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第二バイオリンを弾く招き  ビル・ヨント  3月21日

第二バイオリンを弾く招き

ビル・ヨント


ピリピ2:3-11「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」


「私のために第二バイオリンを弾いてくれませんか?」

今まで自分の賜物や召命に従って忠実に主に仕え、重要な役割を担い、人々に祝福を与えてきた多くの人々にむかって、今、特別の招きが与えられているのを私は感じています。その招きとは、今まで神様のオーケストラの中で「第一の場所」(それを「第一バイオリン」に例えてみます。)で演奏することを許されてきた油注ぎのある人たちにむけて出されているのです。神様の御国の中で第一の場所を占め、特にソロで弾くような働きをしてきた人の上には、すべての人の目や耳が集中しますし、敵はその人に間違った音を出させようと日夜働きかけますから、その人には強いプレッシャーがかかります。

私が見た一つのヴィジョンの中で、第一奏者を照らしていた天のスポットライトが、だんだんと暗くなるのが見えました。そして、今までスポットライトが当たっていた多くの人たちに、「へりくだって他の人の下で働きなさい。彼らがあなたよりもっと高められるように助けて彼らを建て上げる役目を担いなさい。それが御国の中でもっとも偉大なものになることですから。」というプロモーションの招きが出されているのが見えました。

自由さと創造的な油注ぎは第二バイオリンから起こってくる!

ソロを弾く主役の演奏者(第一バイオリン)よりも、脇役の第二バイオリン演奏者のほうが実際もっと自由に創造的に様々な音を弾くことができるということは興味を惹きます。彼らは第一バイオリンが一番素晴らしく聞こえるように自由にハーモニーを造りだすことができるのです。聴衆は気がつかないことが多いですが、彼はスポットライトを浴びている主役の多くの間違いを自分の創造力でカバーしているのです。

ヨセフはエジプトの宮廷で、パロや自分の家族の下になって第二バイオリンを弾く地位に引き上げられ。エジプト全土は天のハーモニーを聞くことになった。

創世記41:40「『お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。』
…41:43 ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、「アブレク(敬礼)」と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、…」


創世記50:18-22「 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。 ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き、」

第二バイオリンを弾くことは実はプロモーションである

詩篇75:6-7「 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」

神様が誰かの地位を下げるのは格下げだと、私は前は思っていました。でもそれは神様の見方ではありませんでした。それは私たちをもっと大きな目的にむかって昇格させるための神様のプロセスの一段階なのです。ヨセフに彼はどうやって宮廷の地位にまで昇格したのか聞いてごらんなさい。彼はきっと穴や牢屋に入れられたことが大切なプロセスであったと説明してくれるでしょう。また、ポティファルの妻から逃れるためにどれほど速く走ったかも! 神から与えられた夢が現実となるために必要な誠実な人格や徳を、ヨセフには持っていました。彼は賜物や夢により宮廷まで到達しましたが、そこのとどまることができたのは、彼の人格によってでした。

神様が私たちを低い位置に置かれるのは、私たちを私たちの目からではなく神様の目からみてもっと高く上げてくださるためなのです。神様はご自分の身体の中に沢山のメンバーをもっておられますから、一部の人だけをいつも使われることはありません。もしそんなことをしたら私たちは燃え尽きてしまいます。もしあなたが今低いところにいるならば、元気を出してください。今からあなたは昇っていくのです。もしあなたが今大いに用いられているのなら、あなたの賜物と人格を精錬するために主があなたをへりくだらせるような位置に落とされるかもしれませんから、そのときは驚かないでください。第二バイオリンの奏者になりたい人はいますか? すべてにおいて主イエスが第一の席に着かれますように、そして主にすべての栄光があるように他の人を高く上げることができますように。主もそれをされたのですから!(終わり)


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by walkwithgod | 2007-03-21 06:09 | アメリカからのメッセージ

