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戦士の民(2)    リック・ジョイナー    9月30日



戦士の民--------新しい教会のリーダーシップ(2)
  
リック・ジョイナー 渡橋喜代佳訳



新しい音

現在教会リーダーのほぼ90%が男性であるにもかかわらず、教会が女性的になったため
に、大半の男性が教会内で居心地の悪い思いをしたり、退屈に感じたり、教会にはあまり
関係したくないと思ったりしている。男性が教会に参加しているのは、義務感からしぶしぶそうしている場合が多い。自分の居場所を教会内に見いだせないと感じているからだ。そのため、教会出席者の圧倒的多数が女性なのである。男性は、主を愛し神に用いられたいと思っている者でさえ、多くの場合教会が好きではないし、教会に行かなくてすむならどんな事でもしようとする。一般に、今日の教会は、男性のもっとも基本的な必要の多くにきちんと答えていないのだ。これが教会の外で起こった男性たちの運動が非常な人気を博した一因である。

私たちが本来召されているような教会になるためには、現在の定義や組織を根本から変え
ていく信仰をもたなければならない。女性的でもあり男性的でもある教会となって、男女
両方の必要に答え、その必要を満たすためである。男女両方ともが、教会内で居心地よさ
を感じるべきだし、自分たちがどのように教会に組み込まれるのかがすぐにわかるべきで
ある。教会とは、本来もっとも刺激があって、喜びと活気を与える魅力的な集まりである
べきであり、近いうちに再びそうなっていくだろう。

これからの新しいメガチャーチ

教会がその真の召しに喜んで応じ、その真の性質を示し始めるなら、この地上でもっとも
尊敬される、望ましい共同体となるだろう。現在とは著しく異なった姿になり、教会
は国々の中に打ちたてられる一つの国とみなされるまでになり、実際、そうなっていくであろう。そのような変革を成し遂げた教会は、人数が急増していくので、何十人の上に立つリーダー、あるいは何百人、何千人の上に立つリーダー達が必要となってくるであろう。

自分たちがどのような者として召されているのかという本質を妥協せずに保ちつつ、今ま
で経験したことのない膨大な数の人々に仕え、彼らを受け入れる備えをしなければならない。
これは非常に難しいことであるから、聖霊によってのみ実行可能となる。人間的な
どんな組織によっても、また、どんなリーダーによっても不可能なことである。主が
教会のかしらとなられるため、かしらである主の主権に無知であったり、その主権
に服従しようとしない人々は、これからの時代には長続きしないだろう。

教会はまもなく主が計画された本来の姿に変わっていく。そうなると、この地上でもっと
も魅力的で注目される社会、すなわち、来たるべき神の国を示すものとなる。家庭崩壊がこの
時代の最大の問題の一つであるが、教会は、本来召されているような家族になっていくだ
ろう。そのとき、クリスチャンの家庭も本来のあるべき姿に変わり始める。これから訓練
やしつけが大いに強調されてくるとともに、人間関係もまた大いに強調されるようになる
だろう。それは、とくに、家庭を強固なものにし、家庭に対するあらゆる攻撃に抵抗する
ためである。

学校や他の領域での戦い

キリスト教主義の学校も、教会のもっとも重要な働きの場の一つとなり、教会や家庭を
むしばんでいる根本的な問題に対する主要な解決になっていく。しかしながら教会と同様に
キリスト教主義の学校もこの時代にあってその目的を達成するためには、数多くの根本的な
変革がなされていかなければならない。

心の形成のために子どもたちをこの世にまかせておいて、彼らの心が一新されることを期
待するのは無理な話だ。調査によれば、実に75%近くのクリスチャンの子どもたちが、大
学に入学して30日もしたら信仰を失っている。ほとんどの短大や大学において、オリエン
テーションの時からすべてのクリスチャン新入生の信仰は、まともに攻撃されることにな
る。大学教育の基本や体系そのものが信仰に反するからだ。ほとんどの者は霊的武具を身に
つけていないため、この猛攻撃にもちこたえることができないでいる。しかし、こうした事態も
容易に変えていくことができるし、また、変えていかなければならない。

大学新入生の信仰をむしばむために用いられる議論は、聖書に対する攻撃から始まる。こ
れがエデンの園で蛇が用いた戦略であり、それによって、彼はエバが神の語られたことば
に疑問を持つように仕向けたのである。そして、それ以来、悪魔はこの戦術を変えてはい
ない。非常に効果的だからだ。ひとたび学生たちに聖書が本当に神のことばであるかどう
かという疑問をもたせたなら、次に悪魔たちは、現在彼らがきわめて優勢な戦いを進めて
いる領域にその学生たちを連れて来る。科学や論証の領域がそれであり、ここでは何世紀
もの間、信仰を弱めることが具体的に計画されてきたのだ。

聖書の信憑性を否定し、クリスチャンの信仰を攻撃するために用いられる論拠は、事実の
歪曲や誇張、完全な偽りであって、容易に否定できるものだが、子どもたちもまた、はっ
きりそれを否定できるように武装していなければならない。護教論がキリスト教教育の真
の土台の一部になる時がきた。「護教論」(apolo-getics)というのは、真理を弁護する
という意味のギリシャ語の単語からとられている。私たちは、敵の投げ矢が貫くことので
きない堅固な信仰の盾を、子どもたちが自分で築くのを手助けしなければならない。私た
ちにはこのための道具があり、今それを用いなければならないのだ。

