにあなたが流した涙は無駄ではなかったことを、私は見ました。天でその涙がある目的で瓶に集められているのを見ました。一見「聞かれなかった」と思える癒しのための祈りも、天の巨大な鉢の中に集められていました。

地上で私たちが流した涙や聞かれなかった祈りは、私たちにとってすばらしい栄光となるのです。天の鉢が縁まで一杯になり、今にも傾き、地上に今なでなかったような偉大な癒しを降り注ぐばかりになっているのを私は見ました。

癒しの賜物をいただいている多くの人たちが、敵の攻撃をうけて癒しの祈りしなくなっているのを知っています。彼らは信仰の祈りの成果を見ることができないでいるからです。「ビルさん、私は病人に手をおいて祈りなさい、という預言を受けました。それで10人のために祈りましたが、誰も癒されませんでした!」とあなたは言うかもしれません。 よく聞いてください。あなたは11人目の病人を探して、手を置き、信仰の祈りをし、神をもう一度信じなければいけません。神が癒し主であられます。私たちが癒すのではないのです。 私たちは息のあるうちは神の言葉を信じ続けるようにと、召されているものです!

私たちは疑う者ではなく信じる者であることを忘れないでください!たとえあなたが次にする癒しの祈りが答えられなくても、天にある癒しの鉢をひっくり返すその最後の祈りになりかも知れないのです。決して祈ること、信じることをやめてはいけません。あなたの祈りは決して無駄ではないからです。

「ビルさん、私は自分の癒しのために15年も神を信じてきましたが、まだ勝利がありません!」とあなたは言われるかもしれません。よく聞いてください。今祈りをやめるのは愚かなことです。あなたは癒しのためにすでに15年間の信仰を投資しているのです。最初信じたときよりもあなたは癒しにずっと近づいているのです。
ジョン・G・レイクは16人の大家族の中で育ちました。愛する家族のうち7人が伝染病で死にました。しかし、この愛する者たちの死こそが、彼の内に神の力の癒しを受けとる鍵を見つけたい、という強い願いを起こさせたのであり、その結果彼が見出したものは、今も世界中に影響を与えているのです。彼はまわりで多くの死を見たとき、神の癒しを信じることをやめてしまうこともできました。しかし、火の上にかけられるガソリンのように、愛する者の死は、世界の癒しのための鍵を探し続けるようにと彼を燃えさせたのです。

彼の伝記を読んだのですが、彼が疫病が流行っているある国にいたときのことですが、彼を除いて周りにいた人たちはみんな死んでいきました。あまりにも不思議なので、人々は彼の手を顕微鏡の下において、疫病の病原菌をその手に一滴たらしました。それがジョンの皮膚に触れるやいなや、その病原菌が彼らの目の前で死んでいったのです!私たちの周りで死が起こるときに、イエスがご自分の死をもって与えてくださった癒しを得る努力に拍車がかかりますように。なぜならば「彼のうち傷のよって、私たちはいやされた」のですから。

どうして癒されずに死ぬ人がいるのでしょうか、それは神だけがご存知です。 彼らがイエスを知っていたか、又は、小さな子供だったならば、もう今は永遠に癒されて主とともにいることは確かです。そして私たちはまた彼らと会うことができるのです。

今にも傾きそうなこの鉢の中には復活の命が入っていました。人に噛み付いた死の顎をこじ開けお葬式をキャンセルさせる鍵が、この鉢から転がり出るのが見えました。天の力強い天使が「人々は見つけた!奇跡をおこす鍵を見つけた!死の病、病気、疾患の逆境の中でもあきらめずに信仰の祈りを続けて忍耐し続けたからだ!」と叫ぶのを私は聞きました。

私は病人のために何度も祈ってきました。そして、祈っていて何も感じないときの方が、もっと頻繁に癒しが起こるのを経験してきました。癒しのための真の信仰の祈りとは、自分では祈る気持ちが起こらないときに、イエスに祈りなさいといわれるから祈る、という祈りだと私は思います。病人を癒すのは感情的な祈りではなく信仰の祈りなのです!私たちが同情で動かされ、神の臨在を強く感じながら祈るときもあります。また、感情ではなく信仰で祈るようにと主から言われるときもあります。「祈るのが難しいと感じるときこそ、一番激しく祈りなさい!When it's hard to pray, pray the hardest!」という言葉を聞いたことがあるでしょう。

あなたの手中に癒しがあることを忘れないでください。なぜならば癒し主があなたの中におられるのですから。
さあ、一緒に癒しの鉢を傾けましょう!(終わり)
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by walkwithgod | 2006-05-19 08:30 | アメリカからのメッセージ