神様へのシンフォニー  フランシス・フランジペン 3月15日

神様へのシンフォニー

フランシス・フランジペン

教会において会衆全員でとりなしの祈りをしたり、個人の家に集まって祈りをするとき、すべての人が霊の一致を保ち、神の心に触れるという目標にむかって互いにサポートし合い熱心に祈ることが重要です。それぞれの祈り方や祈りのスタイルは異なるかもしれませんし、与えられている重荷もまた違っているかも知れませんが、全員が心を一致させることは祈りによって霊的な成功を勝ち得るために非常に重要なポイントです。

たとえば、私と妻が二人で祈るときには、私は2つくらいのセンテンスの中にすべての祈りの中身を詰め込んでしまいます。「主よ、私の子供たちを祝福して満たしてください。」というように簡単に祈ります。このセンテンスの中に私は「主よ、彼らに触れてください。彼らの罪を赦してください。必要を満たしてやってください。導いてください。彼らを用い守ってください。」という意味が全部入っているのです。私の祈りはいわばコンピューターのジップ・ファイルのようなもので、外面は小さく見えるのですが、中身は沢山なのです。小さく見えますが、神様がそれをあけてみると沢山の意味が詰め込まれているのです。

それに反して妻の祈りは、私の祈りよりずっと長いのです。彼女は子供たちに関して主が知るべきであると彼女が考えるすべてのことを伝えます。あたかも主が子供たちのことを聞くのは始めてであるかのようにです。彼女は子供たちの人生に何が必要であるかを主に説明し、それがどうやったら将来彼らの人生にもたらされるかを主に提案します。彼女は子供たちに関してすごい情熱をもって祈るので、確かに神様の心を動かすことができます。

大切なことは、私たち夫婦が一緒に祈るときに、一致しているということです。お互いの祈り方を批判しません。お互いの祈りを聞いて、それぞれが違う祈りかたをするのを感謝して評価します。大抵二人で一緒に祈ったあとも、彼女は一人でとりなしの祈りを続けます。彼女が「主よ、子供たちにベッドのシーツを洗うように、そして十分の睡眠時間をとることも言ってやってください。それからジャンクフッドを食べさせないでください……」と主にお願いしているのが聞こえてきます。 母親としての子供たちへの愛で一杯なのですから、そのように祈っていいのです。

教会でグループとして集まるときも、これと同じ原則が当てはまります。みんなが一致するのです。一人の人が他の人より長く祈ったり、ずいぶんと細かいことまで祈ったりしてもいいのです。私たちの教会はアメリカのために祈り、また、他の国々やリーダーたちのために祈りますが、ある人たちは政府のリーダーのために祈り、またある人たちはギャングのリーダーのために祈り、また、ビジネス界のリーダーのために祈る人たちもいます。アメリカのために共に悔い改めて、プライドの罪、不正の罪、殺人の罪(特に堕胎の罪)を赦してください、と祈ります。また、私たちの貪欲さ、国家的な傲慢、テレビや映画などの不道徳な内容などに対する赦しも請います。一人ひとりに違った重荷があり、フォーカスも違いますが、私たちはお互いの祈りに情熱をもって心から一致します。

私たちが心を一つにして祈るなら、天の父はそれをかなえてくださるとイエス様は約束してくださいました。(マタイ18:19) 私たちが一致していることが私たちの祈りと同様に重要です。祈るスタイルは違っていてもいいのです。私は歩きながら祈ります。私の親しい友人は身体を前後に揺すります。また、ある人は空手チョップのように手で空を切りながら祈ります。それぞれ祈るスタイルは違いますが、心はしっかりと一致して共に祈りに燃えるのです。

興味深いことに、福音書で一致を表すために使われている言葉はギリシャ語の「sumphoneo」です。英語の「symphony 交響曲」はこれから来ています。つまり神様は、それぞれに癖のある一人ひとりの祈りを我慢しながら聞いている、というのではなくて、一致した熱心な祈りの声としてシンフォニーのように聞かれるのです。一つ一つの声がユニークな楽器でありながら、同じ栄光に満ちた一つの歌を一緒に歌っている声のシンフォニーとして聞いていてくださるのです。

愛する皆さん、共に祈るときは、常に一致を保とうではありませんか。不和はどんなことをしてでも避けねばなりません。祈りながら泣く人もあれば笑う人もあり、また、霊の戦いの祈りをする人もあれは、主を崇める人もありましょう。 しかし、私たちが一致して祈るときの祈りは、聞いてくださっている神様の心にはシンフォニーのように聞こえるのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-03-15 10:56 | アメリカからのメッセージ

