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8月24日から10月17日の間に大変化が起こる チャック・ピアス 8月22日

8月24日から10月17日の間に大変化が起こる

チャック・ピアス



私はフロリダのオーランドで行われた「Let the Eagles Gather−預言者、使徒、とりなし手の国際的集い」というカンファレンスから戻ったばかりですが、集会の朝のワーシップの時に、主が天を開いて次のことを示してくださいました。

新しいアイデンティティーと経済的シフト

新しいシーズンにまさに入ろうとしている今、私たちは自分の新しいアイデンティティーを持つ必要があります。天から光が矢のように差しているのを私は見ます。それはあたかもあなたが歩むための光の道を主が用意されたようです。パワフルな啓示があなたの上にあり、それが動き始めています。信仰によって踏み出してください。そうすればあなたの歩む道が生き生きとしてきて、あなたは今までと違う歩き方をするようになるでしょう。ある人たちはどのように次の一歩を踏み出せばよいかわからないかもしれません。でも私ははっきり言いますが、あなたは新しい道を歩くことができ、人々はあなたが今までと違う歩き方で歩くのを見るようになるのです。

今、敵は、この世のブループリントに従って生きるようにとあなたを誘惑しています。今この世で起こっている様々な(経済的)試煉と不況のニュースに接すると、あなたの心は不信で一杯になるかもしれません。しかし、このような時でもあなたは神の恵みの中に入ることができ、それを見て世の人々があなたに助けを求めてくるほどになるのです。

経済的シフトが8月の終わりまでに起こるのに気をつけていてください。8月24日から10月17日の間に、金融システムに大いなる変化があるでしょう。銀行のシステムの変化はまだ全部完了していないことに注意してください。これから構造的なシフトが加速度を増して起こります。政府機関は人々の見ている前で再編成されて行きます。

あなたのともしびに常に油を用意せよ

主が言われます。「あなたはこの国に敵を入らせ、敵が自分の軍隊の多くを集結するのを許してしまった。あなたは敵が入ってきて、敵の哲学(やり方考え方)とか思考パターンで生きる大勢の人たちが出てくるのを許してきた。だから今、あなたは今までとは違った新しいやり方で活動し集まらねばならない。」

なぜならば、この国に対してのわたしの契約に基づく保護政策はもはや無くなったからだ。わたしの契約であった保護政策はもはや無いのだから、あなたは別の新しい方法で集まり始めねばならない。」(ピアス師注:これはもはやアメリカだけを指しているのではなく、神の御国の民への言葉だと私は思います。)

「わたし、主は、あなたを新しい方法で招集し、集めはじめる。あなたはわたしと共に前進せねばならない。この再編成に抵抗してはならない。今わたしはあなたをもっと高い所に引き上げねばならない。それはあなたがこの世的な目でしか物事を見ていないからだ。わたしはあなたをあたかも鷲が集まってくるように集め、あなたが新しい力とヴィジョンをもって進めるようにせねばならなくなったからだ。

わたしはあなたを河川よりもずっと高いところに引き上げねばならない。なぜならば河川は今どんどんと満ちてきていて、あなたが高いところに上って地球を新しい形で見始めなければ、あなたは自分がいるべきでない場所にいる自分を見いだす結果になってしまうであろう。

あなたが今いる場所に雨が降ってくる。それによって今あなたは高く上げられ、それによって自分の将来への境界線が変って行くのを見る事が出来る。わたしはあなたを流れ落ちる滝よりも高く引き上げる。御言葉の水による洗い清めは、あなたが知っている以上に高いところから流れてくる。

あなたはもっと(わたしに)近づき高く上ってこなければならない。それはあなたをわたしの軍勢とアライン(一致)させねばならないからだ。わたしはあなたを天の軍隊とアラインさせねばならない。天にはわたしの軍隊がいる。わたしがあなたを将来をつくる境界線に送り込む前に、まずあなたがその軍隊とアラインするのをわたしは待っているのだ。わたしはあなたを調え形づくってきた。わたしは将来に向けてあなたを備えるためにあなたを調えてきた。あなたのともしびの油を常に用意しておきなさい。」

