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 栄光の宮  フランシス フランジペン 4月24日

 栄光の宮 

フランシス フランジペン

神殿に主の栄光が満ちるときソロモンが神殿を主に献げたときのことを調べると、神が教会に何を求めておられるかを知ることができます。神殿が完成したとき、それは壮大な祝典のうちに主に奉献されました。ソロモンは、牛2万2千頭、羊12万頭をいけにえとして捧げました。 そして、王が祈った直後に、神の栄光が人々の目前に顕れたのでした。それまで400年以上もその様な事はありませんでした。
 「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと数々のいけにえとを焼き尽くした。主の栄光がこの宮に満ちた。」と書かれているとおりです。(第二歴代誌7:1)

建物に過ぎない神殿を捧げたときに、主が目に見える形で御自分の栄光を顕してくださるならば、主の生ける神殿である教会の上に、栄光ある御臨在を顕したいと、主はどれほど願っておられることでしょうか?しかしながら、主の栄光が顕れるには、いくつかの条件が整っていなければなりませんでした。まず第一に、ソロモンの神殿が多くの部分を完全に繋ぎ合わされ金で覆われて100%完成したときに、はじめて主の栄光が顕れたことです。それと同じように、私たちの中に主が完全に顕され、それを見て世の人々がキリストを信じるようになるためには、私たちが「完全に一つになって」共にキリストの神殿として建て上げられることが必要です。

次に必要とされる条件は、ワーシップに関することです。主が顕れてくださったのは、歌い手、ラッパ奏者、祭司たちが声を上げて賛美し礼拝したときでした。 私たちが神をワーシップする者でなければならないことは、強調し過ぎるということは決してありません。 現在でもすでにいくつかの教会の礼拝では、主の御前に立ちのぼるまことの(純粋な)ワーシップの故に、微かではありますが、生きている雲のような輝く主の栄光が顕れ始めています。
しかし、神の栄光が顕されるためには、もう一つ別の領域での準備も整っている必要がありました。この必要条件はリーダーたちに関するものです。 「祭司たちが聖所から出て来たとき、・・列席したすべての祭司が各組の務めの順序にかかわらず身を聖別した。…そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(2歴代誌5:11-14)

祭司たちの組分け(Divisions)は、家系やそれぞれ与えられた任務に従って神によって定められたものでした。それは妬みや争いから生まれた肉的な分裂分派(Division)ではなく、役割り、機能、順序に従った組分けでした。しかし、祭司たちが聖所に入るときは、彼らが「各組の務めの順序にかかわらず身を聖別する」ことを神は命じられました。(11節) 言い換えるならば、神殿を建てて聖所に入るときは、祭司たちはそれぞれの務め(それはある意味で彼らを分けていたものですが)よりも、神の栄光を求めることを優先しなければならなかったということです。そしてそれが彼らを一つにしたのです。 まさにこの時、即ち、彼らが「組に分かれていない」時に、神の栄光は顕れたのです。

今日においても、神は一つの都市に存在する複数の教会に対して、それぞれ異なった働き、恵み、能力を与えておられます。それらは、その都市にある多様な文化的背景の必要を満たすためにすべて必要なのです。そして、教会がそれぞれに異なりユニークであるということは、教会同士が分裂しているのではなく、キリストのからだがそれぞれの働きをもって(一つに)完成されるということなのです。 しかし、もしも神の栄光が教会にもどることを私たちが望むのであれば、各教会に与えられてそれぞれ違う任務よりも、御霊による一致を優先させねばならないのです。
今日、集会、カンファレンス、祈祷会、あるいはコーヒーを飲みながらの一対一の交わり、また、教会の祭壇の前、町全体の伝道集会などという様々な場所で、「組分け(教団教派等の)に関係なく」キリストのもとに帰ってくるクリスチャンが、ますます多くなっています。 実際、ここ数年で何万人もの牧師たちが神に飢え乾き、自らを神のために聖別し服従することを新たに誓っています。彼らは神の栄光を求めているのです。その結果、何が起こったでしょうか? キリストのからだなる教会は「組み合わされて成長し・・・主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたもともに建てられ、霊の働きによって、神の住まいとなるのです。」(エペソ2:21-22)と聖書に書かれている姿へと組み合わされつつあるのです。

「組み合わされて fitted together 」「ともに建てられ built together」ということばに目を留めてください。まことの主の家は、「所属する組に関係なく、ともに組み合わされる」ときに、現われてくるのです。そうなったときに初めて教会は主の神殿、即ち「神の御霊の住まい」として真に姿を現わします。栄光の源「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:22-23)

イエスは、教会組織の新しい形とか、新しい教義やプログラムを与えるために来られるのではありません。主は、「ご自分の聖徒たちによって栄光をうけ、信じたすべての者の驚嘆の的となられる」ために来られるのです!(第二テサロニケ1:10) 「主イエス・キリストの栄光を得させる」ためにこそ、主は私たちを召されたのです!(第二テサロニケ2:14)

私たちが持っている現在の教会の定義をはるかに超えたものを、神が今すでに建てておられるのですから、それをしっかり見ようではありませんか。神は私たちを共に組み合わせて、まさに主の栄光が顕れる「主の聖なる神殿」を建てておられるのです!次の祈りの言葉をよく考えて見てください。 神殿を建てようと主が私たちを召しておられますが、この祈りはその召しに対する私たちの応答です。各々の特徴、召命はそのまま失うことなく、しかし、教団教派にとらわれずに私たちが共に組み合わされて一つのものを建て上げることができるようにと、神は今私たちを召しておられます。あなたも主の神殿を建て上げたいというヴィジョンをお持ちならば、共にお祈り下さい。

主なるイエス様、あなたにお仕えする新しい機会を与えて下さったことを感謝いたします。私の心の中に分派心(Division)や自分本位に行動した面がありましたことを悔い改めます。イエス様、私はあなたの栄光を見たいのです。モーセのようにあなたの聖なる臨在の中に住まいたいです。主よ、私は様々な分身分派(Divisions)とは関係なく、あなたにお仕えするためにこの心を捧げます。あなたの御前に、私の命と私の教会を、私の町に主の神殿を建てるためにお捧げします。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-04-24 08:59 | アメリカからのメッセージ

あなたの嵐はどこからきたのか?  ビル・ジョンソン  4月17日

あなたの嵐はどこからきたのか?