科学や教育、メディアはすべて、教会が戦って取り戻さなければならない領域である。そ
れらはみな、実際は信仰から生まれた「子どもたち」である。今は反抗的な「子どもた
ち」かもしれないが、やがて家族のもとに戻って来るようになるだろう。科学や教育、メ
ディアは真理を大いに愛するものとなり、信仰の真の味方になっていく----このことはよ
く注意して、覚えておかなければならない。

「現代教育の父」と称されるジョン・アモス・コメニウスが「すべての真の科学は創造主
にいたる」と言っているが、この預言は、私たちのこの時代に劇的に成就している。もっ
とも優秀な頭脳の持ち主の多くが、また、真に知的に正直な科学者たちのすべてが、科学
的な根拠によって知的デザインによる創造に疑問の余地がないことを認めつつある。今後
この傾向はますます強まり、雪崩のような勢力をもつまでになるだろう。

ウィルソン天文台の所長であり、かつては宗教的不可知論者だと公言していたロバート・
ジャストロウは、「いわゆる超自然的な力が働いているということは、今や科学的に証明
された事実だと思います。」と語っている。これは、1982年8月号の "Christianity Today"
のインタビュー記事に掲載された言葉であるが、他の多くのすぐれた科学者たちも同じ事
を語っている。ジャストロウは彼の著書『神と天文学者』(P116)で、次のような結論を
出している。

「理性の力を信じて生きてきた科学者にとっては、この話の結末は悪夢のようだ。彼は無知とい
う山を登りつめ、一番高い峰をまさに征服しようとしていた。最後の岩をよじ登ると、なんと
そこには、すでに何世紀もの間そこに座していた神学者たちの一団がおり、彼は彼らから歓迎を受けることになるのだ。」

科学や教育、メディア界にはずっと一つの見解(訳者注:信仰に対する反感)があって、そ
れがこれからも拡大していくことは予想していなければならない。彼らとある地点で一致するために妥協して半分歩み寄ることを私は薦めるわけでは決してない。しかし、理性に反するだけでなく、聖書そのものにも反する教義の誤りが私たちのほうにあるならば、それらを検討して告白する必要は確かにある。このことは、テーマとしてあまりに範囲が広すぎて、ここで取り上げる
わけにはいかないが、真理を愛するというなら、自分たちが真理を歪曲したところはどこ
でも、また、歪曲したときはいつでも、はっきりとそのことを認めなければならないのだ。

科学者は自分の新しい考えを隠さずに正直に公表するようになってきているが、大学はまだそれほどではない。なぜなら、
ほとんどの大学は、自分の専門分野においてさえも、時代の先端を行く知識の蓄積や基礎
的な流れから、現実には何十年も遅れをとっているからだ。顕著な例外はあるに
しても、大学が先端を行く学術研究や制度の革新の主役でありえた時代は、遠い昔のこと
になってしまった。

「実行できる者には実行させよ、実行できない者は教師にせよ。」という言葉がある。教える
ことそれ自体は崇高な召しなのだが、「実行するもの」と立証された者が教えるべきであ
る。今日の大学教授は、概して、何十年も前に自分たちが学んだことを今もそのまま繰り
返しており、真の時代の先端を行く思考からはますます遅れをとっている。今そうした思
考が見いだせるのは、ほとんどの場合、企業においてである。大学や教育者たちからは抗
議の声が上がるだろうが、今やこれは事実であり、日々ますますそうなってきている。最
近大学から生まれた重要な開発か、科学技術か、制度の革新が何かあっただろうか。

私はこうあるべきであると言っているのではなく、一般的な現状を話しているのである。今の教育の場において、真の創造的思考を助長し、奨励するかわりに、むしろそれを損なう力が作
してきた。一般の教育はますます時代と歩調が合わなくなってしまっている。もし、教育が、本来召されているように文明の光り輝く照明のようなものになるとしたら、根本から変わらなければならない。それには、大学や現代教育を生み出してきた教会が、あらゆるレベ
ルの教育に対する権限をもう一度取り戻さなければならないのである。

教会がこの目的のために一致するならば、はるかにうまくやることができる。私たちは、
本来召されているように「世界の光」(マタイ5:14)、すなわち、知識や真理の主要な
源にならなければならない-----しかも、あらゆる分野においてだ!1ヨハネ2:27では、
このように言われている。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまって
います。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことにつ
いてあなたがたを教えるように、-----その教えは真理であって偽りではありません。
-----また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとど
まるのです。」

すべてのことが油注ぎのもとで教えられるべきである。科学や数学、歴史も含めて、まさ
にすべてのことが!そもそも、この世界を創造された方以上に、この世界についてうまく
教えられる者などいるだろうか。教会がこの基本的な真理を回復するなら、私たちは、あ
らゆる知識においてあっという間にこの世を追い越すだろうし、この世は、助けを求めて
私たちのもとに道を急ぐことになるだろう。まず、大学を取り戻すことから始めなければ
ならない。大学は、教会によって始められたにもかかわらず、この世の霊に屈してしまっ
たのだ。私たちは、真理に基礎を置き、油注ぎによって教えていくような、時代の先端を
行く新しい学校を建て上げなければならない。

