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クリエイティブな教会 グラハム・クック   8月29日

クリエイティブな教会

グラハム・クック


(スティーブ・ショルツによるインタビューからの抜粋)

神はエコノミストではない

私たちは教会活動において何かをするときには、能率よく最小限の努力、費用ですることを常に目標にしてしまうという間違いをおかします。一週間のうち数時間の集会で、すべての能力、技術を最大限に用い、最も有利に、最も効率よく、最も多くの人に影響を与えようとします。しかし、神様はエコノミスト(経済家)ではないのです。

私たちは集会にだけ焦点を当ててしまっています。イエスは「わたしはあなたに集会を与えるために来ました。集会をもっと豊かに与えるために」とは言われませんでした。「わたしはあなたに命を与えるためにきた」といわれましたね。教会で今行われていることは、人々を生かし、彼らが神にある人生を楽しめるようにはほとんどしていません。人々にどのようにすれは霊的に生きられるかを教えていません。集会の中でどのようにうまく機能するかを教えているだけです。しかも、その機会さえ与えていないことが多いのが現実です。

二種類の礼拝

聖書を見ると、集会には二つのタイプがあることがわかります。一つはテンプル(神殿)における礼拝であり、もう一方はシナゴーグ(会堂)です。今の教会で行われている礼拝を見てみると、一人ひとりが神と霊的に交わる機会がありません。というのは、私たちがしている礼拝はほとんどシナゴーグ的な礼拝だからです。テンプル・ワーシップというのは、人々が神殿に祈りや生贄や捧げものをするために行くことでした。すべて神を中心とした行為でした。他方シナゴーグでの集会は、人々が教えを受け、他の人々と交わり、ミニストリーを受けるためでした。

今教会で私たちがしていることは、この二つを混ぜ合わせて、両方を一時にしようとしているのです。即ち、まずワーシップをして、そのあとにメッセージを聞くというパターンです。その結果、ワーシップは次の教えのための序曲みたいになってしまっています。人々は集まってワーシップをしますが、本当は教えを聞き、その後でミニストリーをしてもらうためにきたのであり、その前にワーシップを仕方なくするという感じになります。本当は喜び楽しむべきワーシップが仕方なく耐えるものになってしまっている状態です。また、ワーシップをしたい人たちはもっとワーシップがしたいと思います。教えの部分を彼らは我慢して聞いているのです。

ですから、あるときはテンプル・ワーシップだけをする、テンプル・ミーティングをするべきだと私は思います。ただ主をワーシップするためにだけ人々が集まるのです。そしてすべてを聖霊にお委してワーシップの中で自由に働いていただくのです。私たちの教会では、このような礼拝を「Let's Waste the Whole Evening on God」一晩中神のために時間を浪費する集会、と呼んでいます。人々はワーシップの場に喜びをもって神に会いに来ます。

私たちは人々に神をワーシップする方法を教えます。ワーシップのいろいろな形を教えます。ワーシップそのものについて、敬愛(adoration)について、普通の賛美、高揚した賛美、悲嘆の祈り(lamentation)について、そして主の臨在の中にどのように入っていくかを教えます。また、身体をどのように動かすか教えます。教会で踊る人はあまりいませんが、それは人々がどうやって踊ったらいいかわからないからです。ですから私たちはワーシップのために身体をどのように使うかを教えます。手を上げる、拝する、ひざまずく、くるくる回ることなど、すべての身体の動きは何かを表現している象徴的なものであり、主への全面降伏や敬愛などを表しています。

それとは別に、私はセミナーをするのも好きです。人々を集めて(ワーシップはしないかもしれません)教えのときを持ち、その後に話し合い、祈り、ミニストリーのときを持ちます。そのセミナーは一つのテーマがあり目的があります。

クリエイティブな礼拝

聖霊はご自分が自由に働かれるクリエイティブな(創造的)環境を作られます。現行のほとんどの集会はクリエイティブな環境ではありません。いつも同じ箱の中で何かを創ろうとしています。神はご自分を箱の中に入れられる方ではありません。一度だけそうされましたね。それは契約の箱ですが、神は箱に触れるものは死ぬといわれました。神が箱に入られたときでさえ、人間が触れることはできなかったのです。

聖霊が創造の天才だということを見出しつつある教会が世界中に沢山あります。ポイントは教会のメンバーにいろいろなことを任せることだと思います。多くの教会には非常に賜物のある人たちがいます。あるときは家族中心の礼拝にすることができます。子供むきの話をしたり、劇をしたりできます。また、ワーシップのコンサートと祈りの会にして近隣の人たちを招待してもいいのです。

教会では毎週、つまり年52回も「あなたの人生を変える」メッセージをしながら、誰の人生もあまり変わっていないのが現状です。夕拝もある教会ならば104回ですし、祈祷会のメッセージを入れれば156回です。いったい私たちは何をしているのでしょうか。人々はメッセージを聞いてノートをとることが上手になるだけです。彼らが聞くだけで実行しない者になってしまうのを私は保証できます。

霊で生きることについて

霊で生きることは、オーガニック(有機的)であると同時に、オーガナイゼイショナル(組織的)です。今の教会は後者に偏っています。イエスは聖霊に関して「風は思いのままに吹く」と言われています。それは聖霊を縛ってとどめることはできないということです。自然界のことを研究している人に聞いてみたらわかりますが、昆虫でもなんでもいいのですが、彼らはこう言うでしょう。すべての生命のある集団は、自然に自分たちで組織をつくるのです。すべての被造物、すべて生きているものは、自分たちで組織をつくる、セルフ・オーガナイズするのです。動物の王国であっても昆虫の世界であっても、命のあるものが集まると自分たちで組織をつくるのです。

人々が集まってきて、自分たちの情熱、やヴィジョンを中心にして自然に自分たちの中から組織をつくります。しかし、オーガニゼイショナルな世界では、人々は集会、ミーティングを中心にして組織化されてしまうのです。人々の思いを本当には解放しないやり方で、組織はつくられます。なんと多くの牧師が、自分が個人的に神から受けたヴィジョンを、教会のメンバーに理解させようと押し付けていることでしょうか。彼らはメンバーの一人ひとりの夢やヴィジョンを生かし達成させることを怠っているのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-08-29 17:32 | アメリカからのメッセージ

ジュディス・グルーバー師夫人―その後の報告とお願い  8月25日

ジュディス・グルーバー師夫人―その後の報告とお願い


ジュディス夫人はその後自宅静養中ですが、彼女が病院で与えられていたインシュリンと心臓のための医薬がどちらも身体に合わず副作用的症状が出ておりました。そこで夫人は、今後一切薬物を取らないことを決意して実行に入っております。

今回病院での緊急の処置として薬物を取り始めましたが、その前の三年間は一切の薬物医療を拒否して主への信仰のみでやって来ましたので、彼女はそれにもどりたいと願い、旅行中のグルーバー師と電話で打ち合わせした上で、夫婦が完全に一致して再び主への信仰のみで生きることを決意しました。医師から心臓のクワドルプル(四重)バイパス手術をすることを提案されておりますが、それもしないことに決意しております。

 二、三日前大阪から帰って来て今ポートランド地区でミニストリー中のグルーバー師と電話で確認しました。グルーバー師は二日後にポートランドを発って自宅に向かいますが、師からは皆様にくれぐれもお礼を申し上げると共に、一層の祈りのサポートをいただきたい旨のお願いがありました。どうぞ宜しくお願い致します。 坂 達也


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by walkwithgod | 2008-08-25 18:02 | 坂達也からの今月のメッセージ

「突然起る」シーズン、九月に備えよ ダッチ・シーツ 8月20日


「突然起る」シーズン、九月に備えよ

ダッチ・シーツ


9月に備えてください!9月は神の予定表の中で大変重要な時であり、現代の最大の霊的シフトが起こるでしょう。

・「突然起る」シーズンが始まる
・アメリカ(教会も含む)を支配していた混乱と惑わしが取り除かれはじめる
・11月の大統領選挙が神の御こころの方にシフトする
・来るべきアメリカの「大覚醒」は新たなレベルとなる
・「神の臨在を求めるムーブメント」が始まる

「突然」のシーズン

私の人生の中でも、「突然」神が語られるのを聞いたり、経験したりしてきました。しかし「突然のシーズン」と呼ぶべきものは今まで経験したことはありません。しかし私は今その中にいます!今まで神によって整えられることを喜んで受けいれてきた人たちに、新しいシーズンが重要な意味をもって訪れようとしています。

2週間前にチャック・ピアス師が私に対してこう預言をしました。「9月にあなたはThe Mall(ワシントンD.C.)の集会の前に立ち、こう宣言せよ。『「突然」がやってくる!』と。備えよ!わたしは物事を揺り動かし、整えるべきものを整える。」しかし私は彼の預言を受ける以前からすでにそのことを人々に話していました。