これは神があなたを正しい側に(しんがりではなく先頭に)立てるように調える準備のための集会です。将来これが神の御国をあらわすものとなるでしょう。主はあなたの内の深いところに働いておられ、やがてそれをあなたがこの世に現すようにされます。主はご自分が働かれる方法(mode of operation)を今シフトされようとしています。それは、主の様々な知恵を今まで以上に多様に現わすことによって、ご自分の民がより効果的に働けるようにするためです。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-08-22 07:14 | アメリカからのメッセージ

水がワインに変えられる時  坂 達也  8月17日

水がワインに変えられる時

                                                       坂  達 也


イエスが最初になされた奇跡はカナでの婚礼の宴においてでした。その婚礼には当初からイエスの母が係わり合っていて、イエスとその弟子たちも招かれていました。宴会はたけなわとなりました。しかし用意されていたワインが無くなったのに気が付いたイエスの母はイエスの元に駆け寄り、ただ一言イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。(ヨハネ2:3)

このお話は色々に解釈出来ると思いますが、一つ私が確信することは、このお話は多分に預言的であることです。冒頭のヨハネ2:1で「三日目に」と言う言葉が書かれておりますが、これが二千年(二日)が過ぎて三千年目に入った今の時代を表していないでしょうか。

私はイエスがされたこの最初の奇跡のお話に昔から大変興味をいだいて参りました。私の著書「キリストの弟子」では、主の再臨の際に天で行われる「小羊の婚姻」のことを踏まえてイエスはこの奇跡をされたのではないかと云う解釈をご紹介しました。
イエスと共に婚礼に招かれたのはヨハネ、アンデレ、ペテロ、ヤコブ、ピリポ、ナタナエルと言う最初の六人の弟子たちであったと考えられますが、この六人の弟子が六つの石のかめとして登場し、彼らは私たち「キリストの花嫁」を代表していると解釈出来ます。つまり、このカナでの婚姻に弟子と共に招かれたイエスは、三千年目に入った時に実現するご自分と「キリストの花嫁」である弟子たちとの婚礼の宴会のことを考えておられたのです。

ですから、母から「ぶどう酒がなくなりました」と告げられた時、イエスは「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)と答えられと思うのです。確かにその当時は「イエスご自身の婚姻の時」ではありませんでした。しかし、三日目に入った今こそ「わたしの(婚姻の)時」が近づいて来て、そのためにイエスが弟子と言う水がめに入った水をいよいよワインに変える本番の時が満ちたように思えます。

興味があることに、その時用意された六つの石の水がめに就いては「ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった」(2:6)と説明されており、これは平均的な人間の身体の水分とほぼ同量なのだそうです。六と言う数字は人間を表すと言われますが、その人間の中でも特別に選ばれたキリストの弟子(六つのかめ)に先ず御言葉の水をフルに与えなさいとイエスは命令されました。そのように御言葉で詰まった「イエスの弟子たち」をイエスはワインに変えられるのです。この「新しいワイン」に変えられた人間たちこそが真の「キリストの花嫁」であり、彼らは「新しい皮袋」となって奇跡を起こす力に充満するのです。それは御国のためにイエスが用いられるからです。まさに「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(1コリント4:20)が実現します。

ここで、カナの婚礼で「用意されていたワインがなくなったこと」の意味について考えてみたいと思います。イエスがこの世に来られ、教会が始まって以来二千年が経ちました。この二千年間は、云ってみれば「人間文明の最盛期」でした。しかし今人間たちが用意し大いに楽しんで来た「この世の」ワインがついに底をついたのです。この世が今、政治・経済だけでなくモラルを含むあらゆる面で末期的症状を呈していることは明らかです。

