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聖なる儀式   ウォルター・ビュートラー    8月31日

聖なる儀式
                                          ウォルター・ビュートラー

 皆さんの中には、「夜中に目が覚めたり、主から起こされた時、一体何をすればいいのですか?」という疑問を持っている人がおられると思います。イザヤ30:29を見てみましょう。

 「あなたがたは、祭り(holy solemnity 聖なる儀式)を祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。」

 あなたが夜起きて主を仰ぎながらただ座っているとき、それは聖なる儀式となります。主の臨在も、又、何の導きも感じなくても、ただ主をあがめ、主を礼拝して座っているのです。あなたの霊が神を求めながら、静かに座っているのです。心は主をあがめる状態で主を仰いでいます。 それが聖なる儀式です。

 あなたは手を上げて座っています。 手をずっと上げていると疲れますから、私は肘掛椅子をつかって肘を支えます。一時間、一時間半、二時間、、、と。 もっと長く座っていたことも多々あります。ただ座って聖なる儀式を行うのです。 時には「主をたたえます、ハレルヤ」というような短い言葉が出ることもあります。

 詩篇92:1-3を見てください。これは小さなことのように思えるかもしれませんが、そうではないのです。これはあなたが主にささげることのできる最も偉大なる宝の一つなのです。 人が夜、又は昼でも、じっと座って主を礼拝するのは、主が最も喜ばれることの一つなのです。 何かをお願いしたり、金銭を求めたり、また、癒しを求めたりするのではなく、何も求めないで座っているのです。 ただじっと聖なる儀式をします。これは主にとって非常に価値のあるものなのです。

 私は何週間も毎夜この聖なる儀式を続けました。はじめは主に起こされたのではなく、自分で起きたのです。そして座り心地のよい椅子を用意してそれに座りました。 特別な主の臨在はありませんでした。ただ主はどこにも満ちておられる方ですから、私のそばにおられたのです。   私がいるところにいつも主はおられます。主は天と地に満ちておられるのです。それがわかると聖なる儀式を始めるのはたやすいことになります。

 ある夜、何の音も声もしなかったにもかかわらず、私の霊ではっきりと主が私のうしろから近づいて来られるのを感じました。主は椅子に座っていた私の上に後から身をかがめられました。私は主が私を上から見ておられるのが分かりました。そして、主の涙が私の頭の上に落ちてきたのです。 たくさんではありませんでしたが、数滴の涙を確かに私は感じたのです。これは主が私のしていることを喜んでいる涙だ、ということが御霊によって瞬時に確かな真理として私に教えられました。 それは主の臨在の顕らわれでした。その涙(それは霊的なものでしたが)を私が感じるように主はしてくださったのです。 

 それは、毎晩聖なる儀式のために起きている者に対する主の感謝の涙だったのです。主の感謝の心がどれほど深いかを、主は私に知らせたかったのです。これは聖なる儀式をもって主を見上げる魂に与えられる神を豊かに知ることができる特権の一つです。ですから、夜起きて何をしたらいいか分からないときは、聖なる儀式をはじめなさい。

 「夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」 詩篇42:8

 祈りをするべきときもあります。けれども私が聖なる儀式をするときは私は願いごとはしません。うっかりして何かを主に願ってしまったときは、私はすぐに「主よ、お赦しください。今の願いを取り消しますから、答えないでください。」といいます。聖なる儀式は願いごとをするときではないのです。 それはまた別のときにすればよいことです。

 しかし、主をあがめる祈りはあります。詩篇141:2を見てください。「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上がりますように。」とあります。これが礼拝の祈りであり、それは香りのよい煙として神のもとに昇っていきます。 あなたは座して霊の中で香を神に焚くのです。

私 は夜主によって起こされるとき、すでに私の心に礼拝の香が燃えているのを感じることがありました。私の中から主に向かって香の煙がのぼっていくのがわかりました。それで私は目をさまし、聖なる儀式のときを持つのです。

 主から起こされるのを待つ必要はありません。自分で起きてみてください。やってみたいと思うならば、いつでもいいですから起きてみてください。「主よ、今から私は聖なる儀式を始めます。ここに座っています。」と申しあげるのです。このことを真剣に、勤勉に続けるならば、あなたの霊のろうそくに火がともり、主の臨在の素晴らしい経験をするでしょう。

 最後に黙示録3:20を見てみましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼と食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。主のノックの仕方はいろいろあります。あるときは歌をあなたに与えて起こされます。又、主の臨在をもって起こされるときもあります。私は主の足音で起きたときもありました。

 「だれでも」とありますから、すべての人にこの機会は開かれています。ですから主のノックに応えて起きてください。主の呼びかけに応えてください。 すばらしい食事が用意されているのです。 主とあなたとの親しき交わりが待っています。それはあなたのろうそくに火をともす儀式となることでしょう。

 この話を聞いて、「ああ、いいですね。素敵ですね。」というだけではいけません。実行してください。戸を眺めているだけではなくて、戸を開いてください。 そしてダビデと共にこころの中でこういえますように。
「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」(詩篇18:28)(終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-31 15:49

