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永遠が押し入ってくる! ジェフ・ジャンセン 10月21日

永遠が押し入ってくる!

ジェフ・ジャンセン(グローバル・ファイヤー・ミニストリーズ)


最近私は主と出会うという経験をしたのですが、そのとき主は時が迫っていて永遠が非常な勢いでやってくることを示してくださいました。この経験を通して私は、アモス書にある「耕す者が刈るものを追い越す」という意味を理解することが出来ました。永遠という領域が、文字通り自然の時間を追い越すのです。

私たち、キリストの身体は、新しい時代に突入する瀬戸際に立っています。神の栄光で満ちた、時のない領域では、加速的に強まる力があるのです!神の栄光の領域が自然の領域に入り込むと、奇跡、癒し、しるし、不思議、創造的力が大いに加速されます。

2000年近く前に、ヘブル書の著者はユダヤ人信者に対して、キリストに関する初歩の教えや基礎を離れて、成熟を目ざして進むようにと勧めています。(ヘブル6:1参照) 皆さん、今日私はあなた方が神の御座の前に大胆に確信をもって進み出て(成熟へと進んで)神の栄光の新しい領域と出会うようにと強くお勧めします。

今は神の栄光が、キリストの身体の中や身体を通して現されるときです。宮の後の栄光は、先のものよりまさるのです。(ハガイ2:9参照)

今からは残りの者の集団、打ち勝つ信者たちの身体、栄光の世代が起こされ、彼らは王として新しいレベルの権威で御国を偉大な力で統治し、キリストの身体の身丈にまで達するのです。この残りの者は地上から起こってくる新しい人です。キリストの身体が成長するので、イエスの復活の力が完全に現されるのを私たちはもうすぐ見るのです!

デスティニーの種が刈り取られようとしている

主は私たちが今加速の時代にいることを示してくださいました。アモス9:13にある「耕す者が刈り入れる者を追い越す」という時代にすでに入ったのです。永遠がそのまま現在の中に注がれて、私たちを加速的に進ませているのです。過去に蒔かれた種、デスティニーの種、が良いものも悪いものも十分色づいて刈りいれを待っています。

永遠の領域が現在と交ざり合わされたので、様々な出来事が最高潮に起こっています。まだされていないことも、キリストが来られるまでに完成されるでしょう。通常10年かかっていたことが、10ヶ月、あるいは10週間で起こるようになるでしょう! キリストの雲が下ってきて私たち全体を覆うので、キリストの身体は急速に成熟するでしょう。このシーズンはやってくるのではなく、すでに今ここに来ているのです!

現在、栄光のうちに神は任命を下し、マントルや奇跡を開放されています。力と増加の霊が地上のすべての信じるキリストの身体の上に注がれています。それは世界的な大収穫のためです。今、私たちは今までに無かったような御国の力と栄光の顕れを見るようになります。

それに加えて、今主は主の計画と目的のために主の民が自分を聖別することを要求されています。完全に従順であり情熱的に聖さを保つことが絶対必須条件です。熱烈なワーシップと信仰のライフスタイルは、この世代にリバイバルの火をつける燃料であり、生けるキリストの火のような臨在の中で完全に焼き尽くされ聖められる者とならねばなりません。

時のない栄光の領域

栄光の雲は人々を覆う天蓋のようであり、すべての人がそれに触れられます。栄光の雲が臨むとき、天との直接的なコンタクトが起こるので、啓示が増し、霊的視野が開け、賜物が活性化され、奇跡がそこら中で起こります。
アダムが神に創造されたときは、彼には時もなく、不老で、永遠の存在で、時のない神の栄光の中に置かれました。人は病気や死もなく、神の栄光の時のない領域の中で生きるように造られました。

通常全治するのに何週間、何ヶ月とかかる怪我は、神の栄光に触れられるとき瞬時に癒されます。実に時というものは、天の市民としての自分の権利を知り理解している者たちに仕えるように作られたのです。時のない領域を経験するときに、私たちは栄光の領域を経験するのです。
栄光の雲の中にいるとき、私たちは主のみ言葉を宣言し、それが超自然的に顕れるのを見るようになります。ヨブ22:28の「あなたが事を決めると、それは成る」という領域に入るのです。神は私たちを天の倉に入らせてくださり、すべての必要なもの、奇跡、賜物、マントル、祝福、恵み、その他なんでも取り出させてくださいます!今のシーズンに私たちが栄光の新しい領域に入るとき、私たちは自分が語る言葉がすばやく成就するのを見るでしょう。今は物事を宣言するときです、それは成就されるでしょう。

私たちの任務

私たちはプレイズとワーシップを通して新しい栄光の領域に踏み込むようにと、主から任命されています。 私たちがこのことを共にするならば、力と栄光に満ちた御国が顕れるのを見るのです。神の御国が地上で主権を持つようになり、すべての敵の要塞を取り払っていきます。詩篇149:6に「彼らの口には、神への称賛(ハイ・プレイズ)、彼らの手にはもろ刃の剣があるように。」とあります。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配されるのです。(第一コリント15:25)

ハイ・プレイズを通して私たちは敵の計画を打破し、まだ顕れていない栄光の新しい領域をこの地にもたらすのです。私たちは時のない領域に踏み込み、想像もできないような奇跡を主の臨在の中で見るのです。天にむかって進み続けるとき、私たちは自然の領域に存在する制約を打ち破り、古いパラダイムを振り落とします。

天の扉は今までになかったほど広く開けられています。そして私たちはデスティニーの巻物が解かれるのを今見ています。目に見える世界も見えない世界も共に栄光から栄光へと変えられています。そしてすべてのものが、ますます増加する神の栄光によってトランスフォームされていっています。