このシーズンは多くの変化をもたらす。備えなさい!
混乱と惑わしが破られる


過去2年間にアメリカ教会の内外で私が見てきた混乱と惑わしは、これまでになく大きなものでした。特にキリストのからだの内部においての混乱と惑わしは、私にとって本当にショックでした。混乱と惑わしが起こったことをリストアップしてみると、かなりの数に上ります。大統領候補者に賛同表示したり預言したりしたこと、教義的な間違い、人間関係の破綻、リバイバルの真偽に関する意見の相違等々です。

このリストに加えて、多くの人の中には倦怠感、無頓着(ある有名なリーダーは誰が大統領になってもかまわないとまで言いました。最高裁判事の任命がそれで大きく左右されるのが大事ではないとでもいうのでしょうか!)、幻滅感、混迷などがあります。これらを全部足すとものすごく大きな混乱と惑わしなるでしょう。これらはすべてイラク(即ち古代バビロン)との戦争に関連していると私は思います。バビロンは「混乱」を意味します。イラクの軍隊を負かすのは困難ではありませんでした。しかし、バビロンの霊という主権を負かすことはそれとは全く違うレベルのことでした。

しかしほんの2週間前に私は、聖霊がはっきり「わたしは混乱のもつれた紐を解きほぐそうとしている。」と語られるのを聞きました。それを聞いたとき、このことは9月に起こり始めると、私には強く感じられました。

第二歴代誌20章にあるように、神はイスラエルの賛美を用いて彼らの敵を「奇襲」しました。その結果、敵は互いに滅ぼし合ったのです!この秋、教会から混乱が除き去られ、神に敵対するものへの奇襲が起こり始めるのを期待してください。

11月の選挙

名の知れたキリスト教のリーダー達が、候補者の誰かを推薦したり、預言をして「その候補者が大統領になるのは神の御こころだ」と不用意な発言するのは、全くとんでもない話であり、私はそれに大変問題を感じると言う以上に危機を感じています。しっかり聞いてください。大統領次第で最高裁判事の任命の流れが変り、その結果で胎児殺害を許す法案が通ったり、神の御こころに反する法律を逆流させることになりかねないのです。これこそアメリカがクリスチャン国として神の御心を尊重する国であり続けるかどうかの最も重要な課題であるのですから。(選ばれる大統領次第で大きく影響する)

堕胎を認める裁判官を指名するような堕胎容認の大統領候補者を選ぶことは悲劇であり、アメリカを50年後退させるものです。それと違う預言を誰がしても、又そんなことはないと誰が言っても、決して騙されてはいけません。堕胎を容認するリベラルな大統領を選ぶのは、絶対に神の御こころではありません!

私は現在の大統領立候補者の一人が、4年前にした演説を聞く機会があったのですが、私が今まで知る中で最も群集を欺いて感動させる非常に強い力を彼が持っていることがわかりました。彼の「賜物」は大変恐ろしいものでした。そのときに、彼は2008年の大統領選挙に立候補するつもりだということが私にはわかりました。幸いなことに、彼の惑わしは9月に破綻しはじめ、選挙の流れがそのときに決まっていくでしょう――それは教会が祈れば、です。どうか熱心に祈り、彼のカリズマやチェンジという空ろな約束に騙されないでください。

神の臨在を求めるムーブメントとカンファレンス

これから起ころうとしている霊的覚醒は、祈りのムーブメント、使徒のムーブメント、預言のムーブメント、教えのムーブメント、奇跡のムーブメント、賜物のムーブメント、神の栄光のムーブメント、等とは違います。これら全部の要素を含みはしますが、その最も主要な強調点と特徴は、主の臨在です。神ご自身が(主のあらわれとか賜物ではなく)中心です。

コロラドスプリングにある私たちのミニストリーは(勿論、他の多くのミニストリーと共にだと信じますが)このムーブメントを産み出す特権を神から与えられました。6月15日に聖霊が私たちを訪れ、「聖霊の臨在を90日間、24/7で迎え入れ(礼拝して)ほしい」と言われました。それはオベデ・エドムが契約の箱(主の臨在の箱とも呼ばれた)を受け入れたのと同様でした。(第二サムエル6:10-11参照)

そして私たちは、主をお迎えすること以外のことをすべて中止しました。クラスも(日曜日を含めて)すべての説教、一切のプログラムを止めて、ワーシップだけをしたのです。それは私たちを打ちのめしました!集会での主の臨在は時としてあまりにも圧倒的で、どうすればよいのか誰もわからなくなるほどでした。今までのような「ノーマルな」キリスト教(のすること)を私たちはもう出来なくなってしまいました。

主の臨在をお迎えするというこの任務は、アメリカ全体のためであることが私たちに明瞭になってきました。私たちは今まで、いわば社会から隠れた秘密の場所で神と時を過ごし、聖霊が私たちのワーシップの上を覆い「臨在のムーブメント」を産み出しました。しかし、主の臨在によって特徴付けられるこのムーブメントが、9月からは国中に広がりはじめることを、主が預言的に語られました。

私たちはそれを促進させるために、90日間の最後の3日にあたる9月11-13日にはもっと大きな場所に移って、多くの人を招いてカンファレンスをすることにしました。私たちが、また他の人たちもだと信じますが、産み出してきたものが何千人、又何万人もの人々に、このカンファレンスでインパーテーション(分与)されることを確信しています。

最後の3日間を分与のための大きなカンファレンスにするようにと、神が私に語られたとき、9月11日が90日間の88日目にあたり、2001年9月11日(同時多発テロ)の8年目の初めの日という事実に、私は最初気がつきませんでした。「8」というのは、新たな始まりを意味する聖書的な数です。(皆様の多くは、チャック・ピアス師がアメリカはこれから7年間の戦争のシーズン(9/11/01に始まりました)を迎えるという預言を聞かれたと思います。)

主の訪れとそれからの90日間を始める日を、9月11日が88日目となるようにとか、7年のサイクルを終えて新たな始まりになるようにと私たちが計画したのでは全くありません。しかし、神が計画されたのです!どうかこれに参加して、古いシーズンの終息と、「臨在のムーブメント」という新しい出発を共に宣言してください!

この3日間はおそらく皆さんが今まで経験されたことのないようなものになると思います。メッセージも教えもなく、毎日24時間ワーシップをするのです。(勿論、聖霊の導かれるままに、とりなしの祈りや預言のことばを語る機会は常に持たれます。)枕と毛布を持ってきて、昔ヨシュアがしたように、主の臨在の中にずっと留まる人もいるでしょう。(出エジプト33:11参照)このカンファレンスに参加される人は主の臨在を持ち帰ることを私は確信しています。

牧師やリーダー、家族としてまた個人として、とりなし手、ワーシッパーたち、集まってください。準備のため、参加者数をつかむためにレジスターをしてくださるようにお願いしますが、無料です。ただ経費のために神に捧げてくださるようにお願いいたします。会場、その他のために4万ドルかかります。ワーシップ・リーダーたちは全員、奉仕を彼らの神へのワーシップとして無料でしてくださいますが、彼らの経費は支払います。クラウス・クーン、リック・リノ、エディー・ジェイムス、ジェレミー・バークその他のワーシップ・リーダーが来てくれます。きっとすばらしいでしょう!
レジスターはwww.usapostolicalliance.org でしてください。
それでは9月11日朝9時にお会いしましょう。そして、多分この国における最大の聖霊の油注ぎを共に解き放ちましょう。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-08-20 12:13 | アメリカからのメッセージ

終末の収穫のための花嫁の油注ぎ パート2 ポール・キース・デイビス 8月14日

終末の収穫のための花嫁の油注ぎ パート2

ポール・キース・デイビス

聖書には、主イエスが洗礼を受けたときに天が開け、聖霊が鳩のように下ったと書かれています。これは主が力をうけた瞬間であり、神の命令と使命を果たすために神の七つの霊を実際に受けた出来事でした。主の内と主の上に聖霊が来られ、知恵と悟り、思慮と力、主を知る知識と主を恐れる御霊を現したのは、まさにこのときでした。この事実は使徒行伝10:38に次のように書かれています。「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」

地上でのミニストリーのために、イエスには特有の油注ぎと力が与えられたのです。そして今、主に与えられたのと同じ御霊の分与(インパーテーション)が、同じ使命を持つ花嫁の群れにも分与されようとしています。私たちは「主の骨の骨、肉の肉」になる主の軍隊なのですから、同じ御霊により病人を癒し、悪霊を追い出し、死人さえも甦えらせねばならないのです。

型と影

幕屋の建設の計画がモーセに伝えられたとき、彼はすべてのものを「天にあるものの写し、影」として作るようにと言われました。聖所の主要な器具の一つは七つのともしび皿を持つ燭台でした。それは神の幕屋となる人々に内住される聖霊とその働きとを予表するものでした。パウロは第一コリント3:16で、次のように強調しています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」
更に、預言者ザカリヤは地上における神の御霊の働きを、驚くべき言葉を駆使して表しています。

