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霊的な橋  ビル・ヨント   9月29日

霊的な橋

ビル・ヨント


天使がキリストのからだの中に架けられた霊の橋を点検中、天の父は「わたしの栄光の重さにこれらの橋は耐えうるだろうか?」とつぶやかれた

辞書によれば、橋とは「河川などの障害物の上に通路として作られる構造」と説明されています。
あなたは、神から「行きなさい。」と命じられたところに行くための道が、障害物でふさがれているように感じていますか?
人々はそれぞれ人生の道をたどっていますが、その途中の橋が壊れてしまっていて、立ち往生している大勢の人がいるのを、私は感じます。

戦時には、敵が相手の国を麻痺させたいなら、その国の人々をつなげている橋を破壊します。人々はお互いに連絡がとれなくなると、敵の激しい攻撃に対してほとんど力がなくなるからです。


崩れそうな橋

私は幻で、キリストのからだを結びつけている関係のかけ橋が、長年修理を怠っていたため、今にも崩れそうになっているのを見ました。この橋がもし崩れてしまったならば、人々は立ち往生してしまうのです。いろいろな人間関係が新たにされ、回復され、強められなければ、多くのクリスチャンは、御国を築くための目的やゴールにたどりつけないのです。

私たちが「その橋(ある人との人間関係)はなくても、目的地には行けるから大丈夫だ。」、と高をくくっていたものが、それが約束の地に辿り着くことができる唯一の橋であることがわかってきたのです! 私はそれを幻の中で見たとき、一つのことわざを思いだしました。それは、「あなたなしでは私はどこにも行けません。 あなたも、私なしにはどこにも行けません。」というものです。そして、お互いが好きであろうと嫌いであろうと、「これらの橋はどうしても修理し新しくせねばならないのだ!」というはっきりしたリベレーションをいただいて、私たちのお互いへの反発は薄れはじめました。

橋の点検中は、夢、ヴィジョン、ミニストリー、そして神の栄光さえ遅らされる

霊的なかけ橋である人間関係が崩れて、そのとき怪我をしたり傷を負ったりした人の叫びが大きくなり、天の門にまで届いたのです! 天使たちが「橋の点検者」として任命され、人間関係という多くの橋の基礎構造を注意深く点検し、橋が、栄光にむかってこの橋を渡ろうとしている多くの人たちの重さに耐えられるだけの強度があるかどうかを、調べるように遣わされました。

多くのクリスチャンが、一見、お互いを赦しあっているような格好をしていましたが、本当には和解してはいませんでした。多くのものは遠く離れたところからは愛しあっていましたが、神が建てあげるようにといわれた橋の工事に、積極的に参加するためにお互い同士近づくことは避けたいようでした。

あなたの後ろの橋を燃やすな!

主が、私たちみんなに「あなたの後ろの、どの橋も燃やすな。」といっておられるのを感じました。「私の人生に、もうこの人は不用だ。」と考えて、その人をあなたの人生から抹消してしまってはいけません。2年ほど前のことですが、別のミニストリーをしているある人に私は腹を立て、彼も彼のミニストリーも、もう私には不用であるから切捨ててもいい、と考えていました。彼との関係を打ち切ろうとしたとき、主が語られました。「あなたはこれから5年後に、あなたの目的を達成するために、彼と彼のミニストリーを必要とするであろう!」と。

奇跡の橋が作られている!

愛する者たちと、あるいは、敵とさえ和解しようと努力してきた人たちは、神がその舞台裏でずっと忠実に働いていてくださったことがもうすぐわかるでしょう。愛しがたい者を愛してきた人に、主は誉れをあたえます。修復するのは不可能だと思われた崩れた橋が奇跡的に修復されるのを、忠実な者たちは見るようになるでしょう。関係が修復されることを信じて、望みえないときに望みをいだき続けた忠実な者たちは、その奇跡を目の当たりにして、神の愛は橋を作る力を持っていることを、改めて知るでしょう!

人に踏まれるための橋もある!

2本の木と3本の釘で、イエスは私たちのために橋を作られた!

多くの壊れて崩れた橋の修復現場に十字架が取り戻されるのを私は感じます。自分に死ぬことが、これらの橋を強化し支える力となるでしょう。私たちは、へりくだって他の人を尊び、彼らのミニストリーや夢を自分のものより上に評価しなければなりません。これらの橋を建てるために、十字架と釘がいつも使われるようになり、やがてこの橋は神の栄光の重さにも耐えられるようになるでしょう。
橋を架ける人たちを歓迎いたします。どうか、釘3本と木を2本持ってくるのを忘れないでくださいね。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-09-29 07:51 | アメリカからのメッセージ

とんだ伏兵   坂 柚実子   9月23日

とんだ伏兵

「小鳥の歌で 夜が明けまーす
 森の中の りすのおうち、、、、、」
という童謡がありますが、ハワイの朝は普通はかわいい小鳥の歌ではじまります。

ところが、このマンションでむかえた最初の朝、多分4時半ころ、けたたましい何かの鳴き声に主人も私もびっくり。引越しで疲れて熟睡していた二人をたたきおこすのに十分な声でした。