祈りましょう。「父よ、新しい栄光の領域へと導いてくださってありがとうございます。どうか私たちの心の目を開けて聖徒の受け継ぐべきものがいかに栄光に富んでいるかを体験できるようにしてください。どうか感じることのできるあなたの臨在で私たちを覆ってください。キリストの身体をあなたの栄光の雲で覆ってください。モーセの叫びが私たちの心の中で響きますように。『どうかあなたの栄光を見せてください!』と。
父よ、どうか私たちの前を通り過ぎるあなたの善をいつも見させてください。イエス様、あなたの花嫁をあなたのみ言葉で聖め、あなたが憩われる聖なる住まいとしてください。あなたはご自分のために栄光の教会を用意されます。聖霊よ、今急速のときが来ていますから、私たちに栄光の領域でどのように動き働けばよいのかを教えてください。そして私たちが信仰の一致によって立ち上がり、神の御子を知る知識により、今までになかった力の栄光の御国の顕れを見ることができますように。私たちは現れた神の息子、娘であり、栄光の世代なのです。 イエスの御名により、アーメン」 (おわり)


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by walkwithgod | 2008-10-21 09:33 | アメリカからのメッセージ

打ちひしがれた魂はどこに神を見出すか フランシス・フランジペン 10月14日

:打ちひしがれた魂はどこに神を見出すか

フランシス・フランジペン


イエスは今の終わりのことを表すのに、非常に厳しいタイトルをつけておられます。主はこの期間を「大艱難時代」と呼ばれたのです。艱難という言葉は「過酷な苦痛、災難。霊的な圧迫、重圧」を表します。今私たちはこの時代の終わりに近づいているのですから、人間への破滅的な災難や圧迫が増加することを予期せねばなりません。

現代はますますストレスが大きくなるのに加えて、政府や一般社会はモラルの低下に歯止めをかける意欲をだんだん無くしています。世間のかなりの割合の人々が、神に真っ向から逆らっている時代に私たちは生きているのです。詩篇2編にある預言は、私たちの眼前で現実となっています。「地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と主に油そそがれた者とに逆らう。」(2節) この世はモラルの価値を捨て去り、活動家たちは「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」と叫ぶのです。(3節)

イエスは今の時代に関して「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)と警告されました。もしあなたが暗さを増すこの世の中で、その流れに抵抗してきた者たちの一人であるならば、この戦いがどれほど激しく、又多くの戦いの最前線で戦わねばならないかをご存知でしょう。コミュニティーの中の不正を正そうとする戦いであれ、家族が一致するための努力をしているにせよ、一歩事が前進したかと思うと、今度は五つくらい問題がすぐに出てきます。

いくつかの都市でブレークスルーが起きているにもかかわらず、善良な人たちの多くは気力を失っています。彼らはただ毎日同じルーティーンを繰り返しているだけです。預言者ダニエルは、敵が「いと高き方の聖徒たちを悩ます(疲れさす)ダニエル7:25」時代のことを警告しています。今の時代に勝利者として生き残るには、詩篇91で神が与えてくださっているリアリティーまで登っていかねばなりません。いのちが再び満たされる場所がそこにあるのです、そこは私たちが宿ることができる永遠の命の泉です。聖書はこの場所を「いと高き方の隠れ場」と呼んでいます。

エリヤ:私たちと同じ人間

エリヤは私たちと同じように情熱をもった人でした。そして私たちと同じように霊的戦いをしました。彼はイスラエルの魂のために戦い、イザベルとその夫アハブ王とのたくらみに対抗しました。しかし、彼の一番激しい戦いの相手は目に見える敵ではなく、自分自身の落胆に対する戦いでした。

エリヤは勇敢な人でしたが、逃亡者として洞穴や隠れ場所を転々としなければなりませんでした。イザベルは主の預言者たちの大多数を殺害し、彼らからの神の影響の代わりにバールやアシュラの祭司からの暗闇の悪魔的な力を受けていました。 しかし、新しい指令が主から発せられました。エリヤとバールの預言者たちは、それぞれが仕える神の祭壇を築き、祭壇に火をもって答えられる神こそが彼らの主であると認められるということになったのです。 
アハブ王とイスラエルはこの戦いを見に集まってきました。そして、いかにバールの祭司たちががんばっても、悪の偶像バールからの応答はありませんでした。それとは対照的に、エリヤが祈ると火がたちまち天から下り、いけにえをなめ尽くしました。これはエリヤが勝ち取った最大の勝利でした。イスラエル人は神の力を見て地にひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」(第一列王記18:39)と叫びました。

しかし、主がされることはまだあったのです。バールの祭司たちを死刑にしたあと、エリヤはカルメル山頂に行き、顔を伏せて雨が降るように7回祈りました。 そして、とうとう3年間の旱魃を終息させる大雨を主がもたらされました。この日一日で火と雨が奇跡的に天から下ったのです!
このすばらしい出来事がイスラエルの歴史上の他の時代に起こったのならば、イスラエルは悔い改めたでしょう。しかし、それは起こりませんでした。バール礼拝はここで終わるべきでした。しかし、続いたのです。実際、何も変化が無かったのです。エリヤが心に描いていたリバイバルとは全く反対のことが起こりました。怒り狂ったイザベルは主の預言者を皆殺しにすることを誓い、エリヤはあわてて荒野に逃げ出しました。えにしだの木の下で、エリヤは疲れ果て意気消沈して倒れてしまいました。 疲れ果ててエリヤは「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」と祈りました。(第一列王記19:4)

エリヤは出来る限りの努力を主に捧げました。この日は彼の人生が絶頂に達した日でした。エリヤはイスラエルが主こそ彼らの神であることを知るようにと祈り、それに答えて主はイスラエルの「心を翻して」(第一列王記18:37)くださったのです。しかし、先の預言者たちと同じように、エリヤはイスラエルのリバイバルを引き起こすことは出来ませんでした。落胆が彼を圧倒しました。彼はもう十分だったのです。

