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二種類の主の臨在      ウェイド・テーラー   6月29日

二種類の主の臨在 

ウェイド・テイラー 
(階段の秘密-雅歌による霊的成長の手引き から抜粋)

主の臨在には二種類あることを知らねばなりません。

第一のものは、救われた者すべての内に来てくださる「内住の臨在 abiding presence」です。イエスを救い主として受け入れさえすれば、聖霊は必ず与えられます。すべて救われた者にとって、聖霊の内住は現実のものであり、私たちはそれを確信することができます。聖霊は誠実であられ、私たちの救いを保ち、イエスというお方を私たちに活き活きと示してくださいます。

第二のものは、主が知性、意志、感情を持ったパーソン(人格)として来られる臨在です。主は私たちの霊の小部屋にはいることを切望され、そこで私たちと語りあいたいと願われるのです。そして、そこから更に私たちを主の部屋につれて行ってくださり、 主の御計画を打ち明けてくださいます。このような主の訪れは「顕現的な臨在 manifest presence」 と呼ばれ、これを受けるには条件があります。主が私たちの霊の扉をたたかれるときに、それを識別する力と正しく応答する力とは、私たちが自分の「霊的感度」や「霊的姿勢」をどれだけ訓練し発達させているかにかかっています。ですから、私たちはいつでも自分の霊が主にしっかりと向いているようにし、主が私たちと交わりを持ちたいと願ってこられるときには、それをすぐ察知できるようにしていなければなりません。

イエスはヨハネ福音書で、ご自分を現されるときに必要な私たちの条件を明らかにされています。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 ヨハネ14:21

私たちの主を愛する気持ちが大きくなるにつれて、主が訪れてご自身を現わして下さるのを期待しながら待つようになっている自分に気がつくでしょう。私たちは主が来られたとき、自分の霊の戸をどうやってあければいいかを学ぶ必要があります。

新生したとき私たちは霊に生まれ、「新しく造られた者」となります。肉体の感覚が成長とともに徐々に発達するように、私たちの新しく造られた霊的感覚もどんどんと発達していかねばなりません。この内なる霊的感覚によって私たちは主の現われを察知するのです。

黙示録3:20a
「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく…」

主との友情を心から願う人たちは、すばやく私たちの霊の戸をたたく主に応答して、自分の霊の小部屋へと主を招き入れます。この部屋は私の内なる人の中にあり、主と交わりをする場所です。それは私が主とふたりきりになるための特別の私の部屋であり、又、主が私とふたりきりになるための主の部屋なのです。というのは、私が一緒に食事をしてください、と主を私の部屋に招きいれると、主はそこから私を主の部屋への階段を教え、導いてくださり、そこで私は主とともに食事をするのです。そこで私は主のいのちに与り、主と一つになるのです。

雅歌5:2-3では、花婿が花嫁の都合の悪いときに訪れようとしましたが、花嫁はそれに答えませんでした。花嫁が「部屋の戸」を開けるのを躊躇したので、花婿は落胆してそこを去ります。しかしながら、彼は花嫁に「賜物と祝福」 を残していきましたが、それが「主ご自身の現われ」のすばらしさに比べれば、全く価値のないものであることを、彼女がはっきりとわかるようにしたのです。イエスは私たちが主を「祝福を与えてくださる方」としてのみ知るのではなく、「一人のお方」として主ご自身を知ることを熱望しておられるのです。

雅歌の時代には、家の戸の取っ手は内側にありました。ですから、戸を開けるためには、小さな穴に手を差し入れて中の取っ手をはずさねばなりませんでした。主は花嫁に会いたいと熱望されて、戸の穴に手を入れて取っ手をはずそうとしましたが、開けることはしませんでした。私たちの心の小部屋の戸は、私たちがコントロールしていて、私たちにしかあけられないのです。主がこのよう手を差し伸べられたことは、花嫁の心をかき乱しました。

箴言5:4
「私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心はあの方のために立ち騒ぎました。」

主は決して私たちのプライバシーを侵害することはありません。私たちが戸をあけなければならないのです。主があけることは決してありません。この原則は聖書の中にはっきりと書かれています。主は外に立ち、戸をたたいて私たちが戸をあけるのを待っておられるのです。もし、戸をあけなければ、主は去っていかれます。

黙示録3:20b
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって…」

花婿の手が取っ手のほうに伸ばされるのを見て、花嫁は彼の思いを知り、やっとそれに応答して戸をあけます。

雅歌5:5-6
「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。私が愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。」

彼女が戸をあけたとき、主はもうそこにはいなかったのです。彼女の応答が遅れたために、主は彼女の部屋の戸口からご自分の「顕現の臨在」をやむなく取り去られました。しかし、主がそこにおられた結果として、取っ手に油が注がれていました。彼女が取っ手に触ると油注ぎが彼女の手にあふれました。それは主が去られるときに、彼女に手一杯の祝福を置いていったからです。以前でしたら、彼女は主がおられなくてもこの祝福だけで十分満足していたのですが、いまは彼女はうろたえ、花婿なる主ご自身の臨在を熱望するようになったのです。

花婿が訪れたときに花嫁がすぐに応答しなかったという失敗の経験は、彼女にとって大切な成長のステップとなりました。彼女はすぐに応答してさえいれば、彼の奥の部屋にのぼっていくことができたという「秘密」を学んだのです。主の「顕現的な臨在」に応答するチャンスを彼女は今回逃がしてしまいました。しかし、その苦い経験を通して、主が自分の部屋をノックされるときは、すぐにそれが聞こえるように、自分が早急に内なる霊的感度を養わなければならないことを学んだのです。また、自分がその時何をしていても、主が近づかれたときはそれを置いて、すぐに主に応答する大切さも学びました。

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に(注:KJVではearlyとなっており、遅れないですぐにという意味がある)捜すものは、わたしを見つける。」箴言8:17

花婿は自分が否まれることに対して非常に敏感なので、自分を現わすのをためらう方だということを、花嫁はすでに鮮明に描き出しています。彼女は「私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。」(雅歌2:9)といっています。

主の現れはデリケートであり、そこなわれやすいものであることを、花嫁はすでに知っていたのです。ですから、主のノックにすぐに応答しなければ主は立ち去ってしまうこともわかるべきでした。

私たちはこの花嫁の失敗から学び、私たちも主を落胆させることのないようにしなければなりません。主の臨在をすぐに察知できるような霊的感受性をもっと養うようにいつも努めなければなりません。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-29 15:45 | 主と個人的に深い交わりを持つ

主との交わり       坂 柚実子         6月29日

主との交わり

私たち夫婦は、ほとんど毎日一緒にいます。主人が家で仕事をするようになった数年まえから、かなりそういう感じではありましたが、ハワイに来てから特にそうなりました。そして、日本伝道旅行のときなどは全く24/7の状態となります。飛行機の中、電車の中、車の中、レストランの中、教会の中、祈りの歩行中、ホテルの中等々すべて一緒です。ホテルの部屋に二人でいて、それぞれが静かな時間を持ちたいときなど、お互いが邪魔なような感じをもったことも以前はありますが、今はそれにもすっかり慣れてしましました。電車の中で空いている席が並んでないときは、やむなく離れて座りますが、どちらかの席の横があくと、もう一人がそちらに移動して一緒になります。(別に一緒にいて何をするわけでもなく、4時間くらいの道中の間、一言も話さなかったこともあります。全く日本的な夫婦ですね。)

主人とはこのようにいつも一緒にいるのですが、では、私はイエス様をどのくらい身近に感じているかなと、考えます。まだ結婚する前に聞いた一つの話を、私はなぜかいつも思いだすのです。それは一人で住んでいるクリスチャンのおばあさんの話です。近所の人が「おばあさん、一人暮らしで寂しいでしょうね。」というと、おばあさんは「いえいえ、私はいつもイエス様と一緒だから、寂しいことなんかありませんよ。」と答えたという、それだけの話です。これを聞いたときは、理解できなかったし、信じられませんでした。つまり、私はクリスチャンではありましたが、イエス様の存在をそんな身近に感じることができるという信仰を持っていなかたし、知りもしなかったからです。