それは、窓の前の椰子の木で寝ていたらしい鳥たちが、朝の会議(?)を始めた声でした。まだ外は薄暗く、何の鳥かも何羽いるのかもわかりませんでしたが、とにかく、すごい大声でおしゃべりなのです。このマンションは道路から少し離れていて、静かだと思ったのですが、とんだ伏兵がいたものです。「鳥を撃ち殺したい」と私の人生で初めて思った瞬間でした。これから毎日これで起こされるのか、と、かなり悲壮な思いになりました。

彼らはしばらく早朝会議をしたあと、一日の仕事をしに飛び立ちます。そして、夕方、少し暮れかかったころに、三々五々御帰宅されます。誰かが帰ってくるたびにワーワーギャーギャーと歓迎の声(本当は多分寝る枝を確保するための小競り合い)をあげます。そしてその日にあったことをひとしきり報告しあって(?)、それから静かな眠りにつきます。

この鳥は、私が前まえから「かわいくない鳥だなぁ、、」と思っていたコモン・マイナーというムクドリの一種だということが毎日の観察で判明してきました。主人が「あの鳥は歩くねぇ。」とハワイに来てすぐの時に表現した鳥で、鳩くらいの大きさなのですが、足が鳩より長く、「この鳥は歩くが、ときどきホップもする」という説明がありましたから、主人の観察力も捨てたものではなかったわけです。鳩も歩くと思いますが、このマイナーが歩く姿はとっても格好悪いのです。そしてオウムのように物まねが上手で、飼っている人もいるとか。電話の音を上手にまねるので、家の人がいつもだまされるという話も聞きました。マイナーの鳴き方は、croak (ガーガー)、squawk(ギャーギャー)、 chirp(チュッチュッ) click (カチッカチッ)whistle(ピーピー)と多彩であり、夫婦喧嘩(ちなみに一生つがう)のときはscreech(キーッ)と鳴く、、、と書かれていました。

毎日この鳴き声に起こされるか、と思いきや、私たちはすぐに慣れてしまって、朝までぐっすり寝ることができるようになりました。そして夕方彼らが帰ってくると、「子供たちが帰ってきたよ。」と二人でにこやかに迎えるようにもなったのです。出先で同じ鳥を見ると、うちの子供かな、などと思ったり、だんだんいとしささえ感じるまでなったのです。人の心はかわりますね。(実は、いつも同じ鳥たちが帰ってくるのか、行き当たりばったりの違う鳥たちが帰ってくるのかわかりません。専門家でないので。) 終わり


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by walkwithgod | 2007-09-23 13:08 | 柚実子からのハワイ便り

女性によるブレークスルー フランシス・フランジペイン 9月22日

女性によるブレークスルー

フランシス・フランジペン

初めに一つお断りしておきますが、神によって与えられている秩序の範囲内ならば、私は教会で女性が自由に活動することを勧めています。私がこれから書こうとしていることは、神が女性に特別に与えられた元来の恵みを解き放ち強調することにあります。主はこれまでにも、リバイバルを起こすために女性のこの力を用いられたのです。

創世記に書かれている男女の区別

神が人間を創造されたとき、神は男に恵みを与えられましたが、女にはそれとは別であって、しかもユニークな恵みを与えられました。神はアダムに地上の生き物に名前をつけるように言われ、「 人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった(創世記2:19)」のです。 生き物に名をつけたというのは、犬を見てそれをスポットと呼んだ、ということではありません。アダムは、物事を組織化し管理する能力を持つ者として創造されたので、彼の周りの世界を識別し定義づけることができました。名前をつけることによって、アダムは生き物すべてを把握することが出来たばかりでなく、人間の生活に秩序と組織を与えたのです。

アダムという最初の人の中には、潜在的にパワフルな女性の素質も内在していました。アダムが眠っている間に、御霊は彼からあばら骨をとりました。主はそのあばら骨から女をアダムの伴侶として造りあげました。女はただアダムにふさわしい存在だったというだけでなく、アダムの創造的能力をもっと拡大させるものとなりました。実際、アダムの世界に以前は存在しなかった多くの新しい恵みを、女はもたらしたのです。その最大のものは、彼女はみごもって子供を産む能力を持っていたということでした。

「神は神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記2)」ということは、忘れてはならない大事なことです。勿論、ある意味で、アダムもイブもそれぞれが神のご性質を備えていました。どちらも自分一人でも考え、話し、夢を見、創造したりできました。しかし、アダムとイブが一つになり、お互いの強さや恵みを尊重しあうときに、人類は神のご性質をもっと完全に表わすことができるのです。

アダムが最初の女性を見たとき、彼は「これこそ、今や、私の骨の骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。(創世記2:23)」と言いました。アダムのつけた「女」という名前は、「この生き物は、男という種類の中のユニークな変種である」と、アダムが認めて、それを表わすために使ったものでした。私の妻は「イブはアダムより一つ高級になったと思ったらいいのよ。」といいます。まぁ、ある意味では妻は正しいといえましょう。というのは、イブは二回精錬されているからです。アダムは土から造られましたが、女は土からではなく男から生まれました。女のほうがもっと複雑で感情的にも洗練されているのです。