シンシア先生のハワイ訪問   坂 柚実子  3月14日

シンシア先生のハワイ訪問

シンシア・ケニヨン先生は、オレゴンの教会の日本人女性のための英会話教室で、もう10年間も教えていてくださっている先生ですが、今回ハワイに遊びにこられました。まず、オアフ島の横にあるモロカイ島で一週間のシニア・シチズンのための教育プログラムに参加されたあと、我が家に3泊してくださいました。彼女は私より一つ若いだけですが、エネルギー一杯で、主人と私は、今風にいえば「元気を貰った」というのでしょうか、大変楽しい時間をすごすことができました。

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シンシア先生は、4年前にご主人様を亡くされましたが、その悲しみからやっと立ち直られた様子でした。モロカイ島では、毎日エクスパートからハワイの文化について講義を受けた由で、すでに2年半ここに住んでいる私たちよりずっとハワイについて博識でした。これは50歳以上の人が参加できるもので、いろいろなプログラムがアメリカ中にあるようです。ただの遊びではなく教育的なものなので、美術館の館長や教師をしているような人とかの参加が多いそうです。楽しそうですね。

さて、オアフ島での私たちとの3日間は、まずノース・ショアまでドライブして、サーフィンやカイト・サーフィンを見物し、夕食は
カフクのガーリック・シュリンプの一皿。次の日は日曜日だったので、一緒に教会へ。ランチは日本語教会のみんなとヤムチャ、そのあとワイキキ・ビーチへ。ワイキキで一番古いピンク色のロイヤル・ハワイアンの海に面したバーでハワイアンとフラダンスを見物。夕食はマリオットホテルの屋上でこれもハワイアンを聞きながら。月曜は真珠湾のアリゾナ・メモリアルとハナウマ・ベイでスノーケリング。

という具合に目一杯一緒にオアフ島を楽しむことができました。彼女はどこへ行っても、何をするにしても興味津々で、私たちだけならば、しないことをどんどんと実行されるので、彼女の人生はアドベンチャーが一杯です。

ロイアル・ハワイアンに行ったときのことですが、空いているテーブルがなかったので、主人と私はあきらめて出口に向かっていたのですが、彼女は老夫婦が座っているテーブルに行って、「一緒に座ってもいいでしょうか?」と聞いたのです。アメリカでもそんなことは普通しないので、老夫婦も一瞬、ぎょっとした様子だったそうですが、「勿論、どうぞ。」とか言ってくれたらしいです。彼女はそこで私たちを手ぶりで呼んでみんなで彼らと一緒に座ったのです。

シンシア先生はとにかく明るく、誰とでもすぐ友達になります。その老夫婦はカナダからハワイに2週間遊びに来た人で、笑いながら「この旅行はスキーの一環です。」というのです。スキーとは「SKI、Spending Kid’s Inheritance子供への遺産を使い果たす」ということだそうで、私たちには耳新しい言葉でした。アメリカ版、いやカナダ版「子孫に美田を残さず」というところでしょうか。しばらくの歓談のあと、老夫婦は丁寧に挨拶をして去っていかれました。そこはハワイアンの歌と踊りを見物する特等席でもあったので心ゆくまで楽しむことができました。

するとシンシア先生が「あのフラダンスをしている女性は78歳に見えるか?」と聞くのです。とても美人の女性で、せいぜい私には50歳くらいにしか見えません。先生がそう聞いたわけというのは、彼女がモロカイ島で出会ったある男の人が、自分の母親は78歳だけれど、今もワイキキのホテルで歌ったり踊ったりしている、と言っていたから、この女性がそうかもしれない、聞いてみる、というのです。彼女は本当に歌の合間を見てフラダンサーに近づき、「Do you have a son in Molokai? モロカイ島に息子さんがおられますか?」と聞きました。横で歌を歌っていた男性がそれを聞いて笑いながら、「彼女はモロカイ島に息子がいるかって!」と大騒ぎをしはじめました。その女性も笑いながら、もう一人の歌い手を指して「私の息子はこの子だけです。夫が知っているのはね。」などと冗談を言うのでみんなも大笑いになりました。それは夫婦と息子の三人のチームだったのです。夫婦喧嘩にならなくてよかった、、、、。 そのあとの歌は勿論モロカイ島の歌でしたよ。