学校は、教会のもっとも重要なミッションである。宣教師として教師や教
授、理事たちを学校に派遣する必要がある。主の軍隊がその目的を果たし、確実な勝利を
勝ち取っていくためには、長期のビジョンをもつとともに、日々の戦いをしていくことを
学ばなければならない。実際のところ、私たちには千年のビジョンを持つ必要があるの
だ。私たちは、主とその御国の到来のために道を備えるよう、召されている。そして、そ
の備えは、今私たちが御国で生き、この全地にその御国が来るための基礎を築いていくこ
とによってなされる。 

きわめて基本的な形で、学校や政府、産業までもが、この地上におけるキリストの千年王
国の原則にしたがって建てられたり、再建されたりすることができるのだ。これが私たち
にゆだねられたことであり、召しでもある。多くの人々がこのことを悟り始めたし、御国
の福音を宣べ伝えるという、この大目的のために献身する人々も出てきている。

私たちの時代に信仰の戦いを立派に戦うには、明確な焦点と訓練、真の戦士の信仰を要す
るが、今や、ラッパの音が鳴り響き、終末の時代の軍隊が召集されつつある。教会は、真
理の敵を前にしてもう退却することはしないで、本来の召しである真理の擁護者、真の自
由の戦士になるのだ。(終わり)

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by walkwithgod | 2006-09-30 12:02 | アメリカからのメッセージ

主の剣の音が鳴り響く年  チャック・ピアース  9月23日

主の剣の音が鳴り響く年

チャック・ピアス


ヘブル暦の5766年が終わろうとしています。そしてラッパの響きとともに5767年、「主の剣の音が鳴り響く年」を迎えようとしています。主はこれからの時代のためにあなたを鋭利にし、あなたの能力を伸ばすための準備を、今、整えられました。今年に対する大いなる指針はイザヤ41:15-20です。
「見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。 悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。 わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。 わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、桧も共に植える。 主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。」

変化のとき

これから成功し栄えるために必要な変化を主があなたにもたらし、大いに繁栄されるようにと祈ります。あなたの人生、家庭、仕事やミニストリーのための啓示を主が与えてくださり、あなたの「後の栄光が先のものよりまさったもの」となりますように。歴史上の今というときにおいては、地上で効果的な働きを続けるためには、「変化」は私たちの人生にどうしても必要なことであり、それを避けて通ることはできません。

変化とは、角を曲がる(向きを変える)ことであり、又、何かを、あるいは誰かをある位置につけることであり、又はある資源を使って別の資源を作ることであり、ある形態から別の形態へと移ることです。又、変化はトランスフォーメーション(変革)の同義語でもあります。教会の敵であるサタンは変革の重要さを知っているので、私たちが変革するタイミングを狂わせたり、今のときのための真理のぶどう酒を入れるためにはあまりにも堅く優柔性のない、規則に縛られている皮袋の中で私たちが習慣的に動くだけにしてしまおうとします。
ぶどう酒は皮袋が形作られる間に絞られねばなりません! 知恵が発達する間に啓示が与えられねばなりません!使徒には預言者が必要です! 預言者はとりなしをせねばならず、とりなし手と連携を取らねばなりません! とりなし手は地上の破れ口を知らねばなりません! 今日この天地で唯一確かなことは「わたしはヤーウェであり、変わることはない。」ということです。ですから、私たちが変わらねばならないのです! 多くの人たちが今自分はふるいにかけられていると感じていることを私は知っています。しかしながら、それはあなたが注ぎのささげ物a drink offeringへと形作られているのだということを忘れないでください。

主の御ことばの解き明かし

最近私たちのグローリー・オブ・ザイオンの礼拝の中で、私のアシスタントであるブライアン・クーイマンが異言で主からのメッセージを語り、その主の御ことばの解き明かしが私に与えられました。「今まであなたたちはシンブル(洋式指ぬき、はめ環:非常に小さなキャップのような入れ物、たらい)の中で泳いでいたが、わたしはあなたがとびこめる大海を用意している。あなたは『主よ、もっと与えてください。』と願ってきたが、あなたの未来のために今まで繋がれていたものを解き放つ必要があるものに対してあなたは語っていない。あなたの子ロバに語りなさい!わたしが子ロバを必要としたとき、『主がお入用なのです、と言いなさい。』と弟子にいった。あなたの人生のために結び目を解き放つ必要のあるものにむかって語りなさい。必要なものをあなたが受けるようにわたしがする。 大海にむかって泳ぎなさい。 頭よりも深いところに出てきなさい。 大海があなたを待っているのにちっぽけな指ぬきの中で泳いでいてはならない。 あなたの泳ぐ場所は拡大されたのだ。 あなたのためにわたしが用意した新しい(大きな)場所で泳ぐためのレッスンを与えよう。」