ほどなくアダムは彼の伴侶の偉大な力を知りました。それは子供をみごもりこの世に新しい命を生み出す能力でした。この特性を知って、アダムは彼女を「イブ」と名づけました。それは「いのち」という意味でした。イブはいのちの新しいはじまりに不可欠な役割を果たしたのです。「それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。(創世記3:20)」とあります。

リバイバルの必要性

主はアダムに、すべてのものに名前をつけて回りの世界を組織づけ確立するという基本的な能力を与えました。そして女には、みごもりそして産むというユニークなキャパシティーを与えました。それぞれの主な能力は、男は確立し、女は産み出すということです。このような特性はただ「人間」に与えられたものではなく、神のご性質を反映しているものだということを忘れないでください。周りの世界に秩序を与えるという男の能力、つまり、不ぞろいのものに定義をつけ組織立てるのは、神が持っておられる才能です。また、子供をみごもってお腹の中で育て命を産み出すという女の能力も、神の御性質なのです。

ここで、イブがまだ子供を産まない前に、アダムが女にイブ(いのち)という名をつけたことに注目してください。神は女に子供を産む能力だけでなく、いろいろな方法でいのちを放っていく能力を与えたのです。事実ある翻訳では、イブというのは「活気を添える、元気をつける」という意味だと言っています。アダムは一人のときは元気がありませんでした。アダムが一人でいるのはよいことではなかったのです。地上のどの生き物もできなかったのですが、イブはアダムを元気づけることができました。アダムは家を建てましたが、イブはその家を家庭にしました。アダムがイブに「いのち」という名をつけたとき、やがて最初に子を産んで母になるおんなを預言的にそう呼んだだけではなく、自分の経験からそう言ったのです。つまり、イブはアダムの世界という建物の中にいのちをいれてくれたのです。

これは一般的な話でしたが、霊的な領域のミニストリーに関しても男と女はこれと同じものを神から刷り込まれていることが分かります。イエスは12人の男たちと教会の基礎を築かれました。これは女性のリーダーは一人もうまれないだろうという事ではなく、神から男性に与えられた能力の一つが、前述したように、秩序をつくり組織することだからです。

それと共に、キリスト誕生の前に女預言者のアンナがいましたが、祈りと断食をして暮らしていました。これは私の考えですが、アンナは一人でとりなしをしていたのではなく、その時代の預言的とりなしのミニストリーのリーダーだった可能性があると思います。霊的に敏感であり、新しい始まりを解き放つことにおいて、女性はとりなし手としてより優れています。勿論、これは男性は祈らなくてもいいということでは決してありません! なぜなら聖書の中のもっとも素晴らしいとりなし手たちは男性だからです! 私は一般的にみた男女の霊的傾向を述べているのであって、神の御心を地上にもたらすためには男性も女性も絶対に必要なのです。

今日、多くの場面でサタンが進撃してきていて、私たちはそれと戦っています。戦争やテロリストとの戦いもありますし、この世のますます拡大する不正との戦いもあります。リバイバルが必要です。国を覚醒するためには、神が女性に与えた力が発揮されなければなりません。男性が法律をさだめ正しく治めようと努力してきましたが、それだけでは真に国家をトランスフォームすることはできないのです。神は女性の祈りの軍隊を立て上げ油注いでおられるのです。彼女らは国家のために神の御前でとりなしをするために、今もっと大きな力を与えられようとしています。

私の母の祈り

私自身、この女性の祈りの力を経験しています。60年代の終わりごろ、私は罪と反逆の中に生きていて、自分でも何をしているかわからないような青年でした。私の外見から判断するならば、もう望みがないと思われたでしょう。しかし、そのような状態にもかかわらず、カトリック教徒の私の母は、私のために神の御前に立ってとりなしてくれたのです。私は抵抗しましたが、彼女の祈りから生まれたユニークな神の力が私を追いかけ始めました。母の叫びは必死で止むことがありませんでした。一晩中祈ったこともしばしばあったのです。母は息子のために祈りを孕んでいたのです。1970年に、神はとうとう母の祈りに応え、ジーザス・ムーブメントのリバイバルのとき私はキリストを信じました。

ずっと後になって、私はこのリバイバルのことを主に尋ねました。普通リバイバルが起こる前には、その町全体の一致や祈り会がはじまり、それによってリバイバルが生まれるのを助けるのです。また、そのような働きを促進させるのが私の召しの一つでもありました。しかしながら、私の知る限りでは、70年にジーザス・ムーブメントが起こる前には、町全体の一致や組織だった祈り会はなかったのです。それで、祈りのムーブメントなしでリバイバルがどうして起こったのかを、私は主に尋ねたのです。主はすぐに私の間違いを正されました。偉大な祈りのムーブメントはあったというのです。自分の子供のために叫び求める百万人もの母親たちの祈りが起こっていて、それを主は聞かれたのです。