いと高き神の聖なる山に登れ  トッド・ベントリー  8月24日

いと高き神の聖なる山に登れ  

                                               トッド・ベントリー




栄光の王を求め仰ぎ見よ

 「これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。」詩篇24:6

 ここで神は何を言っておられるのでしょうか。 主は、「わたしはヤコブという名で呼ばれる一族、一世代を立てあげたい。 彼らは、即ち、わたしの手のわざではなくわたしの御顔を慕い求める者、わたしをしっかりと捉えたいと願う者、わたしの栄光にふれ、変えられ、変革されてわたしと共に君主になることを熱望する者、闇の王国を制覇してわたしのちからを表わす者だ。」といわれているのです。

 神のちからは、神のちからを求める者を通してではなく、神ご自身を求める者を通してあらわされます。 神が私たちのエゴや名誉のために私達にちからを注がれることは決してありません。復活のちからは、神を知り、また知りたいと願うもののためにあります。イエスの足元にすわる者、主の御そばにいることだけを願う者のためにあるのです。

主の臨在なしには一インチも動くな

 出エジプト記33章で、モーセはシナイ山から出発してイスラエル人を約束の地へ導くようにと命じられました。神はご自分の顕現の臨在を彼らのうちから取り除くので、主の臨在はモーセの前を進まないであろう、とモーセに告げられました。しかし主は、主の約束や祝福、守り、油注ぎ、御手の業はすべて成就するであろう、と言われました。さらに道案内として御使いを遣わすとまで言われました。しかし、モーセはそれでは満足しませんでした。彼は主の臨在を望んだのです。彼は幕屋の外にテントを張り、嘆願しました。「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。」

 ある人たちは、キリスト教にちからや祝福、守り、油注ぎがあればそれで満足します。 つまり彼らは、「はい、主よ、どうか私の負債をなくしてください。打ち破りをお願いします。お言葉で約束してくださっていることをしてください。 あなたがご存知の私の必要をどうか満たしてください。」という気持ちを持っているのです。 彼らは、「どうかもっとよい説教ができ、サタンを追い出し、病人をいやし、御国の業ができるように、油注ぎをください。」というのです。しかし、神は言われます。「よかろう。しかし、あなたが求めるのがそれだけならば、わたしの臨在はあなたがたのうちにはないであろう。わたしの御顔を求めないならば、私の御手の業も期待してはいけない。」

 出エジプト記33章に現されているモーセのような心を持つ者たちを主は求めておられます。「主よ、はっきり申しあげます。私は行きません。私は行きません。絶対に動きません!あなたの臨在が伴わなければ、私のミニストリーを進めることはしません。 あなたが私を救ってくださったり、私の敵を追い出したりしてくださっても、それはどうでもいいのです。また、私に油注ぎを下さることもどうでもいいのです。 あなたのちからで約束されたものを全部くださることもどうでもいいです。あなたの祝福が私たちにとどまり、約束の地へと導いてくださるとしても、それは私が欲しいものではありません。あなたの顕現の臨在が私と共にないのならば、私は動きません。絶対に! あなたの臨在がなければ、すべて何の意味もありません。」

主を知ることができるように

 出エジプト記33:13で、モーセは「あなたを知ることができるように」といっています。ところが11節では、「主は人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」とあります。モーセは神とすでに親しく語りあう関係を持っていたのに、なぜ「主を知ることができる」ことを願ったのでしょうか。 モーセは私たちよりずっと主の栄光を経験していたように思えます。私たちにとっては夢のようなことですが、彼は神の領域のことを実際に体験し、その中を歩んでいました。しかし、彼は主の臨在の中に座してもっと主を知りたいと願い、主の臨在なしで出発することを堅く拒みました。モーセは神と語るだけでは満足できなかったのです。もっと主を求めました。彼は真に神を知りたかったのです。
 
 モーセが「あなたの栄光を見せてください。」といった意味は、「どうか、あなたのもっとも内なるもの、あなたという方そのもののリアリティーを見せてください。あなたの栄光が降り注ぐ中であなたを知りたいのです。あなたの御性質をあらわして(啓示)ください。」といったのです。 そして神はモーセに栄光をお見せになり、主の御性質をあらわされはじめました。「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく …… 」 しかし、これは決して主の御性格に関する集中講義ではありませんでした。モーセが受けたのは、頭の知識ではありませんでした。神は「私はこういうものである。」といわれたのではありませんでした。神の栄光が下った途端にモーセは新しいレベルへと引き上げられ、以前は全く知らなかった神を神の啓示により知ることができたのです。

啓示は栄光の中に 

 私が教えることはすべて、私の上に神の栄光が下ったときに啓示で受け取ったものです。 啓示ですから、私は一瞬にしてある事柄を知ることができます。ある集会の中で、ある日主の栄光が下り、私は突然このような言葉を口に出していました。「ここにいる人の中に心臓の疾患を持つ人がいます。」そしてすぐにそれが誰であるかがわかり、会衆の中からその人を見つけました。 主の栄光の中では物事を知る力がはたらくのです。私たちが栄光の領域に入り、天国と同じ環境のなかで動くとき、啓示を受けます。

 主の栄光が下ったところ(領域)では、信じられないようなことが起こります。キャサリン・クーマンはこの栄光の中でミニストりーをしました。彼女は神がしておられることを見て、それを宣言するとそれが起こりました。これと同じことが私のミニストリーでも起こりました。私がつんぼの人の耳が聞こえるようになるのを霊で見ると、ある人の耳が開くのです。そういうときには、人々は前に出てきて手を置いて祈られなくても、座席についたままでいやされます。(終わり)



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by walkwithgod | 2006-08-24 13:49 | アメリカからのメッセージ