ゼカリヤ4:2-6「彼は私に言った。『あなたは何を見ているのか。』そこで私は答えた。『私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。』さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。『主よ。これらは何ですか。』 私と話していた御使いが答えて言った。『あなたは、これらが何か知らないのか。』私は言った。『主よ。知りません。』 すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。』」
一つの燭台の上で燃えている「七つのともしび皿」とは、神の七つの御霊です。また、全世界に遣わされた神の七つの御霊であり、全地を見渡す主の七つの目でもあります。これは旧約にある神の七つの目と、黙示録にある七つの角の描写です。この神の七つの御霊については、ヨハネが受けた啓示によって私たちは更に知ることができます。

黙示録5:6「さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」

ヨハネは、主が七つの目と七つの角を持っている小羊として表わされているのを見ましたが、これも又、父なる神が御子を通してどのように働かれたかという寓意的な描写です。角というのは力と権威の象徴です。七は完全を表す数です。このことから、主は地上でのミニストリーのために、聖霊を通して完全で絶対的な啓示と力を与えられていたことがわかります。

神を表す

神の七つの霊とは、聖霊が天の目的を地上で成就するための七つの完全な働きを表しています。そして七つの目とは、すべてを刺し通す啓示的洞察力(父の心だけではなくすべての人の心がわかる力)を表しています。生ける御ことばなる主は、ヘブル4:12にあるように、すべての人の心の考えやはかりごとを判別することができるのです。

キリストの花嫁が、主と同じわざや、又それ以上のわざをするためには、私たちの内や私たちを通して主と同じ霊が働くことが不可欠であり、それが神の約束です! 主が私たちの内に、又私たちを通して生きてくださり、人間の形をとって地上におられたときと同じわざを花嫁を通してしてくださるのです。それほどに私たちと神とは完全に一つになることが可能なのです!

イザヤ11:12は明らかにメシアの描写であり、イエスの生涯とミニストリーを特徴づける霊的な力を預言的に描いています。イエスは、ご自分は父から遣わされたと言われましたが、私たちは主から遣わされるのです。もし主イエスが神の七つの霊によって働いておられたのならば、キリストの花嫁も、完全に成長をとげるならば、これと同じ神の力によって働くべきなのです。

七つの霊とは:
主の霊
知恵と悟りの霊
思慮(助言)と力の霊
主を知る知識と主を恐れる霊

御霊は二つずつ組み合わされていますが、それはそれらの機能が相互に関連しているからです。今回は思慮と力の霊について考えたいと思います。

思慮と能力の定義

思慮(counsel)とは、神の計画と目的達成のためのリーダーシップをとり、適切な決断を下すための助言や計画や訓戒を与えることです。思慮という言葉は社会的、人間的思慮をさすこともありますが、主に聖霊から受ける思慮のことをさします。

イザヤ9:6によれば、主ご自身が「驚くべき助言者(Wonderful Counselor)」と呼ばれています。助言者(カウンセラー)とは、アドバイスを与える者、又は一つの目標を達成するために計画を立てる者です。思慮の霊は神の御座からアドバイスを受け、ある命令を達成するための正確な計画や策を与えます。主は単に思慮があるだけでなく、思慮の霊そのものであられるのです。

一方、力(might)は、能力、強さ、勇気、勝利や剛勇を生み出す武力と定義されます。力の霊は聖霊の驚くべきわざと奇跡的な威力を現し実証するものです。

この二つの霊は聖霊を通して一致して働き、アドバイスや助言を与えて、神の力あるわざや奇跡の威力を示す計画を作りあげます。

霊の模範

私は20世紀のキリスト教のリーダー達の研究をしましたが、そのうちの幾人かが他の人よりも霊的にはるかに優れた力と権威をもって活動していたことがわかりました。マリア・ウッドワース・エッター、ジョン・G・レイク、ウイリアム・ブランハム等です。彼らはそれぞれの人生のある時点で、自分の人生を完全に主に明け渡しました。その時以来それまでとは違う霊的領域に彼らは突入し、人生で最もすばらしいミニストリーをするようになったのです。彼らはヘブル6:5に書かれていることが現実でることを発見し、「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わった」のだと私は信じます。

彼らのミニストリーを霊の模範として学ぶことによって、私たちは霊の働きの基本を知り、花嫁の群れとして同じよう働けるようになるのです。ウイリアム・ブランハムのミニストリーに起こった一つの出来事は、御霊の驚くべき顕れであり、これから起こることの前ぶれとして私の心を打ったことを覚えています。

それは1930年、彼がバプテスト教会の牧師になる按手を受けて間もなくの頃でした。彼が祈っているとき、突然自分がある病院の一室におり、自動車に轢かれてタイヤの下敷きになった黒人を見下ろしているのが見えた、という啓示的な幻から始まりました。その事故でその人は重傷を負い、何本も骨折し内臓も損傷を受けているようでした。折れた骨の何本かは、心臓や肺の近くで、それをさわることは死を意味するので、手の施しようがないようでした。

診断は非常に悲観的なものでした。牧師は幻の中で、ベッドの片側に立ち、その男性を見下ろしていましたが、その人の症状は全部わかっていました。次に、二人の白人が病室に入ってきて、彼の反対側のベッドのそばに立つのを見ました。その瞬間にブランハム師は幻の中の自分がその男性は癒された、と宣言し、男性がすぐにベッドから飛び出して服を着て病院から出て行くのを見ました。幻はそこで終わりました。
.
数日後に、ブランハム師はその男性が実際に幻とおなじ事故にあって同じ症状で入院していることを知りました。彼は友人を一人連れて病院に行き、もうすぐ黒人の男性がこういうスーツを着て、帽子を手に持って病院から出てくるから、病院の前で待っていてくれるようにと頼みました。

ブランハム師は病院に入り、幻で見たとおりの部屋を見つけました。そこに幻で見たとおりの男性を見つけたので、幻で見たのと同じ位置のベッドの傍らに立ちました。しかし、幻で見たとおりに二人の人がベッドの向こう側に立つまでは祈ることができませんでした。彼が立っていると男性の奥さんが症状は非常に重いということと、彼は動かすと内臓の損傷によってすぐにでも死んでしまうと医者たちが告げたことを話してくれました。

ついに二人の人が部屋に入ってきてベッドの反対側に立ちました。その二人は男性を轢いてしまった車に乗っていた人たちだということがわかりました。彼らが入ってきた時、神の人は癒しを祈るだけでなく、癒しを宣言しました。すでに幻で見せられていたのです。祈るとすぐに男性は掛け布団をはずして「私は直った。」といいながらベッドからとび出しました。

言うまでもなく医者たちや看護婦は男性が直ちに死ぬのを恐れて、彼を押さえつけようと必死になりました。でもすばらしいことに、彼は完全に癒されたのです。彼はクローゼットに行き、幻の中と同じ服を着て、ブランハム師が説明したのと全く同じように友人の前を通って病院から出て行きました。この出来事は思慮と力の霊の働きを明瞭に表すものです。

私はこの証が特別に好きなのですが、それはつい一世代前に起こったことだからです。イエスのミニストリーや、旧約時代の預言者や初代使徒たちによる奇跡の話を読むのもすばらしいことです。しかし、私たちと同じような普通の人たちを通して現代教会の時代に行われた奇跡は、私たちにも手が届くというような気持ちがして特別に好きなのです。

主の思慮に従うことが力を解放する

神からの言葉は、病室に行ってある状況が整うまで待つことでした。その言葉に忠実に従うことが、奇跡を生み出す力の霊を開放しました。これは主イエスやこの霊によって働いた旧約の預言者たちにおいて見られるのと同じく聖書的モデルです。

ナアマンは預言者エリシャによってヨルダン川に七度浸るように指示されました。そして思慮の言葉への従順が、彼のらい病を癒す力の霊を開放しました。イエスは男の目に泥を塗りある池に行って泥を洗うようにと告げました。この言葉に忠実に従うことによって男が見えるようになるという力の霊が開放されました。このほかにも思慮と力の霊の働きを示した聖書の話は沢山あります。

勿論、すべての状況がブランハム師の幻のようにはっきりとは示されないでしょう。しかし、それが祈りを通してであれ、書かれたみ言葉を通してであれ、預言の言葉を通してであれ、私たちが神の助言のみ言葉にしっかりと従うならば力の霊が解き放たれ、すばらしいことが起こるのです。私たちが神の導きにいつも従うならば、この時代の霊やすべての霊的攻撃に打ち勝つ勝利の人生を生きる力が与えられ、主が打ち勝たれて父と共に御座に座られたように、私たちも主の御座にともに座ることができるのです。(終わり)

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by walkwithgod | 2008-08-14 16:37 | アメリカからのメッセージ

プレイヤー・ショール

プレイヤー・ショール


私たちがホノルルのメシアニック・ジューの集会に集うようになってから三ヶ月ほどが経ちました。私がその昔結婚してアメリカにきたときに、幼い甥が「ゆみこおばちゃんの目はもう青くなった?」と姉に聞いたそうです。それと同じで私たちが何か「メシアニック・ジュー」という違う人種、違う種類のクリスチャンになったように思う人もあるかもしれませんが、そんなことはありません。

「メシアニック・ジュー」とはイエスをメシア(キリスト)と信じるユダヤ人のことです。イエス様の12弟子もみんなメシアニック・ジューでした。私たちは異邦人ですから、本来の意味でのメシアニック・ジューではありませんが、霊的にはそうである、という人もいます。

