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備えなさい!  リック・ジョイナー   2007年12月27日

備えなさい!

リック・ジョイナー

Y2K(2000年問題)を覚えておられますか? ほとんどの人は忘れてしまいたいと思っているでしょうし、それも無理からぬことです。多くのクリスチャンや預言者の友人たちは、世界の終わりかと思われるような事態が発生すると予測しましたが、実際は何事も起こりませんでした。他の人たちが予測したような災難は起こらないと言っていたのは、しばらくの間は私だけでした。

非常に興味のあることには、私が何か間違ったことをしたときよりもY2Kに関して正しかったときのほうが、私に対する批判は激しかったのです。私がその時に他のことも言ったのですが、そのことに関しても私は正しかったのです。それは、Y2Kのための備えはY2Kのためには必要ではないけれども、これからやってくる災難のためにそれらの物資を蓄えて置きなさい、と私が言ったことです。

鳥インフルエンザのことを覚えていますか? 多くの人はそれはもう去ってしまったことだと思っています。しかし、実はその反対なのです。予測されたとおりに、鳥インフルエンザは世界的疫病として今も容赦なく進行しています。各国の政府は、あまり早く警告を発しないようにと慎重な態度をとっています。というのは、何かに対する警告を出してもそれがすぐには起こらないと、人々はだれてしまうのです。ですから政府は警告を発するタイミングを見計らっているのであり、それは確かに正しい判断です。しかしながら、警告が発せられるときには、すべてのことを準備をするには遅すぎるかも知れません。

霊的権威を勝ち取ったすべての場所でこの疫病を止める霊的権威をクリスチャンが持っているのは確かに本当です。しかしながら、私たちがどれだけ王なる主に服従し、主につながっているかという度合いによって、私たちの真の霊的権威は決まります。そしてその点において十分だというクリスチャンはあまりいません。世界の科学者たちは、今度の鳥インフルエンザは黙示録に書かれている人類の三分の一がそれによって滅びる疫病のようであると言っています。もしこの疫病が聖書に書かれているものならば、私たちがそれを止めることは不可能ですが、自分や自分の子供たちをその死から守ることはできます。もし神の民が曲がったことを捨て主に立ち返るならば、この疫病が自分たちの家の近くに来るのを阻止することができますし、神を信じない近所の人たちをも多分守ることができるかもしれません。それによって彼らは死から救われるとともに、魂の救いも得ることになるでしょう。

急げ、そして待て!

事に備えての実際的な準備がありますが、まず最初にどうしてこんなにも一見矛盾したことが多く起こっているのかを考えて見たいと思います。
ブートキャンプや歩兵訓練の中で、ある命令を受けたあとすぐにそれとは正反対の矛盾する命令を出されるということがよくあります。それは命令を受けたときは何も質問をしないで言われたとおりに従うことを、私たちが学ぶためです。というのは、自分の命だけでなく同じ隊にいる人々の命は、自分が命令に瞬時に従うかどうかに左右されることが往々にしてあるからです。状況が危機的であればあるほど、リーダーがその命令の説明をする時間はほとんどありません。私
たちはこれと同じ訓練を受けているのであって、それはいのちを救うためなのです。

アメリカ南部が巨大な嵐によって叩きのめされたあと、私たちは次の嵐のための備えをしました。すると旱魃がきました。嵐のために準備したもので旱魃のために使えるものは多くはありませんでしたが、いくらかは役に立ちました。ですから、ハリケーンや旱魃の救援の時に私たちが学んだことを無視するのは間違いでしょう。

同じように、西海岸の山火事や土砂崩れから私たちが学べることは、すべて学ばねばなりません。土砂崩れは山火事とは反対の問題のように見えますが、実はそれは山火事の結果なのです。木は地面に根をはって、雨が降っても地面が崩れないようにしているのですが、山火事によってその木が燃やされてしまい、土砂崩れの恐れがでてきます。ですから、この二つの災害は関係があるのです。

最大の収穫?

これからの最大の宣教活動の一つは、災害救助でしょう。ハリケーン・カテリーナの大災害が起こったときの教会の援助態勢はすばらしいものでした。政府や報道機関はすべて、このときの教会の対応や援助が非常に円滑に行われたことを報道しました。私たちは政府よりうまくやれるのです。私たちは暗闇の中の光となるためにこの地上にいるのです。神を愛することが第一ですが、その次には隣人を愛することがクリスチャンの主な仕事内容なのです。災害にあって苦しんでいる隣人を助けることは、その愛を示すべき機会の最たるものです。

私たちは聖霊に満たされていると言いますが、その聖霊は助け主です。助け手としての仕事は、教会の芝生を刈ったり食事会のあとでお皿を洗ったりするだけではなく、溺れている人が「助けて!」と叫んでいるときに駆けつけるということです。このミニストリーは基本的なものであり、すべてのクリスチャンが召されているミニストリーです。私たちの内に聖霊という助け主をいただいている理由の一つはそれなのです。

最近私たちは災害に対処するための訓練のクラスを開きました。訓練の一つは、災害が起こったときに、どのように避難所を設置するかというもので、必需品(食料、医薬品、排泄物の処理施設、ベッド)をどのように調達するかという学びも組み込まれていました。学びのあと、クラスの人たちはいくつかのチームに分けられ、それぞれが避難所を計画、設置しました。これはチームの団結に役立ち、とても楽しい作業でした。次にいろいろな特殊な状況が設定され、それぞれのチームに課題として与えられました。チームはそれにどのように対応するかを決定せねばなりませんでしたが、それは大変難しいことでした。

課題を与えられたら、すばやく対処の方法を考え出さねばならないのです。例えば、長い刃物を持った男が入ってきた、麻薬を売りに来た者がいる、性的犯罪者が入ってきた、停電になった、トイレがあふれた、英語の分からない家族が来た、盲導犬を亡くした盲人が来た、耳の不自由な人が来た、というような課題でした。そして最後にもっと大変な課題が与えられました!それは、鳥インフルエンザが避難所の中で発生したらどうするか、というものでした!