その話を聞いてから40年以上経った今、主の臨在に関して少しずつ理解を与えられていることは感謝なことです。この数日、ウェイド・テイラー師の「The Secret of the Stairs」 という本を読んでいました。サブ・タイトルは「雅歌による霊的成長への手引き」というものです。テイラー師はアメリカで主との親しい交わりを自ら体験し、それを教えることのできる第一人者だと思いますが、この本の中で主の臨在についての説明を書いておられます。

彼は主の臨在には二種類あることをはっきり理解しなくてはならないといいます。一つは、イエスを救い主と信じた者すべてに与えられる内住の聖霊の臨在(abiding presence)であり、もう一つは主が現れてくださる顕現的な臨在(manifest presence)であるということです。 そして、ヨハネ福音書の14章21節後半の「…わたし自身を彼に現します。」(新改訳)、「之に己を顕すべし」(文語訳),「and (I)will manifest myself to him.」(KJV)」はこの特別な主の現れを指しているとのことです。(今週の「主と個人的に深い交わりを持つためのメッセージ」欄に紹介してありますので、ぜひお読みください。)

主の臨在を歌った賛美は沢山あります。それらは、きっと素晴らしい主の臨在を体験した人の霊から生まれた歌なのだと思います。私たちもそんな賛美を歌うときに、賛美の中に住まわれる主の臨在に触れられることがあります。私たちはそれを喜びますが、それだけではなく、もっともっと主を心から求める「主のmanifest presenceを待ち望む者」になりたいと思わせられた本でした。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-29 15:33 | 柚実子からのハワイ便り

熟年離婚           坂 柚実子      6月22日

熟年離婚

日本でよく聞く話の一つに熟年離婚があります。夫が定年になって退職金をもらうのを待って、妻が「永らくお世話になりました。これにて失礼させていただきます。」と離婚を申し入れるのだそうです。そして悲しいことに、ほとんどの夫には寝耳に水で、そういわれても何故そんなことになったのか、全く分からないそうです。

長年、仕事ばかりしてほとんど家族との時間を持たなかった夫に妻は愛情を感じないようになっていて、自分の趣味とかを見つけてそれなりに充実して生活する術を身につけています。定年になってずっと家にいる夫との生活など考えられない、ということが多いらしいです。夫としては、やっと仕事から解放されて、家でゆっくり好きなことをして暮らそうと思っているわけですから、本当にショックは大きいでしょう。妻子のために犠牲的に働いてきた、必要なものは与えてきた、確かに一緒に過ごした時間は少なかったかも知れないけれど、それもすべて家族のためにしてきたことだ、、、と本心思っていますから、無理もありません。

このことを考えていたら、マタイ7章21-23節の話を思いだしました。「あなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。」という大ぜいの者にむかって、イエスは、その日には、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。」といわれるという箇所です。

夫が「私はあなたのために長年一生懸命働いてきたではありませんか。給料を運んできたではありませんか。すべてあなたのためだったのですよ。」というと、妻が「私はあなたを他人のように感じます。(あなたを全然知らない)あなたは私の気持ちを少しも理解しようとはしてくれませんでした。もう離婚してください。」と応えるのと、似てませんか?

イエスの言葉は非常に厳しくて、主人がこのところから説教するたびに、私はとても複雑な気持ちになりました。「彼らなりに一生懸命イエス様のために働いたんでしょう?イエス様もそこまで言わなくてもいいんじゃない?」という風に。

でもやっぱり、イエス様は「御心を知り、御心を行う者」だけを求めておられるのですね。それが「イエスの身体」としてのつとめであり、主を愛することであり、それ以外の「活動」は何の益にもならないどころか、神の怒りを買うことであることを、私たちは肝に銘じるべきでしょう。妻が夫に望むように、イエス様も私たちが一緒に時をすごしてお互いに心を通わせることを、何よりも一番望んでおられるのですね。

私は離婚を求める妻が正しいとは勿論思いませんが、ともあれ、夫の皆様、イエス様の御心とともに、妻の気持ちもしっかり理解するようにしようではありませんか。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-22 05:16 | 柚実子からのハワイ便り

語られる神       チャック・ピヤース      6月22日

神が語られるとき

          チャック・ピアス著 
               「When God Speaks」の第一章 からの抜粋

神は声を持っておられ、実際に人に語りかけられる、ということを初めて知ったのは、私が8才のときでした。私のおばあさんは大変信仰深い人でしたが、テキサス州にあった私たちの家からすぐ近くの小さなバプテスト教会へ私をいつも連れていってくれました。教会にはグリムス夫人という人がいて、彼女は非常に変わったことをいつもするのでした。説教の最中に立ち上がって手を振り出すのです。バプテスト教会ですから、これは本当に変わった行動だったにもかかわらず、牧師は話すのをやめて、「グリムス夫人、何でしょうか?」と聞くのでした。するとグリムス夫人は「主が私に語られました!」といい、牧師は「主が語られていることを教えてください。」と頼むのでした。彼女は主の御霊が語られていることを会衆に告げ、それが教会にとってどのような意味があるのかを話すのでした。

神が実際に人々に語りかけることができることを知った私は、本当にそのことに魅了されました。牧師が神について話すと、退屈で無味乾燥な感じがしましたが、グリムス夫人が語ると、いのちと躍動に満ち溢れているようでした。
私はおばあさんを見上げて、「神様があの婦人に語ってくださるなら、僕にも話してほしいなぁ。」というと、おばあさんは、「神様に何か言って欲しかったら、先ず、静かにじっと座っていなくちゃだめよ。」 というのでした。私は普通の8才の男の子でしたから、教会でじっと座っているのは苦手だったのです。

私が救われた日

その時から、神は声を持っておられる方だということを疑う気持ちは私の心から消え去りました。グリムス夫人を通して聞きましたし、日曜学校で聞く聖書の話の中でも神が語られることを知りました。でも神が直接私に語られることはそれからもずっと無かったのですが、ついに、私が11才のときにそれが起こったのです。
ある日曜日に礼拝の中で、主の御霊が私に臨まれて、はっきりと「今日はあなたの日です。」と語られたのです。そして、あたかも主の御霊に導かれるようにして私は祭壇の前まで行き、11才の子供として出来る限りのやり方で、主に私の人生を明け渡しました。

後になって聖書を調べて明確にわかったのですが、神は私たち一人一人に救いの日を定めておられます。(IIコリント6:2参照)
私たちはみな、自分の救いの日に神の声が私たちの霊に語られるのを聞いて救われるのです。それまで私たちの霊は罪の中で死んでいましたが、私たちが神の語りかけに応答し、自分の暗い霊の中に真理を照らしだしてくださるようにお願いするときに、それが私たちの救いの日になるのです。
事実、神の声が私たちに働きかけることなしに救われる人は一人もいません。耳に聞こえるような声を聞かなかったかもしれませんが、救いの真理を明らかに示すことができるのは神だけです。 ですから、イエスを主とし、救い主として受け入れた経験のある人は、そのときにはそれとわからなくても必ず神の声を聞いたのです! 又、神の言葉を、読む人に生きたものとするのも神の声です。ですから、聖書の言葉から私たちが真理を汲み取るときはいつも神の声を聞いているのです。

「わたしは回復させる」

私は11才で救われましたが、私の子供時代は問題だらけで暴力やトラウマの多い環境で過ごしました。私の家庭は多くのものを失い、苦悩に満ちていました。父がサタンからの攻撃に負けてしまったのが原因で、私がティーン・エイジャーになる頃には、家族のほとんどはばらばらになっていました。父が悲劇的な最期を遂げたのは、私が16才の時でした。18才になったころには、働きながら大学に行っていたことや夜遊びなどで、私は身体をすっかり悪くしてしまいました。