リンダ・ハイドラーが解き明かしを続けました。「今は拡大のときだ!あなたはこの地で巨人を見たかもしれない。だが巨人と対決せずにはわたしが約束したものをあなたは得ることはできない。今はあなたの信仰を奮い立たせるときだ。よく聞け。あなたの見た巨人たちを打ち倒す戦略をわたしは持っている。彼らがどこに隠れているかわたしは知っている。どの塹壕に隠れているか知っている。あなたに対する彼らのあざけりも知っている。
今のこのシーズンのために世の初めからわたしが持っていた計画を知っている。それはあなたの受けるべき分を引きとめている巨人を打ち倒すものだ。 勝利の鍵は、よく聞いて従うことだ。 わたしは勝利するためにあなたの力を当てにしているのではない。耳を傾け従え! よく聞いて従えば、あなたの進む道をふさいでいるものを打ち倒す戦略をあなたに与えよう。 そうすれば、あなたのためにわたしが約束してきた取り分(遺産)を完全にあなたは手に入れることができるのだ。」

その後をキース・ピアースが続けました。「あなたの種をとり今日蒔け。あなたが種を蒔くとき、わたしはあなたをわたしの宝が注がれる場所に配置しなおす。今はマントル(外套)を交換するときだ。今はあなたがシフト(変換)するための資金を解き放つときだ! あなたの種を蒔いて神の臨在が解き放たれるのを見よ! あなたの種を蒔いて神の臨在が現れるのを見よ!あなたの種を蒔いてあなたが確立されるのを見よ!あなたの種を蒔け!種に実を実らせよと告げよ! 今はあなたの種を祝福する時なのだ! 
古い外套を脱ぎされ! そこから解放されて今わたしが告げている動き(ムーブメント)の中に入って来なさい! あなたの種を蒔け!なぜならば敵の偽りが、今わたしが地上に解き放とうとしているものをあなたから奪い去ろうとしているからだ。あなたのひざは震えあなたはどうやって立つかを知らなかった。あなたが立った場所でもあなたは震えていた。しかし今わたしは新しい方法と新しい音をもってあなたに語り始めている。 わたしはあなたの上に油注ぎの新しい息を吹きかけている。わたしは未来のための勝利の計画をあなたに差し伸べている。勝利の外套を身につけ、今一瞬でもわたしに属するものとして歩いてみなさい。わたしの喜びを今一瞬でも感じてみなさい。そうすれば、あなたはわたしの後を従って歩き続け、あなたの人生に置いたわたしの目的をあなたは完成することができるであろう。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-09-23 05:22

霊的成熟について     坂 達也      9月22日

霊的成熟について

 霊的成熟とは英語でspiritual maturity と言いますが、この成熟という言葉からは成熟したワインを思い起こさせます。ワインといえばその成熟の度合いによって限りなく絶妙な味がするものと言われます。そして、それを味わうためには人間は喜んで高い値段を払うようです。
私の高校の同期の親友から聞いた話ですが、彼がアラブ圏にある有名なゴルフリゾートを訪れたとき、夕食にワインを勧められました。その泊まったホテルの高級レストランでのことでしたが、ワインについて色々説明を受けた後で、うっかり注文したのが桁を間違えて1ボトル百万円以上するものであったことに気が付き、すぐキャンセルしたそうですが、何も注文しない訳にいかず、結局20数万円するものを一本注文して賞味したそうです。味はと聞くと、「なるほど美味しかった」という満足げな答えでした。世の中には数百万円もするワインが存在し、産油国アラビアの富豪たちの中にはそれを毎日のように賞味する人たちもいるようです。

 私たちはキリストを信じ受け入れた後洗礼を受けてクリスチャンになります。それによって「救われた」ことに間違いはありませんが、クリスチャンの中には自分が霊的に生まれ変わったことを真に理解せず、いつまでも肉的なクリスチャンのままでいて何の不満も感じていない人が意外に多くいることに気が付きます。この人たちを称してベービー・クリスチャンと言いますが、この霊的なベービーは、自分が天国行きの切符を手に入れたことで安心し、事足れりと思っているとすれば、それは大変お気の毒な話であるとしか言いようがありません。
 なぜなら、ベービーとは最初は母親の乳か牛乳しか飲めず、食物としてそれしか知らないからです。しかし、成長するにつれ段々世の中にはもっともっと美味しいものがあることが分かってきます。それと同じで霊的に生まれ変わった私たちが霊的な成熟をするにつれて、霊の世界においても、それこそ底なしの深淵に例えられほど無限に美味しい味わいとそれを喜ぶ至高の世界があることを知らないのです。

 クリスチャンが霊的に成熟することとは、私たちがキリストによって満ち満ちた状態となり、完全なる大人になることであると思います。(エペソ4:13)それをコロサイ2:9-10では、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。…」私たちの愛するこのキリストとは、最高にかぐわしい薫りを放ち、最高の甘美な味を与えてくれる値段のつけられないようなワインよりももっとすばらしいのです。
 雅歌1:2-4に歌われています。「 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、 あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。」私たちは主の花嫁、主が引き寄せてくださることを熱望し、主の後を追います。主が言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15:4)これは主との深い交わりの関係に入ることを意味します。

 真の救いとはこの状態に入ることではないでしょうか。そのためにパウロは私たちに「…いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」(ピリピ2:12口語訳)と言われます。
 創造主は人間が血のにじむような努力を重ねた結果、やっとプロの芸術家とかスポーツ選手になれるように造られました。この世でクリスチャンでない人たちが努力に努力を重ねた結果で名を成し、名人芸に達するように造られているとすれば、クリスチャンだけが努力もしないでイージー・ゴーイングに霊的成熟に到達できると考えているとすればそれは大変な間違いです。