あらゆる教派から「必死という名の一致」をもって母親たちが叫ぶのを神は聞かれたのです。それが神の心に届き、その結果として非常におびただしい数の罪の中にいた子供たちが、悔い改め、イエス・キリストの救いを見出したのでした。これこそ今、神が再び起こしたいと願っておられる軍隊なのです。しかし今回は、そのときよりもっとはっきりとヴィジョンを持ち、もっと聖霊の力を受け、また、男性のサポートを受けて起こるのです。

神を信じる女性の皆さん、天はあなたを必要としているのです!あなたは全能の神によってこの地球上にブレークスルーを生み出すために造られたのです! とりなしを通していのちを解き放つ隠れた能力を持つ者として、あなたはユニークに神によて創造されたのです。女性の皆さんと一緒になって、私たち男性は建て上げ、基礎を築き、祈ることも学んでいます。しかし、あなた方女性は「新たな始まり」を解き放つ特別の恵みを持っているのです。あなたが祈っているのはご主人のためか、又、教会のリーダーたちのためかもしれません。また、子供のことかも、町や国のことかもしれません。いずれにせよ、祈りを通して神のいのちをこの世に解き放つ種が、あなたの霊の中に宿っているのです。

確かに戦いはあります。今でも「おまえの子孫と女の子孫との間の敵意(創世記3:15)」は存在しています。サタンの頭を踏み砕いたのがおんなの子孫だった故に、サタンはあなたがた女性を特に憎んでいるのです。神は御子をこの世におくられるのに、天からでもなく、男が女をみごもらせるのでもなく、神によってみごもった女性を用いられたことは、私にとって非常な驚きです。神ご自身が、子供を産むことができるという女性の力を通してこの世に来られたのです。

今日、主は地獄の力に対抗するために、女性に新しい恵み、新しい大胆さを与えておられます。女性が男性に対して反抗するのではなく、男性のために祈っています。それら敬虔な女性たちは、地上の力強いミニストリーをとりなしの祈りによって生み出しているのです。彼女たちはキリストのからだに新しい出発を解き放っているのです。

また、私はアグローやリディヤ・フェロシップ、その他の女性のミニストリーを推奨し、感謝したいと思います。今まで数えきれないくらい、神によって危機一髪で守られたり、霊的打ち破りが思いがけず私に訪れたりしたことがあります。 そのことを主にお尋ねすると、主は「アグロー(または、他のミニストリー)の人たちの祈りに私は応えたのだよ。」と言われるのです。皆さんに心からお礼を申しあげます。主が皆さんの心の願いをかなえてくださいますように!

黙示録12章には「「太陽を着た女」のことが書いてあります。これは単にイスラエルとか教会だけを指しているのではありません。神が霊的な女性をどのように見ておられるかを表わしています。彼女らは栄誉を受け気品を冠としています。清く、神の栄光に包まれています。 確信をもって闇の力を踏みにじります。とりなし軍団の女性の皆さん、国々を治めるものを生み出すことは、あなたの本来の神からの定めなのです。 (終わり)


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by walkwithgod | 2007-09-22 14:19 | アメリカからのメッセージ

神を楽しんで生きる キャシー・ウォーターズ 9月15日

栄光の中で神様を楽しんで生きる

キャシー・ウォルタース

最近のことですが、ミニストリーのために西海岸のある空港に着いたとき、数人の婦人たちが「あなたが来てくださって本当に嬉しいです!」と、とても興奮した様子で出迎えてくださいました。そして、「私たちは神様からのタッチを本当に必要としているんです。」と言われました。私も夫のデイビッドも、このような言葉をしばしば聞きます。

実は、人々がこのように「神からのタッチ」を求める言葉を耳にすると、私は少し気がかりなのです。というのは、神は私たちに「タッチ」よりもっと素晴らしいものを備えていてくださるからです。それは神の栄光の中に生きるということです。人々が神を求めているのだ、ということはよく分かります。しかし、もし神の栄光の中に生きることをみんなが会得したなら、自分自身が神のタッチを与える者になることができ、他の人にそれを求める必要はなくなります。

考え方を変える

神はクリスチャンを祝福していてくださいますが、神がよしとされないことがあります。例えば私たちの宗教的な考え方がそうです。聖霊は真理の御霊ですから、真理に反する間違った考えの中に臨在されることはありません。神は、私たちが変えねばならない三つの考え方について私に示してくださいました。これは非常に重要なことです。

まず第一に変えねばならない物の考え方は、ほとんどのクリスチャンがしてしまっているものです。意識的であれ、無意識にであれ、私たちは、「自分の古い性質(古い人)を変えて自分を良くしよう」と努力をしています。イエスはそのようなことのために、この世に来られたのではないことを、本当には理解していないからです。イエスは古い人を十字架にかけてくださり、私たちが、すでに義と聖さのうちに造られている新しい人として、信仰によって歩めるようにしてくださったのです。