大切なことは、すべての人が頭を使い、すばやく応答し、良いアイディアを考え、いろいろな問題に面したときに率先して対応するということです。避難所においてそのような人が采配を振るわないと、その避難所はハリケーン・カテリーナの時に避難所となったスーパードームのように、大混乱に陥ってしまいます。

「自分は聖霊をいただいているから、どんな災害があっても聖霊がすべて必要なものを与えてくださるから大丈夫」と思っているクリスチャンが多くいます。聖霊を信じることは良いことであり、大切なことです。しかし、このような態度をとっている人の中で、日々の生活で聖霊に十分従っている人はあまりいませんし、災害の最中の混乱と騒乱の中でそれができるとは思えません。これに関して聖書に書かれています。 詩篇32:6です。「あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。」(詩篇32:6、新共同訳)

要するに、嵐が来たら家を岩の上に建てようと考えて待っていてはいけないということです。それでは遅すぎるのです。災害のためのこの実際的な訓練をするようにと、聖霊が私たちに語られた理由はそこにあります。
私もこの訓練のクラスにできる限り出席しましたが、この訓練はすべての牧師だけではなく、すべてのクリスチャンが受けるべきだと強く感じました。

以上のことは事実なのですが、しかし、よく訓練を受けた人も聖霊に聞き従うことが必要です。そして奇跡が必要です。実際的な訓練を受けることと聖霊に従うことは、相容れないことではなく、両方とも必要不可欠なことです。訓練を受けた者こそが、落ち着いて聖霊に聞くことができる者になるでしょう。カテリーナの災害援助活動の中で、私たちモーニングスター・ミニストリーが犯した最大の間違いは、あまりにも人々の実質的な必要を満たすことに心を奪われて、彼らの霊的な必要の多くを無視してしまったことです。確かに、多くの人が主に出会い、多くが癒され、多くが霊的助けを得ましたが、本来はそれよりもっと多くそのようなことが起こるべきだったのです。私たちは二度とそのような間違いを犯さないようにと心に決めました。ですから、今私たちが実際的な面の準備ばかりをしているのではないか、と不審に思っている人たちの気持ちもわかるのです。しかしながら、私たちはこのような災害の現場を何度か経験したので、物質的、実際的な準備はしてもしすぎるということはないと思うのです。ただ、霊的な準備とミニストリーに今までより重きを置く必要があるということです。

災害対策の訓練目的は、災害の場にどのようにして秩序をもたらすかということですが、実際には、秩序のない混乱状態の中でどのように対処するか、ということが求められるのであり、そこでは聖霊がもっともその御力を発揮されるのです。聖霊がはじめに地の面を動いていたとき、そこは混沌としていました。そこに何というすばらしい創造がもたらされたことでしょうか! これから様々な災害が来て混沌が起こるときに、私たちは聖霊のもっとも輝かしい御業を見ることになるでしょう。災害の時を私たちが通らねばならない、というのではなく、通ることができるのです!

私たちが一生懸命準備をしても、訓練によってできることには限りがあることを私たちは十分承知しています。そうではあっても、あまり訓練を受けていない人が誠意をもって助けにきても、十分の訓練、準備の出来た人のただ重荷になってしまうことも私たちは学んだのです。ですから私たちは、示された出来るだけの訓練を受け、あとは主に信頼するのです。この二つは両方とも大切であり両立します。

それでは何をすればいいのか?

すべてのクリスチャンは3ヶ月から半年分の食料、水、医薬品を常に蓄えるべきです。それを順に使い、新しいものを補充します。鳥インフルエンザが発生すれば、すべての交通機関がたちまち停止することが予想されます。食料品マーケットは普通、顧客のために3日間分の食料を蓄えているだけです。いざとなると人々が店に押しかけ、数時間でなくなるでしょう。ですから今準備をしてください。そしていつも備えていてください。この事態は今すぐにでも起こりうるものであり、あまり予告なしにやって来ます。もし起こったら、ではなく、いつ起こるか、ということなのです。

ほとんどのクリスチャンはすでに悪の道を離れて主に戻ったと思いますので、自分の家族や隣人をしっかりと立って守ることができるでしょう。モーセがアロンに、陣営の中に入って香炉で疫病を止めるようにと言ったとすれば、祈りととりなしによって(香はその型です)疫病を勿論止められるはずです。これこそ私たちが「更にまさった契約」を持っている理由です。私たちはただの型や影ではなく、実際のものを持っているのです。

あなたが実質的な備え、食料や水、医薬品その他を備蓄するときに、それと同時にそれぞれに呼応する霊的なものの備えも考えてください。まず出来るだけ主の御言葉を心に蓄えねばなりません。しかし、この世界的疫病が起こるときは、人々は家から出ないようにといわれます。夜間外出禁止令が布かれ、それは武力ももって強行されるでしょう。テレビの放送も多分なくなるでしょうし、音楽を聴くにも停電になってしまうでしょう。ですから、読書をする時間が沢山できます。3ヶ月ほど家族や主だけと共に過ごしたならば、私たちは地上で一番強いクリスチャンとなり、強い絆で結ばれた家族となってこの世に現れるというヴィジョンを持ってもいいのではないでしょうか!

3ヶ月分の備蓄があれば、余るくらいだと思います。しかし、すべての社会機構がもとに戻るには時間がかかるでしょう。ですから、用意をしなかった人たちにも分け与えることができるように、6ヶ月分を備蓄するようにとお勧めします。また、隣人にあげるための聖書やよいキリスト教の本を用意しようと私は考えています。

多分あなたは今とても心地のよい暖かい家でこれを読んでおられると思いますし、このような事態が起こることなど、全く現実的ではないと思われるかもしれません。しかし、世界規模の疫病は以前にもありましたし、これからも起こるのです。今年ではないかもしれません。私は今まで何年も、主のからだなる教会が備えをする時間をください、と主に祈ってきました。しかし、その時はやがてやってきますし、そしてあまり遠いことではないのです。ちょっと考えてみてください。もしあなたが備えをしたのにそれが起こらなかったら、どのくらい損をしますか?時間をすこしだけ損したかもしれません。でももしあなたが備えをしていないのにそれが起こったら、あなたは自分や愛する者たちの命を失うことになるかもしれません。

Y2Kに関して私の予測は正しかったですし、今回のことも私は正しいのです。現在毎週のように私たちを襲ってきている自然災害は、私たちを目覚めさせ備えさせるための主からの恵みです。一番重要な備えは、主に立ち返り、悪の道から離れることです。もしそうするならば、すべてはずっとたやすくなるでしょう。

