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激しい悔い改めによって栄光の津波が起される ビル・ヨント 4月28日

激しい悔い改めが天地を揺るがす時、栄光の霊的津波を解き放つ

ビル・ヨント 


津波のヴィジョン

ヴィジョンの中で私は巨大な海岸線から潮が引いていくのを見ました。引いていく潮は主の御霊でした。今は潮が引いていくシーズンです。キリストの身体(教会)が水の中にほとんど浸かりながら立っていました。潮がだんだんに引いていくと、今まで水の中に入って隠れていた身体の部分がどんどんとあらわにされていきました。引き潮の中で私たちは霊的に裸にされて立っているようでした。

潮が海岸線から引いていくと、神の民を縛っているチェーン(くさり)や縄が沢山見えてきました。 人々は縛られていたので、御霊の後を追っていくことができなかったのです。御霊はだんだんと人々から遠ざかっていきました。御霊によって彼らは罪や弱さをあらわにされたにもかかわらず、御霊は彼らから遠ざかっていくのでした。

ある者たちは、御霊の後を追って少し遠くまで行くことができました。しかし、引き潮はその速度を増したので、彼らを置いていってしまったのです。そして選ばれた者、義人さえもが、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫びはじめたのです。キリストの身体は、疲労困憊し、大いに落胆してそこに立ちすくんでいましたが、その立っている場所は干からびて、砂漠のような土地になってしまいました。

教会は波がずっと遠くへ行ってしまったのを見ることができるだけで、もはや御霊の動きを経験することはできませんでした。それどころか、彼らに残されたのは、彼らの罪であり、束縛であり、無力さだけでした。 教会はその姿をあらわにされ、裸のままで立っていると、水に触ったこともない人々が海岸のうしろで大きな声であざけっているのが聞こえました。
彼らはこの世を表していましたが、彼らは教会の罪と恥を見、神をあざけっていました。それは神の民にとって永遠とも思えるような長い時間でした。神と引き離されたままで、もうこれからは全く悪いこと(敗北・失敗すること)しか起こらないように感じられたのです。

多くの者は、遠くに行ってしまっている波のほうを見るのもやめて、彼らが以前いた場所である岸にむかって歩きはじめました。彼らはあきらめてしまったのです。待っても待っても来ないー待つことに疲れ果ててしまいました。そして、もう神は自分たちを見捨てたに違いないと確信するようになりました。

しかし、わずかに残った者たち(レムナント)はそこにとどまり、主を待ち望み、自分の罪を告白し悔い改め、全世界のためにとりなしをし、すべては権力や能力ではなく神の霊によってなることを悟って、じっとそこに立っていました。そのとき地は動かず、引いていっていた潮もそこでとどまり、不思議な静けさがあたり一面を覆いました。そして主が語られました。「潮がもどり始める。今、引いた潮がターンし始める。潮はもどって来るのだ。もっと大きく満ちるために!これはわたしの地が待ち望んでいたわたしの栄光の津波なのだ!」と。

詩篇24:1-2「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。」(新共同訳)
詩篇24:7-8「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。 栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。」

解放の大波が神の民にくる

潮が満ちてきました。最初に来るのが見えた聖霊の大波は、神の民の上にくる解放の力強い波でした。ヨエル2:32に「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」とあります。 神の民に大いなる解放のミニストリーが与えられます。この大波がやってくると、神の指によって悪霊の力がはじき出される大いなるときが始まるのです。

次に来る大波は「回復」と呼ばれるものです。この大波はバックスライドした者や信仰の破船にあったものたちを大勢連れてきます。神が「私はバックスライドした者と結婚している。」と言われます。

海はあたかも死んだ者たちを諦めたかのようだ!しかし被造物の総てが待ち望んできた天の津波がいよいよ来る!
次に来たもっと大きな波は「救い」の波でした。 この波は一回ではなく、あとからあとから押し寄せてきました。これらの波は失われた人たちー救われようがないと思われていた人たちーを持ち運んできました。地のどん底から失われた人々を連れてきました。海は死者を吐き出しているようで、奈落の底から魂が上がってくるようでした。

その中には不道徳なスターたち、大勢の人を殺した殺人者たち、魔女やオカルト、東洋の宗教をしていた者たちがいました。おぞましい恐ろしい犯罪を犯した者たちもいました。まるで、地獄そのものがこれらの魂を吐き出しているようでした。地獄は彼らが出て行くのをそのままにしていました。地獄の門が開き、これらの魂が放免されていました! これら最後の救いの波は海のどん底をさらってくる力があったのです。

波はどんどんと高まり続け、その救いの波は岸から奥に向かって多くの陸地を覆い始めました。主の御霊は洪水のように押し寄せ、主の旗印が地上に高く掲げられました。救いの波が文字通り地を覆うにつれ、大勢のものが救われて行きました。これらの波がどんどんと大きくなり、巨大な津波のようになったときに主が言われました。「わたしが生きているかぎり、水が海を覆うように、わたしの栄光が全地に満ちるであろう。」
さあ、共に悔い改めましょう。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-04-28 05:15 | アメリカからのメッセージ

望みの門  フランシス・フランジペン   4月19日

望みの門

フランシス・フランジペン

私たちは往々にして、信仰の力は強調するけれども希望の大切さは過小評価してしまいがちです。
しかしながら、「信仰とは望んでいる事がらの実体(ヘブル11:1)」とあります。 ですから、まず神に対して強い希望を抱かなければ、私たちの信仰は役に立ちません。実際、私たちがトランスフォームされるための最初のステップは、私たちの中の希望が目ざめることです。

私たちはキリストを信じた後でもなお、失敗をします。私たちが罪を犯してしまうと、自分は有罪であるという思いに縛られ、その思いが希望の声を窒息させてしまいます。イスラエルがカナンを征服したときの話を考えてみてください。主はカナン人の富でイスラエルを繁栄させようとされました。しかしそのためには、一番初めのエリコの戦いの勝利品はすべて神にささげることを条件とされました。残念なことに、アカンという男が主の命令に背き、金、銀、シヌアルの外套をとり、テントの中に隠しました。その彼の罪の結果として、次の戦いで36人のイスラエル人が小さなアイの町に負かされ侮辱され死にました。

主がアカンが犯人だと示されましたので、ヨシュアは彼と彼の家族を、全財産と共に谷に連れて行きました。聖書に次のように書かれています。「『なぜあなたは私たちにわざわい(trouble)をもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわい(trouble)をもたらされる。』 全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけたーーーそういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。」(ヨシュア7:26,26)