サタンは「そのように超自然的な領域で生きる資格は自分にはない」、と私たちが感じるように、常に働きかけるのです。でもサタンはうそつきであり盗人であることを忘れないでください。イエスによって私たちは100%、新しい人として生きる資格があるのです。神様が90%してくださったが、私たちが残りの10%をしなければならない、というのでは決してありません。神様が100%なのです。天使や天からの訪れ、神の馬車というような超自然的なことは、私たちの毎日の生活の中で普通に起こるべきことなのです。それらは、神の栄光の顕われだからです。

IIコリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
ユダ1:24 「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」

私たちは神のトロフィーであり作品です。働くのは神であり、私たちの仕事は、主に総てを明け渡すことだけです。私たちは、自分で努力をしながら生きるのではなく、すでに神がしてくださったことの中に生きなければなりません。「主よ、あなたの栄光を注いでください。」と祈らないでください。主はすでにそれはされたのですから。自分の努力で栄光から栄光へと変わることはできません。私たちは主の御霊によって変えられるのです。

第二の間違った考え方は、「誤った責任感」です。私たちは、主から与えられたことだけに責任があるのです。それだけです! 重圧の霊は、私たちにはどうすることもできない事柄や人のことまで、責任を感じるように仕向けるのです。私たちは誰をも変えることはできませんし、誰かに何かをさせることなど絶対にできません。

過去に起こった多くのリバイバルが、この宗教の霊によって消滅させられました。例えば、ウェイルズ地方の大リバイバルのために、神は一人の若いリバイバリストを大きく用いました。彼は神の器であり、神の栄光が彼を通して流れ出ました。けれども、一年が過ぎた頃、彼は、人々が御霊にどのようにお応えするかということに関して、自分に責任があると思うようになってしまいました。自分が考えるとおりに人々が聖霊に応えない場合は、彼はその集会から立ち去ったり、集会を中止したりしたのです。彼のこの行動は、その地と民衆の上に重圧の霊を招いてしまいました。彼が自分のものではない責任まで抱え込んだからです。

私たちの責任とは、神が「しなさい。」と言われることを行い、「言いなさい。」といわれることを言い、「行きなさい。」と言われる所に行くことです。神が私たちに要求されるのはそれだけであり、そうしていれば、私たちは喜びをいつも保つことができます!

第三番目の宗教的な間違った考えは、「偽りの重荷」を私たちが担ってしまうことです。私たちはとりなし手として、ただ聖霊に委ねればいいのです。とりなしの霊の油注ぎをいただくときに私たちは霊的戦いをしますが、それは私たちが自分でしているのではなく、天からの油注ぎによってしているのです。私たちは宣言をしたり、笑ったり、泣いたり、床に転がって叫んだりするかもしれません。しかし、それが何であろうとも、重荷はやがて私たちから取り去られます。なぜならば、イエスこそが父の右座におられる究極のとりなし手であられるからです。

あるとき、私はフロリダのとりなしのグループに入っていました。ある日のこと私たちは霊的戦いをしていたのですが、重荷が非常に重く、それは私たちの上にのしかかる黒雲のように感じられました。ついに、一人の人がグループのために祈り、この偽りの重荷を投げ捨てました。みんな重荷が去る瞬間、それを実際に感じることができました。私たちはみんなで大笑いして、休憩をとることにしました。というのは、もう一度油注ぎを受けるために、時には休憩も必要だからです。

神は私たちにまず神を楽しむようにと召されているのです。結局のところ、もし主を楽しむことがなかったら、主に仕える意味がないではないですか。

あなたの考え方が聖霊の動きを左右する

以上3つの間違った考えが、聖霊が来てくださっても、また去ってしまわれる理由です。ある教会やミニストリーで力強い神の働きがあったとしても、2年くらい経つとそれが消えてしまうのは何故でしょうか? 人々はどうしてだろうと悩み傷つきますが、多くの場合神の動きを終結させてしまうのは、中絶の霊の所為なのです。それまで聖霊の動きや主の臨在を楽しんでいた人々に影響を与えてしまうのは悲しいことです。

私たち夫婦が聖霊の働きに目覚めたときには、すでに私たちは神学や頭の知識でぐるぐる巻きにされていました。すべての神学や教義についての知識を持っていましたが、私たちはそのとき、主ご自身を探し求めはじめたのです。神様に飢えていました。そしてロンドンの南で起きていた力強いリバイバルに出会ったのです。そこら中から人々が集まってきました。神の臨在が圧倒的にありました。そこで私たちをつまずかせた第一の要因は、私たちが世俗的であったことではなく、私たちが持っていた神学と頭の知識でした。キリストのからだが一つとなり神に働いていただくとき、誰がとか、何が、とかは全く問題ではなくなり、ただ神だけなのだ、ということを、私たちは学ばされました。キリストの麗しい臨在があれば、他のことはみんなどうでもよかったのです。