 それでは私たちは何を努力すればよいのでしょうか。それは上記の雅歌が教えてくれています。私にとって恐れおののいて努力することとは、主に飢え渇き、徹底的に主を追い求めることです。そして、その方法は「何もしない」と言うことなのですから至極簡単です。誰でも出来ます。ただ主のために時間の無駄をすることです。主の前に無心になって座り、じっと主が現れ、主が語って下さるまで何時間でも待つことです。毎朝少なくとも一時間から二時間それをすることがそんなに難しいことなのでしょうか。石の上にも三年と言いますが、これを三年と言わず、半年も続ければ、あなたに霊的成熟の成果が現れ始め、あなたは一度その「主との親密な交わり」と言う甘美な味を味わったら、止められなくなります。もっともっと欲しくなるからです。終末の今はそのシーズンであると信じます。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-09-22 04:25

通訳       坂 柚実子        9月21日

通訳

 人間的に言えば、本当にひょんなことから私たち夫婦はヘンリー・グルーバー師の通訳をすることになったのです。1995年の6月に初めてポートランドの近くの教会での師の集会に行ったのですが、その4ヶ月後にはグルーバー師御夫妻を日本にお連れすることになりました。このスピードは全く不思議な神様の御計画としか言いようがありませんでした。

 当時の泉の森祈祷院での一回目の集会では、主人がグルーバー師の横に立って通訳をすることとなりました。 ところが、主人は頭の通訳のスイッチを入れ忘れ、全く日本語がでてきません。「おまえ、代わってくれ」といわれた私も本当に困ってしまいました。グルーバー師も日本のクリスチャンの前に立つのは始めてで、何を話せばよいのか分からない状態。とにかく、私には難しいお話をされました。見かねた英語のわかる方々が聴衆の中から助け舟を出してくださいましたが、それはもう、通訳者としては惨めなものでした。

 グルーバー師のメッセージのあとのミニストリーの時間も、幸い通訳の経験豊かな方がおられ、その方にお願いすることができました。見ていた私は、「へーえ、こんな風にするんだ、、、」と学んだのでした。それから毎年日本にグルーバー師をお連れするようになりました。グルーバー師もできるだけやさしい言葉で話すようにずいぶん努力をしてくださいました。

 グルーバー師は聖書は欽定訳を使われますが、私たちが使っている新改訳では同じようには訳されていなかったりすることも多く、師も頭を抱えられることがしばしばでした。また、主人も私も通訳をするときは、自分がはっきり理解してから訳したい、と思う性質なので、かえってもたもたと時間をとってしまったりして、聞いている方にご迷惑をかけたことも多いと思います。

 そもそも私の最初の通訳の「仕事」はとてもユニークでした。それは、エドモンド・ブショアというポートランドにある英語学校の先生に頼まれたものです。あるチャーチ・スクールで、先生が沖縄にミショナリーとしていったときは、こんな風に通訳者を使って話をしたということを子供たちに見せたいというのです。私は着物を着てくるように言われました。そして、彼が英語で話すのを日本語に訳すのですが、子供たちは全部アメリカ人ですから、私が何を言ったって分からないのです。つまり間違えてもいっこうに差し支えない「仕事」だったのです。なんか、恥ずかしいような、情けないような気持ちがしたように覚えております。でも、とにかくそれが私の通訳デビューだったのです。

 私たち夫婦はアメリカに長年住んだというだけで、通訳者としての訓練も受けたことがないにもかかわらず、神様が用いてくださっていることを感謝しています。しかし、二人とも歳のせでしょうか、一ヶ月間の通訳はだんだん疲れを覚えるようになり、他に助けてくださる方を祈り求めてきました。そして、今回、いわき市の森 章牧師がお忙しい中を後半の2週間グルーバー師に随行して通訳をしてくださることになり、主のすばらしいお計らいに感謝しております。

 今回グルーバー師は10月1日から11月6日までの予定で日本各地で伝道されます。私たち夫婦は10月16日まではグルーバー師と同行し、その後沖縄に参ります。どうかお祈りください。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-09-21 13:39

戦士の民(1)      リック・ジョイナー      9月10日

戦士の民-----新しい教会のリーダーシップ

リック・ジョイナー 
渡橋 喜代佳 訳



戦士がこれからの教会リーダーである

「兵士は多いが、戦士の数は多くはない。」かつて特殊部隊の将校が私にこう言ったことがある。自分の職務をとても真剣にとらえ、非常にうまくやりこなせるプロの兵士は多いが、戦士に会ってみると、その両者の違いははっきりしている。

まもなく、十字架の兵士全員が真の戦士になっていくだろう。今まさに、教会のリーダーシップが、プロの手からその真の戦士たちの手に移されようとしている。
 
戦士とは、戦いの音のする方に駆け寄って行く者であり、そこから逃げることはない。戦士は、争いや危険な状況の厳しさの中でうまく事をやりとげる。また、反対や困難に直面したからといって失望することなく、かえってそこで本領を発揮する。そして、これこそが、これからの新しいクリスチャンの気質となるのだ。これから登場するクリスチャン世代が穏やかで優しい世代だと予想するなら、まもなく明らかにされようとする戦士の民を見て、衝撃を受けるだろう。