第一テサロニケ5:4-9「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」(新共同訳)(終わり)


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by walkwithgod | 2007-12-27 05:46 | アメリカからのメッセージ

クリスマスに際して   坂 達也   12月22日

クリスマスに際して

アメリカではクリスマスが近づくと、電球による建物の内外の飾り付けが盛大になされ、特に住宅地の夜景は実にほのぼのとしてきれいです。先日近くの老人ホームを訪れた時、入り口の側にきれいな飾り付けがしてありましたが、その中に「ノース・ポール(北極)はこちら」と書かれた1メーターあまりの矢印のサインが芝生の上にあざやかに電飾で浮き出ていました。

アメリカの多くの小さな子供たちは、サンタクロースの存在を本当に信じています。クリスマスが近づくとサンタに手紙を書いて郵便局に投函する子供が、恐らく毎年千人以上はいると思います。サンタは北極に住んでいると彼らは信じていますから、サンタ宛の手紙の住所は皆、ノース・ポールと書かれています。彼らはサンタに欲しいものと共に、クリスマスにしてもらいたいことを切々と訴える手紙を書くのです。

このような手紙が来ると郵便局では、その手紙を「死んだ手紙」つまり、行き所の無い手紙として集め、一定期間保管するそうですが、昔そのようなサンタへの手紙の内容が披露されて新聞に載り、私もそれを読んで子どもたちの純真な愛の思いに打たれた記憶があります。多くの子どもは自分のことより、周りの家族とか困った人をクリスマスに助けてやって欲しいという嘆願の気持ちをサンタに書くのです。

私たちが元住んでいたポートランドの郵便局に長年勤めて退職した親友からのメールによれば、最近四歳の女の子がサンタにではありませんが、天にいる神様に直接書いた「いじらしい神様へのお願いの手紙」が郵便局に届いたそうです。天国行きと書かれた住所の手紙ですから、これもサンタ宛と同じ「死んだ手紙」として処理されました。

その手紙の内容は、4歳のメレデスという名の女の子が、かわいがっていた14歳の老犬が死んで、その子は寂しさと悲しみの中からお母さんに頼んで天の神様に手紙を書いてもらいました。それには「天の神様、私の犬のアビーがそちらに行きましたが、写真を送りますので、見れば分かると思います。アビーはボール遊びが好きですから、どうぞ遊んでやって下さい。」と言うものでした。その手紙には差出人の住所と名前が書かれており、たくさんの切手がはってありました。
それからしばらくして金色の包み紙に包んだパッケージがメレデスの家に郵送されて来ました。中にはミスター・ロジャースの書いた「ペットが死んだら」という本と手紙が入っておりました。その手紙には見慣れない字で「メレデスちゃん、アビーは無事着きましたよ。写真を送ってもらったのですぐ分かった。もうアビーは病気ではなく元気で、あなたの犬であったことをとても感謝しています。わたしに手紙を書いてくれてありがとう。それにあなたに代わって手紙を書いてくれたあなたのやさしいお母さんにも感謝します。そんなすばらしいお母さんをあなたの為に特別に選んだのはわたしだよ。これからも毎日わたしはあなたのために一杯祝福を送るので、いつもわたしがあなたをどれ程愛しているか憶えていて下さい。 愛をもって。あなたの神から。」

私の郵便局出身の友人は、自分の元の職場である郵便局の「死んだ手紙」の部署に心あるクリスチャンが働いていることにいたく感激しておりました。

クリスマスと言えば、昨今はあまりにも世俗的になっていることは確かです。また教会の中では、「イエスの誕生が12月末と言うのはおかしい」とか「クリスマス・ツリーは異教の習慣だ」といってお祝いをしないクリスチャンもいます。私もそのような気持ちを少し持っていたのですが、最近自分のそのような批判的態度を悔い改めました。世の中の総てが、神の許しなくして何事も起らないのである以上、12月25日をイエス・キリストの誕生日とし、それをたとえ世俗的であっても、又クリスチャンでなくても、万人が贈り物を交換して大いに祝うようにされたのは神であり、神が許されたことであると思うのです。サンタクロースは本当にやさしい愛の天の父の心をあらわしていると思います。

アメリカ南部のあるクリスチャンが何十年とサンタクロースの役を買って出て、毎年クリスマス前になると札たばをたくさんかかえ、巷に出て行き、困っているような人に五十ドル、百ドル、二百ドルと言う現金の贈り物を与えていたそうですが、その人が亡くなったと言うニュースを二年ほど前に見ました。その人は小さい時貧しい境遇で育ちましたが、成人したある時、貧しい人がよいクリスマスを迎えることが出来るように助けたいと思い立って、決して経済的に豊かでない中からお金を貯めてはクリスマスにサンタになることを決意したのです。神はその人を大いに祝福し、やがてその人は大金持ちになりましたが、死ぬまでお金を貧しい人に配ることを続けたそうです。そして死に際にお金持ちの友人の手をとって自分のサンタの仕事を引き継いでもらいたいと頼んで死んで行きました。今はその後継者だけでなく、幾人かのサンタクロースが巷に現れ、いわゆる「年を越せない」ような貧しい人に思いがけない恵みを配って歩いています。又、貧しい子供たちにクリスマスの贈り物を与えるために多くの慈善団体、企業がきれいな包装紙で包んだプレゼントを山のように集めて、実際にサンタクロースの衣装を着けたサンタがそれを配るのは、アメリカの年末の街中で見られる美しい心温まる行事の一つです。

クリスマスはイエス様のご誕生をお祝いする日です。私たちが家族の誕生日をお祝いし、贈り物を送り、あるいはご馳走を用意してその人の誕生日をお祝いするのは世界中の習わしであると思います。そうであるならば、クリスマスには天におられる恵み豊かな父が、愛する私たち人間に大判振る舞いのプレゼントを与えて下さる以上に、私たち自身が誕生日を迎えるイエス様にこそお誕生日のお祝いのプレゼントをお送りすべきであると思います。そのイエス様に贈る最大のプレゼントは「人を赦す」ことではないでしょうか。下記にそのような贈り物を最近贈った人々をご紹介したいと思います。