アコルという言葉は「troubling 悩ませる 困らせる」という意味で、一人の人の罪が多くの人の上に困難と苦痛をもたらすことを表しています。勿論アカンにとって一番辛かったことは、自分の犯した罪のために妻と子供たちまでが死に追いやられたということです。彼らが抱き合って恐ろしい刑罰を待っているとき、自責と後悔の念がアカンの心には耐えがたいほどにあふれたことでしょう。

個人的な失敗

後にアコルの谷は、最悪の刑罰を表す象徴となりました。それは死と荒廃の場でした。勿論、今日私たちは罪を犯した者や無責任な行動で他の人を悲しませた者を、石打ちにはしません。しかし、罪にはその結果が必ずあります。 私たちの身体は石打にはなりませんが、公に有罪であると判決を受けることは、石打の刑と同じくらい人間の心を打ち砕きつぶしてしまいます。 事実、私たちの多くの者はアコルの谷を個人的に経験しています。そこでは私たちの不道徳な行為や、賢明でない行動が他の人に苦しみを与えてしまったのです。

もしかしてあなたは姦淫を犯してしまったかもしれません。それはあなたの配偶者や子供たちに非常な苦しみをもたらしました。また、あなたはイライラして不注意な運転をしていたために事故を起こし、他人に怪我をさせたり、最悪の場合は人を死なせたりしたかもしれません。あるいは、あなたがクリスチャンとしてよい見本を示さなかったために、あなたの子供たちが神から離れていってしまったかもしれません。私たちが失敗を犯す可能性は無数にありますが、その結果はほとんどいつも同じです。それは、あなたの人生の上にのろいがかぶさったかのようになることです。

自分の心が自分を責めることだけでも苦しいのですが、あなたの失敗を知っている人たちが、「あなたにはもう希望がない。」と声を合わせてあなたに言うときは非常に辛いものです。あなたに対する世間の反感や冷たい目、批判的な態度は、アカンが肉体に受けた石と同じくらい、あなたの魂に鋭く突き刺さるのです。 確かにあなたの肉体が死ぬことはありませんが、その代わりにあなたの希望が死んでしまうのです。今まで希望と期待をもって将来を眺めることができたのに、今や心痛や後悔があなたの将来への視野を塞いでしまいます。

私たちが真に悔い改めることによって心が清くされ強められることだけが、自責の重荷から解放される唯一の方法です。ですから、失敗や罪、その結果ののろいからあなたが解放される唯一の道は、聖霊によって私たちがトランスフォームされることです。
  
残念なことに、敵は多くのクリスチャンを不信と自責の思いの中に閉じ込めてしまっています。彼らは自分のしたことが悪かったことは自覚し、そのことを憎んではいますが、その罪の意識の重荷から自分を解放することができないでいるのです。私たちの贖い主はとりこの解放を宣言するために来られたことを思い出してください。(イザヤ61:1参照) 主は監獄に入っている人たちのことだけを言っておられのでしょうか? そうではなく、主は過去の失敗のとりことなってしまっているすべての人のために来てくださったのです。神は私たちが過去の失敗から学ぶことを望んでおられますが、そのとりこになることは望んでおられません。イエスは、アコルの谷に夢が埋もれてしまっている人たちを解放し回復するために来てくださいました。

個人的な悲劇

私たちが負っている重荷は、自分の道徳的な失敗の故ではなく、人生のなんらかの惨禍から来ていることもあります。

人間の魂が受ける最大の試練の一つに、愛する者の死があります。そのような損失は非常な重荷を私たちに与え、私たちを過去のとりこにしてしまいます。アブラハムの父、テラの物語は、愛する者の死から離れられなかった人物を深い洞察をもって描いています。

テラには3人の息子がいました。アブラム、ナホル、ハランです。聖書には「ハランは父テラの面前で彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。(創世記11:28)」とあります。息子を失うことは非常な痛みをもたらします。特に自分の腕の中で息子が死ぬのを見るのは、全く打ちのめされるような経験です。

その後しばらくして、カナンに新しい土地を見つけようとして、テラは家族をつれてカルデヤ人のウルを離れました。 しかしその途中で、テラは死んだ息子ハランと同じ名の町を通らねばなりませんでした。テラはカナンへの旅を続ける代わりに「ハランに着いてそこに住んだ。(31節口語訳)」のです。

愛する者の死を悼み、その人を慕わしく思うのは当然です。しかしながら、人生の中で起こる悲劇は、その痛みを忘れるのは誠実ではないという誤った忠誠心で私たちを縛ってしまう恐れがあるのです。飛行場でチラッと見た他人の顔やラジオからふと流れてきた歌で、その人の心は何の前触れもなく、突然、悲しみに押し流されてしまうのです。何と一瞬にして悲しみの中に私たちは戻っていってしまうことでしょうか。そしてそこに留まることは何と容易なことでしょうか。

「テラはハランで死んだ。(32節)」とあります。テラはハランに住み着いたばかりでなく、そこで死んだのです。ここの言葉の使い方は預言的であり且つ重要です。彼をとりこにしてしまったのは、多分いつわりの自責の念だったのでしょう。「もし自分がああしていれば息子は死ななかったのに!」と考えるのです。理由は何であれ、テラはハランの死を越えて生きることができなかったのです。

しかし、たとえそれが愛する者の死のように非常な痛みを伴うものであったとしても、私たちの未来のために神が備えていてくださるものを、過去の傷が台無しにしてしまうことを私たちは決して許してはなりません。私たちのために備えられた目的地まで、たとえ足を引きずりながらでも到達せねばなりません。神の恵みはここに今あるのです。主の助けにより私たちはカナンの地まで旅をすることを選び取らねばなりません。 そうしないと私たちもハランで死ぬことになるでしょう。

癒しのとき

個人的な失敗と悲劇の二つは、私たちの魂に圧迫と罪責感という残酷な重荷を負わせます。その重荷を取り除くための神からの答えは、神は私たちの罪を赦してくださるだけでなく、キリストの上に「私たちのすべての咎(guilt罪責感)を負わせた」ことでした。(イザヤ53:6) 私たちの罪責感が、それが当然感じるべきものでも、又、そうでなくても、それは私たちの肩から取り去られ、キリストの上に置かれなければなりません。

今日、世界のいろいろな場所でリニューアルが起こっていて、主の民は喜びを回復しています。道徳的失敗や個人的な悲劇によって重荷を負っていた多くの人たちが、主によってふれられました。かなえられない希望が心を重くしていた人のために、キリストは心の傷ついた者を癒すために来て下さいました。(イザヤ61:1) 悲しみと憂いがあったところに、主は「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心に代わりに賛美の外套を」下さるのです。(イザヤ61:3)