ついに私は疲労と肺炎で入院しなければならなくなりました。その入院中に主が耳に聞こえる声ではっきりと、「わたしはあなたがこれまでに失ったものをすべて回復する。」と言われたのです。その言葉と共に、主は私の身体のすべての部分に浸透してこられました。そうではないかと思っていたのですが、そのとき私ははっきりと、主が私の過去の傷をいやされるばかりではなく、私の将来をも回復してくださることを知ったのです。 

それまで私は「回復」という概念を聖書の中に見つけることはできなかったのですが、もっと深く読むうちに、神の声には回復させる力があることを学びました。(ヨエル2:25参照)
神の声を聞いた瞬間から、私の人生は変わりました。神は奇跡的な方法で私を癒され、解放し、回復させてくださいました。
神の声は私たちを過去の廃墟から助け出し、私たちのために主が定められた人生のコースに立たせてくださるのです。そのことを私はずっと昔、あの入院中に知ったのです。

あなたの証には力がある

みなさん今、この本を読むのを中断して、あなたの人生の中でどのように神の声を聞いてきたかを考えてみてはいかがでしょうか。どのようにしてあなたは救われたか、どのように神はあなたの人生や状況に超自然的に介入してくださったか等を考えてみてください。その証を書いてみるといいかもしれません。あなたの証の言葉には偉大な力があるからです。他の何よりも信仰を立てあげてくれます。

私たちの証は人間の霊の重要なはたらきの一つです。契約の箱のことを考えてみてください。いくつかの物がそこに入れられていましたが、その一つは神がモーセに与えたテスタメント(二枚の証しの石の板)でした。御言葉を通して神と交わるとき、私たちは心の奥深くに神の命令や規則を蓄え、そこで神との契約を結びます。これらの命令や規則に私たちが従い、神の真実・誠実を経験すると、私たちは敵と戦うときに偉大な力を発揮する証という武器を沢山持つようになります。
私たちがしっかりした証を持つと、敵がうそで惑わそうとするときにも、「神が私にこう語られた。今までにも神の御手が働くのを見てきた。今も神は同じようにしてくださること私は知っている。神には不可能なことはないからだ!」といって敵を論破することができるのです。

黙示録12:10には次のように書かれています。

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威があらわれた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」  
             

神の声と私たちの証とが共にはたらくとき、敵はそれに耐えることができないのです。……


人生の中で神の声を聞く

父、子、御霊なる三位一体の神はそれぞれが私たちに「語ってくださり」、力強く働かれます。神の声は大いなる権威をもって命令を下し、それは無から有を創造する力を今も持っています。神の声は私たちの人生に起こってくるすべてのことに対してもそれと同じ力を発揮します。私たちの人生が混沌としているとき、それは天地が創造されたときの状態と同じなのですが、神の声がその混沌に向かって発せられると、それは闇と光をわけ、そこに秩序をもたらします。

さらに、神は私たちが気がつかないときでも、私たちの想像以上に、しばしば語られているのです。旧約と新約の聖書全体を通じて、神は人々に頻繁に語られています。王や裁き司、預言者や羊飼い、そしてイエスの弟子たちにも神は語られました。年寄りにも若者にも同じように語られました。権力のある者にも社会的には全く認められていないような者にも語られました。正しい者にも罪人にも語られました。創世記から黙示録にいたるまで、神はあらゆる種類の人たちに語られたのです。

聖書が完成したときに神が語るのをやめられたとは、聖書のどこを探しても書いてありません。人類の歴史を通して、神は人々に語り続けられているのです。もしあなたが、キリストをあなたの救い主であり主であると受けいれているならば、あなたもそのうちの一人なのです。神は人々に、指示、なぐさめ、深い洞察、矯正、励まし、約束等を今日も語ってくださいます。
黙示録2:7には「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」とある通りです。

今は主イエスの血潮が私たちを贖ってくださった故に、聖霊が私たちと父の心とをしっかりと結びつけて下さっています。しかし、聖霊は私たちに語られるだけではなく、私たちを通しても語られるのです。
神が私たちを無から有を創造する御声をもって形造られたとき、私たちを神の形に似せて造られました。そして地を支配せよといわれました。(創世記1:26参照)
私たちは神の似姿に造られ、キリストによって贖われましたから、私たちは聖霊の力によりこの地上で神の声になる力を持っているのです。私たちを通して聖霊はキリストの教会に、また、罪の中で瀕死の状態にあるこの世に対しても語られます。これこそがまさにキリストの使節になる事であり、預言するということなのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-22 05:05 | アメリカからのメッセージ

傷ついた心と父の愛          坂 達也   6月22日

傷ついた心

特にここ数年のことかもしれませんが、日本に行きますと、少し気になることに出くわします。それは日本のクリスチャンの間で「自分は誰々に傷つけられた」とか「深い昔の傷を何とかしなければ」と言うことを、まるでクリスチャンが皆、そのような傷を持っていることが当たり前であるかのように言い、それへのカンセリングが少し大げさに言えば「もてはやされている」ことです。

 そもそも「傷つく」とか「傷ついた」とはどう言うことでしょうか。それは人間の罪の性質から生じる「肉の行い」であることはガラテヤ5:20,21等を見れば明らかです。それを具体的に羅列してみると、敵意 争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・分派、ねたみ、紛争・不和、殺意 憎悪、悪く言うこと、批判、虐待、いびる、非情、謀反心、反抗、虚栄に走る、等々…があります。そしてその結果として:感情を害する、不快になる、侮辱されたと思う、赦せない、反感・反目、立腹、怒りを感じ、憤る、憎しみを持つ、うらむ、人間関係が冷たくなり、愛が冷え、疎遠になる、…のではないでしょうか。
この現象をひっくるめて「傷つく」「傷ついた」あるいは「人間関係が傷ついた」と言い、その多くは「プライドが傷つく」ことでもあると思います。

 そこで私が気がつくのは、もしこれをクリスチャンが大問題にしているのなら、一体私たちが受け入れて信じたはずの「十字架」はどこへ行ってしまったのかと言うことです。
 イエス・キリストが私たちのためになぜ十字架についてくださったのか――それはまさにこの「傷つく」ことを私たちに替わってイエス様ご自身が「傷つかれ」その報いと根を処理してくださったのではなかったのでしょうか。
 1ペテロ2:24,25に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ここにこそ私たちがクリスチャンになった最大の理由があり、私たちの信仰の根本ではなかったのでしょうか。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言うみ言葉を日常よく使っているマチュアなクリスチャンなら、少なくとも自分の「心の傷」は「いやされた」と言う「信仰」に立つことがそんなに難しいことなのでしょうか。

ガラテヤ5:24には、 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や、欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。
ロマ書6:6-7でも、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と過去完了形で書かれています。
 罪とその性質から来る上記のような諸々の問題から完全に開放されるには「自分に死んでしまう」つまり、「自分の肉を十字架につけてしまう」以外に解決方法はないのです。もしそれ以外に解決方法があるのなら、イエス様は敢えて私たちのために十字架につくことはされなかったと思います。

そのことを端的に言い表わしているのが1コリント1:18です。「十字架のことば(ロゴス)は、滅びに至る人々にはおろかであっても、救いを受ける私たちには、神の力(ドウーナミス)です。」つまり、十字架のメッセージを本当に自分のものとするときに、それは奇跡を起こすような「力」が及んで、肉と罪の性質から来る一切の「傷つき」を払拭できるのです。これこそクリスチャンとしての最大の特権であると思います。どのようなカンセリングにせよ、それを受ける前にもう一度あなたの内におられる聖霊様から「十字架のメッセージ」をお聞きし、真に理解することによって、あなたの心の傷がいやされる力を受けることが大切であることを私は強調したいのです。
  私たち霊に生まれ変わったはずの、十年選手のベテラン・クリスチャンが、いつまでも肉の性質を十字架にかけようと努力しないで、それを「わがままに」放置したまま、「いつまでも傷ついている」ことを何か新しい大問題かのように取り沙汰していてよいものでしょうか。