神は戦士である

神は戦士である。神は「万軍の主」、「軍の将」という呼び名を、他のすべての呼び名の10倍も多く用いておられる。神は戦いの神なのだ。今のこの時代に神を啓示しようとする人々は、戦士としての態度や訓練を身につけていくようになる。今起こされつつあるクリスチャンが、この世の知るかぎり最悪の困難な時代に仕えるために整えられているからだ。たとえ時代が最悪でも、彼らは信仰と確信をもってその困難に立ち向かっていき、「勝利者」の呼び名を獲得するだろう。なぜなら、けっして反対や困難、戦いに屈することなく、完全な勝利を得るまで戦ったあのヨシュアのように、彼らも勝利を得るまで戦うからである。

これから出てくる戦士クリスチャンには、ヨシュアと同じこの固い決意が見られる。自分たちが何者で、どなたから遣わされたのかを知っており、自分たちが代表する御国の力を知っているからだ。ダビデ王の屈強な家臣たちのように、彼らの功績も国外にまで響き渡り、王の敵の心に恐怖心を叩き込んでいく。
 
この戦士世代が表舞台に出て来るにつれて、彼らはキリストのからだにインパクトを与え、変革をもたらせるようになる。そして、その変革は深みにまで及び、教会は、人の集まり(コングリゲーション)というよりも、軍事基地と考えられるようになる。真剣な軍事訓練や、かつて例をみない、戦略として先手を打っての霊的軍隊の派遣というのが、上官命令になっていくのだ。

戦いの時がきた

 伝道者の書3:8に、「戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」と記されているように、今は戦いの時である。聖書に出てくる最高の礼拝者の一人、ダビデ王が最高の戦士の一人でもあったというのは、けっして偶然ではない。真の礼拝と戦いは、完全に両立するのである。いったいどうやって、神を真に礼拝する者でありながら、この時代の悪に憤ることなく、真理の側に立って捕われ人を解放するために悪に立ち向かうこともしない、ということがあり得るだろうか。

 今まさに起こされようとしている戦士たちは、人々をとりこにしているあらゆる悪の要塞に憤り、神の強力な武器を用いてその要塞を打ち破っていくようになる。

 この徹底的な変化が教会にもたらされて、真のクリスチャンはことごとく、福音の真理のためには何をも恐れぬ戦士になっていく。その際起きてくる性格上の大きな変化は、彼らがこの世の知りうる最高の戦士の最高の規律に従って生きることにより、その基礎が築かれ始める。その最高の規律とは、日毎に死ぬ、自分のために生きるのではなく王のために生きる、福音のために一切のことをする、というものだ。

 ルカ9:23~24で、主はこう言われている。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」

 これが真の弟子、すなわち、真の戦士の規律である。今にこの世は、真の弟子がどのようなものであるかを目の当たりにするだろう。すなわち、真の地の塩、世界の光としての姿である。

 私たちがすでにこの世に対して死んでいるなら、この世が私たちに対してできることは何もないし、私たちがこの地上で恐れるものも何もない。何も恐れず生きる人々こそ、この地上でもっとも強力で自由な民である。この地上に再び姿を現す、そうした民以上に敵の陣営を震撼させるものは、他にはない。その民はすでに私たちの中に存在しており、今姿を現そうとしている。かつてこの地上で生きたどの世代とも違う、新しい世代なのだ。主は、本当に、最後に最高のものを取っておかれたのだ。

 戦わなければ勝利はない。戦いが大きければ大きいほど、勝利もまた大きい。「クリスチャンに苦難などはない。もし苦難があるとしたら、それは信仰によって歩んでいないからだ」という、非常に巧妙な考えが教会の多くに蔓延している。けれども、これは、聖書が語っていることとは正反対である。主イエスも、使徒たちも、クリスチャンが召されている試練や苦難について説明しておられるのだ。試練には目的があるし、ゆるがない信仰で試練に立ち向かうなら、勝利がある。大使徒パウロの働きについても、こう記されている。「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』と言った。」(使徒14:22)
 クリスチャン生活には問題や困難が伴うということを認めようともしない、そんな偽りの教えに従った世代は、あるいは、歴史上もっとも弱々しいクリスチャン世代になったと言える かもしれない。最近の世代には、倫理道徳や誠実な生き方、基本にあるはずの勇気といったものが見られなくなった。それは、聖書的な信仰というよりは、ドラッグによる意識朦朧の状態に似ていると言わなければならない。けれども、こうした状況にも変化が出てきた。変革が完了するまでずっと、その変化は継続していくだろう。

衝撃隊


 この世が1世紀からこのかた見たこともないほど闘争的な、新しい種類のクリスチャンが世に出ようとしている。彼らは、1エーカーの土地さえも十字架の敵に明け渡すことはしないとの固い決意をもって生きている戦士であり、闘士である。今起こされつつある世代は、この世の勢力が脅しをかけてくると、クリスチャンというのは臆病で、こわがっておどおどするものだという印象を、この先永久に変えていくだろう。現在はこうしたクリスチャンの弱々しい印象があるため、その第一波は、現勢力の中に恐れと驚異の念という衝撃波をつくり出す。ちょうど、ギデオンの敵陣突破が残りのイスラエルの民を立ち上がら
せ、分捕り物を取らせたように、このことが他の全クリスチャンを、その本来の性質やあるべき姿に目覚めさせていくこととなる。