失敗を償うための義務のように、重い気持ちで教会に行くのはもうやめましょう。これからあなたは感謝をもって主の門に入るのです。耐え難い重荷に苦しんでいるすべてのクリスチャンに、実に主は「あなたは今も私の花嫁だよ。」と語っておられます。

この悩みの谷に関して主は次のように約束してくださっています。
「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はそのところで答えよう。」(ホセア2:14,15)

今日からあなたの人生には神の祝福の実が増し加わっていくでしょう。そして「アコルの谷」、 即ちあなたのもっとも深い傷や最悪の失敗の場所に、主は望みの門を設けてくださっています。主があなたのために用意された約束の地とは、あなたが主の歌を取り戻し、あなたが「若かった日のように」もう一度歌うようになることに他なりません。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-04-19 13:42 | アメリカからのメッセージ

使徒の時代の再来  キャシー・ペルトン  4月13日


隔ての塀をこわし架け橋とする

キャシー・ペルトン

初代教会の人々の生活

先月のことですが、私は幾晩かにわたり、ぴったり2時44分に目を覚ましました。毎晩それが起こるので、主がそのことを通して私に何かを語っておられるのだということに気がつきました。その意味を祈り求めたところ、主の御霊が使徒行伝の2章44節に私を導いてくださいました。
「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有していた。」

この言葉を読んだとき、私の心の中に、他のクリスチャンたちともっと親密で個人的な交わりを持ちたいという強い願いがわきあがってきました。 主が私と引き合わせてくださった同じ町に住むクリスチャン達と心からの交わりを持ち、彼らの人生と関わりを持ちたいという願いが私の心に湧き上がってくるのを最近しばしば感じていました。私は他のクリスチャン、特に教会に来てはいても孤独を感じている人たちに対して同情心や憐みを感じ、そのような人たちともっと時間を共に過ごすようになってきていました。

人を知り、人に知られる大切さ

使徒行伝2:44には、彼らはすべての物を共有していた、とありますが、それを読んで私は、ただ所有しているものを売って分け与えるというだけではなくて、(確かにそれも大切ですが)、物質的なこと以上のことを考えました。 イエスが弟子たちと一緒に旅をして生活を共にしていた時のことを、私は思いめぐらしました。 すると神様は、私が周りにいる人たちと人生を分かち合うとはどういうことかを示し始めてくださいました。ローマ人への手紙12:15には、「喜ぶ者と喜び、泣くものと共に泣きなさい。」とあります。

共に旅をしてすべてのものを共有することは、その人々の喜びと悲しみをも分かち合うということです。キリストの身体である教会の中には、私を知ってほしい、という深い願いがあります。私はいままでの数ヶ月の間、周りにいる多くの人たちとゆっくりと交わる時間を持ちました。その中で彼らが先ず第一に言ったことは、周りにいる人たちを知り、自分も知ってほしいという願いを彼らが持っていることでした。知られるということは、即ち大切に思ってもらうということです。

イエスはご自分の弟子たちをよく知っておられました。彼らと旅をしながら共に食事をし、夜は共に寝ました。彼らが何かに成功したときや、また、失敗したときにも主は彼らを愛されました。主は一人ひとりと親しく交わりを持たれました。主は私たちにもそのようにしてくださるのです!ですから私たちも主と同じように、周りの人たちと個人的に親しく交わらねばならないのです。

使徒行伝2:46-47には次のようにあります。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」
どうして毎日多くの人が救われたのでしょうか? それは、クリスチャンたちがイエスがしたと同じような言動をとっていたからです。彼らはイエスの手足となっていたのです。彼らはお互いに親しく、毎日生活を共にしていました。一人ひとりが神からだけではなく、お互いにみんなと個人的に親しく知られていましたから、そこには大きな喜びがありました。彼らは「山の上の町」となり、「暗やみの光」となり、飢え乾いて人から愛され理解されたいと願っているこの世へ「愛」となったのです。

隔ての塀

私たちが個人的に親しく知られたいと願っているとすれば、どうしてキリストの身体の中にこのように多くの不一致があるのでしょうか。その一つの理由は怒って腹を立てること(オフェンス)です。 敵はキリストの身体を分裂させるために、人々が腹を立てるようにといつも働きかけます。非常につらいことが起こって痛みを覚えているときに、そばに来て共に悲しみ、愛を示す人が一人もいなかったとしたら、その人はきっとキリストの身体全体に対して腹を立ててしまうでしょう。

最近、私は短いヴィジョンを見ました。そのヴィジョンの中で私は一人ひとりのクリスチャンが木の塀に囲まれて孤立している姿を見ました。そして「O fences be removed! オー、塀(フェンス)よ、取り除かれよ!」と言う声が聞こえました。 主が立腹(オフェンス)について語っておられることが分かりました。次に、多くのクリスチャンを取り巻いていた塀が取り除かれるのが見えました。立腹の塀に使われていた板が、一人ひとりの前に置かれ、教会の中に生じた裂け目や破れの上の架け橋となりました。
この短いヴィジョンが終わったとき、私は自分にむかって「オー、塀(フェンス)よ、取り除かれよ!」と宣言し始めました。そして主に、私の人生の中のすべての立腹の板を取り除き、その板を亀裂を修復し回復させる架け橋として使ってくださるようにとお願いしたのです。

イザヤ58:12「あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。」

イザヤ58章を是非全部読んでみてください。この章がキリストの身体に一致を回復し、救いを求めている人々の魂を収穫するためのかぎとなる章ではないかと、私は思います。

新しい音

Iコリント13;1「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」

2年前のことですが、私はアルバータのエドモントンでの「ライズ・アップ 立ち上がれ」という集会に参加していました。集会中のある夜、何百人というクリスチャンが、私がそれまでに経験したことがないような全く純粋な美しいワーシップの中に入っていくことができました。このワーシップの中で、聞こえてくる響きに私は畏敬の念を覚えました。それは神の民が主を切に求める響きであり、また、同時に神が神の民を求める響きでもありました。それはまことの愛の音響でした。

そのワーシップでは、既成の歌は一つも歌われず、すべてその場で生まれた歌(スポンテニアス・ソング)で神への思いが歌われました。そのとき、私たちのチームのメンバーの一人であるステイシー・キャンベルが、静かにステージに上がり、私たちに聞こえていた「音」について語り(預言し)はじめ皆は心打たれました。彼女は主の御手御足に釘を打ち付ける槌の音について語り、それを「熱望の音」とよびました。

それは、主の心の奥深くに届き、主が愛する者たちのためにいのちを捨てる思いになられた愛の音でした。ヨハネ15:12-13には、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これより、大きな愛はだれも持っていません。」とあります。