フラ・ダンス        坂 柚実子      8月24日


フラ・ダンス

  最近は日本でもずいぶんとフラ・ダンスをする人が増えてきているようですね。日本語の「ふらふらになる」というのは、このフラからきているのかと思いましたが、そうではないそうです。(笑)

 先週はケイキ(子供)フラダンス・コンテストがあってテレビで中継していました。小さいときからずいぶんと厳しい訓練を受けないとフラ・ダンスの名手にはなれません。一番小さい子は5歳くらいでしょうか、巧みに踊る姿は本当にかわいく微笑ましいものです。

 ソロもありますが、多くはグループで踊るので、同じ衣装、髪飾りをつけて同じ動きをします。フラ・ダンスの特徴はみんなが微笑みながら踊ることにあると思います。バレーとか日本舞踊はニコリともしないで真剣な顔で踊ることが多いように思われますが、フラ・ダンスはいつも微笑みながら踊るのです。それも踊りのうち、というか、きっと先生から「もっとにっこり笑って!」とか「微笑んで!」とか言われているのだと私は想像しています。踊りの歌は、みんなハワイ語なので意味が分かりませんが、のんびりした感じのものが多いです。

 いろんな人のことを思い浮かべるとき、その人の悲しい顔や困ったような顔を思いだす人もありますが、大抵はその人の微笑んでいる顔を思い浮かべるような気がするのですが、いかがでしょうか。笑い顔が一番美しいからかもしれません。私の知人で「ブスはブスッとしていうからブスなんだ。」と小さいときから父親にしつけられ、それ故か、いつも素敵な笑顔で暮らしている美人がいます。

 「私顔施 わがんせ」という仏教の言葉があるそうです。笑顔を施す、ということでしょうか。グルーバー師は天国でクリスチャンがいただく白い衣には「聖徒たちの正しい行い(黙示録19:8)」が織り込まれていて、その中には「悲しんでいる人にむかってにっこりと微笑む」という行為もよい行いの一つとしてしっかり織り込まれているのを師が霊で天国に行ったときに見た、と言われます。師は本当に道ですれ違う人にも微笑みかけられます。たとえ自分の心に悩みがあるときにも、また身体に痛みがあるときにも、自分の前にいる人のために微笑む、というのは犠牲的な愛です。確かにグルーバー師はひどい頭痛のときにも笑顔を絶やさない方です。

 朝日新聞の天声人語に東海道新幹線の車内販売の東京オフィスの400人の中で一番の成績を上げた22歳の徳渕真利子さんのことが書かれていました。日本でよく新幹線の乗る私は、とても興味をひかれました。「車内販売は売り手が誰であれ、お弁当とか飲み物とか必要な人が買うだろう。」と私は思っていましたが、違うようです。天候によっても売れる品物が違うので、最初回って売れたものを調べて、次回からはそれを客の目につくところに配置するとかという細かい努力と、あとは笑顔を絶やさずゆっくり客の目を見ながら何度も回るのだそうです。本当に感心しますね。確かに笑顔を向けられたら、安心してゆっくり選んで買えるような気がします。

 ずっと前、教会でそれぞれの妻に望むこと、夫に望むことを書かされたことがあって、誰かの答えが「いつも微笑んでいて欲しい。」というのでした。人生色々ある中でいつも微笑んでいるのはちょっと難しいかもしれませんね。以前、息子がまだ小さかったときですが、キッチンで働いていた私に「お母さん、どうして悲しい顔しているの?」と聞かれたことがあります。別に悲しいことがあったわけでもなく、「普通の顔」をしていると思っていたのでちょっと驚きました。あまり料理が得意でない私はキッチンではどうしても悲しい顔になってしまうのかもしれません。(笑)

 フラ・ダンスは難しいですが、せめてその微笑みだけは見習いたいものです。いつも喜んでいなさい、とありますものね。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-24 13:23 | 柚実子からのハワイ便り

神の顕現の臨在 その1 ウォルター・ビュートラー  8月17日

神の顕現の臨在 その1
                                         ウォルター・ビュートラー


  数年前のことですが、主が私にどこかで一人になって主とだけ交わりなさいといわれました。それで、私は一人で祈りと断食をして主と共に過ごす場所を見つけて金曜の午後にそこに行きました。日曜の午後になって、私は祈りと断食で主を求め始めてから48時間がたった、でも何も起こっていない、ということに気がつきました。何も感じなかったし、何のお言葉もいただいておらず、主の臨在もありませんでした。主は確かに私に何かを語られたいのだということはわかっていましたが、まだ何も語られていませんでした。

私は心の中で、「神が語られるには、長い時間がかかるのだなあ。」とつぶやきました。そう思った途端、主がベルが鳴るのと同じほどの鮮明さで、そしてかみそりのように鋭く、私に語られました。 肉の耳に聞こえたのではありませんでしたが、私はその声を確かに聞いたのです。主は「神をせきたてる者は、神には落ち度があると言う者だ。」といわれたのです。

主は、私は主の来られるのが遅すぎるとつぶやいて主を批判した、言われたのです。私は主に謝り赦しを乞いました。 その途端、主を待ち望んで私がこもっていた部屋のドアを通って主が入ってこられました。主を見たわけではなく、声も聞いたわけではないのですが、主がそこにおられることは目で見るよりももっとリアルだったのです。主が入ってこられ、主の臨在が主の後ろについてきました。それは王が王座にむかって入ってきてそれと共に王の長い衣のすそが部屋一杯に広がるような感じでした。