一方、教会と言う見地から見た場合はどうでしょうか。今までの教会は時折聖霊の油注ぎを受ける(ワインを飲む)ことによって主の御業を行っては来ましたが、いつも油注ぎで満たされている訳ではありませんでした。こうして二千年間「教会」が用意して来たワインは必ずしもイエスによって醸造された純粋なものではなく「人間的要素が混じった」霊的に力の弱いワインであったと云うことが出来ないでしょうか。しかし、ここに至ってそのような未完成で薄められたワインもついに出尽くしたのです。言い換えれば、今までの教会のやって来たことをこれから幾ら努力し続けても、出るべき力が増さないことが明らかになって来たのです。
クリスチャンは自分たち教会のワインが美味しいと思って来たとすれば、本当のイエスのワインがどれだけ美味しいか、その味を知らないのです。

世の終わりに際しこの世を御国に変えるために必要な教会とは、人間的に薄められたワインを飲む弟子たちの集団では用が足りません。これからの教会は内側が完全に「イエスのワイン」のみで満たされる人たちでなければならないのです。


そのワインとは聖霊をあらわしています。イエスによって「水」が「新しいワイン」に変えられた人たちはものすごい爆発的な力を内蔵し、それは聖霊によるものです。「・・・・武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」(ゼカリヤ4:6、7新共同訳)

そしてそれは純粋に主の霊でなければならないのです。そのことがイザヤ11:2、3 で、「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、・・・」と書かれている通りです。私たちは、イエスの霊で完全に満たされる器、つまりイエスそのものに変えられなければなりません。

最近の一週間、このようなことに思いめぐらしている中で、数日前ですが8月14日の午前二時近くに私は主に起こされました。そしてひざまずくと主は既に上記に述べたことへの多くの確認を下さり、又、次のような啓示を受けました。今その時書いたノートのメモを見ますと、

「ワインは葡萄の実を潰して成熟させたもの。御言葉と言う水は私たちの体内でその葡萄の実の成熟したもののように変えられなければならない。・・・良いワインとは人のため、人が飲んで喜ぶもの、私たち花嫁は、キリストが賞味して喜ばれるものにならなければならない。」

「人間のやり方では最後は破綻する。唯一成功するのは神のキリストのやり方だけ。目標- 成熟 ―イエスによってイエスのようになること ―完成」

「真の婚姻の時は近づいているが今は未だその時ではない。しかし、イエスは自分の時でなくても、母から頼まれれば奇跡を起こされた。私たちは花嫁としてキリストと母の関係と同じぐらい親蜜な関係になれる。そうなる時、主の時でなくても(アウト・オブ・シーズンでも)必ず主は私たちの願いを聞かれ奇跡を起こして下さる。」


最後にヨハネ2:8-10で、イエスは自らワインに変えられた水がめのワインを「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言い、手伝いの者たちに持って行かせると、その味の良さに驚いた世話役は花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」と言いました。
 
ここで云う「宴会の世話役」とはこの世を取り仕切る王たちに例えられると思いますので、御国の王であるイエスはイエスのなさること(イエスのワイン)がどれだけすばらしいものであるかを、新しいワインに満たされた弟子たちが実行してこの世の指導者たちに見せなさいと言われていると解釈出来るのではないでしょうか。
御国が来てイエスがこの世を治める王となる時、それがどんなにすばらしいものであるか、聖書はその王国が来ることを私たちに約束されておられますが、神はその最もすばらしい聖霊の実であるワインを最後の最後まで取って置かれるのです。そのために主は今、主に従順で忠実な者である「真の弟子」だけを求めておられます。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-08-17 14:56 | 坂達也からの今月のメッセージ

御霊により歩む   ジョアン・マクファッター 8月16日 

御霊により歩む

ジョアン・マクファッター 



どのくらい 御霊によって歩むことができるかどうかは、 何よりも私たちが主の御霊をどれほど知っているかによって決まります。黙想や交わりによって御霊をよく知る事により、私たちはますます御霊と一つとなり、御霊の方法や御声を知り、御霊が私たちの内において、又、私たちを通してどのように働かれるかがわかるようになります。
  