先日コロラド州で銃の乱射で二人のYWAMの若者が殺されたニュースがありました。その事件が起った三日後に、殺された二人、フィリップ・クラウスさんとティファニー・ジョンソンさんの家族は、先ず犯人(その後自殺した)の叔父のフィル・アベータ牧師と会って和解し、その後犯人の両親、ロンとロレッタ・マーレーさん夫妻を訪ねて、お互いに手をとり、話し合い、いたわり合い、祈り合ってその犯人の家族を赦しました。

殺された犠牲者二人の家族はそれぞれ、犯人の両親に面と向かって「私たちはあなたを赦します。あなたがたはもう責任を感じる必要はありません。」と伝えると、両親はそこで証されたクリスチャンによる「キリストの愛と赦し」の力に圧倒されて言葉もなく泣き崩れた、と報道されました。そして、皆が犯人である息子のマシュー・マーレーさんをもはっきりと赦しました。そして、最後にデンバーのYWAMの指導者のリードによって、全員が手を取り合い、神様に感謝をささげながらお互いに祈り合ったそうです。

撃たれて死んだフィリップ・クラウスさんは、この事件が起る少し前にYWAMのミニストリーによって救われたのですが、救われる前は、内向的で暗く、絶え間ない混乱から来る不安定なおびえた青年であったのが、救いの恵みによって見違えるようにトランスフォーメーションされたと報道されていました。この救われる前のフィリップ青年がちょうど犯人に似ていると言う印象を私は持ちました。

 次に、数日前にホノルルで起った交通事故で、キャシー・オライバーさんはかろうじて一命を取りとめたのですが、頭部と足に大怪我をしました。事故の原因は飲酒運転で高速道路に逆入して来た車に正面衝突されたからでした。朝の3時半に起った事故でしたが、その飲酒運転をしていた相手の人はリサ・マツモトさんと言って、ホノルルでは劇作家としてわりに名が売れていた人でした。彼女はその事故後間もなく死亡しましたが、相当の飲酒量であったことが分かりました。
新聞は、最初2-3日大きくマツモトさんの死とその故人の業績を報道しました。しかし4日後の新聞の一面で初めて被害者オライバーさんのことが写真入りで次のように報道されました。
「二人の子供を持つ母親が衝突して来たマツモト(さん)を赦す」と言う見出しの下に「足に手術用のロッドが入れられ、足首にはピンを、頭蓋骨にはステイプル(留め金)が打たれたが、彼女のハートには赦しがあった。」と書いてありました。オライバーさんを見舞いに訪ねて来たマツモトさんのお母さんに、「もしあなたにとって私の言うことに意味があるのでしたら申し上げますが、私はあなたの娘さんを赦します。」

 私は日本の報道で、犠牲者の家族が「私は絶対に赦さない」と言う談話を発表している見出しをよく見ます。日本ではそれが当然のように報道されます。事実その被害者のお気持ちはその通りであることは充分理解できます。しかし、ここに、イエス・キリストがこの世に生まれて来られた意味があるのではないでしょうか。 
皆様、主の御誕生日をお祝いする、すばらしいクリスマスをお迎え下さい。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-12-22 13:29

YWAMについて    坂 柚実子   12月22日

YWAM(Youth With A Mission)について

私たちが今行っている教会(ハワイカイにあるキングズ・キャシードラル)は、先日の礼拝にハワイ島コナに本部のあるワイワム(ユース・ウィズ・ア・ミッション)の創設者であるローレン・カニングハム師をゲスト・スピーカーとしてお迎えしました。日本にもワイワムの支部がいくつかあり、よく知られた団体だと思います。最近では私たちの友人のお嬢様である天川光世さんが、コナのワイワムでの学びのあと、中国に宣教の実地訓練に行かれ、信仰が大きく変えられたことを見させていただいています。また、オレゴンで私がホスト・ファミリー関係の手伝いをしていた英語学校の、エドモンド・ブショア校長ご夫妻がワイワムの卒業生で、大変高く評価しておられました。 ブショア先生から「神の御心を知る」ことがワイワムの学びの目的だと聞いていましたが、その意味を今回カニングハム氏のお話を直接聞いて、はっきりと理解することができました。

カニングハム師の話は胸がわくわくするような主にある冒険談でした。神からの指示を受けてそれを実践していくときに、どんなにすばらしいことが起こるかという証が沢山ありました。その日に彼の著書「Is That Really You, God―Hearing the Voice of God」を買ってきましたが、読み出したら面白くてほとんど一日で読んでしまいました。それは、先生個人のことから、学校のこと、また、世界中に何万人もいる学生、スタッフ、宣教師たちにいたるまでの様々な証で満ちていて、それを通して「神の御心を知る」ことの大切さとすばらしさ、そしてまた、失敗を通して学んだことなどがやさしい口調で書かれていました。

インターネットで調べたところ、「神様、私に語ってください-主の御声に聞き従ったある若者の物語」というタイトルで、1994年に新生出版社から塩沢恭子氏訳の日本語版が出ているようです。皆様にも是非お勧めしたい本です。

カニングハム師が来られたまさに同じ週に、コロラド州デンバーのワイワム宣教師訓練学校で二人の学生が射殺されるという事件が起きました。私たちの教会ではカニングハム師のため、ワイワムのためにお祈りをさせていただきました。(この事件の後日談に関しては主人の文をお読みください。)

さて、あと数日でクリスマスです。私たちもハワイに来てから4回目の暖かいクリスマスを迎えようとしております。このマンションに移ってから半年になりますが、マンションの正面玄関は、沢山のクリスマス・ライトで飾られ、私たちの目を楽しませてくれています。皆様も主にあって、祝福に満ちたクリスマス、そしてお正月をお過ごしくださいますように。2007年に与えられたすべての主の恵みに心から感謝しつつ。 (終わり)


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by walkwithgod | 2007-12-22 13:04 | 柚実子からのハワイ便り

感謝の心で不平不満と戦え フランシス・フランジペン 12月21日

感謝の心で不平不満と戦え

フランシス・フランジペン

クリスチャンになったときからずっと私は、次のような質問を人々がするのを聞いてきました。「イエスが『あなたがた12人は、わたしが選んだではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』(ヨハネ6:70)と、イスカリオテのユダのことについて言われた言葉は、一体どういう意味なのだろう。」と。

