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預言されているリバイバルがなぜ起こらないのか コンラッド・ランパン 5月30日

預言されているリバイバルがなぜ起こっていないのか

コンラッド・ランパン


今日私が祈っていると、主が静かに私の思いのなかに次のように語られました。
「周りを見ても霊的な動きがあまり起こってはいず、全体的に熱が冷めているのにあなたは気がついていますか? リバイバルの到来がずっと預言されているにもかかわらず、それが起こっていないのを多くのクリスチャンがいぶかしく思っています。 聖霊の活発な動きが何度も約束されたのですが、未だにそれが起こっていないので、人々は何故なのだろうかと疑問に思っています。 しかしそれは、このわたしがリバイバルの到来を延ばしているのです。 その理由を知りたいですか? それはわたしがわたしの民の心の中を知りたいと思うからなのです。」

私は「主よ、あなたはすでに人の心をご存知ではないのですか?」と申し上げました。

主は答えられました。「目に見える状況が、自分の期待していたのとは全く違うように動いていくときに、その人の心の本当の願望が一体何であったのかが、明らかにされることがあります。わたしの霊の動きは世界のあちらこちらで実際に起こりましたが、それは試験的なものに過ぎず、その目的は人々の心が本当には何を一番大切にしているかに光を当てて明らかにするためでした。わたしが人々を訪れて留まるのは、人の心の中に何があるのかを見極めてからでなければなりません。全世界に訪れようとしているリバイバルは、今まで見たことも聞いたこともないような、偉大なものになるのです。

わたしが召した者のうちの多くは、わたし自身を求めているのではありませんでした。彼らはただリバイバルを求めていたのです。リバイバルが、彼らが思っていたようには起こらず、また、考えていたタイミングで起こらないと、彼らはぶどうに手がとどかなくて「このぶどうはまだ熟してなくてすっぱいに違いない。」と勝手に決めた狐のように、わたしから去っていくのです。

普通と違う変った主のやり方

私は「普通と違った unusual」という言葉を何度も霊で聞きました。今までに何度も神は私たちに主の変ったやり方について話されました。今回又、主は「普通と違う」と言われています。

「わたしがリバイバルの到来を遅らしているのは、わたしの民が心の中で、本当には何を期待し予想しているかという隠された部分を表面に現すためです。すでに多くのクリスチャンの罪が露わにされました。彼らの心の中にはあまりにもこの世的な予想、期待があり、神の真の動きとは一致して働くことができませんでした。また、この世的な慣習やオカルト的なものまでが正体を隠して教会の中に侵入してきましたが、それも明らかにされてきました。その罪が露わにされるのをわたしが許しているのです。教会の内部に隠されていたこの世的な罪は、教会がフルパワーで前進するのを阻んできました。しかし露わにされることによってその力をなくすのです。

わかりませんか? わたしはわたしのパワーを全面的に現す前に、教会を清めなければならないのです。世界にわたしの力を現す前に、わたしの霊は内部をまず清めなければなりません。わたしが始めようとしている聖霊の働きはものすごい力を持っています。ですから、軽々しく取り扱ってはならないし、この世的、肉的な物の考え方を少しでも混ぜてはいけないのです。
それがリバイバルが遅れている原因でもあり理由なのです!

クリスチャンの中には、リバイバルが起こらないので落胆し、自分はただ夢を見ていたのだといってリバイバルが起こらないのを『現実』として受け入れてしまった人がいます。 しかし、その人のポイントはずれています。 聖霊よりもリアルな現実はないのです。わたしが平凡なことをすると思ってはなりません。わたしはユニークで変ったことをする神だからです。あなたが予想した通りにわたしが動くことを期待してはなりません。わたしは超自然的な神だからです。わたしは奇跡の神です。わたしはよみがえりの神であり、打ち破りの神なのです!

これはクリスチャンへの裁きの言葉ではなく、むしろ励ましの言葉です。 あなたの心の願いがわたしの願いと一致していないことがわかっても、立ち去ってはいけません。わたしに立ち返りなさい。そうすればあなたにわたしの心をあげましょう。

ある人たちは意気消沈し、孤立し、人から見捨てられたと感じ、祈れば祈るほど駄目になり、疲れきってもう何を期待したらいいのかもわからなくなって、『主よ、いつまで待てばいいのですか!』と叫びたいような気持ちになっています。もうどん底まで落ちて、かつてあなたが持っていた多くのアイディアや素晴らしい計画もすべて失くしてしまいました。 多くの夢も壊れ、沢山の苦痛を味わいました。それでもあなたはミニストリーを離れて他のビジネスに変ることをしませんでした。耐えられないような苦しみを通りながらも、あなたはわたしこそがあなたのビジネスであることを悟るに至ったからなのです!

わたしが召し出し任命した牧師や聖職者の中には、わたしの霊の働きを祈り求めた途端に教会員が減ってしまった人もあるでしょう。ある人は教会の閉鎖にまで追い込まれ、あなたのミニストリーはもう過去のものとして扱われている人もあるでしょう。あなたは勝利を期待していたのに、敗北を味わいました。けれども決して絶望してはなりません。あなたは今正しい道を進んでいるのです。なぜならば、あなたが失ったものはすべて、リバイバルの道を阻むものにすぎなかったからなのです。もう自分には何も残っていないように感じますか? わたしを見なさい。わたしがここにいます。あなたにはわたしがあります。他に何が必要だと言うのですか?