御霊にある自分の内なる人を建て上げる方法を理解するにしたがって、私たちは黙想、異言、ワーシップ、御言葉の学び等を通して、出来るだけ主の御霊と頻繁に接し、交わるようになります。主と同じ思いを常に持つためには、聖書全体や歴史の中で 主が人間とどのように関わってこられたかを調べて、 主がどのようなお方であるか、又、主が御自分をどのような形で表されるかを、十分に知ることが非常に大切です。

主の御霊について学ぶならば、御霊がある人に臨まれるとその人の力だけでは不可能だったことが出来るようになることがわかります。ゼカリヤと話した天使はこの真理をよく説明しています。

「すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。「権力によらず、能力によらず、わたしに霊によって。」と万軍の主は仰せられる。』」ゼカリヤ4:6

その人に本来の賜物が何であれ、今までの力以上の能力が御霊により増し加えられます。聖書の中で主の御霊が多くの人たちに臨まれてどのような事が起きたかを見てみれば、それはギデオンからエゼキエル、ダビデ、イエスにいたるまでであり、主は人を偏り見る方ではないことがわかります。多くの者が御霊を受けましたが、今、そのうちの幾人かの例を見てみたいと思います。

主の御霊

主の宮の職人であったウリの子ベツアルエルに関して次のことが書かれています。

「(わたしは)彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」出エジプト31:3−5

これに続いて、知恵を授けられたすべての職人のことが述べられています。知恵はイザヤ11章に書かれている主の御霊が持つ特長 の一つであり、創造力と技術を 彼ら本来の力を超えて豊かに与えるものでした。

「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、、」
イザヤ11:2−3

肉の」目や耳で見聞きしたことで物事を判断しないという事と、主の御霊が私たちの上にとどまることとが並べられて同じこととして書かれているのは興味深いことです。勿論そのことはいつも言われていることですが、実際に実行することは私たちにとって非常に難しいことのようです。同じことを私が繰り返し繰り返し云うことは壊れたレコードのようで嫌なのですが、それはやはり私たちの中にしみ込んでしまっているギリシャ的(西洋的)思考パターンに由来しています。

聖書にはまた、モーセの上にあった主の霊が70人に分与されたことが書かれています。それはリーダーとしての能力に関するものであり、70人の長老たちには御霊が与えられる前には備わっていなかったものであることが明らかです。

「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その70人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」民数記11:25−26

これは、御霊の働きは時間と空間に制限されないこと示す驚くべき出来事です。長老として登録されていたにも拘わらず何らかの理由で天幕に来なかった二人の上にも、御霊が全く同じように臨まれたのです。私たちが往々にして 作り上げる物理的な壁を、御霊は飛び越えることを示すばかりではなく、「雲の中」即ち、礼拝の場である神殿、で与えられるものは、マーケットプレイスでも与えられることを意味していると私は思います。両方の場所において御霊は同じように与えられ、しかも同じ結果を生み出しました。他の長老たちには面白くないことだったかもしれませんが、御霊の思いは神の目的に適ったものだったのです。

明らかに彼らの上に御霊が与えられたのは、ある一つの能力、 リーダーシップの分与のためでした。しかしながら、それは彼らの心の動機を完全なものにすることはありませんでした。御霊がされたことに対する彼らの怒りは、「集会に来なかった」にも拘わらず同じ御霊を分与された二人に対する反応を見れば明白です。これこそが私たちが自分に死んで主のされる事を完全に受け入れるというプロセスによって訓練されることが非常に重要である理由です。御霊の油注ぎを受けても、その油注ぎを持つにふさわしい徳を持つ者になることは保証されていないのです。キリストに似た者になる努力をするのは私たちに与えられている責任です。