イエスはどういう意味で言われたのでしょうか? ユダは遺伝子学的に言えば悪魔であって人ではなかったのでしょうか?(イエスは、ユダの中に悪魔がいる、と言ったのではなく、ユダは悪魔だ、と言われました。)悪魔が人間として人々の間で住むことが、実際に可能なのでしょうか? 私は勿論古代ギリシャ語の専門家ではないのですが、この箇所は原語の文字通りの訳で考えるほうが真実が見えてくると思います。ここで「悪魔」と訳されている言葉は、「diabolos」で、新約聖書の他の箇所では、「中傷する者」とか、「悪意のある噂話」と訳されています。(第一テモテ3:11、第二テモテ3:3参照)

イエスが「ユダは悪魔である」と言われたのは、「あなた方のうち一人は『偽りをもって人を非難する者』、『中傷者』、『悪意ある噂話をする者』である」という意味で言われたのです。ユダは自分の否定的な物の見方を自分の内だけに収めていることができなかったのです。

ユダは、イエスをパリサイ人たちに引渡すほんの少し前に、高価な香油が御自分の頭に注がれるのをイエスがそのままにされたのを見て、腹を立てたことを思い出してください。ユダは「なぜ、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と怒って不平を言いました。(ヨハネ12:5)彼の言葉によって、他の使徒たちも同じように否定的な思いを抱いてしまいました。(マタイ26:8)ユダが言わんとしたのは、「誰がこの思慮の無い浪費を許したのか?」と責めているのです。勿論、それを許したのはイエスでした。女はイエスの埋葬の準備のために香油を注いだのです。しかし、ユダの目にはそれは浪費としか映らず、イエスはその高価な香油を受けるべきではなかったのです。この事件は、イスカリオテのユダを立腹させ、イエスを裏切るために大祭司の所に出かけることを正当化し決意させるものとなったのです。(マタイ26:14-15)

神は不平を言うことを問題視される

裏切りはある日突然起こるものではありません。人に対して感じた怒りや失望が、そのまま処理されずに心に溜まっていく時に、それが裏切りをひき起すのです。私たちが抱いた怒りは、祈りを通して全面的に神にお渡ししない限り、私たちの内で必ず腐敗して毒となり、その毒がゴシップを通して他の人たちへ伝達されていきます。その過程において私たちは人を中傷するのですが、そうするのが正当な行為と思えるのです。実際には「悪意のある噂話をする者」となってしまっているのですが、本人は、自分が識別した相手の性格的欠陥を「真理」として人に伝えているに過ぎないと思ってしまっているのです。

ユダによるイエスの裏切りを理解するためには、その源を掘り下げる必要があります。イスカリオテのユダは「不平を言う者」でした。私たちは、感謝すべきことが沢山与えられているのに、それが見えなくなって、ぶつぶつと文句ばかり言う者になってしまい、地獄から吹き込まれる思いによってどんどんと暗闇の世界に入っていってしまいます。

他のクリスチャンに対して怒りや苦々しい思いを抱いていると、ついその人のことを批判的なうわさ話として他のクリスチャンにしてしまい勝ちです。その人に対するあなたの批判をそこら中に撒き散らすことがないように、十分注意してください。もしそんなことをすれば、実際のところ、あなたはキリストの似姿になっていくどころか、むしろユダに似る者となっていってしまうのです。

いたるところにいる不平屋

勿論、不平をいう者は、イエスを裏切ったユダに限りません。イエスの弟子になりたいと思っていた者たちや、ユダヤ人の指導者達も不平に侵されていました。次のことを考えてみてください。当時あちこちでイエスによる奇跡が起こっていました。キリストは5000人に食事を与えられたばかりでした。まさにその時にイエスの弟子たちの多くは、人の欠点のあら捜しを始めたのです。イエスが「お互いにつぶやくのはやめなさい。」(ヨハネ6:43)と警告されたにもかかわらず、人々はやめませんでした。彼らは現にキリストの弟子だったことを考えてください。しかも彼らがつぶやいた相手は罪人ではなく、唯一の罪のないお方にむかってつぶやいたということを。
「イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『このことであなたがたはつまづくのか。』」(ヨハネ6:61)
「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスと共に歩かなかった。」(ヨハネ6:66)


つぶやくとき、人々は奇跡を見ても喜ぶことが出来なくなってしまいます。つぶやくとき、弟子たちはイエスの教えに腹を立てるようになり、イエスと共に歩くのをやめてしまいます。

当時、そうであったように 今でも同じことが起こるのです。つぶやきは、究極的にはあなたがイエスと共に歩むことをやめさせます。それは物事を台無しにするものです。驚いたことには、イエスに欠点を見出したのはイスカリオテのユダやパリサイ人だけではなく、イエスの弟子たちさえ時々ぶつぶつと不平を言いました。彼らの真ん中で天国そのものが現われたときでさえ、彼らは何が間違っているかということばかりに心をとめていたのです。つぶやきの態度をもっているとそうなってしまいます。

この総てに批判的で感謝しないと言う毒は今日の教会の中に満ちています。パウロはそれに対する警告を与えています。「終わりの日には、、、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなり、情けを知らず、和解をせず、中傷し、、、、」(第二テモテ3:1-9参照) これでお分かりですね、「人々は中傷する者となる」つまり悪魔になるのです。彼らはお互いに言葉によって滅ぼし合うようになってしまうのです。

感謝する心

個人的にですが、私はつぶやきに対して宣戦を布告いたしました。感謝のない心は神の御心の敵です。あなたもこの戦いに参加してくれませんか? ぶつぶついう霊を十字架にかけてくださいませんか? 私たちは神からあまりにも沢山のものを受けていますから、感謝しないとか、信じないというような余地は全くないはずなのです。私たちはあまりにも多くのギフトや特権を神から受けているのですから、私たちを最終目的地に着けなくするようなつぶやきを許すことはできないはずです。

感謝の心は、どんな状況の中でも最良のものを見るのです。問題や弱さを見てもそれらは自分を良くする機会として捉え、困難は自分を研ぐ道具であると考えるのです。私の祈りは、私たちすべての者が、イエスがこの世に来て与えてくださった「豊かな命」を持つことです。小さな醜い不平の悪魔を私たちの心から追い出し、神の慈しみを生き生きと感じる心に変えたいのです。