主は私の左側、腕の長さほど離れたところに立たれ、そこに4時間おられたのです。そしてみ言葉から「神を知ること」 について教えてくださいました。主が聖書の箇所を示されたので、私はそこを開けて読みました。するとそれが驚くほど鮮明に解き明かされ、その麗しさ、深さ、意味が分かるのでした。

翌年の夏に、私はタイのバンコックにいたのですが、道を歩いていくと道ばたに蓮のつぼみが落ちていました。それを拾って花びらを指で開いてみた私は、花の内部の美しいデザインに驚嘆しました。主が私にされたのは丁度それと同じようでした。 主がみ言葉を自ら開いてくださり、その美しさと豊かさを見せてくださったのです。私たちが神を知ることとは、神の御心の直ぐそばに行くことです。この「知ること」の中には、神の顕現の臨在を知り、そして個人的に経験するということも含まれています。

6時になったとき、主はドアの方に向きを変えられ、「そして、主は彼を試みるために去った。」と言われ、主の臨在も部屋の隅々から集められて主のあとについて部屋から出ていきました。
4時間にわたる「キリストご自身」から、「神を知る真の知識」 について「個人的に教わる」という経験は、私が期待し待っていたものをはるかに凌駕していました。このとき主から教わったことを100以上の国々に行って伝えるように後に遣わされるようになるとは、そのときの私には全くわかりませんでした。

この主の訪れを後になって人に話すときには、一つ一つの言葉を選ぶのにも私は非常に注意を払いました。 これは絶対に粉飾しない真理であり、起こったままを私の知る範囲でできるだけ正確に思い出しながらお話しします。

主は「主は彼を試みるために彼から去った。」 と言われました。学校で教師は教えたあと、テストをします。 それで私は、主は私を教えてくださったからそのテストをされるのか、と思いました。 私はじっと待っていましたが、何もおこりませんでしたので、もう寝ようと思いました。まだ8時でしたが、私は金曜日からほとんど睡眠をとっていなかったからです。

すると、サタンがドアを通って部屋に入ってきました。私はそのときベッドの横に立っていたのですが、入ってきたのはサタンだとすぐにわかりました。サタンは主が入ってこられたのと全く同じように部屋に入ってきて、主が立たれたところに立ちました。彼のあとについて悪魔的臨在が長い衣のすそのように部屋一杯に広がりました。 その様子は主の臨在が部屋に満ちたのと同じでした。サタンが話し始めたとき、私の中に恐れは感じませんでした。彼の声は肉の耳には聞こえませんでしたが、特徴あるサタンの声を確かに私は内に聞きました。

サタンは「主はお前のところには来なかった。」と言いました。私は大声で「主は確かに来られた。」と応えました。次にサタンは「聖書は神の言葉ではない。」と言い、私は「いや、確かにそうだ。」と応えました。サタンは 「主はおまえに教えはしなかった。」と言い、私は「いや、確かに教えられた。」と応えました。

このような問答のあと、彼は「どうしてお前は神を否定しないのだ?」と言い、私は「なぜ否定などできようか?」と応えました。彼は「なぜなら神はリアルな神ではないからだ。」と言い、私は「神はリアルだと私は知っている。」と応えました。次に彼は、「お前は救われてなどいない。」と言い、私は「私は自分が救われていることを知っている。」と応えました。

このあと、サタンは「お前は祈りすぎだ。」と言い、私は「そんなことはない。」と応えました。サタンはもっと強い調子で、「お前は祈りすぎて気が変になっているのだ。」と言い、私は「私は祈りすぎてなんかいないし、気も変になっていない。」と応えました。

私はベッドの横に立っていたのですが、このような問答がしばらく続きました。すると部屋が回り始めたように感じ、私はどんどんと速度を速めて回るメリーゴーランドの中にいるように感じました。サタンは「 ほら、見ろ、お前は気が変になってきた。」というので、私は「違う、これはただの幻覚だ。 何も動いてはいない。お前が私をだまして部屋が回っているように思わせているのだ。」と応えました。

これは本当に大変な事態でした。部屋の中のすべてのものがぐるぐると回り、私は三角や四角、木や岩、山などの幻覚に襲われました。サタンは、「さあ、神を否定する準備は出来たか?」と聞いてきましたので、私は「絶対に否定などしない。」と言いました。

主が私に教えてくださったことを全面的に否定させようとするサタンの攻撃に対して、私は堅く立って抵抗しました。するとサタンはくるっと向きを変えてドアから出ていきました。そのうしろからは悪魔的臨在が部屋の四隅から集まって衣のすそのようについていきました。再び主が私と共におられるのを感じました。

10時になっていたのに気がつき、もう寝ようと思いました。そのとき、サタンが再び入ってきて同じところに立ち、悪魔的臨在もその後ろについてきて部屋を満たしました。今度はすべてのことがもっと強力に感じられました。サタンと私は同じ問答を再び繰り返したのですが、一つだけ違いがありました。サタンからものすごい力が出ていたのです。彼が「さあ、もうあきらめる準備はできたか?」と言ったときには、その言葉には恐ろしい権威がありました。

自分がどんどんと弱くなっているのがわかりました。私のサタンに対する答も前のようにきっぱりしたものではなくなっていました。彼は私が降参するようにと激しく攻撃し、私は出来る限りの抵抗を続けましたが、ついに私は「もうこれ以上駄目だ。」と心に中でつぶやき、敗北者のようにベッドに身を投げ出しました。