 しかし、「自分に死ぬこと」によって「心の傷」を取り去ることが難しいからこそ、聖書ではそのことが繰り返し言われているのも確かです。心の傷がいやされることは「傷つけた人を赦す」ことに深く関係していますから、本当に難しく並大抵なことではありません。ですから私は「聖霊様からカンセリングを受ける」ことを基本とするクリスチャン・カンセリングのやり方が悪いと申し上げているのでは決してありません。イエス様は忍耐強く、やさしい方ですから、私たちが「心の傷」の問題を正直に提起すれば、聖霊様を通して主は解決のためのカンセリングをていねいにしてくださいます。(もっともそれが、人間的なカンセリングを人間的に受けて解決しようとするカンセリングであるなら、多くの場合、未信者のように古い自分を生かしたままで何とかしようとしますから、本当の解決にはなりません。)そこで、私はもっと良い方法を提案したいと思います。

 それは「父の愛」に私たちがもっともっと触れることです。溢れるような父の愛、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様の愛を毎朝、主の前に出てふんだんに受け取ってください。私がいつも提案している「毎日、主と個人的に親しい交わりを持つこと」とはこのことです。そして、一日中父の愛を思い起こしてはその大きな愛に包まれて生きる時に、新しい傷を受けにくくなり、又過去のどのような傷も、たとえ傷跡は残っているかもしれませんが、その傷はもはやうずかないでしょう。
 
よみがえったイエス様の手と横腹には傷跡がありました。私たちがイエス様にお会いする時に、その傷跡をイエス様は私たちに見せてくださるでしょう。イエス様の十字架の傷跡は永遠に残ります。しかし、それは完全にいやされた栄光の痕跡として残るのです。私たちはそのいやされた傷跡の永遠の証し人になるように選ばれた人たちではありませんか。

本日は私たちに与えられたすばらしい溢れるばかりの父の愛に感謝したいと思います。天の父は、私たちにご自分のひとり子のいのちさえも惜しまずに与えてくださった愛を今日も又、ふんだんに与えてくださろうとして待っておられます。その父の愛を今受け取ろうではありませんか。
今回お訪ねしたある教会で、教会の建物の至る所にセント・フランシス・アシシの祈りのことばが標語として張ってあり、その祈りの一部にこう書いてありました。

憎しみあるところには、愛を
傷あるところには、赦しを
疑いあるところには、信頼を
絶望あるところには、希望を、
闇あるところには、光を
そして、悲しみあるところには、喜びを
もたらすものとさせてください。

聖なる主よ。
慰められるよりは、慰めることを
理解されるよりは、理解することを
そして、愛されるよりは、愛することを
求められますように
与えることによってこそ、真に受け取ることができ
赦すことによってこそ、真に赦され
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれることが
できるのですから

このことばをモットーとする教会とは父の愛を豊かに受けている教会の一つであるに違いありません。

私は以上のメッセージをこの父の日に与えられました。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-22 04:18 | 坂達也からの今月のメッセージ

カナの婚礼における主の奇跡

カナの婚礼における主の最初の奇跡

 今回の日本旅行の終わりに近い頃、ある教会でメッセージをしておりました。すると突然、今までにあまり経験しないことが起こりました。それは、全く準備もしていなかった、思いがけないことを自分が話しているのです。急に私の口からヨハネ2章にあるイエス様による最初の奇跡のお話が、これから起こる私たちクリスチャンの個人的・あるいはキリストの身体(教会)としてのトランスフォーメーションを預言するものであると私が言っているのです。そう言っている自分に驚きながら、水がワインに変わるお話をしていました。しかも内心私は、もしかして私の「口から出任せの、とっさの思いつき」の話を見破ったその教会の牧師にひんしゅくを買っているのではないかとひやひやしているのでした。
 
しかし、その話をして間もなくホノルルに帰って来たのですが、その「とっさに出て来た言葉」にその後少しずつ肉ずけがなされていきました。そして、私が口にしたヨハネ2章に対する「新しい解釈」が単なる「思いつき」ではないことへの確信が強まって行ったのです。
私は今回の旅行の主なメッセージである、「キリストの身体である私たち教会が先ずトランスフォーメーションされなければならない」と言うテーマの例として、三人の弟子たちの見ている前で、イエス様が輝く栄光の姿に変貌したマタイ17章のお話は、まさに私たちが真に栄光の「キリストの身体」に変貌(ここで使われている原語はトランスフォーメーションと言う英語に当たる)しなければならないことを、私たちを代表する三人の弟子にあらわして見せたのだ、と言う形でお話しました。ですからこのカナでの奇跡は、それと同じように弟子たちにして見せた「キリストの身体のトランスフォーメーション」を意味するものであると言う思いが日毎に深まり、そのことを今朝主から最終的に確認されたと言う思いに至りましたので筆にする次第です。

ヨハネ2:1では、先ず「それから三日目に」と言う言葉が出てきます。これは一日を千年と考えれば、3千年目に入った今の時代を指していないでしょうか。つまり、カナでの婚礼とは主ご自身が私たち、キリストの花嫁との間で行われる「婚礼」を意味する預言であったと解釈できます。ですから「弟子たちも、その婚礼に招かれ」ていたことが書かれていることに意味があると思います。
そして、宴会の「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません。』」とイエス様にうったえました。それに対してイエス様は「わたしの時はまだ来ていません。」と言われましたが、確かにそうでした。しかし窮状をうったえられたイエス様は、手伝いの人たちに外に置いてあった六つの水がめに「水を満たしなさい。」と命令されました。この石の水がめには80-120リットルの水が入ると書かれておりますが、この水の量はちょうど人間の身体一人分に当たります。そして六つのかめの六と言う数字は人間をあらわすと言われます。しかもこの水がめは「ユダヤ人のきよめのしきたり」のために用いるものでした。つまり、キリストの花嫁である私たち弟子は信者同士が清め合い、又、未信者をも清めるための水であるはずなのです。しかもそこの置いてあった水がめには、水が使われたからなのか、それとも全く始めから入っていなかったのか、水があまり入っていなくて、イエス様は縁まで一杯に水を満たしなさいと命令されました。これはキリストの身体になる人たちが満杯になるまで集められたことを意味すると考えられないこともありません。
そして、イエス様はその水であるキリストの弟子をワインに変質(トランスフォーメーション)されました。ワイン、特に良質のものであれば、人が飲めば誰でも非常に喜び、それを提供した主人・花婿を賞賛し、栄光を返さない人はおりません。(11節)
私たちキリストの身体にふさわしい弟子とは、元々人を清めるための水なのですが、それが人が喜ぶ最良のワインに変えられるのですから、これこそ主がこれからなさろうとする、キリストの身体を完成すると言う主にとって最も大事で、最もすばらしい奇跡の御業と言えないでしょうか。
しかも主は良いぶどう酒を終末の最後の時まで取って置かれます。(10節)私たちは今そのような時代に生かされているのです。主にふさわしい花嫁に早くトランスフォーメーションされようではありませんか。