地下を流れていた川が、勢いを増して地上に噴出して来るような強力なリバイバルをもたらすためにわたしが用いる人は、復活する前の3日間を地下で過ごし、その苦しさを経験した人でなければなりません。 自分の思いではなく父の御心に服従することを学んだ人でなければ、聖霊によって用いられることはできないのです。

忘れさられた? 孤立している? さげすまれた? あざ笑われた? 力を無くした? しかし、あなたがわたしだけにしがみついてさえいれば、あなたは今もリバイバルをもたらすためにわたしが用いる器なのです!」(終わり)


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by walkwithgod | 2007-05-30 07:27 | アメリカからのメッセージ

蒔かれた種の生長と実り  リック・ジョイナー  5月24日

蒔かれた種の生長と実り----麦か毒麦かの見分け                               
       リック・ジョイナー (渡橋 喜代佳 訳)

「プライドとへりくだりが、本物と偽物を見分けるもっとも基本的な特質の2つです。」
 
種と毒麦

私たちは、忠実な人々がさらに忠実になり、さらに権威をゆだねられるという、そのような時代にいます。それはまた、不忠実な人々がさらに不忠実になるという時代でもあります。この世に蒔かれた良い種と毒麦の両方が実りの時を迎えます。したがって、主がマタイ13:37~47で預言しておられるように、どれが毒麦でどれが良い種かが、ますますはっきりしてくるでしょう。この箇所で主は弟子たちに、農夫の麦畑にやって来て毒麦を蒔いた敵についてのたとえ話をされ、次のような解説をしておられます。

イエスは答えてこう言われた。『良い種を蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。』」


麦の収穫---麦か毒麦かの見分け 

主は、このことがこの世の終わり、すなわち「収穫」の時に起きると言われました。収穫とは、麦と毒麦の両方を刈り取ることです。この世の終わりには、善も悪も実りの時を迎えます。そのため、お互いがはっきりと見分けられるようになりますし、年を追うごとに両者の違いがますます明らかにされていくと考えられます。

かつて、私も麦畑のそばを車で走っていた時に、実際毒麦が麦によく似ていることを知らされたことがあります。両者が実りの時を迎えるまでは互いに区別できないと、そのようにも教わりました。実ると、麦は垂れてきますが、毒麦の方はまっすぐ伸びたままなのです。このことから、「実ると、麦はますますへりくだり、毒麦はますます高ぶるようになる」と言えるかもしれません。プライドとへりくだりこそが、本物と偽物を見分けるもっとも基本的な特質の2つなのですが、この世の終わりが近づけば近づくほど、ますますこの特質のことが言われるようになるでしょう。

実るまでは麦と毒麦を見分けるのが難しいわけですから、間違って麦を引き抜くことがないように、両者が一緒に生長するのを待つのは主の知恵だった、ということも心に留めておくべきです。実は、これが、預言的なミニストリーが起こされるなかで、ずっと私たちに立ちはだかってきた一つの問題でした。若くて未熟な預言的人々も、しばしば未熟な振る舞いをしてしまいます。すると、私たちは、彼らが「麦」ではなく実際は「毒麦」なのではないかと考えてしまうのです。主の知恵に耳を傾けず、早まって毒麦を取り除こうとする人々は、しばしば「麦」を捨てて「毒麦」の方を取っておこうとします。

多くの教会や教会のリーダーたちは預言的なものを欲しがりますが、預言的なものは、まず成熟を待たなければなりません。もちろん、短期間であれば事は簡単かもしれませんが、結局のところ、多くの損失を伴うことになるでしょう。教会や教会のリーダーが成熟した預言的ミニストリーを責任もって行なえるようになるのは、どのようにしてでしょうか。それは、「成熟のプロセス」を通ることによってであり、麦と毒麦の両方の生長からそれぞれの性質を学ぶことによってなのです。それはまた偽物を見分ける方法でもあります。

私は、成熟していない預言的な人々を、彼らにまだ問題があるという理由で、教会やミニストリーが拒絶するのを何度も見てきました。すると、たいてい同じこれらの教会やミニストリーは、多くの害をもたらすことになる偽預言者から欺かれるのです。そうなると今度は、自分たちの問題を「預言的なもの」のせいにしてしまいます。このことは、ただ預言的ミニストリーに当てはまるだけではなく、伝道者や教師、使徒、牧師にも当てはまります。今日みられる教会分裂の多くはこの理由によるものですし、今や、健全な地域教会にいるクリスチャンよりも教会生活をしていないクリスチャンの方が多いのも、この理由によるのです。

たしかに、未熟なミニストリーもまた問題を引き起こしますが、それだけの価値はあるのです。冒頭のたとえでは、主は種を蒔いている、つまり、畑に投資している農夫であり、畑はこの世界を表わしています。注意していただきたいのですが、投資の基本原則は、「安く買って、高く売る」ことです。ある人に投資する時というのは、安い時、つまり、スタートしたばかりの時なのです。同じ事がミニストリーにも当てはまります。今成熟しつつある預言的ミニストリーは、この先どのような教会やミニストリーに信頼を寄せることができるというのでしょうか。それは、自分たちがまだ成熟のプロセスをたどっていた時に、自分たちを信頼してくれて、投資してくれた教会やミニストリーなのです。