あの夜何百人もの人がワーシップをしたときの響きが、どうして2年後の今も私に影響力を持っているのでしょうか。それは、彼らがイエスをそんなにも親しく個人的に「知った」ので、彼らの情熱は抑えることができず、彼らの口からあふれ出て主にむかって歌い続けたからなのです。主と時間を過ごせば過ごすほど、もっと主を愛する思いで一杯になり、愛のシンフォニーのようになったのです。「やかましいドラや、うるさいシンバル」はなく、ただ純粋な愛がそこにはあったのです。

神は、私たちがそのような愛で互いに愛し合うようにと招いていてくださいます。私たちが共に時間をすごし、個人的に親しく知り合うときに、私たちの間の愛は大きくなっていきます。そのような関係をキリストの身体のすべての人と作ることはできませんが、小さなグループの中ならばできるのです。(イエスは12人を選ばれました。) そうすると、私たちが人を愛する能力は増し加わり、私たちがどこへ行っても、また誰と会ってもその人を愛したいという願いがあふれるようになります。 私たちの心は広くなり、愛する力が大きくなり、やがては友のためにいのちを捨てるほどの愛さえも理解することができるようになるのです。

急流の上に橋をかける

神は、私たちがクリスチャンの間の怒りや分裂の塀を取り壊すことを望んでおられます。敵が悪意をもって塀を建てるのに使った板を、教会の急流の上に橋をかけるために使おうではありませんか。そうすれば、教会はその愛によってこの世に知られるようになるでしょう! 初代教会のクリスチャンたちが互いに愛し合っていたので町の人々から好感をもたれたように、あなたの町でも同じことが起こるでしょう。

今はすべてのものを共有するときです。自分の人生を、時間を、憐みを、そして愛を私たちの周りにいる人々と分かちあうときです。喜ぶものと共に喜び、悲しむものと共に悲しむときです。
もし私たちがそれを自分の周りですることができるならば、神は町や国という規模でもそれをさせてくださるでしょう。まずお互いに顔と顔を合わせて愛しあうことを学ばねばなりません。そのときにコミュニティーや国として、他の文化と顔と顔をつき合わせて裂け目を修復していく権威を持つことができるでしょう。小さく始めることが大切です。 私たちがまず身の周りから始めるならば、次の世代は同じことを他の国との間ですることができるのではないでしょうか。

さあ、今日からあなたは教会や町、国のトラブルという急流の上に橋を築き始めることができるのです。 先ずはあなたに一番近いところから始めてください!(終わり)


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by walkwithgod | 2007-04-13 16:41 | アメリカからのメッセージ

エルサレムにあるテンプルマウントと神殿の関係  4月6日

テンプル・マウントの外に神殿が位置していたことを発見した新たな研究

2007年2月11日 WorldNetDaily.com より© 2007 WorldNetDaily.com

1866年に英国の探検家によって作られた地図と、ユダヤ教のミシュナの一節を用いて、イスラエルの考古学者でヘブル大学の教授であるジョセフ・パトリッチ氏が、ユダヤ教の神殿が建っていた正確な位置を突き止めたと発表した。神殿は古代に2度建設されたが、2度とも破壊されている。

この神殿は紀元前10世紀にソロモン王によって建てられ、その後バビロンから帰還したユダヤ人によって紀元前5世紀に再建されたが、多くの学者はその神殿があった位置は現在イスラム教の岩のドームが建てられている場所であるといっている。しかし、ジョセフ・パトリック教授はその推定は間違っており、正確な位置を示す考古学的な証拠があると言う。

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      西を向いているエルサレムにあるテンプルマウ
ントの上に位置するドーム・オブ・ロック

パトリッチ教授によると、神殿や外庭、部屋や門はもっと南東に向いていて、現在のテンプル・マウントに斜に、しかももう少し東よりに建っていたという。これは、神殿は東向きで、現在のウエスターン・ウオール(西の壁)にもっと近かったと主張する他の学者たちの意見とは異なっている。

しかし、この違いこそが、アブラハムがその上で息子イサクをいけにえにしたとユダヤ人が信じ、イスラム教徒はモハメッドがそこから天に昇ったと信じている「ロック(岩)」の上には昔の神殿が建てられていなかったという理由であると、パトリッチ教授は述べている。

パトリッチ教授の神殿の位置についての研究は、1866年に英国の技師であったチャールス・ウィルソン卿が、パレスチナ・エクスポレーション・ファンドのために研究した資料に基づいている。ウィルソンは現在のテンプル・マウントの下のいくつかの古代貯水槽を地図に表したが、その一つに、ローマ帝国によって紀元70年に破壊された神殿の痕跡が保存されていると教授は言っている。

ウィルソンによって地図に表された貯水槽は、幅は約4.5メートル、長さ52メートル、深さ13.7メートルで、テンプル・マウントの南東の隅に位置していたが、南東に面していて北と南にも溝が伸びていた。

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北東に面している第一世紀に存在した神殿のパトリッチによる復元図。ヘブル大学の好意によるもの。(スケッチはリーン・リトメーヤー)

「今までテンプル・マウントにある貯水槽の位置とそのユニークな形が、祭壇と聖所の位置と形に由来していることを思いついた人は誰もいなかった。」とパトリッチ教授はYネットニュースに語った。

教授によれば、この貯水槽だけがテンプル・マウントで発見されたユダヤ教のミシュナに書かれているものと一致していると言われる。ミシュナは紀元3世紀に編纂されたラビの口伝集で、神殿の庭にあった祭壇で祭司たちが行った毎日の清めの儀式といけにえの務めについて書かれている。

祭司たちは、いけにえをささげるために祭壇への斜面路を登る前に身を清めなければならなかったが、その清めの水は、貯水槽から水車の原理を使って運ばれ、洗盤に汲まれたことが、ミシュナには記されている。

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左図はパトリッチによる第一世紀の神殿の復元図。図中、八角形をしたものがドーム・オブ・ロック。図面は上の方向に向かって東向き。

パトリッチ教授は、水車と洗盤があった位置は、ウィルソンの地図にある南東に向いているこの巨大な貯水槽から割り出すことができ、さらにそこから祭壇や神殿そのものの位置も分かると信じている。

パトリッチ教授は、神殿は他の学者たちが推定している位置よりももっと南と東に寄っていて、テンプル・マウントの東と西の壁に対して直角ではなく斜めに建っていたと結論づけている。また、そうだとすればドーム・オブ・ロックにある「岩」は神殿が建っていた敷地の中には入っていないことになる。

パトリッチ教授は、自分の研究は全くアカデミック(学術的)なものであり、政治的意味合いが配慮されたものではないと言っている。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-04-06 10:31 | 世界のニュース