あなたも霊的にも感情的にも疲れ果てて、「もう十分です。」と言ったときがありましたか? それは自分の家庭を良い方向に変えられなかった自分の力不足に落胆したときだったかもしれませんし、あるいは、あなたの教会や社会のために断食して祈ったにもかかわらず、何もこれといった変化が見られなかった時かもしれません。あなたは全力を出し切ったのに、なんの成果も見られなかったのです。エリヤのように落胆して疲れ果て、あなたのすべてを使い果たしてしまったのです。

エリヤは横になって眠りました。すると御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」といいました。(第一列王記19:5) 彼の頭のところにパンと水がありました。人生に疲れ果てていたエリヤは、それを食べてまた眠りました。

もう一度御使いが彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから(too great for you)。」と言いました。(7節) 私たちのヴィジョン、計画、プログラムに到達するための旅もまた、「too great, 大きすぎる、まだ遠い」のです。実に私たちの旅は、自分一人でするには大きすぎるように神は作られたのです。神なしで成功できるような計画を、主は私たちのために立てられることはないのです。私たち神のほうに助けを求めて駆り立てるように、人生は組み立てられているのです。

基礎に戻る

「そこで、彼(エリヤ)は、起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。」(第一列王記19:8)

主はエリヤに力を与えられましたが、それは彼を戦いに戻すためではなく、彼を基本に戻すためでした。もし私たちが神を愛することよりも働きのために力を費やしているならば、私たちの人生はいつかもろく荒れ果てたものになってしまいます。主は私たちの魂を生き返らせるために、私たちを信仰上不可欠なものへと引き戻してくださいます。実際、主は私たちの働きを全面的に止めさせて、もっとシンプルな、祈り、み言葉に時を過ごす、ワーシップというようなことに導いてくださるときもあるのです。主の私たちへの最大の召しは、主を「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」愛することです。(マルコ12:30) この焦点を失うと、私たちは神の臨在に触れることができず、いと高き方の隠れ場から外に出てしまうのです。

主はエリヤを「神の山、ホレブ」に連れていかれました。ヘブル語でホレブという言葉は「荒廃」を意味します。荒涼とした景色はエリヤの魂の状態を映していました。しかし神はホレブを人間の心の問題を表面に浮かび上がらせる場所として使われるのです。ホレブに芝居をする劇場はありませんでした。そこでは人間の何の飾りもないありのままの心の奥底が透き通って見えるのです。

この場所にどうして来たか

エリヤの持っていた一番の徳は、多分、彼の情熱だったでしょう。実際、神との会話でエリヤは自分が主のために「非常に熱心」だったと言っています。しかし、知恵の伴わない熱心さは、いつかはそれ自体が神になってしまい、主の油注ぎやタイミングを無視して、実現できないような期待を実現せよと私たちを駆り立てるのです。

バランスをうまく保つには、生ける神との戦略的な出会いによって熱心さを手綱で御し、それに馬具を着けねばなりません。そうでないと私たちは始終人にいらいらしたり、遅延によって落胆させられるのです。その結果私たちは、力を得たり霊的に守られる場所から外に出てしまうことになります。
エリヤはホレブに来て洞穴に宿りました。すると、主のことばがありました。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」(第一列王記19:9) これは神が私たちにされる最も重要な質問の一つです。主の質問は私たちの霊的状態を探りあてます。「わたしのためのあなたの働きは、どうして乾ききって惨めになったのか?」と主は聞かれるのです。主を愛することを第一としないときに、私たちは必ず荒野に至ることを、私たちがしっかり理解することを主は望まれます。

私たちの人生の第一の目的は、キリストのうちに宿ることでなければなりません。そうでないと、私たちはこの世の堕落した状態にあまりにも巻き込まれてしまい、自分自身の魂が堕落していくのが見えなくなってしまうのです。主は愛の故に私たちにストップをかけ、私たちに自分の心を正直に見つめさせます。「今私が生きている人生は、キリストが私に約束されたような豊かな人生だろうか?」と自問させるのです。

率直に話しましょう。私たちは何かを立証する必要もなく、お芝居をする必要もありません。自己防御とかプライドという内部メカニズムを捨て去っていいのです。もし失望したのなら、そう言えば良いのです。フラストレートしたならば、それを認めればいいのです。私たちは、もっともらしい説明ぬきで、私たちの霊的状態をシンプルに正直に自己評価すればいいのです。

主よ、私のこころをはっきり示してください。すべての失望や痛み、また私の罪や失敗を良心の表面に浮かび上がらせてください。私の魂から抑圧の重荷を取り去ってください。主よ、あなたが私のこころの手術をする間、私が静かに横たわっているようにどうか助けてください。
何も隠すことのない透明さはへりくだりの外套であり、へりくだりは神の恵みを私たちの心に招きます。神との親密さを私たちは一番おろそかにしているのではないでしょうか。しかし戦いの中では、主だけが私たちの力の源ではないのでしょうか。もし神との親密な時間を敵に妨害させるならば、私たちは神からしか得られない助けを自分から切り離すことになります。
ですから、何も隠すことのない透明な外套だけを着て、神に近づこうではありませんか。

新しい油注ぎ


今の時代のプレッシャーがますます大きくなるにつれ、昨日の油注ぎでは今日の戦いには十分ではないことを、私たちは知るようになるでしょう。主はホレブにおいて、エリヤの人生に新たな出発を与えられました。それはやがてエリヤが後継者のエリシャに2倍の力を与えるものとなっていきます。この新たな油注ぎのもと、イザベルは倒され、バール信仰は廃止され、北イスラエルが経験した唯一のリバイバルの期間が始まったのです。

私たちが同じようなブレークスルーを経験するには、私たちの情熱だけで押し進めることはできません。神が私たちに、それぞれのホレブを通過するように召されても、驚いてはいけません。
自分がこのような場所に来たことはどのようにして分かるのでしょうか。ホレブとは荒れ果てたと叫ぶ自分の声です。もっと神と深い関係を持ちたいというあなたの心の必死の叫びです。私たちは今、神の声を注意深く聞かねばなりません。なぜならば、主がもっと深く私たちをご自分に引き寄せてくださるのは、ホレブにおいてです。主の憐みの天蓋の下でこそ、私たちは自分が破綻した真の目的を発見するのであり、私たちの荒廃こそ、実は、準備のときなのです。
主はあなたに新しい始まりをもたらそうとされています。あなたが戦いに戻るとき、あなたはいと高き方の隠れ場から戦うのです。