使徒パウロ-----成熟していった人物の例

私たちはまた、生長過程のどんな様相を呈している麦であっても、その麦の中に存在している毒麦には気がつくようになるべきです。どのように麦が生長していくのか、そのすばらしい例の一つを使徒パウロに見ることができます。彼は、初期の手紙の中では、自分が大使徒たちにも劣っていないと述べています(2コリント11:5参照)。その5年後には、「使徒の中では最も小さい者」(1コリント15:9参照)に変わります。さらに、この5年後、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)となっています。そして、最後の手紙の一つでは、自分のことを「その罪人のかしら」(1テモテ1:15)と宣言するまでになるのです。彼は明らかに霊的な成長をとげていき、実際、一世紀の最も偉大な使徒の一人に数えられるまでになるのですが、このように(へりくだって)自分のことをどんどん低く見ていったのでした。

若き使徒だった頃のパウロはかなり傲慢だったかもしれませんが、それでも彼が使徒だったことに変わりありませんでした!-----このことも、私たちは考慮する必要があります。パウロは、自分の肉体には彼らにとって試練となるものがあったのに、彼らが自分を天の御使いであるかのように迎えてくれたと、ガラテヤの人々をほめるような言葉さえ書いています(訳者注:ガラテヤ4:14)。
使徒や預言者、あるいは、そうしたミニストリーを理想的な形でしか認めたがらない人々は、現実に彼らが登場すると、ほぼ間違いなく、彼らがそうだとは気がつかないでしょう。

1コリント1:26~29でパウロが書いているとおりです。「兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

プライド対へりくだり

「私たちが多くを任せられれば任せられるほど、プライドは私たちにとって危険なものとなります。」

主はこの世の卑しい者や弱い者、また、愚かな者さえも召して用いられます。真のミニストリーがわかってそれを受け取るのは、そのような者になるのとほとんど同じくらいのへりくだりを必要とするかもしれません。偽のミニストリーはプライドの高い者を引きつけますが、真のミニストリーは、へりくだった者や素直に教えを受ける者だけがわかるものなのです-----それが神のご計画です。

この世の終わりにおける光と闇との大きな戦いは、基本的にはプライドとへりくだりの戦いです。プライドはルシファーに堕落をもたらしたのですが、それ以来、ほとんどすべての堕落の根にあるのがプライドなのです。敵によってこの世界に蒔かれた種が完全に実ると、プライドや傲慢になります。このことは、創造主の助けがなくてもこの世界を動かすことができると考えてしまう人間の究極の傲慢さに反映されています。

同様に、キリストによってこの世界に蒔かれた種の最終的な実りとは、へりくだりです。そのへりくだりは、最も基本的には、自分自身や自分の力、自分の知恵にではなく、主ご自身や主の力、主の知恵にますますより頼むようになるという形であらわれてきます。これらの人々は、主がおられなければどんなに自分がもろく、愚かで弱いかということをますます理解して、ますます主を求めるようになっていきます。 

私たちはこのことを時折思い起こす必要があります。とくに、主がご自分の民にますます資金や権威をゆだねられるようになったら、そうしなければなりません。ゆだねられればゆだねられるほど、私たちにとって、また、羊飼いや見張り人として私たちの責任下にゆだねられたのかもしれない人々にとって、プライドは危険なものとなります。主が私たちにさらに多くの資金やさらに多くの権威をゆだねられるようになると、いつも次の事を心に留めておく必要があります。すなわち、主が私たちにゆだねられるのは、私たちのすぐれた知恵や能力のゆえではなく、主を信じる私たちの信仰のゆえであり、また、自分を信じるのではなく主を信じる信仰をすべての土台にしようとする私たちのへりくだりのゆえだということです。

へりくだりのもっとも基本的な特徴のひとつは、素直に教えを受けるということです。素直に教えを受けられるのは、自分がすべてを知っているわけではないということを知っており、自分が一番賢い者ではなく知恵を必要とする者であるということを知っているからです。私は、ほとんどすべての分野でもっとも成功した人物の幾人かと知り合いになれたり、そうした人物の研究をしてきましたが、あらゆるリーダーやマネージャーの中でもっとも偉大なリーダー、マネージャーというのは、いつも、自分が語るというよりは、たえず習ったり、学んだり、人の言葉に耳を傾けているような人々なのです。そうした人々は、すべての会話から金を掘り出そうと努め、他の人々が既に習得している宝をその人から引き出そうとしているのを見ることが出来るでしょう。素直に教えを受け取る霊をもった人というのは、つねにもっとも偉大な教師になります。

主の恵みと義

いつも次の事を心に留めていましょう。

「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:6~8)

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」(
1ペテロ5:6~11)

これは、私が是非とも注意をうながしたい点なのです。なぜなら、大きな祝福がもたらされようとしているからです。その祝福は、もし私たちが注意していなければ(細心の注意を払っていなければという意味ですが)、私たちが本来受けるようにと召されている祝福にはならずに、私たちにつまずきを与えることにもなりかねません。