私がベッドに倒れこんだ途端、自分の内でなにかがそっと動き始めるのを感じました。それが聖霊の存在であることが私にはわかりました。そして、私の中のその存在に意識を集中しました。サタンはまだそこにいましたが、私は彼を無視してこの主の存在をじっと感じていました。するとその存在はゆっくりと大きくなり、歌いはじめました。私ではなく内なる聖霊が歌ったのです。聖霊が“Isn't He wonderful, wonderful, wonderful, isn't Jesus my Lord wonderful. 主はすばらしい、すばらしい、すばらしい、主イエスはすばらしい”と歌うのがはっきりと聞こえました。

聖霊は歌い続け、その臨在がどんどん大きく強くなっていきました。私はじっと耳をかたむけました。サタンも多分その歌を聞いていたと思いますが、何も言いませんでした。ついに聖霊の臨在は私ののどにまで達し、私も彼にあわせて歌い始めました。私の中で歌う聖霊とともに私は大声で歌いましたが、サタンは黙ったままでした

聖霊が歌うのをやめましたので、私はそのままじっとして待ちました。聖霊は「敵が洪水のように押し寄せるとき、主の霊は敵にむかって防御のための武器を挙げる。」と言われました。それを聞いてサタンはすばやく立ち去り、主の栄光が部屋全体に満ちました。私がもう抵抗できないほど弱くなったその瞬間に、聖霊が私を防御しに来てくださったのです。 もう、真夜中になっていました。次の日私は家に帰りました。

皆さんはどうしてこのようなサタンの攻撃があったのか、といぶかしく思われるかもしれません。4時間にもわたって主が神を知ることについて、また、主の個人的な顕現の臨在について教えてくださったのです。ですから敵は、主が私に与えてくださったまさにその事を滅ぼそうとしたのです。 サタンが最も憎むことは、私たちが神を個人的に知ることです。サタンは主の民が「主ご自身の顕現の臨在」を体験することを絶対に阻みたいのです。

サタンが私を打ち負かそうとあれほど激しく攻撃してきた理由は、「個人的に主を知ること」と「主の顕現の臨在のリアリティ」に関するこのメッセージがクリスチャンにとって極めて重大ことだからだと私は信じます。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-17 18:05 | 主と個人的に深い交わりを持つ

主の親しき友ウォルター・ビュートラーについて  ウエード・テーラー  8月11日

主の親しき友ウォルター・ビュートラーについて 

ウェイド・テイラー



ウォルター・ビュートラー師は私が学んだ聖書学校の教師でした。師は他に類を見ないほどに主イエスを個人的に親しく知り、主と共に歩いた人でした。稀にみるような主との親しき交わりの中での彼の生活は、周りの者にもその素晴らしさがよく分かりました。師が教えている教室に、主イェスはしばしば訪れてくださり、ご自身を顕され、師に教えを受けていた学生たちの人生の上に働いてくださいました。 その一人であった私の人生もチャレンジを受け変えられてゆきました。
師は度々学生たちに、主を個人的、体験的に知るようにと勧めました。師自身のユニークな主との霊的歩みと体験を話してくださり、私たちももっと主を熱心に求める気持ちを持つようにというチャレンジを与えてくださいました。

師のミニストリーにより、私の霊的な歩みの2つの面が非常に重要になりました。 第一は、「主を待ちのぞむ」という質の高い時間をついやすことのはかり知れない恩恵を理解したことです。第二は主の「顕現的な臨在」(Manifest Presence)を体験することが可能であることを知ったことです。師の教えのおかげでこの2つは私の人生の中で現実のものとなりました。

ビュートラー師が教えられた霊的原則は、私の霊的生活に大きな影響をあたえ、私のミニストリーの基礎原則ともなりました。
 
それは「私たちが神のために愛の家を建てるならば、神は私たちのためにミニストリーの家を建ててくださる。」というものです。
この原則は真理であり力があることを私は証言することができます。

ビュートラー師は広範囲にわたって海外でのミニストりーを行い、「主の顕現の臨在」と「神の導き」について1974年の亡くなる直前まで教えられました。

あるペンシルバニアのペンテコステ派聖書学校にビュートラー師が訪れたときの一学生の記録をここに載せます。

「神の祝福だけでなく神ご自身を求めたウォルター・ビュートラー師の思い出」

ウエスタン・ペンシルべニア聖書学校の学生たちは興奮で騒然としていました。ウォルター・ビュートラー師が来週この学校に来るというのです。私は彼の話を聞いたことがなかったので、上級生たちがこんなに興奮するのなら、素晴らしい人に違いないと思いました。

 とうとうその当日となりました。 会堂は一杯になりました。学生だけではなく、遠いところからも人々が詰めかけていたのです。

   彼が話し始めると、今まで私が聞い話とは何か少し違うことに気がつきました。彼がイエスについて話すとき、イエスについての大量の情報を提供するのではなく、あたかもイエスが彼の友達であるかのように話したのです。このことが私の興味を引いたので、私はもっと注意深く聞くことにしました。彼の話す話はただの話以上のものだということがわかってきました。それは彼が友達イエスと一緒にした冒険談の数々だったのです。