集会から帰っていった人々は、バス停まで行き着くことができませんでした。油注ぎを受けて彼らは人の家の前で倒れてしまったり、木にぶら下がったり、茂みの中に寝転がってしまったのです。集会場所の問い合わせの電話があると、私たちは「人々が外の道路に寝転がっていますが、気にしないで、それをまたいで中に入ってきてください。」と伝えたものでした。神の栄光がすべての人の上にありました。銀行の人にも、ごみ収集人にも、子供にも、年寄りにも。

時には私たちは、イエスの足もとにただ座り、休息し、主が降り注いでくださる愛を受けなければなりません。主は私たちに、四六時中休みなく走り回れ、とは言っておられません。

主は私たちの魂を愛し守ってくださる方です。私たちは主の瞳であり、主から愛されている者です。主はその栄光で私たちを覆ってくださったので、私たちは休息し主の栄光の中に生きることができるのです。忘れないでください、主が私たちを主のもとに召してくださったのです。私たちは主の宝物です!(終わり)


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by walkwithgod | 2007-09-15 08:55 | アメリカからのメッセージ

2008年 春の日本でのミニストリー予定  

2008年 坂 達也・柚実子による春の日本旅行は2008年4月ー5月を予定しております。詳細は検討中です。お祈り下さい。



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by walkwithgod | 2007-09-10 04:27 | ミニストリー予定

神の御国と教会のビジョン  リック・ジョイナー 9月8日

神の御国と教会のビジョン

リック・ジョイナー  

数週間前のことですが、私がここ数年来経験したことがなかったほどの、非常にパワフルなヴィジョンを二つ見ました。 一つは、この世を造られたときの主の御心を示すものであり、もう一つは現在主が最も切望しておられるのは何であるかを示すヴィジョンでした。それによって、神の御心の切なる願いとは、主の花嫁なる教会に対するものであることが私はわかったのです。神の花嫁に対する愛は非常に強いものであって、教会が神の御国のために存在するのではなくて、御国が教会のために存在するのだ、という真理を、私は二つのヴィジョンを通して深く理解したのでした。
これは、私の考えに新たな方向付けを与えるものであり、今まで2年間私の御国に関する学びを聞いてくださっていた皆様にも、それをお分かちしたいと思います。

神の御国について私がこれまでお話してきたことを、変えるわけではありませんが、何を一番にするかというプライオリティーが変わりました。主は被造物を愛しておられ、地球を愛しておられます。主はすべてのすずめを愛しておられるゆえに、一羽でも地に落ちたら気がつかれます。しかしながら、主がご自分の花嫁に対して抱いておられる愛に比べられるものは、何もないのです。私は二つのヴィジョンを主から見せていただき、教会は主の花嫁となる備えをせねばならないと、固く心に思ったのです。

教会がその目的を果たすためには、まず自分がどのように崇高な召しを受けているかを認識せねばなりません。確かに現実的には問題が沢山あり、それらについても言及せねばなりません。しかし、もっとも重要なことは、教会が主から離れては生きていけないほど、主を恋い慕うようになることなのです。婚姻の用意を調える花嫁は、主を愛するゆえに準備するのであって、自分の目標を達成したいという野心からではありません。勿論、花嫁は自分の目的を知りそれに喜びを見出すことは必要ですが、それは主の栄光を見ることにくらべれば、とるに足らないことです。

言うまでもなく、宇宙のどこを探しても、神よりも愛すべきお方はおりません。主の道は私たちがもつ最高のものよりも、はるかにずっと崇高なので、たとえほんのわずかであっても主を知れば、私たちはそれによってトランスフォームされます。ですから、教会が召された姿にまで成長するための鍵は、主を見つめることなのです。私が油注ぎをいただきたいと何にもまして望んでいるのは、このことです。即ち、私が主を指し示すと、主を慕い求める思いで花嫁の心が一杯になる、という油注ぎを求めているのです。勿論、先ず自分の心の中に主に対するそのような思いがなければ、人にもそれを分け与えることはできません。神を愛することは、私たちの一番の崇高な召しです。最も崇高な召しを達成する者とは、主を最も愛する者です。

私が今までの書いてきたものを読んだ方は、私が常に教会を大切にしてきたことがお分かりになると思います。私が書いたり説教したりするときは、いつも、すべてのクリスチャンは地域の教会に所属するべきであるという考えを伝えてきましたが、それは私がクリスチャンになってすぐに与えられた一つの信念によるのです。その信念とは、クリスチャンが真に成熟するためには、生き生きとした真摯な教会生活が必要不可欠であるということです。私はますますこの信念を深めていますが、それと同時にそれを与えることが出来る教会が非常に少ないことも知っています。教会と個々のクリスチャンが、それぞれ与えられた目的を果たすためには、両者が変わらねばなりませんし、必ずや変わっていきます。

しかしながら、たとえ不十分な教会であっても、教会にまったく属さないよりはずっといいのです。実際のところ、問題のない教会に属するより、まだ完全でない教会に属するほうがずっといいのです。私たちはキリストに似た者となるように召されていますが、そのためには教会生活の中で多くのフラストレーションを感じたりイライラさせられることが必要なのです。誰でも完全なものを愛することはできるでしょう。しかし、不完全なものを愛し助けるために忍耐の限りを尽くすことこそ、主がこの地上を歩かれたときに示された御性質です。今というシーズンは、私たちは未成熟なものといるほうが自分が成熟できるのです。もしキリストのからだなる教会がチャンとするまでどこにも属さないで待っていると、教会はどんどん進んでいってついにあなたは追いつけなくなってしまうでしょう!