パルロは次のように警告しています。「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。」(第一コリント10:9-10)私たちが不平に心を開けたとたんに、破滅に心を開くことになるのです。

「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(ピリピ4:8)

「それじゃ、悪いことは誰が指摘するのですか?」とおっしゃるかもしれませんね。
心配しなくても、その役には沢山ボランティアがいます。だから、それよりも「イエスがこの世に来て与えてくださった祝福された人生を得るには、どうしたらいいですか?」と聞いたほうがいいでしょう。

「でもこの世には悪が蔓延っています。それを告発して悪と戦わねばなりません。」とおっしゃるかもしれませんね。私もそう思います。私も悪に対して公然と非難することが度々あります。しかし悪魔に勝つためには、それよりもすぐれた人生を生き、人にも示していかねばなりません。神は御自分の民が、生きていくのは大変だとぶつぶついうことを望んではおられません。神は私たちが、慈しみの心を持ち、贖いを感謝し、祈りによって力を得る天国からの使節として生きることを望んでおられます。

私たちがまわりの人たちに対する不平不満ばかりを言っているようならば、気をつけねばなりません。もしそうであるなら、私たちはイエスに従うよりもユダに従っている者となっているのですから。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-12-21 10:50 | アメリカからのメッセージ

「私に心を合わせて私の臨在を待ちなさい。」 チャック・ピアス 2007年10月25日


「私に心を合わせて私の臨在を待ちなさい。」
「今のとき私の臨在なくしてあなたは前進できない。だから私の臨在を待ちなさい。」


チャック・ピアス 

先週の火曜日の祈祷会で、主は御自分の臨在を今までとは違った方法で私たちのグループの中に現わされはじめました。今は新しいことが始まる時ですから、「主の臨在の契約の箱」がどこに向かって動いていくのか、自分はもう知っているなどと勝手に思い込んではいけません。私たちは、主が、次の戦いに向かって私たちをどちらに進軍させるかをよく見定めるために、期待しつつ、見守って主を待たなければなりません。 

火曜日の朝、神は私たちにじっと静かに立って、自分の胸の鼓動が聞こえるほどに心を静めるようにと言われました。あなたも胸の鼓動をじっと注意深く聞いてみてください。そして、あなたの心の願いを主の願いに改めて一致させてくださるように求めてください。天国の静けさを聞くことができるようにしてくださいと、主に願ってください。混沌の世界にいる中で、主のみ翼の影の静けさを聞かせてくださいと頼みなさい。今まであなたが聞いたことがない音を聞かせてくださいと主に頼みなさい。主に「私は聞いております」と告げて、主があなたのまわりに天国を送ってくださるようにしなさい。それによってあなたのまわりの雰囲気、空気が変わるように主に願いなさい。

一日の思いわずらいから抜け出して、天国の心(意思)が聞こえるようにしなさい。しかしそれを自分の力でなそうとしてはいけません。神の心臓の脈動があなたの心臓の中の血液を押し出すようになるまで待つのです。他の人たちが先に進んでいくのを見て、心を騒がせている人がいます。また、将来の事を思いわずらい夜中に目を覚ます人がいます。彼らは、自分の実力を十分に発揮して将来成功するためにはいろいろなことをせねばならないと考え、どうやったらそれを全部できるのだろうかと、悩むのです。

主からの預言の御言葉

その時、主が言われました。「わたしの心は心配などしていません。あなたの心がわたしの心と一つになるのを待ちなさい。わたしの胸の鼓動とリズムを合わせていなさい。さあ、わたしの前に座り、私の胸のうちを聞きなさい。そうすれば、あなたを混乱させ乱しているものを、すべて整え秩序正しくする力があなたに与えられるでしょう。わたしの胸の鼓動が契約の箱を正しい方向に向けます。今の時は、わたしの臨在なしにあなたは進んで行ってはならないのです。ですから、わたしの臨在があなたの所に来るまで待たねばなりません。わたしのためのスペースが必要です。早く歩きすぎると、あなたはつまづくでしょう。契約の箱があなたの前を進むようにしなさい。

わたしの臨在の中で、あなたの足取りは確かなものになります。わたしの臨在の中で、あなたは自分の進む道が見えてきます。わたしの臨在の中で、あなたは敵を見ることができます。ですから、上を見上げるのです。空は晴れてさえぎるものがありません。あなたの行く手には霧がかかり邪魔なものが転がっているでしょうが、空は開けて透視できます。わたしの臨在の中で、あなたは周りの状況をすべて感知することができるのです。いつ右に曲がればいいのか、いつ左に曲がればいいのかが、あなたにはわかります。しかし、あなたが自分で立てた計画に従うと、敵が侵入してタイミングを狂わせ、律法的な組織を作り上げることを許してしまいます。

あなたにとって最良のものは、わたしの心の中にあります。わたしの心臓があなたの中で脈打つようにしなさい。そうすればあなたは最良のものを持つことができます。わたしはあなたの前に出たり、後ろに廻ったりすることが自由にできる神です。わたしをあなたと同じ線上に置きなさい。そうすれば、わたしが前に立って道を開き、又、あなたの間違いを見張ってそれがあなたを追っかけてくるのを後ろで防ぎます。

あなたが次に渡ろうとしている川の中に浅瀬を発見して、そこを性急に渡ろうとしてはいけません。それはあなたの目を欺くものであり、あなたが思ったよりも深いのです。わたしの臨在があなたの先を行くようにしなさい。そうすれば、あなたの前に川底が現れ、それがあなたの行くべき道となるでしょう。川はあなたを押し流そうとしますが、あなたが足を一歩踏み入れる前に、乾いた地が現れるでしょう。わたしの臨在があなたの行く道を前もって整えるようにしなさい。

あなたの行く手には障害物がありますが、わたしはあなたに右、左と方向を変えさせ、衝突を避けさせます。あなたは障害物を無事に過ぎ越し、あなたの人生の目的を満ちさせる道を進むことができるようにします。

あなたの必要なものへの心配が、あなたのタイミングを狂わせ、わたしが用意しているより先にあなたを駆り立ててしまいます。わたしの臨在にとどまりなさい。そうすれば、あなたは自分の前方に必要なものがすべて備えられていることを見ることができるでしょう。