ビル ジョンソン

人生に起こる嵐は、奇跡と同じく、私たちが成長するために計り知れないチャレンジとチャンスを与えてくれます。しかし、あなたが面している嵐の種類によって、それには大きな違いがあるのです。ある種の嵐は、それがサタンから送られてくるにもかかわらず、私たちを鼓舞し、すでに自分が握っている神の真理を使うようにと促します。そういう嵐は必ず奇跡を生み出します。マルコ4:35-41に書かれている嵐はそのようなものです。

『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』(マルコ4:35-41)

しかし、これとは違う種類の嵐もあります。次の有名な聖書の箇所に書かれているように、神は私たちが間違った方向に進んでいることを教えるために、嵐を送られるのです。
ヨナ1:4-6 「そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

ここで私たちは、二種類の嵐とその異なる二つの目的を見ることが出来ます。一つは神によって、もう一方はサタンによって送られました。そして両方とも舟の中で眠っている人が登場します。一人はいやな現実から逃げ出す途中で意気消沈して寝ていました。もう一人は御国に住む人でしたが、御国には嵐はないのでぐっすり眠っていたのです。

一体、あなたが面している嵐はどちらの種類なのでしょうか? あなたはその嵐を神が望まれる方法で取り扱っているでしょうか? 過去にあなたに起った様々な奇跡で信仰が強く育まれ、それによってこの嵐のチャレンジを信仰で受けることができましたか?

弟子たちが遭遇した嵐は、彼らを神の御心から離れさせようという目的でサタンが送りました。ヨナの嵐は、御心に彼をもどすために神によって送られました。ある人たちは、神が右に行けというのに左に行ったため嵐に会いました。神は憐れみをもって彼らを引き戻すために嵐を送られるのです。

また、ある人たちは、神の御心の只中にいるが故に嵐に出会います。主は嵐を好まれるわけではありませんが、あなたがすでに与えられている嵐を静めるための道具を使うように訓練したいと思い、嵐を送られるのです。

私たちは嵐の中に立たされると、すぐさま神に介入していただいて、私たちの苦境を変えてくださいと叫び求めるのが、私たちのなすべきことだと思ってしまいます。しかし、それが嵐の目的ではないのです。もし私たちが神に叫び求めるだけだったならば、奇跡の業に参与する特権を私たちは放棄してしまうことになります。神は嵐を静める道具を私たちに与えないで嵐を起されることは、決してありません。神は私たちがそれらの道具を使って奇跡的な結果をもたらすことを望んでおられるのです。

あなたを去年襲った最大の闘いや危機的状況を考えてみてください。少し考えれば、その問題に対処するために神が与えていてくださった道具が何であったかが分かるはずです。神が私たちの人生に問題が起こるのを許されるのは、私たちがいつも神に泣きついてばかりいないで、問題に打ち勝てるようにしてくださるためです。勝つための道具は舟にちゃんと積まれているのですが、敵が恐れの風を巻き起こし、私たちが道具のある場所を忘れるように仕向けるのです。

私たちの多くは、嵐が来ると眠っているイエスに弟子たちが言ったのと同じ祈りをしてしまいます。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか!」と祈るのです。すると、イエスは起き上がって彼らの祈りに答えられました。神が祈りに答えてくださると、私たちはそれで喜び満足します。弟子たちは置かれた状況の中で当然するべき正しいことをしたのだ、と私たちは誉めさえするかもしれません。しかし、イエスは彼らを見て「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われたのです。

「何ですって!」と弟子たちは思ったかもしれません。「私はあなたのところにきてお願いするほどの信仰を持っていましたよ。そしてあなたは私が願ったことを聞いてくださったではありませんか。私の役目は祈ることで、あなたの役目はそれをしてくださることじゃないんですか!」と。

違うのです。じゃま物に向かって「出て行け!」と命令するのは、私たちの責任なのです。ほとんどのミニストリーがしていることは、神にお願いしてどうにかして地上の問題を解決していただくことです。しかし、本当は私たち自身が嵐に「静まれ!」と命令すべきなのです。私たちは周りの状況を天の御国の視点で見て、主の御ことばを宣言するのです。後はそこに天の支配が来るのを見ていればよいのです。

私はとりなしの働きに対して、絶大な愛と尊敬を抱いておりますし、私の妻は素晴らしいとりなし手です。しかし、多くのとりなし手たちは、うめいたり嘆いたり泣いたりして、絶えず重苦しい気持ちでいることを「とりなし」と呼んでいます。彼らは祈るときに、決して信仰に立つことをしません。私はそれがどういうものか知っています。というのは、私の人生の中でも、とても長い時間、すごく真面目に、すごく勤勉に祈っていたときがあり、もし祈った時間を記録していたならば多分みんな感心するくらい熱心だったことがあるのです。神は私が真心からそうしていたことを御存知だったので、私を罰することは決してありませんでした。しかしながら実のところ、私が祈っていたときに信仰を持って祈ったことはあまりなかったのです。ほとんどの場合、ため息をついて落胆し、重荷を負って苦しんでいたのです。

悲劇的なのは、主からいただく重荷と自分の不信仰ゆえの重荷を、多くのクリスチャンがいまだに区別できていないということです。ある人たちは祈ったあとの気持ちが重ければ重いほど、自分はとりなし手としてより油注がれていると満足するのです。出発点としてそれでよいかもしれませんが、信仰に立つところまで辿りつくように、どうかがんばってください。

そのような弱弱しいとりなしは、嵐に出会ったとき私たちに祈ってほしいとイエスが期待される祈りとは正反対です。もしイエスがあなたの舟の中で眠っておられるなら、それはあなたが泣き叫んで熱心に祈りイエスを起すのを待っておられるからではありません。あなたのための神の御計画があるからです。あなたがすでに与えられている道具を駆使して、天の御国の支配が下りてくる結果をもたらすことを、主は期待し待っておられるのです。

ある教師たちは、神はご自分の主権を示すために介入されるのを最後の最後まで待つのを好まれるのだ、と教えます。それこそ神がすべてをコントロールしていることを表すぴったりの方法であると考えるのです。「神は早くも遅くもなく、ちょうどよい時にことをされる。」とよく言われます。しかし、神はいつもそうされるわけではないのです。神がいつも一番最後に介入されるということは、私たちがすでに与えられていた道具をチャンと最初に使わなかったためであることが多いのです!