神の御国はやってきます。御心が天で行われるように、この地でも行われるようになります。地上に打ち立てられる神の御国は、言葉では言い表せないほど栄光に満ちた素晴らしいものです。この地は最初に創造されたパラダイスに回復されます。しかし、教会にはそれよりも崇高な召しがあるのです。教会は天国の領域へと召されています。主と共に御座に座り、主と共に支配し治めるのです。 教会はまた、主の聖なる御性質をも持つことを許されます。霊的な人たちは人からよく「彼らは天国のことばかり考えていて地上では何の役にも立たない。」というお叱りをうけますが、実のところ、地上のことで心を満たしているクリスチャンは、地上でよい働きはできません。本当に天国が私たちの家にならなければ、地上でできることはあまりないのです。

主は過去20世紀の間、私たちクリスチャンに「御国が来ますように。」と祈らせてきました。けれども、主の花嫁の準備が整うまでは、御国は来ないのです。ですから、御国を来たらすために私たちができる一番効果的なことは、教会が召しにふさわしいものになるように助けることです。花嫁は天で主とともに座し、地上にいるよりも主の御そばこそ自分のいるべき場所であると感じるのが、その召しなのです。

この社会をトランスフォームしようとしている人たちを、私は感謝します。しかし、いろんなアイディアをもってなされるトランスフォーメーションは、教会を通して成し遂げられるのでなければ、非常に限られたものです。教会は山の上の光となるように、つまり、それを見るものが、その光の源は一体なんだろうと、どうしても探求したくなるような偉大な社会に教会がなるということです。教会は地上で神の御国になるようにと召されています。即ち、それは天からの社会、文化であり、堕落した世の中とは全く違う姿で大胆に立ち上がり、自分の王であられる神の知恵とご性質を世に表していくものになることです。ですから主のからだなる教会の中で人がコミュニティーを形成しないでその目的を達成することは、絶対にできません。

コミュニティーといっても、そのメンバーがみんな近隣に住まなければならない、と私は言っているのではありません。 住んでいる場所を越えた聖徒たちの真の交わりの結びつきがあるのです。地上の家族のメンバーは成長するとばらばらになり、それぞれの道を歩んでいきます。しかし、天の家族は成長するとともにもっと親密になります。天の家族はどんどん成長し、地上で一番親密な家族よりも霊的な結びつきがもっと強くなっていくのです。
すべてのクリスチャンの心の中には、永遠の神の家族の一員として結び合わされることを切望する思いがあります。それは私たちがそのことを目的として創造されているからなのです。

キリストのからだなる教会は、これから一つにされていきます。今が本当に終末であるという様々なしるしの中で、このことこそが一番偉大なしるしとなるでしょう。なぜならば、それが起こるまでは、絶対にこの時代は終わることはないからです。これが起こるとき、もはや崩れることのない堅固で偉大なる地上にある御国という砦から、御国の福音が語られるようになります。花嫁が一つになり、完全になるという、主ご自身がされた祈りや預言は、この時代が終わる前に成就されねばなりません。

真に新しい契約での教会生活をしたいという願いが教会の中で呼び覚まされるとき、教会は再び一つになってくるでしょう。教会が一つになり始めると、主がその真ん中に立たれるので、教会は自分を愛するより、もっと主を恋い慕うようになるでしょう。この召しに答えるクリスチャンは至高のコミュニティーの中に入れられますが、けれどもそれが彼らの求めることではなく、あくまでも主と親しくなることが目標です。人間の心が最も慕い求めるものは、コミュニティーではなく主ご自身です。しかし、主と親しくなるためには、コミュニティーが必要なのです。

マタイ18:20で主は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と宣言しておられます。ここで「集まる gather」と訳されている言葉は、集会のために人が集まるというのではなく、もっと深い意味があります。それは、車の部品が組み合わされて一台の車になるという意味です。バラバラでは一つ一つの部品は人を乗せてどこかに運んでいくことは不可能です。しかし、組み立てられて一つになるとき、多くのことができるのです。ヘブル10:23-25にあるのも同じ意味です。

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」 ヘブル10:23-25

ここでパウロがやめてはならないといっている「一緒に集まること assembling together」という意味は、ただ集会に集まるということではなく、車の部品がしっかり組み立てられて一つの車になることを意味しています。部品一つ一つも大切ではありましょうが、それらが適切に組み立てられなければ、何もすることはできません。キリストのからだでも同じことが言えるのです。