主イエスご自身が私たちの義であられるということ、また、これから私たちに豊かさがもたらされるのは、私たちがそれほど正しいから、賢いから、強いからというのではなく、主イエスが私たちのために(義を)贖いとってくださったからなのだということを、いつも心に留めておかなければなりません。したがって、私たちは、自分たちに与えられている祝福が、常に主と主のすばらしさを指し示すものであることを求めるべきです。したがって、私たちは、自分たちに与えられている祝福によっていつも主と主のすばらしさが示されてほしいと思うのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-05-24 08:53 | アメリカからのメッセージ

とりなしの祈りとは   ジェームス・ゴール  5月19日

とりなしの祈りとは  

ジェームス・ゴール


アメリカでも著名なとりなし手の一人であるジム・ゴール師の著書Exodus Cryから抜粋して要約したものを下記にご紹介します。(坂 達也)
           
X X X X X X X X X

 ゴール師はある時、主から導かれて、英国ウエールスにあるスワンジー・バイブル・カレッジを訪ね、とりなし手として世界的に有名なリース・ハウエル師の只一人生存する息子さんに会いました。そして、第二次世界大戦の末期に、ドイツ軍の攻撃の情報を、リース・ハウエルがどうして事前に知ることが出来たのかを訊ねました。ハウエルはそれをとりなすことによってナチの攻撃を何度も未然に防いだと言う有名な歴史的事実があるからです。その質問に対して息子さんは答えてくれなかったそうです。

しかしゴール師はあきらめず執拗に同じ質問を繰り返し、三度目にゴール師に同行したケロー師がひざまずき「アメリカは今重要な事態を目前に控え、本当にあなたのお父さんやあなたがされたようなとりなしを必要としています。ぜひ教えて下さい。…」と懇願した結果、息子さんは頬に涙を流しながらやっと、「あなたがたは、主のしもべである父が、完全に神によって所有された人であったことを理解すべきです。」と答えました。

彼は「私たちは主が代価を払われて、主ご自身のものとして所有されています。私たちはもはや私たちのものではないのです。私たちは神によって所有されるように召されています。」と言われたそうです。

 ゴール師はグスタフ・シェラーが「とりなしintercessionとは祈りではない、激しく祈ることでもない。誰でも、人のために、あるいは何かのために心から祈ることは出来る。しかしその祈りの結果に対しては、どのような代価を払っても決して取り消すことの出来ない責任を取ると言うことはしない。しかし「とりなし」とはその 責任を取ることである。とりなしにおいては、その祈る相手、あるいは対象が、自分と同一であることを認めることidentificationである。とりなし手はその祈る相手の立場に自分が喜んで取り代わり、その人の必要を自分の必要とし、その人の苦しみを自分のものとして苦しみ、それが答えられるまで産みの苦しみとすることである。
主イエスはまさにそのように『そむいた人たちのためにとりなし…』『そむいた人たちとともに数えられ…』(イザヤ53:12)『私たちのそむきの罪のために傷つかれた』(イザヤ53:5)のである。 
イエスは私たち罪人と同一人となり、その罪を自ら負って、その私たちの負い目の代価を払われた。」と言った言葉を引用して、「とりなし」の何たるかを説明し、私たちクリスチャン、あるいはとりなし手は、主の完全な所有物にならなければならないことを強調しております。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-05-19 15:43 | アメリカからのメッセージ

教会には三種類の人がいる  グラハム・クック  5月10日

教会には三種類の人がいる

グラハム・クック (彼のメッセージテープより) 

 どの教会にも三種類の人たちがいます。 第一のグループは、教会の中で事を初めて推進していく人たち(イニシエーター)です。 第二はそれを助けていく人たち、(エンネイブラー) そして第三は教会で何が起こっているのかよく知らない人たちです。(レヂスター)
 つまり、新しいプロジェクトを提案して始める人、それに協力して助ける人、そしてそれを妨げる人たちです。

 新しい事を始める人たちは教会を動かして行きます。彼らには父親役の人が必要であり、弟子訓練をして成長させていかねばなりません。多くの場合、この種類の人たちは、教会の現状にフラストレーションを感じていて、牧師に難しい質問をしたりして、ちょっとてこずらせるような人達です。彼らの中のフラストレーションというのは、多くの場合、神が次に何をしようとされているかを知る鍵となります。

 たとえば、あることに関して憤りを感じるというのは、神がそのことを解決しなさいと言っておられることが多いのです。 例えば、モーセはイスラエス人がエジプト人に虐待されているのを見て憤りを感じましたが、後にモーセがイスラエル人をエジプトから解放しました。あなたが情熱を持つこと、非常に悲しむことなどはすべて、神があなたにこれからさせようとすることを知る鍵なのです。神は、「こういうことは仕方がない、これが現実なのだから。」と、いい加減にあきらめる人ではなくて、絶対にどうにかして解決しようとする真の戦士、事を実行して成し遂げる人を求めておられるのです。