もし、あなたが今霊的戦いに直面しているとすれば、それはあなたがそのために訓練されてきたからです。それは、あなたが今までの人生で経験してきたことによって、今の嵐にどのように対処すればよいかを学んだはずなのです。 何か問題が起こったときには、どうするのが正しいかをあなたはすでに知っているべきです。あなたは落胆して何時間も神を求める必要はないはずなのです。「私はこの状況の中に神の奇跡を信じる。バックスライドした子は戻ってくる。病気はイエスの名によって打ち破られた。経済の危機は終わった。」とあなたは信仰をもって宣言する用意が出来ているはずです。

私たちが祈るべき時は、イエスがされたように何もまだ悪いことが起こる前であり、その時あなたは密室で神に叫ぶのです。それによってあなたは力を蓄え、平安と信仰という内的な霊的環境を整え、問題が起こったときはその霊的力をもって対処することが出来るのです。

奇跡を無駄にしないようにしましょう。神が素晴らしいことをされるのを見て、少しばかりパチパチと手を叩いたり、小さく「アーメン」というだけで何も変えられずにそこから立ち去ることはやめましょう。私たちはすべての嵐と戦う備えがあることを認識しましょう。私たちは過去に起こった奇跡によって現在の解決方をすでに訓練されてきたのです。御国のパン種をこころに膨らませて、ヘロデとパリサイ人のパン種と置き換えましょう。啓示と神を経験することによって、これからの人生の送り方を永遠に変革していこうではありませんか。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-04-17 23:08 | アメリカからのメッセージ

預言的ワーシップ(2)  ローレン・サンフォード  4月11日

預言的ワーシップ(2)

ローレン・サンフォード

第一コリント14:24-25 「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」

預言的ワーシップは私たちを祝福すると共に、私たちの心の中に秘められたものを明らかにすべくかき乱すので、そこから逃げたいという思いを起させます。それは罪が示されるからかもしれませんし、また、私たちの中にある聖い願いを明らかにするからという場合もあります。私は1996年にトロントで行われた「キャッチ・ザ・ファイヤー」というカンファレンスに出席しましたが、そこではデイビッド・ルイス師が5000人ほどの人のためにワーシップを導いていました。そのワーシップには預言的なものが多分にあって、神は私の心の中をかき回し、引き抜いたり植えたりされました。

預言には私たちの願いや意図の中にある良いものも、又、悪いものも明らかにする働きがあります。その頃私は自分の教会の状態について大層惨めな気持ちでおりました。私の両親はインナー・ヒーリングに関しての素晴らしい働きの先駆者として有名です。私の教会のメンバーのある人たちは、両親が実際に何を教えているのかはよく理解せずに、教会を巨大なカウンセリング・センターのようにするという期待を私に押し付けてきました。そして両親の教えを誤って適応した結果、メンバーたちは自分の内面ばかりを厳しく見つめる、病んで何もできない人たちの集まりのような教会にしてしまっていたのです。

カンファレンスでのワーシップの時、主の御霊が私のうちに流れこみ、私はこう叫んでいました。「主よ、あなたの民を牧し、あなたに仕えたいと思っていましたが、それが一生同じ人々の手を取り、同じ人々を何度も何度もカウンセリングし、そして彼らが自分にばかり焦点をあてて自分の臍ばかり眺めているだけならば、主よ、私をもう御許に行きたいです。死なせてください。もう十分です。」と。 私は本気でそう思っていました。それに対して主ははっきりと答えてくださいました。「あなたは何がしたいのですか?」と。そして私は本当に初めて「私は預言的伝道者になりたい。私は魂を勝ち取りたい。」という自分の気持ちがはっきりと分かったのです。この啓示を受けて、私は涙を流しながら妻に倒れこみました。彼女は私に何が起こったのか全くわかりませんでした。

続けて主は「それならば、家に帰って教会の人々に『私を両親の油注ぎから開放してください』と告げなければいけません。」と言われました。 そして、私はその通りにしたのです。教会の人たちは自分たちの態度と焦点を抜本的に変え、それによって数ヶ月後にみんながトランフォームされるリバイバルが起こりました。未だにそれは続いています。預言的ワーシップは、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えさせるのです。端的にいえば、あなたをかく乱するのです。私の人生を変革するあの出来事が起こってから2年あまりの間に、私は全く別人になりました。そして私はそれを喜んでいます!

預言的かき乱しが始まったとき、たとえ心の中の泥が沢山かき混ぜられるように感じても、そこから逃げたり、心を霊的、感情的に閉ざしてしまいたいという誘惑に負けてはいけません。池というものは、掃除を始めるまでは本当に澄んでいるように見えるものです。でも掃除を始めると、コンクリートの底にたまっていた泥が水を濁し、随分汚れていたことが分かります。その泥を見て混乱してはいけません。私たちの中に隠されていたものや汚れた根が引き抜かれるときに泥が出るのです。それは神があなたの池を掃除されていると言う意味なのです。そうなったら最後までその過程をやり通してください。十字架のもとに行き、イエスに近づくのです。あなたの中の解決されていない罪をかき立てる力が働いていたのです。その力はあなたをその罪から解放するためにも働いてくださるのです。あなたの罪がかき立てられたのはそのためであり、あなたを自由にするのが目的だったのです。罪の根を引っこ抜くことができる力は、又、植えることもできます。それが預言の働きでありプロセスなのです。

1998年に、神は私の中に新しいレベルのワーシップに対する解放(自由さ)を与えてくださいました。自由に踊ること。自由に表現すること。主の歌を歌うこと。これらは私に対する預言のことばの結果として起きたことではありませんでした。自分でそうしようと思って起こったことでもありません。それはその年に私たちの上に注がれ始めたある種の預言的ワーシップの結果生まれてきたのです。それは私の中に新しい何かを植えました。それは私の中で眠っていたか、あるいは存在しなかったものを建て上げました。預言的ワーシップには他にはない特別の次元があります。その油注ぎのもとにいて変えられないでいるというのは不可能なのです。

預言的ワーシップとは

使徒パウロはエペソ5:18-19でこれに関して次のように語っています。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」

預言的ワーシップにおいては、それに気がついていないかもしれませんが、 主に向かって語ると共にお互いに対しても語り合うのです。これは、ワーシップ・チームが舞台の上でただパーフォーマンスをしているようなワーシップでは絶対いけないという理由の一つです。ある人たちは「でも、私はただ聞くのが好きなんです」と言って異議を唱えるかもしれません。いいでしょう。しかし、会衆ワーシップというものは、誰かが楽しむためのものでは決してありません。私たちが一緒に歌うときは、互いに語り合い、互いに励まし合い、高め合うのです。あなたの隣の人が歌うのを聞き、隣の人はあなたの歌うのを聞き、そしてみんなの声が一緒になって神の御前に立ち上っていくときに、私たちは歌の中で互いに語り合い、共に主の臨在や、時には主の御ことばをお互いに分かち合うのです。会衆全体のワーシップは預言的な要素(次元)を含むことができますし、また、含むべきなのです。

エペソ5:18-19には、3つの歌の種類が述べられています。最初は詩で、これは、聖書の御ことばをみんながよく知っているメロディーで一緒に歌うものです。2つ目は賛美歌です。「何百年も前の古い歌で、多くの現代人を退屈にさせ、その上とても高いピッチで歌われるのでソプラノの人しか歌えないような歌」という賛美歌のイメージをあなたの頭の中から追い出してください。 賛美歌はそれ以上のものです。古いものも新しいものもありますが、賛美歌とはある人の心の中に生まれた詩やメロディーで、教会が一緒に歌うことを学んできたものです。クラシックな賛美歌も預言的ワーシップの中で使うことができますし、今でも私たちに霊の息吹を与えることができます。しかし、私たちのニューソング教会では、おもに新しい賛美歌集にある現代の歌を歌っています。それが、私たちが福音を伝えようとしている人たちに最も適切に語りかけるものだと信じるからです。