主イエスよ、あなたから離れては、私の人生は乾いて荒涼としています。あなたの臨在に宿ることなしに御こころを成そうとしたことをお赦しください。主よ、私はあなたを必死で求めています。今日、私の心は、はじめの愛に戻ることを誓います。主よ、あなたとの親密さこそ、私の成功の度合いを測る一番の尺度であると考えることを教えてください。あなたの栄光を見せてください。あなたの善を現してください。聖霊よ、神の臨在のとりでへと私を導いてください。アーメン(終わり)

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by walkwithgod | 2008-10-14 20:09 | アメリカからのメッセージ

トッド・ベントレーが残した課題 真の使徒時代の黎明 10月2日

トッド・ベントレーが残した課題
          -真の使徒時代の黎明― 


  
この記事はハーサー誌11月号への原稿です。

     坂  達 也

ユダヤ暦の2008年は間もなく終わろうとしている。今年一年を振り返ってみて最も目立った「事件」の一つは、フロリダのレイクランドに起こった癒しのアウトポアリングではなかろうか。
 その中心人物は好むと好まざるにかかわらずトッド・ベントレーであった。彼が招かれたイグナイテッド・チャーチで、彼自身も予期しなかった嵐のような聖霊のアウトポアリングが起ったのが4月初めであったが、それも4ヶ月ほどであっという間に過ぎ去った。まるで大型の台風のようであった。大型台風は被害を与えるが、人々は「ベントレー」と言う名の台風が去った今、ベントレーが祝福の代わりに被害を与えたかのように、その後始末で騒いでいる感がするのは私だけであろうか。

今回の「ベントレー事件」で注目すべきことの一つは、6月23日にピ-ター・ワグナーの取り持ちと司会により、ベントレーが三人の使徒的監督者の下につくと同時に、レイクランドにおける癒しのリバイバルの伝道者として公に按手・任命されたことであろう。しかしこの任命式の後、多くの人々、中でも自分と関係している使徒たちからの反対と批判を受けたピーター・ワグナーは、特にトッドの別居・離婚発表があった後において噴出した多くの抗議に答える形で、8月25日に一つの声明文を発表した。

 彼はその声明文の冒頭で、ベントレーのレイクランドのアウトポアリング第一部は終わり、その後ストレーダー牧師によりアウトポアリング第二部が始まりうまく行っていることを強調した。(確かにそれは事実のようであり、主の御名をたたえたい。)しかしその書き方には、ベントレーをまるで悪臭のする汚物のように見て、早くそれに蓋をし過去のものとして葬りたいと言う気持ちがありありと見受けられた。そしてピーターは、トッドに「うそつき」で「人を惑わす男」と言うレッテルを貼り、実際に彼自身も「だまされた」と言う。私はこの書き方から、彼が使徒と呼び合う同僚たちから、どれほど大きなプレッシャーをかけられているかが分かって気の毒に思った。

 彼は今回、神からトッドを使徒的にalign(整列・参加させる)せよと言われる御声を聞いて、自分は気が進まなかったがそれに従ったと言う。そして彼はチェ・アン、ビル・ジョンソン、ジョン・アーノットの三人の使徒(リバイバル・アライアンス)の下にトッドをつけることを提唱し、それを正式に司会者として発表した。私は彼のしたことは正しいと信じ、その点では彼を全面的に擁護したい。しかし、腑に落ちないのは、彼が信仰でトッドのミニストリーを使徒的な仕事としてその権威の下に入れる儀式の長を務めながら、実は、私は元々トッドをエンドース(支持)していないとか、トッドのミニストリーに対する興味は薄かったと、なぜ言うのかと言う点である。要するに彼の手紙は、使徒団体のリーダーとして自分のしたことの正当性を弁解し、反対者に対しての言い訳をしているに過ぎないような気がする。

 ピーターは今回自分がやるべきことをしたのでレイクランドの秩序が回復し、トッドもこれから3人の監督の下でカンセリングが始まることを自分(たち)の功績として誇ったが、私は確かにそれを認める。そして彼は、自分はリスク・テーカーであると言い、今まで1970年以来18人以上の著名なリーダーを自分の名声を賭ける危険を犯して支持したり、パートナーとなったり、あるいは使徒的にアラインして来たと説明する。その結果72%(13人)は勝利者となったが、17%、すなわち、トッドを含む3人がloser敗北者となった、そして残りの二人は勝者敗者のどっちともつかない人であったと言う言い方をして、トッドにはっきり敗北者と言う焼印を押した。彼は今回のトッドの件でピーターの団体に所属する人のうち、ピーターと係わり合いがあると思われることを恐れて数人が脱退し、多くの人が今も自分のやったことに憤慨していると言い、自分はそうなる危険を冒してまでもトッドを使徒的権威の下につけたと言いたいのであろう。ちなみに彼はICAと言う500人の使徒が所属すると言う世界最大級の使徒団体の議長を長年務め、現代における使徒のムーブメントの最も著名な世界的リーダーである。

  しかし私が驚いたことは、彼は、初めから終わりまでトッドの罪を責めてはいても、使徒的指導者としてトッドをかばう、あわれむ言葉は一つもないと言う事実である。就いてはこの際、私はピーターに使徒とはどんな人で、どんな役割を持つのか、その根本的な考え方を聞いてみたい。何故なら、私にとって使徒とは「主の直々の弟子」として主が選んで立て、個人的に主と親しい関係に入り、「真にキリストに似た者」となり、パウロのように「私に見習いなさい」と堂々と言える人であると信じるからだ。つまり使徒としての最優先の資格は、先ずキリストの愛に満ちた人で、常に父の御心を知り、主と同じ思いとあわれみを持って人を指導し、育て上げる人であるはずだ。
 