彼は彼の友達(イエス)のことを教えるために世界中に出かけていきました。通常一人で旅行をしましたが、神の臨在がいつも伴っていたので、実際のところ一人ではなかったのです。彼とイエスがロンドン行きの飛行機に乗って大西洋上空を飛んでいたときの話です。二人で愉快な旅をしていたのですが、イエスが急に「ウォルター、今度はピラミッドのところで会うからね。」と言われていなくなるのがわかりました。彼はロンドンに到着すると、すぐにエジプト行きのチケットを買い、エジプトに行き、ピラミッドのところで腰をおろしました。 すると、彼の友達(イエス)の臨在を感じました。間もなくエジプト人のビジネスマンが彼の横に座りました。主が彼をエジプトに呼ばれた理由はこの人だったということが彼にはわかりました。彼がこの人に友達のことを話し始めるのに時間はかかりませんでした。エジプト人は、「主は私の友達にもなってくれるでしょうか?」と聞くので、彼は喜んでイエスを紹介しました。そして、また飛行機に乗って旅を続けたのです。友達と一緒に。

ビュートラー師は、彼が友達と一緒にした冒険談をいくつか話してくれましたが、一つの話を忘れることができません。彼があるときバンコックの飛行場につくと自分のスーツケースがありません。彼はモテルに行き、そこで飛行場からの連絡を待ちましたが、なんの連絡もありません。彼はまた飛行場にいってコンベイヤー・ベルトのあたりを見回しましたが、ありません。もうなくなってしまったとあきらめて、必要なものを買うことに決めました。その場を去ろうとしたとき、突然主の臨在を感じました。 主はそこを立ち去りたくないのだ、と彼は感じました。もし、主がここにとどまりたいのなら自分もいなくてはならないと、彼は思いました。彼は友達の臨在を感謝し礼拝しました。深い礼拝をささげていると、彼のスーツケースがベルトにのってきました。 別の飛行機の荷物にまぎれてしまっていたのです。

友達の話をし終えると、彼はとても変わったことをしました。彼はゆっくりと会衆に背を向け、じっとそのまま立っているのです。こんなことは見たことがない、と私は思いました。誰も動きませんでした。聖なる静寂がその場を覆いました。 沈黙がしばらく続きましたが、突然一人の女の人が泣きながら立ち上がり、会衆の前で自分の罪を告白し始めました。信じられないことでした。ビュートラー師といえば、彼は彼女が告白を終わるまで会衆に背を向けたままでした。彼女が終わるや否や、他の人が立って罪を告白し、そのように次々と人々が立って自分の罪を告白したのです。ついには私も立ち上がりました。主の臨在が満ちていました。それは厳かであり、憐みに富み、愛にあふれていました。 やがて静かさが戻ると、彼は会衆の方に向き、彼の友達を愛してくれてありがとう、と私たちに感謝を述べてから壇上から去っていきました。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-11 17:02 | 主と個人的に深い交わりを持つ

トーフー・ボークー    坂 柚実子     8月9日

トーフー・ボーフー

グラハム・クック師のカンファレンスのCDを聞いていたら、「トーフー・ボーフー」という言葉がでてきました。創世記のはじめの「(地は)形がなく、何もなかった。」という箇所のヘブル語だそうです。 クック師がおもしろがって何度も「トーフー・ボーフー」と言うと聴衆もそのたびに笑っています。私も「豆腐が暴風のなかでグチャグチャになった感じね。」と納得しました。私たちのこころも「トーフー・ボーフー」になってしまうことがあります。

カーター元大統領の妹さんが人生の嵐の中に置かれたとき、ある教会の集まりに出席したそうです。リーダーが「愛、喜び、平安の3つの中で、何が一番今あなたは欲しいですか?」と聞いたとき、彼女は「私は全部欲しいです!」といって泣きくずれたそうです。そこにいた人たちは彼女の正直さに心打たれ、みんなで彼女のために心をこめて祈ったそうです。

今私たちの周りは悲惨な事件が満ち、関係者の苦しみはいかばかりかと思います。また、すべての人々は様々な苦しみ、悲しみ、悩みを経験しています。そういう困難な中にあっても、主を信じる私たちは揺るがない愛、喜び、平安を持つことが可能であるとクック師は言います。彼は何事が起ころうとも、数秒で主の平安に入ることができる霊的訓練を徹底的にしたそうです。ダビデが「神は私の避け所であり、砦である」と何度も詠っているように、主の翼の陰に逃げ込む道をしっかり会得することは、非常に大切だと思います。

ちなみにクック師の人生は苦難に満ちていました。兄弟の中で何故か彼だけが父親に疎まれ、ひどい虐待をいつも受けていました。母親はクリスチャンではありませんでしたが、あるときの父親の仕打ちがあまりに激しくこのままでは彼が殺されてしまう、神よ助けたまえ、と祈ったのでした。すると、クック師は高熱を出し入院せねばならなくなり、それで父親の手から逃れることができて命が助かったそうです。彼は友人が一人もおらず、誰とも親しく話すことができないで成長しました。そういう境遇の中で、彼は主イエスを唯一の友、唯一の話し相手として親しく知るようになりました。

主によって預言者として立てられましたが、1970年代のイギリスのキリスト教界ではまだ預言者に対する認識が低く、中傷、非難、迫害の連続だったそうです。長い間の経済的困難は勿論のこと、彼の妻が神経をわずらい彼の世界的な活動についていけないという理由で最近妻から離婚を乞われ、このこともキリスト教界の一部からの非難を受けることとなりました。