シンシア先生は「ゆみこと一緒に礼拝できて嬉しかった。もしまた結婚したらハネムーンにくるからね。」と言ってオレゴンへと帰って行かれました。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-03-14 05:02 | 柚実子からのハワイ便り

信仰を持ちなさい  ポール・キース・デービス   3月9日


信仰を持ちなさい。神に不可能はない。

ボブ・ジョーンズ師との会話

ポール・キース・デイビス



最近私はボブ・ジョーンズ師から、主が彼に与えられた啓示について聞くことができました。それは、西洋の教会ではどうして奇跡が起こらないのか、という問題に関してでした。彼に与えられた啓示はこうでした。「西洋の私達は、神はすべてのことが可能であるということは確かに信じている。しかし、問題なのは私たちの心にある『疑い』である。」

正直なところ、これを聞いた私は戸惑いを感じましたが、しばらくして私が十分理解できるようにと主は助けてくださいました。というのは、最初私にはこの啓示の内容は矛盾しているように思えたのです。なぜならば、神は偉大な神でありすべてのことが可能な方であることを信じるのは、信仰の最も基本的な土台ですから、なぜ信仰を持つ私たちがそれに関して疑いを同時に持つことがあるのでしょうか?


私の疑問への答えはマルコ11:22-23に見出すことができました。

そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」


この箇所を丁寧に調べてみますと、主イエスは私たちの心の2つの領域を取り扱っておられることがわかります。:第一の領域は、神にとって不可能なことはない、と信じる信仰の領域であり、第二は、しかし神は私個人の祈りに応えて奇跡を起こしてくださるのだろうか、と疑う領域です。

信じて疑ってはならない

主がお弟子たちや私たちに教えておられることは、信仰という超自然的な領域のことであり、山をも動かすほどに偉大な信仰の領域のことです。ここでいう山とは、妨害の山かもしれませんし、実際の土と岩で出来ている山かもしれません。


主は私たちにむかって「神を信じなさい。」と宣言されました。そして次にこの原則を私達個人に適応して、「あなたがたに言います。」といわれました。主は私たちを個人的にとり扱われ、私たち一人ひとりがどのような信仰を持っているかを問われるのです。私たちのうちの誰であっても、山にむかって「動け」と言い、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになるのです。


主のお言葉の中に私たちは二つの次元を見ることができます。:信じなさいという信仰の次元と自分の中の疑いを取り去るという次元の二つです。主はこの原則について私に教えてくださったのですが、そのときに、西洋の教会の多くの人は神が全能の方であることを信じていることをも私に理解させてくださいました。過去において死人をよみがえらせた神ならば、又いつでも神は死人をよみがえらせるであろう、と私たちは信じているのです。


神は奇跡の神であり、何回でもしてくださる神であることを私たちは信じています。しかしながら、神が奇跡をなさる方であることは信じていても、神が実際に私たちを通して奇跡をなさるかどうかを私たちは疑っているのです。

神が誰か偉大な癒し手や伝道者を通して癒しや解放をされるのは信じるのですが、自分、即ち「私のような小さな者」を通して神が奇跡を起こされることには疑いを持ってしまうのです。多くの西洋のクリスチャンは、神は今も偉大な業をされることを信じています。しかし、神が彼らを個人的に用いられて偉大な業をされることはどうしても疑ってしまうのです。ですから、神の超自然的な大きな業の中に私たちが参与させていただけることを私たちが悟るには、神からの啓示によって知らされることがどうしても必要なのです。


どうして西洋では奇跡がおこらないか?