 ですから「いい加減に妥協しないで徹底的に戦う人たち」を私たちは必要としているのです。この人たちは艱難、苦労、自己犠牲を厭わず、ゆるぎなく目的に立ち向かいます。「人当たりのいい人」ではありませんし、又、そうであってはならないのです。私たちが教会を変えて行きたいと思うならば、この「イニシエーター」は誰なのかをしっかりと把握せねばなりません。教会はこの種の人たちの上に建て上げられて行くのですから。 神の次の御計画を推進していく力となる人たちです。
 
次のグループは「協力者」です。 この人たちは信仰が確立されていて、忠実に人を助けていく人たちです。 彼らはいつも新しいことを学ぶ姿勢があり、人に喜んで仕えます。
すごくカリズマがあるとか、賜物がある訳ではないかもしれませんが、 常に忠実に仕え、いつも聞く耳をもって人の注意や導きを受け入れます。

 第一のグループ「イニシエーター」とこの第二グループの「協力者」を合わせれば、すばらしい槍を手に持っていることになります。 イニシエーターだけでは、矢じりだけです。矢じりに協力者という棒をつけねば物を突きぬく力は出ません。
 
教会の中でイニシエーターの名前のリストと協力者の名前のリストを作るべきです。この人たちを土台として教会を建てるのです。どの教会においても、この二つのグループの人たちが教会の中心となります。彼らを失ってはなりません。彼らが教会の他の人たちに影響を与えるようにするのです。これらの人を弟子の見本として育てて行くのです。

どの教会にも「妨げる(手間を取らせる)人たち」がいますが、又、いなければ困るのです。その人たちに二種類あります。 手間を取らせる良い方の種類の人は、新しく救われてくる人です。 しかしもう一つの悪い方の種類の人たちは、何もする気のない人、成長する気のない人たちです。今の教会の問題は、このような人たちを相手にし、それを標準にして教会活動をしていることです。私たちはほとんどのエネルギーを、こういう低級なクリスチャンが次の日曜までかろうじて生き延びていけるように励ますことに費やしてしまっているのです。そう言うことばかりしていると、リーダーたちは、疲れ果て、希望を失い、燃え尽きてしまいます。  正当な「妨げる人」は救われたばかりの人です。 彼らは真理と義の道を歩むことを学びはじめたばかりの人で、キリストを第一として生きることを実践し始めたばかりなのですから、彼らが私たちのエネルギーを消耗させるのは当然であり、大変すばらしいことです。教会の門が広く開けられているならば、こういう人はいつもやって来ることでしょう。

それに反して正当でない「妨げる人」は、あなたに自分の人生のすべての責任を負わせるのに、あなたが彼らを変える権威を与えようとしません。彼らは教会に自分のための祝福がある時には群がってきますが、状況が困難になると去って行きます。

 ある教会に招かれた時の事ですが、その教会で何が起こっていて、私は何をするべきかを主に訊ねました。主は私に船の幻を与えて下さいました。 「この教会はこの船のようです。今から私は、水面下に二つの大きな穴を開けて水が入るようにします。船は沈み始めます。船底にいたねずみが全部逃げ出した時に、私はその穴を塞いで船が正常に航海出来るようにします。」と主は言われました。

 その教会でねずみを見つけるのが私の仕事だったのです。教会はその後変革の時を迎え、大変な試練を通りましたが、主が支えて下さいました。多くのメンバーがどんどん出て行きました。600人いたメンバーが150人になってしまったのです。随分ねずみがいた船だったのですね。処が、残された150人の人たちはほとんどが第一と第二のグループ、つまり、イニシエーターと協力者だったのです。

 出て行ったのは不正な「妨げる人達」でした。彼らはイエスを信じて救いのもたらすすべての祝福を受けるだけで、イエスを主とすることをしない人たちです。自分の好き勝手に生きながら、イエスを保険のように考えている人たちです。 彼らは礼拝には出席しても、ほとんど献金もしないで、いつもミニストリーを受けたがり、何か自分の益になることだけを求めて、もしそうでなければ悪口雑言をいって出て行くのです。彼らは信仰ではなく感情で動いています。過去の荷物をぶら下げたままで信仰生活を続け、それを捨てることもしないのです。僅かなことですぐ腹をたて、信仰で歩むことを学ぼうとはしないのです。怠け者です。成長したいという気もなく、ただ手を置いてもらって祈られるのが好きなのです。いつも助けて欲しい、救って欲しいと思っています。

 私たちは人々を神から救うというのが仕事ではありません。人々を神のみ心に従うようにするのが私たちの任務です。ある人が苦しんでいる時に、それが神から与えられた必要な苦しみであることを見分けることは大変重要です。そう言う場合は、すぐに助けてはいけないのです。蝶がさなぎから出ようとしているのを見ると、大変苦しそうですが、もし、あなたがかみそりで殻を切って助けてやると、蝶はすぐに死んでしますのです。 殻から出ようともがき苦しむ時に、蝶がこれから生きていくのに不可欠な力が羽についていくのです。人がイエスにあってもがき苦しむのを阻んではいけません。我々のミニストリーは人を助けることではなく、主がその人にしようとされていることを、その人が理解して主に従うようにと導いて上げることなのです。

