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時を知る   リック/ジョイナー 2008年12月25日

時を知る

リック/ジョイナー


様々なことが起こった2008年も、終わりに近づきました。多くの人は、世界で起きていることを見て、新年を恐れと不安を持って迎えようとしています。しかし一方、大きな信仰と希望をもって迎えようとしている人たちもいます。そして信仰と希望は必ず勝利をおさめるのです。2009年は(そのような人たちには)最高の年になります。

クリスチャンならば全員、大きな信仰と希望をもって未来を展望するべきです。たとえそれが「大艱難」に入ることになってもです。これから世界に何が起こるかは問題ではありません。なぜならば私たちの王は勝利され、御国は必ず来るからです。御心は天になるようにこの地でも起こります。ボブ/マムフォードは「聖書の最後を読めば我々が勝利することがはっきりしてる!」と言いました。第二コリント2:14にあるすばらしい約束を見てください。

「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」

この箇所で言われているように、主は常に私たちを「キリストによる勝利」に導いてくださるのです。重要な点は、主の勝利は私たちが望んだ結末と同じとは限らないということです。主の最大の勝利は十字架でした。私たちもそのような勝利を喜んで受け取ることが出来るでしょうか? もし出来るならば、悪に対する最大の勝利を私たちも経験することが出来るでしょう。2008年は多くの人にとってブレイクスルーの年でした。2009年にも又、多くの人がそれを経験するでしょう。私たちの勝利は確実であり、もしあなたが信仰の人ならば、勝利が確立されるずっと前からそれを喜び始めることができます。恐れを持つ人は、たとえ物事がうまく行っている時でさえ、いつも悩んでいます。信仰のある人は、たとえ物事がうまく行っていなくても、常に平安と喜びをもって生きています。私たちはそのどちらかを選ぶことができる(選ばねばならない)のです。

私たちの教会の最近の礼拝で、ジャック/ディア師が話したことですが、私たちは往々にして、主にではなく物事の結果に自分の信仰を置くという間違いを犯してしまいます。それでは私たちの思いは、主にではなく、起こっている事柄、物事に捕われてしまうことになります。もし私たちが主に信頼するならば、物事のすべての結果は主の目的のためには一番良いものであること、そしてそれはただ私たちの勝利ではなく「主の勝利」であることをも信じなければなりません。多くの場合、一番の勝利は私たちの信仰が成長することであり、ヤコブ書にあるように、それは金よりも価値あるものなのです。私たちの信仰は、信仰が必要とされない限り成長しないのです。

このことは、特定の結果を望んで祈ってはいけないと言う事ではありません。例えば、ある癒しとか、ある問題を乗り越えるための祈りです。私たちはある一つの結果に信頼を置くのではなく、主に信頼を置かねばなりません。そうするとき、多分自分が期待した以上の結果を見る事になるでしょう。

多くの人は多難だった2008年が過ぎ去るのを見て「やれやれ」と思っています。新年を新たな出発と見て、希望と期待を持つことは良いことです。私たちは今の時代が過ぎ去るのを同じ思いで見ることでしょう。次の時代が今私たちが考えることが出来ないほどすばらしいものになることは、絶対に確かなことです。一日ごとに主の再臨と御国の到来が近づいています。しかしそうであっても、その時までにはこの世界は艱難を通らねばならないのです。使徒パウロは私たちが御国に入るためには艱難を通らねばならないと言っています。それはこの世界にとっても同じです。しかし、この世がどのような所を通るかは問題ではないのです。もし私たちが主にとどまり、揺るがされることのない御国の上に人生を築いたならば、私たちはそれによって影響を受けることはありません。

以前私はある預言的経験をしました。突然私は、 ある種の戦艦の 制御室の中に立っているのがわかりました。レーダーのスクリーンの前に私は立っていましたが、主ご自身が私のすぐ右に立っておられました。スクリーンに小さな光の点(ブリップ)が前方正面にあらわれ、自分たちの方にむかって動いてきました。衝突を避けるために私は船が90度向きを変えるように命令しました。しかし、スクリーン上の点は動かず、それどころかますます近づいてきます。それで今度は反対方向に向きを変えるように命令しました。しかし、その結果は前と同じで、点はますます近づいてきます。次に私はスクリーンを握って衝撃に耐える身構えをしましたが、衝撃は起こらず、点も消えてしまいました。私は主に一体これはどうしたことか、と尋ねました。主はあの点は「大艱難」であったと言われました。主は、大艱難は必ずやってきて避けることはできない、しかし、それは主のすべての行動を映し出すレーダースクリーンのほんの小さな点に過ぎず、私が主の近くにとどまる限りそれを感じることもない、と言われました。

この体験は私にとって非常にリアルであり、魂の奥深くに何かを植えつけてくれたので、私はとても助けられました。しかし、あなたが私の見たこの幻を信じても信じなくても重要なことは、主は信頼するに足るお方であり、主のみ傍近くにいれば何が起ころうと守られるということは、まさに正当な聖書の真理です。

あなたは、主のみ傍近くにいたにもかかわらず殉教した人たちはどうなのだろう、と思われるかもしれませんが、それも主の守りだったのです! 私たちが生きるか死ぬかは問題ではなく、問題なのは私たちが忠実であり続けるかどうかなのです。私たちの全人生は「主と共に治めるための訓練」であり、福音のために命を捨てることは信仰の最も偉大な行為の一つです。もし私たちがただ復活の教義だけでなく心から復活を信じるならば、私たちはこのことを喜ぶべきであり、使徒や多くの殉教者と同じように、主の御名のために苦しむことに私たちが値するもの見なされたことを光栄に思うべきです。

2009年は最良の年となるでしょう。それは困難ではないということではありませんが、それは私たちにとって一番よいことなのです。なぜならばローマ8:28−30に次にように書かれているからです。
「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

私たちが速やかに勝利を得るための一つの方法は、神が私たちに起こるのを許されるすべての事は、私たちが御子に似る者になるためであることを理解することです。何か試練が起こったらすぐに、 どの御霊の実の訓練を主が自分にしておられるのかを見定めるのです。一番の基礎は、愛と信仰です。愛はあなたに何をせよと言っていますか? 信仰はあなたに何をせよと言っていますか? それがほとんどの場合「答え」です。そして第一コリント13:8「愛は決して絶えることがありません。(滅びない)」という事を常に忘れないでください。

2009年に勝ち取るべき 最大の勝利は、私たちの愛が成長することです。まず神を愛し、そしてお互いを愛するのです。二番目に大きな勝利は、信仰が成長することです。この二つは必ずしも試練を通してだけ得られるものではありませし、特に試練がなくてもこの二つを忠実に追い求めているならば、そうです。しかしながら、やってくる試練はすべて価値あるものです。裁きの日には、私たちの人間としての成功度は、他の何よりもどれほど神を愛し人を愛したかにかかっているのです。成功してください。愛を成長させてください。また、信仰を成長させて、どんどん成功してください。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-25 17:01 | アメリカからのメッセージ

報告:その後のジュデイス・グルーバー夫人 12月23日

報告:その後のジュデイス・グルーバー夫人
                              
 その後の夫人の容態は一進一退のようです。元気の良い日は家の中を動いて家事もできるようですが、悪い時は臥せっていることが多く、ヘンリー師がお皿を洗っていると本人が言っていました。ちょうどクリスマス前で家族が大勢集まってきており、私が電話をした折もお孫さんたちが廻りにいて賑やかな様子でした。しかしながら家族のクリスマスのお祝いの会食は用意が大変なので、娘さんのベッキー宅でするそうです。

 そんなことでヘンリー師が夫人を置いて長期に旅行することに不安があるようです。正月明けの1月の沖縄行きは少し遅らせ2月に入ってから出発したいとのことでした。それも1月半ばになってから様子を見て最終的に決めたいとのことです。