花を咲かせる   パトリシア・キング    4月5日

花を咲かせる

パトリシア・キング


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バラの花のヴィジョン

少し前のことですが、私は一つのオープン・ヴィジョン(起きているときに見るヴィジョン)を見せられました。この文章を読んでおられる方の中にもこのヴィジョンの指し示すことが当てはまる方がおられると思います。
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このヴィジョンの中の私は、キッチンの窓から見える古い農家を眺めていましたが、そこに沢山のバラが植わっている庭園があるのに気がつきました。いくつかのバラは開いていましたが、ほかは堅いつぼみのままでした。バラ園の上には嵐を呼ぶような大きな黒雲が広がっていました。私は心の中で「もうじき、、」とつぶやき始めたのでしたが、「大雨になるぞ」という言葉を頭の中で考える暇もなく、そのとき天が開いて土砂降りになりました。大雨は降り続きましたが、その中で私は奇妙な光景を見たのです。

開いていたバラの花は、コップのように水で一杯になり、重くなると花は頭を下げてカラカラに乾燥した地面に水をこぼし、また、頭をあげて水を天から受けていました。

固いつぼみのバラの花は、同じ雨の下にありましたが、つぼみの周りに数滴のしずくをつけるだけでした。その時主が「開いている花は雨を受けるけれど、つぼみはしずくだけしか受けられない。」と言われました。


死海はなぜ死んだか

花が開かないでつぼみのままになっている理由は沢山あります。太陽の光が少ない、土に栄養がない、水が足らない、というようなことです。しかし、私の見たヴィジョンでは、すべての条件は調っていて、すべてのバラが同じ雨を受けていました。 同じ環境の下に置かれていたのに、開いている花と開いていない花とがあったのです。 一体何が違ったのでしょうか?

これと同じことが「神様の庭園」の中でも起こることがわかります。ある者たちは雨の中で踊り、ある者は傘をひろげ、ある者は雨を飲み、又他の者は水の成分を知りたがり、ある者は溺れることを恐れ、ある者は旱魃を恐れます。結論は「けちけちしている人」からは何も得られないということです。彼らは豊かなのですが、自分の持っているものをしっかりと握りしめ、それを必要としている人たちに分け与えようとはしないのです。死海が死んだのもそれが理由です。

あふれ出すことの大切さ

ヨルダン川から良いものがすべて死海に流れ込むのですが、そこから出ていくものは何もないのです。それで水は澱み死んでしまうのです。それと同じように、キリストの身体の中でも、霊的水ぶくれは非常に嫌われるべきものです。私たちはすでに生ける水で一杯なった身体でざぶざぶと音を立てながら集会に集い、もっと水を受けようとするのです。乾いている人のためにもっている水を分け与えようともしません。その結果はもっとも悲劇的なものとなります。即ち、つぼみが固く閉じていて、雨を受けることが全くできない状態になるのです。これは自分で飢饉を招いている姿です。


言葉は影響力がある

神の子供たちが花を咲かせない理由はいくつかあります。恐れや、無視されたとか、拒絶された、裏切られた、妨害された、虐待された、批判されたというような経験が原因となります。批判は創造性を殺してしまいます。たった一言のひどい言葉でそれを言われた人の賜物は窒息してしまいます。互いにかけ合う言葉は、その人を育てる肥料になるか、あるいは殺す毒になるかのどちらかなのです。殺す力のあるような否定的な言葉を受けると、私たちは自分を固く閉ざし、やがて干上がってしまいます。

神さまは花は咲くように造られたのです。花は、開くと無防備になり攻撃されやすくなります。その花のすべての良さがあらわになり、隠れたところがなくなります。飢えたひとのためには食糧となり、乾いた人のためには飲み物となり、家のない人のための宿となり、見るに美しく、新鮮な空気を与えます。(実際に植物は炭酸ガスを酸素に変えます)これが主から与えられた私たちの仕事であり、この世でするべきことなのです。

また、私は植物に話かけると良く育つことも知りました。ディボーションのときを持つのはまさにこのためです。神様はあなたに話けられ、あなたは必ず成長します!後の雨が降り始めています。ですからつぼみのままでいないで花を開いてください。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-04-05 15:48 | アメリカからのメッセージ

リック・ジョイナー師の幻とデイビッド・ウイルカソン師のメッセージ 坂 達也 4月1日

リック・ジョイナー師が見た幻とデビッド・ウイルカーソン師のメッセージ

 私はつい最近、アメリカの代表的クリスチャンリーダーとして預言的な働きをされている著名な二人のメッセージに接することが出来ましたので、ご報告したいと思います。
 二人のメッセージに共通した点は、どちらも教会に対して迫り来る終末への警告と、教会が今なすべきことは何かと言う本質論に触れていることです。最初に、リック・ジョイナー師の記事をご紹介します。

最新号のモーニングスター・プロフェティック・ブルティンに、リック・ジョイナー師が最近見た幻について書いていますので、それを手短に要約します。

彼が幻の中で一つの道が二つに分かれる分岐点に立っていると、そこにトーチを掲げ生きた「自由の女神」のような人がいることが分かりました。しかしその灯は弱々しく、顔は困惑と混迷に満ち、歩いている足はほとんど前に進んでいませんでした。彼女は分岐点からどちらの道に進めばよいかで迷っておりました。道の傍らに標識があり、それには「一方の道を進めば国は益々弱まりやがて破局を迎えるが、もう一方の道を選べば国は強くなり、前よりももっと輝く将来がある」と書かれていました。問題はどちらの道がそうなのかが書かれていないことでした。その標識には又、「この分岐点に長く立ち止まって迷えば迷う程、間違った道を選ぶ可能性が強まり、その道が強いられる」とも警告されていました。そしてこの自由の女神のような人は今にも間違った道を選ぼうとしていることが明らかでした。

よくよく見ると自由の女神がそこまでたどり着いた道には多くの過去の偉大な国とか帝国が歩いた足跡があり、この分岐点で皆立ち止まり、そして皆が間違った方向に進んで行った足跡が見えました。しかし、もう一方のもっと繁栄すると言われる道には誰の足跡を見ることが出来ませんでした。そこで間違った道の方をよく見ると、その道には次の曲がり角までは道がよく見えるように街灯がつけられていて、この道こそが正しい道のように思えて来るのでした。それに反し片方の道は暗くて狭く険しい道のように見えました。

迷っている自由の女神のような人は、弱り切った手に持ったトーチが重そうで、今にも掲げているその手を下ろしそうでした。そしてかろうじて掲げているそのトーチの光は非常に弱々しいものでしたから、明るい街灯がついている道を選んでしまう誘惑に勝てそうもありませんでした。それを見てたまりかねた私は、彼女の側に駆け寄り、今にも落としそうなトーチを掲げている手を握りしめ、もっと真っ直ぐ上に掲げるのを助けました。すると弱々しかった光が輝きを取り戻し、暗い道に光が当り始めました。