 ある人が私のところにきて、「先生、あなたが今までに主からいただいたすべての油注ぎを私がいただけるように祈って下さい。」と言いました。私は「とんでもない、そんなことをしたら、あなたは五分で死んでしまいますよ。」と答えました。私の人生をお分けすることは出来ませんし、長い年月の非常な苦しみ、悲しみを通して主から与えられたことは、頭に手を置いて祈ってお分けすることは出来ません。「あなたがこれからの主の訓練に耐えることが出来るようにお祈りしましょう。」と私はその人に申し上げました。

 主が一人の預言者を立てられるまでには、どれほどの訓練をされるかお分かりになるでしょうか。主から信頼されるようになるには、多くの苦しみによって従順を学ばなければならないのです。

 不正な「妨げる者たち」は私たちのミニストリーの足を引っ張ります。先にお話した百五十人になってしまった教会は、この種の人達を失ったのですが、最初から彼らは教会の一部にはなっていなかったのです。他の人たちと心を合わせてはいませんでした。

 火によって私たちは試されるのです。神はすばらしい放火魔です。すべての教会、ミニストリーは火をつけられて、それで燃えてしまうものはカスなのです。ですから 六百人よりも百五十人の方がその教会にとっては益だったのです。あれから十八ヶ月経ちましたが、その教会は現在、千百人の教会に成長して来ています。主による「剪定」はとてもよいことなのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-05-10 08:16 | アメリカからのメッセージ

この5月は特別の月   坂 達也   5月6日

2007年5月は特別の月

坂 達也

最近霊的な世界において起こる事のスピードが加速され始めたような気がしてなりません。このことは多くの預言者が預言して来ましたが、いよいよ聖霊の働きが大きくなり、多くの場所と人の上に主のご臨在が濃厚に覆うようになって来ました。地上に送られてくる御使いの数が増え、彼らの活動が活発になっているとも言われます。
 
私の近辺でもそれがよく分かります。昨年来、ハワイを訪ねる特に若い人たちが福音に触れると、待っていましたとばかりに救われる現象を私たちの教会でも度々経験して来ました。これは今までになかった現象で、とにかく早いのです。私個人においても、朝の主との交わりの中で、顕著な主の臨在と共に主が語ってくださる量が増して来ています。時には圧倒されるほどの啓示がいただけます。
  
リック・ジョイナー師が最近のモーニングスター誌に「間もなくすると新しい品種のクリスチャンが立ち上がって来るでしょう。と言っても、それは元からあるオリジナルの品種で、その人たちは真のキリストの弟子であることに徹し、本当に毎日を自分の十字架をかついで歩きながら、王に忠実に従う生活を送る人たちです。そのようなクリスチャンがドラマチックに先ず教会で立ち上がり、次に世界に現われるでしょう。…彼らは本当にトランスフォームされて主に似たキャラクターを持ち、肉の世界で自然の法則で生きるよりも、むしろ霊の世界で王国の法則で生きることの方がよりアットホームな人たちです。」と書いておりますが、いよいよ教会にめざましい変革が起こる時が近づいて来ているのを感じます。

 又、アメリカについて具体的な預言を多くするキム・クレメント師は最近、「4月という月はアメリカにとって絶望的なことが続いた月でしたが、この5月は前にも預言したように神の特別大きい恩恵と恵みを受ける月であって、多くの人が『こんなことは今までに起こったことがなかった』と言い、驚くようなことが起こります。喜びなさい。(三度)王の子どもたち。…」と預言しています。

その驚くべきことの一つと言えるのでしょうか、本日5月5日にアメリカの三大テレビ放送局の一つであるABCが「神は存在するか」と言うテーマを取り上げ、二人のクリスチャンと二人の無神論者が公開討論するという前代未聞のイベントを90分番組で放送するはずでした。しかしABCは数日前にその討論会の放送を9日に延ばすと発表しました。その延期した理由は、もっと多くの人たちに見てもらうためであると言います。

クリスチャン側の二人は喜劇俳優のカーク・キャメロンとインターネット宣教で人気のあるレイ・カンファート師です。5月2日付けのABCのウエブサイトにカンファート師の談話が載っていましたが、彼は「私たちはABCに大変感謝しています。私の知る限り、このような公開討論会が放送され、それがABCのウエブサイト(毎月1900万人がこのサイトを訪れると言われる)ABC.COMで見られると言う様なことは今までに起こったことはないと思います。」と言い、「私は神が存在することを目に見えない信仰とか聖書に触れることなく科学的に証明できる」と言い切ります。

もう一つ、私の知る限り非常に異例のことが起こっていることをお知らせします。それはルー・イングル師が来たる7月7日(07/07/07)にテネシー州のナッシュビル市にある大きなスタジアムで、TheCallと名を打った「断食と祈りの大集会」をずいぶん前から企画し、若者から年寄りまで出来るだけ多くの人が参加することを呼びかけて来ました。この集会のことはアメリカのクリスチャン団体の多くが、一つの重要なエポックメーキングなイベントとして前から祈って来ましたが、この集会を正式にテネシー州の州議会が取り上げ、去る4月9日に、その州の上下院議会で、「テネシー州政府はこの集会を正式に認め、歓迎し、サポートする」ことを満場一致で公式の決議文(Resolution)として可決したことです。