 グルーバー師ご夫妻は日本の皆様が祈っていて下さる事を大変感謝しております。特にクリスマスを直前に控え、皆様お一人一人がすばらしい主の祝福をいただきますよう、お祈りしていますとのメッセージと共に、くれぐれも皆様に宜しくお伝えくださいと言っておられました。

 どうぞグルーバー師夫妻の為に引き続きお祈りいただけますようお願い申し上げます。世相によれば、新年は大変厳しい年になりそうですが、皆様方は、主に守られて、特別に祝福されたすばらしい年となりますようにお祈り申し上げつつ、年末のご挨拶とさせていただきます。
 ハレルヤ、主の御名を心から称えます。

                                          坂 達也

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by walkwithgod | 2008-12-23 09:49 | 坂達也からの今月のメッセージ

秋の日本旅行の報告 その5   坂 柚実子 12月23日

秋の日本旅行の報告 その5

坂 柚実子

秋の旅行の最後の数日は福島でした。本当は福島だけ私たちが来日中のグルーバー先生の通訳をする予定だったのですが、 アメリカで留守番をしておられた奥様のジュディスさんの病状が悪化したため帰国されたので、私たちだけで行くことになったのです。

この写真は福島の旭町バプテスト教会で、小久保先生ご夫妻、お嬢様の信子先生が牧会されておられます。また、幼稚園を経営されていますが、かなり徹底したキリスト教主義を貫いておられます。子供たちの毎日の礼拝は、「黙想」から始まるのですが、その時に流れる曲が、なんと私の大好きなルス/ファーザルが歌う詩編27:4なのでした。信子先生の選曲だそうですが、こんな油注ぎのある曲を聞きながら静かにしていることを学ぶ子供たちは幸いですね。

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主人が話をして一人一人に油を塗って祝福しましたが、その後、子供たちが主人の周りに集まって祈ってくれました。これには主人も感激でした。

教会の向かい側の建物では、信子先生が英語塾と学童保育をしておられます。幼稚園生から中学生までが、それぞれの学校が終わったあと集まってきます。ここでもキリスト教教育が行われ、まず賛美と礼拝をしてから、宿題などをする時間になります。この日は私たちにヒップホップの賛美のダンスを披露してくれました。子供たちがとても素直に福音を受け入れてイエス様を愛するようになっている様子がわかりました。

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今回の旅行は沖縄から秋田までの13の教会に行かせていただき、大きな祝福を受けましたことを心から主に感謝すると共に、皆様のお祈りに感謝いたします。
クリスマスが近づいてきました。私たちは今年は 息子のいるニューヨークでクリスマスとお正月を迎えることになりました。皆様もお身体を大切によいお年をお迎えください。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-23 09:02 | 柚実子からのハワイ便り

「主を見つめて待つ」祈り(1)   坂 達也  12月20日

「主を見つめて待つ」祈り(1)

                           坂 達也


哀歌3:25-26に「主はおのれ(主を)を待ち望む者と、おのれ(主を)を尋ね求める者にむかって恵みふかい。主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。」と言う御ことばがあります。
又、詩篇でダビデは次のように歌っています。「1 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。2 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。3 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。」(詩篇131:1-3)

最近は「主を見つめて待つ」祈りをされている方が日本でも増えて来ていることが今回の(2008年秋)日本旅行でよく分かりました。それは本当にすばらしいことです。それにつけても、このお祈りの秘訣は「自分の心をいかに静めるか」の一事にかかっているように思います。

先ず、このお祈りをするのに一番適した時間と言えば、その日の活動が始まる前の早朝のひと時か、あるいは周りが寝静まり、一日の活動から解放された夜の遅い時間ではないでしょうか。しかし夜はその日一日の労働・心労のざわめきが残っているので、朝の寝覚め時の魂の状態の方がより休まっていると言う点で私は朝を好みます。 

次に祈る時の姿勢ですが、椅子、ソファに背筋を出来るだけ真っ直ぐにして、しかし楽に長続きする姿勢で座ります。(あるいは座禅をするようにあぐらをかいても可)私の場合はベッドの高さが63cm、下部が25cm程空いていますので、そこにひざを入れ、小さな15-17cm高の木の安座にお尻を置いて(ひざまずくように)座ります。腕でベッドの上にひじをつき、疲れたら上半身をベッドに寄りかかるようにします。しかし出来るだけ背筋を真っ直ぐに保ちます。顔は少し上向け、目を閉じて上を見つめます。これが私にとって一番楽な姿勢ですが、それでも30-40分が限度です。その後はベッドの上に背中をヘッドボードに(枕をかって)もたれかかるようにし足を延ばして座ります。疲れたらソファーに座るのもよいと思います。但し、病気の時以外は出来るだけ横になって寝る形を取らない方がよいと思います。

こうして主と対面します。最初は特に主の臨在感が無い時が多いのですが、それでもやさしい主が前におられることを信仰で意識し、心から主への敬愛と礼拝の気持ちを持つようにします。そしてその気持ちを心でやさしく主に語りかけ、あるいは手を上げて(声を出しても出さなくても結構です)主を心から感謝し賛美します。しばらくこうして主に語りかける時間を過ごした後は主の語りかけを期待して待ちます。

主の前に出ているのですから、主だけを思い、出来るだけよそ事を考えないようにします。しかし、そうしている積りでも、心のどこかで心配事や、その日にやって来る、あるいは既にやって来た大事なことから心を完全に引き離し全く幼児のように無邪気な心で主の前に立つことは、意外に難しいことがお分かりになると思います。

人間の持つ意識の状態は実に微妙に働くようです。例えば、少しでも「急ぐ気持ち」とか「何かをしよう、しなければならない」と言う思いがあると、気持ちに「気負い」が出て心が静まった状態にはなりません。
昔仕事をしていた頃に接待ゴルフをやっていましたが、ゴルフは心の思いが如実に影響するスポーツです。飛行距離を延ばそうと思えば、腕から力を抜いて只クラブを握っているだけの状態にして腰の回転に自然について行くようにすると、振り子の原理でクラブの先では大きな遠心力が働き、球は思いがけないほど遠くへ飛んで行きます。しかし実際は、遠くへ飛ばそうと思えば思うほど力んで腕に力が入り、遠心力による加速を殺してしまう結果、かえって飛ばない経験をされた方は多いと思います。腕の「力を抜け」とよく言われましたが、痩せて非力の私には、飛ばしたい一心からでしょうか、どうしても腕の力が抜けないのです。

主を見上げる祈りには、何かしらゴルフの飛行距離の秘訣に通ずる点があるようです。それは「自分の力でやろうとしてはならない」と言う点です。「自分(肉)に死んで神の力(霊)に総てを委ねる」クリスチャンの生き方の基本と似ています。

本当に自分の魂を静めるためには、先ず、私たちの魂が詩篇131を歌ったダビデのようであるべきです。万軍の敵を前にしたダビデは、主の前に心から「へりくだり」、自分の力で戦って勝てると言うプライド(力み)と憂慮を捨てて(アバンダンメント)自らを解放し、静かに只主だけを見上げました。これが聖い、静まった「主への全き信頼」の心であると思います。そうすれば主は必ずその信頼に応えて下さいます。それが上記の哀歌で言う「主の救を静かに待ち望むこと」でありましょう。ここでぜひもう一度上記の二つの御言葉をじっくり味わってみて下さい。

このような静まった心になった時に主からの平安が来ます。いや、来ると言うよりも、元々私たちの中には主が内在されているのですから、主の平安があるはずです。私たちは日頃忙しくしていると気が付かないのですが、本当に静まった時にはその平安を感じることが出来るのです。その点主の御声も同じです。主は私たちに親しく話しかけて下さっていても、霊的な声は「静かな小さい声」(still small voice)ですから私たちの魂が騒いでいる間はそれが聞こえて来ません。
御声と言えば、私たち被造物はみな、元々創造主である主が言葉で語って造られたのですから、その創造主の御声を聞くと、むしろ懐かしい親しい気持ちがしてもおかしくないと思います。