自分の武器を手入れせよ

 兵士たちは、肝心な時に武器が機能しなければ、自分や多くの者たちが命を落としかねないということを知っている。それで、彼らは自分の武器の手入れや管理に多くの時間をかけている。使徒パウロは私たちに与えられている神の強力な武器について語っているが、その武器のことを理解しているクリスチャンはわずかであり、それをうまく使えるクリスチャンとなると、さらにその数は減る。けれども、それにも変化が見られようとしている。私たちは、もっとも優秀で信頼できる主の兵士として、ゆだねられているものに対して、普通の兵士がしているのと同様の管理を日々していくようになるのだ。

 私たちの戦いの武器は肉の武器ではなく、それよりはるかに強力だということを理解しなければならない。神の強力な武器は、愛、真実、真理に対する妥協のない愛といった、霊的なものである。油注ぎのもとで語られた真理こそ、この地上で最強の力となる。すぐれた兵士のように、私たちにゆだねられた尊い真理を絶え間なく手入れし、管理している必要がある。私たちは、何のためらいもなく、つねに標的の中心に命中させることのできる、もっとも熟練した狙撃兵にならなければならない。私たちの武器は、いざという時に動かないという事があってはならないのだ。

 国々はやがて、圧倒的な軍隊によって宣言される真理の、圧倒的な力に膝をかがめるだろう。そして、その軍隊は、この時代の最大の闇に立ち向かい、それを押し戻すのである。あらゆることにおいて、彼らが何の妥協もせずに決然と立つため、すべての悪はその前で退却するようになる。

 この世の軍隊は殺したり、破戒したり、略奪したり、荒らしたり、強姦したりして、領土を進軍して行くが、来たるべき軍隊は、そうではない。破戒行為の代わりに、その軍隊に征服された人々には、いやしや回復、解放がもたらされる。彼らがやって来るのは、取るためではなく、与えるためなのだ。そのような軍隊がやがてこの地上に解き放たれようとしている。それは、いまだかつてこの地が見たことのない軍隊である。そして、今まさにこの地上全体で、その一員となるべきすべての人に軍隊の召集がかけられているところだ。

 この軍隊は、その一員ではないすべての者に恐れを抱かせるだろう。その中には、多くの眠っている、あるいは、惑わされているクリスチャンも含まれる。この世は、いまだかつてこのようなものを見たことがない。エリヤの霊は、主の初臨の時、主のために道を備えるようにと、バプテスマのヨハネに与えられていたが、今や、主の再臨の備えをするために、何万人もの人々に下っている。ちょうど、ヨハネを見るために、ユダヤのすべての民が彼のもとに来たように、今起こされつつある人々の声を聞き、彼らからバプテスマを受けるために、すべての国々が彼らのもとに来るようになる。

新しいラッパの音

 前述したように、教会がこの決意を自分のものにするにつれて、教会は軍事基地として考えられるようになり、効果的な霊的軍隊を訓練したり、装備したり、配置したりするための軍事基地の特徴を呈するようになる。やがて、教会は、陸・海・空軍等を有する一軍隊として、実際に編成されていくだろう。これら軍隊はすべて、相互援護を行ない、機会を活用できるよう互いに助け合って、一致と調和の中で共に機能していけるようにもなる。
 今は教理上の強調点が教会内での運動やグループの特徴になっている場合がよくあるが、このように、教理上の強調点よりも、機能や目的の方を中心にした組織化が始められていくだろう。

 苦難の時代が進んで行くにつれて、十字架の兵士たちは、これからなされる軍事訓練や軍事行為とともに、危機のただ中における彼らの愛や揺るぎない平安によっても、知られるようになる。彼らの行く先々で、愛や平安、揺るぎない安定感がもたらされるからだ。彼らは、真の自由の戦士であり、被抑圧者の真の擁護者であって、罪とそれがもたらすすべての結果という、あらゆる束縛の中でも最悪のくびきから、人々を自由にするために戦うのである。

変化

 実際には、どのようにしてこのことが起こるのだろうか。言葉では明確に意識していなかったにしても、すでにこの変化を経験し始めている運動や宣教団体が多くあり、なかには教会もある。リーダーたちは、ただ教理上の強調点というよりも、共通の目的や働きを中心にして集まり始めている。これが起こると、かつては互いの対立点にみえた教理が、互いに補足するものとして見られるようになるだろう。心や動機の中に、御国の拡大という高次元の目的を維持している人々には、この変化は容易である。

 他の人々にとっては、この変化は必ずしも容易ではないかもしれないが、それでも、変化は起こってくる。ちょうど、世界大戦のために国民が動員され、一般市民だった人々が、世界を支配しようとしている悪の存在を知って、すぐれた戦士になっていったように、やがてクリスチャンも、前世紀に世界が直面したのよりもはるかにまさる悪や脅威に気づくようになる。多くの者は、今世界を脅かしている悪の圧制に屈するよりは、たとえそれが死であっても、どんな代価でも払う方がよいと考えるようになる。偽りの下で生きるよりは、真実のために死ぬ方がいいのだ。