ところで余談ですが、数日前に手にしたダッチ・シーツ師の「祈りの権威」と言う本を読んでいましたら、シーツ師がチャック・ピヤース師とアメリカの50州を回っている時の話が載っていました。テキサス州での集会で、シーツ師が話をしている時にピヤース師が突然壇上に現れ、主からのことばとして、唐突に「もし我々が祈れば、サダム・フセインが7日以内に捉えられる」と預言した後「こんなことが口から出てくるなんて信じられない。とにかく後を頼むよ。」と言う驚きの顔をしたピヤース師がマイクをシーツ師に渡して引き下がったと言うのです。後を引き受けた師は、一瞬ためらいましたが後は力強い祈りと宣言をしたそうです。そして3日後にフセインは逮捕されました。その時のことを回想して師は、ピヤース師が主からの預言の啓示を受けた時、もしそのことを言う前に自分で「考えてしまっていたら」恐らくそのフセインの預言を口にはしなかったかもしれないと言っていたと語っています。
勿論ピヤース師の場合は、私の場合と比べ物にならないほどレベルが上であることは言うまでもありません。しかし、主から啓示を受ける時とは、突然のこともあり得ると言うことにおいて、私はなるほどと思い、一つ勉強しました。確かにとっさに受けた啓示を口にしてしまうのは勇気が要り、危険が伴います。しかし、一方で預言的であるためには、そのようなリスクも主は敢えて私たちに踏ませて訓練をされるのかもしれないと思った次第です。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-16 09:01 | 坂達也からの今月のメッセージ

不都合なときの主の招き  フランシス・フランジペイン  6月15日

不都合なときの主の招き

フランシス・フランジペィン

神を信じる人は数多くおりますが、真に神を礼拝するものはわずかです。真の礼拝者たちは、神をあがめることを一番の喜びとします。彼らの礼拝はかぐわしい香りとして立ち上り、それは日曜の教会での礼拝の時間だけではなく、彼らにとって不都合なときにさえ、彼らは主を礼拝するのです。

真の礼拝者は、朝、仕事や学校に行く前に早く起きます。主と静かな時間を過ごすために、家族よりも早く起きるのです。 何かで待たされるときにも、イライラしないで、かえってその困難な事態や待たねばならない時こそ神を讃える機会として用います。
例えば道路が渋滞しているとき、あなたの隣の車の中に真の礼拝者が座っていて、プレイズ・ソングに合わせて賛美しているかもしれません。

真の礼拝者は不都合なときにも神を礼拝する奥義を習得した

私も、自分にとって不都合なときに神を礼拝するようにと、主に導かれることがあります。一人で書き物をしていたり、重要な仕事をしているときに、急に私の霊の中で何かを感じ、主が近くにおられることに気がつきます。けれども、主は私に礼拝することを命令されるのではなく、静かに招いてくださるのです。礼拝する時間は10分か15分くらいのときもありますし、もっと長いこともありますが、とにかく私は自分がそれまでしていたことをやめて、ギターを手にとって主を礼拝し始めます。

正直なところ、私はギターが上手なわけではなく、コードをいくつか知っているだけなのです。でも私が賛美するとき、天におられる王がそれを喜んでくださることが私にはわかります。主は私が御前に出ることを許され、不思議なことですが、私が歌うとき主は私の歌だけを聞いていてくださるという思いを、私に与えてくださるのです。

主からの招き

礼拝するときは自分のすべてをささげ切りたい、と私も思います。しかしながら、私が克服しなければならない最大の障害は、主が礼拝するようにと招いてくださるときは、私にとって都合が悪いことが多いことです。まるで主は私が大切な仕事に集中するのを待っておられるかのようです。しかもその仕事は主が完成せよ、と言われたことなのです。又あるときは、夜遅く、私がまさに眠りに落ちようとするときに主を賛美する機会が訪れることがあります。
しかし、私が不都合な時間にもかかわらず主の招きに応じることそれ自体が、事実、私の賛美をもっと純粋で甘美なものにするのです。
日曜礼拝の賛美は楽器の音や周りの人に助けられることがあることは確かでしょう。そこには礼拝できる雰囲気がありますから、私の賛美は純粋に私のものではなく、他の人たちから受けたものという可能性があります。それと違って、主が不都合なときに来られ、私がそれに応じるならば、私の礼拝が真実であり、私の人生で神が一番大切なお方であることを証することになります。

主が前触れもなく訪れてくださるときのもう一つの大きな喜びは、主は大掛かりな礼拝を期待されてはいないということです。日曜の礼拝は確かに素晴らしいものです。しかし、主はプロの歌ではなく、私の心からの賛美だけを求めておられるのです。

もう一つの祝福は、私が主を礼拝し始めると、多くの場合、妻もそれに気づいて一緒に賛美してくれることです。私が礼拝していると、後から妻の声が聞こえてくるのです。彼女も私とおなじように主の臨在の中に浸っています。彼女はその時何をしていようともそれを止めて、主の前にひざまずくことを愛しています。そして、二人での礼拝は真に甘美なものとなります。

祈りと賛美

祈りと賛美には違いがあります。祈りは、私たちや私たちの回りの世界の必要を神に嘆願するものです。この世は切実で急を要する必要を持つ人々で満ちていて、彼らの願いは天の父が喜んで受け取ってくださり、光に満ちた王座の前で一つ一つ聞いてくださいます。しかし、賛美は私たちの必要を話すことではありません。それは私たちの愛の表現の極致なのです。自分の必要いかんにかかわらず、私たちが神にささげるのが賛美です。

福音書にはイエスに癒しを求めた10人のらい病を患っている人たちのことが書かれています。主が彼らの願いを聞きいれ、癒されたとき、彼らは御前を去っていきました。 しかし、一人だけは引き返してきました。「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17:16)」と書かれています。感謝にあふれて彼は神を礼拝しひれ伏したのです。 皆さん、多くの人は祈り、そして答えを得ます。しかし、引き返してきて主を礼拝するものは少ないのです。

愛する皆さん、私たちの心から純粋な賛美が流れ出すならば、主は私たちを主の臨在の中に度々招いてくださるでしょう。私たちの心の戸口に主の招きは静かに近づいてくるのです。主からの招待は、あなたが「主を愛したい」というシンプルな願いを心に抱く、という形をとって来るでしょう。あなたがその心の思いに素直に従うならば、あなたは主の臨在へと導かれていくことでしょう。
私たちが主を礼拝すると、主は私たちに内なる力と平安を与えてくださいます。感謝をもって主に近づけば、主は私たちを愛と喜びとで満たしてくださいます。 主を真に礼拝する者となる特権をいただいていることを喜びましょう。たとえそのチャンスがあなたに不都合なときにやってきたとしても。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-15 15:45 | アメリカからのメッセージ

日本産のマンゴの話     坂 柚実子      6月15日

日本産マンゴの話

これは5月に、私の友人と日本で会ったときに聞いた話ですので、日本の皆様はもうご存知かもしれませんが、私にはとても面白かったので、ここに書きます。

宮崎でユニークなマンゴの栽培がされています。それは「完熟マンゴ」の生産です。マンゴがまだ青いときに、一つ一つに網袋をかけます。マンゴは網の中で熟して、時満ちて完熟すると、人の手をかりずに自分からポトリと網の中におちます。完熟していないときに収穫され出荷されてくる輸入物とは比べ物にならないほどの甘さ、おいしさだそうです。日本人の研究熱心にはいつも驚かされますね。ちなみに、このようにして収穫されるマンゴは大層高価なもののようです。

この話がどうして私にはとても興味があったかといいますと、ヘンリー・グルーバー師の天国での経験話と結びついたからです。グルーバー師は使徒パウロのように天国に行った経験を持っておられます。ある祈り会の中で、霊が天国に引き上げられ、気がつくと自分は天国の黄金の道の上に立っていました。彼の前に一人の白い衣を着た人が歩いていて、それはすでに天に召されたクリスチャンでした。グルーバー師が見ていると、その人は果物の木の下に行き、果実の下に手を差し伸べると、果実はその人の手のひらの上にポトリと落ち、木は葉っぱを打ちならし、「栄光、賛美、誉が主にあるように。私たちが贖われた者に仕えるのはなんと嬉しいことでしょう。」と歌を歌ったといいます。木は人の食べたいという思いが分かり、自分から進んで実をささげたのです。