あなた方の多くの者は勝利の解放を求めている。しかし、その道はまだ作られていず、わたしの契約の箱はまだあなたの道には入っていない。わたしの臨在が先ずあなたの道をトランスフォームし、切り開いて必要な手術をし始めるのを(霊の目で)見るまで待ちなさい。それが整ったとき、解放はすばやくもたらされるでしょう。わたしが用意する道は、あなたが自由に進むことのできる道です。あなた自身にたたかわせて進ませるような道ではないのです。 

今わたしの心臓はあなたの心臓と一緒に鼓動する。それは、あなたは新しい出発点をもう越したからです。わたしの契約の箱をあなたの前に行かせなさい! 今は新しい時に入ったのであるから、あなたはわたしと共に歩き始め、わたしと共に止まらねばならない。わたしが来いと言わないのに、来てはならない。わたしがあなたを呼ばないのに勝手にステージにあがってはなりません。何故ならばそこはあなたにとって風が強すぎるからです。そこは風が強すぎて、あなたは吹き飛ばされてしまい、次のステップが見えなくなるでしょう。

わたしより先にあわてて祝ってはならない。よくわたしを見ていて待ちなさい。そうすればあなた自身が祝っていることを見るときが来ます。あなたは勝利を先に見、わたしがあなたのために用意した次の戦いを十分戦うために解放されるでしょう。(終わり)


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by walkwithgod | 2007-12-14 10:07 | アメリカからのメッセージ

ヘンリー・グルーバー師の天国の話  坂 柚実子   12月9日

ヘンリー・グルーバー師の天国の話

以下はヘンリー・グルーバー師が天国へ行ったときの証です。

「1988年に、オレゴン州ポートランドで、私は私のためにとりなしをしてくださる人たちと共に祈り会をしていました。それは私がヨーロッパでの祈りの歩行の旅を終えたときで、その報告と感謝をするために皆さんに集まっていただいたのでした。妻のジュディスが、賛美を導いていました。彼女は、私の留守中に主から与えられた賛美の歌を歌っていたのですが、その時、私は天井から黄金の雲が降りてくるのを見ました。それが主の臨在であることがすぐにわかりました。

私は主を畏れて床にひれ伏そうとしました。 私の膝が床に着いたと思った瞬間、私は自分が黄金の道の上に立っているのを発見しました。黄金の道は透き通っていて、ほんのうっすらと赤みをおびていました。黙示録21:21に「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。自分の足が透明な道の中に沈むのではないかと、思わず一歩足を後ろに引っ込めました。でももう一方の足が沈まないのを見て大丈夫なことがわかり、私はその道を歩きはじめました。

すると、右側からよい香りがするので、見るときれいな花が咲いていました。私は口には出さずただ心の中で、「なんてきれいな花なんだろう。」と思ったとき、花たちは一斉に葉っぱを合わせて手をたたき、「すべての栄光、誉、力が主にあるように。贖われたものに仕えるためにふさわしいものとして私たちを創ってくださったことを主に感謝します。」と歌いはじめたのです。その歌声は目に見える虹色の波となり、山の向うにある主の御座の方へと流れていきました。 向う側に主の御座があることが私には分かりました。その歌にはビートはありませんでしたが、それは天国には時がないからでした。

私がうっとりと聞きほれていますと、同じような歌声が私の前方からも起こりましたのでそちらを見ますと、前を歩いていた白い衣を着た男の人が、黄金の道からそれて、草の上を歩いていきます。一本一本の草の葉は彼の足に踏まれて、また起き上がってくるときにこの歌を歌っていたのです。私はそれまで、彼はもしかしてイエス様かと思っていたのですが、草が「贖われたものに仕えるにふさわしく創られたことを感謝します。」と歌うので、彼が「贖われたもの」、すなわち、クリスチャンであることがわかりました。男の人が歩を進めるたびに歌声はどんどん増えていき、あたり一面に主への賛美の歌が広がり、それは虹色の光の波となって山の向うの御座の方へと流れていきました。

男の人は一本の木に近づきました。その木にはいろんな果物がなっていましたが、彼は一つの果物の下にそっと手をさしのべました。すると木はその手の中にポトリと果物を落として、「すべての栄光、誉、力は主にあるように。贖われたものに仕えるのにふさわしく私たちを創ってくださったことを感謝します。」と葉と葉を合わせて打ち鳴らしながら歌いはじめました。彼はまた黄金の道に戻ってきました。果物を半分食べて、それを捨てました。私ははっとしましたが、食べかけの果物は地面に落ちるや否や蒸発してしまいました。天国には腐敗も死もないからでした。

私はその人に近づいていきました。私の目は彼の衣に吸い寄せられました。その衣は見たことがないほど白く輝き、まるで生きているようでした。そして織られている糸が私に語りかけてくるのです。私が彼の衣の右肩のあたりに注意をむけると、そこにはその人が地上で生活をしていたときに、ある悲しそうな顔をしている人とすれ違い、その人にむかってにっこり微笑んだ、ということが記録されていました。これは後になって黙示録19:8に「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」とあるのを読んで理解ができました。彼の衣には彼が地上で行った正しい行いが織り込まれていたのです。

次に気がついたとき、私はもとの祈り会の部屋にいました。
天国は主への賛美で満ち溢れ、愛で満ちあふれていました。天国を一言で表すと、すべてのものは仕えることを愛し、愛するゆえに仕えていたということです。(love to serve and serve to love) それ以外の動機でなすことは、天国ではまった価値がないことを私は感じました。この経験を通して、私のミニストリーの仕方が変えられました。何が主に喜ばれることであるか、何が永遠の世界で価値があるのかが、分かったからです。」終わり


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by walkwithgod | 2007-12-09 10:37 | 柚実子からのハワイ便り

恵みを受けた者の軍隊 ダニー・ステイン 2007年12月6日

恵みを受けた者の軍隊

ダニー・ステイン


「ダニーさん、『堕落した者の回復』に関する主からのメッセージを心から感謝いたします。私はそれを読んで本当に祝福され、あなたが私のために扉を開いてくれたことを大変うれしく存じます。」――という言葉がいろんな人から私に届きました。
しかし、それはまだ自分の罪を悔い改めないまま、罪に捕えらえられていた人々からだったのです。私はすぐに彼らに「あのメッセージはあなたのためではありませんでした。」と返事をしました。なぜならば、神が罪人を回復するためには、その人が悔い改めをすることが必要だからです。