真の神の家族       デイビッド・デミアン   5月11日


真の神の家族が召しだされるとき

ディビッド・デミアンWatchmen For The Nations (カナダ)

2005年のクリスマスに、私と妻のルース、そして私たち7人の子供のうちの6人を連れて、人生最高のファミィー・バケーションになるはずの旅行に出かけました。祝福を受けて、ハワイ、オーストラリヤ、ニュージーランドへの5週間の旅行をすることができたのです。本当に私たちはわくわくしていました。2005年は私は多忙をきわめ、家族を家に残してひとりで旅行をすることも多かったのです。このバケーション中はもう仕事のことをすっかり忘れて、家族でゆっくりとリラックスして楽しめる、と期待しました。
ところが、次に起こったことは全く私たちが予期しなかったことでした。ハワイで滞在する家に到着してから48時間後に、その家に泥棒がはいったのです。全員のパスポート、飛行機の切符、現金、コンピューター、DVDプレイヤー等が盗まれてしまいました。まったく悪夢のようでした。
又、ハワイはアメリカ中でカナダの領事館がない唯一の州だとわかり、私たちはロス・アンジェルスの領事館にパスポートの再発行をしてもらう申請をしなければなりませんでしたが、ハワイからオーストラリヤに発つ日まで数日しかなく、本当にはらはらしました。私の人生の中でこれほどすべてが上手くいかなったことはありません。

パスポート用の写真をハワイで撮って申請書と一緒に送りましたが、サイズが間違っていました。それはアメリカのパスポート用のサイズで、カナダのサイズではなかったからなのです。次は、それには公証人の認証も必要なこともわかりました。ビーチで楽しく遊びまわる代わりに、私は6人のブーブー文句をいう子供たちを車にのせて、コスコにパスポート用の写真を撮りに2日間に3回も行かねばなりませでした。その他に私は領事館に行ったり、空港に行ってチケットを再発行してもらったり(何百ドルもかかりました)しなければなりませんでした。ローラーコースターのような期待と失望の3日間をすごし、やっと新しいパスポートを手に入れることができました。それは、シドニー行きの飛行機に乗らねばならないほんの数時間前だったのです。

でも問題はそれで終わりませんでした。ホノルル滞在の最後の夜、当時10ヶ月だったジョエルの身体の具合が非常に悪くなったのです。彼は嘔吐と下痢がひどく、私とルースは一時間に6回もオムツを替えねばならないほどでした。この症状は12時間のシドニーへの飛行中も、その後も数日間続きました。どうしても下痢を止めることができず、彼はぐったりと生気を失っていくので、とうとう救急病院に連れて行かねばなりませんでした。

私たちの夢のバケーションは悪夢に変わってしまいました!私たちを苦しめたのは周りの状況ばかりではありませんでした。泥棒に入られたとき、私はすぐに主を求めましたが、主が先ず言われた言葉は、「ディビッド、私が慈しみ深い神であることを疑ってはいけない。私の教会は今、新しい権威を持つ次の段階に入ろうとしている。あなたはこの困難を家族みんなでがんばりぬかねばならない。そうでないと、将来起こることを切り抜けてはいけないだろう。」でした。又、主はルースに、子供たちも一人ひとりが自分で親と共にヴィジョンを持つことを主は望まれていること、彼らはもう親の恵みに安直にぶら下がっていることはできない、とはっきりと告げられました。

主のみ言葉通り、それから私たち家族は、強烈に自分たちの心の奥をさらけ出し見せ合うことになったのです。お互いの関係、リレーションシップにおいて、今までは覆われていたもの、隠されていたものがすべてあらわにされました。子供たちは絶えず喧嘩をし、そこから逃げ出すことも不可能でした。なぜならば、私たちは一緒に車に乗り、一緒に飛行機に乗り、一緒にモテルの一室で泊まり、一緒に食事をし、一緒に遊んだからです。もう限界だ、もう無理だ、              と感じたときもありました。しかし、私たちが弱り果てた時にも、主は絶対に最後までやりとおされる決意だということが私には分かりました。
私たちが今から入ろうとしている新しいシーズンは、今まで経験しなかったような激しい戦いの試練のときであり、それに勝利するためには、家族としても新しい関係、リレーションシップを築いておかねばならないことを、主は私に示してくださっていると感じました。