グルーバー師はこの話を、私たちの伝道の仕方に適応して用いられることがあります。人々にイエス様を伝えるとき、まだその人が信じる用意がないのに無理に信じさせようとしてはいけない、つまり、青いうちにもぎ取ってはいけない、ということです。神様のその人に対する定められた救いの時には、喜んでポトリと手のひらに落ちてきますよ、その時を待ちなさい、といわれます。

又、伝道の仕方に関してグラハム・クック師も次にように言っています。

「私たちの心の中にある神様の姿こそが、この世の人たちが見てひきつけられるものなのです。神様の愛が私たちから流れ出ていれば、教会に来るようにと人々を説き伏せる必要はないはずです。今教会でしている伝道方法は、人々に教会に来るようにと薦めるのに力を入れすぎています。私はそれを好ましこととは思いません。私は人々がイエス様を見出すようにと願います。彼らはイエス様を見出す過程で自分に合う教会を見つけていくことでしょう。人々を集会に来させることが私たちのゴールであってはなりません。そうではなく、あなたの生き方を見て、人々になにか不思議だなあと思わせ、なにか質問したいような気持ちにさせ、なにか神様をもっと知りたいと思わせることが、私たちのゴールであるべきです。神様の愛は無条件で慈しみ深く、あふれ出て見返りをもとめないものなのです。」

いかがでしょうか。私たちが教会の中だけでなく、仕事場、生活の場でイエス様の愛、知恵を大胆に表わしていけるときが今日本にも来ているのを今回の日本旅行で感じました。イエス様の愛という太陽を受けて完熟したマンゴが落ちてくるのを、忍耐をもって待っている網のような方が、きっと沢山おられることでしょう。ポトリ、ポトリという音がもうすぐ日本中に響いてくることを信じています。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-06-15 15:05 | 柚実子からのハワイ便り

ジョイフルサウンド・ミニストリーズ・ニュースレター・14号

JOYFUL SOUND
MINISTRIES

  ジョイフル・サウンド・ミニストリーズ
ニュース・レター No.14 2006年      発行日  2006年6月10日



沖縄レポート2.
「リバイバルへの備え」(霊の畑を耕す働き)


                     アガペ・コミュニティー・チャーチ牧師  根間 民雄

 「私たちの心のうちで燃えたではないか。」これはエマオ途上における主イエスの二人の弟子たちが話し合ったことばです。去った2月14日、グルーバー師を那覇空港でお見送りした直後から、私の心に響いていることばでもあります。まさしく、主がグルーバー師と共におられ、働かれ、沖縄の霊の畑を耕され、大きな障害の石を取り除き、リバイバルへの備えを着々と進めておられることを感じさせられ、リバイバルへの期待がふくらむばかりです。
 グルーバー師は今回27日間滞在され、17教会と3つの団体、そして、多くの個人、家庭集会、病院を訪問し、相変わらず精力的な奉仕をしてくださいました。その中には5つの初めての教会と沖縄実践神学校での講義の奉仕も含まれており、来年はさらに、初めての6つの教会から既に招きがあり、少なくとも5―6週間の滞在が必要とされます。

 さて、はじめに昨年の津嘉山の森のことをレポートさせていただきます。今度も泡瀬バプテスト教会の具志堅牧師と兄弟姉妹、そしてグルーバー師があの山に登られましたが、頂上の拝所がなくなっており、霊的圧迫も誰も感じなかったという証しを聞いて、私は早速、その山に登ってきました。中腹の三大神の拝所はまだありましたが、頂上の拝所は確かになくなっており、さらに昨年までは呪われた地域のように放置されてあった娯楽センターは会社の事務所に生まれ変わり、周囲のビジネスも活性化され、霊的雰囲気も大きく変わっていました。ハレルヤ!今後もますます地域の霊的、経済的、社会的繁栄が拡大され、リバイブされ、主の栄光があらわされ、トランスフォーメーションが期待されます。
(1)
 似たようなケースでは、北中城村の喜舎場でも起こっています。昨年、島袋幸枝姉の案内で姉の住んでいる家やその周辺、その地域を支配している御嶽を祈りの歩行しました。今年行ってみると、近くにあった大きなホテルのビジネスは再開されていますし、その隣の大きなレストランも長年放置されてあったのですが、昨年の地滑りで破壊されたおかげで、新しいビジネスのための建設工事が進められていました。又、島袋姉は霊的圧迫から開放されて、House of Praiseの開拓伝道を始めておられます。ハレルヤ!

 今年の離島ミニストリーは伊江島でした。伊江島タッチュー〔山〕、アメリカの従軍記者の記念碑、土地闘争、千人洞穴、湧出(ワジー)、ユリ祭りなどで有名な島です。総面積23Km2の33%が米軍用地で、残りの土地に5,400人の住民が住んでいます。その島に28年間自給自足で伝道牧会を続けておられる野村牧師ご夫妻の伊江島キリスト教会があります。その教会の姉妹たちと沖縄本島から参加された比嘉球英牧師、大城啓子牧師、他三人の姉妹たちと教会でのオリエンテーション後、野村牧師の案内で祈りの歩行がなされました。アラウタキで始まり、タッチュー、湧出、芳魂の塔、千人洞穴、アニーパイル碑等々次々と祈りの歩行がなされました。ここでは代表的な場所として伊江島タッチューでの歩行のことだけを報告致します。
 そのタッチューの中腹まで車で行き、そこから徒歩で登りましたが、入り口の所に城山御嶽(グスクヤマウタキ)があり、そこで先ず祈りました。通常の登山経路と違って、その山を一周するような古い小路を通りながら、その道沿いにいくつもある拝所の総ての場所で霊的打ち砕きと十字架の血潮の祈りと勝利を宣言し、喜びと感謝と賛美に満たされました。頂上からは360度の視界でコバルトブルーの海、その向こうには島々眼下には平坦な畑や家々と絶景です。しばらく頂上で祈り、すばらしい景色を楽しんだ後下山しました。この島の最高峰が霊的に奪回されたからには、今後の主の御業が大きく期待されます。

 もう一つの山登りの歩行は、北部チャペルの大城啓子牧師の案内による今帰仁城跡の裏山でした。その山はユタの三大修練所の一つと言われるところです。頂上に着くまでには、ここでもたくさんの拝所があり、途中からはロープを頼りに30分ぐらい登らなければならない険しいところです。頂上付近は風が強く吹き飛ばされそうで、急な岩場をしっかりつかみながら登りました。頂上からは何とすばらしい見晴らしのこと。青い美しい海の向こうに伊江島や他の島々が見え、眼下には今帰仁城跡の全景が見えます。
グルーバー師と北部チャペルの兄弟姉妹たち8人の一行は、このような敵の重要な要塞が今回の歩行で奪回された勝利の喜びに満たされつつ祈りの歩行を終えて、夜の集会へと
導かれ、そこでも又すばらしい恵みの時が与えられました。過去にもリバイバルを経験したこの今帰仁の地に再びリバイバルの炎が燃やされることが大いに期待されます。
(2)

 アガペ・コミュニティー・チャーチによるオープン・ミーティングでは、イラン出身のイスラム教徒の夫妻がはじめてクリスチャンの集会に導かれ、キリストの良き知らせを知り、祈りのミニストリーも受けました。感謝、感謝を連発しながら帰って行きました。この夫人の弟はイランに住んでおり、クローン病という難病で医者から見離された状態でしたが、グルーバー師の祈りを境に、日ごとにいやしのきざしが見え始め、手術出来るほどに回復し、その手術のための祈りのリクエストもありました。ハレルヤ!
 いのちの水のキリスト教会による祈りの歩行では、いつもは入ることの出来ないお寺の境内に入ることが出来、建物の奥まで入って祈りの歩行が出来たことや、沖縄リバイバル・チャーチでは300-400人の集会で主の不思議な臨在と平安と喜び、その地域にあるいくつもの霊場での勝利等々、不思議としるしの証しは尽きることがありません。