御霊によって歩む

御霊によって歩むとは、ただ単にしるしや不思議、奇跡、リーダーシップ、賜物、預言等ではなく、それを超えたものです。それは私たちが「 する事」ではなく、むしろ私たちが「 どのような者か」ということなのです。御霊によって歩むということが、能力だけではなくこころheartと関係していることが、最近やっと人々に理解されてきたように思われます。御霊によって歩むことは、今までは教会の中ではあまり見られなくなっていました。しかし、主が注ぎ込もうとしておられる油注ぎを持ち運ぶためには、主の御前に常に立つことがどれほど必要であるかを私たちがようやく理解するようになったのは、大変喜ばしいことです。

主の御霊を自分の上、又は内に受けた人々について聖書を調べることをお勧めします。それをすべて 書く事はできませんが、これから来ようとしている御霊の注ぎを受ける備えとして 自分を主にあって確立させるために考えるべきものをあなたはきっと与えられるでしょう 。今ここで、ダニエルにスッポトライトを当てたいと思います。

まず第一に、王が探していたのは「身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者」でした。(ダニエル1:4)

それから王は、彼らが当時の習慣にしたがって出来うる限り最高の食事を与えられ教育されることを望みました。しかしダニエルと三人の友人たちは、主の御こころはそれとは違うことがわかり、立ち上がり、彼らが生かされていた時代にあって御霊によって歩む道を選びとりました。聖書には、王の命令とは全く異なる主からの言葉をテストすることを許されるという恵みもダニエルは受けたと書かれています。私たちが御霊の声に従うときには、必ず恵みが伴うと私は信じます。

そして端的に言えば、「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢を解くことができた。」という結果になったのです。(ダニエル1:17)

ここで注目したいのは、彼らが持っていたものは「神がそれらを与えられた」ということです。権力や能力によるのではなく、主の御霊によって彼らは与えられたのです。他の者たちが人間の思いに従ったときに、彼らは聖書にあるように御霊の知恵に従い、その結果10倍もまさった者になりました。(20節)そればかりか、彼らが火の中に投げ込まれた時には物理の法則をも超越したのです。彼らはこころ、身体、霊に秀で、いわゆる「超自然」の領域に生きていました。それは御霊によって歩んでいた当然の結果にすぎないと思います。

その結果、ダニエルは すべてのものを備えました。身体、思い、魂、霊のすべてを備えていたことにおいて、彼は御霊によって歩んだ者の最高の手本となりました。

「あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。王がベルテシャツアルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。」ダニエル5:11−12

すばらしいことは、神があなたを創造された目的が何であろうとも、あなたが御霊によって歩むことを選び取るならば、あなたは御霊によって生きる喜びに与りつつ、この世でのあなたの能力も増し加えられるということです。神は霊の世界とこの世の二つの領域が共に支え合うようにと始めから計画されましたし、私たちは二つの領域でフルに機能できるように造られていると思います。それは私たちの前に備えられたチャレンジであると同時に招きでもあります。今家庭で育児をしている人であっても、科学研究所で何かを発見している人であっても、また路傍伝道をしている人であっても、世界をあっと言わせるような芸術作品を造っている人であっても、すべての人にとってそうなのです。

最終的には多くの人々は権力や能力によってではなく、主の御霊によって捕らえられるのです!(終わり)

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by walkwithgod | 2009-08-16 07:03 | アメリカからのメッセージ

クリスチャンのつとめ   グラハム・クック  2009年8月7日

クリスチャンのつとめ

グラハム・クック


クリスチャンとしての私たちのつとめは、この世で神の栄光を現していく者になることです。 神の満ち満ちた様をフルに受け取り、その慈しみと憐れみを人びとの中に具現していくことこそ、私たちに与えられている特権です。ヘブル1:3で「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、、」と教えています。又、ヨハネ14:9ではイエス御自身が「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言っておられます。

キリストが私たちの内に形作られるにつれ、私たちは神のご性質を持つものとなっていきます。イエスの二つの偉大な言葉、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」は、ただ単に命令であるだけではありません。それは神が私たちをどのように愛されるかという神からの約束でもあるのです。神は私たちを、私たちが生きる限り、神の心と思いと知性と力を尽くして愛してくださるおつもりなのです。また、私たちがそれと同じ愛で神を愛する 能力を持つことをも神は保証してくださっているのです。神が心を尽くして私たちを愛してくださる時、私たちも心を尽くして神を愛することができます。神が思いを尽くして私たちを愛してくださる時、私たちも思いを尽くして神を愛することができるのです。