発展途上国で奇跡が起こるのを多く体験してきたミニストリーに携わる人たちにインタビューをした結果、とても興味深いことが分かりました。そのような国々の人々には疑いというものが全くないと彼らは言うのです。イエス・キリストが生ける神の子であると一度確信するや、彼らはすぐに奇跡を経験し始めるのです。なぜならば、彼らは我々西洋人のような疑う心を持っていないからなのです。


彼らは霊的に物事を見ることができる人たちです。それは確かに今までは偶像という間違った対象のために使われていましたが、一たび彼らの信仰が主イエスに正しく向けられたときには、奇跡がどんどんと起こり始めるのです。彼らは主を信じると、神は宣教師たちが言っていたことを必ず彼らのためにしてくださると、一つも疑わないで心から信じるのです。


エレミヤは次のように言っています。

エレミヤ32:17「『ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸べた腕をもって天と地をお造りになったのです。あなたのできないことは、ひとつもありません。』

私たちも今こそ、神が私たち一人ひとりに対して個人的に偉大な業をしたいと願っておられることを疑わず、このすばらしい現実に自分の信仰を目覚めさせようではありませんか。

ヤコブは次のように言っています。

ヤコブ1:5-6「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」(終わり)
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by walkwithgod | 2007-03-09 17:39 | アメリカからのメッセージ

この木なんの木    坂 柚実子   3月7日

この木なんの木

日立の企業シンボルである樹齢100年を越すモンキーポッドの木をはじめて見にいきました。先週日本から遊びにきていた高校3年生の小西響児(きょうじ)君が見たいということで、出かけたのです。
それは、うちから15分くらいのモアナルア・ガーデンにありました。確かにとっても素敵な木です。次々に日本人の観光客がバスやリモジンでやってきます。響児君が言うように、これが日本ならば、入り口で入場料を取ったり、木の前には立て札が立ち、お土産屋が並び、もしかしたら木のまわりは注連縄で飾られるかもしれません。でもここには何にもありません。ただ木があるだけですから、あまりすることもなく、みなさんそんなに長くはいないのですが、みんな一様に写真をとり、木の肌を触り、とっても嬉しそうにしています。

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ハワイの住民はこの木がそんなに日本人に人気があるとは誰も知りません。モンキーポッドの木は島中に何百本もあるのですから無理もありません。でも最近日立がこれから更に10年間、独占的にこの木を広告に使うという契約を年間40万ドル(5千万円くらい)で庭園の持ち主と結んだということで、地元でも報道されました。庭園の管理は年間60万ドルかかるそうですが、この庭園は入場料はなく、誰でも自由に入れます。

響児君が、「ハワイの観光地で日本人しかいないのは、多分ここだけだろう。」といいました。うーん、なるほど。日立の木の周りに吸い寄せられるように集まる日本人。勿論日立の広告をテレビや雑誌でいつも見ているからでしょうが、それと共に大きな美しい木を愛でる思いが日本人は特別深いのかもしれません。まことのいのちの木なるイエス様の周りに日本人が沢山集まっている姿を思い浮かべたことでした。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-03-07 12:08 | 柚実子からのハワイ便り

心の聖い者  キャシー・ペルトン    3月2日

心のきよい者
キャシー・ペルトン


「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。マタイ5:8」

過去数ヶ月、この聖句が私の心に何度も響いてきました。私は主に「心のきよい者とはどのような人のことですか?」 と尋ねはじめました。

しかし、本当はそのような質問をするのではなく、素直に「主よ、きよい心をどうか与えてください。」と主にお願いするべきだったのです。しかし、神は常に誠実であられ、私たちが自分の思いを口にする前にすでにご存知な方です。 主は私がきよい心を持ちたいと願っていることをわかってくださり、すぐに私の心を取り扱い始めてくださいました。ほとんどの人がそうだと思いますが、私も毎日の生活の中にストレス、問題、苦難を歓迎したいとは思いません。しかしながら、それが私の心をきよめるための熱い精錬の火として、まさにその時必要なものであったということが、後になってわかるのです。私たちが大きな艱難を通るときには、自分が内に持っている最高のものと最悪のもの両方が、たちまち表に現れてくるようです。