== 数々のいやしの奇跡が起こる ==

 次に、今回すばらしい数々のいやしの御業が起こった証しをご紹介します。

金武バプテスト教会
 城間正人兄(50歳)はグルーバー師が来られる3日前に電気のこぎりで左手の親指の付け根をほとんど切断してしまい、手術を待っていたところ、病院でグルーバー師を見つけたので追いかけて行き、祈ってもらいました。師は後遺症もなく、傷は完全にいやされるようにと祈った上で「もう大丈夫ですよ」と言われました。医師の話では、手術しても指は動かなくなって使えないとのことでした。しかし、グルーバー師の祈りによって城間兄に癒しの信仰、奇跡が起こるという強い確信が与えられ、横田牧師が手術の日に病院に行って城間兄に会った時、城間兄は「奇跡が起こりました。今日手術予定でしたが、お医者さんが見て、すごいことが起こっている。手術はやめよう、こんなことがあるはずがない、これは不思議だ、肉と皮がくっついている。今手術するとかえってよくない。しばらく様子をみることにしようと、お医者さんに言われた。」ということでした。しかし、お医者さんから「肉や皮が完全に治っても神経の手術はしなくてはならなくなる」と言われたので、横田牧師は、それでは今度は神経がくっつくように祈りましょう、あなたもそれをイメージして毎日祈るようにと約束して、祈って帰られました。その後、祈った通りに手術することなく退院し、いやされました。ハレルヤ! さらに感謝なことは、彼のお母さんのシズ姉も心臓手術の検査予定日の前日に教会でグルーバー師に祈ってもらった時、神様から全き平安が与えられ、手術も一回で、しかも非常にうまく行き、手術したその日から食事も取れるようになり、回復も早く退院されました。あの全き平安が手術中も入院中も現在も続いており、いつまでも続いて欲しいと先日証しされた姉妹は、全き平安のうちに信仰生活を送っておられるとのことでした ハレルヤ!
 新里美枝子姉は50代の方で、何年も前から教会に来ておられますが、その家をグルーバー師が訪問する予定でした。しかし師と横田牧師が訪ねる30分前に今までになかったことですが、色あざやかな、きれいな鳥の一群(約100羽)が庭の木に飛んで来てとまり、しばらくさえずって賛美をしているようであったと言うのです。このような体験とグルーバー師たちの祈りを通して、この姉は信仰を新たにされ、三週間前にバプテズマを受けられました。ハレルヤ!
 金武教会に対してグルーバー師による預言の祈りがあり、「これからは牧師ご夫妻や皆さんが頑張らなくても、求道者がどんどん来ます。救われる人々がやって来ます。」の言葉通りに、その後、宜野座の地域から男の子たち4人と小学6年生、そして大人の山田さんや美香さんたちも信仰告白し、バプテズマを授けられました。ハレルヤ!(終わり)
(4)


日本のリバイバルにつながる祈りの歩行  
 
                       神の家キリスト教会 牧師    上 野 定 雄

  2001年に、ヘンリー・グルーバー先生と、坂達也先生ご夫妻が私たちの町に来て下さり、祈りの歩行をして頂いた時、これは素晴らしい、ぜひこれを続けてやらなければと思い、さっそく先生方のやり方を手本にして、マニュアルを作り実行し始めました。
 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できる のです。(マルコ3:27)という御言葉のように、私たちの国や町にいる「強い人」であるサタンによって、捕らえられている人々の魂 をその支配下から開放する為には、まずその強い人であるサタンを、縛り上げなければなりません。何年も伝道し、牧会しても救われる人はわずかで、信徒も成長しないのは、その地域に働くサタンの力が原因であることが多いのです。
 私も、サタンが存在している事はわかっていても、実際にはどのような策略を持って働き、悪い影響をもたらしているのか、どのようにしてその強い人(サタン)と戦い、縛り上げれば良いのかが解らず、ゼロから開拓伝道をして二十数年で、わずか十数名の信徒しか導きませんでした。それは私が戦い方を知らなかったからです。その事に気付かされた私は、その強い人(サタン)を縛り上げる事の出来る、より強い力を持っておられる主イエスを迎え入れ、預言的に神に聞いて敵がどのようなものであり、どのように戦えば良いのかという戦略を教えていただき、神と共に戦う、霊的な戦いを始めたのです。

まず、祈りのチームを結成しました。この霊の戦いにおいては、万軍の主の大いなる力がなければ、決して戦うことが出来ません。ゆえに、預言的に神に聞いて、バックでとりなす、しっかりとした祈りのチームが必要です。そのとりなしの祈りのチームによって霊的に洞察したり、又、この地域の全域地図を入手し、重要な施設や、産業の拠点、神社や寺院、古戦場などの所在地を調べ、歴史的背景などにより霊的要塞と考えられる場所を調査(霊的地図作り)しました。 この地域に与えられている賜物と、恵みと祝福、神様がこの地域に与えておられる使命、この地域の中心的なサタンの要塞はどこか、各地域に漂う霊的雰囲気、過去、現在にまでわたって行なわれている、共同的な罪は何かなどを預言的に神に聞いて、祈っていきます。
もう一方のチームは、外の第一線に出て行く戦士たちです。本陣である教会でとりなし
の祈りをささげる人たちも、共に戦う勇敢な戦士たちです。外に実際に出て行くチームは
(5)
まず、車で町の周囲を回り、随所で祈ったり賛美したりしながら、とりなしの祈りのチームが祈っている項目を、現地でも預言的に神に聞いて、実際に見て感じて、そこで示された事をチームで分かち合います。そして、その地域に与えられている恵みと祝福を感謝し、サタンがもたらしている悪い影響やそこで犯されている過去と現在の罪に対しては、悔い改めとその悪を絶ちきる祈りや宣言をなし、聖めの祈りをしました。

又、バーバラ・ヨーダ師を通して、主から私たちに解放された、日本のための預言的祈りの戦略として(ゼ力リヤ1:18-21)にもとづき預言的行動、四つ角の祈りを行います。その目的は、悪霊の祭壇を引き下ろし、この国に神の祭壇を建てるためです。
4つのチーム(それぞれ人数を4の倍数とする)を国や県、市町村の、東西南北の4つ角に送り、それぞれのチームが同日、同時刻に祈祷し、宣言や預言をするというものです。これはこの日本を支配しようとしているサタン、人々を盲目にしているサタンや悪霊たちを散らし、打ち砕く預言的行動であって、この国のリバイバルのための種を解放します。そしてこの行動は、私達の力で行うのではなく、神の力で行ないます。そのようにして、まずその町全体に対する祈りが終わったら、今度は個々の場所にいくつかのチームに分かれて出かけて行きます。市役所や学校、病院その他の大きな公共の施設、又、経済的に町に大きな祝福をもたらしている、会社や工場、商店の祝福と発展を祈ったり、偶像の宮である神社や寺院、ギャンブルや不品行を行っている所に出向いて、悔い改めの祈りをなし、霊的開放の祈りや、聖めの宣言をして回ります。