初代教会の時代に、主を信じた人々が「教会に加えられた」 のには理由があります。ミニストリーの中には、沢山の人々に触れて影響を与えるけれども、主のからだなる教会を一つに建て上げることはしないものがあります。私たちはそのようなミニストリーがどのような実を生らせているかを調べる必要があります。その実はどのくらい残るのか? 彼らが去ったあとでも人々は本当に変えられているだろうか? 主の教会はそのミニストリーによってもっと明るく輝くようになったか? クリスチャンと称する人たちとノン・クリスチャンとを比べるた調査結果によれば、その特徴にはほとんど差がないのはどうしてか? このようなことを見ていくと、確かに何かがおかしいことを認めざるをえません。

私はこのようなミニストリーをしている伝道者たちに、教会の諸問題の責任があるといっているのではありません。どういう方法によろうとも、福音を語ったり病を癒すことを主の御名によって行い、人々に影響を与える人たちがいることを、私たちは喜びます。そして多くの伝道者が自分の集会で回心した人たちを、教会に送りこむのを躊躇するのも分かります。それは多くの教会が死んだ宗教しかもっておらず、新しいクリスチャンからいのちを奪いとってしまうだろうことを、彼らは知っているからなのです。しかしながら、これこそ初代教会時代には、伝道者のあとに続いて、使徒、預言者、教師をがその地を訪れた理由であり、彼らが教会を建て上げたのです。現在の新約時代の多くのミニストリーが、協力して働くことを学ぶまでは、ほとんどの実はこれまで通り失われてしまうでしょう。勿論伝道者たちが福音を語り、癒し、人々を主に導くことは、しないよりはするほうがいいのですが、新しい信者がキリストをもっと知って成熟、成長し、キリストのからだの中での自分の適切な位置を見つけられるように助けることができる教会が立てられねばなりません。

第一ヨハネ4:20で言われているように、主を愛していて兄弟を愛さないことは不可能です。また、主を真実愛していて、主の教会を愛さないことは不可能です。もし私たちが主を愛しているのなら、主の花嫁が私たちの王にふさわしい花嫁になるように、何をしてでも助けたいと思うはずです。主が一番恋い慕うのは花嫁だからです。そして、主が喜ばれることが私たちの心の願いなら、主のために花嫁の用意が整うようにと助けるでしょう。これこそが主の道を備え御国の王道を築くことなのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-09-08 14:19 | アメリカからのメッセージ

引越し その3 坂 柚実子  9月8日

引越し その3

早いものでこのマンションに移ってから、もう2ヶ月がたちました。
しばらくは引越し荷物の整理に追われる毎日でしたが、夜になってプールで泳ぎ、ジャクジに入って空を見上げると星が輝いています。こんな素敵なところを与えてくださった神様に心から感謝しました。

このマンションは24時間体制で5人の警備員がいるのですが、その人たちとも仲良しになりました。周りの部屋の人たちとも少しずつ顔なじみになってきています。

私は朝散歩をするのが日課となりました。歩いて25分くらいのところにハナウマ・ベイがあります。日本からの観光客も沢山くる、スノーケリングで魚を見るのが楽しいところです。私は泳ぐのではなく、湾を上から眺めて帰ってきます。主人は夕方散歩に出ますが、マンションの斜向かいの高校のグラウンドで、少し走るようにもなりました。一度私も見にいったのですが、走るといっても歩いているのか走っているのかわからないほどの「走り」でした。でも長い間走ったことがなかったそうで、これは彼にとっては画期的なうれしいことのようです。

二人で散歩しないで別々にするのは、それぞれが「主と共に歩く」時間を楽しんでいるというとことかもしれません。夕方主人が出かけている間、私は残ってピアノを弾いて歌を歌ったり、掃除機をかけたりします。でも週末には二人で一緒にちょっと遠いところにハイキングに行ったりもします。

道では、散歩している人や走っている人に会いますが、両者の体型がはっきり違うことがわかります。走っている人は筋肉質で、スマートだということです。それに反して歩いている人は(私も含めて)少し太目な人がほとんどです。専門的なことはわかりませんが、歩くのと走るのはすごく違うらしい、というのが私の観察です。毎日の散歩で少しも体重が減らない私は、これは走るしかないか、と思っているところです。

「然はあれどエホバをまち望むものは新たなる力をえん
 また鷲のごとく翼をはりてのぼらん
 走れどもつかれず、歩めどもうまざるべし」イザヤ40:31

この聖句は広島の中原牧師が、少し年をとってきた主人のために書いてお軸にしてくださったものです。神様は私たちに「走れ!」といわれるときと「歩きなさい。」といわれるときがあるのかな、と思います。主を待ち望みつつ、歩いたり走ったり、主の号令のままに動けるように、霊肉ともに鍛えなければいけないと思っています。

このように私たちは新しい住まいを与えられたことを心から主に感謝し、次の一歩を踏み出そうとしているということで、引越しのご報告とさせていただきます。どうぞハワイにお越しの節はお知らせくださいますように。 (終わり)


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by walkwithgod | 2007-09-08 13:58 | 柚実子からのハワイ便り