 次に、使徒は主が選んで用い、主の力と栄光を発揮できる人でなければならない。その点、トッドが主から選ばれた器で、聖霊のアウトポアリングによる力を受け、大いなる癒しを顕してイエスの証人になると言う、現代においてはまれな使徒としての重要な素質(資格)を持っていることをピーターは全く認めていないようだ。使徒とは、単に組織を作り上げたり、施政方針を決めたり、大局的に指図することだけがその職務ではないのである。

 さて、今回の「トッド事件」で私が気付いたことの一つは、6月23日の式で壇上に並んだ参列者の一人であったリック・ジョイナーが、ワグナー・グループのしていることを尊重して決して批判はしていないけれども、その式の内容を説明する際に一言も「使徒」「使徒的アラインメント」と言う言葉を使っていないことである。私の知る限り、彼は人から使徒と呼ばれても自分からは使徒であるとは言っていない。

ここで、9月19日にボブ・ジョーンズ夫妻とジェフ・ジェンセンから「主は2012年までに終末における真の使徒たちを立て、真の使徒組織が確立される」と言う重要な預言が発表されたことに触れたい。新約聖書では教会に五役者が立てられるとはっきり書かれているが、初代教会以来、特に終末の現在においては最も必要で重要な使徒職が未だ確立されていないのが事実である。その意味で今は最後の真の使徒の時代に移行する過渡期であり、過渡期には混乱が付き物だ。トッド・ベントレー事件がまさにそのよい例であろう。その混乱の時期に主は、これからの使徒のひな型の一人として若いベントレーを立て、それを支えるべく現代の使徒組織を代表するワグナーにアラインさせたが、どちらも不完全であることを世に示された。これは主が不完全なものを完全なものにされる前触れであり、今まで不完全であった教会を、究極的に主の花嫁として完成させる時期がいよいよ迫って来たことを示されたのであると信じる。それには真の使徒が絶対に欠かせないのだ。

そこで何はともあれ、先ずはその過渡期の使徒組織のリーダーとして長年ピーター・ワグナーが取って来た労に私は感謝する。
 ここで、トッドの監督者の一人、ビル・ジョンソンが何を言っているかをご紹介したい。

<トッド・ベントリーとレイクランド・リバイバルに関してのビル・ジョンソンからの手紙 2008年8月(17日)> 

 先週一つの大きな悲劇が明るみに出ました。レイクランド・アウトポアリングをリードしてきたリバイバリストのトッド・ベントリーがメルトダウン(溶けくずれ)してしまい、離婚の申請をしたのです。これはリバイバルにとっても彼と立場を共にした人々にとっても最悪のタイミングでした。

 6月に、チェ・アンとジョン・アーノットと私はレイクランドに行き、トッドの任命式を行ったのでした。私たち3人はトッドをサポートして立つ必要を感じたのです。彼に対する攻撃が大変激しかったので、私たちは彼の力になることが出来ると思ったのでした。ジョンとチェは、トロント・アウトポアリングに対して起こった大きな攻撃に耐えてきたという体験があったので、特に力になることが出来ると思われました。ピーター・ワグナーが式を監督し、リードをしてくれました。ピーターはこのリバイバルを彼としては支持していたわけではありませんでしたが、トッドが使徒的アラインメントを受けることが大切だと感じ、ピーター自身が批判されるかもしれないというリスクをとって、この役目を引き受けてくれました。

 私がレイクランドの壇上でトッドと共に立ったのは、彼が性格的に完全であるからとか、彼のレイクランド・リバイバルのやり方に全面的に賛成していたからではありません。私がレイクランドに行った理由はトッドに多くの敵がいたからです。彼は容赦ない批判と攻撃を受けると共に、時には知恵を欠くような過酷なスケジュールで生活していたので、この若者がやがて感情的にも、知性的にも、肉体的にも、霊的にも破綻することは目に見えていたのです。これと同じことが2年前に彼に起こりました。ですから再び起こる可能性は十分あったのです。彼一人が攻撃の対象とならないようにするのが、私の意図でした。しかし、それには既に遅すぎたという事実を私は知りませんでした。トッドは、自ら結婚を放棄し、ミニストリーのすべてから手を引いてしまわねばならないほど再びバーンアウトしていたのです。私はトッドが悪い選択をしてしまったことに対して彼の反対者を決して責めませんが(そうなったのはトッド一人の責任です)、彼ら批判者の攻撃は彼らが考える以上にトッドに深刻な影響を与えました。

 これから何をすればいいのでしょうか?トッドとシャナのためにどうか祈ってください。彼らの結婚と人生が完全にいやされるようにと。そして、彼らをカウンセリングする人たちに、偉大な知恵があたえられるようにと。カウンセリングの詳細はお知らせ出来ないかもしれませんが、私たちがこの悲劇に癒しと秩序をもたらすために、可能な限りのことをしていることをどうかご理解ください。(ビル)

 私はこのビル・ジョンソンの手紙から大きな感銘を受けた。彼は又、彼のホームページで、6月と5月にも下記のようなコメントを発表しているので付記したい。これは多くのトッドの批判者からの「一体どうしてあなたはトッド・ベントリー(のような者)を支持することなど出来るのか?」という質問に対しての答えである。