 来たるべき時代には、十字架の兵士として生きる目的の重大さが、すべての真のクリスチャンとともにますます宣言されるようになる。仕事や物質的な快適さの追求が、信者の一番の目的になるのではなく、真理のために戦うことが、私たちの人生の主要な焦点、目的になっていく。キリストに似ていることや、私たちが召されている働きをすることが、人生の成功を測る真の基準になるだろう。ちょうど、兵士が日常の雑事にかまけることがないように、十字架の真の兵士も、もっとも簡素な生活をして、一時的でなく永遠にかかわる事に身をささげるのである。

 女性と子どもたちも、これから教会が軍隊に変えられていくなかで、重要な兵士やリーダーの中に組み込まれていく。「もし男性がキリストの花嫁の一員でありうるなら、女性も神の軍隊の一員であり得る。」と言われているとおりだ。キリストの復活のとき、男性たちは恐れて身を隠していたが、女性たちは勇敢にも主を捜しに墓に行った。主の福音のためにはあらゆる危険もいとわないような、そんな女性が起こされるだろう。真理が完全に敗北したかのように見えたのに、それでも、主の墓に行ったあの女性たちは、どこまでも忠実であり続けた。そのため、彼女たちは、主の復活の証人になるという使徒的な務めを最初に受け取り、大きな栄誉にあずかったのである。光と闇との戦いの前線には、いつも勇敢な女性たちが存在したし、これからも終わりの時にいたるまで、存在するだろう。

 けれども、主の軍隊で自分たちにあてがわれた正当な位置につくからといって、女性たちが男まさりになる必要などはない。むしろ、最初になされるべき戦いは、男性が真の男性として回復され、女性が真の女性として回復されるための戦いである。この回復がなされると、全世界が注目し、その真の男性たち、真の女性たちに強く引きつけられていくようになる。彼らは、男女の違いを曖昧にしようとしてきた性的混乱を払拭したのだ。神がつくられたこの男女の違いを曖昧にすることこそ、今やますます拡大し、世界を支配しつつある性的混乱の根源である。

 男女の違いというが、真の男性は、支配的になったり、管理的になったりしなくても心安らかでいられるし、いつも女性や他のすべての人々に対して、彼女たちにふさわしい敬意を払い、また、威厳をもって接していく。まもなく真の男性が起こされ、あわせて真の女性も起こされてくる。彼らは、王の王である方の子どもとしてふさわしく、相手に対する敬意や威厳をもって振る舞い、互いに敬意を払い、互いを尊重しながら歩むようになる。
そんな彼らに世界は驚き、敬意を払うようになるだろう。(続く)


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by walkwithgod | 2006-09-10 10:31 | アメリカからのメッセージ

ラムジー夫妻      坂 柚実子     9月3日

ラムジー夫妻

 ジョンベネちゃん殺害の容疑者としてカーという男性がタイで逮捕された一連の報道により、10年前の事件にまたスポットがあてられました。テレビでジョンベネちゃんのコンテスト場での姿がまた何度も映し出されました。ご存知のようにカー容疑者は現場に残されたDNAと一致せずアリバイもあり、警察当局の早まった動きが批判されています。真犯人の発見が待たれます。

 ジョンベネちゃんの両親であるラムジー夫妻は娘を殺されたばかりか、自分たちにも容疑がかけられ、マスコミにいろいろ取沙汰されました。どれほどの苦しみだったことでしょうか。

 コデイロ師が牧するニューホープ・クリスチャン・フェロシップ教会は、この春のイースター礼拝のゲストとして、ラムジー夫妻を招かれました。その折に、コデイロ師が持っているコネクティング・ポイントという番組のゲストとしても招かれ、それが今回の騒動がきっかけで再放送され、私も見ることができました。

 彼らの語ったことで心に残ったことを書きます。
1.ジョンベネちゃん事件の前(何年前かは忘れましたが)上の娘を交通事故で亡くしている。そのあとパトリシア夫人は卵巣癌であることがわかった。この二つの信仰の試練をすでに受け、信仰が強められていたからこそ、ジョンベネちゃんの死やその後のもろもろの試練に耐えることができた。
2.ヨブ記で、最後に神がヨブにすべてのものを倍にして与え祝福した。羊、らくだ、牛、雌ろばの数はそれぞれ倍になった。しかし、子供たちの数は前とおなじで息子7人、娘3人であった。それは、前に死んだ息子7人、娘3人はいなくなったのではなく、天で生きているのだから合計が倍になったのだ、ということを主から教えられた。
3.天国での再会を確信しているので、毎日を生きていくことができた。

 パトリシア夫人は卵巣癌から一度癒されたのですが、その後再発し、この放送のときにはもう死を覚悟されていました。しかし、彼女の姿は死を恐れるというよりは、もうじき愛する娘たちや共に苦しみ支えてくれていた母親に会えるという期待と喜びで一杯のようでした。彼女はこの2ヶ月後に亡くなりました。ハワイを去るときに彼らは「このように晴れやかな気持ちになれたのは事件後はじめてです。」というコメントを残されたそうです。(終わり)


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by walkwithgod | 2006-09-03 16:41 | 柚実子からのハワイ便り