主イエスは父の御前にいつもおだやかな心と、全き信頼をもって立たれました。そうすると主には天の父がされていることが見えるのです。それをヨハネ5:19、20で主はこう説明してくれます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです…。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」ここに主を見上げて待つ祈りの究極の姿があるように思います。

ここに天の父と父の最愛の一人子であるイエスとの関係が見事に表されています。そしてそれは取りも直さず、主イエスと私たち主の花嫁との関係であるのです。「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになる」のと同様に、夫である主は私たち花嫁を「愛して、ご自分のなさることをみな」私たちにお示しになろうとされておられるのです。私たちはその主の期待に応えて、主をいつも見上げて待ち、示される総てを受け取ろうではありませんか。

その主が私たちに言われます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」」(マタイ11:28-30)と。
私たちは、そのような主の前に出る時、総てを主に委ねているのですから何の心配もいらない、本当に心から安心出来るのです。肩の力を抜き、心の底からリラックスして下さい。自分の心に「リラックスしよう」とやさしく語りかけて下さい。これが秘訣です。

こうして心が静まった状態で主の前に立つと、多くの場合、主が既に待っていて下さり、主の愛とすばらしい臨在に包み込まれます。神様とはこんなにすばらしい愛に溢れ、やさしい方であると言うことが実感され、誰でも感激しない人はいないと思います。「愛の父」と「やさしい主イエス」とに個人的に対面出来るのです。私たちの心にある総てを理解して下さり、こんなにやさしく思いやりがあるすばらしいお方は他にはいません。思わず「主を愛します。」という言葉が心の奥底から出続けて止みません。

それはヨハネ15:5で主が言われた「…人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっている」状態であると思います。そうなれば「そういう人は多くの実を結ぶ」ようになるのです。

パウロと言う人はこの祈りをよくした人の一人であると思います。彼は本当に主と個人的に深い関係で交わる人であったでしょう。エペソ3:12-19で「12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰(別訳では「キリストの私たちへの忠実さ」)により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」と書いていますが、これが上記ヨハネ15:5と同じ状態を指しています。つまり私たちがキリストといつも結ばれた状態にある時、私たちは大胆に主の御前に出てこのお祈りをすることが出来るだけではなく、そうすることによって主の豊かな愛の中に入って行けるのです。それをパウロは続いて次のように形容してくれます。
「…14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。…16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかりそれによって満たされるように。

私はキリストの愛の深みをここまで実感できるのは、この祈りをする人の特権であると確信します。17節に「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とありますが、それは最初に主を信じた時に聖霊が内住されることを意味するのではなく、既に内住されているキリストと深い親密な交わりの関係に入ることを意味します。ここにおいてキリストと結ばれ(Union)ます。そして「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」までに到達出来るのです。それがこの祈りのゴールです。

この祈りは神との個人的なコミュニケーションで、しかも全く霊的なものですから、最初からうまくは出来ません。しかし出来ないからと言って決して落胆し、急いだり焦ったりしないで下さい。主が現れて下さるのを期待して気長に待つのです。そして諦めずにたゆまず毎日実行して下さい。それが秘訣です。

私たちの前に現れたくてしようがないのは、実は主の方です。しかし主は私たちを真に肉的な者から霊の人間に変えるために敢えて時間をかけて下さるのです。現れて下さらないのも主の愛からです。
くりかえしますが、始めたら直ぐ主の臨在が実感されなくても決してがっかりしないで下さい。むしろ主が私たちを訓練されているのですから感謝して下さい。私たちに必要なのは忍耐と言いますが、人生でこれ程「やりがい」「待ちがい」のあるものはありません。喜びを持って忍耐して祈り続けて下さい。その意味ではスポーツとかお稽古事と同じで、たゆまない訓練が必要です。

信仰生活の実践において、私たちに最も必要なことはこの「主を待つ」ことです。何故ならそれは「自分では何もしないこと」の訓練であるからです。(続く)


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by walkwithgod | 2008-12-20 07:47 | 主と個人的に深い交わりを持つ

私たちを鼓舞する神の恵み ボビー・コナー 12月20日

私たちを鼓舞する神の恵み

ボビー コナー


クリスチャンである私たちは、毎日正しいゴール、目標、そして神から与えられた目的をもって生きるようにと教えられています。これは神の恵みを受けつつ歩むのでなければ達成はできません。(エペゾ5:14−18参照)

神はご自分の仕事を助けてくれる強い人を求めておられるのではありません。実は主は、ご自分が用いることができるくらいに十分弱い者を捜しておられるのです。神の力は私たちの弱さのうちに完全にあらわれるということを忘れてはなりません。(第二コリント12:9参照) 超自然的なすばらしい力を私たちが経験するための鍵は、自分が弱くなることです。

御霊の働き

私が「弱さ」という意味は、性格的に弱いとか、聖書をよく知らないという弱さを言っているのではないことを、はっきり申し上げておきます。私が言っているのは、御霊の働きを達成するのは肉の力では絶対出来ないことをよく悟った人のことです。これを悟ってとき初めて、私たちは本当の意味で強くなり、神の栄光ある御国を拡大させるための力を受けるのです。権勢によらず、能力によらず、神の霊によって神の御国は建てられることを、決して忘れてはなりません。(ゼカリヤ4:6)

詩編107:23−28には、大海原で働いている熟練した強い船乗りの話が描かれていますが、それがこの真理をはっきり描き出しています。ある日、主が嵐を起こされ、彼らの船乗りとしての自信は見事に吹き飛ばされてしまいます。彼らは絶体絶命の状況におかれます。この時、彼らは主の恵みと助けを叫び求めたのです。彼らは船を扱う技術も経験もありましたが、強い波と風が起こり、神により頼まねばならないことを悟ったのでした。

あなたの人生の風向きが急に変るという状況に遭遇したことがありますか?もしまだそういう経験がないならば、近いうちに必ず何かが起こり、あなたの人生の基盤 が何に置かれているかテストされるでしょう。嵐や洪水は私たちをテストするためにやって来て、私たちが本当にキリストだけに基礎を据えているかどうかが試されるのです。

キリストは「わたしを離れてはあなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)とはっきり言われています。この「何も nothing」と言う言葉は、完全に、全く何もできないということなのです。実際はゼロよりももっと少ないことを表しています。神の御国を拡大するのは御霊の働きでなければならないことを悟るとき、私たちの人生は喜びに満ちます。

今までにあなたがしたことや達成したことが如何にすばらしくても、それらは何一つとして、イエスがあなたを通してご自分の命を生きてくださるときの喜びと は全く比べものになりません。神は一人一人にぴったりでユニークな恵みの道を用意してくださっているのです。自分の考えとかやり方をすべて御霊に服従させるならば、あなたは恵みの中を生きる人生を 始めることができます。この領域に入るならば、あなたは神から与えられた課題を全部達成できる豊かな恵みを経験するでしょう。

恵みに満たされた新しいクリスチャン

神からのこの恵みは、新しいクリスチャンを輝く情熱の火で燃やします。私は長年牧会をしておりますが、その喜びの一つは、新しいクリスチャンの 人生に神がしてくださっているすばらしいことに彼らが興奮しているのを見ることです。新しいクリスチャンの喜びと興奮はみんなに伝染していきます。新しいクリスチャンのそばにいると本当に元気づけられます。彼らは神の愛で生き生きと輝いています。