数週間にわたって私は自分の本当の姿をさらけ出し、砕かれました。すると、ある朝突然主が「終わったよ。」と言われたのです。これは、自分が暴露されるシーズンの終了を告げるものではなく、この旅行時における苦難の期間がたまたま終わり、主の恵みによってテストに合格したことを主は言われたのです。 
その日、家族は心の底から話あうパワフルな時をもつことができました。子供たちもルースも私も心を開き、正直に自分の痛みやフラストレーションを話すことができたのです。幼い子どもたちさえ、自分の気持ちを隠さずに率直にはっきり話すので、私は驚嘆し、神が私の家族に何か素晴らしいことをしてくださっていることがわかりました。まずみんなが砕かれ、そこに癒しが起こりはじめ、これからは一緒に何でも話し合い、愛と尊敬をもって歩きはじめよう、という新たな家族のコミットメントが生まれました。

家族がカギ

カナダに戻ってすぐに、ハワイのある人からEメールが届き、私が盗まれたラップ・トップ・コンピューターとPDAを見つけたといってきました。「電子製品はすぐに質屋に持っていかれるので出てくることは先ずない。」とハワイの警察で言われたので、私はびっくりしました。彼はコンピューターに強い人で、ある男からラップトップのふたが開かないから助けてほしいといわれたそうです。彼が開けてみると、最初のデスクトップのページに出てきたのが去年のクリスマス・カードに使った家族の写真だったのです。彼の心の中で何かが「これは善良な男の善良な家族のものだ。これは持ち主に返さねばならない。」とささやきました。彼はコンピューターをしらべて、私のミニストリーであるWatchmen For the Nationsを見つけてメールをしてくれたのです。

これが起こったとき、主が「これはこれまで長い間わたしが教会に教えようとしていたことを象徴する預言的な絵である」と私に語られました。このハワイの人は家族の写真を見たときに心が変えられました。7月のOne Heart カンファレンス以来、私の心には主からの重荷が与えられていたのですが、この世がキリストを信じるためには、「キリストのからだ」である教会が真の家族となり、お互いに真の愛で愛し合わねばならないのです。ヴィジョンだけでは十分ではありません。主が今何よりも教会に求めておられるのは、愛であり、家族として一致した真実な関係なのです。

揺り動かされるシーズン

私の家族が経験したことは、今年キリストのからだなる教会に起きている「揺さぶられ、ふるいにかけられるシーズン」の前触れだったと思います。最近祈りの中で主が私に言われました。「ディビッド、カナダの教会は新しい権威のレベルへと今まさに入ろうとしている。教会が一致するので主権や力と戦うことができるようになる。だから敵も危険を察知して、教会の中に何か責めるべきことはないかと、教会をふるいにかけ始めるであろう。(ヨハネ14:30)今年の終わりまでには、サタンからの揺さぶりにより、あなたの知っているいくつかのミニストリーは消えていくだろう。」

今主が特に焦点を当てておられるのは、私たちの人間関係(リレーションシップ)だと思います。主は今、私たち「家族」それは、肉の家族、教会、ミニストリーの家族という人間関係を大きく揺さぶられております。それは主が私たちキリストのからだなる家族を真のキリストの花嫁にしたいと思っておられるからです。
主はご自分の言葉を嫉妬深く(忠実に)守られる方です。One Heart カンファレンスで、キリストのからだを代表するカナダのあらゆる人種、民族、教派から集められた3千人が、次のように宣言しました。「私たちは厳かに誓います。私たちは主イエス・キリストのものです。私たちは自分の十字架を負ってあなたに従うことを決意いたします。主よ、あなたと父が一つのように、私たちも一つとなるというあなたの約束を実現する時がきました。

マラキ3:16にあります。『主を恐れる者たちが、互いに語りあった。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。』」
私たちが契約を結び主に記憶の書をさし出したとき、主は耳を傾けてくださり、その契約を聞いてくださると信じます。

石の上に落ちよう

私たちが今どのようなシーズンに入れられているかをよく理解して、主を恐れ、私たち自身のすべてを主に差し出し、「私たちの心の内を探り、取り除くべきものをとりのけ、いやし、私の生活や人との関係のすべての領域において主に喜ばれるものとなるように調えてください。」と主に願おうではありませんか。

後になって粉みじんにされないように、私たちの礎の石の上に今喜んで落ちようではありませんか。(ルカ20:18) 私たち教会を、主が待ち望んでおられる真の家族としていだたき、私たちが愛し合うのをこの世が見て、人々がイエスは父なる神からつかわされた方であることを信じられるようにしてください。(終わり)