この集会はいわゆる「教会」ではなくて、ミニストリーという形を取っていますので、メシアニック・ジューの見地からの学びをしたい人が自由に出入りしています。集会の時間も金曜の夜ですので、日曜日には普通の教会に集う人たちも多くいます。リーダーは牧師ではなくラビといいます。ラビであるダニエル・バーガス師はもともとアセンブリー・オブ・ゴッドの牧師だったのですが、ご自分もユダヤ系アメリカ人であり、ユダヤ人に対するミニストリーを始めるためにラビの資格をイスラエルで取得されたのです。

まず集会で気がつくことは、多くの人がタリートという祈りのためのショールをかけていることです。早速私はニューヨークの息子に頼んで「母の日のプレゼント」として買ってもらうことにしました。ニューヨークはユダヤ人が多く、きっとそんなお店もあるだろうと思ってのことでしたが、息子はインターネットでイスラエルに注文したそうです。息子には「ハワイは暑いから、ウールとかではなくて涼しげな薄い生地にしてちょうだい。」という注文を私は出したので、二週間後にイスラエルから送られてきたものは、かげろうの羽のように透き通るものでした。

プレイヤー・ショール(Talith)の意味を調べてみました。Talithとは小さなテントという意味で、モーセが神と会った会見の幕屋の小型だそうです。ショールを頭からかぶることで一人用のテントを作り(密室ですね)そこで祈りを唱えて親しく個人的に神と出会うことができるのです。これで思い出したのが、ジョン・ウエスレーの母スザンナのことです。彼女は沢山の子供(19人いたそうです。そのうち8人は夭折。)を育てる多忙な生活の中で、祈るときはエプロンを頭にかぶって密室のかわりにしたということですね。子供たちはお母さんがエプロンをかぶっていたら話かけない約束だったとか。

私の透き通るショールでは、あまりテントの役に立たないようなので、がんばって裏をつけました。めでたし、めでたし。

その他にも、ショールの房のついた四隅は「翼」と呼ばれ、マラキ4:2の「その翼には癒しがある。」はそのことであり、イエスの衣のすそにさわった長血の女はそこに癒しがあることを信じていたこと、マルコ6:56でも病人がイエスの着物の端にさわって癒された、など、興味深いことがわかりました。

申命記22:12に「身にまとう着物の四隅に、ふさを作らねばならない。」とあるように、昔はショールではなく衣に直に房をつけたようです。

また、男性が自分の「翼」で女性をおおうことは結婚を意味し、ルツ記3:9に「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。」とはそういう意味であるそうです。今もオーソドックス・ジューの結婚式では花婿が花嫁をプレイヤー・ショールで覆い、これから花嫁を守ることを表すそうです。

ですからプレイヤー・ショールが必要だったのは、私ではなく主人だったのですね。早速主人のために大きなプレイヤー・ショールを注文しました。私をおおって守ってもらうために。(おわり)
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by walkwithgod | 2008-08-14 16:22 | 柚実子からのハワイ便り

ジュデイス・グルーバー夫人  8月13日

その後の報告です。……

ジュデイス夫人は退院し、目下自宅静養中です。これに先立ちヘンリー師はノースウエスト・カナダの旅を中断して帰宅しました。今は夫人と共に自宅で数日を過ごし、明朝ポートランドに飛行機で引返します。そして2-3日後に日本の大阪に参ります。
医師の診断はcongestive heart failure であることが確認され、心臓から出る動脈が二箇所においてブロックされていることが分かりました。それに糖尿病が関連しているので引き続きインシュリン注入を続けています。 肺に水がたまるのも完全に止まってはいないようです。
今回夫婦二人で主に祈った時に、夫人に「新しい心臓が与えられる」と言う前からの確信を改めて再確認したと言っておりますので、どうぞ引き続きお祈り下さい。夫人はインシュリンによって気分がよくなり、生活上違いを感じるかとの質問に対しては、ほとんど差は感じないと答えていますが、その声には力があり、以前の朗らかさと気力が戻っていることを感じさせます。皆様のお祈りを心から感謝します。
                                               坂  達 也

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by walkwithgod | 2008-08-13 16:32 | 坂達也からの今月のメッセージ

終末において花嫁が持つ刈入れのための油注ぎ ポール・キース・デイビス 8月11日

終末において花嫁が持つ刈入れのための油注ぎ その1

ポール・キース・デイビス

約束されたメシヤに関する重要な預言の一つがイザヤ11:1-2にあります。この箇所は、人類に新しい時代を開くメシアに宿る油注ぎを、次のように預言的に告げています。

イザヤ11:1-2 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」

神の「七つの霊」という概念はすばらしい奥義であり、地上における主の御霊の働きをよく説明しています。それは三位一体という神の真理と矛盾するものではなく、神の御霊のご性質(特徴)と能力の全部を表している完璧なる表現です。主の御霊は、知恵と啓示、思慮と力、主を知る知識と主を恐れる知識を持っているのではなく、ご自身がそれらの力そのものなのです。




黙示録には「神の七つの霊」という言葉が4箇所に出てきます。この言葉は二つのギリシャ語から成っています。
Hepta 七つ、七重、七倍より成る
Pnewmata 霊、息、風の複数形、人や物体の単数形としても使われる

聖霊が持つ七つの面は、聖霊の特徴(ご性質)を明確にする助けになります。「主の霊」という言葉は聖霊が誰であるかを表し、知恵、啓示、思慮、力、神の知識、神を畏敬する恐れは聖霊が何であるかを表現しています。

黙示録4:5は次のように書かれています。「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」
「玉座からいなずま、様々な声、雷が起こった。また玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。」


主イエスのミニストリー

四つの福音書を調べれば、私たちの完全な模範であられる主を通して神の御霊がこれらの力をどのように使われたかをはっきり見ることができます。しかしそれだけではありません!驚くべきことに、主イエスは、父がご自分を遣わされたように、主が私たちを遣わされると預言されたのです。更に、私たちは主がされたのと同じ業をなし、主が父のもとに上られる故にそれ以上の大きな業をすることを、主は強調されました。そして私たちがこの任務を成し遂げるためには、神の七つの霊の油注ぎのすべてを(フルに)いただくことが不可欠なのです。

キリストの花嫁とは、「主の骨の骨、肉の肉」となるものです。からだは頭につながっているべきものです。この終わりのときに私たちは主のミニストリーを完全に遂行し、多くの肢体を持つキリストのからだとして大収穫をもたらすのです。黙示録5:6で、主は七つの角と七つの目(七つの神の霊)を持つほふられた小羊として描かれています。

「さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」(黙示5:6)

七つの霊は主の啓示(七つの目)と力(七つの角)のすべて(100%)を代表し、主が地上でのご計画を達成するために不可欠でした。教会が主と同じわざをしてヨハネ14:12のみ言葉を成就するためには、これと同じ霊の現れが教会の上に留まらねばなりません。主は聖霊と火のバプテスマを授けると約束されましたが、神の七つの霊は火として表されます。

聖化と整えられること

神の七つの霊の油注ぎのすべてをフルに受けるのは、大変大きな責任を意味します。このようにパワフルな霊的力を受けるためには、多くの祈りと準備がまずされねばなりません。そしてこの御霊のマントルを受けたあとは、御霊の導きに完全に忠実に従うことが極めて重要です。終末の油注ぎを受けられるように花嫁を整えるのは、五役者の責任でしょう。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師は次のことのために与えられるのです。

エペソ4:12-14 「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、」

私たちの前には私たちが見習うべき霊的な先駆者が大勢いました。彼らは主の油注ぎを豊かに(フルに)受け霊的な成熟を遂げた霊的型です。その一人であるジョン・G・レイクは20世紀の信仰の使徒といわれています。彼は魂の救いと奇跡的な癒しや解放で大きな成果をあげたのですが、その後、9ヶ月の断食と祈りのシーズンを経験し、それによってより深い神との関係に進んだと言っています。そこで彼はキリストの満ち満ちた様を発見し、それによって彼はもっともっと高い啓示と力の領域に押し出され入ったのでした。彼の人生の終わりの数十年のミニストリーにはそのことがはっきり現れていました。

彼が神に全面的に服従をし、彼のいう「キリストの人」(Christ-man)となるまでの過程は、メッセージの中で鮮明に語られています。神の七つの霊は、完全に整えられた人には今でも現実にその人のものとなるのです。そのために喜んで代価を払い、迫害に耐えて成熟し、キリストの身丈にまで成長する人は、今までの教会の中ではほんのわずかの例外的な存在でしかありませんでした。しかしこれからの世代には、このような「神を心から畏れる者の群れ」が起こされるでしょう。志のある者はすべてこの群れに参加するように招かれているのです。

神の組み合わせ

神の七つの霊は二つずつの組になって働きます。知恵の霊と悟りの霊、思慮(カウンセル、助言)の霊と力の霊、神を知る霊と神を畏れる霊は、それぞれ二つずつ組となり、調和して共に働きます。そしてそれらすべての霊は、主の霊の顕れから流れ出ているのです。