牧師として私は新しいクリスチャンのためのクラスで教える機会がありますが、イエス・キリストが彼らの人生に与える喜びを見て、私の心は祝福されます。そして、恵みの中を歩む秘訣をすでに会得した成熟したクリスチャンの目も、この恵みの故に満ち足りて光輝くのです。 ご自分の栄光を顕す大きな業をなすために、神は私たちに恵みを与えて用いてくださいます。この驚くべき神の恵みによりどれほど偉大なことが出来るかということを証するのが、私たちの人生でなければなりません。

恵みで満たされた人生と実行とは切り離すことはできません。私たちは神の驚くべき恵みによって救われ、保たれているのです。キリストの身体である教会は、未信者に働き救いを導く神の恵みに関しては、よく理解しているようです。しかし、神の恵みの力が信者の日常の生活の中で働き、 真に効果的に実を実らせるのだという理解が欠けているようです。

恵みはあなたの思いを変えてくれるだけではなく、あなたの人生そのものを変える働きもしてくれます。恵みは力強いモーティベイターであり、私たちがもっと高みにまで登り、キリストと御国のためにもっと働くようにと鼓舞し奮い立たせるのです。

恵みを受けるために必要なもの

使徒パウロは第一コリント15:10で、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と述べています。パウロは神の恵みはむだにはならなかったと明言していますが、それと同時に彼の人生で力強く働く恵みの故にさらに多く働いたと言っています。

私たちの存在すべて、また、私たちがすることすべては神の恵みの故なのですが、私たちは神の御国を前進させるためにおおいに働くようにと召されています。クリスチャン生活の大きなパラドックスの一つは、私たちがすることはすべて恵みにより恵みを通してなされるのですが、神は私たちが勤勉に主に仕え、一生懸命働く(努力をする)ことを求めておられます。チャールス/スポルジョンは「信仰は、愛が建てた階段を 上って行き、希望が開いた窓から外を見る。」と言いました。

神から与えられる恵みを十分に受けとるためには、勤勉な働きが必要です。そして又、恵みを受けるためにはへりくだりが必要です。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」第一ペテロ5:5

へりくだる者に恵みは約束されています。偉大な聖人であるウオルター/ビュートラーは、このように言っています。「へりくだりが到着するやいなや、恵みは戸口に立って迎える。」 もし私たちが真にへりくだり、常に神の御業を賛美し神の栄光を横取りしないように注意するならば、必ずもっと恵みを受け取ることが出来るに違いないのです。主が ある時私に、最も大きな神への反逆者について警告されました。最大の反逆とは、主がリーダー達に花嫁をご自身へと愛で勝ち取るために与えた賜物と恵みを、彼らが 花嫁を自分たちの方に勝ち取るために使うことだと言われました。

私たち皆が、詩編84:11にある約束をしっかりと受け取ることができるようにと祈ります。「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」この節に、御国を前進させるための真の鍵を見つけることができます。それは私たちが栄光を見ることが出来るのは、神の恵みという賜物によることです。人類が今まで成し遂げた良いもののすべては、神の恵みの油注ぎと分与との直接的な結果に他なりません。神の栄光がこの地を満たすのを見るために、恵みに満たされた人生を歩もうではありませんか。

恵みは、私たちが神に近づくようにと招く開かれた扉です。箴言8:17と21で、神は次のように宣言しておられます。「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。」この言葉は、私たちが神を見い出すことができ、神があふれる富をもって祝福してくださるという、本当にすばらしい約束であり、力強い励ましです。

神はご自分の民に偉大な計画を持っておられることを、決して忘れてはなりません。エレミヤ29:11にある主の約束を聞いてください。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げ。ー それはわざわいでなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」今は神の恵みに対して心を広く開く時です。主は良きお方であり、一人一人に偉大な計画を持っておられるのです。

神を待ち望む

主は私たちを変えたいと願っておられます。私たちを主の目的に適う者にされたいのです。私たちが主を求めて主の心の扉をノックするのを待っておられます。エスターが夫の王座に近づかねばならなかったように、私たちも神の御座に近づくために自分を整えねばなりません。神もまた笏を差し伸べて下さっています。今は恵みによって天の扉が開けられているのです。神の恵みの御座に近づき、今の時のために恵みと助けを求めるときです。

詩編46:10で、静まって神が神であることを知れと教えられています。主の臨在の中で静かな時を過ごすのは、すばらしいことであり、非常に重要なことです。主を待ち望む時に私たちの力は新たにされるのです。(イザヤ40:28−31参照)私たちは皆、この世の雑事を閉め出して、神とだけ過ごす特別な静かな場所を見つけねばなりません。

毎日その場所に行き、礼拝し、主の慈しみと恵みを覚え、人生における主の導きと祝福を感謝するのです。主の前で時間をすごし、主を賛美し主の聖い御名を祝福しながら感謝をもって主の門に入り、賛美をもって主の大庭に入るときに、主の恵みは解き放たれます。

おおいがかかっていない顔で主を見る時を過ごすとき、私たちは栄光から栄光へと変えられるのです。静かな礼拝や祈りながら聖書を読む時に、御霊といのちを生み出す恵みが解き放たれます。それは私たちの存在そのものに流れ込み、私たちの信仰を建て上げ、従っていく力を与えてくれます。主の臨在の中で過ごす時間をつくることは、私たちにとって不可欠です。教会に属して礼拝に出席することも大切であり、決しておろそかにしてはなりませんが、それは栄光の主と個人的に交わる 時間にとってかわれるものではありません。

主と二人きりになる

ルカ3:2に書かれているように、主の言葉がヨハネにきたのは、彼が荒野に一人でいたときであり、それによって彼は明確な指示を与えられました。当時も教会のプログラムは盛んに行われていましたが、ヨハネはそれから離れ、主とだけ時間を過ごすようにと召されたのでした。それと同じように今日でも、霊的に飢え乾いてもっと深い何かを求める者が、備えの時間を主と共に過ごすようにと召されることがあるのです。主と共に過ごしたことによりヨハネは主と一つとなり、他の何によってもできなかったことが達成されました。

お前は誰か、と訊かれた時のヨハネの答えがそれを証明しています。彼は「私は、預言者イザヤが言ったように、主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えました。(ヨハネ1:23)私たちも皆、このように「私はその方の声です。」といえる所まで到達せねばなりません。現在世界ではフラストレーションと危機が起こっていて、緊急に「声」が叫ぶ必要があるのです。私たちは今、神の恵みと平安を必要としている世界に生きています。

今日必要とされているのは、新しい方法論とかではなく、一人になって主の顕在の臨在の中に立ち、現代の荒野で主の声になるべく備えをすることです。昔の弟子たちのように、私たちも「彼らが主とともにいたことが明らかである」と言われますように。これが、そしてこれだけが、飢え渇いた世界に神の救いのメッセージと 恵みを携えて行く者へと、私たちを変えることができるのです。

ある有名な牧師が晩年に、もし人生をもう一度やり直すことができたらどうしたいか、と質問されました。彼は、自分は7年の準備期間のあと45年間ミニストリーをしてきたが、もしやり直すことが出来るならば、45年間準備をして7年間ミニストリーをするだろうと答えました。どのように出発するかも大事ですが、どのように終えるかのほうがずっと大事です。

私たちが自分の能力の限界に来て、主の能力に頼ることを主は願っておられます。そのためには、主の臨在を認め、一人になって主の前に立たねばなりません。そうする時にだけ、私たちは 現代の荒野で叫ぶ主の声となることが可能となるのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-20 06:47 | アメリカからのメッセージ