主が教会に預言の油注ぎを注いで望まれるときは、私たちが詩や賛歌を歌うときも預言の力は私たちを貫くことができます。ワーシップ・リーダーが主の御霊の指示に従い、詩や賛歌をこのように歌いなさいという御霊の導きのもと、会衆をもっと主の臨在に深く導き、高揚させ、又静まった所に誘うことができます。主が人々の心から情熱を引き出し今までとは違う高いレベルまで高揚されることもあります。ポイントは、今まで数え切れないほど何回も歌ってきた古い歌が、新しい油注ぎを受けて私たちの心を新たに貫き、今まで感じたことがないことを感じさせるのです。その場の空気は神の臨在で満ち、神が主権をもって一人一人を啓示によって取り扱いはじめられるのです。神は私たちを変え、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えるのです。預言的ワーシップは私たちを変えますし、もし私たちが逃げないでそれを許すならば、少なくとも私たちが変わるようにと私たちの霊に働きかけます。

第三番目は霊の歌ですが、これは人間の心からではなく神の御霊から来るものです。(それがある人間の心を通して表されることもあり、その場合はその人の心の色を反映することはあります。) 霊の歌は、私たちが歌ったことがある歌とか、みんなが知っている歌ではありません。神ご自身が私たちのワーシップの流れにより、そのときに霊の歌を誰かに歌わせるのです。それは神御自身が何かを語りたいと思われたり、あるいは、私たちのうちに何か事を成し遂げられたいと思われるからです。それは神ご自身の歌であり、主の歌なのです。

それはある目的をもって発せられるものですから、預言的なのです。その中で、神は何かリアルなことを成し遂げられるのです。ある時には、その言葉は神が会衆の中でその時にしておられることを宣言します。癒しとか招き、また人の霊の中で働く悪の力を打ち破ることなどです。またある時は、空中にいる悪の力に向けられた神の勝利を宣言する預言かもしれません。神を妨害し、私たちをくじくものを叱責する言葉かもしれません。あるいは、もっと神の臨在深くに私たちを引き寄せてくださる招きの言葉かもしれませんし、悔い改めを促す言葉かもしれません。預言的な歌は、度々私たちの生活のある領域に祝福を与えてくれますし、時には、罪やある状況に直接対決することもあります。

霊の歌は、個人的な感情や必要を延々と述べるものであってはなりません。そのようなものは自分の家でしてください。教会でのワーシップは神の民に関するものでなければなりません。

私はワーシップを導いているときに、主の歌が起こってくるのを感じるならば、少しばかりそれに耳を傾ける時を持ちます。その感覚は、まだ実際には聞こえないけれど感じることが出来る歌を心の中で「聞く」という感じです。それはまた、私の内から、私ではないものが湧き上がってくるのを感じるというような形でやってきます。その時にそれが聖霊であることが私にはわかるのです。

多くの場合、私はそれまで歌っていた歌のコードにしたがって楽器奏者たちにそのまま続けさせます。私が主を待っているときにみんなの気が散らないようにです。私は聖霊に聞きながら、しばらく異言で歌ったりします。イエスの御霊が何を言っておられか、という感覚をつかみ、これから始まるメロディーの少なくとも一端が分かるまでじっと聞いて主を待ちます。また霊の歌の始まりの言葉もはっきりといただくまで待ちます。「主よ、私が感じているものの内容は何ですか?」とお聞きするのです。少なくとも最初にいうことが分かったときに、私は口を開いて歌い始めます。その後は流れるように出てきます。

しばしば、私ではなくワーシップ・チームの中の一人に預言的な歌が与えられているのを感じることがあります。その場合、私は誰かが歌い出すまで待っていたり、誰なのがかわかるときはその人に声をかけます。これは、チームのメンバーがお互いによく知り合っているときにうまくいきます。チームに不和とかつぶやきがあると、このような預言の流れはすぐに止められてしまいます。

このような過程で霊の歌が与えられると、ある場合には会衆がじっと聞けるように一人がソロで歌います。又ある時は、会衆もチームと一緒に歌うようにと招かれます。会衆も一緒に歌うと、その歌の持つメッセージの力がみんなの内に盛り上がり、主の御ことばが植えられ確立されていきます。言葉の節は会衆がついていけるように短く簡単に覚えられるものでなければなりません。みんなでそれを何度も繰り返すと、その歌は私たちの心の中に根を張り、その真理が私たちのうちにリアルになり、みんなが神の力を知るようになるのです。

黙示録15:3に、同じようなことが書かれています。この節には2種類の歌について書かれています。「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌っていた」とあります。

一つは人間であるモーセから来ましたが、もう一つは小羊なるイエスからです。預言的ワーシップは天からのものと地からのものの両方を含んでいます。言い換えれば、この節は、人間の心から生まれた歌と共に、イエスから直接来た歌のことも表しているのです。つまり、詩、賛歌、霊の歌を表しています。

申命記31:19 「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。」

これよりも預言的なことがあるでしょうか? 神が歌を送ってくださり、主のしもべモーセに民に教えるように命じ、この歌によって彼らの罪を示し、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、植えるようにせよ、といわれたのです。

詩篇40:3 「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」

神の預言的な歌は事を成し遂げられます。主ご自身が詩人の口に歌を与えられ、それは預言の力と共に出て行き、人々を主のもとに引き寄せ、彼らが神に信頼し敬うようにさせたのです。詩人はこの歌を多くの人が聞いたり見たりできるように、公衆の前で歌ったことに目を留めてください。外部の人々も神の民による預言的ワーシップに触れる必要があるのです。聖書によれば、預言的ワーシップは預言的かつ伝道的な力強い働きをすることができるのです。

詩篇32:7 (あなたは)救いの歓声(songs)で私を取り囲まれます。

この箇所で言っていることは、私が私の心から出てくる個人的な歌で自分自身を取り囲むのではありません。ここでいう歌とは神の心から出る預言的な歌のことを言っているのです。主よ、あなたが私を取り囲まれます、と言っているのです。そしてその歌は預言的である故に預言的力を持ち、救いをもたらすことが出来ます。その歌はリアルな何かを成し遂げるのです。それは敵を引き抜き、私やあなたを植えつけてくれるのです。

預言的な音楽は、以上述べたようなダイナミックなすべての働きにより、クリスチャンを助けるばかりでなく、未信者のたましいをも勝ち取ることが出来るのです。ボブ・ディランが彼の預言的といわれる歌で世界の若者に影響を与えることが出来るとすれば、聖霊の力を持ってすれば、どれほどの力を与えることが出来るでしょうか。教会に来ていない人たちに理解できないキリスト教の専門用語や表現で満ちた歌ではそんなことは絶対出来ないでしょう。もしもう一度世界に手を差し伸べたいと思うならば、私たちはもう一度人間になることを学ばねばなりません。そしてこの世の人々が理解できる歌詞で、共感できる情熱をもって歌わねばなりません。