御霊の賜物は、それが必要とされるときに、御心のままに振り当てられ分与されます。私たちが賜物を持っているのではなく、必要に応じて賜物が現わされるのです。九つの御霊の賜物はすべて、聖霊に満たされたクリスチャンの内で働くことができます。しかし、神の七つの霊は、明らかにそれより量的に大きな御霊の現れであり、成長し(マチュア)聖化さられたクリスチャンを神の深い奥義や力へと導きます。

神の七つの霊は、フルに霊を受けた働きをするためにクリスチャンの上に置かれた「マントル」です。知恵の言葉を受けるのはすばらしいことです。しかし、知恵の霊の中を歩むことはもっと偉大なことです。旧約のエリヤとエリシャの上に置かれたマントルは、この真理を表しています。彼らのメッセージや奇跡をよく調べてみると、神の七つの霊が働いていることがわかります。御霊は必要が生じた時点でこの預言者たちに下ったのですが、それと違って私たちには御霊が永久に内住される約束が与えられているのです。

旧約の預言者にくだった御霊の油注ぎは、ある一時、神の命令が達成されるまで与えられ、その後は取り去られました。主イエスのミニストリーにおいては、御霊は神の御子の中に住まわれ、留まりました。聖書には、天が開け聖霊が鳩のように下って留まったと書かれています。私たちにも同じ約束が与えられています。

知恵と啓示

今回は知恵と啓示について考えてみたいと思います。

知恵と悟りのマントルをいただくには、私たちは切に祈り求めて、それを正しく管理する誠実さを持たねばなりません。使徒パウロはエペソ1:17-19で教えています。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

1.整えられ教えられることにより、私たちは聖書的な任務と管理を理解することができます。私たちは熱心にこれらのマントルを願い求め、それと共に成熟さ、品性、恵みをもいただけるように祈らねばなりません。それらはすばらしい益をもたらします。
2. 主の招き(召し)によってどのような希望が与えられているかを知る心の目が開かれる
3.聖徒の受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟る
4.信仰者に対して絶大な働きをなされる神の力がどれほど大きいかを知る

知恵の霊とは、イエスをイエスとして見ることができ、霊的な理解と神のみことばの知識を得て、どのような状況においても何を、いつ、どのようにすればよいかを知る神からの超自然的な能力です。また、神のご計画と目的に関して、人間では理解できない様々な神の知恵と奥義を明らかに示します。それは即ち神とのより深い関係、親密さを意味します。

主イエスは父の右座に座しておられ、花嫁は主と共に天に座すのです。ですから、花嫁は父の右座に主と共に座すことになります。そこでは普通なら何時間、何ヶ月もかかる洞察を、主は一瞬にして花嫁に伝えることができるのです。もし私たちが「神を待ち望む」ことに熟練するならば、私たちはこれらのマントルによって多くの御国の奥義をいただくことができるでしょう。

悟り(Understanding)の霊

啓示/悟りの霊は、神の事柄(神がなさろうとすること)を私たちがはっきり理解できるようにしてくれます。それは私たちの心に神の心が知覚できるような洞察力を与えてくれることによってです。知恵と悟りとは、物事とか事態の真の性質(なぜ起ったか、それに対する神の目的と結果)を適切に洞察(判断)し、御心の結果になるためにはどんな行動を取れば良いかを見定める能力をいただくことです。

啓示とは、聖霊から私たちの霊に送られ、それが私たちの心に伝達される、物事への正しい理解(力)です。それは私たちの霊に語られる神の声であり、私たちの心に神がこれからされようとすることの情報を与えてくれるものです。聖霊が隠された秘密を私たちに明らかにし、又、将来に関する奥義と洞察を示してくださるのです。

ダニエル1:17と5:11-12に、ダニエルがこの霊の油注ぎを受け、それが彼の人生でどうように機能したかが書かれています。ダニエルの場合のように、この霊は神のご計画を私たちに理解させ、神ご自身を顕されるためのものです。ガブリエルがダニエルのところに来て、「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出てきた。」と言いました。それからガブリエルは、多くの意味を含むものすごい幻をダニエルに見せ、それを説明します。このダニエルという偉大な預言者の例でわかるように、へりくだりと秀でた精神(心構え)を持つことは、知恵と啓示の霊がその人の中で機能するために極めて重要なことです。

私たちの使命

知恵と啓示の霊は、今まで隠されていた神の深い奥義と目的を私たちに理解させます。使徒パウロはローマ16:25で次のように言っています。
「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方(へ)、」

聖霊のこの油注ぎとマントルによって、パウロは御国の奥義を明らかに示すことができました。知恵の霊があなたの上に留まるときには、聖書のみ言葉を黙想しているときなどに、突然深い真理が一瞬にしてあなたに与えられます。そして啓示の霊がその真理を理解させ、正しい適応の方法を教えてくれるのです。

知恵と悟りは、私たちに三位一体の神を知る知識を与え、私たちが神をもっと親愛の情をもって知ることが出来るようにします。私たちはそれによって神ご自身をもっと心から感謝するようになるのです。主の内なるすばらしさは、恵みと栄光です。同じように私たちも内なる人を柔和とへりくだりで飾らねばなりません。神の内なる美しさは恵みであり、聖なることです。知恵と啓示の霊は神のこのような面を私たちに理解させます。第二コリント3:17に書かれている通りです。

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(終わり)


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by walkwithgod | 2008-08-11 17:50 | アメリカからのメッセージ

タッド・ベントレーとレイクランド・アウトポアリング 坂  達 也 8月5日

タッド・ベントレーとレイクランド・アウトポアリング
                          
 4月2日からフロリダ州レイクランドにあるイグナイテッド・チャーチ(千人収容)で始まったタッド・ベントレーによる癒しの集会は、全く予期しない速度で膨れ上がった。一時は七千人収容の会場に移ったがそれでも収容し切れず、今は一万人収容のエアコン付テント会場が飛行場の近くに設置され、連日一万人近い人たちが熱心に詰め掛けている。又国外からの参加者も急増し、ある時は外国人が場内の1/3を越えていた。

 このミニストリーの第一の特徴は、TV、インターネット、ラジオ、それにDVD等あらゆる報道メディアが活用されていることである。特にGodTVと言うクリスチャン・メディアによって集会の様子が毎日世界中に実況中継され、百五十万人近い人が視聴していると言われる。勿論日本でも手軽に見られる。これに加えてNBCニュース、FOXニュース等の一般TV局も報道したので、レイクランドの癒しの集会は今全米で注目を浴びているだけでなく、世界的に反響を呼んでいるのだ。こうしたメディアの動員によってアッと言う間に世界に広がったと言う点、今までのリバイバルが一地域に限られて起ったのと比べると、前代未聞の現象である。これは終末の時代にふさわしい、神がオーケストレートされている御業であることに疑う余地はない。

集会では実際に相当な癒しが起っている。既に二日以上死んでいた二六人が生き返ったことが確認されており、「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。」(イザヤ書三五-五)にあるクリエイティブ・ヒーリングの奇跡が現実に目の前で見られるのだ。恐らく癒されてない病気の種類はないと言っても過言ではない。タッドが口をすっぱくして言うように、それは全能の神がなさっておられるからだ。多くの癒しの奇跡は医師の証明を取付けてあると言う。もっと驚くべきことに、直接会場に行かなくても、メディアを視聴しただけで起こった癒しが毎日何百件(タッドは今は一日千件に達していると言う)も世界中から報告されているのである。又、録画されたビデオを見たり、携帯電話で話すだけで末期がんがいやされたりもした。物凄い「伝染能力」がある。

 このアウトポアリングの第二の特徴は、集会に来た人が主からの栄光の油注ぎを受けて持ち帰ると、主の癒しを世界のどこででも行うことができる点にある。イギリスから来た数人の牧師が本国に帰って集会を開き、最初の夜に100人が癒され、集会は今でも続行されている。集会を訪れた二人の高校生がリック・ジョイナーのモーニングスター・ミニストリーに持ち帰り、そこでもアウトポアリングが起こっている。  
しかしながら、このベントレーのミニストリー程論争と物議をかもしたミニストリーは他に例を見ないと言われる。そのせいもあるのか、人々はレイクランドの現状を未だリバイバルと呼ぶのを差し控え、聖霊のアウトポアリング(溢れるような噴出し)と呼ぶにとどめている。だが、実際には「終末に起るべき大リバイバルがついに起り始めたのではないか」と言う大きな期待が持たれているのも確かである。

そこで本論に入る前に、先ず聖書的に見て、終末に何が起るべきなのか、そしてそのタイム・テーブルについて考えてみたい。そうすることが、フロリダで起り始めたこの「リバイバル現象」の理解に役立つと思われるからだ。
終末に起らねばならないこと
 聖書によれば、第一に、キリストの再臨の前にキリストのからだ・花嫁である教会の「すべての者が、…信仰の一致と…知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至り」(エペソ四-十三、口語訳)「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」(同五:二七)に完成されねばならない。この聖句だけから見ても、我々が真にキリストに似た者になるには相当に過激的に変えられねばならないことが分かる。しかもそうなるための残りの時間は少ないのである。