秋の日本旅行の報告 その4  坂 柚実子 12月15日

秋の日本旅行の報告 その4                                         

私たちは秋には沖縄に行くことを、このところ恒例としています。滞在は10日間ほどで、いくつかの教会でメッセージをさせていただきますが、宿泊はずっとサレム宮里教会でお願いしています。主任牧師の島袋英子先生とは1996年の春、東京でのグルーバー先生の集会にちょうど上京しておられた先生が来て下さった時からの御つきあいです。この出会いはまさに神様のご計画であり、沖縄でのグルーバー先生や、ひいては私たちのミニストリーは、島袋先生をはじめとするサレム教会の方々の御尽力で進められてきました。

1996年の秋には、主人と私がグルーバー先生の通訳として日本に行っている一ヶ月程、私たちのオレゴンの教会の留守番をしていただきました。沖縄の教会を副牧師の伊覇先生にお任せになり、オレゴンの小さな日本人の群れのためにご奉仕くださったのです。その次の年に初めてサレム教会(当時は宮里隣人教会)に行かせていただいた折には、教会の皆様に先生を一ヶ月もお遣わしくださったことに心からお礼を申し上げたのでした。


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 写真:島袋英子先生

その2年後でしょうか、グルーバー夫妻と私たちで日本を旅行中、四国から沖縄に移動した時点でグルーバー先生のお母様の訃報が入り、御夫妻は急遽アメリカに帰国されました。沖縄でのミニストリーの予定はすでに組まれておりましたが、すべてキャンセルするしかないと思われました。しかし島袋先生が、主人に「坂先生、あなたがグルーバー先生に代わってミニストリーをして下さい。」と励ましてくださり、他の牧師先生方の御理解のもと、主人が初めて日本の教会でメッセージを取り次ぐと共に、祈りの歩行の指導もさせていただきました。この時の経験は大いに主人を力づけました。それからも、いつも島袋先生は私たちのミニストリーの理解者、サポーターとしてお祈りくださり、暖かく励まし続けてくださっています。

サレム宮里教会は二階が礼拝堂、 三階が先生のお住まい、私たちは一階に宿泊させていただきます。すると夜遅くとかにどなたかが訪ねてきて、先生とお話などされています。後でお聞きすると、以前教会に来ていた方が東京に行くことになり、「先生、お祈りをしてください。」と言って来られたとか、なのです。そんなことが度々で、先生が多くの方の霊的支えになっておられるのがわかります。先生の牧会はキリストにある赦しと憐れみを土台にしておられると、常に思わされます。 信徒の方々もその薫陶を受けて、一人一人が主を深く愛し従って行く信仰を培っておられるのを感じます。
これまで主のために捧げられた先生の人生の収穫 が、これからもますます豊かに実るようにとお祈りします。 (終わり)

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by walkwithgod | 2008-12-15 07:22 | 柚実子からのハワイ便り

御国で必要な全き信仰の祈り(2)   坂 達也  12月14日

御国で必要な全き信仰の祈り(2) 

坂 達也


悪魔との戦い

 これからは、いよいよ終末の終盤の時代に入らんとしている。最近マイク・ビクル、リック・ジョイナー等が黙示録12:9にある「 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は……地上に投げ落とされ……その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」と書かれていることが実際にこれから起こらんとしていることを強調し、又警告した。
それは12節に続く。「12 このゆえに、もろもろの天と、/その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」

これからしても地上での悪魔の最後のあがきが、どれほど強烈なものとなるかは想像に余りある。いよいよ悪魔との最後の戦いに私たちが望まねばならないのである。この時のために万軍の主は御国の戦士である私たちを「全き信仰」を持たせる訓練をして来られたのだ。
 それはヨシュア記で語られている約束の地における「聖戦」と同じ最後の大「聖戦」がこれから繰り広げられようとしているのである。
御国とは約束の地と言ってよい。その約束の地に渡ったイスラエル軍はヨシュアの指揮の下で、カナン人、ヘテ人等七つの土着の強敵を相手に戦い、これをことごとく制覇した。それには「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)という神からの御ことばによる霊的な士気の高揚を必要とした。しかし今の私たちにこそ霊的な高揚が必要である。何故ならそれは前述したように、悪魔との対決は決して肉では勝てないからだ。

 二、三日前に、これから就任するアメリカのオバマ大統領が暗殺される夢・ビジョン・ことばをこのところ多くの人が見ていること、しかも暗殺によって大暴動が起こるビジョンを見た人も多いことをリック・ジョイナーが取り上げた。

オバマが当選したことは人種問題を克服するための画期的前進である。人種問題RACISMは単にアメリカだけの問題ではなく、世界的な問題である。特にナチズムは第二次大戦をピークに人間の歴史を揺さぶったが、あれこそ悪魔の牙城の一つであるとリックは言う。その通りだ。
悪魔はオバマによってその人種問題の牙城が崩されるのを放置しておく訳がない、故に大きな巻き返しをかけてくるだろうことを教会は予期して、今真剣に祈るべきである、とリックは言う。

そして彼は、今後オバマに対する暗殺・暴動などの具体的な企てに関して主からビジョン・夢・御ことばによって啓示を受けたと確信できる人は、関係当局に必要な処置を依頼するために、ぜひモーニングスターに知らせて欲しい、と世界中の人に呼びかけた。

私はこのような呼び掛けを今まで聞いたことがない。まさに御国の時代に移行しつつある事を痛感した。クリスチャンが世界の政治とその治安にいよいよ参加するのである。神からの啓示はそのために絶対に必要な情報と指示の武器なのだ。それだけではない。このところ、経済危機の問題だけでなく、世界に大きな艱難の時代が来ることを預言する人が増えていることを付記しておきたい。



 さて、ここで「主の祈り」について、先回のメッセージを書いた後に、二つの強調すべき点が示されたので、今回それを先回と同じテーマの続(2)の形で付け加えさせていただくことにした。

 それは主の祈りの最初の部分である「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」(マタイ6:9)と12節の「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」についてである。


前にトッド・ベントレーを擁護し、今も彼と彼の家族の回復をカンセラーの一人として、又親友の一人として助け続けているビル・ジョンソン について紹介したが、そのビルが、ベントレー事件を通しての教訓は、教団・教派の下にいる教会が、今こそ「御国の天の父」の支配に完全に還らねばならないことを強調している。
彼は、ベントレーに対して他ならぬ多くのクリスチャンの仲間たちが、あまりにも大きく執拗に個人攻撃したこと自体を問題として取り上げた。彼は、今まで私たちクリスチャンの教会がやって来たことを次のように指摘する。
たとえば80年代に起こったことだが、ジミー・スワガードとかジム・ベーカーが罪に落ちた時に、アメリカの教会が取った態度は何であったか。当時教会は、罪に陥った彼らを個人的にかばう代わりに、彼らの失敗と罪をもっとあばいて責めて見せ、その人たちを突き放し、自分たちが作り上げて来たデノミネーシャナリズム(教派主義)とその教団は、そのような人たちとは違うことを世の中に認識させることによって自分たちの組織を弁護しようとした。これは人間的な宗教主義者たちのすること以外の何ものでもないのである。
 それはちょうど、自分たちの義と聖さを強調するために罪に堕ちた兄弟を軽蔑し、憎み、裁いたイエスの時代の律法学者と同じではないか。それは律法学者とヘロデ王で代表される宗教と政治という種入りパンなのである。
 もし自分の息子・娘が罪を犯したらどうするだろうか、とビルは問う。「あれは罪を犯した、良くない人間だ」と自分の子供の罪をあばき立て、「それに比べ私たちは違う」と一線を引き、「私たちは彼らと関係ない」と言って済ますだろうか?