私は次に彼女がもう一方の手に抱えてはいるが今にも落としそうな書き板(タブレット)をしっかり持ちなさいと励ましました。今の彼女に必要なものは確かなビジョンと自信と決意(やる気)であることが私にはよく分かりました。

私は彼女がここまで到達するために過去にやってきた業績を称え、これからも道を間違えなければ、今までどの国もどの帝国も成し遂げたことのない輝かしい将来に進むことが出来ると言って彼女を励ましました。彼女はそれを聞くと顔を明るく輝かせました。しかし、彼女はどちらの道に進むかの決断を躊躇しており、それが間違った道への選択に彼女を追いやらんとしていることが明らかでした。

この幻の解き明かしとして、ジョイナー師は自分が見た幻は明らかにアメリカを指し、アメリカは今、国の興亡に係わる重要な分岐点に立っていると言います。そして幻に現われた彼自身は、現在の教会を代表しているような気がすると言っています。以下はジョイナー師の文章の要約です。

「それはちょうどアロンとフルがアマレクに勝つためにモーセの挙げている手を支えた(出エジプト17:12)のに似ていて、今のアメリカに必要なのは教会が国家のためにもっと祈りとりなしをすることです。又、この国が今必要なのは預言であり、それによってアメリカが将来に対する確固たるビジョンを得ることです。それによって、険しくて孤独ではあっても勇気をもって正しい道を選ぶことが出来るからです。そのために自由のトーチを掲げているのであって、今こそそのトーチを高く掲げなければならない時です。

アメリカは神の御国ではありません。又神との特別な約束(契約)の関係にある国でもないので、国が滅びないという保証はありません。神が特別の契約をしている国はイスラエルと教会(ホーリー・ネイション、神の御国)の二つしかないのです。

しかしながら、アメリカは建国の時に建国の父たちによって主に捧げられた国であることにおいて、他の多くの国と違います。神に捧げられたものは総て聖いので、アメリカが神の名を冒涜するような国になるのであれば、神はそうなる前にアメリカを滅ぼされるでしょう。又、神に捧げられた聖い国であるがゆえに、他の国がそれをしても神の怒りを逃れられることでも、アメリカがすれば許されない場合が多いのです。

神はアメリカを神に捧げられた「聖い国」として扱われるので、それだけ厳しい懲らしめを受けねばなりません。しかし、そのことはむしろ喜ぶべきことであって、神が懲らしめるのは神に見捨てられていない証拠です。

そのことがヘブル12:7-13に書かれています。『訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。』

主はこれから益々アメリカを厳しく懲らしめるでしょうが、それは見放すためではなくむしろ救うためです。又、とりなしと悔い改めがその厳しさを和らげるでしょうが、それだけが目的ではなく、むしろ完全に国として悔い改めることによって、神の懲らしめから開放され神の栄光を現わす国になることが目的です。

大宣教命令(マタイ28章)とは弟子を造ることであって、単に未信者を信者にすることではありません。又、単に個人を弟子訓練するだけではなく、国を弟子化しなければなりません。その意味でアメリカは弟子訓練を受けている国であり、総てにおいて神の御言葉が基準とされなければならないのです。私の見た幻の中で、自由の女神が今にも手に持った書き板(タブレット)を落とさんばかりの状態にあったと言ったのは、タブレットとは神の御言葉を表しており、アメリカが御言葉から離れてしまいつつあることを意味していると解釈します。アメリカは御言葉が総ての基準となる国でなければならないのです。そうして世界の塩となり光の国となるべく、自由の光のトーチを高く掲げ、囚われた人々と囚われた国の上に光を放つ国とならねばならないのです。」

以上がジョイナー師のメッセージですが、次にデビッド・ウイルカーソン師の2007年2月25日のメッセージ・テープ(タイトル"That Dreadful Day No One Wants to Talk About")を http://www.worldchallenge.org/を通して聴きましたのでそれをご紹介します。

ウイルカーソン師は2ペテロ3:10と12を引用し、ペテロが言っている「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。……その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」とは、核爆発を形容しているとしか思えず、その日が来るのが間近に迫っていることを警告しております。

ウイルカーソン師は昔から「世の終わり」のメッセージを説く、言ってみれば現代のエレミヤ、あるいはエゼキエルのような預言者であると私は思って来ましたが、今回のメッセージは特に迫力がありました。彼は、既にアメリカが世界のスーパーパワーである時代は過ぎ、今世界のスーパーパワーは中国に移行していると言う事実、又、既に核を保有するイランの大統領をヒトラーに匹敵する気が狂った男(マッド・マン)としてとらえ、彼が世界を大混乱に陥れることを一大使命として、今着々とその準備を進めていることを指摘しております。

又、しばらく前サダム・フセインがイラクの大統領であった当時、彼は98機の爆撃機に化学爆弾等の爆薬を装てんし、当時のイスラエルの主要都市(但し回教徒のドームがあるのでエルサレムを除く)を爆撃する許可を発していたことを最近明らかにした本を引用し、これを寸前にアメリカ軍がその飛行場と飛行機を全滅させて未然に防いだことは神の介入であったと説明しております。

ウイルカーソン師は大災害が起こることは時間の問題であり、今こそクリスチャンは聖書に書かれている艱難の時が迫っていることをはっきりと認識しなければならないと説きます。そしてペテロが「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」(2ペテロ3:10-14)と言うように、今私たちがすべきことは「聖い生き方をする敬虔な人」になることであり、それはキリストに似た者になることを意味し、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長」(18節)することであることを熱心に訴えます。

X X X X X X X X X

この二人のメッセージを読んで、彼らが現在の世界情勢を的確に認識しているという印象を、私は強く持ちました。そこで、この押し迫る終末の時を迎えた私たち教会が、今何をなすべきなのかを考えてみたいと思います。

ジョイナー師が言う大宣教命令の解釈は、今までの考え方と少し違うという点で興味を惹きます。マタイ28:19で「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として」(口語訳)とあります。日本語訳ではどちらかと言えば「すべての国の人々」と言う個々人に重点が置かれていますが、英語訳のほとんどは、「すべての国民」を all nations と訳しており、このnations と言う言葉には国民と言う意味が含まれますが、国家を意味するニュアンスがあることも確かです。ジョイナー師は世界中の国の人々だけでなく、「国をも弟子にする」と言う考え方をここで披瀝していますが、折からのトランスフォーメーション・ムーブメントを意識してのことでしょうか。しかし、そのトランスフォーメーションにおいても、私は基本的に個人が先ず変えられ「キリストのようになる」こと、つまり「聖い生き方をする敬虔な人」に変えられることが先決であり、それが特に終末の教会に与えられた最重要な責任であると思います。