彼の話が聞く人の心に響くのは、このような苦しみを通ってきた人にしかわかり得ない神の真実を彼が知っているからだと思います。そして苦しみの中でも神の愛の深さを十分に味わって静かに勝利している真の信仰の強さを彼の中の見ることができます。

私たちのいのちの源は神です。地がトーフー・ボーフーであったとき、聖霊がその上を覆ったように、私たちも主の前に立ち静かに聖霊に覆っていただき、神を礼拝することはクリスチャン生活の原点であり、苦しみの中にあるとき私たちがとるべき姿勢だと教えられます。 (終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-09 17:18 | 柚実子からのハワイ便り

天の御国は今地上に侵入してきている  リック・ジョイナー  8月3日


天の御国は今地上に侵入してきている

リック・ジョイナー  

真理の回復

一世紀に教会が始まって以来今日に至るまで、人々に受け入れ易くするためと称して、キリストの福音を水で薄め妥協の産物に変えてしまう人たちが常に現れてきました。 これは一見、福音を受け入れ易いものにして敵を作らないので教会の発展を助けるように思えますが、かえって教会や真のクリスチャンに様々な問題を与える結果を生みました。 水で薄めた福音の最終的な実は、真の改心者を生み出すというよりも、それ以上に多くの偽善者を生み出す結果になり、究極的には教会史の中で最も暗い時代をもたらしてしまいました。今教会はその暗やみから少しづつ這い上がり、光と真理を回復しつつあります。

光と真理が回復されてきたのは、リーダーとなった真の弟子たちの働きによるのであり、彼らが人々よりも神を喜ばせことを決意したからです。彼らは福音を水で薄めるという誘惑を退け、人々に何と思われようとも神の御前で真理に立って歩むことを決意したのです。 真理を回復させている者たちは、論争や争いの渦中にいつも置かれることになるのですが、それは自分は神を喜ばせている、という内なる平安を受けるための代価としては、ほんのわずかなものと言えましょう。

栄光と光が放たれている

今真理を追い求めている者たちの中に栄光と光が解き放たれています。一方真理の回復が進んでいる中で、神ではなく人を喜ばせようとしている者たちの間には暗やみと混乱が広がっています。 パウロはガラテヤ1:10で、「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」と言っています。 人の歓心を買おうとすればするほど、主への真の奉仕からは遠ざかってしまうのです。

主のご計画の一部を担う者となり、神の王国の道備えをしたいと願うならば、私たちは人を恐れることから全く解放され、ただ神だけを畏れつつ生きねばなりません。 イエスはヨハネ5:44で「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか。」と言っておられます。

栄誉(glory)と訳されているギリシャ語はdoxaで、「認められること recognition」とか「名誉honor」とかに訳すこともできる言葉です。神からではなく人からの栄誉や承認を求めて生きているとすれば、主がここで疑問を投げかけておられるように彼らが主を信じることは不可能でしょう。人に対する恐れが真の信仰を打ち壊す最たるものなのです。

真の弟子は人を恐れることから全く解放されている

この時代の終わりに近づいている今、人を恐れることなく神に喜ばれ神に仕えることだけに生きる真の弟子、真のリーダーが起こされてくるでしょう。彼らは地上でもっとも危険な者たちであると言われるでしょう。 妥協して生きる人たちや、神のためではなく人のために作られたすべてにとって、彼らは危険な存在となるのです。

この世の王国、即ち人間の王国と神の王国とがいずれ衝突することは必至であり、両者の間の軋轢はだんだん大きくなっていくでしょう。 しかしながら、もし自分は神に従っていて神に喜ばれていると確信できるならば、たとえ全世界を敵にまわしてもあなたは完全な平安のうちにとどまることができます。

 確かに真の弟子やリーダーはまだわずかですが、今すでに私たちの中に現れています。 彼らは神のみこころによってのみ生きる者たちであり、神の王国のパン種であり、パンにする粉全体、すなわち教会全体をふくらますことができます。ダニエル2:44-45に、ダニエルがネブカデネザル王の像―それは歴史上の数々の王国を表していましたが―の夢を解き明かしたことが書かれています。

  ダニエル2:44-45 「 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

天の王国は今地上に侵入している

  ダニエル2:35にあるように、「その像を打った石は大きな山となって全土に満ちた」のです。この地上の数多くの王国のただ中にもう一つの王国があるのです。それは一つの石だったのですが、それが大きな山、即ち一つの統治制度にまで成長し、ついには地上全体に広がっていくのです。この王国は、王に従いたいと心から願う者たちによって構成されています。すべての地方教会の中でこのような者たちがこれから立ち上がってくるでしょう。

  王なる主ご自身や主の道を備えたメッセンジャーと同じように、妥協に対して断固として戦う者たちがいます。この世と妥協した生き方をしている人たちの人生には、様々な問題がこれから起こってくるでしょう。

  私たちは「統治」というと政治的組織だけを考えがちですが、霊的な統治とは勢力と影響力の領域で行われるのです。その中には、メディア、産業、経済機構、教育機関なども含まれます。

  一つの石がこの世のシステムを打ち砕くために現れ、王の王にひざをかがめない者は風に吹かれる籾殻のようになるでしょう。誰が石の一部となるか、誰が籾殻になるかが、今決められつつあります。主がマタイ16:24-26で言っておられるとおりです。

 マタイ16:24-26「 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

  使徒パウロは、自分は毎日死んでいる、といっています。(Iコリント15:31) 彼は真の弟子でした。同じことがすべての真の弟子についていえます。彼らは主のみこころを行うために自分の命を毎日捨てるのです。自分のためではなく主のために生きるからです。