私は、たとえアメリカであっても、最近ではこのようなことは起こっていない、全く異例な政治的決議であると確信します。
その決議文には、イングル師は過去において、このような何万人をも集める超教派の大会をワシントンDC.ボストン、ニューヨーク市、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、オーストラリヤ、ドイツ、フィリッピン、英国で行って来たことを記し、今回このナッシュビル市で師が同じような大会を行うことを栄誉とし、この市がアメリカ中の「キリストのからだ」を代表する市の一つであり、今回イングル師とこの集会がこの市に、我が国の歴史上に残る重要な役割を果たす機会を与えてくれると信じ、又、具体的にこの大会に断食と祈りと悔い改めを信じる信者を集めることは、神がアメリカを訪れ、歴史的な「目覚め」をもたらすと信じる、とはっきり書いてあるのですから本当に驚きです。

 この5月3日はアメリカの国が定めた「祈りの日」でした。国を挙げて一致して祈る日です。現時点では未だ具体的にご報告できる資料がありませんが、大統領を始め、前述のルー・イングル師、チャック・ピアース師、ピーター・ワグナー師、ドブソン師等多くのリーダーたちが、特に今こそアメリカは大きな危機に面していることを強調し、国家的な祈りが必要であることが呼びかけられました。又、イラクの戦場にいるアメリカを始めとする各国の兵士への祈りも強く呼びかけられていました。

私は今この時点で、私たちクリスチャンがどれだけ真剣に祈るかどうかで、世界の情勢に霊的に重要な変化をもたらす事態が決定されて行くと信じます。 
個人的にも今こそ、主との関係において真に密接な関係に入る恵みを受けようとしている大事な『目覚め』の時期に面している方も大勢おられると信じます。本当に今がチャンスです。終末の大患難の闇の時代が迫って来ている一方で、その前に未曾有のリバイバルを迎えることができるのかどうか、どうぞ日本の教会の皆様も、この5月を特別の月として期待し、真剣に祈り、信仰で主の祝福と恵みを勝ち取っていただきたいと心から祈り願う者です。お祈りしております。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-05-06 08:08

他人の上着の裾と主の衣のふさの違い ダニー・ステイン 5月5日

他人の上着の裾(コートテイル)と主の衣のふさ(ヘム)の違い

ダニー・スタイン

人の上着の裾に乗る(他人の力にたよる)

息子が父親のようになるとは限りません。イスラエルの父祖たちは、約束の地で受け継ぐべきものを勝ち取るために、どんどん前進していきました。しかし、その子供たちは父祖からの遺産を受け継ぎはしましたが、自分たちに神から約束されていたものを、必死になって追い求めたわけではありませんでした。彼らの多くは、神から与えられた自分のゴールに、完全には到達できなかったのです。彼らは、父祖が勝ち取ったものの上で、胡坐をかいていたのです。彼らには土地も家も建物も仲間も金もすでにありましたし、自分たちが以前持っていた目標は、自分の今の生活に合わせて調節すればそれで済んだのです。子供たちの世代は、親に働いてもらった成果の上で気を抜いてしまったのです。

彼らの問題は心の中にひずみが起こることでした。自分が置かれている安易な立場を見て、自分にはすでに権利と特権があたえられていると勘違いをし、神が私たちに与えてくださった恵みを謙虚に感謝して受けるという感覚をなくしてしまったのです。

今日これと同じ問題が、教会の多くの側面に影響を与えています。「あなたが持っているものは何であろうと私も持つ権利があります。あなたがそれを得るのにどれだけ苦労をしたかなんて、知ったことではありません!」という空気が教会の中にあるのです。 この態度は預言的な働きの中にも侵入し、ただ人が聞いた声を真似するだけの「こだま」ばかりが蔓延し、自分が直接聞いた真の「声」はほとんどないという結果を生じています。 この現象が各地で起こっているのを私は知っています。ある一部の人たちが非常な努力をしているのを見て、自分たちもあたかも彼らと同じように成長したかのように感じてしまっているのです!

私たちは人の上着の裾に乗っているのです。その人たちが波の高い沖まで泳いでいってくれたので、彼らのサーフィンの板に便乗していた私たちも一緒に波に乗ることができるのです。私たちは自分で苦労して泳ぐ必要も感じなかったし、別に波に乗りたいと思ったわけでもないのですが、すでにここまで連れてきてもらったのだから、波乗りの名人と同じようにしてみたいと思うのです!
これは昔からあった問題です。ルシファーも心の中に同じ問題を抱えていました。 彼は神がされたことをずっと見ていました。そして彼の心に変化が起こりはじめ、高慢になり、その結果として彼は失墜してしまいました。

イザヤ14:13-14「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』ルシファーは神の上着の裾に乗って王座にまで上ろうとしたのです!