人生のプレッシャーがきよさを生じる

私は最近、様々なところを通らされてきましたので、それをお話したいと思います。それらの体験は私の心に侵入してきて、私の神を見る視野を塞いでしまったのです。

過去6ヶ月のうちに、私の身辺で多くの変化とチャレンジがありました。まず私たち家族は主の導きに従って、カナダでのミニストリーを後にしてカリフォルニアに戻りました。主からそのように示されたのですが、その理由ははっきりとは告げられませんでした。カナダからアメリカに国を超えて引っ越し、主人はミニストリーではない普通の仕事につきました。私は二人の子供をホーム・スクールで教えながら、ミニストリーで海外にも出かけていました。そういう時にいろいろな事件が起こり始めたのです。私は肺の病気になり、2ヶ月間はかなり重い症状でした。(今もまだ治療中です。)次に、私たちのとても親しい友人が自殺をしました。そして3週間前には私たちの家が家事で燃えてしまいました。確かに試練の火は非常に熱く、きよめがすばやく起こったといえるでしょう。

心の中の不純なものというのは、道徳的な罪だけではありません。人生上のストレスや困難は、往々にして私たちの心の中に不信仰、落胆、失望という思いを起こさせます。このような思いは神をはっきりと見るための私たちの視野を塞いでしまうので、それを神は非常に案じておられます。これらの否定的な思いは、道徳的な罪(根本的な心の問題を解決しないときに起こることが多い)と同じように私たちの心の目を塞いでしまうのです。

私の場合、カナダのミニストリーを引き上げたことは、私が持っていた自分のアイデンティティーの問題を浮き彫りにしました。私はキリストにしっかりと根ざしたものではなく、個人的にどれだけ事を成し遂げたかとか、自分の仕事を人がどのくらい評価してくれるか、というところに自分のアイデンティティーを見出していたのでした。また、ホーム・スクールは私の完全主義を露呈し、私は自分や周りの者をコントロールしようとしてしまいました。親しい友人の自殺は、私の心の中に残っていた失望感、罪悪感、絶望感を新たに浮かび上がらせました。そして家の火事は、キリストの身体なる教会に対して私の心にしのびこんでいた批判の思い、裁く心を表面化させたのです。

霊的な目をくらませる根

皆さんは、火事がどうして教会に対する批判(裁き)の心を呼び起こすのかといぶかしく思われるかもしれません。恐れとかパニックなら分かるけれど、どうして批判を呼び起こすのか、と。その理由はこうなのです。

ミニストリーに携わっていた数年の間に、ある人たちが非常な困難の中で緊急に助けを必要としているにもかかわらず放っておかれているのを見てきました。そして深い悲しみを覚えていました。困窮生活を送っているシングル・マザーを助けようとはしないで、巡回してきた預言者に何千ドルも教会は献金しているのでした。勿論ミニストリーに献金するのは悪いことではありません。ただ私は、やっとの思いで毎日の生活を送っている主に忠実な人々(往々にして彼らがもっとも献金をしているのですが)がひっそりと孤独を感じているのを見て、悲しみを覚えていたのです。

私が教会に対して幻滅を感じていたもう一つのことがあります。4年間私は祈りの家のディレクターをしていましたが、そこには多くの「祈りのミッショナリー」が訪れてきました。彼らは自分のものを全部ささげて国々のためや失われた人々のために祈っていました。しかし、彼らは十分な献金のサポートを受けることが出来ずに非常に貧しい生活をしていたのです。彼らの母教会は、「残念ながら経済的サポートはできませんが、あなたのために祈っていますからね。」ということが多いのです。

これらのことに対して腹を立てるのは、決して正しいことではありませんが、私の心の中に教会に対する裁きの根が張り始めたのが分かりました。私は教会を裁きの思いを通して見るようになりました。意識的に「裁く」とある時点で決意したというわけではないのですが、裁きの思いが徐々に静かに私の心にしのびこんできて、気がついた時にはしっかりと根を下ろしていたのです。けれども、我が家が火事になったときの教会のすばやい愛の対応により、裁きの思いは私から振り落とされてしまいました。私の心がきよめられるために火事が必要だったのです。