端的にいえば、クリスチャン・ミュージックはスタイルでも霊的意味においても大きくシフト(変革)する必要があるということです。 シフトなしには、私たちがしているのは聖歌隊に説教するだけのようなものです。教会全体が喜んで歌える歌を作曲し歌い方をも教えてくれるミュージシャンが召し出されるように私たちは祈る必要があります。少し変わったものとか、創造的、革新的ものをたくみに締め出してしまう今のクリスチャン業界の閉鎖的なシステムが解放されるように祈らねばなりません。これは私たちがしていかねばならないことですし、神が望まれることだと私は信じます。ですから神は必ずそれを達成させてくださいます。

最後に申し上げますが、主は誰にでも、どんなときでも、どこででも、一人一人個人的に、私たち自身の預言的ワーシップを下さると信じます。もし私たちが急がないで、時間をかけてそれにじっと耳を傾けるならば、きっとその力が発揮されるのを私たちは見ることが出来るでしょう。そして、多くの壊れたものが修復され、大いなる勝利が主のために勝ち取られていくでしょう。未信者が主を畏れうやまうようにと招かれるでしょう。それが私たちの戦略なのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-04-11 03:35 | アメリカからのメッセージ

何十万人のイスラム教徒がクリスチャンに改宗している ジョエル・C・ローゼンバーグ 4月6日

イスラム圏に今起っていること

 ジョエル・C・ローゼンバーグ 2008年イースター更新

(2008年3月24日ワシントンDC)-「私は教会を建てます、そして地獄の門もその教会には打ち勝つことはできないでしょう」とイエスは言われました。(マタイ16:18)

この週末の時事問題に詳しい「ドラッジ・レポート」のトップ記事は、イスラム教からカトリックに改宗した著名なエジプト人の作家に、教皇が洗礼を授けたことでした。 そしてこの記事には、トップ扱いになる理由が充分あったのです。 これはイタリアやイスラムの世界ではとてつもなく大きな話題、特にオサマ・ビン・ラディンが、教皇はイスラムに十字軍を仕掛けていると非難した、その週にこの記事が出て来たのです。 然しながら、この特別な洗礼は、氷山の一角に過ぎません。


2001年9月11日以降、報道機関がアフガニスタン、イラクそして中東について先例のない程多く報道していますが、本流のメディアではほとんど語られていない、大きな話題がひとつあります。 何十万人ものイスラム教徒が福音的キリスト教に改宗しており、広範囲に及ぶ迫害や、まさに現実味を帯びた死の脅威の渦中にありながら、今年彼らは初めてのイースターを祝うのです。

私はアメリカ合衆国と中東で、36名余のアラビア人とイラン人の牧師と福音教会の指導者にインタビューをした後、2005年にこの話題を 初めてリポートし始めました。 然しながら、この3年間私はイラク、ヨルダン、エジプト、ヨルダン川西岸地区、トルコそしてモロッコを旅する機会に恵まれました。 加えて、私は200人を越えるアラブ人、イラン人、クルド人、スーダン人そしてその他牧師やキリスト教の指導者達に会い、インタビューをする光栄にも与りました。 更に多くの資料を入手することで、その傾向がより鮮明になりつつあり、この話題はさらに私達を興奮させております。

聖書の神は中東で、未曾有の数の男性、女性、そして子供を神の心に引き寄せ、神の家族にその人達を受け入れるために、力強く働かれているのです。 より多くのイスラム教徒がこの30年間に-- 特にこの7〜10年間に-- 人間の歴史に於いて他のどの時代よりも多く、イエス・キリストを信じるようになりました。 昔からのカトリック教会、コプト教会そしてカルディア教会の間でリバイバルが起きています。 今日キリスト教会は、それが生まれたところで、まさに復活しているのです。

最近明らかになった事実について考えてください:

アフガニスタン-- 例えばアフガニスタンでは、アルカイーダがアメリカ合衆国を攻撃する以前には、福音派のクリスチャンはたったの17人しかいませんでした。 今日、1万人を優に越えるアフガニスタン人がキリストの信奉者となっており、その数は堅実に増えています。 教会の指導者によれば、アフガニスタンのイスラム教徒は、今までにはなかったほど心を開いて、福音のメッセージを率直に聞いていると言っています。現に毎週数10人もの人が受洗しています。 聖書やその他のキリスト教関係の本が刊行されたり、アフガニスタンに持ち込まれるや否や、人々はそれらをひったくるように手に入れています。 ルカによる福音書に基づいて、キリストの生涯を2時間のドキュメンタリードラマにしたジーザス・フィルムが、ある都市ではテレビにまで放映されましたが、その直後に放映したテレビ局全体が警察に閉鎖されました。 「神はアフガニスタンでとても敏速に動かれるので、私達はただ遅れないように努力するだけなのです」と、あるアフガニスタン人のクリスチャンの労働者が、匿名を条件に話してくれました。 「指導者を養成することが、今いちばん必要とされています。 私達はこれらの新しい信者全員を世話するためには牧師を訓練する必要があります。」

ウズベキスタン-- ウズベキスタンでは、1990年にはキリスト教に改宗したイスラム教徒はいませんでした。 でも今は3万を越える人が改宗しています。

イラク-- 私がイースターの朝に「フォックス&フレンズ」というテレビ番組で話したように、イラクでは、サダム・フセインが全権を掌握した1979年には、キリスト教に改宗するイスラム教徒は、ほんの一握りでした。 然しながら、元々イスラム教であった7万を越えるイラク人が、今日イエスを信じています、そして1990ー91年の第一次湾岸戦争の後、ヨルダンに亡命した約5万人がキリスト教に改宗し、そして別に2万人がサダム・フセインが陥落してからキリスト教に改宗しました。 ジョシュア基金の幹部役員であるジョン・モーザーと私は、イラクの5つの州への9日間の旅から戻ったばかりですが、 私達は福音教会の指導者である19人のイラクの人達にお会いしました。 私はバグダッドからの100人を越える、元々イスラム教徒でイエスを信じるようになった人達の教会で、伝道する光栄に与りました。 そしてその教会は、バグダッドが解放される以前の2002年には存在だにしなかったのです。 そしてまた私達は、キリストに帰依し、今では牧師で教会を新しく作っている、たくさんの元イスラム教聖戦テロリストに会って、インタビューをする光栄に与りました。

カザキスタン-- カザキスタンでは、1991年にソ連が崩壊する以前には、福音派のキリスト教信者は、たったの3人しか知られていませんでした。 今日では1万5千人を越えるカザフ族のクリスチャンがいます。 そして、すべての民族を合わせると、10万人を越えるクリスチャンがいます。