 又、ビルはワインスキン(皮袋)とワインの話を紹介した。皮袋とは教会の中身であるワインを入れる外側の皮の部分であって、五役者を含む教会指導運営組織に当たるもの。しかし重要なのはあくまで中身のワインであって、新しいワインに聖霊が働いて美酒へと醸造されるプロセスの間に、中身は熟し膨れ上がるが、それを包む外皮が破れたり、ほころびたりしないでしっかり守り育てる役目をするものである。ところがワインの成熟を指導する教団・教派組織である皮袋が中身よりも自分たちを重要視しているとすれば、それは忌々しき問題であると言うのだ。

今は現在の教会の中からパン種を取り除くシーズンであるとビルは言う。彼は教団・教派的教会組織を完全に父に還すことを叫ぶ!「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」
 今は父に帰る御国の時代。教会とは元々一人の父の元にいる家族なのだ。人間的デノミネーショナリズムの規律に属するものではない。父なる神を中心とした御国の秩序ORDERと真価VALUEの回復のために、今世界中に変革のシフトが起こりつつあるのだ。

 重要なことは、罪を犯す同胞が出たらその人を先ず心から赦しかばうことではないか。そして「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」とへりくだり、天の父に心から懇願するのが私たち御国の「キリストのからだ」の取るべき態度であり、祈りではないであろうか。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-14 12:45 | 坂達也からの今月のメッセージ

神の癒しの力—創造的奇跡を起こす8つの秘訣  マット・ソーガー  12月13日

神の癒しの力—創造的奇跡を起こす8つの秘訣

マット・ソーガー


癒しの力

あるスタジアムでの集会中、そこら中で癒しが起こっていたのですが、12歳の女の子がステージに上がってきた時のことを私は決して忘れないでしょう。その集会で主は私に、耳が聞こえない人の耳を開く祈りをするようにと導いておられました。神の臨在と栄光がその場に満ち、今まで聞こえなかった人々の耳が開き始めたのです。
癒された人々が次々に証をしているときでしたが、私のミニストリーチームの一人がある 少女をステージの上に連れてきました。彼女は生まれつき耳がなく、頭の両横に小さな穴があっただけでした。神の油注ぎが彼女の上に臨んだとき、 耳の中ではじけるような音がするのを彼女は聞いたのです。 主が創造的な奇跡を起こされ、突如彼女の頭の中に鼓膜が形造られ、生まれて初めて耳が聞こえるようになりました。
この奇跡は、私が起こしたのでも何でもないことが私にはわかりました。私の役目は、ただ会衆を賛美に導いて神の栄光を迎え入れただけであり、そのあとのことはすべて神に委ねたのでした。それはメキシコでの集会でしたが、その夜は神の力による多くの癒しが起こり、いくつかの身体障害も癒されました。

コミュニオンとインティメシー

私がすばらしい癒しの力を初めて見たのは14歳のときで、私の母が癒されたのでした。しかし、それからの数年間、そのような癒しが 教会の毎週の礼拝で 起こらないので、その理由が私にはわかりませんでした。 祈っても何も起こらない祈りにうんざりしていました。
誰かのために祈ったならば、何でもいいから、何かが起こって欲しかったのです。私はこのようなフラストレーションと共に、私の霊は聖霊とのもっと深い関係を求め飢え乾いていました。若い私の中に二つのことが起きていました。神は私が現状に満足しないようにされ、私の心に霊的乾きを起こさせ、その乾きは私を聖霊との何時間にも及ぶ交わりへと 駆り立てたのです。

過去20年間、私は神と共に歩むことを学んできました。神は霊的力に満たされて生きる生き方に関して多くのことを教えてくださいました。神は数えきれないほどの人々の人生に何千回も御力を顕してくださり、私にその証人となる特権をくださいました。御ことばに深く根ざし神と親しく歩むことは、神が私の人生を通して ものすごい力を解き放ってくださるのを見るための基盤となりました。
キリストがあなたの心に入った瞬間から、あなたは御霊によって生き始めることができます。神の力の中で生きるには20年間クリスチャンでなければならないということは決してありません。

私もクリスチャンになって間もない頃に、何回も神の力を経験しています。その経験が今の私を形つくっています。神のタイミングは完璧であり、神によって整えられることが不可欠です。整えられることのよって油注ぎが保証されるわけではありませんが、それは油注ぎを持続させます。 神の力と賜物について一つ学んだことは、それは神の恵みから溢れ出るものであり、信仰によって活性化されるということです。しかし、その源はすべて神にあり、神の天よりの栄光を受ける資格は、ただ神の恵みにより与えられるということを忘れてはなりません。自分の努力や行いとは全く関係がないのです。もしそうであれば、私たちもすこし認められてもいいでしょう。しかし、そうではないのですから、すべての栄光は神にあるのです。 内なる徳が高められ キリストに深く根ざすときに、神は私たちの人生の中に計り知ることのできない神の力を注ぎこんでくださいます。

今日は、神の創造的な奇跡の力によって働きための8つの秘訣をお話したいと思います。これらの原則を生活に適応するときに、私たちはしるしや不思議が私たちを通して起こるのを毎日見ることができるようになると信じます。

1.あなたの人生に神の臨在を培う


神の栄光がすべての奇跡の源です。聖霊が働きやすい環境をあなたが培えば培うほど、あなたは神の臨在をもっと持ち運ぶことになります。そして主の臨在をもっと持ち運ぶほど、もっとあなたに力が与えられるのです。聖霊というお方とその臨在を感覚的にも感知しながら、できるだけ長く時を過ごすことによって達成されるのです。 どんな小さなことでも罪を犯した時や 、ほんの少しでも霊的に心が暗闇の方に向いてしまった時は、すぐに告白し悔い改めてください。

異言でたびたび祈っていください。イエスの血潮で覆われなさい。み言葉を黙想してください。歌や祈りで神を礼拝してください。 聖霊に、感覚的に感じられる方法で来てくださいと、できるだけ何度も絶えずお招きしてください。聖霊を悲しませることを避けなさい。 あなたの人生が聖霊で満たされていくとき、奇跡、しるし、不思議が自然にあふれてくるのをあなたは見るようになるでしょう。

2. 心に神の信仰を培う

真の超自然の信仰は、私たちの霊から流れ出て私たちの思いに影響を与えます。その逆ではありません。信仰は、理論や自然界の現実を 超えて、私たちをもっと高い霊的現実へと導きます。神がすでに霊的に達成されたことに、目に見える世界を合致させていきます。
私たちはみ言葉の中に生き、常に思いを新たにしていかねばなりません。 信仰は心に啓示が与えられたときに生まれます。聖霊とみ言葉によって真理があなたの思いと心に啓示されるとき、信仰があなたの内で生きてきます。
ヨハネ8:32に「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。常に思いをみ言葉の上に置いて、あなたの思いと霊を神のみ言葉に浸しなさい。そうすれば、真理が啓示され、超自然的な信仰が心に生まれでるでしょう。真理が啓示されることによって生み出される心の信仰が、神の力で働くために究極的な鍵です。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12:2

3. 信仰に行動を加える

力の油注ぎに関して正しく理解しておかねばならないことは、それは ある意図された目的のために理由があって注がれるということです。
イザヤ61:1には次のようにあります。「神である主の霊が、わたしの上にある。 主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げるために。」

癒しと奇跡のための力の油注ぎは、あなたが病人が癒されるようにと祈っているときにだけ顕れます。私たちは力の油注ぎが必要な機会を意図的にいつも求めていなくてはなりません。行いのない信仰は死んでいるのです。(ヤコブ2:20)
力の油注ぎは、人々を超自然的な方法で助けるために与えられるものであり、そのときに神の御こころと御性質をも彼らに明らかに示すことができるのです。決して失望してはいけません。一心に集中して粘り強くなければなりません。目に見える状況がどうであれ、自分のヴィジョンを高く持ち、神の御こころと真理を知って理解し、神の信仰によって動かされなさい。この行動が神の力を解放し、奇跡を生み出すのです。

4.熱心に霊の賜物を求めよ

第一コリント14:1には、霊的賜物を熱心に求めよ、と書かれています。私は祈りのときに手を自分のお腹の上に置いて、聖霊が活発になって 賜物が自分の中で顕著に顕れるようにと求めます。癒し、奇跡、知識の言葉、信仰という御霊の賜物はすべて、奇跡を行うミニストリーのためには非常に大切なものです。 あなたが活発になるようにと神に願うと、主はそうしてくださるのです。御霊の賜物はギリシャ語ではカリズマと呼ばれ、「恵みの賜物、何の働きもなしに受ける恵み」のことです。それは神の恵みの顕れです。受けるために働いたり努力はできません。救いがそうであるように、それは聖霊によって値なしに与えられるものです。求めれば求めるほど、もっとあなたは受けるのです。そしてすべての賜物を受けることができます!