ところでnations と言えば、教会をa Holy nation と英語の聖書の1ペテロ2:9あるいは、出エジプト19:6で言っていることにご注目下さい。日本語聖書では皆「国民」「民」と訳されています。私はそれが間違っているのではなく、むしろ「教会」がキリストの王国の民であり、その民は今は世界中の国に散らばって存在している状態ですが、キリストの再臨の際に集められて一つの国、王国になると考えればよく理解出来ると思います。それはちょうどイスラエルの国民が、今のイスラエルの国が再建される前には世界中に散らばって存在していたと言う事実が、その「型」である訳です。

次に、ジョイナー師が言及したヘブル書12:7-13ですが、私たちクリスチャンは皆「神の子」になるための弟子訓練を受けねばならないと言うことを、この御言葉が示しております。それが大宣教命令の趣旨であり、そのための「懲らしめ」と言う訓練は、私たちが考えているよりも遥かに厳しいものであるのです。

それは多くのクリスチャンが聖書で言う艱難を通り、火の中を通って精錬されて始めて「キリストに似た者」になれることを暗示していると思います。それが2ペテロの3章でひしひしと伝わって来ます。ペテロがこの書簡を書いた時はAD67年前後と言われていますが、当時は既にネロ皇帝によるクリスチャン迫害がAD64に行われており、AD70年にはエルサレムが炎上して滅ぼされました。ですから彼は本当に身近に、「火に焼かれる」覚悟をし、「神の日の来るのを待ち望んでいた」ことが分かります。

ヘブル書12:14には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」と書かれています。そして、その後にモーセとイスラエルの民がシナイ山でのラッパの響き、ことばのとどろき(神の御声の)の恐ろしい光景に触れておりますが、25-29節で「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。」とヘブル書の筆者もペテロの書簡と同じことを警告しております。

 私は今弟子訓練に関する本を書いていますが、弟子訓練の本質を知るためにも、上記でご紹介したアメリカの代表的預言者二人のメッセージは、大変参考になると信じます。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-04-01 11:45 | 坂達也からの今月のメッセージ

十字架を抱いて命の木を生きる ポウレット・リード 4月1日

生まれるときと死ぬとき
 十字架を抱いて命の木を生きる


ポウレット・リード

預言的なヴィジョン

私は2002年にミネソタ州のミネアポリスで行われた女性の使徒的預言的カンファレンスに出席しました。そのとき、一つのヴィジョンを見せられたのですが、 最近そのヴィジョンを主が思い出させてくださいました。私が友人たちと共に王なる主を礼拝していたとき、そのヴィジョンを見て私はびっくりしたのでした。私は霊の目でそれを見て、震えました。そこには私の身体(多分キリストの身体なる教会をあらわしている)が、白いガウンを着てうつむきに川に浮かんでいました。ちょっと見たところそんなに変なことではありません。ただ単に水の中でいろんな変わった姿勢をして遊んでいるだけかもしれません。でも私の身体はずっとそのまま長い間浮かんでいるのです。私ははっとしました。そして聖霊に聞きました。「主よ、あんなに長い間うつむきに水に顔をつけて浮かんでいるということは、私は死んでいるに違いありませんね!」 その時、神様は力強い静かな「アーメン」で私を満たしました。

そこで、私はそのヴィジョンをもう一度注意深く調べて見ることにしましたが、3つのことに気がつきました。まず、それが普通の川ではなく、神の川であることがわかりました。第二に、私は救いの衣を着ていて花嫁の正義の外套をまとっているのがわかりました。(イザヤ61:10) 第三に、私の両腕はまっすぐ前に伸ばされ、その手は王の差し出した笏をしっかり握っていました。

絶えず祈りなさい

愛する皆さん、天の父は夢やヴィジョンで警告を与えてくださり、人生で起ころうとしている様々なことに対して私たちが祈りの備えができるようにしてくださいます。しかし、人々が実際にヴィジョンを生きはじめると、あらかじめ備えよという神からの警告を忘れ勝ちになります。そんなとき聖霊が「わたしの息子、娘よ、わたしはおまえの霊を備えようとした。わたしはおまえを守ろうとしているが、しかしまた、完全な霊にもしなければならない。」とささやかれます。伝道者の書3章でソロモン王が>「すべての営みには時がある。」と教えているとおりです。黙っているのに時があり、話をするのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時があります。泣くのに時があり、ほほえむのに時があります。そして「生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。」(伝道者の書3:2)

あるときには、私たちは神の川の中で障害物にぶつかってばかりいて、目的地につくのがどんどん遅くなるように思えるときがあります。私たちはそれに対して縛ったり解いたり、叫んだり泣いたり、障害物を横に押しやったりします。それは多くの場合正しいことです。しかし、私たちが懸命に祈ったり戦ったりしているときに、真に静まって全能の主に介入していただく心を持つならば、主がこうささやかれるのが聞こえるでしょう。「愛する子よ、聞きなさい。あなたが戦っているのは敵からの障害物ではないのだよ。それは木だ。わたしはその木の上で死んだ。おまえも神の川を流れていくとき、あなたが死ぬまではその木に何度でもぶつかるだろう。」

十字架を抱きなさい

あの荒削りの十字架に出会うたびに私たちは自分の世界が少し揺さぶられるのを感じます。そして実を結ばない枝が剪定される痛みを感じます。プライドは去らねばならず、高慢も取り払われなければなりません。肉欲、罪、嫉妬、疑い、野望、欲望等々、すべて肉なるものは十字架にかけねばなりません。実を結ばない枝は私たちから切り取られ、遠くに流れいって忘れられ、もはや決して木につながれることはありません。いのちの木は、私たちからイエスに属さないものがすべて取り払われないと、手に入れることはできません。私たちを十字架にかけて殺す木は、同時にそこから力が湧き出る木でもあるのです。パウロが「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者のなかからの復活に達したいのです。」と言う通りです。(ピリピ3:10,11)

神の川の水が増すに従って(エゼキエル47参照)、川は深くなり誰も渡れなくなります。しかしその川が流れていくところではすべてのものが命を得て生きます。私たちは神の道に出ていって神がご自身の素晴らしさを人々にみせることができるようにせねばなりません。木にぶつかって私たちが死ぬことによっていのちが生まれるのですから、その木を避けてはいけません。私たちの兄弟パウロのように言うことができますように。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、命にあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