エジプト-- エジプトの教会の指導者によれば、過去10年余の間に100万人を越えるエジプト人がキリストを信じるようになりました。 エジプト聖書協会の人たちが言うには、1990年代初頭には年間およそ3000本のジーザス・フィルムを販売していたものが、2005年には60万本を販売し、加えて(アラビア語の)テープに収められた聖書のコピーを75万本とアラビア語の新約聖書をおよそ50万部販売したそうです。 「エジプト人は神の御言葉に益々渇望しています」と、エジプトのクリスチャンの指導者は私に言いました。 昨年のクリスマスに、私は中東で最大のキリスト教の集まりを訪れる光栄に与りました。 そしてそれはカイロ郊外のとてつもなく大きい洞窟で行なわれました。 1万人余の信者が毎週末にそこで礼拝をしています。 2005年5月に開催された祈祷の会議には、2万人余の信者が集まりました。

イラン-- アヤトーラ・ホメイニがイスラム革命を指揮した1979年には、イスラム教徒でキリスト教に改宗したのは、たったの500人程度しか知られていませんでした。 今日、イランの牧師や教会の指導者24人にインタビューしたことで、百万人を優に越えるイスラム教シーア派の信者が、キリスト教に改宗したことが明かになっています。

スーダン-- 酷い内戦、大量虐殺そして広範囲に及ぶ宗教迫害にも拘わらず、特にダルフール地区では-- あるいはこのような惨事あったからこそ-- 教会の指導者は、2001年からだけでも百万人を越えるスーダン人がイエス・キリストに従うことを決心したと教えてくれます。 1990年初頭から、5百万人を越えるスーダン人がイエス様の信奉者になりました。 とても必要とされている新しい牧師を教育するために、神学校の授業が山にある洞窟で行なわれています。 何百もの教会が建てられ、何千もの小さな聖書勉強会が、国中で人目に付かないように隠れて行なわれています。

2001年12月に、サウジアラビア人の指導的立場にある聖職者で、族長アーマド・アル・カタアニはアルジャジーラ衛生テレビのインタビューに生出演しましたが、果たして彼は、驚くべき数でイスラム教徒がイエスに改宗しているとはっきり言いました。 「1時間毎に667人のイスラム教徒がキリスト教に改宗している。 毎日1万6千人のイスラム教徒がキリスト教に改宗している。 毎年6百万人のイスラム教徒がキリスト教に改宗している。」とアル・カタアニ師は警告しました。 インタビュアーは大いに驚いて、彼を遮りました。 「ちょっと待ってください! はっきりさせてください。 6百万もの人がイスラム教からキリスト教に改宗しているのですか?」 アル・カタアニ師は自分の所説を繰り返しました。 「毎年」とその牧師は確認してから、さらに「悲劇は起きたのです」と付言したのです。

最も劇的に進展したことのひとつは、中東においてくまなく、そしてアメリカ合衆国に於いてさえも、多くのイスラム教徒がイエスの夢や幻を見ていることです。 彼らは教会にやってきて、「もう既に改宗したので聖書とイエス様にどのように従うか、その導きが必要です」と説明します。 これは聖書の預言が実現されたのです。 ヘブル人の預言者ヨエルは私達に「最後の日々には、私はすべての人に私の霊を注ぎます。 あなたの息子や娘は預言をし、老人は夢を見て、若者は幻を見ます。 奴隷となっている男女にも、最後の日々には霊を注ぎます…そして主の御名を呼ぶものは、皆救われます」(ヨエル書2:28ー32)

拙著「震源地:中東で今起っている政治変動が何故あなたの将来を変えるのか」で、私はこの劇的な傾向と、何故イスラム教徒が今記録的な数で改宗しているのかについて一章全部を充てて説明しました。 私は今、「革命の内幕」というタイトルの、ノンフィクションの本とドキュメンタリー映画を2009年のイースターの頃に公開する予定で、作業に取りかかっています。 この本や映画では、この主題についてかなり詳細に記すつもりです。 そこでは、現代の新しい使徒パウロになった元イスラム教のテロリストたち-- 彼らは狂信的殺人鬼であったのが、イエス・キリストの幻を見て、今は牧師となり、福音伝道者であり、教会を建てる人であり、力強いキリスト教の指導者に変えられた人々を、一人称の物語形式で説明しております。 この主題に関して私がとても推奨する本としては、ブラザーアンドリューとアル・ジャンセンの共著である「ライト・フォース:中東の十字砲火を浴びた教会の感動的な話」と「隠れた信者:イスラム教徒がキリストを信じる時何が起きるか」があります。


これらの改宗したイスラム教徒にとって、人生は安楽なものでしょうか? とんでもありません。 彼らは自分の家族から爪弾きにされるのです。 彼らは地域社会からの迫害に会います。 彼らは雇い主から解雇されます。 彼らは政府により投獄の目に会います。 彼らはイスラム教過激派の手によって拷問されたり殺害されたりもします。 然しながら、彼らはどんな方法にせよキリストのもとに来るのです。 彼らはイエスが、実際に「道」であり、「真理」であり、そして「生命」であることに確信を持つようになり、そして十字架上でのイエスの死と、死からの力強い復活を信じること以外には、誰も天国で父なる神のもとに行くことはないと、確信を持ちつつあるのです。(終わり)



著者紹介
ジョエル・C・ローゼンバーグ
「最後の聖戦」などでニューヨーク・タイムズのベストセラー作家となる。 イスラエルや中東の戦争やテロの犠牲者を人道的立場から救済するための非営利団体、ジョシュア基金の創設者。 祖父母は20世紀始めにユダヤ人迫害を逃れて米国に亡命。 シラキュース大学を卒業し、テル・アヴィヴ大学に留学した。
 コミュニケーションの専門家として、元イスラエル首相ベンジャミン・ナタニアフなどとの仕事を経験した。福音的教会であるワシントンDC近くのマクリーン聖書教会に所属。 

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by walkwithgod | 2008-04-06 08:38 | 世界のニュース

ココ・クレーターの植物園   坂 柚実子   4月6日

ココ・クレーターの植物園

先回の御紹介した山はココ・クレーター(噴火口)という名ですが、うちの方角から見ると、ただの小山に見えるので、ずっと不思議に思っていました。そしてある時、山の反対側に行って見ますと、そこは大きな火口になっていたのでした。勿論、ハワイ諸島で活動している噴火口は、今はハワイ島(ハワイ諸島と間違えやすいからか、ビッグ・アイランドとみんな呼びます。ハワイ諸島の中で一番大きい島です)に移っているので、ココ・クレーターはもう噴火はしないでしょう。

平たい火口の中に植物園があって、60エーカーの広い敷地にいろんな植物が植えられています。今はまだ建設中(ここ数年、もしくは十数年建設中なのかもしれません。ハワイでは万事がゆっくりしたペースで進むらしいのです)キチンと整備されているという感じではありませんが、かえってとてものんびり感があり、主人と二人で時々散歩に行きます。入ったところにはプルメリヤの森があり、今ごろから盛んに花を咲かせます。プルメリヤの花はレイに使えるのですが、入り口にはちゃんと「花を摘まないでください。」と書かれています。入場は無料ですが、入り口に一人おじさんがいつも座っています。

プルメリヤの森を過ぎると、アメリカ、アフリカ、南米などの立て札が立っていて、それらしい植物が植えられています。主人が張り切って写真を撮ったので見てくださいね。(終わり)

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by walkwithgod | 2008-04-06 07:47 | 柚実子からのハワイ便り

預言的ワーシップ(1.)   ローレン・サンフォード   4月4日

預言的ワーシップ(1.)