私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。(Ⅱコリント10:4-6)
私たち神を信じるものには、それらの悪しきサタンの働きを絶ちきり打ち砕いて、捕らえられている人々を解放する権威が、与えられているのです。ですから、私たちの愛する町や国に住む、同胞に対して働く悪しきサタンを追い出し、その要塞を打ち砕き、そこに正義をもたらす真の神に来ていただく為に、私たちは戦っています。私たちの教会では「祈りの歩行」の事を「霊的解放運動」としてこれらの事を行っていますが、ある信徒の方が、私たちが開放運動した所はその後、どうなるのですかと質問されましたが、確かに次の日に、何らかの変化が見られると言うものではありません。しかし、今まで敵が支配していた所を、聖めて、そこを主にお返しするのですから、そこはもうサタンが入る余地はないのです。だからそこは神様が臨在される所となります。目に見える成果が顕著に現れなくても、行い続ける時に、あのエリコの町を陥落させる為に、ヨシュアとイスラエル人が七
日間に渡って、神のなさることを信じ、黙して町の周りを回ったように、神の戦略を聞きつつ行う時、その要塞はいくら堅固でも崩れ去る時が来るのです。
(6)
私たちの教会では、月2回この「霊的解放運動」を行っておりますが、初めは確かに、目に見える形では成果を見ることが出来なかったのですが、3年目ぐらいから町の空気が変わってきて、聖められ、霊的にクリーンになって行くのを、感じ取っています。そして人々がとても私たちに優しく、好意的になってきたのが読み取れました。町の人々が私たちの教会に期待しているのです。町を霊的な面で聖める働きをしているのですから。今までサタンが支配していたところを、神の支配に変え奪回し、捕われていた人々を解放するということが、実際になされていることを確信しています。
この働きは、継続していくことが大切だと思います。またこの働きが、日本のリバイバルの為にとても大切で、意義ある働きであると信じています。又、この霊的解放運動を教会がする事によって、信徒一人一人が教会に与えられている権威と使命をはっきり悟って、信仰が強められ、日々のクリスチャン生活においても、そこに働くサタンの働きに対して、勇敢に立ち向かい勝利するすべを学び、力強く証しし、戦うことの出来る信徒となりました。
私たちの教会では、私たちの周りの町々にも、霊的解放運動を現在行っているところですが、その他にも日本の各地に出かけて行って、この霊的解放運動を行っております。
ますますこの霊的開放運動を、いろいろな場所で行い、サタンとの霊的戦いに勝利してこの日本を勝ち取って行きたいと願っています。(終わり)

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2006年5月の日本旅行を終えて 
                                            坂  達 也
昨年のジョージ・オーティス師と、フィージー島チームの来日がきっかけとなったと思いますが、日本は今トランスフォーメーションへの関心が高まりつつあります。
そして、この春の旅行に先立って申し上げた通り、地域のトランスフォーメーションの推進には、祈りの歩行が絶対に欠かせない有効な戦略の一つであることを強調させていただきました。
私たち夫婦は今回4週間で18の教会をお訪ねしましたが、多くの教会では祈りの歩行の重要さが再認識され、又、歩行を実行している教会では、その効果・成果が今までより早くあらわれることが証しされていました。しかし、それに応じて敵の攻撃も増して来ています。勿論、地域を真剣に勝ち取ろうとする教会に対しては、敵も黙って手をこまねいてはいないでしょうから、それは当然のことと言えます。
多くの教会では未だ気がついていないようですが、日本全土において、いよいよ敵との
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本格的な霊的決戦に入る前触れを感じました。これからの新しいシーズンは、霊的に目覚めた教会が戦うための霊的準備を出来るだけ早くすることです。そのためには、教会が霊的に強くなること――それは主との個人的親密さを深め、信仰を確かなものとし、聖霊の指令に敏感に順応する能力をつけることです。それと同時に、地域の教会が結集して大きな軍団となることです。私は今回の旅行でこの二点を特に強調しました。
いよいよ聖霊様が日本にも強く働き始めておられます。まさに使徒(聖霊)行伝を復活・継承する時代に突入する「前ぶれ」を今回実感した次第です。(終わり)

編 集 後 記
今回は、今年の二月沖縄を訪れたグルーバー師のミニストリーに関する根間民雄先生の沖縄レポート(2)と、5年間にわたって町の霊的空気を変えるために「預言的祈りの歩行」を組織的に実行されて来た上野定雄先生による「日本のリバイバルにつながる祈りの歩行」それに、坂 達也師の「2006年5月の日本旅行を終えて」をお届けします。 
今主は著しい御業を日本の各地で示し始めておられます。特に沖縄はグルーバー師が最も多くの時間をかけて地元の人たちと共に歩行されて来た地区ですが、今回はそのめざましい成果が報告されました。
2006年秋の予定ヘンリーグルーバー師は久方ぶりにジュディス夫人を同伴して10月1日に来日し、11月6日(成田から離日)まで滞在する予定です。(今回沖縄には参りません。)
既に昨年からの申し込みによってほぼ8割方日程がうまっておりますが、師の来会をご希望される方はできるだけお早めにご一報下さる様お願いします。
坂 達也師夫妻は一週間早い9月26日に来日し、10月1日―16日はグルーバー師夫妻と同行後、10月21日から10日間の予定で沖縄に参ります。就いては、9月末の数日間と、沖縄行きの前後数日間は独自のミニストリーをする予定ですので、ご希望の方はお申し越し下さい。
尚、今回のグルーバー師夫妻の通訳は前半が坂達也師夫妻、そして後半は福島県いわき市グローバル・ミッション・チャペル牧師、又、フィージーからのチームを含むトランスフォーメーション関係のお仕事を通してお馴染みの森章先生が担当して下さいますのでご期待下さい。
連絡先
住所: 2447 Auhuhu St. Pearl City, HI, 96782 坂 達也
電話・ファックス: (808)454-0206 
イーメール: tatsuya04@msn.com です。宜しくお願いします。
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by walkwithgod | 2006-06-13 17:10 | 祈りの歩行のミニストリー

日本からもどって         坂 柚実子    6月10日

日本からもどって

5月9日からの4週間の日本旅行を終えて、無事ハワイにもどりました。多くの方々とお会いすることができ、沢山証も聞かせていただき感謝でした。神様が今、日本中で、いろいろな形、方法で大きくはたらいておられることが分かりました。皆様のお祈りに支えられて、出発前に痛くなった主人の足もすぐに癒され、風邪ひとつ引かずに全行程を終えることができました。今回お世話になった多くの方々に心から感謝申し上げます。

九州から青森まで、17の教会をお訪ねしましたが、今回の旅行のために主人が神様から与えられたメッセージは、エペソ4:13にある「キリストの身体である教会とは、大勢のクリスチャンがひとりの成熟した大人になることで、それには2つの一致が必要である」というものでした。

私は、基本的には同じメッセージを17回聞いたわけですが、途中でもうこれ以上同じ話を聞くのは耐え難いという限界状態に頭がなったときもありました。先回の旅行の主人のメッセージには、エデンの園の動物の様子を描写するところが出てきたので、主人は私のために動物の種類を毎日変えてくれました。昨日は猿だったのを今日は象にしたりしてくれて、私も楽しめるようにしてくれたのです。でも今回は残念ながら簡単に変えられるところが無かったようです。

これは伝道者である伴侶について旅行する者みんなに与えられる試練(大げさ?)ですが、ずっと以前に鉄道自殺を図ったあとクリスチャンになられた田原米子さんがポートランドに来られ時、同行しておられたご主人が彼女の証のあとで言われたことを、私は何故かよく覚えているのです。彼は「米子のこの証は、私はもう数え切れないくらい聞いてきましたが、飽きるということはなく、聞くたびに感動するのです。」といわれました。素晴らしいですね。

ともあれ、同行する私の役目は、主人が神様から力を得て話せるように祈ることですから、私も話しを聞きながら精一杯祈りました。主人は一回目から最後まで同じ熱心さで語ることができ、本当に主からいただくメッセージを語るというのは、こういう油注ぎがあるのだ、と感じました。そして、私もこのメッセージを何回も聞くことにより、「キリストの身体」に関して理解が深まっていきました。

帰国して、ハワイの私たちの教会であるニュー・ライフ・チャーチ・ホノルルの集会に出席し、みんなからハグをもって迎えられました。彼らも私たちの旅行中、忠実に祈りをもって支えていてくれたのです。キリストの身体の一部分であるこの教会に、その又一部分として私たちが属していることを実感し、感謝しました。(終わり)



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by walkwithgod | 2006-06-10 10:53 | 柚実子からのハワイ便り