勿論「木」にぶつかるのは痛いことです。死と復活の間には必ず痛みが伴うに違いないのです。そのときのために祈りを積んで備えることは助けとなります。すべてのことにシーズンがあり、この痛みのときも又過ぎ去ると知ることができます。神が私たちを栄光から栄光へと変えてくださるのを知り、変えられるときにはいつも痛みが伴い精神的な危機感があることを覚えて、それを喜ぶことができます。愛する皆さん、困難だとあなたが感じるときはほとんどの場合、あなたが取った道は正しい道なのです。しかし、自分に死ぬことに焦点を当てるのではなく、自分に死ぬこととは神の静かで暗い胎内に入ることであり、そこで新しい命がはぐくまれていると言う新生の奇跡に目を留めようではありませんか。

私たちが恐れを覚えるときに天の父にそれを告白すると、即座に恐れを克服す信仰が与えられるのですから、どうか心配しないでください。それがイエスがマタイ26:39でなさっていることです。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」

私たちがいのちの川を流れていくとき、神は決して私たちが耐えられないようなことは与えられないのですから安心してください。主は教会をご自分の身丈にまで成長させてくださるのですが、それと共に次のように約束していてくださいます。「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』といわれたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(IIコリント12:9) 

神は良いこと、悪いこと、いやなことを使って、私たちをキリストの似姿へと変えてくださるのです。 「主よ、私はもう十分によい品性になりました! この悪夢からどうか目を覚まさせてください!」と叫びたい人があるかもしれません。しかし、主は「まだ十分ではないよ。おまえを十字架にかけるプロセスを完全にさせておくれ。わたしとひとつとなるためにね。」といわれることでしょう。なぜならば、次のように書かれているからです。「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」(黙示録22:14)

試練:権利を知る権利

いのちの木から食べる権利だけが私たちの権利です。なぜならば、私たちはイエスの血潮によって贖われたものであり、もはや自分自身のものではないからです。(Iコリント6:19) 困難にあったときに主の力を忘れて主から離れてしまった弟子のようには決してなりたくはありません。 長い試練にあっているときは、天の父が残酷で愛がないように見えるかもしれませんが、決してそんなことはないのです。

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。」(伝道者の書7:14) 主は困難なときを特訓の場として使われ、主の軍隊を訓練し、人の目に正しいのではなく神の目に柔和であることが必要であることを教えてくださるのです。中傷や目に余るような社会的理不尽さ、絶えることのない侮辱や、あるいは反対に人間的な称賛などが御国が前進するのを妨げるのを許してはならないことを私たちは学びます。 キリストの再臨に備えている私たちには、腹を立てたり得意になったりしている暇はないのです。

時には川の流れが非常に激しくなり、多くの困難が私たちの人生に痛みをもって襲うことがあります。また、とりなし手は、祈りの最中に深い悲しみを経験することがあります。それは、私たちが痛んでいたり不当な扱いを受けているときには、主は私たちのうちに住んでおられますから主もともに苦しまれるからです。しかし、感謝なことに神は痛みを無駄にはされないのです。神はひとり子イエスの痛みを無駄にはされなかったように、私たちの痛みも無駄にはされません。
神のあわれみは朝ごとに新しく、私たちは川を流れ続けます。早瀬はわずかの間であり、流れはすぐに緩やかになり、川が曲がった先には素晴らしい景色が待っていることを私たちは知っているのです。「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。(箴言13:12)」という言葉を思いだしてください。私たちは主からまかされている陣地を毎日守るために歩き続け、大きな樫の木のようにどんな困難にも耐えて日々強くなっていくのです。

神は私たちがそれを問題だと感じなくなるまで、その問題を経験することを許されます。たとえば、拒絶されたときにたじろぐことがなくなるまで、私たちは拒絶されることを次々に経験するかもしれません。不正を見ても神が私たちの弁護人であることを知っているので、冷静にしていられるようになるまで、次々に大きな不正を経験するかもしれません。もし自分で自分を守ろうとするならば、主はあなたを守れません。つまり、神の力強い言葉にあるように、神はご自分で敵と戦ってくださるのです。

他人の様々な言動はすべて、それが良いものであれ悪いものであれ、私たちがイエスにもっと近づくために使われることを知ります。なぜならばイエスは私たちのなぐさめ主であり、兄弟よりももっと親しい方だからです。私たちは人の言動に対してリアクトするのではなく、キリストがされるように恵みをもって、たとえ痛くてももう一方の頬を向けるような応答をすることを学びます。私たちはあわれみを施すことができるのです。最後のものが最初になるというキリストの道を学ぶのです。私たちが従順であるときに、人間の言葉は人を格下げし、真の言葉だけが昇格させることを学びます。

神の実地訓練


愛する皆様、神は私たちの周りの状況を使われて、私たちがみ言葉通りに起き上がって勝利者になるようにとされるのです。私たちが勝利するときに主はいのちをくださり、「死者の中から起き上がれ。(エペソ5:14)」といわれます。「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。(IIコリント4:11)

復活されてご自分の威光を示された主は、どれほど力強い方でしょうか! 主は、私たちが自分の外側の殻に死ぬというシーズンを私たちに与えることによって、内なる人がいのちにあふれて生ける水の川がうちから流れ出て(ヨハネ7:38)、その川の流れるところはすべてのものが生きるようにされるのです。私たちがキリストとともに十字架につけられるとき、もはや主の命の流れをとどめるのではなく、むしろその流れが私たちを通して流れ出るようにできるのです。つまり、私たちはいのちの川と合流して一つとなるのです。

祈りましょう

「愛するイエス様、あなたが『私に従いなさい』といわれたときに、それがたやすい道だとは決しておっしゃいませんでした。しかしその道は歩む価値があるといわれました。なぜならば、私たちがあなたとともに苦しみを受けるならば、またともに栄光も受けるからです。(ローマ8:17) また、『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)』ということも知っています。種が死に、枝が剪定されるとき、私たちはあなたの恵みに感謝いたします。あなた様は恵みそのものです。

あなたが今キリストの花嫁を訓練されています。私たちもあなたとともに、着飾って準備を整えて、御座から流れるいのちの川の中を流れていくことができますように。王なる主よ、私たちがあなたに喜ばれてあなたの笏に触れることができますように。そしてあなたとともに御国に入りあなたの足元にひれ伏すことができますように。

私たちが訓練されたとき、天の父よ、死の陰の谷を歩いている人々を助ける者として用いてください。主よ、すべてのことを教えてくださって有難うございます。すべてのことには時があることを示してくださって有難うございます。叫ぶとき、歌うとき、壊すとき、建てるときがあり、また、死ぬことを他の人に示すときがあることを。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-04-01 10:30 | アメリカからのメッセージ