ローレン・サンフォード

ワーシップはただ歌を歌えばいいというものでは決してありません。ワーシップとは、神と人間との間で行われる大きな取引とも言うべきもので、愛し合う両者の間で情熱的に愛と力を受け取ったり渡したりする(ギブ&テイクする)素晴らしい交歓です。今日のキリストのからだである教会の多くが、ワーシップをただ説教を聞くためのウォーム・アップに過ぎないかのように取り扱っているのはなんという悲劇でしょうか! 多くの教会が、全体の礼拝を一時間以内におさめたいので、長い説教の前に2つくらい歌を歌うだけでワーシップをしたことにしてしまっています。なんと勿体ないことでしょうか!

本来、ワーシップとは神の御前で個人的に主と交わるものであり、それだけで十分完全なものであり、そこにずっととどまり続け、味わいひたるものなのです。私は自分の説教の価値を低いとみなしたり、それをおろそかにすることは決してありませんが、実際に教会の中でワーシップがしめる位置は、少なくとも御ことばの説教と同じだけの重要さがあると信じます。事実、ワーシップは説教と同じほど考え方や思想を伝える力を持っているのです。

ワーシップには少なくとも二つのレベルがあります。一つのレベルは、神との親密な交わりの時であり、自分を捧げ主を崇めるものです。もう一つのワーシップのレベルは、力強い預言的なもので、人々の人生を変える力を持っているものです。実際のところ、私たちが今生きている時代は預言的な要素のあるワーシップを求めていると思います。本当の預言的ワーシップが教会に起こり、周りの社会にも強い影響を及ぼすスタイルで力あるワーシップがなされなければ、今のままでは社会を変革していくリバイバルは起こらないのではないかと思います。

第一歴代誌25:1「ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。…」

 ダビデと軍隊の将軍たちは、預言的ワーシップをさせるために、その能力のある人々を選び任務につかせました。 祭司ではなく、ダビデと軍隊の将軍たちが音楽に合わせて預言をする音楽家を任命したのです。軍隊の将軍たちが、何故ワーシップのための組織つくりに関与するのか、いぶかしく思われるのではないでしょうか。しかし彼らの考えていたワーシップは普通のものとは全く違いました。それは預言的ワーシップだったのです。
将軍たちがワーシップのために音楽家たちを任命したのは、明らかにそれを軍の戦略的行動として捕らえていたからです。それは戦争に勝利するためには不可欠なものでした。彼らは、肉の目で見える戦いと、霊的領域での目に見えない戦いとは実に同一の戦いであり、一つの戦いの両面であると考えていました。目に見える戦い、戦闘、攻撃は、単に霊的領域での真の戦いの反映に過ぎないと、彼らは信じていたに違いないのです。

もしこれが本当ならば、私たちも目に見える世界で戦いに勝つためには、まず霊の戦いを絶対にしなければならないことを理解する必要があります。戦いがどこでなされようとも、また、それが何のための戦いであろうとも、これが真理であるはずです。目に見える世界で何かを達成しようと思うならば、まず、それは霊の領域で祈りによって達成されねばならないのです。ダビデは敵を克服するためには、まず、霊的に敵を打ち負かす必要があることを知っており、そのために預言的ワーシップをする者たちを任命したのです。

もしあなたが主の用意してくださった新しい仕事を見つけたいならば、どうぞ探してください。しかし、それはすでに達成されたと霊で感じるまでワーシップをし、祈り通してからでなければなりません。主があなたに与えてくださる結婚相手をどうぞ見つけに出かけてください。しかし、実際に探し始めるのは、ワーシップと祈りによって霊で事を成し遂げ、あなたの行く道に邪魔物がなくなってからでなければなりません。神がすでに何かを成し遂げてくださったという平安をまず見つけて、それから神がしてくださったことを自分のものとするために出かけて行きなさい。

あなたは不正な雇い主と談判をする必要があるかもしれません。しかし、まず、霊的に何かがすでに達成されたとか、何かが動き始めたと感じて平安を得るまではワーシップし祈り通してください。あなたは神の御前で正しい安息の場所に行き着くでしょう。その安息と勝利の場所に行き着くことは、預言的ワーシップの一つの働きであり、 物事を霊の世界でリアルなものとし、目に見える世界でそれが実現するようにするのです。

ある人たちは毎日つらい環境で仕事をしています。そこではあまりやさしくない人やあまり正直でない人が権威のある地位についています。また、ある人たちは、結婚生活に問題があり葛藤しています。また、ある人たちは子供たちを非行から守るために毎日戦っています。また、ある人たちは、神が自分の町にリバイバルを起し教会の目を覚まし、人々を救ってくださるようにと願っています。

これらの状況はすべて戦いを意味しています。祈りは戦いに勝利するための一つの武器です。信仰に固く立つこと(エペソ6章)も大事なことの一つです。悪霊を叱責することは多分最も小さな仕事でしょう。しかし、今までで分かった(またこれからもそうだと思いますが)霊的戦いの最も効果的な形は預言的ワーシップなのです。私たちがまことのワーシップの中で主の栄光を称え、主が私たちを御臨在に引き寄せてくださるとき、誰も想像も出来ないほどの計り知れない力が流れ出します。そして、その中には敵は宿ることができません。 いかなる状況の中においても、又、どのような問題に面したとしても、主の民がそのとき主を礼拝し崇めることを心に定めるならば、それは戦いが実際に始まる前に敵の陣地に巡航ミサイルを撃ち込んで敵の力を砕くようなものです。それ故にダビデの軍隊は霊的な戦いに勝つためにワーシップをする礼拝者を任命し、勝利を得たのです。これはまさに戦略的な作戦でした。

私たちの人生に問題が起こり戦いが始まったときに、「教会に出かけてワーシップをするのをやめて家にいよう」と、私たちがまず衝動的に思うのは、考えてみれば当然ではありませんか?しかしそれは敵がささやく声なのです。人々と一緒にワーシップをすることから遠ざかるのは、まんまと敵の手に落ちるということです。なせならば、あなたが敵の声に従ってワーシップをしなくなったとき、敵はすでにあなたに勝利しているからです。