「あなたはトッドと時間を過ごしたことがありますか?彼を知っていますか? 彼が妻と一緒にいるところにいたことがありますか?
 彼が自分の子供たちとどのような関係であるか見たことがありますか? 彼のスタッフと一緒にいたことがありますか?
 彼のミニストリーの場に行ったことがありますか? 彼があなたのミニストリーの場に来たことがありますか? 彼に手を置いて祈ったことがありますか?
 彼があなたに手を置いて祈ったことがありますか? 悲劇が起こったとき彼と一緒に悲しんだことがありますか? 勝利を共に祝ったことがありますか?
 彼があなたにアドバイスを求めてきたことがありますか? 彼があなたのアドバイスを受けるために遠くから来たことがありますか?
 彼のアドバイスを受けたことがありますか? 彼と一緒に部屋にいて、彼に神が顕われ、彼をつかって驚くべき奇跡をされるのを見たことがありますか?
 彼が知識の言葉を用いたり預言的に働くのを見たことがありますか? 彼の長老たちに会ったことがありますか?
 彼の賜物によってあなたが祝福されたことがありますか? あなたの賜物やミニストリーによって彼が祝福を受けたことがありますか?
 彼が神にある人としてあなたに敬意を表したことがありますか? 彼が友人としてあなたとパートナーになったことがありますか?
 彼のために、また彼の家族のためにあなたが犠牲を払ったことがありますか? 彼と一緒に神を求めたことがありますか?
 彼と一緒に神をワーシップしたことがありますか?
 ないでしょう。私はあるのです。私はこれからも、人生やミニストリーにおいて共に歩んだ人たちをサポートし続けるでしょう。トッドは私の友人です。それよりも重要なのは、神がトッドを友と呼ばれるということです。そしてもし、あなたと私がそのような深いレベルの友人であるとしたら、もし人々があなたを憎みあなたに敵対し、ウェブ・ページであなたのミニストリーをこき下ろし、あなたの友人にあなたの批判をし、キリスト教の雑誌にあなたへの反対を書き、ラジオで批判し、カンファレンスのスピーカーや著者たちにメールを送ったとしても、私はあなたの友であり続けるでしょう。
 ついでに言いますが、質問の形をした批判は質問ではありません。しかし、あなたの「一体あなたはどうしてトッド・ベントリーを支持などできるのですか?」という言葉にお答えしましょう。簡単です。神の御名によって私は彼を支持するのです。(ビル)

2008年5月

 トッドは私の良い友人ですが、それよりも重要なことは、彼が神の友であることです。彼ほど神に飢え渇き、長期間神を求めて時を過ごす人を私は他にあまり知りません。神が彼に並外れたアウトポアリングを委ねたのは、理由があるのです。それは神が言われることはどんなことでも、他の人が何と言おうと、トッドはその通りに従うという信頼を神は彼に対して持っておられるからです。彼は驚くほど大胆です。今起こっている奇跡は本物であり、ますます増えています。アメリカの教会は大いなるリバイバルを求めてきました。神はこのムーブメントを、誰も想像しなかったような形で私たちに与えられました。それはまさに、私たちが飢え乾いていると言っていたのが本心だったかどうかを神が見られるためです。(ビル)

 上記のビル・ジョンソンの言葉に私は真の使徒的な愛を感じる。これこそ真のクリスチャンの兄弟からの言葉ではなかろうか。

ベントレーを立てられた神のご計画は何であったのか

 今まで私は、人間がどのようにトッドを見て来たかを中心に書いて来たが、実ははっきり言ってそれは二の次の問題であって、私が最も知りたいのは神のお考えである。何故神は、それ程「不完全な人間」ベントレーを癒しのリバイバルの少なくとも先導者として用いられたのか、それが知りたいのである。私は人が批判すればするほど益々トッド・ベントレーなる男のことを知りたいと言う思いに駆られ、彼の生い立ちを少し調べてみた。
 
 それで分かったことは、彼は、言ってみれば人間社会のくずの掃き溜めのような家庭で育った人間であると言うことであった。小学校しか出ていない麻薬中毒症で19歳の父親と、10歳年上の母親の間に生まれたトッドは、一年足らずで母親が労災で耳が聞こえなくなり、それが夫婦間だけでなく、トッドとの間で必要な母子の愛の会話を取り去り、全く愛のないすさんだ家庭にした。トッドが4歳のとき母親は無能力な夫を追い出して離婚したが、父親はその後子供のサポート金を一度も送ったことがなく、不具者の母親の労災の保険金とわずかな政府からの補助金で、食べる物も着る物も満足にない貧困の中で育った。再婚し疎遠となった父親に対してトッドはその愛に飢え、とりすがろうとしたが、父親は全く彼を無視し続けた。結局トッドは両親のどちらからも愛らしいもの、又、しつけらしいものも一切受けていない、全くの崩壊家庭で野放しに育った。11歳で飲酒とセックスをおぼえ、12歳で父親に教えられて麻薬を知り、13歳でタバコ、それに悪魔的な音楽とオカルトの世界にのめり込んだ。学校の成績は常に最低で中学二年の時退学させられ、それからは喧嘩、盗み、放火、麻薬、そしてギャングの世界に入り、ついに16歳で未成年者の監獄入り、5度刑務所を転々とした。そこから出てくると3つのフォスター・ホーム(里親)を渡り歩くと言う悲惨な青春時代を過ごしたのである。
 
そのようなトッドを、神は人間のゴミ捨て場から拾って来て蘇生させた。トッドは一度神の愛を知ると、今までの飢えを一気に満たしたいかのように神とその愛にしがみつき、神を愛して離さなかった。そのような彼に、神は、必要な若いクリスチャンの友人を与え、小さな教会とユースのミニストリーに出入りさせ、カトリックの家庭で世の穢れとは全く縁のないように育ったシャナと言う「つり合わない」女性に出会わせ、結婚させた。トッドは神学校に行ったこともなく、いわゆる「キリスト教業界」の宗教的且つ人間的な神学とかやり方に毒されていない。守られているのだ。聖書を聖霊から教わった。彼のあこがれはブラザー・ローレンスであり、神と親しく時間を過ごし御声を聞くことを最高の楽しみとした。ある時彼は、製材工場で働いていて怪我をし3ヶ月休んだ。その時妻から、彼が働いていると思って労働時間中一人で部屋に閉じこもり神と時を過ごすことを許可してもらい、3ヶ月間一日4-8時間神と親密な時間を過ごしたと言う。これ以上は、既にビル・ジョンソンが言ってくれたので、トッドがどれ程神と近しい「友人」であるかと言うことを私が言う必要はない。これこそ使徒たる最も重要な条件ではないか。