ハマンとヘロデ

自分に自信がないので、他人の力によってもっと高い地位に着き、自我を満足させようとした人たちが他にもいました。ハマンはその一人です。彼は人からの称賛を非常に求めたゆえに、プライドのわなに陥り、失脚しました。

エステル記5;7-13「エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、 もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」 ハマンはその日、喜び、上きげんで出て行った。ところが、ハマンは、王の門のところにいるモルデカイが立ち上がろうともせず、自分を少しも恐れていないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。 しかし、ハマンはがまんして家に帰り、人をやって、友人たちと妻ゼレシュを連れて来させた。 ハマンは自分の輝かしい富について、また、子どもが大ぜいいることや、王が自分を重んじ、王の首長や家臣たちの上に自分を昇進させてくれたことなどを全部彼らに話した。 そして、ハマンは言った。「しかも、王妃エステルは、王妃が設けた宴会に、私のほかはだれも王といっしょに来させなかった。あすもまた、私は王といっしょに王妃に招かれている。 しかし、私が、王の門のところにすわっているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これらのことはいっさい私のためにならない。」

自分に自信が持てないと、人間は往々にして権力のある人の「上着の裾」に対してこのように反応してしまうのです。もし私たちが自分ではっきりした神からの啓示をもたないと、他の人の思いつきに振り回され、人間の考えを絶対的なものとしてしまいます。 その願うところは人から認められることであり、名声であり地位です。神は私たちがへりくだりの場、即ち、自分のための名声など全く関係のない神の恵みの中にとどまることを望んでおられます! 歴史の書によれば、歴代のヘロデ王たちは、自分の地位を守るために兄弟や子供を度々殺害しました。ヘロデ家はその地位と権利を、血統と生き残ることによってのみ保ったのです。それは真のミニストリーが取るべき道とは全く正反対です。

マタイ14:6-12「たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。 ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」 王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。」

他人の上着の裾に乗ることの例は次のようなものです:有名な教会やミニストリーに所属していることに頼る、家柄を誇る、霊的父親からもらったタイトルや地位に頼る、著名な人と親しい故に自分も何か立派だと感じる、素晴らしい預言を受けたことを誇る。 誰かの上着の裾に乗っているだけの人生は、単に「こだま」として生きるだけで終わってしまいます。 つまり、自分で神を求めて神に出会った人の油注ぎのおこぼれを受けるだけの人生になってしまうのです。

エリシャはエリヤの外套(マント)を受けるだけでは満足しませんでした。彼は、他の者たちが約束の地で受けた油注ぎで満足しているのを尻目に、死に物狂いでもっと神を求めました。 そして彼はただのこだまではなくて神の声になることができたのです。

主の衣のふさにさわる

神が私たちに与えようと望んでおられるものは、私たち一人ひとりが必死になって神を求めるときにだけ実現するものです。神からの啓示は、誰かに手を置いて祈ってもらう時とか、誰かの油注ぎの中に浸った時に与えられるものではありません。 そういう時に与えられるのは、洞察とか知恵にしかすぎません。啓示は、自分自身で神に一歩一歩たゆまずに近づいていくときに与えられるのです。私たちがそのような努力をするときに、神はそれに目を留めてくださいます。神は、誰かの上着の裾に乗ろうとしているような人をご自分の王国を分け与える息子には決してしません。そうではなく、神は、神の衣のふさにさわろうと必死で近づいてくる者を待っておられ、神の国をその者に与えようされています。

ルカ8:43-48「ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。
しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。


私たちの心にあるいろいろな問題は、親から相続したものでは決して解決できません。 主を必死で求めるときにだけ解決するのです。 私たちが探し求めるべきものは、他人の油注ぎでもなく、又、過去に主を求めた人たちが考えた法則を守ることでもありません。それは、私たち自身が主を熱心に求めて主にふれることです。 神が人々の上に注がれた油を求めるのではなく、神から流れ出る神の油を、私の心は求めるべきなのです。私は人の上着の裾に乗るのではなく、主ご自身の衣のふさにさわりたいのです。

自分では何の努力もしないで安易に遺産を受け継いでしまうと、神からの啓示を受ける唯一の方法は神の臨在であることを、私たちはわからなくなってしまいます。私たちの人生のために神が備えてくださった目的を達成させるものは、神の臨在だけなのです。神の臨在だけが癒し、解放し、救うのです。他のものはすべて、単に他の人が聞いたことのこだまにしかすぎません。それは人がすでに聞いたものを体系づけたり、少し修正したものにすぎないのです。

神は私たちのためにもっと素晴らしい境地を用意されておられます。私たちには今はそれはわからないのですが、神の臨在の中で必ず見出すことができる場所です。

マルコ6:56「イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。」

天の倉

最近、私は主の臨在の中で沢山の建物のある場所に連れていかれました。主は、それは「天の倉」であると言われました。 これらの素晴らしい建物の中には、私が今まで聞いたことも見たこともないもので満ちていました。 そしてすべての建物の中は「新しさ」の空気で満ちていました。 私はもっと自分で探求すべきことが沢山あることを悟りました。 それらの新しいものとは、他人が書いた本の中で見つけるものでもなく、経験者がカンファレンスで語るのを聞いて得るものでもなく、また、他人に起こることを見張って得るものでもありませんでした。それは私の魂を愛してくださっている主と共に自分自身で必死に求めるべきものでした。

「上着の裾」は人間のころものすそです。「衣のふさ」とは神のころものすそであり、それこそ私たちが求めて触れるべきものです。そこにおいてこそ私たちの心の問題は癒され、回復され、解決されるのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-05-05 17:21 | アメリカからのメッセージ