誰に仕えるのか、今日選びなさい


  私たちには毎日誰のために生きるのか、即ち、自分のために生きるのか主のために生きるのかという選択肢が与えられています。私たちは、自分の十字架を負う機会を少なくとも一日一回は与えられることは間違いないでしょう。 それは自分の思いや野心に死んで、主の真理に堅く立ち、人の歓心を求めるのではなく主に仕えていくことを選びとる機会です。 私たちは今どのような選択を日々しているでしょうか。それこそが私たちがどちらの王国に属する者になるか、終わりのときにどこに立っているか、を決定していく一番の要因なのです。

  主への信仰と真理を守るためにはいのちをも惜しまない、と言いながら日々の生活の中でそれを実践していかないならば、自分自身をだましているのです。 真理を知っているにもかかわらず自分に妥協を許すことは、本人の基本的人格、尊厳を損なうものであり、やがては癌のようにその人の全身を侵していきます。

  小さなことにまず従わないならば、大きなことにも従えないのです。 「証人witness」と新約の中でしばしば訳される言葉のギリシャ語は、実際に「殉教者 martyr」 とも訳すことができます。私たちは毎日殉教者になるようにと召されているのです。自分の命を捨て自分勝手な思いを捨てることによってこそ、私たちは福音の真理を証する証人となることができるのです。

  これからは神の王国とこの世の王国とがますますはっきりと切り離されていくことは確かなことでしょう。 王なる主のしもべたちと他の人たちとの相違が、誰の目にもはっきりしてくるでしょう。 イエス・キリストが人間のすべての問題に対する答えです。 ですから、神に服従せず従わないことが、人間のすべての問題の究極的な原因なのです。この事実はこの時代の終わりに近づいていくに従ってますます明らかになっていくでしょう。今日どのような選択をしていくかが、私たちが人間の王国の足を打ち砕く石の一部分になるのか、あるいは籾殻になってしまうのかを決めるのです。

  他の人々からの―たとえ彼らがクリスチャンであっても―歓心や称賛を求めて自分の信念を捨て妥協することがないように、私たちは知恵ある選択をしていくことを今、堅く決意すべきです。
神の王国の一員になるのだとすれば、私たちがいのちをもってお仕えするのは人ではなく、主なる神でなければなりません。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-03 18:41 | アメリカからのメッセージ

一座建立       坂 柚実子         8月2日

一座建立

一座建立(いちざこんりゅう)とは「茶道で主客(亭主と客)に一体感を生ずるほどに充実した茶会となること。茶会の目的の一つとされる。」ことだそうです。

私も以前茶道をしていましたが、茶事、茶会で亭主をするのは、それこそ大変です。点前道具や懐石料理、軸、花、茶室、露地等々、準備するものがたくさんあります。大事な茶事であれば、何ヶ月も前から準備にかかります。それでは、それに招かれる客は楽かといえば、そうでもありません。いろいろな決まりごとがあり、一応それを会得していなければよい客とはなれません。

客の代表を務める正客に選ばれるのは、非常に光栄ではありますが、責任重大です。というには一座建立するためには、正客がどのように亭主と言葉を交わすか、どれほど他の客の気持ちを汲んでことを進めることができるかにかかっているからなのです。例えば他の客が静けさを楽しんでいるときに、正客が饒舌ではぶち壊しです。

道具について亭主に尋ねるときも、的を得た質問でなければなりません。ですから頭の知識も必要です。でも知識をひけらかすだけではよい正客とはいえないでしょう。やはり、こころの在りよう、即ち、自分中心でなくそこにいる全員のことを考慮する正客のこころの広さが、一座建立の鍵なのだと思います。茶道で私が教わった一番大切なことは、このことだったような気がします。

今の私が痛切に感じているのは、様々なミーティングの中で、自分がいつ、何を話せばよいのかをわきまえ知る難しさです。伝道者の書に「黙っているのに時があり、話をするのに時がある。」とありますが、今は黙っているべき時なのか、それとも話すべき時なのかをわきまえ知ることは、人生の様々な訓練の中でも最も大切なものの一つではないでしょうか。

ミーティングにみんなが気持ちよく参加するためには、その会の性質をわきまえ、一人の人の話しを聞くべきときならばしっかりとそれに耳を傾け、全員が意見をいうべきときであるならば自分に与えられている時間内で適切に話すことが大切です。私たちは必ずしも人間的なレベルでの「いい会」を望むわけではなく、聖霊が自由に働いてくださる会をもとめますが、そのためにも参加者一人ひとりがしっかりと聖霊に聞きながら平安の中でお互いを尊重しながら会を進めなければならないと思います。

どちらかというとアメリカ人には自己主張が強いおしゃべりが多いかもしれません。そういう人といるとこちらは話さなくていいので、楽といえば楽ですが、やはり聞くばかりだと疲れますし、こころの交わりにはなっていないことが多いと思います。 

ある日本の高校生の親への希望というのに、「父よ、もっと話してくれ。 母よ、もっと黙っていてくれ。」とかがあったそうですが、父とも母とも心からの会話をすることができない彼のジレンマが表れているような気がします。いろいろな生活の場で「一座建立」ができるならば、人間の「解りたい、解ってもらいたい」という根本的な必要がかなり満たされるのではないでしょうか。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-08-02 14:20 | 柚実子からのハワイ便り