しかし一方で、トッドは全く問題だらけの未完成の人間であることも私は強調する。人間は家族の暖かい愛の中で、しかも「愛のしつけ」をもって育てられたかどうかで、その人の性格とか生き方が大きく影響される。その点トッドは愛のない不幸な家庭で育ったので、彼があまりにも過激なミニストリーの重荷に耐えられないほど疲労困憊した時に、たとえ妻とか子供、あるいは周りの人たちにひどい言葉を吐いたり、酒を飲んでうさをはらし、他の女性に慰めを得ようとして罪を犯し、うそを言い散らしたとしても、それは彼の生い立ちの中で深く根を下ろした非行のライフスタイルが未だ完全に断ち切れてないことを物語っていることではないのであろうか。確かに彼はクリスチャンになって14年経つが、私たちと同じように聖霊が目下更生中の人間である。彼の人間的性格がそうすぐ変わらないからと言って彼を責めるとすれば、それはあるいは聖霊を責めていることにならないか。

 何故イエスは「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」(ルカ10:27)と言われたのか。トッドは曲がりなりにも「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を」愛そうとして来た。だからこそ神はトッドを本当にいとおしく愛しておられるのである。

 しかしその後で、主は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われた。何故か。それは、人間が罪だらけとなったのは元々人間の責任であり、神は私たち人間が、罪だらけのお互いを赦し、愛し、励まし合うことによって「神に似た完全な人間」になることを望んでおられるからではないのだろうか。クリスチャンとは一つの「キリストのからだ」になることである。身体の部分同士が愛し助け合わずに完全なキリストのための一つの身体になれるであろうか。私はこれこそ「教会」に与えられた最大の責任であると思う。

 教会には人間的・宗教的で「大きな罪は犯さない」が、その代わり「それ程神を愛さない、人も愛さない、何もしない、何も出来ない」人が大勢いる。一方好きな女を横取りし、挙句にその優秀な戦士の夫を殺してしまうと言う大罪を犯したダビデ、主を三度否んだペテロが二人とも聖書の大英雄であるのはなぜだ。主は彼らを愛され、大きく用いられた。トッドはこの二人に劣らない罪人であるかもしれない。しかし、私たちにとって癒しのリバイバルの先導者として、主を過激的に愛し、主が用いられた貴重な兄弟である。真の使徒の素質を示してくれたその人を教会は本気で裁いて潰す気なのか、私はそれが聞きたい。

 今回神はトッド・ベントリーを敢えて轟々たる批判と混乱の真っ只中に突き落とされたように思う。それは神が彼をこよなく愛するからだ。トッドを聖い人に、もう一つ高いレベルの人間、真の使徒として完成させる以外のことを考えておられないと確信する。もう一度言う。トッドは人間的にまだまだ未熟で、罪だらけの人間だ。だからこそ、これからベントレーは肉も魂も霊も聖くならねばならない。神はそのための厳しいプロセスを始められたのだ。そのために三人の監督官の働きに私たちも参加し、少なくとも祈りで支援することを神は望んでおられると思うのである。なぜなら、くどいようだが、私たちが同じ「キリストのからだ」の一部として、お互い弱い者同士が愛し合い、祈り合い、助け合い、皆が一つのからだ、一人の花嫁として完成されねばならないからである。

今回私は、その未完成のタッドがどのようにして癒しの人になったか、あるいは神に用いられる人間になったのかと言う点で大いに学ぶことが出来たし、又、彼からインターネットの画面を通して油注ぎの分与を受けたことも大変な恵みであった。
癒しのリバイバルは始まったばかりだ。これからいよいよ、世界中の私たち「教会」が実行し広げて行かねばならない重要な使命の一つである。そのために主の火付け役として重要な役割を果たしてくれたトッド・ベントレーは私たちにとって他人ではないし、過去の人間でもない大切な兄弟の一人である。神の御国のためにトッドの回復を心から祈る。 

最後に、9月はElulエルルの月、そして今年は30日がロシュハシャナ(新年)に当たり、それから贖罪の日に向けての10日間(全部で40日間)は特に、私たちが心から悔い改めるシーズンである。私は2008年から2009年にかけて更に大きな期待をもって主を見上げる。そのために、今と言う時に、神が私たち教会にトッドのよいところと悪いところを見せ、私たち自身の教訓とするようにと言うのが神からのメッセージであると思うのだ。そのことを主に心から感謝し、私自身の至らなさを主の前で悔い改め、新しい年を迎えたい。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-10-02 04:10 | 坂達也からの今月のメッセージ

その後のトッド・ベントリーに関して リック・ジョイナー 10月1日

現在のリバイバルの歴史と将来―パート10.その一
その後のトッド・ベントリーに関して

リック・ジョイナー


私が今一番聞かれる質問は、「トッド・ベントリーはどうしていますか?」ということです。彼は私たちのところに来て数日過ごしましたが、概して言えることは、彼の様子を見て私は励まされています。彼は自分の問題が多くの人々に問題を与えてしまったことを、非常に申し訳なく思っています。彼は自分が間違いを犯したことやおろかな選択をしてしまったことを十分認識しています。彼はそのことを手紙という形で出来るだけはっきりと発表したいと考えていますが、それには数週間かかると思います。というのは、私がそれを手伝うことになっているのですが、私は3週間外国に行かねばならないからです。また、他の数人の人たちからもそれに関して助けてもらいたいと考えているので、そのくらいの時間がかかりそうです。


彼のための今の計画は、彼の生活の実際的な問題を解決することです。そのために、彼と同じような問題を経験し、しかもそれに勝利した二人ほどの友達を訪ねる予定です。それから私たちのモーニングスター・ミニストリーのヘリテイジに来て、癒しと回復のプロセスに入り、ある期間ここで過ごす予定になっております。