 第二に、「二つのもの(イスラエル人と異邦人)をご自身(キリスト)において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現し」(エペソ二-一五)「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなる」(同二-二一)ことが実現しなければならない。
これは詩篇一〇二-一八、二二で預言された「…後(終わり)の時代のために書きしるされ、(イスラエル人と異邦人が一つとなって)新しく造られる民が、主を賛美しますように。……国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。」がまさに成就することになるのだ。主が再臨される時には、先ず「異邦人の(救いが)完成」(ロマ書一一-二五)され、次に「イスラエルはみな救われる」(一一-二六)と書かれている。そのためには世界中で未曾有の大リバイバルが起る必要があり、その後に(あるいは平行して)イスラエルが国ごとリバイブされると言うのだから、イスラエル人にとっても歴史上最大のリバイバルが起ることは明らかであり、これこそ名実共に「死者の中から生き返る」(ロマ一一-一五)ことを意味していないであろうか。
 従ってこれから来るリバイバルは、イスラエルとの関連を外しては考えられない。これが今までのリバイバルとの大きな違いだ。主の再臨に向かって起る最後のリバイバルの最終目標は、ユダヤ人と異邦人クリスチャンが一つになることであり、それが今までの全てのリバイバルの集大成でもある。

そのタイム・テーブル


ここで話をレイクランド集会が始まる二週間前の三月二〇日にもどしたい。この日から数日間、リック・ジョイナーのモーニングスター・ミニストリーとポール・キース・デイビスのホワイトダーブ・ミニストリーの共催による「父たちを敬う」 Honoring the Fathers と言うカンファレンスが行われた。
 事の由来は、ジョイナーが昨年主から与えられた夢の中で、主は「今のアメリカは父たちを尊敬していない。そのように父祖を軽視していることは地獄の門が一つ開く原因となり、その門から多くのわざわいが今アメリカに侵入している。その門は、父祖を敬うことをアメリカが回復することによってのみ閉ざすことが出来る。もしアメリカが今そのことを悔い改めれば、六ヶ月以内にわたしはアメリカにリバイバルを送る。」と語られたことから始まった。特に示された「父たち」とは、四〇年代から五〇年代に起った偉大な癒しのリバイバルに携わったオーラル・ロバーツとか若いビリー・グラハムと言ったエバンジェリストたちを指していた。
 
一方、癒しのリバイバルの歴史に精通しているポール・デイビスにも、数年前から同じことが神から示され、特に四〇年代に癒しのリバイバルに携わった父たち(ウイリアム・ブランハム、A.A.アレン等)を敬って来た。しかし彼はそれだけに留まらず、異邦人クリスチャンにとっての真の父とは、イスラエルの祖父たちであり、特に今はそれを強調・実行することを示されたと言う。 
彼は一九四八年にイスラエルの国が再興したことと、世界中に癒しのリバイバルが起り始めたことには否めないリンクがあると言う。異邦人とイスラエル人のクリスチャンが最終的に一つとならねばならない以上、確かに再興イスラエルの発展とキリストの花嫁である教会の霊的成長とが、同時進行し、両者の歩み寄りによって完成されねばならない。
 
その意味で一九四八年頃に始まった癒しのリバイバルの意義を知ることは重要と思われるので、このリバイバルに関わった一人であるミルフォード・E.カークパトリック(一九一二-二〇〇二)が次のように書いていることに注目していただきたい。

『私が一九四八年のリバイバルを語る時に、その他に起った総てのリバイバルを除外するつもりはない。総て主が起されるリバイバルは、キリストの再臨の時に教会が一つの身体となって大きな力を発揮する目的のためである。多くのリバイバルの蓄積が、最後の最も力と栄光ある究極の大リバイバルを成就させ、主による最終的勝利として完成される。一九四八年にリバイバルが起った時、私はそこにいてリバイバルが主の目的に適うためには次の七つの基本原則が必要であることを学ぶことができた。それは、

1.「敬いの心を持つ」もっと主を恐れ、主の臨在を求め、主の前にひれ伏せ。
2.「回復」栄光の教会になるためには失われたものがみな回復されねばならない。
3.「一致する」一致した教会のみが聖霊に満たされ、賜物を働かせ、その実に満たされ、目標が成就される。
4.「按手して聖霊の賜物を分与する」 教会は聖霊の賜物を全面的に生き返らせ、按手によって主の預言と共にそれを授け、その人に必要な聖霊の賜物を分与せよ。
5.「自分を正当化しないこと」 自分を正当化しようとすれば分裂が起る。へりくだれ。
6.「戦うのはだれか」癒しと奇跡、総て主のなさる業。主を見上げよ。 (ゼカリヤ四-六)
7.「世界的ビジョンを持つ」これが他の六つの原則の目的。使徒行伝が再来し増大する。世界に出て行って聖霊の働きを分与せよ。(ヨエル二-二八)』
 
ここから本論であるタッド・ベントレーがどのような人物であるかに触れたい。最初に言えることは、彼は上記七つのリバイバルの原則を総て心に備えた、あるいはそれを願って止まないリバイバリストであることだ。弱冠三十二歳のベントレーの口からは、天の父を呼び求め、主の臨在と栄光に飢え乾く言葉が出続ける。そして、四〇年代に始まった癒しのリバイバルの先輩たちの名前がぽんぽんと飛び出す。彼はボブ・ジョーンズ、リック・ジョイナーを始めとする多くの霊の先達者を尊敬し、彼らから薫陶と励ましを受け、愛されていることが明らかだ。

そのことがピーター・ワグナーの司会による六月二三日の按手任命式で実現された。この式で現代のアメリカの多くの使徒的・預言的リーダーたちと彼が一致(アライン)して、主のリバイバルに仕える者であることが宣告された。そのために三人の監督者(チェ・アン、ビル・ジョンソン、ジョン・アーノット)が任命され、このアウトポアリングが単にベントレー個人だけのミニストリーではなく、多くの霊的サポーターが背後にいることが認識された。言ってみれば世界的リバイバルへの出発が宣言されたのだ。
  
麻薬中毒者で五度刑務所入りしたベントレーは十八歳の時に救われた。二二歳で劇的なイエスとの出会いがあり、イエスご自身から按手を受けてミニストリーに入った。それ以来十年間で百万人を救いに導いたと言う。このベントレーと言う男は、上半身がいれずみで覆われ、下手なやくざが顔負けする風貌を持つ。どこからどう見てもこれが神の預言者か、と人は思うだろう。しかし神は敢えてこの若者を選んで立てられたのだ。言うこともやることも彼の風貌に似て伝統とはおよそ無縁である。だから伝統を固守する宗教的リーダーたちは眉をひそめるのであろう。(それが物議をかもす大きな理由の一つのようだ)

その上、時折乱暴を振舞う。ある時彼は、癒しを願う病人に突進して体当たりした。けったり、叩いたりすることもあった。事もあろうに、か弱いご婦人の腹をけったり頭をたたいたりしたのだ。しかし、その瞬間に癒しが起った。彼は今まで人から訴訟されたことは一度も無いと言う。誤解しないでいただきたい。彼が時に「乱暴を働く」のは、主にそうせよと言われて、それを忠実に大胆に行ったに過ぎないのだ。主は彼がためらいをもって行うとやり直しをさせ、信仰は大胆に実行することにあることを教えた。

極論を言えば、主は私たちに徹底して神のことばに従う忠実性だけを求めておられる。そのことを敢えてとっぴな形でタッドを通して私たちに教えようとされているのだ。タッドは人間的配慮よりも神の御声に忠実な者になる訓練を主から徹底的に受けて来たのである。
と言うことは、彼には神の声がかなりクリヤーに聞こえると言うことだ。タッドは他の多くの癒し手と同じように「知識のことば」を神から受けて、それを該当者と確認した上で神の御業を宣言することが多いが、私は彼ほどクリヤーに見えたり、聞こえたりする人はそれ程多くはいないと見る。神は時に癒す人の名前を告げたり、癒す内容を細かく指示するが、彼はかなり正確に主の声を聞き分け忠実に実行するので、癒しがその通りに起るのだ。あいまいなところはほとんどない。彼が神の忠実な代弁者になり切っていることが、見ていてよく分かるので信頼が持てる。そのような時に、会場には臨在が満ちていることが画面からでも十分に感じられる。主に対する忠実性、これこそ私たちが彼から学ぶべき最も大切なことのように思う。

タッド・ベントレーはレイクランドでどんなに疲れていても、毎朝欠かさず朝四時から二-三時間を主の前にひざまずき、主とだけの時間を過ごすと言う。彼がいかに主に愛され、主を愛しているかがうかがえるが、彼にとっては今絶対にこの時間が必要なのだ。しかしいくら必要と分かっていても、自らを厳しく規律するへりくだりがなければ容易に出来るものではない。
六月二二日に、彼自身が二〇〇五年から二〇〇七年にかけての一八ヶ月間に、主によって通らせられた「魂の闇夜」の経験を証した。「主の臨在の光が全くない暗闇を旅することによって、魂がきよめられ、神の愛と完全に結合する。それが神の選ばれた方法である」と中世のカトリック僧十字架の聖ヨハネが書いている有名な「魂の闇夜」を彼も通ったのだ。主は、タッドの若さと短期間に有名になったことから来る高慢とプライドを砕き、霊的に破産状態にあった私生活と過去の多くの古傷を完全にいやすことによって、今日のレイクランドのミニストリーに備えたのである。