5.断食と祈りの訓練


マタイ17:16には、弟子たちが癲癇の少年を癒すことができなかった記事があります。イエスは 質問されたとき、癒せなかった理由は弟子たちの不信仰だと言われました。神の御心に問題があったのではありませんでした。また、イエスは少年の信仰に焦点も当てられませんでした。弟子たちの心の信仰のレベルが問題だったのです。
しかし、もう一つの重要な要素は祈りと断食でした。祈りと断食をする中で、あなたの肉体と肉の思いが神の心と思いに全く服従し、神の信仰があなたの疑いにとってかわる時があるのです。祈りと断食は、神の信仰を私たちの内に解き放つ助けになります。奇跡を生み出すのは私たちの内の神の信仰であり、断食ではありません。この場合、断食と祈りは神の心に存在する信仰の満ち満ちた様にまで私たちの心を導く道として働くのです。
もう一度言いますが、奇跡は私たちの行いではなく、私たちに差し伸べられた神の信仰と恵みによって起こるのです。

6.神の声を聞くことを学ぶ

超自然の領域で働くためには、聖霊なるお方に対する鋭い感覚を発達させねばなりません。神はクッキーの型のように判で押したようには働かれませんし、いつも同じ方法で働かれるのではないからです。これはいらいらさせられることかもしれませんが、事実です。
このことはイエスにも見ることができます。主は毎日の生活の中でしるしや不思議が起こるのを 見られました。しかし主は 同じように祈られたことはほとんどありません。ある時はイエスは人々に手を置かれましたが、ある時はある 行動をとるようにと指示されました。又ある時は非常にかわったことをされました。
例えば、地面につばきして泥を目に塗りました。主は型破りであり御霊に導かれておられました。その鍵は、主は天の父がしておられるのを見てそのことだけをされたと言うことです。(ヨハネ5:19)

父の行動を見たり聞いたりする主の能力は、主が祈りと交わりにおいて父と過ごす時間の中から生まれたものです。もし私たちが霊的目と耳を敏感にしたいならば、神を見たり聞いたりできる場所に自分を置かねばなりません。そのためには「寂しい場所」に行って、自分の心と思いを神にだけむけることができるようにせねばなりません。自分で話すだけではなく、神に耳を傾けることを学ぶことによって霊的感覚を訓練するならば、あなたは御霊によってすばらしい神の力の顕れを見るようにと導かれるでしょう。

7. 油注ぎのあるところに行く

神の力の新しいレベルへと私が進むことができた大きな鍵は、神の動きのある場所に行ってもよいことを学んだことでした。ある人たちは、「神が私に何かくださるのなら、私の部屋に来てくださる。どこかに行く必要はない。」と考えています。勿論、神は私たちの部屋に来てくださることはできますし、実際そのようなことはよくあります。しかし、それだからといって、神が動いておられる場所に行くことによって油注ぎを文字通り「キャッチ」できるという事実がなくなるわけではありません。

神を持ち運んでいる人やミニストリーを見つけて、そばに行ってください。私たちは交わりを通してお互いから学び、 分与を受けます。このように他の人と一緒に神と交わることは、密室での個人的な祈りを通しての神との交わりにとって代わるものでは決してありません。それは個人的な礼拝に付け加えられるものであって、神との関係を補強するものにすぎません。私は現在最も油注ぎを受けている人たちの幾人かと共に交わるという祝福を受けています。彼らとの交わりは私の信仰を燃やしてくれたばかりでなく、私の人生やミニストリーの中に知恵、啓示、力を与えてくれました。

油注ぎのある交わりは、あなたの人生に油注ぎを養うために絶対に必要です。そのような交わりはコーヒーを飲みながらの一対一のものでも、また油注ぎのあるメッセージのCDやビデオ、また集会で共にワーシップするということでもできます。神が臨在される場所に行くことによって神の力に触れてください。

8.愛を動機とする


このことに関して一番重要だと私が思うものは、そして往々にして欠けているものは、愛です。イエスは憐れみの心で病人を癒されました。(マタイ14:14)私たちの心に神の愛が大きく注がれなければ、私たちは全く力がありません。
愛が私たちがするすべてのことの基礎でなければなりません。愛が霊的力を受けたいという願いの基盤でなければなりません。愛がないときに、力はプライドや自慢になってしまいます。実際のところ、人々への神の愛が私たちの心にないならば、力はむなしいのです。(第一コリント13:2)
愛は事実神の力の最も偉大な顕れです。イエスが全き従順の中を歩まれたのは愛の故でした。罪の力とサタンに打ち勝ったのは愛 でした。私たちが互いのために自分の命を与えるのは愛によってです。愛が私たちの信仰を動機づけるのです。(ガラテヤ5:6) 愛によって私たちは御霊の内に生きるようにされるのです。愛が一番偉大な徳です。信仰がなければ神に喜ばれることはできません。しかし、愛がなければ、神を知ることは全くできません。
真理で満たされた愛は、罪、誘惑、怒り、不一致、病、圧迫、霊的腐敗、死に対する究極的な霊的武器です。愛はすべてを克服するのです。 これらの原則をあなたの人生に適応して神と共に歩めば、神の栄光ある力と油注ぎがあなたを通して解き放たれるに違いありません。

奇跡が起こるのを待っている人が、ほら、あそこにいますよ!(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-13 05:21 | アメリカからのメッセージ

秋の日本旅行の報告 その3   坂 柚実子   12月8日

秋の日本旅行の報告 その3

10月18日の朝、私たちは愛知県知立市の馬場純平宅を訪れました。馬場夫妻はその昔、オレゴンの大学に留学中に知り合い結婚されたのですが、一時、私たちの家の離れに住まわれたこともあり、又、マウンテンパーク教会での伝道活動も一緒にしてくださったので、家族のように親しい間柄となりました。

日本に帰国されたのは20年ほど前ですが、二人のお嬢様を与えられました。
長女の言葉(ことは)さんは現在東京の大学で美術を専攻されています。
今年18歳になった次女の理歩(りほ)さんは先天的な筋萎縮症というのでしょうか、筋肉が全く成長しない病気をもって生まれ、医学では手の施しようがないのですが、奥様の富久美さんを中心として家族中で理歩さんのお世話をしておられます。富久美さんのご両親も同居しておられて、理歩さんが通う特殊学校への送り迎えなど、献身的な愛をもって仕えておられます。

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ある意味では、理歩さんが家族の中心であり家族を愛で一つにしているといえるでしょう。彼女は言葉さんと共に数年前に洗礼を受けましたが、身体が不自由な代わりに霊が強く成長しているのがよくわかります。彼女は話すことはできませんが、すべてのことを理解し、また、神と人に深く霊で交わることができるのです。