私はフレッシュ・ファイヤー・ミニストリーの主だった二人のリーダーとも話しました。その結果、私は、トッド並びにこのミニストリーがこの危機を切り抜けるばかりではなく、彼らがこれから起こる主のムーブメントにおいて、パワフルな力、並びに、ファクターとなることを確信しています。


今回起きた問題は、すべての面において非常に深い教訓を含んでいます。それを解決し、それから学ぶことは、教会の未来のために大いに役に立つでしょう。私個人としては、レイクランド・アウトポアリングが今の時代に与えられた非常に重要な主の訪れであったことを疑ったことはありません。何万人、何十万人という人が癒され、奇跡を体験したばかりではなく、数え切れない人の信仰が高揚されました。そしてそれによって今もいろいろな場所で霊的な動きが急激に起こったり前進したりしているのです。教会も、癒し主としてイエスを知り、必要な奇跡をしてくださる方として信じるという最も重要な信仰を持つことによって、来るべき時に備えることができました。私たちは、現在の教会のレベルより更に高く成長していかねばならないのです。


また、トッドの問題によって提起された種々の論点は、教会が次ぎに進む前にキリストのからだによってキチンと話し合われねばならないと思います。そうしないと同じような問題が将来起きたときにはもっと大変な混乱を招くでしょう。もう少し詳しいことがお分かりになったときに、皆さんも同意されると思います。この事態を正しく扱うことは、キリストの身体を強め将来のために教会を整えるすばらしい機会なのです。
今日までに多くの人たちがこの問題に言及されましたが、それは励まされるものであったり、又、がっかりするようなものでもありました。しかし、これを正しく解決することは、現在私たちが本当に必要としていることであり、教会全体を強めることができるのです。この問題から私たちが得るものは、本当に大きい可能性があるのです。主は私たちを常に勝利へと導いてくださり、今回も例外ではないと私は確信します。

トッドやフレッシュ・ファイヤー・ミニストリー、レイクランド・アウトポアリング、そして特にレイクランドや多くの場所で力強く働いておられる主をあきらめなかった人々の忍耐と祈りを、私は感謝します。レイクランドは多くの火をつけた火花(スパーク)であり、今も火をつけ続けています。消えることはありません。もしあなたが、どのような形であれ、それに触れられたのならば、どうか前進し続けてください。これはトッド・ベントリーがしたことではなく、主がしたのであり、主は今、劇的な速度で動かれているのです。実際のところ、これは止むことのない神の動きの始まりかもしれません。

それと同時に、私たちは傷ついた仲間を殺し続けようとすることを、もう止めねばなりません。ガラテヤ6:1で明言されているように、「いかなるあやまち」に陥った人でも、その人たちを回復させるのが私たちのとるべき唯一の道です。私はトッドがミニストリーに復帰するだけではなく、やがてもっと大きなインパクトを与えるようになり、今までより大きなパワーの中を歩むようになると確信しています。私がこう信じるのは、トッドに関して数年前に主から示されたものがあるからです。ボブ・ジョーンズが「レイクランドは来るべきものの予告編に過ぎない」と言った通りなのです。トッドは主が「地上最大のショー」と呼ばれるものを開始するために招集された人です。それは神がどのようなお方であるかを世界に示すために、神ご自身が地上を歩かれたとき以来最大のデモンストレーションになるでしょう。キリストのからだはそのために今整えられているのであり、レイクランド・アウトポアリングはその道を備え始めたのです。

それと共に、私はトッドの問題を知ったときにあまり驚きませんでした。彼のような性格と神からの召命を持つ人間は、偉大な勝利、前進を勝ち得るとともに、大きな失敗をも犯しやすいのです。使徒ペテロがそのよい例です。聖書の中で最も偉大な賛辞の一つを受けた直後に、神の御子ご自身が、ペテロを「サタン」(マルコ8:33)と呼びました。ペテロははじめ天から直接聞いたのですが、次の瞬間には地獄から聞いてしまいました。また、主を否むという私たちの出来る最悪のことの一つをしたすぐあとで、ペテロは赦しと回復を得て、ペンテコステの日のリバイバルのリーダーになりました。このことをよく考えてみてください。

このところ、この問題で毎日数時間を費やしておりますが、いまだにその真相やファクターについて、また解決するためには何が必要かを学ばされています。今回起こったことには多くの深くて重要な問題点が含まれています。妥協をほとんどしない人たちでも、より正確な情報を得たときに意見を完全に変えた人々の例も私は見てきました。もう少し進展すれば、すべてをはっきりさせるチャンスがあり、それによって多くの人が解放され癒されると思います。時として身体の癒しの方が魂と霊の癒しよりも容易であることがありますが、私たちはすべての面での完全な癒しが必要です。

私たちが絶対にしてはいけないことは恵みを制限し、出し惜しみすることです。ガラテヤ6:7で言われているように、私たちは蒔いたものを刈り取ります。もし恵みを受けたいならば、出来る限り恵みを蒔くことです。憐れみを受けたいならば、出来る限り憐れみを蒔くべきです。これは聖書にある明確なモラルや誠実さの基準をいい加減にして妥協するということではありません。それはもし私たちが霊的であるならば、私たちは「柔和なこころ spirit of gentleness」(ガラテヤ6:1)で「回復させる者」となり、自分自身も誘惑に落ちいらないようにせねばなりません。今回の問題に関して柔和でなかった人たちが、みんな悔い改めることを私は祈ります。なぜならばプライドをもって対応した人は、自らも倒れることになるからです。この件に関して私が今回はっきり与えられたみ言葉は一つだけですが、「おろか者はあわてて歩む。性急に裁くものは不義の裁判官であり、主はそのことを暴露される。」というものです。性急な裁きをしてしまったすべての人が悔い改めるように祈りましょう。そうでないと、これと同じ問題が多く起こるようになるのですから。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-10-01 04:23