私は彼に同情する。真理を語る者として世に知られれば知られるほど、内には高慢の罪との戦い、外には世からの誤解と迫害は避けられない。又、癒しとは悪霊との闘いであることを忘れてはならない。彼は大変な重荷を背負っているのだ。七月一〇日過ぎに彼は突然休む必要を訴えて講壇を降りた。(彼が約一週間の休みを取った間も集会は彼のスタッフによって続けられた)その彼を今癒すことが出来るのは、主に安息する時間をもっと取ることだけであろう。私たちは彼のためにさらに祈らねばならない。

このアウトポアリングが単に身体の癒しだけではないことは明白である。信者未信者の総てに覚醒を迫る。そして神は、総ての人間が創造された元の栄光の姿に帰ることを切望しているのだ。そのために神は人間が失ったすべてのものを回復させると約束する。第一に神との個人的親密な関係Intimacyが回復されねばならない。そして神は人間が元々持っていた超自然の信仰の賜物を回復したいのである。
タッドは、この超自然の信仰と言うものが、神からのギフトとして既に我々の領域にリリースされており、今こそこの信仰のサブスタンス(実体)を信仰の油注ぎによるインパーテーション(分与)として受け取ることを強調する。この分与はTVとかインターネットを通して受け取ることも出来ると視聴者に対して励ましている。

超自然の信仰と言えば、私は最近パトリシア・キングの司会によるタッド・ベントレーとボブ・ジョーンズの対談をYoutubeで見たが、その中でボブは驚くべきことを言った。彼は好きな時に第三の天(天国)に行ってくると言い、それは携挙であると語った。後の二人もそれぞれボブに手を取られて天国に行った経験を持ち、それを分かち合っていた。今は超自然の信仰によって誰でも「携挙」を経験できるとボブは言う。
ボブとかタッドだけではない。ビル・ジョンソンなど多くの人が、今は超自然の奇跡が日常茶飯事として出来る時代に入ったと言う。それは単に夢・幻としてではなく、タンジブルな(五感で感じられる、肉の形での )現象として起っていると言うのだ。

この二、三年、私たちは過激的な変革が来ることを預言されて来た。今がまさにその時なのだ。しかしどう変わればよいのか。それは先ず「きよくなる」ことではないだろうか。そのためには主の臨在に個人的に深く触れられねばならない。すると罪がどんどん示される。それを丁寧に悔い改める。タッドは「魂の闇夜」を通った時に、二一日間、毎日四時間泣き通したと証しているが、このプロセスを通らねば、私たちはきよくなれないのだ。私たちにリバイバルが必要なのは、実はこのためではないだろうか。

リック・ジョイナーは、父を敬うカンファレンスの後、彼のモーニングスターでのあらゆるミニストリーが、未だかってないような大きな祝福を受けていると報告している。一例として、その直後に行われた霊の戦いカンファレンスで、最初の日にステージの中央に雲の柱が立つのを二千人以上の人が目撃した。そしてホーリー・テラー(神聖な恐怖)が人々を濃厚に覆ったと言う。
そのジョイナーも大いなるリバイバルへと発展することを期待する一人である。彼は 「レイクランドのアウトポアリングはレイクランドに留まらない。世界に伝染して広がって行く。このリバイバルはリバイバルを超えたものへと発展するポテンシャル(可能性)を十分に具えている。」と熱く語る。

今こそ聖霊の深い取り扱いを受けて、あなたが先ずきよく変えられ、その変えられたあなたが超自然の信仰の油注ぎを得て、あなたの町にリバイバルの火を灯す(変革する)時が来た。時は切迫しているのだ。これから神はすばやくことをなさろうとしておられる。終末の暗雲とさばきの時がいよいよ近づいた。

「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ書四-六)

最後に、タッド・ベントレーは神が立てられたリバイバリストであること、そして最後の大リバイバルの火付け人の一人であることに、私は少しの疑いも持たない者の一人であることを付記してこの報告を終わりたい。(終り)

このレポートは「ハーザー」誌【9月号】に依頼されて書いたものの原稿です。


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by walkwithgod | 2008-08-05 06:10 | 坂達也からの今月のメッセージ

緊急! お祈り下さい。 坂 達也  8月3日2008年

緊急! お祈り下さい。

先程、今シアトル市にいるグルーバー師から電話がありました。ジュデイス夫人が昨夜遅く呼吸困難を訴え、娘さんが緊急処置として地元オマハ市のクレイトン大学病院に入院したそうです。
主な原因(病名)はcongestive heart failure と言われますが、それと共に肺に液体がたまり、アフリカでも病院でその液体を約2リットル注射器で取り出したとのことです。その際に彼女が咳きをしたため、注射器の針が動いて破裂が生じ、それが液体流出を起しているとのことです。緊急事態ですのでぜひお祈り下さい。宜しくお願いします。 坂 達也


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by walkwithgod | 2008-08-03 12:49 | 坂達也からの今月のメッセージ

神の見地・・・時間と永遠の合体 キム・クレメント 8月1日

神の見地・・・時間と永遠の合体

キム・クレメント

私たちの自由は状況によって支配されてしまうという思いは、神がひと度語られれば、すっかり取り去られます。しかし、そのためには一つの条件があります。神がそうできるように私たちが神に従順であることです。
最近私は、私たちの「物の見方、見解」 について、そしていかに私たち一人ひとりが「見解」であるかを、考えています。誰もが見解を持っています。私が一つの見解であり、あなたも又、見解です。そう考えると、私たちは自分の信仰体系、教育、霊的理解、個人的歴史(良かれ悪かれ)、そしてとても重要な現在の自分の状況を土台にして物事を見ます。その見解は健全なものであるかもしれませんし、あるいは自分の狭い考えにだけ基づいた見方かもしれません。しかし神が介入してくださると、神の見解で私たちの見方を変えてくださるの

神の見解

神が語られる言葉は神から見た物事の説明であり、その事に対する神特有の見解の完全な説明であり解釈です。なぜ神は物事に関してある特有の見解を持っておられ、どうして私の見解はそれと一致しないのでしょうか。これはよくあることです。神が私たちに語られるときのもう一つの重要な要素は、私たちが主のみ言葉を信じるならば(私たちは時間と空間の中に生きているので、そこから疲れ、病気、圧迫、異なる意見等の制約を受けながらも)、主はそれを実現させることがお出来になるということです。 

あなたは、こう質問されるかもしれません。「神は神であるのだから、なんの制限も受けないのではないですか?」と。その答えは簡単です。神は永遠、つまり時間のないところに生き存在しておられ、人間を時間と空間を司るものとされました。永遠からほとんど助けを借りることなく人間がそれを管理し、時をあがない、空間を占めています。制限のある人間の世界に永遠の力をもたらす助けとなるのは、彼らの信仰だけです。

信仰は山をも動かすことができます。イエスが一本の実のない木に語ったところ、翌日にはそれは枯れていました。主は風や嵐に静まれと命令されました。キリストがされたことは、主の血液の中に存在していた永遠の力を使って主のその時の制約(時と空間)を修正したのです。私たちは主と同じ制約を持っています。しかし、私たちが主と聖霊を受け入れるならば、主と同じ力を持つことが出来、私たちが人生の目標を達成するのを縛る制約は何もないはずなのです。

マタイ16章に書かれているシモン・ペテロの話をご存知でしょう。彼は他の弟子と一緒にいて、イエスの質問に答えようとしていました。「人々は私を誰だと言っていますか?」とイエスは聞かれました。彼らはみんなオウム返しに人々の意見を主に伝えました。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」するとイエスは、明らかに彼ら自身の見解を知りたいと思われて、次の質問をされました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

主は彼らの意見とか人間的な見解を聞いておられるのではなく、永遠の見地からの答えが何かを聞いておられるのです。誰も何も言いませんでしたが、とうとうシモン・ペテロが答えました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」これにイエスは心打たれシモン・ペテロに言われました。「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉(時間と空間/意見)ではなく、天にいますわたしの父(永遠)である。」また続けていわれました。「シモン・ペテロ、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」

突然私は一つのことがわかりました。「神からの啓示」が私たちの思いと交じり合って言葉となって口から出るとき、天(永遠/制限がない)と地(空間/時間/制限)とのハーモニーが作り出されるのです。シモン・ペテロは「神」からの見解を受けたゆえに、地上のこの世の状況の中に、つないだり解いたりすることによって永遠が入るように命ずることができたのです。