それだけではありません。ダビデと将軍が任命したワーシップは、ただ主を称えることよりも大きな役目がありました。それは預言的なワーシップをすることであり、戦略的なものでした。彼らは音楽に合わせて預言をしたのです。預言的ワーシップは違う領域のなかで、特有な力を持って働くものです。預言的ワーシップでは、私たちは直接的な生き生きとした今の瞬間に語られる主の御ことばを感じ取るのです。御ことばが出て行くとき必ずことを成し遂げます。(イザヤ55:11) 現在の教会のワーシップに預言的なものが欠けることは、今日リバイバルが起こらず、世界が変えられることもない理由の一つだと私は思います。

預言的ワーシップを理解するためには、まず預言そのものの基本的な働きを理解する必要があります。まず第一に、預言は主に「予言」であると定義する先入観をすべて捨ててください。預言は予知、予想よりずっと深いものです。実際多くの場合、預言のミニストリーというのは全く予言的ではありません。ギリシャ語の語源はprophemiですが、これは単に「語る」という意味です。ですから預言は本来神からの直接の御ことばと導きを表すものです。

またもう一つは、現在の預言のミニストリーと呼ばれるものを見て、その中心的な働きは心のうちに隠されている秘密を読み取ることであると、私たちは考えてしまいます。しかし人の心の中で起きている事を読み取るのは、確かにそういう働きをする預言者はいますが、聖書に書かれている預言の働きの中で主要なことではありません。どうか誤解しないでください。確かにそれは預言の正当な働きの一つです。第一コリント14章に心のうちを顕わにするという預言の役目ははっきり書かれています。しかし、預言の働きの中で、予言的なことや人の思いや過去に起こったことを読み取ることは(確かに今の教会ではこの二つを中心にしてはいますが)預言のミニストリーの一番主要な焦点ではないのです。

エレミヤ記1:10には、預言者エレミヤの召しと任命が定義されています。そのなかで、預言的言葉が持つ主な働きと効果が書かれています。それはどのような様式、どのような形であってもすべての預言に当てはまるものです。 教えのミニストリーは私たちを強めるでしょう。説教は私たちを鼓舞するでしょう。しかし、まことの鋭さをもった預言的言葉はそれをもっと超えたものなのです。

「見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」 (エレミヤ1:10)

第一列王記18章では、エリヤが山上で450人のバールの預言者に対抗して、いけにえと共にワーシップ、即ち預言的ワーシップ、を捧げました。 エリヤは集まっていたイスラエルの民の前で圧倒的な勝利をあげました。天から火が祭壇にくだり、いけにえもみぞの水も石さえも焼き尽くしました。そして450人のバールの預言者たちを一人で殺したのです。預言的いけにえ、預言的ワーシップが、彼ら全員を滅ぼす力を解き放ち、人々を偽りの神、バールに縛りつけていた縄目を打ち砕いたのです。それは偶像礼拝から人々を引き抜き、まことの信仰に植えて確立させました。預言的ワーシップは敵の要塞を打ち砕き、人々を暗闇からまことの神に引き返させたのです。ダビデの将軍たちは単なる崇拝のワーシップではなく、預言的ワーシップを必要としました。それは戦いの中で戦略的目的を果たすためでした。

イザヤ55:10-13 「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。 まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

純粋な預言の言葉は事を成し遂げます。それは引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、植えるのです。その結果、神の民は、喜びと平安と勝利を心にいだきながら人生に立ち向かうことができるのです。

預言的ワーシップも実際にリアルな事を実現させます。しかもそれは音楽ですから、語られる預言よりももっと深く御ことばのつるぎを私たちの中に差し込むことができます。音楽は、語られる言葉よりもっと心の奥深くまでとどき、魂を奮起させ、私たちの霊を感動させ捉えます。
ですから、預言的ワーシップは私たちを変え、整え、私たちの敵であるサタンの業をも打ち壊すことさえ出来るのです。預言的ワーシップによって私たちは聖なるものに特別の方法で触れることができます。その中で、またそれを通して、神は私たちに深く語られます。私たちはただそれを享受するだけではありません。それによって変えられるのです。 ワーシップにそのような油注ぎがあると、震える人や、泣く人、また倒れる人が出てくるのは、それが理由であると思います。預言的ワーシップでは、神は私たちの心の奥深いところを引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えさせるのです。

実際に預言的ワーシップをする前よりもした後のほうが、ある種の罪を抑えるのに困難を覚えることにあなたは気づくかもしれません。奇妙に聞こえますか?例えば、素晴らしいワーシップをして家に帰る途中で、あなたの夫(妻)とけんかをしてしまい、どうしてそうなったのかわからないようなことがあります。あのように聖なる時を過ごしたのに、こうもすぐに罪を犯してしまうとはどうしたことかと、あなたは混乱してしまうかもしれません。預言的ワーシップを経験したあと、ずっと忘れていた悪いことを考えている自分に気づくかもしれません。もう処理をしたと信じていた古い不安がまた頭をもたげてくるかもしれません。もう長い間顔を見せなかった好色な思いと戦っている自分を見つけるかもしれません。あなたはそのような思いがどこから来たのかといぶかしく思い、これはサタンに違いないと思うでしょうが、そうではないのです。

もしサタンでないのなら、一体何なのでしょう? それは確かに悪霊の仕業ではなく、また、ワーシップに何か間違ったところがあったのでもなく、ミニストリーの時に悪霊に憑かれた人があなたに触れたからでもなく、その他様々な理由で私たちを恐れさせるインチキな理由のためではないのです。

私たちが聖いものに触れたときに、古い罪が表面化することがあるのです。それは預言のことばの剣と主へのワーシップが私たちの心を奥深くまで刺し通し、そこに隠されていたり、仮死状態だったものを明らかにするからです。あなたの中の罪が、ただ抑制されていたりコントロールされているだけよりも、はっきりその罪があらわされ清められるほうが良いのではないでしょうか? 預言的ワーシップをした後、度々罪は表面化します。それは「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあるとおりです。(ヘブル4:12)

神は預言的ワーシップの中で働かれ、私たちの中にかき乱すべきものがあればそれをかき乱し、私たちがそれから完全に解放されるようにされます。神は古い罪を掘り起こして滅ぼされます。そしてイエスの性格を映し出す新しい性格と聖さを私たちの中に植えて建て上げてくださるのです。宗教の霊は罪を抑圧しコントロールするだけです。しかし、イエスの御霊は罪を明らかに示し、罪を清めるイエスの血潮と御ことばの働きによって罪の力を滅ぼします。(続く)


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by walkwithgod | 2008-04-04 17:04 | アメリカからのメッセージ