このような愛は私たちを変えます。私は静かに座って神について考える時、私は思いを尽くして神を愛することを心から楽しんでいます。私は一年のうち4ヶ月間、神を黙想してすごします。私の家には小部屋があるのですが、私はそこに入って黙想します。一日中その部屋を出ない日もあります。黙想とは、一つのことに関して深く考えることに他なりません。じっと座って、神とは誰か、どのようなお方であるかを考えるとき、神は自らを顕され、神が私をどのように思われているかを話さずにはおられなくなるのです。神も私たちをご自分の思いを尽くして愛してくださっているのです。神が私たちのことを思う思いは、すべてよきものであり純粋なものです。

第一ヨハネ4:16に、このような愛が私たちに与えるすばらしい結果について書かれています。「私たちは私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」神は私たちを救うために一人子を賜ったほどに私たちを愛されました。そして次に聖霊をくださり、聖霊の内にとどまることを会得すれば、私たちは聖霊により慰められ導かれることができるようになりました。

私たちのうちなるすべてのもので神を愛することの自然な結果は、私たちが回りの人びとをも同じように愛するようになることです。神が私たちに注いでくださる愛の豊かさは、この世への愛となって溢れ出るはずです。私たちは神から途方も無く愛されているので、他の人びとを愛することができるのです。私たちが身体、思い、魂、力を尽くして真に神を愛するならば、私たちの認識、感情、考えの中にブレイクスルーが起こるはずです。

私たちが大きな失敗者、敗北者であればあるほど、神の愛の中に生きるように変えられるシフトはダイナミックになります。父なる神がそういう私たちをご覧になると、その心は愛で一杯になります。神は私たちが持っている弱さを見ると、その弱さを克服するために必要なものを私たちにすぐさま与えてくださりたくなるのです。第一コリント1:27に「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」とある通りです。神は「わたしはあなたに欠けているものを知っている。それを完全なものにするギフトをわたしは持っているのだ。」と言われます。 

すべてのクリスチャンが、主がどれほど私たちを愛しておられるかという啓示を受けとり、その愛を実際に体験することが今緊急に必要とされています。神の愛はあなたが救われた時点で頂点に達したのではありません。救いは神の深い愛と憐れみを知る長い旅路の最初の一歩に過ぎないのです。神の過激的な愛は多くの罪を覆います。私たちの人生でうまくいかないあらゆることは、神の愛によって覆われるのです。聖霊はこれらのことを受けて私たちに示してくださいます。私たちが次に神の愛を必要とする領域が何であるかを聖霊は示してくださるのです。聖霊は私たちを真理へと導き、私たちのうちにキリストを顕すことを喜ばれます。 

私たち一人ひとりに対する神の愛は非常に深いので、すべての失敗を飲み込み、罪を覆い、弱さを克服し、私たちを「主に愛される者」としての驚くべき地位に着かせてくださいます。私たちは本当にパワフルに愛されていて、神は私たちを大喜びで受け入れてくださり、私たちを信頼してくださることは絶対に変ることはありません。神のご性格は非常に力強いので不可能なことは何もありません。敵を愛することさえも私たちには可能なのです。

マタイ5:16に「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と書かれています。神のご性質が私たちのうちに宿るとき、この経験のすばらしさを私たちは喜び分かち合うことができます。そして神の栄光が私たちの個性の中に輝くのです。

はっきり言わせてください。:神のDNAが私たちのうちにあることを証明する唯一の証拠は、私たちが自分自身をどれほど愛し、また、他の人々をどれほど愛するかというこの一点以外にはありえないのです。(終わり)

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by walkwithgod | 2009-08-07 15:52 | アメリカからのメッセージ