一時的 対 永遠

ここにジレンマがあります。一時的なことと永遠とは相反するものです。制約された空間的見解を捨て去って、永遠の見地の啓示を受けた者が、否定的な制約された意見からくるネガティヴなエネルギーの満ちたこの世の空間に向かって、啓示によって受けたその永遠の見解を宣言し解き放つ、そのような者を神は見つけ出そうとしておられます。
私の祖母がよく言っていました。「人の意見はお尻のようなものだ。誰でも持っていて大抵臭い。」と。 でも少し皆さんを慰めたいと思います。聖書は伝道者の書の3章で、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」とありますね。この「心」とは正確にいうとDNAのことなのです。

ですから、限られた時間と空間にいる私たちが持つ制約を克服できないはずは絶対ないのです。あなたのDNAに永遠があるということは、ほかの永遠に生きる人や永遠の物と接触したいという思いにあなたを駆り立てます。そしてもし見つからないと、一時的なものを見つけてその人や物を永遠のものにしようとするのです。

奇妙に聞こえますか? では、このことを考えてみてください。モーセはイスラエル人をエジプトの圧政者から助け出しましたが、400年間圧政のもとにあった何百万人かのイスラエル人の不信、恐れ、怒り、侮辱に取り囲まれていました。彼らの思いは、400年間の奴隷生活、抑圧、苦痛の歴史によって支配されていたのです。

彼らの前に突然ある一人の人が現れて、いくつかの奇跡をして見せ、ついには彼らを自由へと旅立たせました。彼らの信仰や期待感は低かったので、モーセが奇跡を行うことは困難だったといえます。しかし、モーセは神からみ言葉を受けていました。それは即ち、自分の中に永遠の命令は持っていたということです。
神の言葉は一時的ではなく、永遠で、決して死ぬことはありません。モーセは民の中に永遠なるものを見つけようとしましたが、そこには人間的な制約された見方しかありませんでした。あるとき何百万というイスラエル人は旅の途中水が無くなり、神に話して何とかせよ、とモーセに怒って迫りました。神はモーセのそばにあった大岩の中に水があると告げます。これはとんでもないことです。岩の中に水はありません。時間と空間という制約の中においてはありえないことですが、神の見地から見ればあるのです!

ですからモーセがしなければならなかった事は、神からのみ言葉を受け取り、それが彼のDNAの中にある永遠と結びついて(故に彼の思いの中でそれが可能となる)、命令によって岩の中にみ言葉を置くのです。岩の中に水はありません。モーセが信仰、即ち神から受けた永遠の見地、によって水を岩の中に入れ超自然となった彼の杖をもって岩に命令しなければなりません。
神はモーセに岩を打つように言われました。モーセが打つと水が岩から轟々と流れ出ました。歴史家によると、350万の人が飲んだり、料理したり、水を浴びたり、洗濯するために必要な15万5千ガロンの水が湧き出たのです。

治めよ

神のみこころを地上でなすためには、時間と空間の中にいて神の見地に立つ者が必要とされています。それが神が創世記で万物を創られたときの方法です。神はアダムを創造されたとき、ご自分が地上を治めるのではなく、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。すべてのものを治めよ。」といわれて、アダムにその力と権威を与えられました。

つまり神はアダムに「おまえは地球、時間、空間を管理せよ。そしてそこで問題が起こったらそれを治めるのはおまえの仕事だ。治めなさい。」と言われたのです。治める、支配するとは「主権とコントロールを持つ」ことです。人間の管轄権は地球上であってそれ以外の場所ではないのです。
創世記11章には、色々な人たちが自分たちが支配したいのは地上ではないと考え、天にまで届く高い神殿を建てようとしたことが書かれています。今日、これは馬鹿げたことに思えますが、実はこれと同じことが様々なやり方で今も起こっています。昔の人々はアダムの堕落によって地上を支配することに失敗してしまったので、その代わりに天を支配しようとしたのです。

彼らの思考は罪によって支配され、物の見方は狭い利己的な心の欲望ばかりになっていました。神が彼らの血の中に与えた「永遠」を、時間と空間という彼らの制約の中で使おうとはせず、むしろ他に住む場所を探したのです。
私はこれと同じ人々の態度を、特に教会の中で見てきました。人々はすばやく天に「あげられる」ことを願い、「私はもう地上の生活に疲れた。もうここから脱出したい!」と言うのです。
彼らはいろいろな教義を作り出して、神は私たちがこの惨めな地球上にとどまることは望んではおられず、地球を全滅させたいと思っておられる、というのです。これでは、神が私たちに与えてくださった大事な地球を必死で救おうとしている環境保護者たちとキリスト教は、対立してしまうことになります。神のアダムに対する最初の命令は「地を満たせ、治めよ、従わせよ。」というものではなかったでしょうか?

DNAの中の永遠

私たちはDNAの中に永遠を持っているのです。それは即ち、私たちが制限されていると思うのは間違いであり、自分の状況は修正することが出来、制限と見えるものは実は絶好のチャンスであり、又最大の武器になるということを証明するものなのです。もしあなたが神について学び、歴史上で神が聖書の人物や他の偉大な人物を用いてどのように働かれたかを調べるならば、ほとんどの人が非常に制約の多い困難な状況におかれて、周りからは猛反対を受けていたことがわかるでしょう。

「永遠の見解」は私たちの思考にトランスフォーメーションを起こし、それによって私たちが使う言葉をも変えます。あなたが自分の状況を変えるために言葉の持つ力で命令すれば、その状況は一時的な難題から永遠の目的を持つものへと変換されます。モーセは燃える柴で神の前に立ち、一体どうやってイスラエル人をエジプトから解放するのかと尋ねました。
当然遭遇するであろう様々な苦労は別としても、モーセの難題は沢山ありました。神はモーセに(彼はエジプトで王子であったときに殺人を犯し、逃亡している身であった)、「わたしはあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われました。

神は何百年もの沈黙を破られ、父祖の名前を出されご自分を示されました。このような場面には全く備えができていなかったエジプトの王子モーセは、父祖たちが見せたことのないような恐怖を表しました。「モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。」(出エジプト3章)
同じく3章で神は再び語られました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また奴隷をこき使う者の前で彼らの叫ぶ悲鳴を聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って(時間と空間の中へ)彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地に至らせようとしている。・・・さあ、行きなさい。わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう。」

ちょっと待ってください。イスラエル人を救い出すために神は下ってこられたのではないのですか? それではどうして神はモーセにその仕事をするように頼んでいるのですか? それは、神は人間に地上の管理を任されて、ご自分の行動を制限されたからです。神がされようとする仕事はいつも人間に与えられるのです。これはエクサイティングです。というのは、神はその力(何かを成すために神が持つ力)を私たちに渡して、私たちに行って事を行うようにと命令されるのですから。

我々の見方を扱う必要

神にとっての本当の問題はただ一つ、私たちの物の見方を取り扱う必要があることだけです。私たちは物事をどのように見るでしょうか? 神と同じように見ることができるでしょうか? 神の見方は永遠の見方です。私たちの見解は一時的であり、狭い視野によって制限されています。今神は私たちにも永遠の物の見方ができることを納得させねばなりません。

モーセは神のみ前に杖を手に立っています。杖は彼の安全を守るものであり、彼にとって唯一使い慣れたものでした。杖は羊を導き、襲ってくる獣を退けるものでした。神はモーセに杖を投げるように命じました。モーセはそのとき突然、一つの目的のために使っていた一片の木にすぎない杖が蛇になるのを見たのです。一時的に見えるものも、実はそれだけではないということを神はモーセに示そうとしたのです。表面的には杖は安全で、ありきたりの物に見えますが、実は永遠の見地と命令によれば、多くの興味ある物を造りだすことができるのです。

イエスが地上におられたときのことを考えてみてください。主は一つの問題にぶつかりました。一人の男が盲目で見えるようになる必要がありました。イエスは地につばきをし、泥を作り男の目に塗りつけました。すると突然盲人は見えるようになったのです。人々の足や動物のひずめで踏まれた土は、突然盲人の目を開ける道具になったのです。

イエスはどうして常のようにされなかったのでしょうか? 誰かの上に手を置かれるとか、言葉を発せられるとかではなくて、土を使われました。それは人々にあきらかに何の役にも立たないと見えるものも、人を癒すために使われる力になるという事実を教えたかったからです。どのようにしてでしょうか? 主は土の中にただ踏まれたり掘られたりすることよりももっとよいものを見られたのです。そして主が土につばきをかけられたときにそれに永遠を入れられたのです。

DNAが地の中に移されたのです!あなたのDNAの中にある永遠を他の人の中に移す力をあなたは持っているのです。それこそが預言のエッセンスです。あなたはある人の中にもっと偉大なものを「見る」のです。彼らが見ているものよりももっと偉大なものです。そしてあなたは彼らのいのちの中にそれを語るのです。彼らがもともと意図され創造された永遠のものになるのを見るのは、なんという喜びでしょうか。

忘れないでください。あなたは血液の中に、DNAという永遠を持っていて、すべてのものを変える能力を具えています。あなたは神からのことばを持っていて、それがあなたに必要なもののすべてです。(終わり)

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by walkwithgod | 2008-08-01 15:39 | アメリカからのメッセージ