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by walkwithgod | 2006-05-11 05:52 | アメリカからのメッセージ

神とあなたの未来 個人預言について  デニス・クレーマー 5月4日

神とあなたの未来
           デニス・クレーマー

個人預言とは、個人に対する可能性、起こりそうなことーそれを私は御国のオプション(選択肢)と呼んでいますがーを語るものである、ということを聖書は明確に教えています。 それは必ずしも保証されたことや確実に起こること、又、必然的なことをあらわすものではありません。預言は、それが実際に成就するかどうかに関係なく、神の最良のもの、神の理想、神の究極の目的、神があなたに対してもっている完全な目標を表しています。別の言い方をすれば、個人預言は神の条件つきの御心を示しているもので、必ずしも神が今すぐに何かをされるという言葉ではないということです。

例えば、神はイスラエルの子たちに預言され、皆が約束の地を所有するといわれましたが、主はそのとき2百万の民の中でただ二人だけしか約束の地に入れないことをご存知でした。 それにもかかわらず、主は預言され、主の意向を表されました。又神は、サウロが王になると預言されましたが、彼の治世は恥辱のうちに本来の時を待たずに終わってしまうこともご存知でした。それにもかかわらず、主は預言され、主の意向を表されたのです。神はへゼキヤは死ぬと預言されましたが、彼が生き続けるということもご存知でした。それにもかかわらず主は初めの意向を示され、それからヘゼキヤに憐みをかけられ、15年の猶予をあたえられました。神はニネベを滅ぼすと預言されましたが、ご自分は滅ぼさないこともご存知でした。それにもかかわらず、神は語られ、神の最初の完全なる意向を預言されたのです。神は、祭司職はエリの家を離れないと預言されました。主は主の意向をあらわされたのです。しかし、神はエリの子孫が早くも次ぎの世代にこの約束を失ってしまうことをご存知でした。しかし神は語られ、主の完全な預言的意向を表明されたのです。

もし、個人預言が必然的に起きることだけを表しているとしたら、イスラエルの子たちはみな彼らの不信仰にもかかわらず約束の地を所有していたことでしょし、サウロ王は彼の不従順な行為にもかかわらず、王として君臨しつづけたでしょう。ヘゼキヤは死んでいたでしょうし、ニネベは即刻滅んでいたことでしょう。祭司職はエリの邪悪な家にいつまでもとどまったでしょう。 しかし、これらの預言はみな成就しなかったのです!なぜでしょうか。

神は完全な予知能力があるにもかかわらず、個人預言をその予知で制限されることはないのです!主は、結末は預言の通りにならなかったり、あるいは預言とは程遠かったりするのをご存知であるときでさえ、ご自分の計画と目標を預言をもって明らかに示されるのです。すべての個人預言は大きな条件つきであり、それが完全に成就されるためには、その預言の中心的人物たちと周りの状況が相伴ってうまく預言の成就に協力して働かなければなりません。


預言は制限つきの賜物であり、その適用にも制限があるとうのが本当のところです。神は預言者に語られるときはこれを知れ」ということだけを話されます。主は隠された預言の目的をいつも明らかにされるとは限りません。 聖書には、「事を隠すのは神の誉れ(箴言25:2)」とか、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。(申命記29:29)」とありますし、エリシャは「主はそれを私に隠され、(II列王記4:27)」といい、パウロは「預言することも一部分だからです(Iコリント13:9)」といっています。 神は神の預言者たちから物事を秘密にされます。 預言者たちに表されない神の秘密があるのです。神は隠されます。神は預言者たちに「一部分」だけを見たり話したりすることを制限つきで許されます。 その意味で、預言というものはそれにかかわるすべてのものにとって、リスクを伴うものであるといえます。 預言を発信する神にとっても、又、神の代理人としてそれを語る預言者にとってもリスクがあるのです。

それでは、クリスチャンが受ける真実な預言のすべてが、この地上で完全に成就されるのを私たちが経験できることはあるのでしょうか。多分それはないでしょう。そうだからといってそれは誰かの責任でしょうか。誰かの落ち度でしょうか。必ずしもそうではありません。それは預言者の落ち度でもなく、神の落ち度でもありません。これは個人預言がもつ本質なのです。

神の言葉は言っています、「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、(彼らは信仰があり神に認められてもいたということに注意してください!)約束されたものを手にいれませんでした。(ヘブル11:39 新共同訳)」ですから皆さん、一日一日を信仰で生きましょう。そうすれば、神から受け入れられるのです。 アーメン!(終わり)