理歩さんは喉に痰がたまると自分の力でそれを出すことができないので、45分毎くらいに器具を使って吸引せねばなりません。ですから誰かがいつもそばにいなければならず、家族の負担が大きいのが分かります。その他、理歩さんが自分ひとりでできることは全くないと言ってもいいでしょう。しかし、それに対してご家族は「大変だ」というようなことは一言も言わず、神様の癒しを信じて明るく過ごしている信仰の姿には、心から感動させられます。医者からこの病気の人の寿命は長くて18年と言われていたのですが、今はそれを毎日更新中です。どうか皆様も理歩さんのために、またご家族のためにお祈りください。(終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-08 06:08 | 柚実子からのハワイ便り

奇跡の乗法的増加のシーズン ギャリス・エルキンス 12月6日

奇跡の乗法的増加のシーズン

ギャリス・エルキンス


最近のウォール街での株価の値下がりは、多くのアメリカ人に家計や将来に対する不安を抱かせました。経済安定の基礎が今、揺るがされています。

この世の王国は、普通の足し算や掛け算の数学を基盤に動いている組織です。それは、人間の目で実際に見ることができ、人間の頭で理解できるものからのみデータを集めるシステムです。しかし神の御国は、今まで知られてきたものを侵略し、普通の足し算掛け算の法則を「奇跡の掛け算」によって覆すものなのです。

奇跡の掛け算によって変えられる地

聖書の中でもっとも興味のある物語の一つに「5千人の給食」があります。マルコ6章によると、イエスは一人の子供のランチを取り、多くの群衆(女性や子供もいたことを考えると、2万人以上だと思われる)への奇跡のご馳走に変えられたのです。

6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」


この群衆は何時間もイエスの後に付いて来ていたのですが、そのための食料を何も用意していませんでした。私たちが何かがなくて大変困惑するのも、しばしば人里離れた何もないところにいるときだということに気づかれましたか?マルコ6章ではまさにそれが起こったのでした。キャンプ用具が入ったリュックサックもありませんし、食料を買う店もありませんでした。群集はイエスについて田舎を歩いていたのです。町からは遠く離れていたのに必要はとてつもなく大きかったのです。

弟子たちは大群衆の大きな必要を見て、自分たちなりの解決法を考えました。彼らはイエスに「人々を解散させてください。」と言いました。つまり、「私たちは疲れてお腹もすいたし、もう忍耐力も尽きてきました。この群衆に関する問題を無くしてください。」と言ったのです。しかし、イエスは今から起こそうとしておられた奇跡に、弟子たちも参加するように招かれたのでした。

奇跡的掛け算は今持っているものから始まる

6:37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」

これは自然界の普通の足し算と掛け算から発せられる言葉です。「何を食べさせるのか?」という言葉は、見渡すかぎり何もないへんぴな場所で、奇跡は見えるものを通してだけ起こると私たちが考えてしまっているときに、口から出てくるのです。

イエスは38節で一つの質問をされました。
6:38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」」

あなたの今の人生の中で、へんぴで何もない場所はありますか? 老後のための資金が急速に減ってしまいましたか? 結婚生活が危機に面していますか? ミニストリーの支援者が減っていますか? 次にどの方向に進めばよいかわからなくなっていますか? 今の必要を満たすには程遠いほんのわずかの物しかない、しかもへんぴな場所に立っている自分を、あなたは発見するかもしれません。

奇跡の掛け算は、今すでに持っているものから始まります。人里離れたところに何千人もの空腹な人がいたのです。弟子たちはどのくらい食料があるか調べてみました。その結果、いわしのような小魚が2匹と、マフィンのようなパンが5つ見つかりました。これだけの大勢の群衆の中で、見つかったのはこれだけでした。

6:39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。42 人々はみな、食べて満腹した。43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

奇跡の掛け算的増加は驚きと喜びの叫びを起こす

50人とか100人のグループが全部でいくつあったかを考えてみれば、この奇跡のごちそうを全員に配るには数時間はかかったとみるのが妥当でしょう。奇跡が起こっているのだ、ということが人々に分かり始めたときの喜びと興奮の渦を想像してみてください。この奇跡の掛け算的増加は一瞬にして終わったのではなく、次ぎから次ぎへと続いたのです。

私たちが奇跡的掛け算の環境の中で生きることを始めると、あの日丘の上で響いていたに違いない声が聞こえるようになるでしょう。それは、神の奇跡の御業を見て驚き喜ぶ人々の叫びです。

神の愛をまだ知らない人たちの間で喜びの叫びが起こるシーズンがやってこようとしています。神はまず教会に奇跡的掛け算をもって与えてくださり、次にそれが街へと広がり、スーパーナチュラルな福音伝道が起こるのです。

街の広場で奇跡的掛け算の御業が起こったならば、街全体がどう変えられるか想像できますか? 御国について人に知らせるには「神の慈しみ」を用いるのが最善の宣伝方法です。聖書には「神の慈しみが人々を悔い改めに導く」と書かれています。

奇跡の掛け算的資源は天に用意されている、見上げなさい!

自分がへんぴで何もないところにいると分かったときに私たちがとる姿勢には、2つの選択枝があります。
1. 下を向く。イエスは人々に食物を与えるようにと弟子たちに言われました。私たちも弟子がしたように下を向いて、手に持っているランチを見、「一体何を食べさせるのか?」とつぶやくこともできます。膨大な必要性を目の前にして、自分の欠乏だけを見てしまうのです。

2.上を見上げる。イエスは別の姿勢を示されました。主は上を見上げました。マルコ6章で、イエスは少年のランチを手に取り、天に上げ、祝福してから人々に与え始められました。主はそのへんぴで何もない場所から上に手を伸ばされて天に触れたのです。

私たちの資源は、自分の手に持っているものではありません。また、ウォール街が告げるものでもありません。私たちの資源は天にあり、私たちがそれを掴み取り自分の人生の中に取り込むために用意されているのです。私たちの存在すべて、また、必要すべては、神の御座の周りにあるのです。

もしも自分の資源は現在の不景気な世の中にだけあると思うならば、私たちはその限られた資源に手を伸ばすでしょう。しかし、神は私たちが、経済問題、病気、崩れた人間関係をすべて天に向かって上げて祝福することを選びとるようにと願っておられるのです。自分の必要を天に上げて祝福すると、その必要は神の栄光と結びつけられるのです。

主の栄光こそが私たちの持っているわずかなものを溢れるばかりの豊かさへと変えるものです。私たちの必要が天の衣のすそにひとたび触れるならば、それは天の栄光を帯びて地上に戻されるのです。少年のランチが神に捧げられないならば、それは手の中でランチのまま残り、奇跡の大宴会とはなりません。

へんぴな場所でもうなすべき術がないと思えるようなとき、私たちは神からの奇跡が必要です。教会はこの世と同じように恐れの中で生きることも出来ます。しかし、愛なる天の父が私たちが持っているわずかなものを、神の栄光によってスーパーナチュラルなトランスフォーメーションのために変えてくださることを期待して、それを天に差し出して祝福することも可能なのです。

今日、あなたの必要を満たすものがどんなにわずかであっても、それを天に上げて祝福することを選びとってください。そして御座に上げられたあなたの必要に神が触れてくださるように頼んでください。そして、その必要をへんぴな何もない場所に戻して、それを人々に分け与え始めてください。あなたが持っているものに天が触れてくださるのは、あなたが所有するためではなく、周りの人へ解き放っていくためです。あなたが与えるものは増え続け、それはやむことのない供給源となっていくでしょう。

あなたの中で恐れが頭をもたげようとするときには、いつも恐れに向かってこう宣言してください。
「私は今の状況を天にすでに差出し、神が私の必要に触れてくださいました。私は天から私が持っているものの奇跡の掛け算的増加を引きおろしています。この世が不可能だというところで奇跡が起こることを私は知っています。神にとって不可能なことはないことを信じています。少年のランチを奇跡的掛け算の宴会に変えることさえも可能です。」 (終わり)


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by walkwithgod | 2008-12-06 11:06 | アメリカからのメッセージ