カリフォルニアに引っ越したときも、私はあちこちとミニストリーで旅行をしていたので、大変忙しく、主人も私も借りた家に対して「賃貸人保険」に入ることを不注意にも怠っていました。ですから火事になったときにすべての持ち物に保険はかかっていませんでした。火事から一時間くらいたったとき、私は自分の車の中に座り、ただ涙を流し、神に助けを呼び求めました。

神は助けてくださいました! どのようにしてでしょうか。それは主の麗しい「身体」を通してでした。いろんな教会、町、そして外国からも、火事のことを聞いた人たちが助けてくれたのです。まず数時間のうちに人々は私たちがとりあえず必要なものを持ってきてくれました。毛布、食べ物、水等です。特に長女は火事で持ち物すべてを失ったのですが、人々は彼女を買い物に連れて行ってくれて、新しい洋服を買ってくれました。

しかし、「キリストの身体」に連なる人たちの親切はそれだけではありませんでした。火事のあとの家の後始末のために人々は多くの時間を捧げてくださり、また、クリスチャンの火事処理の会社がすべて無償で働いてくれました。(これは非常にコストの高い仕事です。)

神の慈愛が私たちを悔い改めへと導く

聖書に「神の慈愛があなたを悔い改めに導く...(ローマ2:4)」という言葉がありますね。このみ言葉はこのときの私にぴったりと当てはまりました! 私は自分が見たことで失望し、キリストの身体の本当の麗しさを見失っていたのです。しかしこれらの驚くべき親切な行為により、私は悔い改めに導かれ、神の身体なる教会が神の手足となって働くのを見ることにより、再び「神を見る」ことができるようになったのです。

「心のきよい者」が神を見ることができるのは、彼らの視界を阻むものが何もないからなのです。裁く思いや、不純なものが私たちの心に入ると、それはあたかも粗悪なレンズを目の上に当てるようなもので、すべてのものを批判的な思いを通して眺めるようになります。それは私たちが良いものを見えないようにし、その反対に悪いものを全部見せるようにします。

これから世界の時勢が厳しくなり、深刻な出来事が増えてきますから、私たちがきよい心を持ちどんな事態になっても神を見ることが出来るようにしておくことは非常に大切です。そうしないと私たちはすべてに幻滅を感じてしまうでしょう。しかし、きよくされた心で物事をはっきり見ることが出来るなら、これからは教会にとって一番素晴らしい時となるでしょう。なぜならば私たちは神を見ることができるからです!

神よ、私を探り私の心を知ってください

神があなたの心を探ってくださり、すべての不純物が明らかにされ、主をはっきり見ることができるように、と祈ってください。私が通ったような経験をあなたはしなくてもいいことを望みますが。(私は教室で聞いて学ぶのではなく、実地に人生の中で体験をしながら学ぶ者のようです。)

神は優しい方なので、私たちを悔い改めに導いてくださり、これからの人生で起こる様々な問題で私たちがつぶされてしまわないように配慮してくださいます。私たちの中に、もし不信仰や失望、憤り、苦い思いなどがあると、それによって私たちの心は汚染され、真理の御霊を見ることが出来ないようになってしまいます。

一緒に祈りましょう

「主よ、私を探り私の心を知ってください。きよい心を持ち、主をはっきりと見たいのです。あなたの優しさをもって私の心に今来てくださり、私を悔い改めへと導いてください。私の心の中に罪によって汚されているところが少しでもありましたならば、どうか示してください。主よ、私から苦い思い、失望、不信仰、裁く思い、絶望などをすべて取り除いてください。
主や主のみ身体なる教会を歪んで見せていたレンズを私の目から取り除けてください。主を見たいのです。きよい心ですべてのことにおいて真理の御霊の中を歩みたいのです。私を再び悔い改めに導いてくださるあなたの誠実、慈しみ、憐みを感謝します。イエス様の聖いお名前を通して祈ります。 アーメン」

あなたの心からすべての悪い根を取り去るための聖書の箇所を書きます。

マタイ5:8「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」
詩篇139:23,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
第二ペテロ3:9「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
第二テモテ1:9「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、」
テトス1:15,16「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。 彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」

コロサイ3:12-15「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」

  私たちすべてが神を見ることができますように。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-03-02 10:26 | アメリカからのメッセージ