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by walkwithgod | 2006-05-04 15:30 | アメリカからのメッセージ

写真によるハワイ便り(2)

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前に続いて写真を二枚お送りします。この海岸の写真はオアフ島のノースショアで撮ったものですが、ウィンドーサーフィン(?)をしている人たちが見えるでしょうか。それと虹の写真は私たちの家から南の方を見て撮ったものです。私たちの家はパールハーバーから南東に上った山沿いにあるものですからよく雨がぱらつき美しい虹がよく出ます。

 ところで、今ウエブサイトに写真を載せる練習をしている最中なものですから何度も写真を掲載してごめんなさい。ご感想をお聞かせください。坂 達也

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by walkwithgod | 2006-05-02 15:52 | 柚実子からのハワイ便り

神様による出会い         坂 柚実子    5月2日

神様による出会い 

先週の水曜日に私が祈祷会から帰ってくると、主人が「素晴らしいことが起こったよ!」と輝くような笑顔で言うのです。私も「何がおこったの?!」と期待をふくらましました。何が起こったのかは下のオダ牧師夫人のキャロラインのEメールを読んでください。オダ牧師夫妻はエド・シルボソ師のトランスフォーメーション・カンファレンスにスピーカーの一人として参加するために、先週の月曜日まで一週間ニューヨークに行っていました。ハワイに帰るとすぐに私たちに知らせてくださったのです。

「親愛なる達也さん、柚実子さん

主はなんと素晴らしい方でしょうか! 私たちはブルックリンのホテルに火曜日に到着し、気持ちのよい春の午後、ホテルの近くのモンターギュ通りを散歩していました。手づくりのベゴ屋さんを見つけたので、次の日の朝食はそこに来ようと二人で話しました。
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水曜日の朝、そのベゴ屋に行き、外のテーブルに座っていますと、一人の若者が近づいてきて、「ハワイからいらっしゃいましたか?」と聞くのです。何か私たちの物腰とか着ているものでわかったのかしらと、私たちはびっくりしました。すると彼はあなた方の息子であると自己紹介してくれたのです。(訳者注:息子は去年のクリスマス休暇にハワイに来たので、教会でオダ牧師夫妻を見ていました。)彼もベゴの朝食をしにきたのです。私たちは少しお話をし、訪ねたいと思っていたブルックリン・タバナクル教会のことを彼にたずねました。彼は次の日曜日に一緒に連れて行ってくれると約束してくれました。(訳者注:息子はそこに数回行ったことがあったのです。)

日曜日の朝、彼はホテルに迎えにきてくれて、教会まで案内してくれました。素晴らしい礼拝でした!それから彼が近くの小さなポーランド人のレストランに連れて行ってくれて、一緒に食事をしました。私たちはシルボソ師のカンファレンスで多くの恵みを受けたあとでもあり、また、ブルックリン・タバナクル教会の礼拝で心が満たされていたので、興奮していて沢山のことを彼にお話しました。マーケットプレイス・ミニスター(自分が働いている場で人々に神様の愛をもって仕えていく人)の役割についても話しました。彼も自分の生活や仕事、そしてもうじきニューヨークのダウンタウンに引っ越す計画があることなどを話してくれました。

彼は素晴らしい若者ですね。きっと誇りに思っておられることでしょう。
私はいまだに神様が計画された一分たりともたがわない奇しき出会いに驚嘆しています。
愛もって キャロライン」


この出会いは、本当に神様からのプレゼントでした。 親としてこんなに嬉しいことはありません。神様が息子のことを愛し、見守っていてくださることの証です。子供のためには毎日夫婦で祈っていますが、この出会いはその祈りの答えの一つと信じます。

息子といえば、先日今回の日本旅行で使うためのレール・パスを買いに、ある旅行社に主人と出かけました。 私たちの係りの女性とは主人はすでに電話で話してあったのですが、主人いわく「すごく優しい人なんだよ。」ということでした。実際会ってみると、とても細やかで親切でした。最後には「どうぞ、よいご旅行をなさってください。」と言ってくれました。 主人と私は「息子の嫁にしたいような人だねぇ。」と笑いながら話をしました。何か映画の中で聞いたことがあるようなセリフですよね。

確かに親として「息子の嫁」の一番の条件は、何をさておき「優しい人」と考える人が多いのではないでしょうか。私は天のお父様が一人息子のイエス様の嫁になるはずの私たち教会のことを、そんな風に思っているかな、と考え、もっと私も優しくならなければ、と思ったことでした。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-05-02 08:49 | 柚実子からのハワイ便り