愛は赦す

何年も前に、私はある貴重な学びをしました。私は「愛は多くの罪をおおう」(第一ペテロ4:8)という聖句を信じ、また実践していました。私の周りには罪を犯し続ける人たちがいましたので、私は「彼らの罪をおおう」必要を感じました。なぜならば「愛はおおう」と私は信じていたからです! 
しかし、私は、愛がおおうのは「告白した罪」だけだということを学んだのです。 神は人を罪から回復させるために、まだ告白されていない罪は、明らかにされたいのです。

私が人々の罪を明らかにせず「おおって」いたことは、彼らに罪を犯し続けさせるという結果を招いていたのです。イエスは姦淫の場で捕えられた女に「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言われました。人々に罪を犯すのをやめなさいというのは、律法的なことではないのです!

もし、人々に真実を語ることを怠るならば、私たちは彼らに道を誤らせてしまいます。十字架のイエスの贖いの力は、人々が自分の罪を認めて赦しを受け取るときにのみ発揮されます。もし、不従順のうちを故意に歩み続けるならば、私たちは主に赦されて歩んでいるという確信を持つことはできません。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためにいけにえは、もはや残されていません。」(ヘブル10:26)

回復は悔い改めを土台としています。そして悔い改めには実があるのです。パリサイ人は自分たちの教義や考えに合うように、真理をたくみに曲げる方法を知っていました。自分たちはいつも正しいと自認していたパリサイ人に対して、バプテスマのヨハネは次のような言葉を投げかけました。彼の言葉は剣のように鋭いものでした。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8) 恵みがあるから聖い生活をしなくてよい、ということはありません。恵みとは、私たちが自分の正しくない行いを告白したときに、キリストが愛の赦しでそれをおおってくださることなのです。

しかし、それと同時に、悔い改めはクリスチャンが互いを責めることによって起こるのでもありません。正義と報復を振りかざすことによって起こるのでもありません。それは裁きを通して起こるものではないのです! 人々を悔い改めに導くのは裁きではなく神の慈愛です

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
(ローマ2:4)

私たちが聖霊を消したり悲しませたりできるのと同じように、神が神の子どもたちを取り扱われるときに、私たちはそれを見てそのなさり方を馬鹿にしてしまうことがあるのです。神は慈愛と忍耐と寛容をもって人々に豊かな恵みを注いでくださるのですが、もし私たちがその場に介入して過酷な主人のように振る舞い、神の恵みの域を超えた裁きを下すならば、私たちは天の父とは全く異なる心を持っていることを暴露することになります。

私は「罪を犯し続けている人」でも回復されると信じているわけでは決してありません。
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対そんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1-2)
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」(第一ヨハネ3:9)

しかし、人にたとえ罪があっても、私たちは神の子として、その人を赦し、彼らが召された務めへと解放せねばなりません。恵みが人の人生を変えます。そして、人々は変わることができるのです。すべてのことは新しくなります! もし私たちがこのことを信じないならば、福音の力を本当には信じてはいず、私たちを贖ってくださった方を本当には理解しないまま、ただ頭に叩き込んだ教義によって生きているだけと言えましょう。

私もこれまで周りからさまざまな攻撃を受けてきた者の一人です。それは私自身に対するものや、あるいは、妻や娘、息子という家族に対するものでした。けれどもつまるところ、イエスの贖いのいけにえは、私を傷つけた人々を主が赦されるに十分であるばかりか、私が彼らを赦すためにも十分であると、主は信じておられるのです。

恵みを受けた者の軍隊

聖書に書かれているのは、神が不完全な人々を恵みによって変えられ、用いられていくという話です! 人々が悔い改めたならば、私たちは彼らを神が与えた当初の召しへと呼び戻さねばなりません。そして、彼らが実を結ぶことによって、恵みによって彼らがどのように変えられたかが証されます。

「人を罰し恥を与えること」と、「懲らしめ矯正すること」とは全く別なことです。一方は死をもたらす律法の文字によって執行されますが、もう一方はいのちを与える聖霊によって執行されます。イエスは、姦淫の場で捕えられた女に対して「律法が要求すること」を「恵み」によって圧倒できることを示し、この真理をよくあらわされました。
「イエスは身を起して、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』 彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(ヨハネ8:10-11)

畑は色づいています。2日ほど前に主が私に、もっと働き人が必要だと言われました。主との会話を通して私は、主がもうじき大変重要な預言的な召集を主の軍隊からの脱走兵にむかってかけようとしておられるのを知りました。退場させられて洞穴に隠れていたような者を主が呼び出されようとしているのがわかりました。ひどい間違いを犯しが者を主が召集されようとしておられるのがわかりました。彼らはパウロが第一テモテ1:15-16で言っているのに負けずとも劣らない人たちです。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」(
1テモテ1:15-16)

ひどい失敗を犯した者もあります。しかし多くの者たちは今までよりもっと主の栄光に輝くものとなるのです。
主の恵みを証しするのは、神が一人の人を救い贖うことができるということです。今までは重い荷物ばかり引きずってきた人生を、実が沢山なる人生に神は変えることができます。最も偉大な方の愛によって最悪なものを克服し、神の驚くべき慈愛をこの世に示すことができるのです。私はその軍隊を探しています! 神もそのような軍隊を探しておられるのです! 砕かれた、しかし恵みによっておおわれた軍隊です!

世界はこの恵みを受けた者の軍隊を待っています。あなたは何をぐずぐず待っているのですか? 休んでいたベンチから立ち上りなさい。主の恵みはすべての恥より大きいのです。主の恵みはあなたのすべての失敗より大きいのです。あなた自身の誉れではなく、主の誉れがあなたの人生を通して現れるために、主の恵みは十分なのです!
私たちは恵みにより救われ、慈愛に圧倒され、愛によって魅了されました!
イエス様、感謝いたします!(終わり)


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by walkwithgod | 2007-12-06 12:24 | アメリカからのメッセージ